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神話『ブルーポールズ』

【第7巻】-                                                   

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 数日後、ナユタはバラドゥーラ仙人の家を訪ねた。家は、昔のままに、小さな湖のそばに建っていた。ナユタはアミティスの車で家の前までやってきたが、家に着くと、ロボットが迎えてくれた。まったく神型ではなく、極めて機械っぽいロボットで、足は二本だったが、手は四本あり、目は前後左右と上を見れるように全部で十二個ついていた。性別も特にはなかった。

「わしもロボットを持つことにはしたんだが、神型ロボットでは情が移るのでな。この子はこれでかわいいもんじゃ。いちおう、名前はロダンとつけてある。」

 それがバラドゥーラ仙人の言い分だった。

 応接室に通されると、ナユタは改めて問いかけた。

「素朴な疑問ですが、私たちは何のために生きているのでしょうか。この宇宙の中、この世界の中で私が生きる意味とはいったい何なのでしょうか。」

 そう問いかけるナユタに、バラドゥーラ仙人は慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、それから真顔に戻って語った。

「当たり前のことだが、パキゼーの語った通り、一切は空でしかない。ただ、世界に閉じ込められている存在者たちがそれに納得できず、満足できないなら、その思いをどこかに向かって叫ぶことはできる。でも、それだけだ。その叫びは世界の外の世界の維持者たる者には届かない。いや、仮に届いたとしての、その者の心を一寸だとて動かすことはできまい。創造神ヴィシュヌはそんなことはまるで意に介さず、そんなことにはまるで心を微動だに動かされず、ただ、世界を創り、世界を維持し、世界を破壊するのだ。」

「では、ヴィシュヌ神は何のためにそのようなことをするのでしょう。」

「さあな。わしらには、真に偉大なる神の心など推し量りようもないからな。」

「しかし、私たちは何のために生きているのか?何のために生まれ来てたのか?私の心には、世に言う真理などまやかしだ、という声が疼いています。生きる意味などどこにもなく、生まれてきた意味もどこにもないという声が疼いているのです。」

 この言葉を聞くと、バラドゥーラ仙人は次のように問いかけた。

「なあ、ナユタ。この世界は輝きとみずみずしさに満ちておるだろうか。それとも色褪せておるだろうか。」

 この問いにナユタがすぐに答えられずにいると、バラドゥーラ仙人は続けて言った。

「わしの目には、世界は色褪せておるように見える。おまえには、そうは見えんかね。」

「たしかに、ときにはそう見えることがあります。ただ、世界がみずみずしく輝いて見えることもしばしばです。でも、ときには世界が色褪せ、くすんで見えることもしばしばです。世界が光を失い、混沌の中に泥濁しているだけのように見えることもあります。」

 この言葉にバラドゥーラ仙人は笑って言った。

「世界が輝いて見えるときは、ある意味、おまえの心が健全という証拠じゃよ。だが、今日のおまえの目には世界がくすんで映っておるのだろうな。」

「ええ、たしかに、そうです。」

「なあ、ナユタ。およそこの世界に生を受けたものは、世界がどうなっているか、世界がどんな構造か、そんなことはまるで分からない。だが、彼は成長し、目覚め、そして彼の目には世界が輝きととてつもないみずみずしさを持っていることに気づく。それはある意味、その者のもっている健全な生命力の反映とも言える。わしにもかつてそんなときがあった。だが本当はそれは幻影なのだ。パキゼーが解き明かしたとおりじゃよ。世界は色褪せており、最初から輝いてなどいない。世界はただ漠々として在り、ただ、無常のトキを刻んでいるに過ぎない。なぜなら、世界は、ただ欲望の渦巻く喧噪の場でしかなく、よどみ、腐敗し、異臭が漂っておるからだ。諍いや妬み、嫉みが絶えず、美しい瞬間は一瞬しか続かない。そのことにあるとき気づいてな。」

「しかし、バラドゥーラ様は、そんな汚泥のごときものが泥濁する世界で、心を落ち込ませることも濁らせることもなく、朗々たる心を輝かせておられるように見えます。」

「はっはっはっはっはっ。」

 バラドゥーラ仙人は大きく笑った。

「世界は色褪せておる。ただ、色褪せた世界がただ在り、自分はその中の存在者として存在しているだけ。だが、その真理を虚心坦懐に見るなら、何ら心を曇らせる必要などどこにもない。それだけのことじゃ。」

 この言葉にナユタが頭を垂れると、バラドゥーラ仙人は、笑顔を潜めて続けた。

「だがな。一方で、存在というものは極められてはおらん。世界から秘密がなくなったなどということはない。未知なるものは、依然として、厳然として在る。さっきも言ったが、この世界の内の存在者はすべからく偶然によって生を受け、存在しているに過ぎない。そして、未知なるものに満ちておる。だから、心ある存在者たちは、その中から生まれる音を奏で、詩句に紡ぎ、曼陀羅に描き込み、キャンバスに絵の具を投げつけ、未知なる形を錯綜する線でキャンバスに描いてきたのだ。」

 そう言うと、バラドゥーラ仙人は奥の部屋からシュルツェの絵『酔いどれ船』をもってきた。ナユタが初めてバラドゥーラ仙人の家を訪ねたときからあった例の絵だった。

「今まで話さなかったがな。」

 そう言って、仙人はシュルツェに会った時のことを語り始めた。

「わしは、あの創造された世界で、未知なるものを描き続ける異端の画家のことを耳にしてな、彼を訪ねたんじゃ。潮の香りを含んだ風に、陽光が降り注ぐ小さな港町だった。船が出入りし、漁師たちが魚を水揚げしていた。小さな路地をいくつも曲がって、彼がよく来るという海辺の店に辿り着くと、一人の酔っ払いがバンジョーを弾きながら自作の詩を口にしていた。なんともうつろと言うか、悲しげなと言うか、不思議な目じゃった。」

「彼はいくつくらいだったんですか?」

「たしか、まだ三十くらいだったはずだ。だが、とても三十には見えなかった。頭は禿げ上がり、顔もやつれて、どう見ても五十過ぎにしか見えなかったよ。ともかく、わしは、お近づきのしるしとして、赤ワインを注文してグラスに二つ注がせ、一つを彼の前に差し出した。彼が不機嫌そうな顔でじろりとわしを見つめたその目が今でも心に焼き付いておる。彼は、『ありがとよ。』と短く言ってワインを口にし、『良いワインだな。』とそっけなく言ったよ。」

 ナユタがその言葉を噛みしめならうなずくと、バラドゥーラ仙人はゆっくり続けた。

「それから彼が、『なんか用かい。』とぶっきらぼうに聞いてきたんで、『絵を一枚。』とだけわしは言った。彼は画用紙を取り出すと、錯綜する線を描き、『酔いどれ船、おれの本心さ。』

と言って悲しげな笑いを見せたよ。なんと言ったらいいんだろうな。心の辛酸を舐めてきた者にしか描けない彼の絵を生み出した源をかすかに感じたよ。時間の断片の上に滴り落ち、はかなく消えてゆく夢のかけら、それを彼は描いていたんだという思いがしたよ。」

「そうですか。それがあの絵なんですね。」

「そうじゃ。絵を渡してくれると、彼は立ち上がって、そっけなく言い残した。『あんたとつきあいわけじゃないんでね。』ってな。わしは、ひとり残され、絵を眺めながら、港を見つめた。陽光をいっぱいに浴びた帆船がゆっくりと港に入ってきていた。世界の美しさが心に沁みたが、それは幻想なのだ、きっとその絵の方が真実なのだ、という思いが心に響いた。世界は土くれの集まりに過ぎないという思いが圧し掛かり、わしは心の中でただ頭を垂れるほかなかった。」 

 バラドゥーラ仙人は軽く一息ついて、話を続けた。

「もう一度、この世界を虚心坦懐に見てみるがいい。人間にしろ、神々にしろ、その存在には根本的に裂け目が入っている。我々がこの世界の内で為すことの根源的な意味など、パキゼーの言った通り、どこをどれだけ探求しても見出すことはできない。結局、我々の存在の本質には裂け目が入っている。人間にしろ、神々にしろ、結局は、その生きている世界の内に囚われて、一喜一憂して生きているに過ぎない。ゲームやスポーツで勝てばうれしいし、うまくいかなければ悲しいものが、ゲームをやる者はゲームに過ぎないのに必死にやっている。人や神が生きている中でやっていることはそれと同じように見える。人にしろ神にしろ、この世界の内の事象にのめり込みすぎてその中のものに浮かれ、あるいは必死になっているに過ぎない。この世界の内で根源的に価値のあるものなど結局なにもない。結局、彼らが生き生きしているのは、幻影を見ているからということだ。そして、世の中ではその幻影と、幻影の維持に合致するものが受け入れられ、褒めそやされているに過ぎない。そんなことが分かってな。それからじゃよ。武芸の道も学問の道も修行の道も放棄して、森にやってきたのはな。」

「そうですか。バラドゥーラ様が森にやってきたいきさつを初めてうかがいました。」

 バラドゥーラ仙人は軽く笑った。

「まあな。森に来ることになった理由など、必ずしも誰かに話さねばならないものではないからな。だが、ともかく、シュルツェの絵はわしの生き方を大きく変えてくれた。」

 そう言うと、バラドゥーラ仙人は絵と一緒に持ってきたノートを開いて、シュルツェの残した詩句を口にした。

 

  カシスで、石や魚たち。

  ルーペで覗いた貝殻。

  海の塩そして空が

  ぼくに人間の重さを忘れさせてくれた。

  ぼくたちの混沌としたあがきに

  背を向けさせてくれた。

  繰り返すことなく繰り返す

  港のさざ波のうちに

  永遠をかいまみさせてくれた。

  何ひとつ説明できはしない。

  上っ面しか分かりはしないのだ。

  仁もタオもどうでもいい。

  ロゴスもニルヴァーナもどうでもいいことなのだ。

  けれど、また、

  ぼくの夢見るすべてが起こるのは

  広大な廓外とたくさんの街路のある、巨大で

  すばらしく美しい未知の都市、

  とても描けはしないけれど。[2]

 

 その詩句は、以前、ルガルバンダとの戦いののち、ビハールから森に帰った時にバラドゥーラ仙人が読んでくれた詩句だった。

 その縹渺たる言葉たちが再びナユタの心に沁み込み、『酔いどれ船』に潜む深い悲しみがナユタの心を改めて打った。

 すると、バラドゥーラ仙人がさらに言った。

「この絵はおまえに譲るよ。もって帰るといい。」

「でも、こんな大事なものをいただくわけには。」

 ナユタはびっくりしてそう言ったが、バラドゥーラ仙人は笑って答えた。

「心配するな。ちゃんとコピーはとってある。今では、どっちがコピーでどっちが本物かまったく見分けがつかないものができるからな。ただ、オリジナルはおまえがもって帰るがいい。もっとも、オリジナルということにいったいどんな意味が残っているかは疑問だがな。それから、シュルツェの残した詩や言葉はおまえの有機パッドに送っておくよ。」

 この言葉にナユタは『酔いどれ船』をありがたくいただいて家にもって帰り、さっそく書斎の壁に掛けた。フレキ有機パッドには、バラドゥーラ仙人から、シュルツェの詩や言葉が届いていた。一緒に、『酔いどれ船』そのものの三次元複写ファイルも入っていた。

 その夜、部屋でひとりでシュルツェの言葉や詩を読みながら『酔いどれ船』を眺めると、改めて、シュルツェが見ていたこの世界の向こう側の世界にある未知なるものが心に響いた。

「こちら側の世界にあるものではない、この世界の内にあるものではない、この世界の向こう側にある未知なるもの、それを彼は見つめていた。」

 そうナユタはひとり呟いた。

「この絵もそうだ。」

 ナユタは同じ部屋に飾ってあるリリアンの『砂曼陀羅』を眺めた。それは、アシュタカ仙人から曼陀羅を学んだ後、リリアンがキャンバスに油絵具で書いた作品の中の一枚だったが、この絵もまさにこの世界の向こう側にある未知なるものを描いた作品だった。

「ぼくたちはいつも未知なるものに向かい合っているのだ。」

 そういう思いに駆られると、ナユタは急にエシューナ仙人に会いたくなり、さっそく、有機パッドで連絡を入れた。

 数日経って、エシューナ仙人が返事が来た。来てくれるならいつでも歓迎するという内容だった。ナユタはさっそく訪問する日時を知らせ、久しぶりにエシューナ仙人を訪ねたのだった。

 

 エシューナ仙人はナユタを招き入れると、さっそく語りかけた。

「未知なるものに向かい合って奏でる音について改めて教えを請いたいということだったな。だが、そもそも、今、わしがおまえに教え諭すべきものあるようにも思えぬがな。まあいい。」

 そう言って一息置くと、仙人は続けた。

「昔から何度も言ったきたことのようにも思うが、そもそも、真の音楽は聞く者の心を打つために奏でるのではない。真の音楽は、音楽の作り手の心を歌うものでもない。今は心の中で揺らぐ感情を音楽にし、あるいは、聞く者の感情に訴え迎合する音楽が世に溢れておるがな。真の音楽はあるものをあるがままに奏でるだけ。そして、そのあるものとは、まさに我々のあずかり知らぬ未知なるものを包含している。こんな答えでどうかな。いずれも、今初めておまえに語るものなど何もなく、いままで幾度となく語ってきたことのように思うがな。」

「ありがとうございます。」

 そう言ってナユタは頭を下げ、さらに続けた。

「おっしゃる通りと思います。そして、それはまさに何度もお聞きしてきたことでもあります。ただ、ほんとうの未知なるものとはなんなのか。そのことに思いを致しているのです。それは決して、ただ単に、その時点の自分が知らないこと、自分にとって未知であることを意味するのではないと思います。真の意味で未知であるものは何なのか?そして、『真の音楽はあるものをあるがままに奏でるだけ。そして、そのあるものとは、まさに我々のあずかり知らぬ未知なるものを包含している。』と言われるとき、その未知なるものとは何を意味しているのか、それについて考え込んでいるのです。」

「それについて、言うなら、」

 そうエシューナ仙人はつぶやくように言い、少し考え込みながら続けた。

「そもそもは、その未知なるものがどんなレベルの未知なるものであっても、そなわち、単にその者にとって体験したことのないものであっても、あるいは、本源的に未知なるものであっても、そこに未知なるものがあり、それが音楽家の真の意味での真摯な精神と共鳴するなら、優れた音楽が生み出されると言えるのではないか。ただ、その未知なるものが本源的なものに近づくにつれ、その音楽はより高く、より深くなるのではないか。より、世界の本質、我々の存在の本質に近づくにつれ、音楽はより真の音楽に近づくと言えるのではあるまいかな。」

 この言葉は、ナユタの心に適った。エシューナ仙人は続けた。

「それは過去の音楽や美術を振り返ってみても分かる。すなわち、偉大な音楽とは世界の限界を突破する音楽なのだ。世界の内に目を向けて、それに対する心情を謳った音楽は、いっときは聞く者の心を捉えるかもしれないが、やがて廃れてゆく。真に価値のある音楽は世界の限界を突き抜ける音楽なのだ。」

 たしかに、過去の音楽を振り返ってみると、その通りだった。偉大な作品として時代を席巻した作品でさえ、世界の内でのものに囚われた作品は真に価値のある作品として残ってはいかない。真に偉大な作品として残るのは、世界の限界を突破する音楽、例えば、グスタフやマティアスの音楽なのだ。

 ナユタはさらに訊いた。

「エシューナ様のおっしゃることはその通りと思います。しかし、そこで二つの質問が心をよぎるのです。一つは、その世界の本質、存在の本質にはどのように近づけばいいのかということ、世界の限界はどうやって突破すれば良いのか。もう一つは、世界の本質に横たわる未知なるものに向かい合った真の音楽には、そもそもどういう価値、どういう意味があるのかと言うことです。」

 エシューナ仙人は笑みを浮かべた。

「ようやく、これまで、おまえと語り合ったことのない領域にやって来たな。その二つの質問は非常に重要であるが、究極には一点で交わっている。だが、ともかく、一つずつ話をしようではないか。」

「ええ、ぜひ、お願い致します。」

「まず、最初の問い、すなわち、世界の本質、存在の本質にはどのやって近づけば良いのかということだが、かつて、おまえと共に廃墟の寺院の上で音楽を奏でたとき、塔の上から石を投げてみせたのを覚えておるかね。」

「ええ、はっきり覚えています。仙人は、石は投げたものの意思に沿って飛ぶのではない。法則に基づいて放物線を描いくだけだと言われました。」

「そうだ、それはあるがものを自然のままに置いておくということでもある。だが、同時に、誰も、なぜ放物線を描いて飛ぶようになっているのかは知らない。そしてそれが、世界の本質、存在の本質に向かい合うことなのだ。世界を歪めて眺め、自らの思うように自分の中で世界像を構築しようとする行為は真理への道から外れる以外の何ものでもない。石が放物線を描いて飛ぶのをただ眺め、理解すること、それは、あるがものを虚心坦懐に心を空にして見つめ、受け入れると言うことでもある。それが、第一の問いに対する答えだ。だが、それに対して、おまえは求めすぎておるのかもしれぬな。真の創造、宇宙の秩序と平和、真の音楽、そして真理。おまえは常に追い求めてきたのかもしれぬ。それは尊いことではないとは言いにくい。だが、ある意味では、求めることは愚かだ。」

「やはり、そうでしょうか?」

「ああ、そうだ。求めることは、その求めるものに囚われることでもある。そして、求めようとするに努力の中で朗らかさが失われる。おまえもそうではなかったかな。おまえが初めてわしのところに来たとき、おまえは心を軋ませ、憂慮の中に沈んでいるように見えた。」

「そうかもしれません。」

「だがな、おまえも理屈では分かっているのだろうが、おまえが真摯に求めたもの、今も求めているものは、別の視点から言えば、他愛ないもの、その本質が空であるものでしかない。その本質に思いを致す時、道は、求めないということにある。宇宙に漂っている真音をただあるがままに響かせる。それだけだ。」

 そう言うとエシューナ仙人は楽器を取り上げ、ナユタにも渡した。

「我々を高め、我々の心を満たすというような真理、これこそがこの宇宙に光り輝く真なるものだなどいうような真理などどこにもない。そもそもこの世界は美しくない。この世界には心ときめかせるもの、感動させるもの、美しいと思えるものがある。しかし、それは単に我々の心がそう感じているというにすぎない。この世界に真に美しいものなど存在しない。この世界にあるのは、一切は空というこの宇宙に広がる漠々たる時間と空間のみ。そのことに思いをいたし、そんな世界でしたたり落ちている音を拾い集め、音を紡いでてみようではないか。」

 エシューナ仙人は黙って音を奏で始めた。ナユタがそれに音を合せた。

 縹渺とした韻律の音が蕩々と流れ続け、ただ空間に響き、消えていった。その響きはまるで宇宙の中を駆けてきたナユタの軌跡そのもののようであり、また、宇宙の底で祈りを捧げる求道者たちの祭儀の音のようでもあった。

 演奏を終えたとき、エシューナ仙人は言った。

「ただ、音が空間に響いただけだ。何かを求めたわけではかなった。だが、それで良いのではないかな。ある意味では、音を求めないからこそ真の音が得られるのだ。それが、おまえの第二の問い、すなわち、未知なるものに向かい合う真の音楽には、どういう価値、どういう意味があるのかということに対する答えだ。本質的には価値と意味は空だ。だが、そうする以外に真の音は得られないのだ。」

 まったくその通りだったかもしれなかった。ナユタがうなずくと、エシューナ仙人は続けて言った。

「この世界に生を受けたこと、この世界を生きること、この世界に自分が生きることの意味をいて、おまえが問い詰めておることは知っている。だがな、おまえも知っているだろうが、この世界のすべての存在者にとって、世界とは、自分が生まれる前の膨大な時間と自分が滅した後の膨大な時間が存在する世界にでしかない。誰かが、その膨大な時間の狭間で生きることの意味は何なのか、如何にすれば意味のある生き方になり得るのかと問いかけたとしても、そのような意味がないといけない理由は何なのか、と問い返すしかない。そのような意味がないとならない理由など何一つ存在しないではないか。」

「おっしゃるとおりだと思います。そして、それはパキゼーがまぎれもなく理解していたことだと思います。」

 ナユタがそう言うと、エシューナ仙人は付け加えて笑った。

「だが、この世界の者たちはほとんど誰もそのことに気づいておらん。理解してもおらん。それもまた、この世界の真の姿ではあるがな。」

 そう言うと、エシューナ仙人は空を見上げて言った。

「音の道はいつもみずみずしい。その中に心を遊ばせ、新しい音を紡ぐ。それがわしの喜びじゃよ。」

 そこには倦むことのないエシューナ仙人の表情があった。

 

 それからしばらく経って、再び、バラドゥーラ仙人に会ったとき、バラドゥーラ仙人が次のように言った。

「なあ、ナユタ。一度、ヴィクートを訪ねてはどうじゃ。前にも話したように、わしは若い頃の彼を知っているが、彼より真摯な者はいないと言えるほどの者じゃ。彼は一般に言う賢者とかとは違うが実に途方もなく透徹した心をもっておる。」

 ナユタは考え込むように答えた。

「そうですね。ヴィクートには、ルガルバンダを倒す戦いで助力を得ましたが、その後、ビハールから離れて以降は一度も会っていません。彼は、パキゼーの教えに帰依し、ひたすらその道を守っているはずです。」

「その通りだ。そして、おまえが心に抱く真理についての問いは、まさに、パキゼーの教えそのものと交錯するはずではないか。だとしたら、ヴィクートに会うことは何かを生み出すかもしれぬ。」

 このバラドゥーラ仙人の言葉はナユタを突き動かした。

 ヴィクートを訪ねる決心をするとナユタはヴィクートと連絡を取ろうとしたが、メールのアドレスはなく、ネットのどこを探しても電子的に連絡を取る手段は見つからなかった。しかたなく、ナユタは、紙に用件を書いて、ドルヒヤの住所に発送した。その住所ははるか昔、ヴィダールの創造以前の住所だったので、それが正しい住所かどうかすら分からなかったが、今の世界では、すべての神が個別の番号によって登録されているので、なんとかなるはずだった。

 実際、数週間が経って、ヴィクートから一通の手紙が来た。そこには、ただ、こう書いてあった。

「特に歓迎するものではありませんが、来られるなら拒むものではありません。いつなりとお越しください。」

 真っ正直なヴィクートの本心のままだった。

 その手紙に書かれていた住所はナユタが出した手紙の住所とは違っていたが、それでも届いたということだった。そして、電話やメールの番号は書かれていなかった。

 ナユタはその住所をアミティスに伝えて車を頼み、数日後、ヴィクートを訪ねた。

 ドルヒヤは今はかつてのような辺鄙な場所ではなかった。舗装された高速道路が近くまで通っており、街の中に入ると、きれいに整備された清潔な街並みが広がっていた。かつてナユタがいた居城は、今は博物館になっているようだった。ヴィクートからの手紙に書かれた住所に行くと、そこは町のはずれだったが、たいそう広い敷地に木がこんもりと茂っていた。

 門らしきところで車を降りたが、特に門というわけでもなく、ただ、中へ通じる道があるというだけだった。その道を入ってゆくと、小さな広場に粗末な家が建っていた。

 その家に入って声をかけると、ヴィクートが現れた。

「お待ちしていました。」

 そう言って頭を下げたヴィクートにナユタは笑顔を見せた。

「久しぶりだな。ビハールを離れて以来だが、元気そうでなによりだ。」

「ありがとうございます。」

「しかし、この現代に、粗末な家に住んでいるんだな。政府からの給付金があるだろうに。」

 このナユタからの言葉に、ヴィクートは苦笑いした。

「たしかに給付金はあります。ギランダ法のおかげですね。それに、ルガルバンダとの戦いの恩給もありますしね。」

「それでこの生活では、通帳の金額は天文学的なんじゃないか?」

「放っておくとそうなりますので、ほとんどは返しています。制度的に言えば、政府に寄付しているんですけどね。」

「それが悪いとは言わないが、もう少しましな生活をしても罰は当たらないように思うがな。おれが言うべきことじゃないかもしれないが。」

 ヴィクートは軽く笑顔を見せた。

「これで十分なんですよ。自分で食べるものは畑を耕して育てる。昔は魚も採っていましたが、今は肉として生産できるので、配達してもらっています。ところで、今回は真理について話をしたいということですね。硬い話ではありますが、縁側にでも腰かけて話しましょうか。お茶を入れてきましょう。それ以上のおもてなしはありませんが。」

 そう言って、ヴィクートは南向きの縁側にナユタを座らせ、自身はお茶を入れて戻ってきた。縁側からへ部屋の中を見回すと、鴨居の上に、トリシューラが架けてあった。かつてバラドゥーラ仙人から預かってナユタがヴィクートに返した例のトリシューラだった。

 ナユタがトリシューラに気づいたのを見て、ヴィクートが言った。

「今も飾っておく必要があるかどうか疑問もありますが、シヴァ神からいただいた神器ですので、粗末に扱うわけにもいきませんから、ああして飾っています。」

「あのトリシューラの元々の由来は聞いたことがなかったが、良ければ、教えてくれないか。」

 ヴィクートは縁側に腰を下ろし、話し始めた。

「そういえば、そもそもの由来はお話ししなかったですかね。私はパキゼーの教えを聞いて以降はパキゼーに帰依していますが、それ以前の若い頃は武人を目指し、シヴァ神を崇めていました。バラドゥーラなどと武芸の鍛錬に精を出し、同時に、ひたすらシヴァ神に祈りを捧げていました。そんなある日、私の鍛錬をお認めくださったのか、祈りが通じたのか、シヴァ神が私の前に立ち現れ、トリシューラは真摯な怒りを力に変えてあらゆる幻力を打ち破る神器であると言われて、あのトリシューラを授けられたのです。その時、シヴァ神はこうも言われました。もし、おまえに勝つ者が現れたら、その者にトリシューラを与えよと。だから、私は、バラドゥーラと分かれるとき、これを彼に与えたのです。」

「懐かしい話だな。ところで、」

と言って、ナユタは本題に入った。

「実は、真理は存在しない、という思いに突き当たった。この世界はなぜだか分からず存在しているだけであり、そんな世界において真理などというものはそもそも存在しないのではないかという思いだ。」

 ヴィクートは大きくうなずいたが、虚空を見やりながら答えた。

「この世界に存在する者たちは、この世界を見る能力も持ち、また、考える力も持っていますが、ほとんどすべての者がそういう思いには行き当たってない。皆、この世界の中において、ただ自分が持っている願望によって勝手な世界観や価値観を構築し、自分の存在に意味を付与し、それを真理と称しているにすぎません。ある意味、不思議なことです。見ようと思えば見える真の姿を誰も見ようとしない。かつて、ヴィカルナ聖仙は、『光を見ようとしない者には光は見えない。』とおっしゃったとか。まさにその通りです。ですが、真実は一つしかありません。あなたの言葉を借りるなら、まさに、『真理は存在しない。』のです。」

「そして、それがパキゼーの悟りの原点と言うわけだな。」

 ナユタがそう言うと、ヴィクートは大きくうなずいた。

「その通り。それ以上でもそれ以下でもない。だから、一切は空であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。」

「つまらない質問かもしれないが、ここで何をめざし、何を求めているかと聞いてもいいだろうか。」

 ヴィクートは軽くうなずき、そばに置いていたお茶を一口飲んだ。

「実にその答えは既にパキゼーによって与えられています。私は実に何も目指しておらず、何も求めていない。」

「だが、パキゼーの教えの道を歩もうとし、歩み続けている。」

「その通りです。しかし、パキゼーの道はそれ自身空であり、それゆえ、私はある意味空虚に日々をやり過ごしている。ただ、それだけです。」

「しかし、それは何のためと聞かれたら?」

「何のためでもありません。何かのためには生きておらず、何かのために存在しているのでもない。ただ在り、ただ空であるだけ。それにいかなる意味があるかと問うなら、それは空としか言えない。あたなは優れた方だが、ある意味、求めすぎているのだと思います。」

「求めすぎているか。そう言えば、かつて、ルガルバンダとの戦いに赴く前、アシュタカ仙人にもそう言われたよ。」

「そうですか。求めすぎると、真実が曇らされてしまうものです。」

「そういった意味では、私には道は見い出せないのだろうか。」

 ヴィクートは微笑んだ。

「そうかもしれませんね。しかし、それが悪いわけでもない。一切は空ですので。」

 その後も会話は続いたが、同じような問答の繰り返し以上のものではなかった。

 だが、ナユタは満足して言った。

「今日は、パキゼーが生きていたら語ったであろうことを聞けた。ありがたかったよ。もし、最後に何か助言をしてくれるならもらいたいが。」

「私があなたに助言すべきことがあるかどうかは分かりませんし、本当は、『一切は空。そのことを見つめて道を行くことです。』と言いたいところですが、それは止めておきましょう。ですから、今日は、『あなたにはあなたの道が。』と申し上げておきましょう。それだけです。いずれにしても、自分の道は自分で見つけねばなりませんのでね。」

 それがヴィクートの答えだった。

 

 ヴィクートを訪ねた後、しばらくして、ハーディが突然やってきた。この男神は、いつも不意にやってくるのだ。

 風の館でワインのボトルを開け、グラスになみなみとワインを注いで乾杯すると、ハーディは訊いた。

「最近は、どうしているんだ?」

 ナユタが、「真理は存在しない」ということが心に響いて以降のことを語ると、ハーディは鼻で笑って言った。

「真理なんて存在しない、か。まっ、そうだな。真理があると思っていたんだろうが、まさに砂上の楼閣に過ぎないね。」

 そう言うと、ハーディはワインを一気に飲み干し、グラスに二杯目を注ぎ入れ、それから、ちょっと真顔になって、言った。

「だけど、そもそも真理とは何なのか。そもそも世の神は一切は空という真理を見ていない。創造された世界の人間たちもそうだったがな。さらに言えば、およそ真理などという言葉すらほとんど意味をなしていない。真理が存在するか、存在しないかなどということは、まるでそもそも無いものについて、有るか無いかを議論しているような空虚な議論にしか聞こえない。それに対して、あんたは真理を見つめようとし、それに立脚して生きようとしているかもしれない。だけど、そのように生きようとすることだとて、結局のところ、自分の中から出てくる欲求に突き動かされて生きているに過ぎないんじゃないか?」

 ハーディはグラスを傾けると、さらに言った。

「おれは以前、言ったよな。世界が没落の予感に満ちているって。真のものなんてどこにもないし、誰も本当のものを持っていない。ただ、虚構の中であやふやな幸せに浸っているだけだって。だから世界は没落するのさ。かつてのように、真理を目指す世界は消えたんだ。だけど、その真理も、目指してみたところで、何もあるわけじゃない。まさに、あんたの言うとおりさ。真理なんてどこにも存在しないのさ。」

 ナユタが考え込んでいると、ハーディはさらに言った。

「まあ、だけどな。世界を見てみろよ。みな、自らの心を満たすための価値観に寄りかかって生きているだけだ。おれもそうだけどな。」

「それで良いのか。それで満足できるのか。それがぼくの疑問なんだ。」

「たしかに、もし、真理があるというなら、今の神々の生き方は真理からかけ離れているだろうな。だけど、その真理とはいったい何なんだ?子供たちを見てみるがいい。他愛ないことに興じ、喜びを覚えている。滑り台を滑り、泥の団子を作り、砂山にトンネルを掘り、蝶やトンボを追い回す。だけど、成長するにつれて、それらは次々に他愛ないものに思えるようになり、それに興じることはない。そして、成長した神々が興じているものどもについても、賢者と言われるものたちの目から見れば、まるで他愛ないことにすぎないだろう。だけど、その賢者たちが大切にしているものはほんとうに尊いのか?少なくともぼくには疑問だね。世界の外からこの世界を冷徹なまなざしで見つめている超在者からみれば、すべて他愛ないことに過ぎないように思えるね。」

 ナユタはうなずいて答えた。

「たしかに、そうだな。だけど、そうだとしたら、ぼくたちはどうすべきなのか。何をなすべきなのか。」

 ハーディは大きな笑い声を立てた。

「だから酒を飲むのさ。ただ、この時間を消費するだけ。食いつぶし、飲みつぶすだけ。それだけだよ。」

 それもまたある意味、真理かもしれなかった。

 まだ外は明るかったが、ハーディは次のボトルを注文し、ナユタと自分のグラスに注いだ。

 カウティリヤが途中でやってきて、ハーディに挨拶した。ハーディは機嫌良く答えた。

「あんたの料理はいつも最高だね。ワインも上等だ。ところで、ふたりの娘さんは今はどうしてるんです?」

 カウティリヤが笑って答えた。

「おかげさまで大きくなって、今はふたりともビハールです。上の子は学者になりたいということで、ウダヤ技術院の博士課程で学んでいます。論文も何報か書いたようで、そろそろ博士号が取れそうだということでした。下の子はデザイン志望で、つい最近、バルマン芸術院を卒業して、デザイン事務所で働き始めました。いずれにしても、若者にとってはビハールの生活は刺激に満ちていて楽しいようです。この高原はあまりに刺激がありませんし、同年代の者と知り合う機会もほとんどありませんのでね。」

「まあ、たしかに、ビハールは刺激に満ちていますね。なんといっても首都ですからね。ぼくなんかは、あんなところは願い下げだが、若者にとっては楽しいでしょうね。まあ、何事も経験ですから。」

 カウティリヤが厨房に戻ると、ハーディはカウティリヤの料理をつまみながら言った。

「この世界は生き生きしてるな。少なくとも大多数の神にとってはな。これも、あんたがルガルバンダを倒して拓いた世界のおかげだけだな。」

 ナユタが返事ができずにいると、ハーディが続けた。

「だけど、あんたにも見えているだろうけど、世界はその根底では澱んでいる。そして、真理のない世界の上で、欲望と感情が沸騰しているに過ぎない。」

 そう言うとハーディはちょっと言葉を切ってワイングラスを傾け、続けて言った。

「あんただって、そのことはいろいろ体験して分かっているだろう?創造された世界に降りて活動したことは聞いているが、その中で、いろんな人間と付き合ったんじゃないのか?そして、その人間はどうだった?そして、この神々の世界の者たちも。結局、皆、己の内にあるものに縛られ、突き動かされて生きているに過ぎない。でも、それはおれやあんただって同じだ。」

 この言葉はまさに、その通りだった。どんな必死に生きていた人間も神も結局は自らの欲求に応じて必死になってたに過ぎなかった。

 ハーディが続けて言った。

「おれだって、若い頃には世界が輝いて見えたよ。何もかもが新鮮で、美しかった。心を高鳴らせるもの、心をときめかせるものがいくらでもあった。一枚の絵、一つの音楽、一冊の本、一遍の詩、それらが心を打ち、おれの心の新しい扉を開けてくれた。そして、雄大な山々や広大な青い海、広々とした野の光景、素晴らしい自然がいたる所にあった。空の青さに心打たれ、雨粒が降りしきる様や雪が舞い落ちる様すら美しかった。まさに、世界はみずみずしさに溢れ、あらゆる可能性が広がっているように思えた。だけど、いつしか、おれは気づいたんだ。すべては幻想に過ぎないってね。この世界は味気なく、つややかさを失っていた。だから、おれは詩人になり、それを謳うのさ。それだけだよ。」

 この言葉には同意できるものがあった。

 ハーディはさらに続けた。

「ヴィダールが創造した世界で、リーというある詩人がこんな詩を詠んでいる。彼もしばしば浴びるように酒を飲んで酩酊していたらしいが、たぶん、おれと同じ気持ちだったと思うよ。」

 そう言って、かれは、フレキパッドでその詩を見せてくれた。こんな詩だった。

   山中で向かい合って酒を呑んでいると、山の花が開いた。

一杯一杯また一杯。

   眠くなってきたので、君はしばらく帰ってくれ。

   明日、気が向いたら、琴をもってまた来てくれたまえ。[3]

「まさに、今日のおれとあんたみたいだ。もうひとつ見せよう。」

 そう言って、別の詩を見せてくれた。

なぜ、こんな山奥に住んでいるのかと人が尋ねる。

私は、心静かに、ただ笑って答えない。

桃の花びらがただ水の上を流れてゆく。

ここは世間とは異なる世界なんだ。[4]

「彼は、最後は、船に乗って酩酊し、水に映った月をつかまえようとして船から落ちて亡くなったらしいよ。」

 そう言うと、彼はさらに酒をあおってその詩人のことを長々と語った。その詩だけでなく、生き方にも感銘を受けているのがよく分かった。

 だが、ハーディは、その詩人についての話が一段落すると、新しいボトルを開けてさらに言った。

「ところで、今度、サナムと二人展をやることになってね。良ければ来てくれよ。」

「サナムと?」

「ああ、彼女が写真を展示して、おれの詩も飾られるわけさ。」

 そう言うと、ハーディは、二人展のパンフレットとパーティへの招待状を手渡した。

「パーティと言ってもこじんまりしたものだがね。」

 パンフレットを見ると、その二人展はビハールの小さな画廊で開催されるということだった。

「パーティにもぜひ来てくれよ。サナムもあんたに来て欲しいと言っていたし、あんたやリリアンにも会いたがっていたよ。」

「ああ、それじゃ、行くことにしよう。それにしても、あんたとサナムが二人展というのはどういういきさつなんだい。」

 ハーディはにやっと笑って、ナユタと自分のグラスにワインを注いだ。

「ちょっと彼女と長旅をしてね。」

「長旅?」

「ああ。ナユタさんは見知らぬ街を誰にも知られず歩くなんてことに憧れたことはないかい?親しい者や仲間たちと会うのも良いけど、そんな者たちからすべておさらばして、知らない土地を旅する。そこでは誰もおれのことを見ていないし、誰もおれのことを意に介したりしない。そんな旅への憧れだよ。」

「たしかに、分かる気がするね。」

「それで、あるとき、ひとりでそんな旅に出たんだ。良い旅立った。心が自由になり、心の中を夢が駆け抜けるような気分だった。古い時代の建物が並ぶ街の石畳の道を歩いたり、牧場でのんびり寝転んで昼寝したりね。そんな旅を三週間くらい続けて、それそろ帰ろうかと思っていたら、偶然サナムに会ったのさ。彼女も見知らぬ土地を訪ねてその土地の神々のポートレートを撮り続けていたんだ。その晩すっかり意気投合してね。次の日から、昼間はそれぞれひとりで旅をして夜は同じホテルで落ち合うことにしたのさ。」

「なるほど。それも楽しいかもしれないな。」

「ああ、楽しい旅だったよ。彼女は毎日その日あったことをおれに話し、撮った写真を見せてくれたよ。しばしばそれはベッドの中だったけどね。」

 そう言って、かれはちょっと肩をすくめた。ハーディとサナムの関係はそれでだいたい想像がついた。

「それで、どのくらいその旅を続けたんだい。」

「四ヶ月くらいかな。その旅の途中で二人展の話にもなって、今回の展示会になったというわけさ。」

 この話はハーディも楽しそうで、さらに酒をあおりながら、その旅の途中でのことなどをいろいろと話してくれた。

 

 三週間後、ナユタは、リリアンとともに、サナムとハーディの二人展に行った。ビハールに出るのは久しぶりだったが、ビハールは相変わらずの洗練された活気に満ちた大都会だった。

 画廊を訪れると、サナムが待っていてくれた。久しぶりに会う彼女は、かつてとは雰囲気が変わって感じられた。かつてのような屈託のない明るさはちょっと影を潜め、落ち着いた雰囲気というよりはやや陰鬱な感じが漂い、個展にふさわしい華やかな印象のようなものは彼女からはあまり漂ってこなかった。

「来てもらえて、とってもうれしいです。」

 そう言って、サナムはナユタとリリアンに挨拶した。ハーディは夕方からのパーティの頃に来ると言うことだった。ナユタとリリアンはまず展示されているものを見て回った。

 サナムの写真は以前から取り組んでいるポートレートに加え、ものを写したものも多かった。なんの変哲もない砂利道、ひからびた野菜、壊れた人形、洗面器の水につかったタオル、海岸のゴミ箱、女神の太もも、公園の芝生で居眠りする男神、胸をはだけてベッドで眠る女神、そんな写真が並んでいた。

 サナムの写真とハーディの詩が掛けられており、写真と一緒に詩が掲示されているものもあったが、必ずしもその写真のために詩を書いたとか、その詩にふさわしい写真をとったとかいうことでもなさそうで、なんとなく波長が合う写真と詩が一緒に飾られているようだった。一枚の写真の横には、例のリーという詩人の詩が掲載されていた。

 ナユタが特に気になった詩は次の詩だった。それが、ハーディの心をまさに剥き出しのままに語られているように思えた。砂漠の街でという題名だった。

 

誰もおれのことを知らない街、

おれのことなど誰も気にも留めない街、

日のさんさんと降り注ぐ砂っぽい街、

その街をおれはひとりで歩く。

おれが知っている者もひとりもいない。

 

黒い猫が道を横切りつつ、

ちらりとおれを見つめる。

けれど、やつは、そのまま足早に走り去る。

向こうから艶やかなベールを被った女たちが歩いてくる。

笑いながら。

若いきれいな女もまじっている。

おれにちらりと投げる冷たい視線。

微笑みもせず、すぐに目を背けて歩きすぎた。

 

居酒屋があったので、入ってみる。

こぎたない店だ。

暇そうなすれた女が出てので、酒を頼む。

つっけんどんな女は無視して黙って酒を飲む。

酒は心を癒やす。

心を癒やすのはいつも孤独と酒。

それだけだ。

腹がへったので、料理も頼む。

うまくはない。

萎びた野菜はくたくただし、

肉は硬くて臭みもある。

それに、この香辛料の使い方ときたら。

まあいい、

心を癒やすのは孤独と酒だけなんだ。

 

金を払って店を出ると日差しがきつい。

通り過ぎる男たちの不機嫌そうな目。

侮蔑を含んだ目でおれを見るやつもいる。

広場へ行ってもいいが、今日はやめておこう。

大道芸や物売りで騒がしいだけだ。

汗をぬぐう。

楽しいものなんて何もない。

でも、孤独が心を癒やしてくれる。

それがおれの生き方。

これまでもそうだったし、

これからもまたずっとそうだ。

 

おれははしくれの存在。

世に訴えるものもなければ、

世界から認められるものも何もない。

ただの名もなき詩人。

いや、ほんとうは詩人なんかじゃない。

ただの流浪者、ただのどうでもいい者だ。

でも、だから、誰もおれのことを知らない街は心安らぐのさ。

 

燕がおれの前をかすめて飛び過ぎた。

明日は、海の近くの街にでも行くとしよう。

だが、その前に今夜は場末の劇場で、

女たちの踊りでも見に行くか。

たいしたべっぴんはいないだろうが、

女たちがあそこをさらけ出すのを見るのも悪くない。

気が向けば、その後、女を抱けばいい。

 

どのみち、明日になれば、この街ともおさらばだ。

永遠に。

 

 夕方、ハーディもやってきて、簡単なパーティが開かれた。

 パーティが終わると、ハーディはサナム、ナユタ、リリアンをワインバーに連れ出した。

「やって息が詰まるところから解放された。」

 そう言って大きく息を吐くと、ハーディは運ばれてきたワインをそれぞれのグラスに注いだ。久しぶりの再会にそれぞれの近況などを紹介し合ったが、それが一段落するとリリアンはサナムに聞いた。

「シュンラットの時は風景写真やポートレートを撮っていたけど、ずいぶん対象が変わったわね。」

 サナムはあまり笑顔を見せずに答えた。

「ええ。私たちはこの世界の中に生きているけど、それは言ってみれば、水槽の中を泳ぐ魚のようなものだって分かったからなのよ。自分では自由に幸せに生きていると思っているかもしれないけど、結局、水槽の中に閉じ込められているだけ。その外に出ることなんてできもしない。それがこの世界だって分かって、その世界が見せるさまざまな裂け目を撮りたいという衝動に駆られたのよ。でも、それって、リリアンさんの作品にも通じるものだと思うけど。」

「そうだな。」

 そう言ったのは、ハーディだった。

「サナムもようやくそういうことが分かってきたわけだ。世界に真理などなく、ただ閉じ込められた囲いの中で生きているに過ぎないということがね。だから、ぼくも今回、一緒に詩を展示することに同意したんだ。」

「そうね。でも、私の写真はまだ魔術的なものが欠けている。」

「魔術的なもの?」

 そう聞き返したのはリリアンだった。

「ええ、ハーディの詩には、狂気や錯乱、そういったものにまつわる魔術的なものが入り込んでいる。だから、今回、詩の展示をお願いしたんだけど、私ももっと魔術的な写真を撮りたいのよ。目に見えないものを写したいのよ。」

 それからリリアンとサナムの間では芸術における魔術的なものについての会話が弾んだ。ハーディは最初はそれに耳を傾けていたが、しばらくするとナユタを誘って別のテーブルに移り、別のことを言った。

「サナムの言ったことは真実だ。それは世界の核心に通じている。だけど、ぼくたちは世界の根底にある秘密を垣間見たかもしれないが、世界の真の姿、世界の真の秘密を見たわけじゃない。あんたの『真理は存在しない』という言葉は真実だが、でも、世界の本質を捉えたわけじゃない。」

 ナユタはうなずいて言った。

「ああ、そうだ。ほんとは、その世界の真の姿、真の秘密を知りたいんだけどな。」

「でも、まあ見てみろよ。」

 ハーディは周囲を見回して笑うと続けて言った。

「世の神は皆目の前の欲求に突き動かされて生きているに過ぎない。やりたいことをやろうとし、楽しいことや喜びや快楽を求めているだけだ。そして、平穏な日々の中で、誰も存在の本質とか、世界の真の姿とか、我々の存在の秘密なんてものを気にかけてもいない。ある意味、それが世界の現実だよ。」

 そう語るとグラスのワインを飲み、さらに続けた。

「でも、それで何が悪い。結局、自分がどう生きるかということじゃないか。だから、おれも単に気ままに生きているのさ。ただ、世の神に合わせたいとも迎合したいとも思わんがね。認めて欲しいとも思わないしね。煩わしい世間からの干渉から遠ざかり、ときには大酒を飲み、ときにはへぼ詩人となる。また、ときには、流浪の独り者になってこの世界をうろつくというわけだ。それ以上でも、それ以下でもない。」

 そこまでやや自嘲気味に語ると、ハーディは真顔に戻ってナユタの目を覗き込むようにして言った。

「ただ、あんたがほんとうに世界を突破したいというなら、ヴィシュヌかシヴァに会うしかないんじゃないか?ほんとうの世界の姿を知りたいならね。」

 この言葉にナユタはびっくりし、ハーディをまじまじと見つめた。ハーディは続けた。

「この世界は、ヴィシュヌとシヴァによって創造と破壊を繰り返していると言われている。この世界の根幹はヴィシュヌの意思、あるいはヴィシュヌの夢に依拠していると言われている。それが本当なら、彼らに会って問いただすのが道だと思うがな。」

 ナユタはちょっと口ごもりながら答えた。

「それは、ヴィシュヌやシヴァに会って世界の秘密を聞けるものなら、聞きたいよ。だけど、どうやってそれができると言うんだい。」

「あんたはナユタじゃないか。」

 そう言って大きく笑うと、ハーディはグラスのワインを飲み干し、ボトルのワインを自分とナユタのグラスに注ぎ込んだ。

「おれには、いったい、宇宙の根源に関わっているというヴィシュヌやシヴァにどうやったら会えるかなんて分からない。そもそもは、ヴィシュヌやシヴァがほんとうにいるのかどうかも知らないな。だけど、もし、会えるとしたら、まず、ナタラーヤ聖仙やヴィカルナ聖仙に頼まねばならないんじゃないか?そして、それができるのはあんたしかいないんじゃないか?もっとも、ユビュは別かもしれないが、ユビュはそんなことは望んでいないだろうしな。」

 たしかに、ハーディの言う通りかもしれなかった。しかし、ナタラーヤ聖仙もヴィカルナ聖仙もこの世界から遠ざかってしまっているのではないか。ナユタが考え込んでいるのを見て、ハーディは笑いながら言った。

「ともかく、あんたが世界の秘密を知りたいというなら、それ以外に道はないんじゃないか?もっとも、おれ自身はそんなことには興味はないがね。まずは、ナタラーヤ聖仙の弟子だったバルマン師にでも会ってみるといいんじゃないか?」

 たしかに、そうかもしれなかった。

「そうしてみるよ。」

 ナユタがそう答えると、しかし、ハーディはナユタの眼を覗き込むようにして言った。

「ただ、一つだけ言っておきたいけど、世界の秘密を知ってなんになるのかね。秘密を知ったって、何も変わりはしない。それもまた真実さ。」

 そう言うと、ハーディは席を立ち、ナユタを連れてサナムとリリアンの席に戻り、さらに酒をあおったのだった。

 

2019528日掲載 / 最新改訂版:2019528日)


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向殿充浩 / 神話『ブルーポールズ』第1巻-1