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言葉を学ぶこと

 
英語の歴史で学ぶこと  
比較言語学 英語以前の言葉について
英語を話す人たちの最も古い記録  

 

1 言葉を学ぶこと

 私たちは、なぜ英語史を学ぼうとするのでしょうか?

 一般に言葉に関する学問は「言語学」と呼ばれます。言語学は、今日、大きく分けると二つの種類に分けることができるのです。一つは

「共時的言語学」、もう一つは

「通時的言語学」です。

二つに共通の漢字は「時」ですから、これがどうやら時間に関係があるのだ、と示唆してくれます。「共時」は、時間を共にする、という漢字ですから、言語を一つの時代にのみ限定して観察、研究するのです。「通時」は、時間を通して言語を見るわけですから、ある時代と別の時代の言語とを比べて、その中から法則性や特徴を掴むのです。これは、アプローチの違いであり、どちらが良くて、どちらが悪いと言うことはないはずなのですが、どういうわけか、現在、言語学といえばほとんど共時的言語学の方に比重が高くおかれているのが、現状です。

 その理由の一つに、通時的言語学の難しさが挙げられます。共時的言語、特に現代の言語を研究する際には、informant と呼ばれる言語使用者の考えをインタヴュー等によって知ることができるのですが、通時的言語学の場合、過去の言語をどのような考えで使用していたのか、直接的に調べられることは稀です。また、通時的言語の場合、近い過去の場合はさほどではないにしても、時代が離れれば離れるほど、一つの言語ともう一つの言語の差異が大きくなり、いわば、二つ以上の言語についての知識を有する必要ができてしまうからです。

 英語は、世界中のさまざまな言語の中では、比較的歴史の短いものに入ります。それでも、1000年前の英語と現在の英語とでは、まるで異なる言語のように感じてしまうことが多いのです。実は、そのような昔の言語でも、やはりどこかで現代と繋がっているためか、学べば学ぶほど、現在の英語との共通点の方が著しく認められるようになるのです。例えば、有名なFred C. Robinson の集めた例文があります。これは人工的に作ったもので、わざと現代英語と同じものをもって、どれだけ意味のある英文が作れるか、といったことを試したものと言えます。

Harold is swift. His hand is strong and his word grim.

He is dead. He sang for me. He swam west in storm and wind and frost. (Mitchell and Robinson, 171.)

これだけを読んでも、現代英語を読んでいるとしか思えませんね。けれど、すべて古英語の単語を使っているのです。英語史を学ぶと、このように、時代の離れた時代の英語との共通点をも学べるのです。

 しかし、それが英語史を学ぶ理由ではありません。実に、英語の歴史を学ぶことは、英語の履歴を知ること、英語の出自を知ることです。それを知らずして、茫漠たる海のように広い英語の世界を整理することは、(私が思うに、)実に難しいことではないでしょうか。

 

2 英語の歴史から学ぶもの

 英語史を学ぶには三つの柱が必要です。意味です。もちろん、これは英語自体を学ぶ際にも重要な要素ですが、特に英語史の中心は、この三つについて記述することにありました。このことを学ぶことによって、何が得られるでしょうか。

 音を学ぶとは、現在、我々日本人をはじめ、ほとんど全ての人に気付かれている、英語の難点について学ぶことになるのです。例えば、私たちは、ローマ字の a を見て、「あ」と同じ音だ、と習いました。しかし、英語を学ぶと、make は、「マケ」ではなく[meik] と発音するように習います。現在使われている英単語に sake というものがありますが、これは[seik]と発音すれば、「〜のため」という意味になりますが、[sake]或いは[saki]と発音すれば、「日本酒」を意味します。いったいなぜ、このように発音が実際の表記に対していくつもの種類が対応してしまうのでしょうか。

 実は、私たち日本人は、表記と音のズレに対しては既に免疫を持っているので、上の様に表記に対する発音の多様性はあまり気にしない傾向があります。日本人は、漢字の読みが一様でないことを知っています。「生」という漢字は実に14通り以上の読み方があります。「いきる」「いかす」「うまれる」「うむ」「おう」「はえる」「なる」「き」「なま」「お」「おい」「うぶ」「せい」「しょう」「じょう」などです。英語にもこれをあてはめればいいのです。同じ文字でもいろいろな読み方をすればいいんです。しかし、なぜそうなったかを知っていれば、それだけ覚えやすいということはないでしょうか。

 形を学ぶ、というのはどういうことでしょうか。ことばは、音のつながりですから、音のつながり具合が、一つの単位を構成します。その単位の集まったものがより大きな単位を構成するのですね。音の変化が、単なる物理的な音の変化でなく、それぞれの単位を構成するもの自体の変化になったとき、それを構造の変化と呼びます。言葉は音の構築物だからです。例えば、ある単語の発音が変わるだけでなく、その構造自体に変化が見られ、それが英語のあらゆる単語にも見られるとするならば、それはもはや単なる音の変化とは言わず、構造の変化、形態の変化 (morphological change) と言うのです。私たちは、英語には複数と単数で、言い方が違うことを知っています。child は複数では children になりますが、car は複数では cars になります。これは単なる音の変化と言うよりは、形態の変化なのです。なぜならば、 car だけでなく、tree も trees, stone も stones という風に、語尾に-s が付くわけです。ではなぜchildren はそうなっていないのでしょうか。こういう変化は他の語にもみられるのでしょうか。それを学ぶことが形を学ぶということなのです。

 意味を学ぶ、というのは少しは想像がつくかも知れません。しかし、具体的に英語にどういう意味の変化が起こったか、想像はできるでしょうか。私たちは物事がよくできたときに、'Nice!'といって人を誉めることがあります。しかし、日本で鎌倉幕府、室町幕府があった今から600〜800年前には、この言葉を言われた人は、大変腹を立てたことでしょう。なぜなら、それは「愚か者」という意味だったからです。このように、今では想像もできないような意味が昔は込められていた、と聞いてしまうと、いったい、私たちの今使っている言葉は、この先、いつまで使えるか分かったものではない、という気がしてくるかも知れません。ご安心下さい。言葉の意味はどう変わっていくか、その性質を英語で見ていくのが、英語史の一つの面白さであり、またそれを学ぶことによって、現在の英語の意味についてもより敏感になっていくことができるのです。つまりは英語の意味をより深く知り、言葉を使うときの自信を生むことができるのです。

3 比較言語学

 英語史を記述する際、頼りとする資料にはどういうものがあるのでしょうか。

 書かれた資料と、文字以外の資料がありましょう。ブルース・ミッチェルも『古英語への招待』の中で言っているように($vii)、ラテン語まで遡ることのできるフランス語やイタリア語とは違い、今日の英語となる言語がどのようにしてブリテン島に渡ってきたか、それがどのようなものかを文字の記録から辿ることはほとんどできません。そのために、私たちは比較言語学 (comparative philology) に頼らなければならないのです。

 比較言語学の成果は、「インド・ヨーロッパ語族」の理論的発見です。この言葉は、理論的に再構築した言語で、私たちには、もはやどの民族がこの言葉をどのように実際に話していたか、確定することはできないのです。もしかしたら、大変勢力の強い商人の団体で、旅による交易を行っていた人たちかもしれません。言ってみれば、彼らの言葉は交易のためにだけ用いられた言語、一種のリングァ・フランカ、混成共通 語だったのかも知れないのです。あるいは大変な支配力を持った一民族が、多くの民族を治めるとき、その会議などの場で使うための仲介語(リングァ・フランカ)として用いた言語かも知れません。一つの学説に寄れば、その言葉を話していた民族は、現在のトルコ、アナトリア高原に住んだ農耕民族で、そこから西へ東へとだんだんに広がっていったのだ、というものです。

 

4 英語を話す人たちの最も古い記録

 

 一方、何世紀も経ってから書かれた資料しか現存していない場合は、それに頼らざるを得ません。その最も重要な資料の一つがビードの『英国国民教会史』です。

Bede. 『英国国民教会史』の中の第一巻15章には、次のように書いてあります。

主の年449年にアウグストゥスより数えて46代目の皇帝マルキアヌスがワレンティニアヌスと共に7年間[ローマを]統治した。その時、アングル人とサクソン人の種族がヴォルティゲルンの招きを受け、三隻の軍船でブリテンにやって来た。そして彼[ヴォルティゲルン]の命により、その島の東側に居住するよう場所を与えられた。見かけは、この島国のために戦ってくれることだったが、彼らの真意はこの国を征服することだった。はじめは、北からやって来た敵を攻撃し、サクソン人が勝利を得た。そのことと、この島の土地の豊かさ、またブリトン人のだらしなさが故国に報じられると、もっと強い兵士を乗せたもっと大きな船がやって来て、現地にすでにいる分隊と一緒になることで、無敵の軍隊を作り上げた。新参者たちはブリトン人から彼らの間に土地をもらい、彼らの敵のため、祖国のために敵と戦うことが条件であった。その条件のために、土地の人たちから、報酬を受けることとなっていた。

 彼らはゲルマン民族の三つの強大な部族からの者たちだった。すなわちサクソン族、アングル族、そしてジュート族である。ケントの人々とワイト島の住民はジュート族の出である。現在オールド・ザクセンと呼ばれている地域からは東サクソン、南サクソン、そして西サクソンの民が来た。ジュート人の王国とサクソン人の王国の間にあった土地、すなわちアングル人の土地からは、東アングル、中部アングル、マーシア、そしてハンバー川の北側の土地であるノーザンブリアの国の人々がやって来た。彼らの故郷のAngulus と呼ばれる土地は、以後今日まで、不毛の土地となっている。

私たちはビードのこの記述によって、現在にイングランドに住む人々は、ヨーロッパ大陸の北側にある「ユトランド半島」一帯からやってきたことを知るのです。「ユトランド」とは英語でJutlandと書きます。つまり、英語読みすれば「ジュトランド」となりますか・・・。要するにジュート人たちの土地という意味なのです。現在のユトランドの南部にはアンゲルと呼ばれる土地があり、恐らくはアングル人の故郷だったろうと考えられています。一方、サクソン人の故郷は北ドイツのザクセン地方と思われていますが、ザクセン地方というのは大変広いのです。恐らくはザクセン地方の中でも、北海に近い、現在の「ニーダーザクセン(低地ザクセン)」ではないかと思われます。

この地図の赤い線が、アングル人、サクソン人、ジュート人たちがブリテン島に渡ってきた予想ルートだと思われます(Hodgkin, History of Anglo-Saxonsより)。そして、この図からも察せられるように、恐らくイングランドにやって来たのは上記の三部族だけでなく、フリジア(フリースランド)からもやって来たものと今では考えられています。

 

しかし、このようなことは、考古学的な資料によって初めて予想されることであって、言葉が書き残されていない以上、私たちには分かる手だてはありません。や、果たしてそうでしょうか?英語以外に書かれた記録、例えば上記ビードのラテン語の記録、考古学の資料、さらに、後世の人々の記録や言語学的な音変化の規則を丹念に分析し、組み合わせていけば、ある程度のことは分かるのではないでしょうか? 少なくとも、現在の英語史研究者は、その問への答えを探すために腐心しているのです。

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