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神話『ブルーポールズ』

【第7巻】-                                                   

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 ハーディの言ったことはナユタの心に焼き付いた。たしかに、ナタラーヤ聖仙とヴィカルナ聖仙に会うべきというのはその通りだった。だとしたら、ハーディの言う通り、まず、バルマン師に会わねばならなかった。

 ヴァーサヴァの館での戦い、マーシュ師の館での戦い以来、さまざまな形でナユタの道と絡み合ってきたバルマン師。そのバルマン師はナユタを支える武将であり、ナユタの最良の理解者であり、そして、ナユタを音の道に導いたまさに道師と言っていい賢者だった。

 自分の心の内に生まれた真理についての問いかけについて、バルマン師に教えを請わずによい理由などあるはずがなかった。

 オプトネットで連絡を取り、約束した日にナユタはスカイウェイに乗って、バルマン師の家を訪ねた。

 最近のバルマン師は、子供たちや若者に音楽を教える生活をしており、その活動は、ネットなどでも紹介されているのでナユタも知ってはいたが、実際にバルマン師の家を訪ねるのは、かつてここで修行し、音の道に導いてもらった時以来だった。

 その家はかつてよりも大きく立派になっており、スカイウェイを降りたすぐ目の前に立派な門があり、中に、広々とした庭や立派な建物が見えた。バルマン師がすぐに出迎えてくれた。

「久しぶりじゃな。元気そうでなによりだ。」

 そう言うと、バルマン師はナユタを門の中に招き入れ、庭を歩きながら、ここでの生活や活動のことを話してくれた。

「今は、若い者たちに音楽を教える生活をしておる。もっとも、年配者には教えんというわけではないがな。ただ、ここはビハールの芸術院とは違うので、もっと素朴なことを教えておる。」

「素朴なことと言いますと。」

「まずは音の基本。そして、わしらにとっては自明のことだが、そもそも真の音の道というものはこの世界、この自然と結びついている。だから、まず、この自然、この世界を知り、それに親しむことから始めておる。ビハールからグループで一週間とか泊まりがけで来る者たちもおるしな。そして、ここでは、ピアノやヴァイオリンのような一般の楽器を教えるのではなく、太鼓を打ち、石を打ち、鈴を鳴らし、石笛を吹くことを教えておる。それに、ビハールの子供たちにとっては、単に、この野山を駆けまわるだけでも貴重な経験だ。トンボやチョウと戯れ、野の花を摘み、せせらぎのメダカを覗き込むというのも大切なことだ。」

「そうですか。音だけでなく自然も学ぶというのは良いことですね。ここには自然があふれていますし。」

「ああ、そうじゃ。ビハールのような造られた自然ではなく、ほんとうの自然がある。昔の竹林もそのまま残っておるしな。だから、ナスリーンもときどきやってきて、手伝ってくれておるよ。この裏山の木を使って楽器を作るのを子供たちといっしょにやったこともある。みな、自分自身の楽器を作ってうれしそうじゃったな。」

「そうでしょうね。子供たちも生き生きしているように見えますね。」

 そう言って、ナユタは楽しそうな子供たちを眺め回した。少し歩くと、庭の中の池のほとりに東屋があった。バルマン師は東屋で腰を下ろして言った。

「さて、ところで、今回は、何か教えを請いたいとか言うことじゃったかな。」

 この問いに、ナユタは言った。

「不遜な思いかもしれませんが、私の心の中に、パキゼーは正しかったのかという疑問が疼いています。たしかに、パキゼーの言う『一切は空』ということは真理だと思います。ですが、パキゼーの教えはそれに留まっておらず、その真理に基づき、とらわれずに生きること、執着を捨て、心の朗らかさの中で道を歩くことを教えました。たしかに、それは美しいことではあります。でも、それは正しと言えるのでしょうか?それは結局、心の平安と安らぎを求め、そのような道を歩く自分のあり方を是としたいという生きている者の業に過ぎないのではないかという疑問が心の内に疼いているのです。」

 バルマン師はこの言葉に静かに耳を傾けたが、答えて言った。

「パキゼーは『道もまた空である。』と言ったのではなかったかな。だとしたら、道はパキゼーが教え諭した道だけではないのだろうな。」

「その通りです。だとしたら、未知なるものに向かって問いかけ、世界の真の姿に向かって問いかけ、世界のあり方について問いかけるという道もあるのではないかという思いが心の内にあるのです。それは創成主への反抗かもしれませんが、それをなしてはならない理由はないようにも思えます。」

 バルマン師はこの言葉にうなずいて言った。

「そのとおりかもしれんな。だが、ひとつ、別の問いに答えてくれるかな。」

「ええ、もちろん。」

「では訊くが、そもそもおまえはいかに生きてきたのであろうか?わしが思うに、おまえはおまえ自身の内から出てくるものに突き動かされて生きてきたように見えるが。」

「その通りです。まさに、私は自分の中から出てくるものに従って生きてきたと言えると思います。ヴァーサヴァの創造に対するときもそうでしたし、ルガルバンダに対するときもそうでした。バルマン様から音の道を学んだのもそうだと思います。ただ、思い出してみますに、その根底には、真理への思いというか、本当のもの、正しいものを目指し、そこに到達したいという思いがあったと思っています。」

 この言葉にバルマン師は大きくうなずき、そして言った。

「そうであろうな。だが、ここで大事なことを見落としてはならない。」

「大事なこと。」

「そうだ。すなわち、この世に生を受けたもので、およそ、真理に基づいて生きた者は存在しない、ということだ。」

「真理に基づいて生きた者は存在しない。」

 鸚鵡返しにそうつぶやいたナユタに、バルマン師は続けた。

「そうだ。いかなる人間もいかなる神もすべて、その心の奥底から出てくるものに突き動かされて生きているに過ぎぬ。真理を見極めたパキゼーですらそうだ。彼は、たしかに真理を見い出した。だが、その真理に基づいて生きたわけではなかった。一切は空という真理に立脚するなら、その為すべき行為は無行為ということにしかなるまい。しかるに、彼は、一切は空という真理を見い出した後も、その真理を説き続けた。もちろん、そこには、ナタラーヤ聖仙の力があったのだろうが、ともかく、パキゼーは、法を説くことで、そのこと自身によって真理から離れて生きたとしか言えないだろう。」

 ナユタが納得してうなずくのを見ると、バルマン師はさらに続けた。

「真理は存在するかもしれぬが、およそ真理を生きることはできないのだ。だから、その真理に拠って生きるというような、生きる礎となるような真理は存在しない。そして、それもまた真理なのだ。」

「その通りかもしれません。ですが、そうしますと、そのような世界の中でどう生きてゆけば良いのでしょうか。いかなる生き方が優れたもの、正しいものと言えるのでしょうか?」

 この質問に対し、バルマン師は柔和な笑顔を見せて答えた。

「それに対しては、パキゼーが既に答えている。優れたもの、正しいものになりたいということ自身が一切は空という真理から離れた愚かな迷妄に過ぎないということだ。だから、どう生きれば良いかということに対する真の答えはない。そして、真の答えがないというのもまた一つの真理。まさに、おまえの『真理は存在しない。』という思いと付合するだろう。結局、我らは真理を知ることはできるが、それを生きることはできないということだ。」

 ナユタが考え込んでいるのを見て、バルマン師は言った。

「今日の対話はおまえが望んでいた答えを与えてはいないようだな。だが、わしにはこれが限界だ。あと、わしにできることは音のみだ。久しぶりに音を奏でんかね。」

 この言葉にナユタが同意すると、バルマン師はナユタと供にいくつかの楽器を持ち出し、池の畔の広場に座った。バルマン師はナユタに五弦の楽器と弓を渡し、自らは鼓を並べて音を打ち鳴らした。大気の中に拡散してゆく鼓の乾いた音にナユタの弦の音が重なった。天の底で、真理を目差す心で打ち鳴らされる縹渺たる音が延々と続いた。どこにも真理のない大地に、ただ何かを求める希求の思いだけが交錯するような音楽だった。

 音を奏で終わると、バルマン師が言った。

「さっきも言ったが、これがわしの限界だ。それ以上のものを求めたいなら、世界の根源について突き詰めるほかあるまい。例えば、もう一度、ナタラーヤ聖仙に会うのも手かもしれぬがな。」

「たしかに、できることならもう一度ナタラーヤ聖仙をお訪ねし、世界の由来について問いかけてみたいという思いを持っています。ただ、ナタラーヤ聖仙にお会いできるものかどうかは分かりませんが。」

 バルマン師は含みを持たせた笑いを浮かべて言った。

「会えるかどうかについて言えば、あまえが会いたいと思えば会えるじゃろう。かつて、ルガルバンダとの戦いの前にもおまえはナタラーヤ聖仙を訪ねた。その時と何も変わってはおらぬ。おまえが望むなら、お訪ねするための道は見つかるはずじゃ。だがな、」

 そう言葉を切って、バルマン師は静かに諭すような表情で続けた。

「たしかに、お会いして無意味ということは決してあるまい。ただな、おまえが答えを得たいというものについて、お会いして得られるかどうか、それは分からぬ。ともかく、お会いすることは悪いことではない。会いに行ってみると良いだろう。」

 バルマン師の言葉は曖昧だったが、ともかく、ナユタは再びナタラーヤ聖仙を訪ねることにしたのだった。

 

 ナタラーヤ聖仙とは、前回の創造が滅した後、ナタラーヤ聖仙が森に住むナユタのもとに来てブルーポールを授けて以来会っていなかった。バルマン師が言うように、その後、永遠の円環の中に佇んでいるその聖仙に再び会っていただけるのかどうか。

 ナユタはかつてと同様、祭壇の前で祈りを捧げた。するとすぐに道が開けた。かつてナタラーヤ聖仙を訪ねたときの道だった。しかし、その道を登ってゆくと雪が降り始め、しだいに激しい吹雪となった。あまりに激しい吹雪にこれ以上進めなくなってふと見ると小さな洞窟があった。ナユタはその洞窟に入って雪を払ったが、かつてユビュが初めてナタラーヤ聖仙を訪ねたときに留まったと言っていた洞窟のようにも思えた。

 ナユタはそう思い至ると、ともかく、洞窟の中に腰を下ろした。それから何日もナユタは洞窟に留まったが吹雪は一向に止まなかった。なぜ、今回はこんなに吹雪なのか、それは分からなかったが、ともかく、待ち続けるしかない。ナユタはそう考えた。まさに、最初にユビュがナタラーヤ聖仙を訪ねたときと同じ状況なのかもしれなかった。

 何日か経ったある日、ひとりの老神が洞窟に入ってきた。ナユタに気付くと老神は言った。

「今日もひどい吹雪じゃのう。ところで、おまえさんはどこから来なさった。」

「ナユタと申します。ナタラーヤ聖仙に会うために下界から参りました。」

「ほう、ナユタか。名前は聞いておる。しかし、ナタラーヤ聖仙はご自身がお会いになろうと思わなければ、会われんじゃろうな。会う気があれば、聖仙自ら会いに行かれることもあるがな。今は誰ともお会いになる気はなさそうだがな。」

 この言葉を受けて、ナユタは恐る恐る尋ねた。

「あなた様はどういう神でいらっしゃるのですか。できましたら、ナタラーヤ聖仙とお会いできるよう取り計らっていただけないかと思いますが。」

 老神は大きく笑って答えた。

「わしはバギーラタという世捨ての神じゃよ。だが、わしに、ナタラーヤ聖仙とのことを取り持つ力などどこにもない。」

 バギーラタ。かつてユビュから聞いた話によれば、バギーラタはナタラーヤ聖仙自身ではなかったか。だが、目の前にいるバギーラタの顔はナタラーヤ聖仙ではなかった。姿かたちも変えているということだろうか。

「失礼ながらお聞きしますが、バギーラタ様はナタラーヤ聖仙でいらっしゃるのでは?」

「はっはっはっはっはっ。」

 バギーラタは大きく笑った。

「わしはわしじゃよ。わしが、かの高貴なナタラーヤ聖仙であるはずなどあるわけがあるまいが。」

「しかし、かつてユビュがナタラーヤ聖仙をお訪ねしたとき、ナタラーヤ聖仙はバギーラタと名乗って、吹雪の中、洞窟に留まっていたユビュの前に現れたと聞いております。」

 バギーラタはなるほどという表情を見せ、続けて言った。

「そう言えば、あのときは、ナタラーヤ聖仙がわしの名を語ってユビュの前に現れたそうだ。だが、今日は、わし自身じゃ。ほんとうのバギーラタはこのわしなのでな。」

「そうですか。でしたら、どうすれば、ナタラーヤ聖仙にお会いできるか、ぜひとも教えていただきたいのですが。」

 この問いに、バギーラタはからからと笑った。

「さっきも言ったが、そんなことは分かるわけがない。そもそも、どうすればナタラーヤ聖仙にお会いできるかは難しい問題だ。ナタラーヤ聖仙が自らお会いになろうと思われれば会えるが、そうでないとしたら、どうすればよいか。以前、ユビュが訪ねてきたときはナタラーヤ聖仙はお会いになるつもりでこのわしの名を語ってユビュの前に現れた。また、その後、たしか、おまえ自身もナタラーヤ聖仙に会いに来たな。」

「ええ、そうです。ただ、そのときは、この道は簡単に山頂の祠に通じており、その祠でナタラーヤ聖仙にお会いすることができました。」

「だが、今回はそうではない。道は吹雪で閉ざされておる。ナタラーヤ聖仙はお会いになる気はないということではないかな。」

 この言葉にナユタは表情を暗くしたが、それでも言った。

「かつてユビュは道が開けるまでこの洞窟に留まり続けたと言います。私も、今回、お会いできるまでいつまでも待つつもりでやって参りました。」

 軽い困惑の表情を浮かべて、バギーラタは言った。

「それは勝手だが、それでは、永劫の宇宙の終焉の時まで、この洞窟に留まり続けることになるかもしれぬな。」

「それならば、それが定められた道なのかもしれません。」

「なら、そうするほかないな。」

 このバギーラタの返事にナユタはちょっと表情を曇らせたが、気を取り直したように言った。

「私はこの世界のことにまだまだ通じておりません。バギーラタ様のことも十分に分かってはおりません。せっかくの機会なので、ぜひバギーラタ様のことを教えていただけないでしょうか。バギーラタ様は、かつて、激しい苦行によって、ガンガー女神を天から大地に降ろすことをブラフマー神とシヴァ神に同意させたと聞いておりますが、そのこともお聞かせ願えませんでしょうか。」

 バギーラタはちょっと微笑んだ。

「そうか。なら、その話でもするか。何と言っても、時間はいくらでもあるからな。」

 そう言うと、バギーラタは話し始めた。

「はるか昔のことではあるが、インドラが邪神ヴリトラを滅ぼしたとき、ヴリトラとともに戦っていたカーレーヤという魔神が海に逃れたのじゃ。命からがら海に逃げ込んだカーレーヤは三界を破滅させるために考えた。

『世界は、学術と修養を積んだ者たちによって支えられ、維持されている。彼らを殺せば、世界は自ずから滅する。』

 そう考えたカーレーヤは夜になると隠棲処に押し入っては、聖仙たちを殺して回った。人々は恐怖に駆られて逃げ散り、そのため、ヴェーダの学習や祈禱は絶え、祭儀は行われなくなった。世界はまったく活力を失ってしまったのじゃ。勇敢で誇り高い戦士たちはカーレーヤを求めて探し回ったが、海の中にいるカーレーヤを見つけることはできなかった。世界がまさに滅びそうだという危機に瀕して、神々はヴァイクンタに住むヴィシュヌを訪ね、窮状を訴えた。その話を聞くと、ヴィシュヌは告げた。

『カーレーヤは世界を滅ぼそうとしているが、彼は海の中に潜んでいる。カーレーヤを倒すためには、まず、海をなくさねばならない。それができるのは、アガスティヤ仙だけだ。』

とな。それで神々はアガスティヤ仙の隠棲処を訪ね、この偉大な聖仙を讃え、海をなくして欲しいと頼んだ。この依頼を受けてさっそくアガスティヤ仙は海へ行くと、宣言した。

『世界の安寧のために、私は海を飲み干す。』

 アガスティヤは一気に海の水をすべて飲み干し、これによってカーレーヤは隠れ場を失い、神々に倒された。だが、海の水がすべて飲み干されたため、大地は干上がってしまったのじゃ。困惑した神々はアガスティヤ仙に海の水を戻すように頼んだが、聖仙は言った。

『私はすでに水を消化してしまった。だから、水は戻しようがない。』

 これを聞いて、神々は驚き、そして困惑した。神々はインドラ神のもとを訪れてなんとかならないかと頼み込んだ。すると、インドラ神は神々の願いを聞き、こう答えた。

『ヒマヴァットとメナカーの長女であるガンガー女神を天から大地に降ろすより他に世界を救う道はない。それができるのはバギーラタという神だけだ。』

 それで彼らはわしのところに来て、天上のガンガー女神を地上に導いて欲しいと訴えてきたのじゃ。だが、天に住まう女神ガンガーを大地に降ろすのはたいへんなことで、少なくとも、それにはブラフマー神とシヴァ神の同意と助力なしにできるものではないと、わしは言った。だが、神々はそれをわしの力でなんとかやって欲しいと頼んで引き下がらなかった。」

「それで、それを引き受けられたわけで。」

「ああ、誰もできぬと言うのだからしかたがない。だが、ブラフマー神とシヴァ神の同意を得るというのはたいへんなことでな。それで、わしは、ゴーカルナという聖地に赴き、両腕を上げ、立ったまま千年を過ごすという苦行を行ったんじゃ。たいへんな苦行だったが、ブラフマー神はそれを嘉し、ガンガー女神の降臨に同意してくれた。だが、ブラフマー神は同時に、シヴァの恩寵が不可欠だと言った。なぜなら、ガンガー女神の巨大な水が天から大地に落ちるならば、その力は大地をも砕きかねない、その巨大な水の力を受け止めることのできるのはシヴァ神しかないというわけじゃ。」

「それで、シヴァ神の恩寵を得るためにさらに苦行を続けたわけですね。」

「ああ、そうじゃ。ブラフマーは至高の神シヴァが心を揺さぶられて天上の座を動くまでさらなる修行を続けよと諭したからな。だがシヴァ神は神々の中の第一の苦行者だ。シヴァはヒマラヤの頂上に輝かしく孤独に座しており、世界の事どもに関心を持たず、純粋で完全なる瞑想に没入し、水晶のように明晰な至高の空に浸っておる。だから、わしは、ヒマラヤに行き、断食を行い、最終的には霞だけで生き、両腕を広げて一本足で千年立ち続けるという苦行を行った。そして、ようやくシヴァ神の同意を得ることができた。シヴァは姿を現して言った。

『さあ、ヒマラヤの娘である大河の女神ガンガーに祈れ。彼女が天から落下するとき、私が受け止めるであろう。』

 わしが祈ると、ガンガー女神は天から勢いよく飛び降りた。ガンガー女神が天から降下すると、巨大な水柱が天から落ちてきたが、シヴァ神はそれを受け止め、多数の支流に分けて穏やかな流れとして大地に流れさせたのじゃ。」

 この話が終わると、ナユタはさらに別のことを聞いた。

「かつてユビュから、ここは神界とその上の無上界とを分け隔てる結界だと聞きました。先ほどの話はどの世界でのことなのでしょうか?」

 バギーラタは軽く笑った。

「当時は必ずしもその分け隔ては明確ではなかった。神界と無上界が明確に分かれたのは、ガンガー女神が降臨してずっと後のことじゃ。神界とはすなわち神々が住まう下界であり、無上界は永遠の円環に繋がる世界でブラフマー神、シヴァ神、ヴィシュヌ神がいる世界だ。そして、ここはその二つの世界を隔てる結界の一つというわけじゃ。その分け隔てができた時、わしは、ガンガーを降臨させた功績によって下界ではなくこの結界の住人なったのだ。以来、ずっとここに住んでおる。」

「では、バギーラタ様は下界にも上界にも行かれたことはないのですか?」

 バギーラタは大きく笑った。

「行ったことは一度もない。わしはこの結界の住人なのでな。だが、だからと言って下界や上界のことを何も知らぬわけではない。下界のこともだいたい分かっておるしな。」

「バギーラタ様はどのような方法で下界の情報を取っていらっしゃるのですか?」

 バギーラタはまた大きく笑った。

「下界では、ネットとかテレビとかそんなもので情報を取っておるらしな。だがな、ナユタ。我ら神々にはそもそも神通力というものがあるのを忘れているのではないかな。わしは下界ではやりの通信機器など何も持ち合わせておらぬ。そもそも、下界の情報機器から発せられる信号が空間を伝ってここまで届くかどうかも分からんしな。だが、神通力をもってすれば、大概の様子は分かるというものじゃ。もっとも、神通力を有する神も減り、神通力を使う神は最近ではほとんどおらぬようだがな。」

「そうですか。では、ぜひ、下界に関するバギーラタ様の見解をお聞かせいただきたいのですが。」

「ナユタ。噂には聞いておったが、おまえは噂通りの青二才の神のようだな。そもそもなぜ下界と言うか。それは低位の世界だからではないか。所詮、上界よりも、そして、この結界よりも低位の世界のことなど本質的な興味などあろうはずもない。たしかに、様子は分かるが、いつものごとく愚かなことをやっていることよ、という以上には言いようがないな。」

「おっしゃることは胸に響きます。率直なご見解をいただければと思いますが、私がその下界でなしてきたことも愚かなことの一部でしょうか。」

「まっ、その通りだな。だが、それは結界に住むひとりの世捨ての老神の見方に過ぎん。少なくとも、ナタラーヤ聖仙はそのようには見ておられなかったろうな。ナタラーヤ聖仙もヴィカルナ聖仙も、その下界で創造を行い、また、前々回の創造の後、何かと下界に関わられてきたからな。だが、下界が変化に乏しい定常的世界となった現在においてなおナタラーヤ聖仙が下界に意を持たれているかどうかはわしにも分からぬ。おまえが会いに来ても、前回のようには会ってくださらないわけだからな。」

「ただ、今回、こうしてナタラーヤ聖仙をお訪ねしてきたのは、決して下界のことで来たのではありません。この世界の本質、この宇宙の根源的なことどもについてうかがいたくて参ったのです。」

「世界の根源的なことか。それもまた、おまえが青二才の神だということを如実に表しておるな。わしは上界のこともある程度は知っておるし、世界の根源について何も知らぬわけではない。ただ、語るべきものは何もない。」

「どうしてですか?」

「それはわしが結界の神に過ぎんからじゃよ。結界には結界の掟がある。だから、わしは語ろうとは思わぬし、もし、語ろうとしても、わしの口から言葉は出てこんじゃろうな。」

 そう言うと、バギーラタは立ち上がった。

「これ以上、話をすることはなさそうじゃな。わしはもう行くよ。ここで待ち続けても無駄かもしれんが、敢えて言うなら、おまえの真摯な思いをぶつけてみるほかないということであろうな。」

「それには、どうしたらよろしいのでしょうな?」

「さあな。それはわしにも分からぬ。ただ、おまえは音楽を奏でるのだろう。おまえの真音を奏でてみるとかかな。それが功を奏するかどうかはまるで分からぬがな。」

「ありがとうございます。」

 ナユタがそう言って頭を下げると、バギーラタはあっさり、

「ではな。」

と言って、吹雪の中に消えて行った。

 次の日、ナユタは洞窟にあった石を拾い上げては音を確かめた。決して素晴らしい音を発する石はなかったが、音が作れないわけでもなさそうだった。ナユタは、一つ一つ石を叩いては音を確かめ、その中からいくつかの石を拾い集めて並べた。

 その石たちの前に座り、音を奏でると、そばにおいていたブルーポールがかすかに発光を始めていた。ナユタは一心不乱に石を打ち鳴らした。

 そんな日を何日も繰り返したある朝のことだった。目覚めて、洞窟の外を見やると、雪が止んでいる。外に出てみると、雲の合間から青空も覗いていた。

「道が開けた。」

 ナユタはそうつぶやくと、ブルーポールを空にかざした。雲間から差し込む光がブルーポールにあたり、ブルーポールの鮮やかな青色が蘇った。

 雪の山道を登ってゆくと、雪山が朝日の中に光り輝いていた。あれほどの吹雪だったのに、どうして道の上の雪がほとんどないのか不思議だったが、それもナタラーヤ聖仙の秘められた力に由来するのかもしれなかった。

 山頂に着くとかつての祠があった。かつてここでナタラーヤ聖仙と会ったのだった。その山頂から見渡すと、どの方向も真っ白な山脈が延々と続いている。見たこともない光景だった。

 そこに現れたのはナタラーヤ聖仙だった。ナユタは緊張して挨拶した。

「このようなところまで来て、申し訳ありません。この世界、この宇宙のことについてどうしてもお伺いしたくて、参りました。」

「そうか。」

 そう軽くうなずいて、ナタラーヤ聖仙は続けた。

「下界が変化のない定常世界になり、下界への関心は失せておったが、おまえの真音を聞いてな。わしがさらに語るべきものがあるかどうかは分からぬが、訊きたいことがあるなら訊くがよい。」

「ありがとうございます。」

 そう言って頭を下げ、ナユタは語り出した。

「私はいかなる理由か分かりませんが、下界にて生を受け、今日まで、自らの信ずる道に従って道を歩いて参りました。しかし、聖仙のおっしゃるとおり、下界が変化のない定常世界になって以降、自分は何をなすべきなのか、思い迷っておりました。しかし、そのような思いも持ちながら世界を改めて見ますと、実に、世界には未だ解き明かされていない謎が存在し、実に誰もこの世界の真の姿を知らないということに思い至りました。ある意味、私は真理を求めたいと思っておりますが、世界の真の姿も分からないでは、真理もまるで見えないのではないかということにも思い至りました。できましたら、世界の根源について、ナタラーヤ聖仙から教えを受けたいのです。」

「そうか。」

 そう言って、ナタラーヤ聖仙は小さくうなずいたが、しばらく考え込み、それからやっと口を開いた。

「それについておまえが知りたいとあらば、教えを授けたいが、実に、わしも世界の真の姿については何も知らない。」

 この言葉にナユタが驚いて言葉を失っていると、ナタラーヤ聖仙はおもむろに続けた。

「一つ言えることは、この宇宙はヴィシュヌ神とシヴァ神によって創造と破壊を繰り返しつつ進行しているということだ。真理について知りたくば、まずヴィシュヌ神とシヴァ神のことを知らねばなるまい。」

「ぜひ、それについてお聞かせください。」

「知っているとは思うが、わしはヴィシュヌ神に仕え、ヴィカルナ聖仙はシヴァ神に仕えた。シヴァ神のことはヴィカルナに聞くのがよかろうから、わしはヴィシュヌ神について語ろう。」

「ありがとうございます。」

「そもそも、ヴィシュヌ神は我々の想像もできない世界観によって宇宙を築いている。それは一切を生み出すものであり、それを生み出すこと自身がなされるべきことであり、そして、自然の成り行きとして生起するものであるといった宇宙なのだ。」

「なかなか簡単には理解しがたい世界観であり、宇宙であるように思えます。」

「その通りだ。その真の意味は我々には理解できぬ。なぜ、世界を創るのか。なぜ、世界を開始するのか。なぜ、何もないままにしておかないのか。我々にとっては、絶対者たるヴィシュヌの戯れとしか言えまい。そして、ヴィシュヌの意思によってか、定められた法則によってか分からぬが、すべてが滅するときが必ず来る。その時は、一切が無に帰し、この宇宙の中で生起したものがただ無に帰する。そのとき、この宇宙の中で真なるものがとか、真理とはと言ったところで、いかなる意味が残っておろうか。何もありはしない。ただ、ヴィシュヌの意思があり、シヴァの意思が輝いているだけだ。そして、ヴィシュヌもシヴァも我らのことなど一顧だにしはしない。彼らは宇宙の巨大な渦を見ているにすぎないのだ。一切が消え、一切は忘却の中に埋もれる。一切の生起したことどもも、一切の歴史、一切の偉大な芸術や文学や詩が、そのとき何をよりどころにするというのか。空でしかないではないか。そして、我らは絶対にこの世界から自由にはなれない。我らは世界に囚われているからだ。我らと囚人との根本的な違いなど存在しない。ただ、無限とも思えるほどの膨大な時間が我々の前に横たわっているだけだ。」

「では、ヴィカルナ聖仙においても、世界の謎は解き明かせていないということでしょうか。」

「その通り。わしにしても、ヴィカルナ聖仙にしても、結局は、ヴィシュヌが生み出した世界の被造物に過ぎぬ。」

「では、ヴィシュヌ神がいかなる理由、いかなる目的で世界を造ったのかも分からないということでしょうか。」

「そうだ。それに、ヴィシュヌ神が自らの自由意志で世界を造ったのかどうかすらも我らには分からない。この世界は、ヴィシュヌの夢から生まれたと言われるが、我々が自らの意思に関わりなく夢を見るように、ヴィシュヌもまた、自らの意思に関わりなく夢を見、その夢によって世界が生まれたに過ぎないかもしれぬからな。」

 ナユタは納得したわけではなかったが、今、ナタラーヤ聖仙が語ったことが語りうるすべてかもしれなかった。

 その様子を見たナタラーヤ聖仙は、柔和な笑顔を見せて言った。

「いずれにしても、世界はまだまだ未知なるものに満ちているということだ。だが、もっと秘密を知りたければ、この山を下りて、牧場のあるところで待っているとよい。わしに言えるのはそれだけじゃよ。ではな。」

 そう語ると、ナタラーヤ聖仙は忽然と消えた。

 ナユタはいぶかったが、そう言われた以上、山を下るほかなかった。ナユタは祠をあとにし、ひとり山道を下っていった。下るにつれ、次第に回りの雪が消え、周りの山に緑が広がってきた。山を下りきってしばらく歩くと、牧場が見えてきた。

「ここが、ナタラーヤ聖仙が言われていた牧場に違いない。」

 そう思って牧場に近づくと、牧場の中に立つ一本の桜がちょうど満開を迎えていた。桜の美しさと野に広がる緑の鮮やかさと遠くの雪山の白さが心に沁みた。

 その光景を眺めながら立ちつくしていると、そこに現れたのはなんとヴィシュヌの化身クリシュナだった。

 驚くナユタにクリシュナは言った。

「やあ、久しぶり。パキゼーの入滅の時以来だな。」

 ナユタは口ごもりながら言った。

「まさか、あなたに再び会えるとは。しかし、あなたは世界が壊れたり、創り直されたりするときにだけ現れるとか。なぜ、今、ここに来られたのでしょうか。」

 クリシュナは大きく笑って言った。

「私は何かに縛られているわけじゃない。私が行こうと思うところへはどこにでも行く。行きたい場所にいつでも私は現れるのだよ。」

「それはヴィシュヌの意思?」

「私はヴィシュヌであり、宇宙であり、この世界そのものでもある。それが私の答えだ。」

 このクリシュナの答えにナユタはどう返したらよいか少し迷ったが、ややあって言った。

「ではと言うか、ところでと言うか、今ここに来られたのはどんな目的、どんな意図で?」

 クリシュナは軽やかに答えた。

「世界が大きく変転する予兆があるからさ。」

「世界が変転する予兆?そんなものが今、この世界にあるのでしょうか。世界は平板な時間の上に平穏のままに在るように見えますが。」

「そんなことはない。おまえは世界の深奥を見ていないだけだ。」

「世界の深奥。では、その予兆とはどんな?」

「それはおまえが引き起こしているのさ。」

「私が?私は何もせず、ただ森で隠遁しているだけですが。」

 クリシュナは急に軽やかな口調を改め、真顔で言った。

「ヴァーサヴァの最後の創造が始まった時以来、この宇宙は実におまえとユビュを軸に動いている。だから、おまえとユビュのブルーポールからの発光は幾たびも世界を震撼させ、世界を動かしてきた。これからおまえが世界を動かすのかどうかは私は知らない。ただ、その予兆を感じ取った。だから、やってきたのだ。」

 この言葉にナユタは頭を下げ、心を引き締めて言った。

「では、どうか、私を教え導いていただきますように。」

 クリシュナはその言葉に微笑むと、

「まずはそこの石にでも腰を降ろそうではないか。」

と言い、ふたりが腰を降ろすと続けた。

「おまえは世界や神生について問い詰めようとしているらしいが、それに対するひとつの話をしよう。蟻の行列の話を知っているかね。驕慢になったインドラがヴィシュヌとシヴァの化身に自らの愚かさを諭される物語だ。」

 それはナユタもよく知っていた。ヨシュタがムチャリンダと対決した時、そこに現れたヴィカルナ聖仙が語った物語でもあった。

 ナユタが知っていると言うと、クリシュナは訊いた。

「その続きは?」

 ナユタは怪訝げな顔で聞き返した。

「続き?あの物語に続きがあるのですか?完結した話かと思っておりましたが。」

「続きがあるのだ。それを聞かせよう。」

 そう言って、クリシュナは、インドラの物語の続きを話し始めた。

「豪奢な宮殿に住み、栄華の極みを尽くしていたインドラは、ヴィシュヌとシヴァの化身によって自らの驕慢さと愚かさを悟らされた。ヴィシュヌとシヴァが姿を消した後、インドラは呆然とし、もはや、宮殿をさらに豪奢にしたいという欲望も、この栄華をさらに輝かたいという希望も消え失せていた。インドラは、宮殿を出て荒野で隠遁生活を始める準備を始めた。これに驚いたのは、美しく情熱的な王妃シャチ―だった。シャチーは楽器を取り上げて弾き、官能的な声で、愛より偉大な喜びはないと歌ったが、インドラは顔を背けた。シャチーはインドラを翻意させるべく様々な試みを行ったが、インドラの決意は固かった。宮殿の上には厚い灰色の雲が覆いかぶさり、庭では花が萎び、虫たちの声が途絶えた。夜の宮殿では灯火が消え、狼の遠吠えだけが聞こえた。麗しい王妃シャチーが悲しみに打ちひしがれたが、最後の望みを託して、宮廷祭司にして心の魔術師でもあるプリハスパティのもとに赴いた。艶めかしく哀切に溢れたシャチーはプリハスパティの足元に額ずき、夫の心を転向させてくれるよう心から懇願した。プリハスパティは機知に富んだ智謀家でもあり、かつてのインドラとヴリトラとの戦いにおいて、自らの呪文と策略によってインドラがヴリトラを倒す手助けをした神でもある。プリハスパティはシャチーを伴ってインドラの前に進むと、超越を目指す生活の功徳について真面目ぶって論じた後、次のように言った。

「しかし、世界というものは聖なるものだけでは成り立たないものです。美しく咲く可憐な蓮も実に真っ黒な泥土から生えてきます。泥土なしには蓮の花は咲きません。また、水清ければ魚棲まず、とも言います。清らかなだけでは、世界は回らないのです。実際、それによって栄華や繁栄が得られるものでないなら、誰が正義のために戦うというのでしょう。男性と女性というこの両極があり、異性が惹かれ合うということがなければ、どうやって世界が維持できるというのでしょう。どうやって世界が美しく創造的になることができるというのでしょう。」

 インドラがかすかにうなずくと、プリハスパティは続けた。

「あなたは、ヴリトラに対するあなたの勝利にふさわしいものとして、この宮殿の栄華と、美しく艶めかしい王妃との愛の営みを手に入れられた。それは正当なものであり、それを愛でることそれ自身が世界を維持し、世界を健全に育ませるためのものなのです。神々を救うための聖なる戦いでの勝利が、荒野での惨めな隠遁でしかないとしたら、今後、誰が、そのような戦いを行おうとするでしょうか。」

 プリハスパティはこのように諭して、世俗生活の功徳について論じた。この言葉を聞いて、インドラは極端な決意を改めた。インドラは、超越と世俗の二つの智慧によって、終わりのない輪廻転生の世界における自らの適性や役目を理解したのだ。

 プリハスパティが下がると、インドラはシャチーを抱き寄せてベッドへと運び、シャチーを裸にして大きく盛り上がった豊かな胸や美しく艶めかしい腹を心ゆくまで愛撫した。シャチーは喜びに震え、大きく喘ぎ声を上げた。インドラがシャチーの陰部をまさぐるとそこはぐっしょりと濡れていた。インドラの中の眠っていた欲望が膨れ上がり、インドラの男根は興奮で大きく反り上がった。インドラはそれをシャチーの奥処に深々と挿入し、激しく前後に動かし、ついにおのれの精をシャチーの女陰の中にぶちまけた。

 こうしてシャチー王妃は再び輝かしい喜びを取り戻した。宮殿では聖なる歌のしらべが流れ、若い女神たちが踊った。虹が王妃の髪を空になびかせ、シャチーの夢がまるで山を下るように大地におりていった。地上は再び若さと喜びの声を取り戻し、インドラを讃える聖なる祭りが祝われた。」

 蟻の行列の続きの話を終えると、クリシュナは再び軽やかな表情に戻って言った。

「この話が何を示唆しているか分かるかい。結局、神生の中で何かが本質的に得られるわけではないということだ。そのために生きるというそんなものは何もなく、ただ、時間の中でおのれの踊りを踊っているだけということさ。では、もう一つの世界に行ってみよう。ついてくるがいい。」

 ナユタが困惑しつつ黙ってクリシュナについて行くと、そこはかつて訪れたヴィカルナ聖仙の闇の都だった。

「ヴィカルナ聖仙は、以前、私のところに来られて、もう二度と会うことはない、とおっしゃいました。」

 ナユタはそう言ったが、クリシュナは足を止めることもなく軽く笑った。

「そうかい。聖仙がどういう意図だったかは知らないが、ともかく、この都も健在だし、ヴィカルナ聖仙も何も変わってはいない。ただ、今日は聖仙には会わないよ。」

 この言葉にナユタはちょっと驚いたが、何か言うよりも早く天女たちが舞い降りてきた。

「あら、クリシュナ様、お久しぶり。それに、今日はあのナユタさんもご一緒?」

 クリシュナが笑顔で答えた。

「ああ、これからおまえたちの離宮に行くところだ。案内してくれるかい。」

「ええ、喜んで。来ていただけてうれしいわ。しかも、ナユタさんまで。この前の時は、そっけなく、返事もせずに行き過ぎてしまわれましたものね。」

「前のことはいいじゃないか。さあ、ともかく行こう。」

 そう言うと、クリシュナはナユタを伴って、天女たちについて行った。

「天女たちの相手をして良いんですか?」

 ナユタは恐る恐るそう訊いたが、クリシュナは笑って答えた。

「ああ、良いよ。私が良いと言うんだから何も問題ない。」

 離宮に着くと、そこでは、涼やかな笑顔を浮かべた美しい天女たちが艶やかな衣装に身を包んで列をなしてふたりを迎え、花で飾られた広間には豪勢な料理が溢れんばかりに用意されていた。

「ぼくはちょっと用があるんで席を外すけど、存分に楽しんでゆくといい。」

 クリシュナがそう言って部屋を出ると、天女たちはナユタを囲み、酒と山海の珍味と音楽とで楽しませ、さらに、ナユタを浴場に誘った。浴場で天女たちの美しく柔らかな裸体と戯れ、欲情を吐き出して広間に戻ると、クリシュナがソファーにくつろいで待っていた。ナユタが横に座ると、クリシュナは、酒を勧めながら言った。

「これがこの世界だよ。ヴィシュヌはこの世界を維持しているが、誰かがこの世界を極めることは望んでいない。この世界に、正義と真理とが輝くことは望んでいるが、同時に、この世界の存在者たちがこの世界を朗々と生きることが望んでいる。」

「それは何のためなのですか?」

「世界を維持するためさ。」

「世界の維持がヴィシュヌの意思?」

「そうさ。この世界のものが世界の中で戯れること、それがヴィシュヌの意思だよ。そして、シヴァはその意思を受けて、ただ、己の役目として世界をときとして打ち壊しているに過ぎない。朗々と淡々と喜悦に満ちた心でね。」

「では、その世界に住まう者にとっての生きることの意味は?」

「そんなものは何もないよ。ナタラーヤやヴィカルナのような聖仙と言えども、結局は、己の心の内の欲求や衝動に突き動かされているに過ぎないわけだ。」

 そう言ってクリシュナは笑い、さらに続けた。

「おまえは天女たちと戯れ、何神もの天女の深膀の中におまえの精を吐き出しただろう。それが世界を維持するということの意味さ。ところで、さっき用があると言ったろう。おまえに会わせたい者を呼んできたんだ。別の部屋に待たせてある。ふたりで会うといい。」

 そう言うと、クリシュナは起ち上がり、ナユタを広間から連れ出した。クリシュナは廊下の突き当たりまで来ると、目の前のドアを指差して言った。

「この部屋の扉を開けて中に入るといい。」

「中には誰が?」

「入れば分かるさ。おまえが最も求めている神だよ。」

 ナユタは何か言いかけたが、クリシュナはナユタの肩を叩いて扉を開いた。

 ナユタが部屋の中に入ると、そこにいたのはなんとユビュであった。昔のままの清楚さと美しさを兼ね備えた乙女ユビュがにっこりとほほ笑んでいた。

 眠っていた何かがナユタの中で目覚めたような気がした。ナユタはユビュに近づくとそっと抱きしめ、熱く口づけした。

「ずっとこの時を待っていたわ。」

 そうユビュはつぶやいて、ナユタをじっと見つめた。

 ナユタがユビュの衣服をはだけ、かわいらしい乳房の先端にある乳首を吸うと、ユビュの口から小さく喘ぎ声が漏れた。一糸まとわぬ姿になったユビュはこの上なく美しかった。

 ナユタは自らの陰棒をユビュの最も神秘の部分に押し当てた。そこは愛液が溢れ、濡れていた。開いた膣口に陰棒を押し入れ、ナユタの亀頭がユビュの深膀の襞に触れると、およそ味わったことのない快感がナユタを押し包んだ。ユビュの喘ぎ声がナユタを絶頂へといざない、ナユタはユビュの中に射精した。

 しかし、ユビュから離れ、一瞬目を閉じて再び目を開けたとき、ナユタがいた場所は、元の牧場だった。そばにはクリシュナがいた。

「ユビュと交わったろう。どうだった?この世界の中でおとなになった女神の中で男を知らなかったのはユビュだけだったが、そのユビュも初めて男と交わる快感を味わったわけだ。」

 ナユタがすぐに返事ができずにいると、クリシュナは続けた。

「これが世界の根本に潜む秘密さ。」

「これがですか?」

 納得いかないという表情でナユタが言うと、クリシュナは軽やかに、けれど、冷ややかに言った。

「これがだよ。結局、この世界に巣食う者たちのもっている幾多の欲望がこの世界を回しているにすぎないということだ。その欲望は、この世の者たちに、美しい夢と深い満ち足りた思いを与えてくれる。それだけだ。」

「でも、それは、パキゼーの法とはあまりにもかけ離れています。あなたはパキゼーの入滅に際してムチャリンダを打ち破ったではありませんか。」

「たしかに、パキゼーの法は真理だ。でもな、この世界は真理を軸に回っているわけではない。」

「どうして、人も神も一切は空という単純な真理に立脚できないのでしょうか?私もそうかもしれませんが。」

「その通り。一切は空という道は真理であるかもしれないが、その道はいかにしても歩くことはできない。なぜならその道もまた空であるからだ。だから結局、人にしろ神にしろ、真理に立脚して生きてゆくことはできないということだ。それゆえ、人にしろ神にしろ幻影が必要となる。幻影を見ることなしには前を向いて歩いてゆけないのだ。」

「結局、この世界には途方もなく心を高めるもの、心を満たすものがあり、それが価値あるもの、尊いものと思ってしまうが、それは幻影に過ぎないということですね。でも、それでは、そもそも、ヴィシュヌ神は何のために世界を創造し、世界を維持し、世界を破壊するのでしょうか。」

「そんなことは簡単だ。それがヴィシュヌの使命にしてヴィシュヌの喜びであるからだ。」

「世界の破壊も?」

「そうだ。そして、世界の破壊は世界の刷新。新たな世界の始まりでもある。」

「それがヴィシュヌの意思であり、喜び?そして、あなたの意思、あなたの喜びなのですか?」

「そうだよ。これが私の意思であり私の喜び、そして、ヴィシュヌの意思、ヴィシュヌの喜びなのだ。」

 そう言うと、クリシュナは忽然と消え去った。

 すべては、クリシュナが見させた夢なのかもしれなかった。いや、そもそもこの世界の一切がクリシュナの作り出した幻影かもしれないのだ。

 夕暮れになってナユタが家に戻ると、いつものように、アミティスが明るい笑顔で迎えてくれた。夕食の準備が進んでいるようだった。しばらくすると、アミティスが声をかけ、ナユタとリリアンは夕食の席についた。いつものとおりの平穏な夕食の時間が過ぎていった。

 

2019128日掲載 / 最新改訂:20231217日)

 

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向殿充浩 / 神話『ブルーポールズ』第7巻