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神話『ブルーポールズ』

【第7巻】-                                                   

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 たしかに、クリシュナが見せてくれた夢は一つの啓示ではあったかもしれなかった。しかし、それでもって世界のすべてということはできないはずだった。そんな思いに駆られて、ナユタはアシュタカ仙神を訪ねることにした。孤高の精神に依拠する慧眼の持ち主、ナユタとリリアンに曼陀羅の極意を授けた賢者、そのアシュタカ仙神にどうしても会わねばならなかった。

 ナユタがひとりアシュタカ仙神を訪ね、訪問の目的を告げると、仙神は言った。

「真理とは気高い言葉だな。この短い単語によって、この世界において、もっとも高貴なもの、もっとも大切なものが述べられる。そして、真理という言葉で語りかけられるものによって、我々は高められ、鎮められる。だが、真理は存在しない、と言うなら、それはその通りだ。おまえはしばしば真音を奏でてきたであろうが、真音だとて同じこと。結局はただの空気の振動に過ぎない。心を高め、清めるかもしれぬが、結局は単なる音に過ぎぬ。」

「では、真理は存在しない、というただそれだけということでしょうか。」

「それは、そうだ。結局のところ、真理があるだのないだの、真理が輝くだの輝かないだの、単に、まだ、心が迷っておるだけではないか。」

 そう言うと、アシュタカ仙神はさらに諭すように言った。

「かつて、ヴィダールが始めた創造の中で、ある思想家がこう言っておる。『語ることのできる道は、不滅の道ではない。名付けることのできる名は、不滅の名ではない。』知っているかね。」

「ええ、一応は。ただ、そんなにその著作を読んだわけではないので。」

「そうか。だが、おまえは、『真理は存在しない。』と言うが、まさに、その思想家の言葉を借りるなら、捉えることのできる真理は真理ではない、と言うべきではなかろうか。」

 アシュタカ仙神は言葉を切り、さらに口調を変えて訊いた。

「ところで、かつて、曼陀羅を教え授けたろう。今も取り組んでいるか。」

「いえ、今は。」

「そうか。それはおそらく、おまえが曼陀羅から汲み取れるものが乏しくなってきたからであろうな。およそ、極められたものはそれ以上に極めることはできない。完成されたものは、それ以上には完成させようもない。だが、おまえの曼陀羅は極め尽くされておるのだろうか。」

 ナユタがこの問いに答えられずにいると、アシュタカ仙神は断言した。

「曼陀羅から汲み取れるものが尽きることは決してない。曼陀羅はどんなに極めても、その中になお未知なるもの、極められていないものを残している。この世界や真理と同じじゃよ。真理も常に秘められておる。それを探求するのがわしの道じゃがな。」

 この言葉はナユタの胸に沁みた。

「もう一度、曼陀羅を描いてみぬか。」

 そう言うとアシュタカ仙神はナユタを家の前の広場に連れ出して言った。

「ここに曼陀羅を描くのだ。おまえとわしとでな。どうだ?」

「こんな広い場所にですか?」

「そうだ。ここでだ。わしもまだこんな広い場所に曼陀羅を描いたことはない。昔であれば、この曼陀羅の全体を見れるのは天だけかもしれぬ、と言うところだな。まあ、今ならミニスカイウェイのカメラで簡単に見れるのだろうがな。」

 ナユタにはアシュタカ仙神の意図は分からなかったが、何かを教えようとしていることだけは理解できた。

 ナユタが同意すると、アシュタカ仙神は言った。

「では、今日からだ。砂は小屋にある。」

 アシュタカ仙神は器に砂を入れて、広場の中央に立つと、器から青い砂をすくって地面に置いた。

「これが始まりだ。さあ、ここからはそれぞれ、砂を置いてゆくのだ。」

 それは気の遠くなるような作業だった。一日で描けるのは、せいぜい畳三枚分程度。来る日も来る日も砂を置く繰り返しだった。

 毎日、ひたすら曼陀羅を描く中で、ナユタの心に浮かんできたのは、この広大な世界の中で消え入らんばかりの存在である自分の存在であった。それが心に突き当たった。そして、同時に、自分の歩いてきたこれまでの道が改めて思い返された。

 パキゼーを生み出したヴァーサヴァの創造の一つ前の創造の時代にナユタは宇宙の涯てで生を受けた。そして、ナユタは啓示の光を浴びて自らの役割を認識した。それは、創造が引き起こす混乱に立ち向かい、創造された世界を救うとことだった。ナユタはヴァーサヴァの創造の危険性を理解し、その創造が下り坂になり、世界が混乱し始めたとき、その混乱を鎮め、世界を新たな光の道に導くためのあらゆる努力をした。

 だが、すべては無駄だった。そして、ナユタは白い衣を纏って超越者として地上に降り立ち、数々の奇跡を行い、人々を真実の道に導こうとした。だが、その行為を誰が、どの神が理解したろうか。ヴァーサヴァは怒りを発してナユタを非難し、神々もみな同調した。ナユタは失望し、再び、宇宙の涯てに戻るしかなかった。だが、現実はどうだったか。その日から、世界の軸は急速に傾き、涯てのない混乱が大地を覆い尽くした。

 そのとき、人間たちの愚かさと迷妄に対する激しい怒りが破壊の神ムチャリンダを突き動かした。ムチャリンダは世界を破壊するために起ち上がり、その力を発揮した。

 天は割けて雷が落ち、激しい雷雨は洪水を引き起こして村々を押し流した。山や森は炎を発し、炎は村々に押し寄せて焼き尽くした。

 しかし、ヴァーサヴァの創造を支えるマーシュ師は、呪いの力によってムチャリンダを宇宙の淵に葬り、「人間が神を呪うことがない限り目覚めることはない。」という封印を施したのだった。

 だが、傾きかけた創造はもはや救いようがなかった。怒りを含んだ巨大な混乱が創造された者たちの中にとてつもない阿鼻叫喚を呼び起こした。大地は数万年に渡って炎を発し、一切は焼き尽くされ、一切は滅び、創造は終焉したのだった。

 しかし、ヴァーサヴァは創造を止めなかった。ヴァーサヴァは再び創造を開始し、それはその創造に異を唱える人間の叫びによってムチャリンダの復活を引き起こした。ヴァーサヴァはムチャリンダとの戦いに敗れ、森に引退させられた。そして、ナユタとヴァーサヴァの戦いが始まったのだった。

 それからのこともナユタの心を巡った。だが、結局それらは、広大無辺なこの宇宙の空間と時間の中では、ほんの取るに足らないことに過ぎなかったのではないか。何の本質的意味もないただの他愛ない戯れ、それが自分の歩いてきた道だった。

 そんなことがナユタの心の中を巡り続け、その思いの中でナユタは曼陀羅を描き続けた。ほぼ三ヶ月かけて、曼陀羅が完成した。その三ヶ月はアシュタカ仙神と一言も言葉を交わすことなく、ただ寡黙に砂を置き続けただけの日々だった。

 砂曼陀羅が完成すると、アシュタカ仙神は言った。

「これが宇宙じゃよ。わしらは一つの宇宙を作った。そして、その宇宙は展開した。だが、それは何か目的があったのでも、目指すものがあったのでもない。ただ、それだけだ。わしらが存在するこの宇宙もおそらくそんなものだと思っておる。ヴィシュヌにはヴィシュヌの何らかの意図があるのかもしれぬが、それは我らの思惟によって推し量れるようなものではないだろう。」

 そう言うと、アシュタカ仙神はその場を離れて引き揚げようとするので、ナユタは訊いた。

「この砂曼陀羅はどうするのですか?本来なら、砂曼陀羅は足で掻き消すものかと思いますが。」

「今日は、このままにしておこう。こんな大きな曼荼羅を足で掻き消すのもたいへんなのでな。だが、大地には風も吹けば雨も降る。そのうち、この曼陀羅も風に吹き払われ、雨に洗い流され、跡形もなく消え去るだろう。この宇宙の無限の時間の中では、この曼陀羅が存在する時間もとてつもく短い一瞬にすぎない。だから、そのなるがままに任せようではないか。」

 それが仙神の答えだった。そして、仙神は続けて言った。

「かつて、ヴィシュヌがこう言ったと聞いておるよ。『私は無限にして一なる者。けれど、無力にして全き者である創造者。私がそれである。』とな。この世界は、まさにヴィシュヌの言葉通りの世界だな。そして、パキゼーが見極めたとおり、一切は空というなら、まさにそれが真理だ。それが究極の真理とも言える。だが、それがすべてなのであろうか。一切が空であるとしても、尚、心ときめかすものどもはこの世界の中に散りばめられているのではないかな。曼陀羅はそのことを教えてくれる。汲み尽くせぬものが、尚、この世界にはあるのではないかな。」

 この言葉にナユタが大きくうなずくと、仙神は諭すように続けた。

「だがな、もう一つ言えることは、人間にしろ神にしろ、我々は喜びや希望がなくては生きていけない、ということだ。機械ではないからな。そのこともまた真実であるだろうな。結局のところ、神にしろ人にしろ、自らの内にもっているものに縛られ、自らの中から出てくるものに沿って生きているにすぎない。それは時には、目標とか夢とか、あるいは使命とか召命とか呼ばれるが、その本質はその者の心の内から出てくる欲にすぎん。ただ、その欲なくしては、誰も前を見て生きることができないのも事実だ。だから、この世界の内に存在する者たちはみなそうして生きている。この世界を司るヴィシュヌやシヴァにしてもな。」

「ヴィシュヌ神やシヴァ神もなのですか?」

「ああ、そうだ。それをナタラーヤもヴィカルナも理解しておろう。そして、そのことに依拠してわしとおまえは砂曼陀羅を描いた。それだけのことだ。かつてパキゼーが道を請うたという

アーラーラ・カーラーマ賢者とウッダカ・ラーマプッタ賢者のことは知っておるか。」

「ええ、一応は。」

「彼らの道は真理に行き着かないとパキゼーは喝破し、彼らのもとを離れて一切は空という真理を見出したが、我らの生き方は、結局、アーラーラやウッダカと同じだと感じておる。真理を生きているのでも、真理に基づいて道を歩いているのでもない。ただ、何かに向かって努力し、道を歩いているだけだ。」

 このアシュタカ仙神の言葉はナユタの心に焼き付き、アシュタカ仙神のもとを辞し家に帰ってからも、その言葉がナユタの心の中を駆け抜け続ける日が続いた。

 たしかに、仙神の言う通り、一切が空であり、それだけが究極の真理だとしても、なお未知なるものどもは世界の中に散りばめられているかもしれない。でも、そうだというなら、では、この世界にあって、真理とは結局何なのだろうか。そしてまた、我々は希望や喜びがなければ生きていけなというアシュタカ仙神の言葉が正しいとしても、だとしたら、その希望や喜びに依拠することが真なる道なのであろうか。

 そんなことを考え続け、アシュタカ仙神とともに描いた曼陀羅による心の高揚が静まってくると、ナユタの心には、世界はなんら輝いていない、という思いが改めて去来した。世界はそもそもいかなる輝きも持っていない。ただ、喜びや希望なくしては生きてゆけない人や神がその心によって輝きを感じているに過ぎないのではないか。

 そんな思いに突き当たると、遠い昔、ヴィカルナ聖仙が言った言葉が思い出された。ナユタが初めてヴィカルナ聖仙の都を訪ねたとき、聖仙は言ったものだった。

「光はある。混乱の道に足を踏み入れ、光を見ようとしない者には光が見えず、傲慢にも光がないとか光が消えたなどと言う。光に背を向ける者は、不遜にも光が自分を照らさないなどと言う。だが、光は、見ようとする者にだけ見えるのだ。」

 だが、その言葉の意味するところは結局何なのだろう。世界がなんら輝いていないとしたら、心に光を持つ者だけが、自らの心の光によって、世界が輝いているように思いなしてるだけではないのか。まさに、心の活力によって幻影を見ている、と以上のものではないのではないか。

 そして、また、心に光を持つということはいかなる意味で真理の道だと言いうるのであろうか。そんなことを考え続けると、「世界はまさに、虚飾の内に構築されている。」ということに、思い至らざるを得なかった。だが、だとしたら、その中で、どのように生きればよかったのか。

 そんなことどもを次々と心に巡らせ続けるうちに、ナユタは、かつて「光はある。光を見ようとしない者に光が見えないだけだ。」と言ったヴィカルナ聖仙にどうしてももう一度会わねばならないという思いに突き当たった。そしてまた、クリシュナと一緒に訪れたヴィカルナ聖仙の闇の都でのできごとも強く心に焼き付いたままだった。しかも、以前、森のナユタの家に突然やってきて、「二度と会うことはあるまい。」と言って去って行ったヴィカルナ聖仙について、クリシュナは、「聖仙は何も変わっていない。」と言ったではないか。

「どうしても、もう一度、ヴィカルナ聖仙にお会いしなくてはならない。」

 それが、ナユタの心に沈澱した思いだった。

 では、ヴィカルナ聖仙に会うにはどうすれば良いのか。ナユタにできることは、初めてヴィカルナ聖仙を訪ねた時と同じように、ただひたすら、暗黒の宇宙の中を、究極の闇を求めて、真っすぐに旅を続けることだけだった。

 それしかないと決心すると、ナユタはひとり旅に出た。

 長い孤独な旅の後にナユタは、かつて訪れた闇の世界への入り口に辿り着いた。かつてのままに、そこは、低い塚のような場所で、その塚に設けられた古びた石組みの門は、苔に覆われ、朽ちかけた木の扉で閉ざされていた。塚の上にはぼうぼうと雑草が生え、その合間で花がひっそりと咲いていた。すべてが昔のままだった。

 かつて初めてここに来たときのことが、昨日のことのように思い出された。ナユタは、古びた石組みでできた闇の世界への入り口を閉ざしていた木の扉を押し開いた。そして、かつてと同様、心の目だけを頼りに、奥に続く長い洞窟をひたすら下って行くと、闇の都に辿り着いた。

 そこは明るい光に満ちていたが、初めてこの都を訪れたとき、そしてついこの前、クリシュナとともに訪れたときとはうって変わって、底知れぬ静寂が空間を支配していた。天女もオウムも現れなかった。怪訝な面持ちでナユタは歩いてゆき、例の青銅の扉の前に行き着いた。

「この中に入るしかないな。」

 そう思って扉に手をかけた瞬間だった。

「ナユタ。」

 聞き覚えのある声でそう呼びかけられて振り返ると、立っていたのはヴィカルナ聖仙だった。驚くナユタにヴィカルナ聖仙は柔らかい声で語りかけた。

「よく来たな。そのうち来るとは思っておったがな。それにしても、この前、クリシュナと一緒に来たときはどうだった?ユビュとの交わりには心を満たされたのではないかな?ユビュも喜びをもっておまえを受け入れたのであろうからな。」

「ご存じなのですか?」

 ちょっと顔をこわばらせてそう言ったナユタに、ヴィカルナ聖仙は笑いながら言った。

「ああ、知っておるよ。ここはわしの都だからな。この都の内で起こることはすべてお見通しじゃよ。」

「そうですか。」

 ナユタは顔を少し赤らめてそう言ったが、気を取り直して問いかけた。

「以前、二度と会うことはあるまいと言って去って行かれましたのに、このように押しかけて申し訳ありません。クリシュナに連れられてこの都を訪れ、その時、クリシュナから、聖仙は何も変わっておられないと聞いたものですから。」

「二度と会うことはあるまい、と言ったのは、おまえはもはやわしを必要とはしなかろうと思ったからじゃ。だが、どうもそうではなかったようじゃな。まあ良い。せっかく来たんだ。ゆっくりしてゆくがいい。」

「ありがとうございます。それにしても、今日は、この都は何か静まりかえっていますね。天女も鸚鵡も来ませんし。」

「ああ、おまえが来たときには現れなくて良いと言っておいたのでな。今日もそうじゃが、これからも来たいときにはいつでも訪ねてくるが良い。」

 そう言うと、聖仙は青銅の扉には背を向け、ナユタを池の畔の東屋に導いた。腰を下ろすと、池の上で揺れる蓮の花が美しかった。だが、それも生きた蓮ではなく、宇宙一の鬼才と言われた天界の建築師カーランジャが作った驚異の技の一つであった。その蓮の花はどこからともなく来る風にゆらゆらと揺れ、陽光の下できらめいていた。

「ところで、今日来た理由はなんじゃ。」

 そう問いかけたヴィカルナ聖仙に、ナユタは答えて言った。

「私はヴァーサヴァの創造の時以来、自らの信じるところに従い、世界を駆けてきたつもりでいます。しかし、創造の本質、世界の本質についての根源的な問いについては、依然として何一つ解き明かされず、また、何ら真理に至っていないと痛感しています。この世界に生まれ、生きていて、今痛感している最も本質的なことは、この世界は生きるに値しない世界に過ぎないのではないかということです。しかし、私はこの宇宙について、尚、真の姿を理解していないかもしれません。それで、この宇宙の究極の姿についてご存じのヴィカルナ聖仙に改めて世界の本質と真理についておうかがいいたしたく、ここに参ったのです。」

「そうか。だが、その問いに対する答えは簡単じゃ。ヴィシュヌは自らの為すべき使命に従って世界を創造しただけ。それ以上でもそれ以下でもない。」

「それは分からなくはありません。ただ、ではなぜ、世界は創造されねばならなかったのでしょう?」

「無か、有か。そのどちらかをただ選択するだけ。別にまた無に戻っても良い。ヴィシュヌとシヴァは無数に繰り返し宇宙を創造し、そして破壊してきた。それだけだ。」

「では今の宇宙も有限ということでしょうか?」

「もちろんだ。いかなる神といえども、永遠の命などというものは存在しない。世界が融没する時も、命が尽きるときも必ず来るのだ。残るものは何もない。次なる創造に連続するものも何もない。ただ、ヴィシュヌとシヴァがいるのみだ。だが、ヴィシュヌとて永劫ではない。次なるヴィシュヌが今のヴィシュヌにとって代わるであろう。次なるシヴァが今のシヴァにとって代わるであろう。」

「それにもかかわらず、この世界の内の存在者たちは、目の前の事象に一喜一憂して生きています。」

「その通りだ。だが、それもまた良い。ヴィシュヌはそれを嘉している。それが世界の姿というだけだ。」

「では、そんな世界の中での真理とは何なのでしょうか?世界に真理が輝くことはないのでしょう?」

「真理などはなから存在しない。あるのは、ただ生起する事象のみだ。」

 この淡々とした言葉に、かつてのヴィカルナ聖仙の言葉との矛盾を感じ取ってナユタはさらに問いかけた。

「かつて私が初めてこの都を訪れたとき、聖仙は、『光はある。光を見ない者が光が消えたと言うだけだ。』と言われました。しかし、今、聖仙は、『真理など存在しない。あるのは、生起する事象のみ。』と言われました。この世界に光はあるのでしょうか?真理は輝いているのでしょうか?」

 この問いかけに、ヴィカルナ聖仙はナユタの目を見つめて問いかけた。

「おまえはどう思う?」

「私には、光はないように思えます。真理は輝いていないと見えます。」

 ヴィカルナ聖仙はうなずいた。

「それが正しい見解だろうな。ただ、自己の心の内に光を持つ者が、世界に光を見ることができるだけだ。だから、わしが『光はある。』と言ったその光とは、自己の内にある光ということになろうな。」

「しかし、世界に光はなく、真理は輝いていないとしたら、自分が見ているその光は結局、幻影に過ぎないのでは?」

「その通りだ。ただ、ヴィシュヌはそのような本来光のない世界の中で、この世界の内の者たちが光を感じつつ世界の内で生きてゆくという世界の姿を嘉しているというだけだ。」

「しかし、そのような世界にいかなる意味があるのでしょうか?」

「そんなものはありはしない。ただ、その意味のない世界をヴィシュヌは創造し、維持しているに過ぎない。」

「繰り返しになりますが、では、なんのための世界の創造なのでしょうか?」

「それはヴィシュヌも知らぬ。ヴィシュヌはヴィシュヌが存する限られた時間と空間の中で、自らの使命として世界を創造するのみ。」

「では、ヴィシュヌの上にさらなる超在者がいるのですか?あるいは、ヴィシュヌが存する空間の外に、さらに広い世界が広がっているのですか?」

「それは知らぬ。ヴィシュヌを存在せしめるのが何ものなのか、いかなる理由でヴィシュヌが存在するのか知る由もない。だが、おそらくは超在者の戯れ、あるいは超在者の実験に過ぎないのではないかな。」

「超在者の実験。」

 そう絶句してナユタが考え込んでいると、ヴィカルナ聖仙が言った。

「ひょっとしたら、この世界は超在者の実験の場にすぎんかもしれんからな。だが、ともかく、シヴァに会いにでも行くか。」

 ナユタがちょっと驚いて顔を上げると、ヴィカルナ聖仙は立ち上がり、歩き出した。再び、青銅の扉のところに戻ると、聖仙は扉を押し開けて中に入り、ナユタも続いた。ふたりはさらに先に進み、例の踊るシヴァ神の像のある部屋に入った。例の四本の腕と三つの眼を持ち、餓鬼の上で踊るシヴァ神の像だった。

「問いたいことがあるなら、シヴァに問うが良い。」

 そう即されてナユタは問いかけた。

「私は真理を知りたいという思いに駆られ、やって参りました。教え授けていただきうるものを教え授けていただきたく。」

 突然、雷鳴のように響くシヴァ神の声が答えた。

「何を教え授ければ良いのか分からぬが、まずは、我が質問に答えるが良い。汝は、真理を知りたいと言うが、汝には真理は見えておらぬのか。」

「はい。この世界の内で、真理という言葉によって多くのことが語られていますが、ほんとうの真理が見えていないのです。そして、ほんとうの真理とは、私たちが存在するこの世界の外のことが分からねば見えないのではないか、という思いに突き当たったのです。」

「では、おまえたちの存在するこの世界の外のことが知りたいということだな。」

「その通りです。ぜひ教え授けていただければ。」

 ナユタはこう言って重ねて懇願したが、シヴァ神の答えは冷たかった。

「おまえが知りたいというこの世界の外は、この世界の内にある者は誰も見ることもできないし、知ることもできない。世界の内にある者が見ることができるのは、世界の内にあるものだけだからだ。」

 この言葉にナユタが何も言葉を返さないのを見て取ると、シヴァ神は続けて言った。

「この世界の外にある世界のことについて、私が何も知らないわけではない。少しだけ教えてやろう。それは、単に、世界は涯てしなく、広大で、途方もなく無辺だということだ。だから、おまえは真理を知りたいというが、そんなものは何もない。世界の中でうごめいているにすぎないものに、究極的な意味などあろうはずがない。」

 この言葉を受けて、ナユタは別なことを問うた。

「シヴァ神は宇宙の破壊を司っていると言います。誰に依頼されているのですか?そして、そもそもこの宇宙は誰が司っているのですか?」

「そのようなことは問うてはならない。それはこの世界の永遠の秘密であり、解き明かすことができない。私は自らの使命を果たすのみ。喜悦に満ちた心で踊り、そして破壊する。それだけだ。誰が世界を創ったか、誰が私にその使命を授けたかなど、私の知るところではない。」

「しかし、それでは、自らの行いをどのように適切なものと言いうるのでしょうか?何のためにその使命を果たさねばならないのかと問うとどうなるでしょうか?」

「知りえないものは考えるすべもない。我らは膨大なる時間の中に浮かんでいるのみ。何が正しいかも知らぬ。ただ、自らの使命があるのみだ。」

「では、そんな世界の内に在るものはいったい何なのでしょう?」

「この世界の内でのことは、すべて戯れに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。」

 それが、シヴァの答えだった。究極の答えだった。しかし、ナユタはさらに問いかけた。

「では、この世界の内に存するものたちは、どのように生きたら良いのでしょうか?この世界の内のものは戯れに過ぎず、そこに真理など何もなく、世界の中でうごめいているものに意味などあろうはずがないとしたら、その世界の内に存する私たちは何に依拠して生きてゆけば良いのでしょう。あなたの言葉に基づくなら、世界はまるで生きるに値しないものでしかない。」

「はっはっはっはっはっ。」

 シヴァ神の大きな笑い声が室内にこだました。

「おまえは、この世界について疑義を唱え、異議を唱えている。ではおまえに聞くが、では、どんな世界であれば、生きるに値するのか?真理がただあれば良いのか?真理が輝き続ける世界であれば良いのか?望みが何でも叶う世界であれば良いのか?さあ、どうだ。答えられるか?」

 ナユタは答えに窮した。たしかに、シヴァ神が反問したように、どんな世界ができたとしても、結局、生きるということは、自分が存在する時間の間、ただ本質的に意味のないことに時間を消費しているに過ぎないということでしかないのではないか。

 ナユタが答え得ないのを見て、シヴァ神は言った。

「世界の意味などということ、真理などということ、そんなことは知ったことではない。意に介したこともない。私にとっては、世界の内で、存在者たちの他愛ない戯れが繰り返されているというだけのこと。それ以上でもそれ以下でもない。それだけだ。だが、せっかくだから、もう一つ教えてやろう。この世界にはそもそも破壊というものはなかった。そして、時間というものもなかった。だが、ある日、ヴィシュヌの夢がこの世界を開いたのだ。だから、この世界すべてが、ヴィシュヌの夢、ヴィシュヌの幻に過ぎぬ。それ以上でも、それ以下でもない。そして、そのヴィシュヌの夢は次々と新たな夢を紡ぎ、世界は涯てしなく展開し、流転するようになった。まさに、四つのユガが涯てしなく繰り返す世界だ。そして、私は、その涯てしない流転の中で、世界を破壊する役目を負うようになったのだ。」

「では、すべての原初はヴィシュヌ神ということですね。」

「そういうことだ。」

「では、そのヴィシュヌ神にお会いして、世界創世の秘密をうかがうことはできるでしょうか。」

「はっはっはっはっはっ。」

 その大きな笑い声はヴィカルナ聖仙だった。

「ナユタ。ヴィシュヌ神はこの世界の創造神であり、その存在は秘匿されている。何ものもこれに触れることはできぬ。わしはおろか、シヴァ神ですらな。この世界はヴィシュヌの夢から生まれ、ヴィシュヌの夢そのものでもある。そして、そのヴィシュヌ神すら、ヴィシュヌ神の夢に過ぎない。これが世界の本質だ。」

「私は真理を求めて道を歩いてきました。でも、世界の外にある真理を知ることはできず、世界の内にあっては、一切は空という以上のものではないということですね。」

「そういうことだ。それ以上でも、それ以下でもない。」

 そう言うと、ヴィカルナ聖仙は、

「さあ、帰るとしよう。」

と言った。見ると、シヴァ神はただの塑像に戻っていた。

 ヴィカルナ聖仙に即されて部屋を後にし、外に出ると、外では、相変わらず陽光が明るかった。

 ヴィカルナ聖仙が言った。

「もう一度同じことの繰り返しになるかもしれぬが、すべてはうたかたの夢に過ぎない。そのことを理解することだ。この世界の内のものに意味や価値を求めること、生きることに意義を見出そうとすること、そんなことは大いなる迷いに過ぎないということを理解すべきだ。わしはかつて、『光を見ようとしない者は光を見ることができず、光がないとか光が消えたなどと言う。』と言った。なぜ、光が見えないか分かるか?それは世界の内のものに囚われているからだ。世界の内のものに囚われている限り、結局、その世界の内にあるものには本来的な価値がないということに行き着かざるを得ない。だから光が消えるのだ。だが、世界の内のものから離れ、一切は夢に過ぎないという事実、すべては他愛ない戯れに過ぎないという真理を理解するなら、心からは一切の憂いが消え、実に世界には光があることが分かるだろう。実に、世界の内に何か意味を求めること自体が夢の中のできごとに過ぎない。それはまさにパキゼーが悟った悟りそのものであるがな。」

 ナユタはこの言葉に納得せざるを得なかったが、敢えて、問いかけた。

「かつて、ヴィカルナ聖仙やナタラーヤ聖仙、ヴァーサヴァ、ヴィダールなど幾多の神が人間たちの世界を創造してきました。そのような創造にはいかなる本質的な価値があったのでしょか?そして、その創造された世界の中での人間たちの人生にはいかなる価値や意味があったのでしょうか?また、この我々の神々の世界の価値はいかなるものなのでしょか?そして、この神々の世界で我々が生きてゆくことの意味、この世界の中で為すことの意味とは何なのでしょうか?」

 ヴィカルナ聖仙はかすかに微笑んで問い返した。

「おまえはどう思う?」

「私はそのことについて、ずっと考え続けて参りましたが、私が言えるのは、ただただ、パキゼーの言う通り、『一切は空でしかない。』ということでしかありません。」

「その通りじゃよ。一切は空。それ以上でもそれ以下でもない。おまえが問いかけたもの、すなわち、人間の世界を創造する意味、その中での人間たちの人生、そして、この神々の世界とその世界で我々の為すこと、その一切は何の意味もなく、ただ空でしかない。」

「では、ヴィカルナ聖仙はなぜかつて人間たちの世界を創造されたのでしょうか?」

 ヴィカルナ聖仙は、「はっはっは。」と大きく笑って答えた。

「それが神々の業ということじゃよ。わしにしても、ナタラーヤやヴァーサヴァ、ヴィダールにしてもただただ自らの使命と思いなして自らの業に突き動かされて人間たちの世界を創造したに過ぎん。そして、わしは、自らの創造だけでなく、その後の創造にも関与してきた。だが、そのことにいかなる価値も意味もなく、あるのは、ただただ、『一切は空』と言うことだけじゃ。そして、世界中で、人間にしろ、神々にしろ、皆、己の業に突き動かされて生きているに過ぎん。ある意味、滑稽なことではあるがな。」

 そう語るとヴィカルナ聖仙はナユタに笑顔を向けて続けた。

「今日、来たことが良かったどうかは知らぬが、せっかく来たんだ。もう少しゆっくりしてゆくが良い。なんなら、またユビュを呼んでやるが。」

 ナユタが

「いえ。」

と言って首を振ると、ヴィカルナ聖仙は、

「そうか。でも、まあ、まずは離宮に行こう。」

と言って、この前クリシュナと行った離宮に向かった。

 ナユタは黙って歩き続けた。離宮に着くと、例の天女たちが迎えてくれた。

 妖艶な天女たちがにこやかで親しげなまなざしを向ける中、ヴィカルナ仙神はあっさりと彼女たちに言った。

「今日はわしが案内するよ。」

 そう言うと、ヴィカルナ聖仙はナユタを離宮の庭に連れて行った。庭の中央には小さな寺院が建っていた。近づいてみると、寺院の外壁には、男女の抱擁する像が無数に並んでいた。恍惚の愛の踊りを舞う女神像もあったし、さまざまな体位で性的絶頂に達した男女の結合神の像もあった。

 ヴィカルナ聖仙が言った。

「ここはミトゥナ宮と言ってな。この世界のもう一つの本質は、官能的な活力が宇宙を支える原動力になっているということだ。静的で深遠な真理は尊いが、それだけでは宇宙は展開しない。男女という両極があり、その男女が恍惚状態で結合するということにこそ、この宇宙のもう一つの本質が潜んでいるのだ。」

 ヴィカルナ聖仙はミトゥナ寺院の小さな入り口から中へ入っていった。ナユタがついて行くと、薄暗い寺院の内部には、男根をかたどったリンガと女陰をかたどったヨーニが結合した像が置かれていた。ヴィカルナ聖仙はその像を拝したが、ナユタは後ろに立って見守っていただけだった。

 だが、ヴィカルナ聖仙はそのことに気に留めることもなく、寺院を出ると、ナユタを離宮のテラスに連れ戻して言った。

「じゃあな。また、来たくなったら、いつでも来るが良い。今日はまあ、ゆっくりしてゆくと良い。」

 そう言ってヴィカルナ聖仙は去って行き、ナユタはテラスの席に腰を降ろして、ぼうっとして庭を眺めた。しばらくすると、ひとりの天女がワゴンを押して離宮から出てきた。天女はナユタの斜め後ろからグラスを出しながら言った。

「まずは、気付けのお酒をどうぞ。紅茶とケーキもお出ししますね。」

 その聞き覚えのある声にびっくりして見上げると、それはアミティスだった。

「アミティス?」

「ええ、ここはすてきなところですね。どうぞ、ごゆっくり。」

 そう言うと、アミティスは紅茶とケーキを並べた。酒は、かつてのソーマ酒をスパークリングにしたような酒で、飲むと何かすっと気持ちが楽になった。ケーキもおいしかったが、そのケーキを食べ終え、紅茶を飲み終わると、ナユタはアミティスを呼んで言った。

「そろそろ帰りたいんだが。」

 アミティスはいつもの笑顔で答えた。

「では、帰りましょう。」

 そう言うと、彼女はナユタをスカイウェイに案内し、自分も乗り込んで家に連れ帰ってくれた。スカイウェイから黙って景色を眺め続けたナユタの胸に去来したのは、

「結局、何もなかった。」

という思いだった。

 ヴァーサヴァの創造の時以来、宇宙を駆けてきたが、結局は、ヴィカルナ聖仙の言葉、シヴァ神の言葉がすべてだった。そして、この宇宙の創成については、ヴィカルナ聖仙はおろか、シヴァ神すらも何も知らなかった。分かったのは、自分たちは、シヴァ神すらその由来を知らない世界にただ生きているということだけだった。真理などという言葉とはまるでかけ離れた事実がそこに横たわっているのだった。チベールを滅ぼした後のヨシュタの気持ちがこんな気持ちだったんだろう、という気もした。

 ナユタはふさぎ込んでスカイウェイの窓からの眺めを見つめていたが、家が近づくと少し心が落ち着いた。スカイウェイを降りて、家に帰ると、リリアンはいなかった。彼女は湖の畔のホテルに泊まりに行ったということだったが、後で分かったのは、ナユタに気を遣ってということだった。

 アミティスが、

「今日はこの後どうなさいますか?」

と聞くので、ナユタは

「いつも通りにするよ。」

と答えた。

「じゃあ、まず、露天風呂にでも。」

 そう言って、アミティスは着替えを用意してくれた。ナユタが露天風呂から上がると、アミティスはベランダにシャンパンを持ってきてくれた。ビハールで初めてアミティスに出会った日に出されたシャンパンと同じシャンパンのようだった。

「これはビハールの最初の日のシャンパン?」

 そう聞くと、アミティスはいつもの涼やかな笑顔で答えた。

「ええ、そうです。『月を待つ』という名前なんですよ。」

「月を待つか。良い名前だね。アミティスは初めて会った日のことを覚えてる?」

「ええ、もちろん。あの日、ドレッシェルさんの後ろからナユタさんがまるで他人の家に入るようにおずおすと入ってこられて。でも、素敵なご主人様だと思いました。」

「ありがとう。」

 そう言うと、アミティスはいつものようにほっぺを赤らめて笑顔を見せた。いつも変わらぬアミティスとの懐かしい思い出だった。

 夕食ではアミティスが寿司を握ってくれた。アミティスは、鯛、ハマチ、ヒラメ、サンマ、ニシン、エビ、イクラ、ウニ、アワビなど豊富なネタを用意していて、ナユタの希望のままに次々に寿司を握り続けた。

 食事が終わると、ナユタはベランダに座り、アミティスにワインとチーズを持ってきてもらった。ひとりで星を眺めると、

「真理なんて存在しない。結局、自分の心を満たせるかどうかということに過ぎないのではないか。」

という思いがした。

 まったくその通りだった。そして、真理がないから、宇宙の底でひとりの者として、天の星を見上げるほかないのだ。

 心の中を縹渺たる風が吹き抜けたが、その風は、何となく、心の中に清々とした気分も運んでくれた。

 そのとき、アミティスが一枚の絵画をもってきた。

「リリアンさんから頼まれたんです。」

と言って、彼女はその絵をベランダに置いた。彼女が一緒においたプレートに、「天の底で」という題名が書いてあった。

 夜空の中で、ライトの下で浮かび上がるその絵は不思議な印象を与えた。画面のほとんどは真っ黒な空とその空に輝く星の点で占められていた。ただ、画面の下の端にかすかに何かがうごめいている。そんな絵だった。まさに、天の底でうごめく自分たちの存在を暗喩するような絵画といってよかった。

「でも、作品は存在する。」

 そうナユタはひとりつぶやいた。

「だから、音を奏で、絵を描くのだ。」

 そういう思いも浮かんできた。でも、それだけ。それも空かもしれないが、心の奥底から湧き上がってくる何ものかに突き動かされて音を奏で、絵を描く。ただ、それだけなのだ。それが真実だった。

 結局、自分たちは心に宿る衝動に突き動かされて行動しているに過ぎない。純粋で高貴なものであれ、卑俗なものであれ、それが真実だった。そして、そこに横たわる真理は、実に、空という以上のものではなかった。そして、パキゼーはそれを見抜き、そして一切は空と言ったのだ。一切は空ということ、それこそが本当の真理なのだ。

 だが、そう思ったとき、ナユタの心に浮かんだのは、

「真理を生きるなんてことはできはしない。」

という思いだった。

 バルマン師が言った通り、真理が空である以上、真理を生きるなんてことはできはしない。真理を生きるというなら、それは、空を生きるということであり、空と生きるということは根本的に相容れないではないか。生きるとは、すなわり、何かを為すことであり、その時点で、それは空から離れるではないか。

 

 そんなことを数日心に巡らせていると、突然、再びハーディがやってきた。風の館で落ち合い、席についてワインが注がれると、ナユタは唐突に言った。

「真理を生きるなんてことはできはしない。」

 ハーディは、

「それはそうですね。」

と言って笑ったが、真顔に戻ると次のように言った。

「だけど、虫たちの生き方は、ある意味、空そのものだと思えるが、いかが。すなわち、虫たちは、価値観だとか、自分の思想だとかに基づいて生きているのではなく、ただ単に、自分の中に組み込まれ、自分に定められたところのものを単に生きているに過ぎません。すなわち、単に空を生きているに過ぎない。」

「なるほど。」

「だから、真理を生きるとは、すなわち、定められたものをただ生きるということでもあるわけです。自ら選んだり、決断したり、目指したりするのではなく、単に、自らの内に定められているものに従って生きるということでもあるわけです。」

 この言葉に、ナユタはあまり同意できないという表情を見せて、言った。

「そんなことを言うなら、ほとんどすべての存在者はそうやって生きている。すなわち、自分の内にあるもの、それは定められているものとも言えるし、それに従って生きている。」

「その通り。だから、すべての者は、ある意味、空を生きているとも言えるわけさ。言い換えれば、彼らが生きているそのすべてが空と。あなたは同意しないでしょうけど。」

 ナユタはちょっと考え込みながら言った。

「その考えに基づくなら、真理を生きるとか、真理を求めるということが、もっとも空から離れていると言える。」

「その通り。」

 そう言ってハーディはワインを傾けたが、続けて言った。

「でも、真理を求めるのが、定められているものというなら、その道も歩くのもまた空を生きていることになるのでは?」

「訳が分からなくなってきた。」

 この言葉を聞くとハーディはからからと笑った。

「世の中なんてそんなものだということ。この世界なんて、それだけのものに過ぎないということさ。」

 そう言うと、ハーディはさらにワインを傾け、真顔に戻って言った。

「そもそも、神々が創造した人間たちの世界にしろ、この我々自身の世界にしろ、およそ、その中の存在者は、何の因果かその世界に放り込まれているに過ぎない。そして、その世界の中で、ある者は何か目標に向かって努力する自分についての自己イメージに心を満たし、また、ある者は、素敵な生き方をする自分、あるいは幸せだと感じている自分についての自己イメージに心を満たしているに過ぎない。さらに、別の者は、家族とか、家とか、社会とか、国とか、会社とかといった自分が属する共同体に貢献する自分についての自己イメージで心を満たしている。まあ、それもさっき言ったような議論に基づくなら、自らの内にある定めに従っているだけであり、だから、空を生きているということにもなる。だけど、それが真理を生きていることになるのか、それが真の生き方かというなら、おれの直感ではノーだ。」

 ちょっと興奮気味にここまで言うと、ハーディは、

「もうこの話は止めよう。おれも異端者、あなたも異端者。それだけのことですよ。」

と言って、新しいワインボトルを注文した。

 彼の言葉はたしかに、ある意味、真理だったかもしれなかった。

 ハーディは言った。

「それより、この世界のもう一つ重要なことは男女間のことですよ。ある意味、あなたはそれから離れた位置にいすぎる。もっと、世の普通のことの中でも生きてはどうかと思いますがね。」

 この言葉を聞いて、ナユタは先日、ヴィカルナ聖仙を訪ねた際に見たミトゥナ寺院の話をした。

「それは良かった。それがある意味、世界の本質の一つですからね。中に、リンガとヨーニの結合があったでしょう。」

 ハーディは笑いながらそう言うと、さらに続けた。

「あそこの離宮では、なんでも、最も求めている異性と交わることができると秘かに言い伝えられていますよ。ご存じないですか?」

 ナユタは知らないと答えたが、この前、ユビュと交わったことがまさにそれだと思い至らざるを得なかった。

 だが、ハーディは真顔に戻ると言った。

「さっき、ぼくが言ったことと矛盾するかもしれないが、男女のことは我々にとって極めて重要な要素だが、でも世界の本質じゃない。それは我々自身の性質として深く植え付けられているが故に極めて重要で、ほとんど本質的なことに思えているに過ぎない。世界の本質はまさにさっきぼくたちが話したとおりさ。ただ、我々が生まれてくる契機はまさに男女間の交わりであり、それ故に、この世界が成り立つため、この世界を維持するためにはそれが必要なんだ。だから、この世界の創造者は、それを我々の心の中の極めて根源的なところに宿らせているに過ぎない。」

「男女のことは世界の本質ではない。その通りだな。」

「そうさ。世界は幻影だが、男女にまつわることこそ最大の幻影の一つだよ。」

 そこまで言うと、またハーディは表情を緩めて言った。

「だけど、男女のことはぼくたちの心の奥底深くに宿っているが故に、それに身を任せるのもある意味、健全だと言える。それは世界の本質とは何の関わりもないかもしれないが、ぼくたちの精神の健全さのためには重要なことと思えるよ。ナユタさんにはなかなか同意してもらえないとは思いますがね。」

 そう言うと、ハーディはナユタと自分のグラスにワインを注ぎ、グラスを掲げて言った。

「ナユタさんは同意しないかもしれないけど、一度だけ乾杯してくれますか?世界の本質ではない異性への邪念に乾杯。」

 この言葉にナユタも微笑み、グラスを合わせると、ハーディはまじめな顔でナユタの眼を覗き込みながら言った。

「でも、この世界は空であり、幻影に過ぎないとしても、空を生きることなんてできないと思いませんか。結局、神にしろ人にしろ、幻影に依拠することなしに生きることはできない。幻影に依拠することなしにはいかなる行為も行うことができない。そう思いませんか?」

 まさに、その通りだった。そして、この宇宙を生きて悟ったこと、見出したこと、たどり着いたことが、まさにそのこと、幻影に依拠することなしに生きることはできない、という真実だったかもしれなかった。

 ハーディはなかば独り言のように続けた。。

「結局、この世界なんて、つまらない世界さ。神々もそしてかつての創造された世界での人間たちも、結局、この世界の内のものに囚われ、世界を内から見て、自らの生き方を創造しているに過ぎない。」

 ナユタも言った。

「それに、神々も人間も結局は自分の内にあるものに縛られているわけだしな。」

「その通り。だから、自分たちが認識する世界の姿は世界の真の姿からはまるでかけ離れた虚構でしかない。まさに幻影というべきものだ。だからつくづく思うよ。この世界はつまらない世界だってな。」

 ハーディの言う通りだった。ハーディと別れて家に帰ると、結局、この世において極めねばならないもの、求めねばならないもの、なさねばならないものはもはや何もないという思いに突き当たった。たしかに、まだ心を惹きつけるもの、心をときめかせるものはあるかもしれない。けれど、それも実は幻影であり、世界はただ混迷するだけであり、何かを為したとしても本質的に意味などあるわけがなかった。

 そんな思いでナユタはハーディの詩集を取り出してページをめくると、ある詩の断片が目に留まった。

  宇宙で響く音の断片を拾い集め、

  その音たちの列をキャンバスの上に塗り込む。

  その音は、欲望が渦巻くこの遊星のざわめきなど意にも介さず、

  ただ奔放に鳴り響き続ける。

  そして、その音たちに共鳴するのは、

  荒野で打ち捨てられた石たちの押し黙ったままのまなざし、

  ぼくたちの中で荒れ騒いでいるこの世界を突破しようとする途方もない試み。

 ハーディの詩を読み返してみると、彼の詩はこの世界に対する反抗、この世界への挽歌なのだということが改めてよく分かった。それはこの世界を創った何ものかに対する反抗と言っても良かった。

 その何ものか、それは絶対者あるいは創造主かもしれなかったが、冷酷なまなざしを持った絶対者、無慈悲な創造主、この世界の混乱を喜悦に満ちた心で眺め、平然として世界を破壊する何ものかなのだ。

 だから彼はその者と戦う。この世界をこのようなものに創った創造主、存在することの真の意味を決して見出すことのできないこの世界を生み出した絶対者と戦いのだ。

 彼は決して世界の現実を肯定しない。この世界を賛美もしない。彼にとってこの世界はただ瓦礫に等しいが無意味に積み上がっただけの世界に過ぎないからだ。

 だが、その戦いは必ず潰える。それが彼の詩なのだ。彼はむなしく詩を綴るだけ。無意味かもしれないがそれだけが彼にできる唯一の反抗なのだ。それは、この世界に生まれてきたことに対する反抗、この世界に存在せしめられることに対する反抗なのだ。

 だから彼は反存在の世界で、荒野に藩祭の煙を上げ、誰でもないものにたちに祈りを捧げるのだ。そして、それは、この宇宙に真音が響いていることを信じ、その音を石たちと共に鳴り響かせようと試みるナユタの道にも通じている。

 でも、ハーディはそれらすべてがただ他愛ない戯れに過ぎないことを知っている。だから、彼は詩を作るのかもしれなかった。それがアウトサイダーとしての彼の生き方だった。世の者たちのようにこの世界を肯定し、この世界を楽しむことを是とする生き方や世の良識に同調できず、それを否定する生き方。それは世の者たちと同じ道を歩くことのできない異端者、異邦神としての生き方でもあった。

 

 次の日は、朝から雨だった。ナユタはひとり家を出て、傘を差して雨の高原を歩いた。山には雲がかかり、さらに低い高さで白い雲が横にたなびいていた。

 黙々と高原を歩くと不思議と心が静められる思いだった。ナユタの心は混乱していたが、世界はいつも通り、静かに落ち着いて佇んでいるのだ。池の畔の東屋にやってきて腰を降ろすと、かつてのマティアスのことが思い出された。淡々と音を砕き、新しい音を探し求めていたマティアスの姿と彼が響かせた偶然の音楽がナユタの中で鳴り響いた。

 マティアスの夢に灯明を灯し、彼の砕いた音たちを探し求めよう。そんな思いを心に巡らせながら、ナユタは池の畔の東屋に座ってしとしとと降り続く雨の音に耳を傾け続けた。小さなトンボがやって来て、水辺の木の上に止まった。

 空からしたたり落ちる音たちの破片。彼の見た偶然の向こうにある世界がナユタの中でかすかにうごめく時間だった。

 

2020618日掲載)


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向殿充浩 / 神話『ブルーポールズ』第7巻