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神話『ブルーポールズ』

【第7巻】-                                                   

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 森の中に隠遁し、ナユタは静かな生活を続けていた。ビハールに行くことはほとんどなく、森の外の世界と接触する機会は、「ナユタ芸術祭」をきっかけに始めた「シュンラット高原音楽祭」くらいだった。

 夏冬年二回開催される「シュンラット高原音楽祭」は順調に立ち上がり、新音楽のさまざまな試みが発表された。こじんまりした音楽祭ではあったが、ナユタにとっては毎年の楽しみであり、ナユタ自身も単独または共演で演奏した。この音楽祭を主導するナスリーンとシュヴァイガーは頻繁に出演したし、エシューナ仙神やバルマン師が登場することもあった。

 エシューナ仙神が出演してくれたことは、ナユタにとってはこの上なくうれしいことであった。かたくなに世間との交流を嫌い、とことん自分だけの道を歩くこの孤高の音楽家は、この音楽祭は素直に喜び、ナスリーンやシュヴァイガーを始めてとするいろいろな音楽家との交流を深めたのだった。

 音楽祭会場は二つあり、一つは夏用の野外コンサート会場、もう一つは冬にも使える音楽ホールだった。野外コンサート会場は、森の整備予算の中からシャンターヤが予算を付けてくれて作られたが、より高額の費用のかかる音楽ホールの方はイルシュマが寄贈してくれた。いつものように、

「こんなことでお役に立てるのなら嬉しい限りです。こんなことでしか、お役に立てませんし。」

というのがイルシュマの言葉だった。

 音楽ホールは屋根も含めてほぼ全面がガラス張りという建物だったが、ガラスは真空断熱と調光液晶を組み合わせた積層構造となっており、極めて高い断熱性を有すると供に、外を見ることもできればスイッチ一つで完全に光をシャットアウトすることもできるという代物だった。また、内側のガラスの表面にはナノ加工が施された特殊な樹脂が貼られ、そのナノ形状の効果で立派なコンサートホールに負けない音響効果が得られるのだった。しかも、その特殊樹脂に特定の電気パルスを印加するによってナノ形状を変えることができ、音楽のタイプによって音響効果を変えられるという最新技術も盛り込まれていた。

 ここで行われる音楽祭では、セヴァスチャンやマティアスなど今では古典と言っていい音楽と供に、新音楽を目指す音楽家のさまざまな新しい音楽が演奏され、さながら実験音楽の祭典とも言えた。

 一方、ナユタの家では、家族同様となったリリアンとアミティスとの平穏な生活が続いた。リリアンは相変らず新しい絵画の可能性を目指して努力を続けていたし、アミティスはいつも笑顔で家の中に明るい雰囲気を作り出していた。

 リリアンの絵は次第に評価されるようになっていたが、彼女は表に出ることはほとんどなく、個展が開催されたときも、最初のパーティだけは出席するが、後は期間中シュンラットに籠もることが多かった。そんな彼女は、しかし、ナユタの家ではにこやかに伸びやかに生きていた。そこが彼女のもっとも住み心地の良い居場所となり、そこを離れる気はさらさらないようだった。

 そして、ナスリーンやカウティリヤとの交流、ときどき訪ねてくるシュヴァイガーやハーディ、サナムなどがナユタの心を満たしていた。バラドゥーラ仙神、ウパシーヴァ仙神、エシューナ仙神、アシュタカ仙神など森の仙神たちとの交流もあった。変化があったと言えば、カウティリヤのふたりの娘がビハールの大学に行くために高原を離れたことくらいだった。カウティリヤの上の子はウダヤ総合技術院で化学を専攻して博士課程に進学しており、妹の方はマーシュ大学で美術史を中心に学んでいるということだった。

 そんな生活の中で、高原の四季はいつもナユタの心に刺激と感動をもたらした。

 遅い春がやってきて、雪が溶け始めると、美しい雪山に柔らかい陽光が降り注ぐようになる。それからしばらくすると桜が咲き誇り、それから庭のハナミズキが咲き、新緑が野と山を覆う。野には花々が咲き広がり、虫たちの声がざわめき、ハチやチョウが舞う。秋になると美しい紅葉が輝き、それから雪の季節がやって来る。雪に閉ざされた冬の晴れた日には光が世界の中で乱舞する。

 ナユタはそんな森の中で、音を探求し、書を読み、思索にふける日々を送った。それはある意味、満たされた生活でもあった。しかし、ほんとうのものは極められたのだろうかという問いはいつも心の底にくすぶったままだった。

 真理は極められたのだろうか。本来的なものに達したのだろうか。いや、そもそも、宇宙の謎も解き明かされず、謎に満ちたこの世界の底でただ戯れているだけではないのか。そんな心の底の疑念が消えることはなかった。

 

 そんなある夜のことだった。突然、

「真理は存在しない。」

という言葉がナユタの胸に突き刺さった。

「そうだ。真理なんて存在しない。」

 なんとその単純な真理に気付かなかったことか。いや、なんとその単純な真理を認めることができなかったことか。そんな思いだった。

 たしかに、パキゼーの悟りは真理であった。しかし、パキゼーが、

「悟りは空でしかない。」

と言う以上、真理もまた空ではなかったか。

 その通りだった。

「真理は存在しない。」

 この世界において、これこそが真実の道だという真理、この世界の内において生きる中で真に道しるべとなるゆるぎない真理、寄る辺となる真理、そんなものはどこにあったか?

 いや、そんなものはどこにもなかった。どこにも存在し得なかったのだ。

 では、何が存在するのか?

 存在するのは、ただの時間の流れであり、その中でのさまざまな試みと戯れ、さまざまなざわめきが、ただあるというだけだった。

 そして、その時間の中で、この世界の中で、なぜ存在することになったか分からない者たちがただ生きているだけに過ぎない。本来的な意味もなく、本質的な価値もなく、ただ在るだけなのだ。

 それが真実の姿だった。

 それにもかかわらず、人も神もそしてナユタも何度となく「真理」について語ってきた。だが、それは結局のところ、ただ、「真理がある。」と信じていただけのこと、「真理がある。」と信じたかっただけのことではないか。なんという迷妄、なんという愚かな頑迷であったろうか。そんな思いだった。

 実際、この宇宙には、そしてこの地上には、実に本来的なものは何もなかったではないか。あるのは、ただの戯れ、ただのざわめき、ただの混乱、ただの愚かな願望でしかなかった。

 そして、パキゼーはそれを見抜いていたのだ。既に、遠い昔に、はるか遠い昔に、パキゼーが見抜いていたのだ。

 それが世界の本質だった。でも、それはパキゼーが見抜いていたもの以上ではなかった。そして、そのことは今やっと見えたと思っていたが、実によく考えれば、はるか前から分かっていいはずのものだった。

 本来的に意味を持たないこの宇宙、その宇宙になぜか分からず存在させられているだけの自分、そしてそのことに本来的な意味を付与することもない宇宙の構図、真理は存在しない、ということははなから分かっていたことではないか、という自嘲的な思いもした。

 ただ、今、それが改めて明白に心に突き刺さったことは、それはそれで良かったのかもしれなかった。ようやくにし、初めて、パキゼーの見抜いた真理の一端を垣間見ることができたのかもしれなかった。

 そんなことがナユタにはやっと分かった。初めて心に沁み透った。いや、それは分かったのではない。ずっと前から分かっていて、ただ、それを認めたくなくて、きっと何か真理が、何かほんとうに貴いものがある、ほんとうの価値、本来的な何かが、この時間、この空間、この宇宙にあると信じたかったのだ。

 でも、それはない。幻影にすぎなかったのだ。パキゼーの言う通りなのだ。一切は空。それ以上でもそれ以下でもなかった。そして自分はそんな世界にただ投げ出されているだけの存在、どうでもいい存在なのだ。

 そう思うとなぜか心に悲しみが溢れ、でも、同時に心に清々とした風が吹き抜けるのをナユタは感じた。

「真理なんて存在しないのだ。」

 ナユタは深く頭を垂れ、ヴィカルナ聖仙に祈りを捧げた。

 聖仙はこの真理についてなんと言うのだろうか。

 そんな思いも心を駆け巡った。

 

 次の日の朝早く目覚めて、ベッドから起き出して外を見ると、朝からちらついていた雪が積もり始めていた。ナユタは、改めて

「真理なんて存在しない。」

と小さくつぶやき、灰色の空から舞い落ちる雪を見つめ続けた。

 豊かで満足のゆく生活、快適で幸せな気持ちになれる生活。それで良いのかもしれない。今の世では、都会の神々も含めて、皆、そうやって生きているのだ。しかし、それでも疑問が残った。こんな世界での生活が、この世界で存在することの意味、目標、目的に合致しているのだろうか。この世界において本当に為すべきもの、本当にこうあるべきというものは、現在のこの満たされた生活だったのだろうか。

 そうは思えなかった。

 しかし、それが目指すべきものではないとしたら、いったい何が本当のものなのか。何を本当は為すべきなのか。

 ふと思い立って、長い間しまったままにしていたブルーポールを取り出してみると、青いポールはかすかな輝きをぼうっと放っていた。

 でも、それだけだった。かつてのように、ブルーポールが大空に向かって、そして、全宇宙に向かって強烈な閃光を放つということはなかった。もはやブルーポールが真理を目指す心を高ぶらせ、何ものかにいざなうという時は終わったのかもしれなかった。

 ブルーポールの微かな光を見つめ、降り続く雪を見つめていると、ナユタは再び眠くなって、ベッドに横になってしまった。朝早く目覚めすぎたのかもしれなかった。

 眠ってしまうとナユタは夢を見たが、それは殺伐とした夢だった。

 荒々しい武器の音が交錯し、憎しみを顔にたぎらせた者たちが押し寄せ、ナユタも交えて互いに激しい剣幕でいがみ合った。皆、顔を歪めて相手を罵る汚い言葉を吐き、独りよがりの主張を繰り返し、最後は喧嘩別れだった。

 眠りから覚めると、不快な気分がべっとりと心の底にへばり付いていた。

「これがこの世界なのだ。」

 ナユタはそうつぶやいた。

 ナユタの心の中で、危機に瀕しているという思いがぐつぐつと音を立てた。

 世界の深淵に錨を降ろした妙なる精霊の声は忌まわしい日常性の中に瓦解している。世界を導きつづけた荘厳な光は喪の領域へと後退していった。血塗られた荒野も氾濫する川も視界から消え、豊饒の実りが祭壇の前に並べられ、赤ら顔の祭師が得意げに祈祷をあげている。

 危機に瀕しているのだ。

 だから、永遠の宇宙を流れる真音の響きが必要だった。パキゼーの声が、荒野の中の沈黙の仏頭が必要だった。麦の野をなぎ倒して一瞬の閃光の上を進む異界の者たちのように、一切を顧みず、途方もなく無に近づく瞬間を狂気と錯乱の中で体験することが必要だった。

 けれど、星からの使者はうつむいたまま何も言わず、かつて飛来して来た天使たちは、今は遥か遠い虚空の中に去っている。我と一者との不思議な脈絡を捉えた音楽はその響きを無機物の中に閉じこめられている。

 空気がうっとうしかった。世界に向かって吠えた詩人は、陶酔した色の領域に呪術的な絵画を描いた画家は今はどの時空の中に去ってしまったのか!

 けれどこの地平に刻み込まれた裂け目から目をそらすことはできないのだ。錯綜した線の領域で、狼の吠る川のほとりで、獣の骨を削り、豹の油を塗り、遠い未来の洪水を占い、魔界の魑魅魍魎たちと赤茶けた大地の上で踊り狂わずにはいられないのだ。

 かつて精霊が支配した多層次元の世界を闊歩すること、遊星の上にはいつくばらされた意味不明の象形文字を集めること、それが喜びだった。

 そして、意識によって縛り付けられた世界からは離脱しなければならなかった。この世界の祭壇に捧げられた生贄の数ははかり知れない。

 危機に瀕しているのだ。

 絶対者の意志が瓦解し始めているのが感じられた。

 

 今では心理工学に基づく良い薬があり、それを飲めばこんな気分は一掃されるだろう。でも、それでものが解決されるわけではないのだ。

 そして、実際、世界はどうなっていたのか。世界は、結局、単に、何かに価値を定位した虚構の世界ではなかったか。その中に住まう者たちの心を満たすための虚構が張り巡らされた幻影の世界でしかなかったのではないか。

 そもそもこの世界は生きるに値する世界なのであろうか。仮に世の中の矛盾や理不尽な者がすべてなくなり、すべてが完全で美しいものになったとしても、それでこの世界に生きることにはいかなる意味があると言いうるのであろうか。世界から悲しみや嘆きが消え、喜びと楽しいことだけが溢れたとしても、その世界はいかなる価値をもつと言えるのであろうか。何もないではないか。

 そんなことを心に巡らせて、ナユタはウパシーヴァ仙神を訪ねよう決心した。常に透徹したまなざしでこの世界を眺め、世界の歴史と未来に対して卓越した見識を持っているウパシーヴァ仙神と、改めて、この世界について語り合うべきではないかと思い至ったのだった。

 

 そんな思いを胸に、久しぶりにウパシーヴァ仙神の家を訪れると、仙神はにこやかに迎えてくれた。

「いつものことではあるが、訪ねて来てくれてうれしいよ。わしの方からは一向におまえのところに行こうとしてはおらぬがな。」

 ウパシーヴァ仙神はそう言って笑ったが、家の中に何神かの若い男神や女神がいるのが目に付いた。彼らの姿がナユタの眼に入ったことに気づくと、ウパシーヴァ仙神は言った。

「彼らはマーシュ大学の学生でな。大学のインターンシップの制度で学生がここに二三ヶ月来て、それで単位になるんだ。」

「そうですか。それで、ここではどんなことを?」

「まあ、主には、歴史に対するものの見方の議論とか、未来に対する議論とかな。また、それぞれ、卒業論文の課題とかも持っておるし、それに相談に乗ったりもしておる。そういう意味では、一応、わしもマーシュ大学の非常勤客員教授ということになっておってな。」

「そうですか。いろいろ活動的にしておられるのですね。」

「ああ、若い神々と語り合うのも良い刺激じゃよ。もっともビハールに住みたいとは思わんから、彼らがここに来るなら受け入れるということではあるがな。」

 応接室に案内され、腰を降ろすと、ナユタは改めて問いかけた。

「この世界において、真理はあるのでしょうか。あるとしたら、どんな真理が、どこにあるのでしょうか。そのことをおうかがいしたくて、訪ねて参りました。この世界を虚心坦懐に見つめ直すとき、見えてくるのは、真理に貫かれた世界ではなく、世界の中に存在する者たちが、自分たちの欲望、願望に従って生きているだけの世界です。そして、そんな中から紡ぎ出されてくる世界は、その者たちの心を満たすための虚構が張り巡らされた世界ではないかと思えます。そんな世界は結局、真理とはかけ離れた世界であり、幻影の世界ではないかと思えてなりません。ぜひ、仙神のお考えをお聞かせ願えればと思います。」

 この言葉を聞くと、ウパシーヴァ仙神は笑みを浮かべて答えた。

「いつものことながら、おまえは訪ねてくるたびに、恐ろしく難しいことを問いかけるものだな。まあいい。最終的な答えにはならんだろうが、神々の普通の世界、すなわち、森の外には真理はない、とまずは答えようかな。」

「そうですね。」

 そう言ってナユタがうなずくとウパシーヴァ仙神は続けた。

「改めて言う必要のないことであろうが、神々の世界でも、あるいは創造された過去の人間たちの世界においても、常に世界を支えるための力、社会を支えるための力が作用しておる。世を支え、生きる力を与えるものが褒め称えられ、それを生み出す者たちが賞賛され、評価される世界だ。そして、そうでないものは排除され、森に去るほかないわけだ。そんな世界ではしばしば尊いものが真理の名で語られるが、それはほんとうの真理ではない。ほんとうには、世界は、真理を見ていないし、真理に立脚してもいない。ただ、自分たちの世界を維持するためのものを真理として崇め、尊んでいるに過ぎない。」

「そういう意味では、世界は虚構の中にあり、神々も人間も幻影の中で生きている、あるいは生きてきたということでしょうか。世の者たちは、真理を知らず、真理からかけ離れて生きているように見えます。」

「その通りだ。これまで、何度となく尊い真理が語られ、そして、それは実際、素晴らしい高みに達した思想であったかもしれないが、そんな真理はすべて、社会的なもの、政治的なものなどによって曇らされ、生きるために都合良く構築された考え方や思考によって歪められてきた。かつても今も真理を語る者はあるが、みな本当の真理ではない真理、すなわち、幻影の上に立った真理しか語っていないのだ。」

 そう言うと、ウパシーヴァ仙神はちょっと言葉を句切り、教え諭すような口調で続けた。

「まあ、考えてみるがいい。そもそも真理が世界を動かしているいるわけではない。では、何が世界を動かしているか考えたことがあるか。かつての創造された世界では人間たちが世界を動かしていたわけだが、その人間は、どの形質がより多くの子孫を残せるかという淘汰の過程で有利となる形質を獲得するように進化してきたわけだ。だから、ある意味では、人間たちはその形質に縛られ、その獲得された欲望に縛られて生きてきたと言える。そして、そんな人間たちの欲望が織りなすのがその世界であり、だから、真理が世界を動かすのではなく、その人間たちの形質と欲望が世界を動かしてきたのだ。」

「そのことは人間たちだけでなく、我々にも当てはまるのでしょうね。」

「その通りだ。我々の形質や欲望がどうしてこのようになっているのかは分からないが、ともかく、我々は我々自身の内にある欲求に縛られている。だから、結局、この世界は、この世界に存在する者たちの願望、欲望、衝動の集まりに過ぎない。だから、真理など存在しようがないし、基軸となりうるべくもない。真に美しいもの、崇高なもの、真なるものは存在しうるが、それらは常に脅威にさらされている。それらが安定的に存在するなどということはない。そして、大地の上では、不満、不機嫌、怒り、妬み、嫉みなどが渦巻き、諍いや反感、非難、怒号、罵倒などが溢れているのだ。だから、この世界のものは理不尽なものによって成り立っていると言っていいくらいだ。」

「では、世の中で評価され、称賛されているものについては、どのように仙神は見ておられるでしょうか。」

「たしかに、世の中で、美しいもの、素晴らしいものとして称賛されているものは幾多もある。だが、それらはこの世界に足を下して生み出されたものであって、真理に立って生み出されたものではない。この世界を生きる中で、これが美しい、これが素晴らしいと思えるものを、美しいもの、素晴らしいものと称え、認め合うことでこの世界が成り立っているにすぎぬ。」

「たしかに。それがこの世界を支えているという面もありますし。」

「だから、その曇らされていない真理の元の姿を明らかにし、本当の真理を照明することは意義があると思っている。」

「でも、本当の真理とは、パキゼーの見い出した真理なのでは?」

 このナユタの問いにウパシーヴァ仙神は軽く笑った。

「そうだ。そして、真理と語られているものが、実に、この世界を支えるための虚構に過ぎないということこそがパキゼーが見抜いた真理の核心であり、悟りへと至る灯明だったのではないか。そういった意味では、語られてきた多くの真理、見い出されたいう多くの真理は実に、はなから、本当の真理ではなかったとも言える。本当の真理は、実に、パキゼーが見い出した一切は空という洞見以外にないであろうからな。」

「でも、その真理も空以上のものではない。」

「それはそうだ。それ以上のものがあるとしたら、それは、一切は空ということが真理ではなくなるということだからな。」

 ここで、ナユタはちょっと論点を変えた。

「では、神々の生き方はいかがでしょうか。真理に照らすなら、神々の生き方は間違っていると言えます。」

「ただ、世の神々は言うだろうよ。なぜ、真理に立脚せねばならないのか、とな。結局、現実の世界は欲望の織りなす世界に過ぎない。人であれ、神であれ、皆、自分の中に自らの意思に関係なく存在する衝動によって突き動かされているに過ぎない。真理など空証文のようなものでしかないではないか。」

 この言葉はナユタにも理解できた。真理なんて関係ない。ただ、楽しく、快適に、幸福に生きればそれで良いではないか。それでいけないどんな理由があるというのか?

 だが、パキゼーはそれを否定し、空への道を啓いた。それは真理への道でもあった。だから、パキゼーは世間を避け、ひとり端座する道を選んだのだ。

 そのことに思いをいたし、ナユタは続けて質問した。

「では、世間には真理はないとして、どこに行けば真理はあるのでしょうか。森には真理があるのでしょうか?」

 この問いに、ウパシーヴァ仙神はちょっと考え込んだが、ナユタの目を覗き込むと、次のように言った。

「真理があるとすれば森にしかない、という答えも可能だろうが、では、森にはほんとうに真理はあるのかと問われれば、なんと答えたら良かろうかな。森には、さまざまな真実に通ずる源泉があり、心の束縛を解いた精神の発露がある。だが、我らは幻影の中で生きているのではないと言い切れるのかどうか。それは難しい問題だ。」

「やはり、そういうことになるのでしょうか。実は、真理はどこにも存在しないのではないか、ということに思い至ったのです。それで今日、教えを請いに訪ねてきたのです。」

「そうか。だとすれば、それには、わしは答え得まいな。むしろ、また一度、ドゥータカ行者でも訪ねてみてはどうかな。」

 かつて、ルガルバンダに向かってその画一的な世界観を批判し、ルガルバンダ世界の崩壊を予言する先見の明をもったドゥータカ行者は、今なお森の中で超俗的な修行を続けていると言われる鬼才でもあった。

「前回の創造で人間たちの世界から帰った後、一度、ドゥータカ行者をお訪ねしたことがあります。たいへんな行者で、圧倒されたことを覚えております。」

 そう答えたナユタに、ウパシーヴァ仙神は言った。

「ドゥータカは依然として、古来からの神の心を堅持している数少ない神のひとりだ。学ぶべきものもあるだろう。真理について、彼に問いかけてみると良いかもしれぬな。どんな答えが返ってくるは分からぬがな。」

 こうして、ナユタは再び、ドゥータカ行者を訪ねることにしたのだった。

 

 ナユタが訪ねてゆくと、ドゥータカ行者は依然として質素な生活を続けていた。住まいは昔の洞窟のままだった。ただ、行者は以前のようなあちこち破れたぼろを着てはおらず、こざっぱりした服を着ていた。以前と同様やせ細った体ではあったが、長い髪は梳かして束ね、ひげはきれいに整えており、相変わらず精悍そのものだった。

 ドゥータカ行者は、柔和な表情を見せて言った。

「またやってきたか。久しぶりだな。来る客は拒まんよ。」

 ナユタは簡単な挨拶の言葉を述べると続けて言った。

「まだ、ここに住んでおられるのですね。政府は給付金を出しているはずですので、もう少しましなところに住まれてもと思いますが。ロボットも貸与してもらえますし。」

 だが、ドゥータカは笑って相手にしなかった。

「もう少しましと言うが、ここより、どうましなのか、わしには分からんな。文明など、本来的なものとはまったく関係がない。もっともかつては魚を捕っておったが、肉や魚は工場で作れるようになって生き物を殺す必要がなくなってからは、わしも魚を捕るのを止め、肉や魚を配達してもらっておるがな。木も勝手に切ると文句を言われるので、今は全部電気だしな。」

「そうですか。こんな山奥にもちゃんと配達してくれるのですか。」

 ちょっと驚いたようにナユタが言うと、行者は笑って言った。

「わしよりおまえの方が文明に疎いようじゃの。なんとかパッドで注文すれば、その日のうちにでも、なんとか言う飛行ロボットが空を飛んで届けてくれる。それに、有機太陽電池や有機蓄電池もあって、冷蔵庫もオーブン電子レンジもある。もう久しく火を起こしたこともない。木を切ることができなくなってからしばらくは政府が支給するガスコンロを使っておったが、今では、それも全部電気に変わってな。」

 そう言われて改めて周りを見回すと、洞窟の入り口あたりに有機太陽電池シートが広げられていた。

「あの太陽電池だけでまかなえているんですか。」

 ちょっと怪訝げにナユタが問うと、ドゥータカ行者は付け加えていった。

「いや、あの太陽電池だけでは十分な電気はできなくて、だからガスコンロを使っていたんじゃが、少し前に政府の役神が新しい電池を持ってきてな。なんでも、地中のマグマのエネルギーを使うらしい。わしには詳しいことは分からんがな。ちなみに、その役神は、蓄電池も新しいのに取り替えてくれた。物質の化学的変化を利用するとか言っておったな。ロスなく電気を貯めれる優れものじゃそうな。」

「そうですか。確かに、技術は進歩していますのでね。風力や振動のエネルギーも利用できるようですし、今おっしゃった化学変化を利用するタイプの蓄電池は、以前の蓄電池に比べて飛躍的に効率が上がったそうです。」

「なるほどな。いずれにしても、わしが使う電気など極めて少ないから、蓄電池はいつもほとんど満杯だ。」

 そう言って笑うと、ドゥータカ行者はさらに続けた。

「ついでに言うと、政府が出してくれる給付金はびっくりするくらいの金額だな。パッドに定期的に連絡が来て、残高を知らせてくれるが、わしはほとんど金を使わんから、とんでもない金額になってみたいだ。もっとも、わしにはそれがどれほどのものか正直あまり分かっておらんがな。」

「ドゥータカ様も有機パッドは使われるんですね。」

「ああ、動物も魚も捕ってはいかん。木も切り倒してはいかんと言われたら、パッドで注文する他ないからな。」

 そう言って笑うとドゥータカ行者は真顔に戻って訊いた。

「ところで、今日は何の用かな。」

「今日は、教えを請いたくてやって参りました。真理は存在するのでしょうか?ドゥータカ様は何を目指して修行を続けておられるのでしょうか。そのことを改めておうかがいしたくて参ったのです。」

 この問いかけに、ドゥータカの目がきらりと光った。

「では、真理が存在しないならどうする。」

 一息置いて、ドゥータカ行者が続けた。

「仮に世界に真理がなく、真の道、自らが歩むべき道というものがないとしても、なぜ、それではならないのか。かつて、パキゼーはその道を探し、アーラーラ賢者の道にも、ウッダカ賢者の道にも真理への道がないことを悟り、彼はさらに道を求め続けた。だが、彼が見出したのは、『真理に行き着く道はない。』ということではなかったか。それこそが、『一切は空』というとではなかったか。真理など求めようとしても求め得ないものだという真理をこそ彼は見出したのではなかったか。」

「その通りかもしれません。」

「そんな単純なことも分からぬようだから、おまえはまだまだ青二才なのだよ。」

 そう言ってドゥータカは笑ったが、ナユタはさらに問い続けた。

「たいへん失礼な質問かもしれませんが、そのようなことを踏まえたとき、では、なぜ、ドゥータカ様はこのよう行を続けておられるのでしょうか。」

 ふふふっと笑って、ドゥータカは答えた。

「二つのことを言わねばなるまいな。一つ目は、わしがこの修行を行おうと思っておるというただそれだけのことじゃ。二つ目だが、おまえはまるで、ビハールでの物質的に豊かな生活がここでの修行より良いものとでもいうようなもの言いだな。だが、わしはそうは思っておらぬ。ここでの行よりビハールでの生活がどう良いものなのか、わしにはさっぱり見当もつかぬ。それだけじゃよ。ビハールには、うまいものが溢れ、酒が溢れ、映画やテレビやゲームやスポーツやさまざまなレジャーでみな楽しいでいるようだが、いったい、ここでの修行より何がうれしいのか、何が楽しいのか、わしにはまるで分からんよ。少なくとも、行によってこそ宇宙を体感することはできると言えるしな。」

 その答えにナユタはいちおう小さくうなずいたが、必ずしも納得したわけでないのを見て取ると、ドゥータカ行者は鋭いまなざしをナユタに向けて言った。

「そもそも、この世界というものは、生きるに値する世界なのであろうか?」

 はっとしてナユタがドゥータカ行者を見つめると、行者は少し表情を和らげて続けた。

「答えは簡単だ。ノーだ。それ以外の答えなどありようがない。そんな世界の中で、真理をわめき散らしても、致し方あるまい。だが、この単純なことが理解できねば、そもそも、およそ何事も理解できまい。」

 ナユタは静かに頭を下げた。心に深く響く言葉だった。

「では、この世界が生きるに値しない世界である中で、どのように生きるべきなのでしょう。そして、ドゥータカ様はどのように生きようとされているのでしょう。」

 ドゥータカはまた、ふふっと笑って答えた。

「それに対する答えなどない。答えようとも思わぬ。それだけじゃよ。そんなことを問うおまえこそ青二才そのものじゃよ。」

 返す言葉がなくて、少し考え込み、それでもナユタはやっと言った。

「私の理解はドゥータカ様の高みにまるで行き着いておりませんが、何かを学ばせていただくため、数日、ここに留まらせていただき、以前のように、共に修行させていただきたいのですが。」

 やっとのことでナユタがそう言うと、ドゥータカ行者は笑いながら軽く答えた。

「かまわんよ。ただ、それがおまえにとって何のためになるのか、わしには分からんがな。」

「いえ、ただ、久しぶりにこの行を体験したいだけなのですが。」

「まあ、なんでもいい。気が済むまでやれば良い。では、さっそく始めるかな。」

 そう言うと、ドゥータカ行者は今日の修行の続きを始め、ナユタもそれに倣った。以前と同様、厳しい修行であったが、ナユタはそれをこなした。

 日が暮れて、修行を終えると、ドゥータカ行者は言った。

「相変わらずたいしたものだな。普通は急にこれだけの修行をこなすことはできないものだがな。さて、夕食にでもするか。昔と違って今は料理も簡単だがな。」

 そう言うと、ドゥータカ行者はナユタに手伝わせながら夕食を準備した。魚と野菜をビニール袋に入ったままフードプロセッサにおいて、いくつかボタンを操作すると、魚の切り身は塩こしょうを振りかけられてオーブンで焼かれ、野菜は皮を剥かれて電子レンジで調理されたり、生野菜のまま刻まれたりして出てきた。簡単な料理だったが味は悪くなかった。

 食事をしながら、ドゥータカ行者は言った。

「それにしても食事の準備は簡単になったものだな。昔は、魚を捕り、木の実を集め、畑で野菜を育て、火を起こすための薪もとってこなくてはならんかったからな。調理も面倒で手間がかかったしな。」

「そうですね。本当に時代は変わりましたね。」

「まったくな。だから、昔は、しばしば、食事をするより断食した方がよほど楽だと思って、断食をしばしばしたものだ。それにしても今日の魚はうまいな。」

「この魚はなんですか?」

「さあな。そこのプロセッサの画面に出ていないか?」

 ドゥータカ行者にそう言われて、ナユタはフードプロセッサの画面を見た。

「この魚はノドグロじゃないですか。高級魚ですよ。」

 ちょっと驚いたようにナユタがそう言うと、ドゥータカ行者は冷ややかに言った。

「業者が高い魚を送ってきているということか。まあ、わしの金は信じられんくらいたくさんあるらしいからな。いいお得意さんじゃな。」

「注文するとき、内容とか値段とか確認しないのですか?」

 ドゥータカ行者は大きく笑って言った。

「そんなことするはずないじゃないか。何の得にもならん。世の神なら、自分の金のことをあれこれ考えるのかもしれんが、わしにとってはそんなことはどうでもいい。金なぞ、わしにとっては、単に、パッドに送られてくる数字の列でしかない。それに、金がゼロになったからと言って困ることなど何もないからな。金がなくて、魚も木の実もとってはいかんというなら、霞を食うか、断食すればいいんじゃからな。」

 まったく驚嘆に値する行者であった。

「行者は世のことには関心を持たれないのですか?」

「まったくないわけではない。昔は、ルガルバンダにも苦言を呈しに行ったしな。まあ、そういう意味では、ルガルバンダより前の時代は、この神々の世界の中に、自分の存在すべき居場所があったという感覚だったな。うまく言えんが、世界と自分との有機的な繋がりとでもいうのかな。森の世界も神々の世界とは切っても切れない関係だった。だから、わしも世界に関心を持ち、世界に関与もしてきた。だが、ルガルバンダ以降、世界は変わってしまった。神々は、欲望を満たすことを第一義に考える存在に落ち込んでしまった。だから、森の世界との距離は途方もなく拡大し、ある意味、わしは疎外されて生きているに過ぎんし、だから、わしも世間に関わり合う気もない。さっき、金のことを言ったが、わしにはそもそも金によって得られるものにいったいいかなる意味や価値があるのかさっぱり分からんしな。」

 ある意味、納得できる言葉でもあった。

 食事を終えると、ドゥータカ行者はナユタに手伝わせて皿を食器洗浄機に入れ、ゴミなどは自動焼成機に放り込み、それからナユタを連れて洞窟の前の岩場に座り、星を眺めた。

「まあ、星を見てみろ。かつてと同じ星空じゃよ。」

「はい。」

「なあ、ナユタ。おまえは、この世界に生まれてきて良かったと思っておるか。」

「難しい質問ですが、少なくとも今はそうは思っておりません。」

 ドゥータカ行者は軽く笑った。

「そうか。それは良かった。生まれてきて良かったとも思わぬ世界、その世界に生き続ける。それが真の姿だ。そもそも考えてみるがいい。この現実の世界の中のどこに真理があるというのか。どこにもない。」

 ナユタがかすかにうなずくとドゥータカ行者は続けた。

「そもそも、この世界の本質について考えたことはあるか?この世界には何かが存在している。モノが存在し、我らも存在している。少なくとも、そう思っている。だが、考えてみるがいい。存在とは何なのか?何かが存在し、何ものも存在していないということになっていないのは何故なのか?そしてそんな世界の中にいる自分とは誰なのか?」

 ナユタが星空を見上げながら考え込んでいると、行者は続けた。

「だが、大事なことの一つは、そのような問いをどのような視点から問うかということだ。その視点には大きく二つある。何か分かるか?」

「一つは自分、もう一つは、この世界を造った創成主の視点でしょうか?」

「その通りだ。そして、その両方の視点からそれぞれ探求することだ。まず、自分自身という視点がある。その自分とは、この世界の中に生を受け、自分自身をこの世界の中で見出す自分だ。」

「たしかに、ある意味では、生まれる前は、この世界がどういう世界であるかも知りません。生まれてきて、初めて自分が存在する世界を発見し、その世界の中で自分を位置づけることになります。」

「そうだ。そして、その自分とはまったくの無垢でもまったくの自由でもなく、何かを持って生まれてきた存在、何かに縛られた存在でもある。自分の中の欲求にも縛られておるしな。だが、ともかく、自分がそういう存在であるなら、その自分というものに立って存在の根源を問うこと、それが一つの哲学だ。それは例えば、生まれてきて良かったとも思わぬ世界が存在し、その世界の中に自分が存在しているという現実を哲学するということだ。だが、考えてみるがいい。その自分とは、この世界の始めにいたのでもなければ、世界の終わりに立ち会っているのでもない。そのことに目をやるなら、もう一つの視点が生まれてくる。」

「その視点に立つなら、どうなるんでしょうか?」

「どうなるかは知らんが、この世界の本質に迫るには、その視点を持たねばなるまい。もっとも、そのようなことを知りたいと欲するのもこの世界の中に偶然放り込まれただけの自分でしかないがな。だが、ともかく、その視点は我らに目を見開かせる。」

「その視点に立つなら、どのようなものが見えてくるのでしょか?」

「さあな。」

 ドゥータカ行者はそうあっさり答えただけだった。目を見開かせてくれるが、その結果がどうなるかは知らない。ドゥータカはそう言っているのだ。何を問えば良いのか分からなくなったが、ナユタはあえて言った。

「では、そのような視点に立って、ドゥータカ様は今後どのような道を進んでゆかれるおつもりなのでしょうか?」

 この問いを聞くと、ドゥータカは大きく声を上げて笑った。

「そんなことは分かるはずもない。その視点に立ちたければ、この世界を造った創成主の意思を知らねばなるまい。だが、そんなものはわしには分からん。」

 そう言うと、ドゥータカ行者は空を指さして続けた。

「もう一度、星を見ろ。星だって、何かのために空を巡っているわけじゃない。ただ、空に輝き、空を巡っている、それだけだ。」

 ドゥータカは起ち上がった。

「さて、寝るとするかな。明日も早いぞ。」

 ナユタは一週間、ドゥータカ行者のもとに留まって、ともに修行を続けた。

 ドゥータカ行者のもとでの修行が終わった最後の夜、ナユタは改めて問いかけた。

「つまらない質問かもしれませんが、もう一度、問わせてください。ドゥータカ様は、この世界に生まれてきて良かったかと問われましたが、ドゥータカ様は自分がこの世界に存在し続けていることについてどのようにお考えでしょうか?」

 ドゥータカはふっふっと笑った。

「馬鹿な質問だな。だが、答えは簡単だ。何も思わん。それだけだ。存在していても存在していなくても良い。ただ、今は存在しているというただそれだけのこと。だから、こうして行を続けている。それ以上でもそれ以下でもない。」

 ナユタは一応うなずいたが、さらに問うた。

「重ねての馬鹿な質問かもしれませんが、では、行者は、もし、存在するか存在しないかを選べるとしたら、どちらを選ばれるのでしょうか?」

「それも馬鹿な問いではあるが、別に行によって目指しているものがあるわけではないから、存在している必要など何もない。一方、存在しないことの方がよい本質的な理由も見当たらぬが、存在しなければ、災いも憂いも心乱すことどもも一切なく、そもそもわしにとって世界は存在しないわけだからな。」

 ナユタがかすかにうなずくと、ドゥータカ行者は続けた。

「わしやおまえを含め、この世界の者たちが固執しこだわっているもの、望んでいること、囚われていること、その一切が空であるいうことだ。それこそがパキゼーは見抜いた真理だ。では、その中でどう生きれば良いのかというのがおまえの問いかもしれぬが、答えは簡単だ。その真理に基づくことは重要ではないが、一方、その真理を離れても何もないということだ。」

「その真理そのものが空ということですね。」

「そうだ。だが、実に、この世界の内にある争いごと、もめごとなど現実の中にあるものはその空を理解していないところから生まれている。」

 ドゥータカ行者はここまで言うと、軽い揶揄するような調子で言った。

「おまえもそのひとりかもしれんな。おまえは世界と戦うよう宿命づけられているように見えるな。今回もつまらんことを聞きに来るような青二才に過ぎんし。」

 ナユタはすぐには返す言葉が見つからなかったが、ようやく言った。

「たしかに、私は青二才かもしれませんが、私の道は、この世界の中で本当のもの、真なるものを探し続け、求め続ける道だったように思います。けれど、そんなものは何もなかった。そんな思いに突き当たっているのです。」

 ドゥータカは笑った。

「わしに言わせれば、馬鹿な発想としか言えんがな。そもそも世界の内にそんなものは最初からあるわけがない。どうしてもあるかもしれんと思うなら、ヴィシュヌにでも聞くことだ。まあ、新しい音を探求するのも悪くはないが、おまえは、もう少し、この世界の中で修行せねばならんな。」

 まったく、ドゥータカ行者の言う通りかもしれなかった。

 

 ドゥータカのもとでの修行を終えると、ナユタは丁寧に礼を言い、ドゥータカの元を出立したが、ナユタの心に浮かんだのは、マーシュ師を訪れてみようという考えであった。宇宙の三賢者の筆頭とも言えるマーシュ師、生命を司る慈愛の神であり、同時に古来の創造以来のあらゆる事象に精通した神であるマーシュ師にもう一度教えを請いたいという思いだった。

 ナユタは家に帰ることもせず、マーシュ師のもとを訪れた。

 マーシュ師に会うのは、ビハールでの「ナユタ芸術祭」の記念パーティ以来だった。自宅を訪ねると、場所は昔のままだったが、かつてユビュやナユタが逗留した家はもうなかった。

 そこには新しい家が建っていたが、それは現代的なデザインでなく、古風な雰囲気の木造の家だった。三角の屋根は藁葺きで覆われ、建物内に入ると、天然の木をそのまま活かした柱や梁が目に付き、土間を上がると囲炉裏もあった。

「昔ながらの造りですね。」

 感嘆のまなざしでナユタがそう言うと、マーシュ師は笑って答えた。

「ああ、これが一番落ち着くからな。だが、最新のものもいろいろ取り入れておるよ。この家は藁葺きになっておるが、その藁は植物じゃない。高撥水機能を持ったプラスチックでできてそうじゃ。しかも、透明な電極が張り巡らされ、電気信号によって、光を反射するか吸収するか切り替えたり、断熱機能にするか放熱機能にするかも切り替えるそうじゃ。」

「季節によって変えるということですね。」

「ああ、しかも、それを室内の気温に基づいて自動的にやってくれるから、わしは何もしなくていい。それから、この囲炉裏も、火が燃えているように見えるが、実際には火がついているわけではないんでな。」

 そう言われてよく見ると、炎は単に囲炉裏から発せられる赤い光が空気中の微粒子で乱反射されているだけで、炎に手を入れてもまったく熱くなかった。光を乱反射させるための目には見えない微粒子を囲炉裏の上方の一定空間内に留めておくのが、この技術のポイントのようだったが、たしかに、今の技術水準からみれば、ローテクの域に入るものかもしれなかった。

 ふたりが囲炉裏のそばに座ると、ロボットがお茶を入れて持ってきた。昔ながらの着物を着た娘で、跪いて両手をついて、

「ようこそいらっしゃいました。」

とナユタに挨拶した。

「マーシュ様のところにもロボットがいるんですね。」

「まあな。いろいろ便利になったものだ。日々の雑事がなくなって、とても助かっておるよ。ただ、あまりに暇になって、暇をもてあますこともあるがな。」

 そう言って笑うマーシュ師としばらく近況などの話をした後、ナユタは訪問の目的を告げた。

「ある日、真理は存在しない、ということが心を打ちました。それはパキゼーの悟りによって既に明らかになっていたことかもしれませんが、ともかく、改めて心を打ったのです。そして、そのことは、私はこの世界の中でどう生きてゆけばよいのだろうと疑問と表裏の関係にあり、この疑問にも私は答えを見い出しておりません。」

 ナユタの言葉を聞いてマーシュ師は目を閉じてじっと考え込んでいたが、やがて目を開けると問いかけた。

「ナユタ、生まれてきたときのことを覚えておるか。」

「どういうことでしょう。」

「この世界に生まれてきたものは、最初、世界のことも知らないし、自分のことも知らない。何をなせばどうなるかも知らないし、自分がどうすべきかも知らない。ただ、己の欲することろによって生きているに過ぎない。だが、誰でも、この世界のことを学び、あるいは知り、そして、この世界の中で生きてゆくにはどうしたら良いかを理解するようになる。さらには、自分の意味を問うようになる。だが、その発想は、自らの存在、自分が生きること、自分が生きることの中でなすことに意味を与えようとする欲求と符合したものでしかない。だから、それを乗り越えねばならん。おまえが、真理はないというのは、その段階にようやく差しかかかったということであろうな。」

「では、そのことの先には何があるのでしょうか?」

「すべてがあり、そして、何もない。」

 この謎のような言葉を発するとマーシュ師は改めて言った。

「世界の真の姿を虚心坦懐に見つめること。それだけだ。そして、そのことから、本当の道が始まるのかもしれん。地上の人間たちも、そして世の神々も皆そのことから目を背けて生きている。そして、目の前のことにかかずらわって一喜一憂して生きておる。なあ、ナユタ。もう少し道を歩いてみることかもしれんな。わしに言えることはそれだけじゃ。」

「分かりました。ただ、その道の先には、いったいどのようなものがあるのでしょうか?」

「はっはっはっはっは。」

 声を出して笑ってマーシュ師は答えた。

「その答えがさっき言った通りじゃよ。『すべてがあり、そして、何もない。』それだけじゃ。」

「すべてがあり、そして、何もない。」

 鸚鵡返しにそうつぶやき、ナユタは自分に言い聞かせるように続けた。

「その言葉の意味を私はほんとうには理解していないような気がします。」

「そうだな。そうかもしれんな。だが、ともかく、その道を歩いてみることじゃよ。」

 その答えはある意味、ドゥータカ行者の答えと完全に符合するものでもあった。偉大な神というものは、この世界にも、真理にも囚われず、達観して生き、ものに囚われずに道を歩いているのだ。

 ナユタは頭を下げて、改めて礼を言い、マーシュ師のもとを辞した。

 何かが得られたわけではなかった。ただ、偉大な賢者は、この世界の真の姿を見ながら、ただ朗々と歩を進めているのだ。自分はまだあまりにその境地には遠い。ナユタはそう思わざるを得なかった。ただ、では、真の道はどこにあるのか。それが見えたわけでもなかった。

 来たときと同様、自宅にいるアミティスが操作するレンタカーでスカイウェイ乗り場まで帰り、それから、同じくアミティスの操縦するレンタルスカイウェイに乗った。今では、ナユタの家の庭にもスカイウェイの発着場所があり、そこまでひと飛びなのだ。

 眼下には、広大な緑の森と山が続いていた。神々が文明と科学の力で世界を操っているとしても、その力が及んでいないエリアは依然として広大なのだ。

 そんな眼下の光景を眺めていると、自分はこの巨大な宇宙に浮かぶ小さな大地の上で小さな時間を生きているにすぎないということが改めて心に突き当たった。そもそも宇宙の時間はどれほど長大なのか、そして、宇宙はどこまで広がっているのか。自分たちのような存在者がこの宇宙の別の場所にもいるのか、何も分からなかった。

 ただ、分かっていることが一つだけあった。それは、宇宙の中で、自分、あるいは自分たちは主役ではなく、ただの宇宙の表層を漂う塵のごとき存在でしかないということだった。シャールバがかつて言ったように、我々はすべて、時の流れの渦巻く水面に浮かぶ一片の難破船にすぎないのだ。歴史の真相を知っているのは、誰も知らない唯一者のみなのだ。

 その感覚は別の言葉で言うなら、「世界は壊れている。」という感覚だった。どこにも確かなもの、絶対のものはなかった。すべてはただ生起しているだけであり、どこにも本源的なもの、本来的なものはなかった。そして、自分たちは、その宇宙の中に、根源的な意味もなくただ浮かんでいるだけの存在だった。

 それが世界の姿だった。そんな世界に、いったいどんな真理がありえたと言うのか。

 それこそが、真の「現実」だった。そして、その「現実」を直視するとき、心には疑問が生じざるをえなかった。このような構造の宇宙の広大な空間と長大な時間の中で自分は生きている。時間的にも空間的にも消え入らんばかりの小さな点のような中で生きているに過ぎない。それにいったいどんな意味があるのか。何かを為そうとする行為、それはまるでドンキホーテさながらの滑稽で無益な行為としか見えないのではないか。だから、何かを為したにせよ、いかなる神もそれを嘉することなど、ありうべきはずもない。

 それがヴァーサヴァの創造以来のこの道を歩いてきて悟り得たこと、この世界ついて理解し得たことだった。

 だから、できることはひとつの石を積み重ねることだけ、歴史の膨大な時間が積み重なる瓦礫の山に向かって小さなつぶやきを投げ入れることだだけなのだ。

 でも、それにどんな意味があるというのか?無機的な光がただ宇宙を走っているだけではないのか。

 まったくのことながら、真理などどこにも存在しなかった。光り輝く真理、自分たちの導きとなる真理、その真理が自分たちの存在の意味の照らしてくれるような真理。自分たちの生に意味と価値を付与してくれるような真理。自分たちがこう生きれば真に良いのだと言えるような真理。自分たちの生の寄る辺となる真理。そんなものは存在しなかった。結局、あるのは、ただ、「空」だけなのだ。

 だが、世の神々、ビハールで興奮した生を送る神々は、そういったこととは無縁に、現実を生きていた。立派な生き方に見える神もいたが、そのような神でさえ、この宇宙の現実に立脚してなどいないのだ。彼らが立脚しているのは、「彼らの世界の現実」に過ぎなかった。この小さな星の上の小さな共同体の中で賞賛され、認められるもの、この共同体や仲間たちのために何かを為すこと、それが「彼らの世界の現実」における尊いものなのだ。だが、それは真理とはかけ離れていた。どんな絶対者も、どんな唯一者も決してそれを真理に立脚しているとは言わないだろう。それが、唯一の真理、唯一の真実だった。彼らが信奉している考えの基本は、結局、「宇宙の重心を自分あるいは自分たちのところにもってくる。」ということだった。そもそも、神も人は、自分あるいは自分たちを重心にするような思考をもっており、それが世の思想やあるいは宗教を生んだと言ってもよいだろう。もちろん、偉大な宗教が始まった瞬間、賢者は、本当の真理を見ていたかもしれない。たしかに、パキゼーは見ていたと信じられる。だが、その尊い教えも時間と供に世俗世界のために言い直され、作り替えられ、本質をまるで変えたものとなって、現世の幸福を願う人や神の心に忍び込み、世に受け入れられてきたのだ。

 そろそろ自宅が近づいてきた。スカイウェイが自宅の庭に着陸すると、アミティスが着陸場所で待っていた。

「お帰りなさい。」

 涼やかな笑顔で語りかけるアミティスの笑顔。いつものことながら、心癒やされる瞬間だった。

 

 その夜、ナユタは、星空の下で考え続けた。

 自分は魂の漂泊者でもあったと思えた。自分がこの宇宙に存在することの意味など何もない。ただ、この宇宙の底に存在し、日々、生きているに過ぎない。何を為したところで、真に意味のあるものなど何もなかった。

 そう思うと心に活力が失われ、澱み疲れた感情が心の底にべったりと沈澱しているのが感じられた。

 まさに一切は空に過ぎなかった。

 ハーディにこのことを言ったら、せせら笑うだろうな。

「そんなことははなから分かっていることじゃないか。」

 そう語る彼の声がナユタの耳に聞こえるようだった。

 でも、バラドゥーラ仙神は淡々と言うだろうとも思えた。例えば、

「ああ。まあ、その通りだよ。」

とでも。

 そう思うと、心がかすかに微笑んだ。バラドゥーラ仙神をまた訪ねてみよう。ナユタはそう決心した。

 

2019317日掲載 / 最新改訂版:202087日)

 

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向殿充浩 / 神話『ブルーポールズ』第1巻-1