第1章 芸術家に始まる
      1435年、アルベルティの「絵画論」は透視図法である。絵画に初めて論理(頭脳の働き)を入れた。それまでは絵画は教会がその構成を決定した魂のイメージとでも言うべきものであったが、アルベルティは可視的世界を2次元平面に表現する技術と考えた。エリートの側から、絵画という手仕事の知識の重要性に着目したものであるが、アルベルティ自身は絵画論の中で図を使用せず、全て言語的に説明している。また、画家も単なる職人と論理的に考察する科学としての画家とを区別している。丁度、音楽の演奏家が職人であり、音楽の考察をする人が音楽家であるのに対応している。しかし彼は絵画技術や俗語の使用の普及に大きな影響を与えた。1470年代、ピエロの「絵画の透視図法について」では多数の図が使われている。ただ、図像の威力が発揮されるのは印刷によって正確なコピーが可能になってからである。その意味ではヴィアトールが1505年に出版した「人為的透視図法」が後世に大きな影響を与えた。

      レオナルド・ダ・ヴィンチは職人であり、残された手稿から驚くべき範囲の仕事をしたことが判って来たのだが、技術的な仕事は殆どが学習ノートのようなものであり、彼の独創性は絵画等に見られる観察力と表現力に限られ、およそ体系的な知識や普及には興味が無かった。死後編集された「絵画論」の中では遠近法を1.線遠近法(透視図法)2.色による遠近法、3.輪郭のぼやけによる遠近法、として語っている。2.と3.はレオナルドの独創であり、ずば抜けた観察力を示しているが、経験的、感覚的であり、伝承可能な技術とはいえない。技術的仕事における彼の独創性は手と道具を用いた計画的な実験と定量的な測定、という現代の科学の基本作法を実践したことにある。観察力についても水流の図や渦にとどまらず、例えば空の青さを空気中の粒子の散乱に帰した事などは彼の実験的態度の賜物である。暗箱に煙を入れて光を照らすという実験を行っているのである。彼は印刷にも興味が無く、絵画が科学であるとしながらも、それは一職人の秘儀として自らの栄達手段と見たに過ぎなかった。

      デューラー(1471-1528)はイタリアの絵画技術に憧れ、北ドイツに導入した人であるが、レオナルドとは対照的に「知の公開」を意識的に進めた。絵画の題材にしても、初めて風景画を描く事で、いわば世界観を神から見た人間世界から人間から見た自然世界へと変革した人である。彼の生地ニュルンベルグが印刷業のメッカであった事も影響している。

      デューラーの「測定術教則」を見ると作図法として、職人達の間で伝えられた近似的な方法が記述されている。これは本来の作図法、つまり、幾何学的に厳密に証明された方法、ではない。そのような作図法はアカデミズムの立場からは認められないものだったのだが、職人の実用技能として必要なものであったから書物にしたのである。ある意味で、これは幾何学的証明の数学から近似を許す物理数学への契機となった。(そういえば、昔高校の物理の先生が長期入院されたため、授業が代理の大学院生で行われていて、光学の授業を延々と展開していたのを思い出した。幾何光学の式を導くために球面レンズから得られる式に近似を入れて計算してみせた。それは厳密な幾何学とは違っていたので、最初は気味悪かったのだが、次第に「これが物理なんだ。要するに実験で得られるデータの誤差範囲で合うことが重要なのだ。」と得心したのである。物理の教科書は結局光学で終わってしまって、残りの大部分は復帰した先生が駆け足でなぞっただけでつまらなかったが、あの大学院生の先生には物理の本質的なものを教わったのである。近似を許すという数学の拡張の先には確率を許すという更なる拡張があり、それが量子力学だけでなく、生物学や社会科学を科学たらしめている、ということに気づいたのはつい最近である。)

      アルベルティは理想の人体像を求めるために美しいとされる人体各部を測定してその平均値を求めた。これはそれまでアプリオリに与えられていた比例関係から現実世界への第一歩ではあったが、人体の本質をプラトンのイデアとして捉えていたという意味では「古典的」であった。デューラーは「人体平衡論」において、理想的な人体像は存在しない、と明言していて、絵画の求めるものは現実のさまざまな人体であるとした、つまり美の多様性を認めた。彼は実際さまざまな人たちの身体部位を測定して、網羅的に書物に残したのである。そこでは言語よりも図像がより多くを語る。さらに、人体を見る角度を変えたり、パーツの比率を変えたりして図も示し、さまざまな人体図を作り出していて、これは既に現代のコンピューターグラフィックスの発想である。

      無学な(ラテン語を解さないという意味で)デューラーは、こうして、手工的熟練に支えられている機械的技芸の側から文献に依拠した理論的研究としての自由学芸に越境した、という意味で16世紀文化革命の旗手であった。

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