英語史の背景
英語の歴史を学ぶ資料:その1比較言語学の成果
はじめに:言葉は変化します
4:イングランドに住んだ人たち
言葉は変化します
普通、僕たち私たちは、このような文字の列を読んでいるとき、「言葉」を読んでいると感じていますね。でも、その「言葉」とは何でしょうか?
現代に生きる私たちはいつのまにか「文字」=「言葉」と思いこんでいるのです。
「文字」は記号にしかすぎません。それは「言葉」を記号として翻訳しながら書き写しているにすぎないのです。この場合の「言葉」とは「音」であり、「言葉」とはそもそもは「音」「発話」にすぎないものだということを私たちはついつい忘れがちになるのです。
けれども、それ以上に忘れやすい事実があります。それは、言葉は変化する、というものです。
例えばキケロの書いたラテン語とヴォルテールのフランス語は同じ言葉だと言われれば、貴方は驚かないでしょうか? ラテン語とフランス語なんだから別の言語だ、と思われるでしょう。
実際のところ、ある一つの言語が、長い変化の歴史を辿るうち、たまたま紀元前一世紀にローマで書き残され、また18世紀にフランスで書き残されただけだ、と見ることもできるのです。(Baugh & Cable, 16)
よく言われることですが、私たちが何気なく使っている英語の単語も、その発音は時代によって異なるのです。
18世紀の有名な詩人に、Alexander Pope (1688-1744) がおります。彼は、ビアズリーの絵で現代の我々にも良く知られる『髪の毛盗み(The Rape of the Lock(1714-14))』という作品を書きました。18世紀当時でも、その警句的な二行連詩の文体の詩が人口に膾炙しました。私たちはその韻の踏み方で、当時の発音を推量することができるのです。一つの有名な例を見てみましょう。
Good-nature and good-sense must ever join;
To err is human, to forgive, divine. . . .
「良き性質と良き分別は一つにならねばならぬ。
過ちを犯すは人間。それを許すは神」
Here thou, great Anna! whom three realms obey,
Dost sometimes counsel take --- and sometimes Tea.
「汝、偉大なるアンナよ! 汝に三つの国は従いぬ。
汝は時に討論し、---また時にお茶を戴きぬ」
この赤い語はそれぞれ韻を踏むわけです。そこで、18世紀当時、join という単語は「オイ」よりは「ジョイーン」に、divineという単語も「ディヴァイン」よりも「ディヴィーン」に近い音で発音されていたことが分かりますし、obey という単語は、「オベイ」よりは、「オベー」に近い発音、teaも「ティー」より「テー」に近い発音だったことが分かるのです。 よく「ミルクテー」と日本人で言う人もいるのですが、あれは、昔ながらの英語の発音を、どこかで残しているのかも(ま・さ・か・・)。
たかだか200年程度でこれくらい変化するのですから、1500年の英語の歴史の中で、いえ、それ以前からの歴史の中で、言葉はどのように変化したのかをみると、なかなか遠い探険にいくようなものになるのです。
遡れば遡るほど、違いというのは大きくなり、やがては同じ言語とは思えなくなってきます。しかし、それだけではありません。現在、地域が違うために違う言語と思われているもの同士が、時間を遡れば、同じ言葉になっている可能性もあるのです。
現在の言語同士を見比べるときに、今でも同じ要素を含み合っていることに気がつくことがあります。最も簡単な例を見てみましょう。英語とドイツ語とを比べるとき、次のような単語同士の類似点が見られます。
英語:milk, bread, flesh, water
独語:Milch, Brot, Fleisch, Wasser
もうすこし気がつきにくい例としては、ラテン語と英語の対応があります。
英語:father, brother
羅語:pater, frater
語頭の音が異なるため、これはなかなか見分けにくいかも知れません。けれど、以下のような対応を見てみるとき、ヨーロッパの言語とアジアの言語とは、かつては同じ一つの言語ではなかっただろうか、と問いかけてみたくなるのです。
father:蘭語 vader; ゴート語 fadar; 古ノルド語 faðir; 独語 vater; 希語 pater; サンスクリット語 pitar-; 古ゲール語 athir (語頭の子音脱落)
brother:蘭語 broeder; 独語 bruder; 希語 phrater; サンスクリット語 bhratar-; 古スラブ語 bratu; ゲール語 brathair
この対応が、果たして偶然のものなのか、それとも、隣り合う言語で借用した結果なのか、それは単なる名詞の対応以上のものが必要になります。
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上に挙げた対応関係を発見したのは、サンスクリット語に対する認識を確立したときからでした。1786年、インド高等法院裁判官であったウィリアム・ジョーンズ卿は、インドのカルカッタで、アジア協会設立三周年記念講演会を行いました。論題は「インド人について」。古代インドの聖典の言葉であるサンスクリット語(日本では梵語とも言います)について次のように述べました。風間喜代三氏の訳で引用します:
サンスクリットは、その古さはどうあろうとも、驚くべき構造をもっている。それはギリシア語よりも完全であり、ラテン語よりも豊富であり、しかもそのいずれにもまして精巧である。しかもこの二つの言語とは、同士の語根においても文法の形式においても、偶然つくりだされたとは思えないほど顕著な類似をもっている。それがあまりに顕著であるので、どんな言語学者でも、これら三つの言語を調べたら、それらは、おそらくはもはや存在していない、ある共通の源から発したものと信ぜずに入られないであろう。これはそれほどたしかではないが、同じような理由から、ゴート語とケルト語も、非常に違った言語と混じり合ってはいるが、ともにサンスクリットと同じ起源をもっていると考えられる。またもしこの場でペルシアの古代に関する問題を論議してもよいならば、古代ペルシア語も同じ語族に加えられよう」(風間, 1978)
この講演の後、サンスクリット語の文献は、当時ヨーロッパの若き研究者たちを集めていたパリに集められていき、後に述べるフランツ・ボップ (1791-1867) もそこでサンスクリット語の写本の研究を進めたのでした。
ドイツロマン派文学の巨匠フリードリッヒ・シュレーゲル (Friedrich Schlegel, 1772-1829) も、1802年、パリに渡ってペルシャ語とサンスクリットを学びます。その後1804年から四年間ケルン大学で教職に就きます。1808年『インド人の言語と知性について』という本を刊行し、その中で、その後の比較言語学の基礎となる考えを示しました。
その書物の中で、彼は「比較文法」という言葉を、言語の歴史的、系統的研究に用いて、言語の内的構造とその類型的分類をする、という基本的な考え方に示されました。言語をその語の構造から、屈折言語とそうでないものとを区分したのです。屈折とは、語根部と接頭辞、接尾辞の部分が有機的に融合した、完全なる言語の特徴とシュレーゲルは考えていたようです。
例えば、ラテン語の amo 「私は愛する」は、単に「愛する」という行為を示す言葉ではありません。その言葉には、主語が一人称であり、単数であること、時制は現在であり、能動という相を持ち、尚かつ直接的なモードをもっていることを示しています。同様に、ラテン語のdominus は、「主人」という名詞であるだけでなく、単数であり、主格を示すことが分かります。このように、一語の中に多くの情報を担わせることができるという、誠に「意義深い」構造なのです。インド・ヨーロッパ語の全てが実にこのような性質を持っています。
その対極にあるのが中国語のように、一音節で、文法性を伴わない語です。「愛」というのは概念的な意味は示しますが、それが文の中でどのような機能を果たすのか、動詞、名詞いずれを示すかは、一語のみでは分からないわけです。
シュレーゲルの四年後、著名なフランスの博物学者、ジョルジュ・キュヴィエの生物の器官に関する論文は、その後の様々な科学に影響を与えました。「全ての有機的個体は、自分の属する有機的組織を形作っている。その全ての器官は互いに一致して対応し合う。・・・従って個体の一つの器官が変化するとき、何らかの変化を他の器官に与えないことはありえない」この考え方は、言語学者に言語を一個の有機体としてみる言語観を与えます。そして言語のある変化は、言語の他の部分にも対応する変化をもたらすであろうと考えたのでした。
この考え方を最も反映したのは、ドイツの法学者ヤーコプ・グリムでした。ヤーコプは、かの有名なグリム童話を編纂、出版したグリム兄弟の兄の方です。弟はヴィルヘルム・グリムです。さて、言語学の中で、ヤーコプ・グリムは一つの法則を見いだします。いや、より正確には「見いだしたと思った」というところですが。ちょうど同じ頃、いや、それよりちょっと早くに、デンマークのラスムス・ラスクという面白い名前の学者が、同じようなことを発見し、デンマーク語で論文を書きます。科学というのは面白いモノで、世界で同じことをほぼ同じ時期に違う人間が見つけると言うこともあるのですね。
ゲルマン語、The Germanic languages は、その名の通り、ゲルマーニアにいた民族の特有の言語と考えることができます。1 多くの分派がありますが、その分派が起こる前の言語を「ゲルマン語」Germanic あるいは「ゲルマン祖語」 Proto-Germanic と呼びます。
ゲルマン語族は現在大きく二つの語派に分けられて考えられています。一つは東ゲルマン語派、もう一つは北-西ゲルマン語派です。
東ゲルマン語派は、西ゴート語がその代表です。4世紀に書かれた新約聖書の断片の写本が残されています。これはウルヴィラ (Ulfilas (311-383)) という人の翻訳とされ、ウルヴィラ聖書と呼ばれます。この資料は、スカンディナヴィアに残るいくつかのルーン文字碑文を除いて、最も古い言語学的な資料とされています。
ウルヴィラは、父がゴート人、母親がギリシャ人だったのでは、と言われています。大変に学のある人物だったと思われます。
ゴート人はその後、イタリアを選挙した東ゴート (Ostrogoth)、スペインへ進んだ西ゴート (Visigoth)に分かれ、ヨーロッパの中で強い影響力を持ちましたが、いずれもラテン語を主に用いるようになり、廃れてしまいます。
西ゴート語のほかに、東ゴート語としては、ブルガンディア語、ヴァンダル語が知られていますが、両者とも、数少ない固有名詞を除いてほとんど不明です。
北-西ゲルマン語派は、さらに北ゲルマン語と、西ゲルマン語とに分かれます。
最も古い資料は3世紀のものと思われるスカンディナヴィアのルーン碑文です。
スカンディナヴィアの言語は11世紀頃、方言差が顕著になってきます。その分化以前の北ゲルマン語のことを、古ノルド語(Old Norse)と呼ぶのが長い間の習慣でした。現在でも、スカンディナヴィアを表す古い形容詞としてノルドという言葉が使われることもあります。便利ではありますが、一方で、細かい差異などを無視してしまうため、学術用語としてはあまりいい顔はされません。 そこで、古北欧語という呼び方もあることを覚えて戴きたいと思います。
スカンディナヴィアの言語は、さらに東の北ゲルマン語と西の北ゲルマン語とに分かれます。そこで、東-古北欧語と西-古北欧語、古東-北欧語と古西-北欧語という風に呼ぶことがあります。紛らわしいので、現在の言語を扱う場合には、《古》を取ってしまいましょう。
東-北欧語は、デンマーク語、スウェーデン語です。
西-北欧語は、ノルウェー語、アイスランド語、フェロー語などです。ただし、14世紀以来、ノルウェー語は、書き言葉としては認められなくなり、代わりにデンマーク語が使われました。19世紀に起きた愛国主義の高まりは、イプセンやムンクを初めとする若き芸術家たちの心に火をつけましたが、その動きの中から、ノルウェー語を国語にしようという気運がふくらみました。デンマーク語的なノルウェー語を「本の言葉」Bokm畦 と言いますが、それに対する愛国主義的なノルウェー語を「国の言葉」Landsm畦 と呼ばれました。現在では、「新しいノルウェー語」という意味の Nynorsk とBokm畦 とが並立している状況です。Nynorsk は、様々な方言を取り込んだ、いわば合金のような人工的な言語ですが、そういうわけで、ノルウェーは、二つの公用語を持っているとかのような様子を呈しています。
西-北欧語で注目すべきは古アイスランド語です。この言葉は文献の言語として北ゲルマン語の中で最も多くを残されています。アイスランドは西暦874年頃以来、ノルウェー人を中心として植民された島国です。この国では、ゲルマン民族に広く伝わっていた英雄伝説が書き残されました。さらに重要なことは、古エッダ、あるいは詩のエッダと呼ばれる詩群が書き残されたことです。これに加えてストゥルラの息子スノッリ(1178-1241)は新エッダあるいは散文のエッダと呼ばれる書物を書き残しました。様々な伝説的な英雄や神々の偉業がこれにより現代に至るまで伝えられたのです。
西ゲルマン語
英語が属する語派は西ゲルマン語派と呼ばれるものに属します。
西ゲルマン語は高地ゲルマン語音変化と呼ばれる変化によって、p, t, k, d などの子音が別の音に替わり、高地ゲルマン語と低地ゲルマン語とに分かれます。低地ゲルマン語は、古サクソン語、古低地フランコ語、古フリージア語、古英語からなります。古フリージア語と古英語は大変近い関係です。両者を併せてアングロ・フリージア語派と呼ぶこともあるくらいです。古サクソン語は、現代低地ドイツ語に。古低地フランコ語は現代のオランダ語、ベルギーのフラマン語の祖となった言葉です。古フリージア語は、オランダのフリースランド地方やシュレスヴィヒの一部で話されるフリージア語となっています。
現代のドイツ語は、高地ゲルマン語になります。古高ドイツ語(1100年以前)、中高ドイツ語(1100-1500)、そして現代高地ドイツ語(1500年以後)という年代分けが一般的です。特に現代高地ドイツ語は、マルチン・ルターの聖書訳(1522-32)以来、標準的な書き言葉として今日まで続いています。
1 ゲルマーニア (Germania) は、一世紀のローマの歴史かタキトゥスが書いた民俗誌で知られる地域のことです。基本的にヨーロッパのアルプス以北の土地と捕らえていてください。注意して戴きたいのは、英語ではGermanic は、「ゲルマン語」を指し、 German は「ドイツ語」を指すと言うことです。Germanic は、かつては Teutonic 「チュートン語」とも呼ばれました。これは、ゲルマン人が自分たちの民族を指す言葉 Teuton からの派生語と考えていいものです。この言葉は、後にドイツ語に残され、音韻変化を受けて Deutsch と発音表記されるようになりました。英語では「ドイツ」はGermany と呼び、日本語では「ドイツ」と呼びますが、日本語はドイツ語から借用したのです。この言葉は古英語にも古ノルド語(=古北欧語)にも見られるゲルマン語共通の言葉であったようです。OED の 'thede' の項を参照のこと。
2Jones, Sir William (1746-94)サー・ウィリアム・ジョーンズ
ロンドンに生まれる。少年の頃から語学力に優れ、ギリシア語の力に教師が驚いたというエピソードを持つ。オクスフォードで古典語の他、アラビア、ペルシア語に熟達し、1771年に早くもペルシア語の文法を書いている。ロンドンでみつけたシリア人を自費で大学に呼び、アラビア語を学んだりもした。経済的理由から法律を学んだ彼は、1783年インドに赴任し、カルカッタで高等法院の裁判官の職に就いた。しかし、彼はその忙しい職務の合間に、インドにアジア協会を設立し、自ら会長となって、ヨーロッパ人によるインド学の草分けとなった。彼がインドを真に理解しようとサンスクリット語を学び始めたのは1785年のこと。その後1794年の死までのわずか9年の間に、数々のサンスクリット文学の翻訳やテキストを出版した。その中には、ゲーテの詩情を揺さぶり、彼に一詩を書かせたカーリダーサの劇『シャクンタラー』や、古代インド宝典を代表する『マヌ法典』なども含まれていたという。彼は、文学、宗教はもとより、音楽や植物など、インドの全てを知ろうと情熱を傾けた文献学者であった。なんの文法書もなく、ただテクストと、その理解を助けるインド人の言葉を頼りにサンスクリットの文献を読んでいく彼の苦労を、彼の生誕200年記念講演の中で、アメリカの有名なサンスクリット学者 Franklin Edgerton は偲んでいる。
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