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神話『ブルーポールズ』

【第6巻】-

向殿充浩

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 さて、夏の間、高原も山も都会からのハイカーや登山客で賑わったが、そんな中、ナユタもリリアンを連れて近くの山に登った。空気の澄んだ気持ちの良い朝、車で家を出てスキー場まで行き、そこからロープウェイとリフトを三本乗り継いで、七合目まで上がり、そこから歩いて山頂を目指した。リリアンにとっては初めての登山だったが、楽しそうだった。

 朝の光の中で、空は透けるように青く、光は幼児のように生き生きと輝いていた。つぶらでまぶしい光の粒。登ってゆくにつれて、雲海も見渡せた。リリアンはその自然の広大さに素直に感動し、また高山植物の一つ一つに目を輝かせた。

 頂上に着くと、遠い峰や雲海が見渡せた。世界は大きく広がっており、青かった。白い雲は大空の中に浮かび、光り輝いていた。そこでは超越的な光がすべての時間の流れを止めているかのようでもあった。

 山頂でアミティスが作って来てくれたお弁当を一緒に食べて山頂から下ると、帰りはリフトに乗らず歩いて下った。草むらの中の道を進むと、さまざまな色の花が咲いており、ハチや蝶々やアブが飛び回っていた。バッタが飛び跳ねることもあったし、どこで鳴いているのか分からなかったが、キリギリスが騒がしく鳴くのも聞くことができた。

 そんな草の斜面を下っていると、不意にリリアンが声を上げた。

「四つ葉のクローバーを見つけた。」

「えっ?四つ葉のクローバー?」

 そう言ってナユタもそばに寄ると、たしかに四つ葉のクローバーが一本あった。かつて地上の世界で、四つ葉のクローバーが幸せを呼ぶと言われていたことを受けて、神々の世界でも四つ葉のクローバーは素敵なものとして扱われていた。

「すごいじゃない。ぼくも生えているのを見たのは初めてだよ。」

「私も。でも、これ、どうしたらいいかしら。」

「世の中では、もって帰って押し花のようにするみたいだけどね。」

「でも、せっかくここで生きているのに、四つ葉だという理由で抜かれるのはかわいそうね。」

「じゃあ、写真にだけ撮ったら?」

「そうね。」

 そう答えて、彼女は、四つ葉のクローバーにペン型カメラを近づけ、フレキシブル有機パッドで画像を確認しつつ何枚か撮影した。

 普通ならこれをネットにアップしたり、友人に送ったりするのかもしれないが、彼女はただ写真に撮っただけだった。

 さらに歩いて下り、ロープウェイで麓まで降りるとふたりはアミティスの車で風の館に行った。風の館に着いたときは、夕暮れが近かったが、カウティリヤはふたりをベランダの席に案内してくれた。空にはまだ透けるような青空が広がっていて、西の空はうっすら赤く輝き始めていた。こんな一日の最後に、風の館で夕食をとるのも素敵なことだった。

 風の館では、サナムが秋の写真展に出品する準備で忙しくしているという話を聞いた。高原の夏を写した写真を六〜七枚展示するということで、候補の写真をフレキシブル有機パッドで見せてくれた。ナユタの庭で撮った写真もあったし、風の館から撮した写真もあった。だが、自然を写した写真は一枚だけだった。

「自然はたしかに美しいし、心を打つものもあるけど、自然の美しさを撮るだけじゃ世界の本質的な何かを撮すことにならない。」

 彼女はそう言って、自然写真家からの脱皮を目指していることを語った。ナユタが特に気に入った写真は、ナユタとナスリーンが木の楽器を打ち鳴らしている写真とカウティリヤが庭の畑で野菜を収穫している写真だった。カウティリヤの一枚は、炎天下の畑で汗をぬぐう一瞬を望遠レンズで捉えたもので、カウティリヤの生き様が滲み出ているかのようだった。

 

 それからしばらく平穏な日々が続いたが、ある日、突然、ナタラーヤ聖仙がナユタの家にやってきた。

 あまりのことに言葉を失って驚くナユタにナタラーヤ聖仙は言った。

「おまえに渡したいものがあったのでな。それが何かは後で言うとして、世界が倦んでおるのではないかと思うてな。おまえにどうしても会いたかったんじゃ。」

 ナユタがナタラーヤ聖仙に会ったのは、実に、ルガルバンダとの戦いの前、パンチャジャナとパシュパタを授かったとき以来だった。あれから膨大な年月が流れていたが、世界が危機に瀕した時、ナタラーヤ聖仙は常に世界を導くのだ。

 そんな思いを持ちながら、ナユタはナタラーヤ聖仙に丁寧にあいさつし、リリアンも呼んで引き合わせた。

 一通りに挨拶が済むと、ナタラーヤ聖仙は次のように言った。

「世界はおまえが思い描いていた世界とはまるで異なっておるのであろうな。そして、また、このわしが思い描いていた世界ともまるで異なっておる。だがな、ナユタ。世界がこのような世界だというなら、それで良い。これが神々が選んだ世界なのだからな。」

 この意外な言葉にナユタは何と言っていいのか分からず、戸惑った。

「ほんとうにそれで良いのでしょうか。」

とナユタは言い出しかかったが、言葉にすることができずにいると、ナタラーヤ聖仙は続けて言った。

「ほんとうに世界がこれで良いのか、とおまえは思っておるのだろう。だが、大事なことは世界がこれで良いかどうかというだろうか?」

と問いかけた。

 これにもナユタが答えられずにいると、ナタラーヤ聖仙はさらに続けた。

「大切なのは、むしろ、おまえ自身がどうあるかということではないかな。世界がどうあるべきかということと、おまえがどう生きるかということは別の問題だ。ユビュは隠遁の道を選んだが、それも一つの道だろう。だが、それが唯一の道でもあるまい。おまえにはおまえの道があるのでは?」

 そう言うと、ナタラーヤ聖仙は続けた。

「かつて神々はみなその定められたところに基づいて生きていた。為すべきことを為すこと、それこそが神としての使命だった。おまえの歩みもかつてはそうだった。だが、今、世界は変わった。使命に代わって欲望が神々を動かしておる。おまえは、そのような神の在り方そのものに疑問を投げ、神としての我々の存在の意味も含めて、在り方を問おうとしている。それも、おまえの定めなのかもしれぬが、それで良い。」

 ナユタが黙ってこの言葉を噛みしめていると、ナタラーヤ聖仙は、ずっしりと重い声で語りかけた。

「ナユタ、もう一度世界に光を輝かせてみることだ。」

 そう言って聖仙が持ってきた袋から取り出しのはなんとブルーポールだった。

「これは、」

と息を飲んで驚くナユタに、ナタラーヤ聖仙は続けた。

「そうだ、ナユタ。これはおまえのブルーポールだ。だから、これをおまえに返すとしよう。」

 そう言ってナタラーヤ聖仙はブルーポールをナユタに手渡したが、ナユタは戸惑ったままだった。

「このブルーポールによって、何を輝かせれば良いのでしょう。」

 すると、聖仙はあっさりと答えた。

「さあな。わしが言えるのは、おまえは孤高の神、ナユタだということ。それだけだ。」

 そう言うと、ナタラーヤ聖仙は謎のような言葉で語りかけた。

「未知なるものへの風は疾風となって舞い上がっている。過去の神は忘れ去られてしまうだろう。だが、おまえは違う。おまえは、未知なるものを追い求める孤高の神だからだ。新たなものを呼び起こす息吹きは常におまえの中から生まれ出ようとしている。おまえが道を行こうとするところ、必ずブルーポールの加護があるだろう。」

 それがナタラーヤ聖仙の答えだった。

「では、わしは行くとするよ。」

 聖仙はそう言うと、あっさりと姿を消したのだった。

 その夜、ナユタはひとり部屋のベランダに座り、月を眺めながら、ナタラーヤ聖仙から手渡されたブルーポールの意味を考え続けた。静寂が舞い降りた森の上で、満月が煌々と明るかった。

 ヴァーサヴァの創造以来の様々な出来事がナユタの心をよぎった。その創造がパキゼーの法の輝きとともに帰滅した後、再び、ルガルバンダの声によって世界が呼び起こされたこと、そして新たな激動の時代が始まって以来のさまざまなことが次々とナユタの心を駆け巡った。

 それは悲しみを含んだ縹渺たる思いをナユタの心に沸き立たせ、それに共鳴するかのように、そばのブルーポールが月明かりの下で青白く光を放った。

 ナユタは、詩の数句を口に出した。

   宇宙からの風を感じ、

   打楽器の即興的な響きが交錯する空間で、

   ひとりの導師が古い経典の言葉を朗誦する。

   色鮮やかなマンダラの上で、

   瞑想を続ける菩薩たちと踊り狂う鬼神たち。

   ぼくは世界の底で怯える石たちとともに宇宙の風を肌で感じ、

 そこまでナユタが詩句を口にしたその瞬間だった。かすかに青白い光を放っていたブルーポールは突如として真っ青な発光を夜空に放った。

 その高貴な光はビハールの神々の目にも留まり、ウバリートのユビュの元にも届いた。

 神々は心を高ぶらせ、口々に驚嘆の声を上げた。

「ナユタだ。」

「ナユタの光だ。」

「ブルーポールだ。」

「なぜ、ブルーポールの光が。」

 この科学技術の時代にブルーポールの光が大空に発せられたということに無数の神々が驚き、そして心を揺さぶられた。

 だが、それだけではなかった。

 シュリーの宮殿に立て掛けられていたシュリーのブルーポールはナユタのブルーポールの発光に呼応するかのように輝き出し、また、ユビュのブルーポールもウバリートで光り出したのだった。

 大空に三条の青い光の帯が輝くのをすべての神が見つめた。それは、太古の時代この方、神々の心の中に宿っていた崇高な魂の奥底に響くものであり、かつてのナユタの軌跡、あるいはナッチェルの野での決戦の時のブルーポールの輝きを思い出させるものだった。

 真理を目指す光が、一瞬とはいえ解き放たれたのだった。

 ただ、テレビ局は一つのニュースとして、やや冷ややかにこの出来事を伝えただけだった。

 あるキャスターは述べた。

「なぜ、今、このような時代の中、この平穏な世界の状況のもとでブルーポールが光を放たねばならなかったのかは分かりません。ただ、その光が多くの神々の心に衝撃を与えたことだけは確かなようです。」

 また、別のテレビ局では、キャスターが問い掛けた。

「なぜナユタはこのような光を放たせたのでしょうか。この世界に対して言うべきこと、伝えたいこと、主張したいことがあるなら、ここに来て、テレビの前でしゃべればいいと思いますが。」

 これに対して、同席していた著名なコメンテーターは付け加えて言った。

「なんでも、ナユタは、何のために生きているのか、生きる意味は何なのか、というようなことをいまだに問い求めているとも聞きます。しかし、我々はまさに今を生きているのであり、そのような問いが現代のこの今の時代にどのような意味があるのか、というような思いを多くの神がも持っているのではないでしょうか。」

 このような冷ややかな発言の背景には、テレビが一般視聴者に向けて放映されており、視聴率こそがもっとも重要な成果指標であるというテレビ局の立場があるのは間違いなかった。そして、ある意味、テレビ局の者たちは、自分たちが社会を取り仕切り、時代を取り仕切り先導しているという思い上がり、ないしは思い込みをしているのだ。

 だが、ブルーポールの衝撃は、決して小さくはなかった。それは、テレビ局のキャスターたちがひと時のできごと、ひとつの話題として軽く考えていた程度のものではなかった。

 なんと言ってもブルーポールの発光ではないか。かつて、ヴィダールの創造の際に発光して以来のブルーポールの青い光が夜空に放たれたのだ。少なからぬ神々の心を貫く何かがあったことは確かだった。

 バルマン師はつぶやいた。

「あの時のことを思い出す。ヴァーサヴァの七本目のブルーポールがナユタの神通力で折られ、ナユタが宇宙の涯てを出立した時のことがまざまざと思い出される。再び、ナユタが宇宙に対して、その底知れぬ力を発揮しようとしているのかもしれぬ。」

 ウダヤ師も静かに語った。

「ナユタの力が今の世界にどのように影響を及ぼし得るかは分からぬが、ナユタの真摯な心だけは昔のままだ。」

 マーシュ師も言った。

「世界は、この発光をただひと時の事件ととらえ、そして忘れ去ろうとするかもしれない。だが、ここに、ナユタの発光が世界を揺さぶったということ、そして、それをなし得るのは彼しかいないということ、そのことを胸の底に刻んでおくとしよう。」

 そして、ユビュは、この発光に心を揺さぶられ、さらには、自分のブルーポールがナユタのブルーポールに共鳴して青い光を放ったことに深く心を打たれ、ひとりつぶやいた。

「私はブルーポールの輝きを忘れ、封印してしまっていたかもしれない。ナユタの放った光は、なんと心を高ぶらせたことか。」

 彼女はその素直な気持ちをオプトメールでナユタに伝えて、しばらく経って、ユビュは一つの決意を胸に、ナユタの元を訪れたのだった。

 ナユタは、リリアン、ナスリーン、カウティリヤとともにユビュを迎えた。ユビュが来るというので、バラドゥーラ仙神もやって来た。

 アミティスがみんなにお茶とケーキを運んできてユビュに挨拶すると、ユビュはにこやかに挨拶を返した。

「アミティスさん、良いお名前ですね。どうぞ、よろしく。」

 いつものようにアミティスは頬を赤くして笑顔を見せ、みんなにケーキとシャーベットの乗ったプレートとお茶を配った。

「今日は、ユビュ様が来られるというので、このあたりで咲くラベンダーの香りを使ったシャーベットを用意しました。ケーキもこのあたりで採れるブルーベリーやラズベリーを使ったものなんです。お茶はミントティーです。ミントは、リリアンと一緒に庭で育てているんです。」

 アミティスが奥に下がると、ユビュは屈託なく笑って言った。

「私たちの生活も随分変わりましたね。私はウバリートで隠遁の生活を送っていますが、でも、尼僧のような生活を送っているわけではないんですよ。」

 そう言うと、ユビュはさらに続けた。

「今では私のところにもロボットが来ましたしね。シュリーが贈ってくれたんです。男と女とどっちが良いかと言うので、女神型のロボットを贈ってもらいました。彼女のおかげで、とても気持ちよく過ごしています。こちらのアミティスさんも素敵ですけどね。姉のシュリーとは、前回の創造の時にビハールで会い、その時は気まずく別れましたが、その後、シュリーとヴィダールはいろいろ気を使ってくれましてね。」

「まあ、宇宙の女王陛下の妹君であらせられるからな。シュリーの権威のためにも、ウバリートの館は立派にしたいであろうしな。」

 やや皮肉っぽくそう言ったバラドゥーラ仙神に対して、ユビュは微かに笑みを浮かべて続けた。

「シュリーとヴィダールはいろいろ提案してくれましてね。立派な塔を建てたいとか、大講堂を作って学者に講義させたいとか、あるいは、美しい庭園を造りたいとか。でも、そんな大げさなものは全部断りました。学園での学問のための予算については遠慮なく受け取っていますが、それ以上は要りません。学園はナキアさんに任せ、私はのんびりと日を送っています。だから私には、昔ナユタに来てもらって時に案内した手作りの庭だけで十分。ただ、新しい空調システムや、有機太陽電池、有機テレビ、オプトネットは入れてもらいました。さらに、最近はロボットも来ましたので、私の生活も快適になりました。」

 それからしばらく、最近の世界の変化や生活の変化のことが話題となったが、その話が一段落すると、ユビュは今回の来訪の目的について説明し始めた。

「あの日、突然、ナユタのブルーポールの発光が空を駆けるのを見て本当にびっくりしました。そして、それ以上に衝撃だったのは、私のブルーポールがそれに共鳴して発光したことでした。何かが私たちに訴えている、ブルーポールが世界に警告を発している、そう私は感じました。だから、今日、ここにやって来たのです。」

 そう語ったユビュは、さらに続けて言った。

「この世界が私の心に適っているかと言えば、そうではありません。また、この世界は、パキゼーの教えからも遠く隔たっていると思います。でも、おそらく、パキゼーの教えが、この世界を再び覆うことはもはやないのでしょう。世界は別のものになってしまいました。その世界の中で、私にできることはただただパキゼーが指し示した道を歩くことだけですが、でも、ナユタ、あなたは違います。あなたは真理を見つめることのできる神であり、世界の中に新たな道を切り開く孤高のまなざしを持っています。」

「でも、ユビュ、私はビハールを離れて以来、森で暮らす市井の神にすぎない。ナタラーヤ聖仙がお越しになって改めてブルーポールを授かり、そしてそのブルーポールが再び強烈な発光を放ったことには私自身も驚いているが、この世界が私自身の心からも遠く隔たったものになっているのも事実。そのことは、この前ビハールに行っていやと言うほど味わってきたからね。」

 そう言うナユタにユビュは静かに答えた。

「世界を根底から変える力は私たちにはないかもしれません。かつてパキゼーは、世間には世間の道があり、私は世間とは争わない、と言いました。ただ、パキゼーは、ナタラーヤ聖仙に諭され、世界には心の目を持つものがあることを知り、そして、教えを説きました。だから、ナユタ、あなたが世間と争う必要はありません。ただ、あなたの道を示せばよいのではないでしょうか。」

「そうかもしれんな。」

 そう言ったのは、バラドゥーラ仙神だった。仙神は続けた。

「わしらは世間を避け、森に引きこもり続けてきた。だが、世界が科学技術の力で平穏で平板な世界となった今、真理へのまなざしをもつ者は、もはや森にしかないのかもしれぬ。はるか昔、『森の中にあって追い求め続けているものは、元来、森の外の世界のためのものではないが、いつか、森の外の世界との関わることになるかもしれん。』と言ったことがあるが、覚えておるかね。今、まさに、その時が来ているのかもしれん。」

「では、私たちはどうすればよいのでしょう。」

 そう問いかけるナユタに、ユビュが静かに答えた。

「どうすればいいかは分かりませんが、私はビハールに行こうと思います。今回のブルーポールの発光で心を揺さぶられた神々も少なくないはず。そしてまた、姉シュリーのブルーポールが共鳴して発光したことで、シュリーとヴィダールも衝撃を受けていると思います。」

 この言葉に、バラドゥーラ仙神はうなずいて言った。

「それが良いかもしれませんな。」

 ユビュがナユタの元を離れると、仙神は改めて言った。

「ユビュが動く時、常に世界が動いてきた。今また、新たに世界が動くのかもしれんな。」

 

 ビハールに出てきたユビュをシュリーとヴィダールは丁重に迎えた。ナユタのブルーポールの発光がユビュとシュリーのブルーポールの発光を引き起こしたことがシュリーとヴィダールに慎重な対応をとらせたのは明らかだった。

 シュリーは、ウバリートでの近況を尋ね、それに対してユビュは、ロボットを贈ってもらったことに改めてお礼を言った。

「それはようございました。ユビュ様のお好みに合うよう、ウダヤ技術院の技術者の粋を集めたかいがありました。」

 そうヴィダールが言うと、シュリーも素直に喜んで言った。

「ロボットは要らないと言われるんじゃないかと心配したけど、気に入ってもらってなにより。」

 会談がにこやかに進む中、ユビュは本題について切り出した。

「神々はこの進歩した世界で、安閑とした生活を楽しんでいます。そして、自由性愛に心を溶け込ませ、この世界が与えてくれるさまざまな刺激に心を弾ませて生きています。しかし、かつてパキゼーは、人間たちが混乱した世界で心を軋ませている中、ナタラーヤ聖仙より、心に目の開いた人間がいることを諭され、法を説きました。同じように、神々の世界にも心ある者がいるはずではないでしょうか。世の神々は、現状のままで良いと思っているかもしれません。しかし、ナユタのブルーポールが発光し、さらに、私とシュリー姉さんのブルーポールがそれに共鳴して発光したことは、この現状に対する警告ではないでしょうか。」

 このユビュの問いかけに対して、ヴィダールは巧みに答えた。

「たしかにその通りかもしれません。私も元々は森の神。世俗の神々の軽薄さには辟易している部分がないとは言えません。それは、創造を司る高貴な家柄のシュリー様やユビュ様も同様ではないかと思います。もっとも世の神々のレベルがこの程度であることは昔から分かっていたことではありますが。ただ、ともかくも、私はこの世界の科学的進展それ自身には価値を感じています。それゆえ、この世界を否定する気はありませんが、それだけでいいかどうかは別の話です。ナユタが投げかけたものに対して、真摯に対応するべきと考えています。」

 シュリーが軽くうなずくと、ヴィダールはさらに続けて言った。

「ナユタはかつては宇宙の英雄であり、勇敢な戦士でしたが、今は、むしろ、音楽家というべきでしょう。また、ナユタの回りには芸術家や詩人も集まっているようです。数か月前にも、そのひとりがビハールで、前衛の詩の上演会を行ったようですしね。どうでしょう。ナユタを中心にした芸術祭を催すというのは。ナユタは宇宙の英雄であり、また、ルガルバンダの覇権を砕いて現在の世界を拓いた功労者でもあります。そのナユタが今、世に訴えたいことを一大芸術祭の形で示すというのは素晴らしいことのように思えますが。」

 この提案はシュリーも同意済みの提案のようであった。あとで伝わってきたところによると、最初、シュリーは良い顔をしなかったようだが、ヴィダールは、

「ブルーポールの発光はいつも神々を震撼させ、世界を動かしてきました。」

と言って今回のブルーポールの発光を軽んじることを諌め、さらには、ユビュやナユタとの和解のためにもこの機会を逃すべきでないと説いたとのことであった。

 実際、ここで、ユビュとナユタを味方につけておけば、その後の政府運営に計り知れないメリットがあることは容易に想像できることでもあった。また、ヴィダールが本来、森の神であったことから、心の底でナユタに共鳴する部分もあったのではないかとも推察できた。

 さらに、後でナユタがドレッシェルから聞いたところによると、ライリーには、最近、創造審査委員会などで騒がしくなっている新たな創造の提案に対して、最終的にロボットが支配することになるような新たな創造を始めるのではなく、この神々の世界の中で、なお、新鮮な新たな道がありうることを世に訴えかけたいという思惑があったようだった。そういった道を歩いている者がいることを世に示し、新たな創造の不要性を印象づけたいというのがライリーの考えということだった。 

 ともかく、シュリーはユビュに言った。

「父ヴァーサヴァの最後の創造以来、ナユタとの間には、いろいろなこと、正直に言えば、あまりうれしからざることがいろいろあったけど、それらをすべてを清算し、真の意味で和解するという意味でも、この芸術祭は意味があると思ってます。ユビュ、おまえが賛成なら、ぜひこの企画を進めたいのだけど。」

 ユビュもナユタをこの世界の中に位置づける取り組みに異存はなかった。正直言って、この発光に対するシュリーやヴィダールの反発や無視も予想できなくはなかっただけに、この提案はユビュをほっとさせた。ユビュはこの提案に素直に賛成し、さらに付け加えて言った。

「私は、できれば、ウダヤ芸術院かマーシュ大学にナユタの講座を開いて、そこで学生への講義や研究生への指導もしてもらってはどうかと思っていますが、どうでしょうか。」

 この提案に、ヴィダールはうなずきつつも、こう答えた。

「その提案はごもっともです。私たちもそれに異存はありません。ただ、ナユタを招くことは、教授連が行なっていますし、今もその提案は続けています。実際、ナユタはしばらく前に、二年近くこのビハールに住んでいましたしね。ただ、今のところ、ナユタ自身が同意してくれていないのです。そもそも、今回、森に帰る前にも、教授たちはナユタに大学に残るように要請したのですが、ナユタはそれを受けませんでした。ただ、今後、私どもからも、より強力にナユタに要請することは続けたいと思います。むしろ、それより、私たちが考え、ユビュ様にもご同意いただいた芸術祭にナユタが同意してくれるかどうかが心配です。もちろん、私たちも努力しますが、ぜひ、ユビュ様からもこの企画にナユタが同意してくれるよう説得をお願いしたいと考えております。」

「分かりました。私にできることは、なんでも致しましょう。」

 そう答えたユビュに対して、ヴィダールはさらに一つの提案を行った。

「それで、もう一つ、提案と言うか、お願いがあるのですが、この企画の委員長にユビュ様になっていただけないでしょうか。もちろん、それなりに忙しくなりますので、その点は恐縮ではありますが、十分なスタッフも配置します。なんといっても、ユビュ様に委員長になっていただければ、この芸術祭に大きな箔がつくというものでもありますので。」

 ユビュはこの提案にも同意した。

 こうして、ユビュを委員長とする芸術祭の企画がスタートした。ユビュは、オプトネットテレビでナユタと話をして同意を取り付け、『ナユタ芸術祭―ナユタとその仲間たち展』という芸術祭が行なわれることになったのだった。

 サブタイトルにつけられた「ナユタとその仲間たち」という言葉は、サナムが作った私的な写真集の題名から採られたものだった。この企画ではサナムの写真も展示されることになったが、彼女は、同時に、この芸術祭の準備段階からから会期中に至るまでの専属写真家として活動することになった。

 文化省を中心とする政府のスタッフが中心になって企画を進め、さらに、テレビ局などの協力も取り付けて、準備はスムーズに進められた。財務長官のシャンターヤは十分すぎるほどの予算を準備し、

「金に糸目は付けるな。ナユタのためにできることは何でもやるんだ。」

と側近に指示したということだった。

 この企画がスタートすると、秋から冬、そして春にかけてユビュもナユタも忙しかった。ナユタは頻繁にウェブミーティングに参加しなければならなかったし、毎日のように何件ものメールが飛び込んできた。ビハールにも何回か行かねばならなかった。

 政府スタッフとの折衝では彼らの前例主義や保身の姿勢にぶつかり、苦労することも多かった。彼らは、ヴィダールやシャンターヤから強い指示を受けており、この企画をなんとしても成功させねばならなかったが、彼らの基本にある発想は、事なかれ主義であり、うまく成功したという形を作ることであるということをナユタはいやというほど感じ取った。

 実際、ナユタや仲間たちがこうしたいということもしばしばさまざまな理由で障害に突き当たった。政府のスタッフにとっては、この企画の真の成功よりも、成功したと上に認めてもらうことこそ重要なためだった。

「いろいろ苦労するわね。」

とリリアンは言ったが、ナユタは笑って答えた。

「ほんとに、途惑うこと、困惑すること、納得のいかないことが少なくないよ。でも、なんと言っても、新しいことをやるというのはわくわくするものだ。」

「これじゃ、ビハールにいた方が良いくらいね。」

 ナユタは肩をすくめた。

「でも、あそこにいたら、気が滅入ってしまうよ。それに準備にしても、心を研ぎ澄ませて判断しなくちゃならないこともいろいろあるからね。」

 リリアンも芸術祭に出品するための作品に余念がなかった。彼女は、

「出品すべき時間に合わせて描くのは好きじゃない。」

と言いつつも、作品の作製を着々と進めているようだった。

 また、カウティリヤは客があまり来ない冬の期間を利用して、毎日のように土偶の作製に取り組んでいた。ある日、ナユタが風の館に行くと、カウティリヤは天を仰ぐ土偶を見せてくれた。タイトルは『天に祈る』だった。

 こうして準備は着々と進み、五月から四か月間に渡る芸術祭が始まった。主会場は、ビハール一の音響設備を誇るビハール芸術劇場が使われた。この劇場には美術品を展示できる展示室もあり、そこに美術品が展示された。リリアンやカウティリヤ、さらには、ナユタと親交のあるウダヤ芸術院のメンバー、さらには森の神々が出展した。展示室の一角にはハーディの詩も飾られた。

 会場の入り口には、サナムが写したナユタとユビュのツーショット写真が飾られ、会場内の至る所に彼女の写真が掲示された。リリアン、カウティリヤ、ハーディの部屋にはそれぞれ彼らの写真が掲載されたし、サナムの写真のための一室も設けられた。

 開会の前日、関係者を集めた開催記念パーティが開かれた。このパーティには、バルマン師、ウダヤ師、マーシュ師も駆けつけた。ナユタもユビュも久しぶりの再会を喜び、思い出話や近況報告などに花を咲かせた。

 報道陣が集まる中、七神がカメラに収まった。一枚目の写真では、中央にナユタとユビュが座り、その両脇にヴィダールとシュリー、後ろに三賢神が並んだ。二枚目の写真では、中央にシュリーとユビュが座り、その両脇にヴィダールとナユタ、後ろに三賢神が並んだ。それはまさに、シュリー、ヴィダールとユビュ、ナユタの和解を象徴する写真であり、新聞、テレビ、ネットに繰り返し掲載された。この写真に感慨深いものがある神々も少なくないはずだった。

 シュリーとヴィダールはそれぞれ開会にふさわしいお祝いのスピーチを行い、ユビュとナユタもそれぞれ感謝の言葉とともにスピーチを行った。

 次の日、開会は、クレンペラーの演奏会から始まった。これはナユタがクレンペラーに敬意を表し、その演奏会が初日を飾ることを強く希望したためだった。巨匠は、その初日、ツィンマーの鎮魂交響曲とグスタフの第一番の交響曲を演奏した。

 ツィンマーの鎮魂交響曲は、もともとシュリーの戴冠のためにヴィダールが依頼したものだったが、依頼期日に少し間に合わなかったのと、その重苦しい楽想が戴冠の祝典に好ましくないと政府が判断したことで、結局、お蔵入りになったといういわくつきの作品であった。だが、この日、クレンペラーの演奏したこの曲は素晴らしく、神々の魂の奥底に眠っているものに語りかけずにはいない響きが響き渡った。そして、この曲がこの記念すべき芸術祭の冒頭に演奏されたということは、シュリーとツィンマー、さらには、シュリーとナユタの和解を象徴するものでもあった。

 次のグスタフの第一交響曲では、青春ののびやかさに富み、世界と自然へのあこがれに満ちた旋律でつづられたこの美しい曲を、クレンペラーが、彼独特の厳格な表現に支えられた大きなスケールで演奏した。それは、この交響曲が単なるロマン主義の曲ではなく、壮大な世界観に繋がるものを包含していることを十分に感じ取らせるものであった。

 その後、クレンペラーはほぼ二週間おきに演奏会を開いた。第2回は、アマデウスの第二十九番とグスタフの第二番の交響曲、第三回はグルタフの第三番の交響曲、第四回はアーノルドの室内交響曲第一番とグスタフの第四番、第五回はアマデウスの第四十番の交響曲とグスタフの第五番、第六回はアーノルドのヴァイオリン協奏曲とグスタフの第六番の交響曲と続いた。第六交響曲の演奏は素晴らしく、特に、その第三楽章の寂寥感はこの世のものと思えないほど透き通り、運命に翻弄される厳しい世界の中で交錯する牧歌的な響きが希求の思いを昇華させる如くであった。そして、第七回ではアーノルドの浄められた夜とグスタフの先輩作曲家であったアントンの第八番が演奏された。そして、第八回目のコンサートでは、セバスチャンのブランデンブルグ協奏曲第一番とグスタフの第九番が演奏され、第九回ではアマデウスの第四十一番の交響曲とグスタフの第十番が演奏された。そして、最後の第十回では、ゲーベルの『グスタフに捧げる頌歌』とグスタフの第十一番の交響曲が演奏された。そのどれもが、壮大で真摯なクレンペラーの演奏によってその美しさと涯しない深みで訴えかけ、聴衆に深い感動をもたらしたのだった。

 そしてこの芸術祭での一つの重要な企画は、ウバリート旅行団の復活だった。それはナユタの念願の一つでもあり、彼はかつての六神のメンバーを集めようとした。そのうち、集まったのは四神だけだったが、それでもナユタは、伝説となったかつてのウバリート旅行団の響きを再び奏でようと集まってくれたかつての仲間に深く感謝した。そして、この即興集団にナスリーンが加わってくれた。

 ナユタはさらに、バルマン師とエシューナ仙神にも参加を請うたが、最初、ふたりから同意は得られなかった。バルマン師からの返事は、

「わしは依然として音の道を求めてはおるが、そもそもそれは他者に聞かせるための音ではないしな。」

というものであったし、エシューナ仙神からは、

「ウバリート旅行団の音には最大限の敬意を表しておるが、それはわしには生み出せぬ音じゃな。」

という返事が返ってきた。

 だが、ナユタは諦めず、ウバリート旅行団とは別に、ナユタ、ナスリーン、シュヴァイガー、バルマン師、エシューナ仙神の共演を行うことを提案し、バルマン師とエシューナ仙神はこれに同意したのだった。

 芸術祭のさ中の七月一五日、伝説となっていたウバリート旅行団が再び舞台に立った。ナスリーンが木でできた打楽器から小さなトレモロの響きを奏で始めて曲が始まると、バルマン師から借り受けた磬の金属的な音が重なり、ナユタのエレクトリックヴァイオリンが宇宙を漂う音を釣り上げてきたかのような滔々とした音列を響かせた。そして、それらの音はコンピュータに取り込まれてさまざまな音色の電子音に変調されて楽器からの生の音と共鳴し、さらに、サントゥール、声、銅鐸、石笛、鈴などの響きと交錯した。

 電子音のうねりが時間を越えて流れ続け、その中をナスリーンの乾いた木の音、サントゥールの美しい韻律、石笛の縹渺とした響きが漂い続けた。

 それはまるで、時間を超越した奔放な音の流れが宇宙をうねっているかのようであり、歴史を超越して宇宙に流れ続ける真音の流れを響かせたかのようであった。そんな響きを奏でる楽士たちの姿は、まさに求道者たちの祭儀そのものだった。

 バルマン師はその演奏を最前列の席で聞き、復興記念コンサートの日のことを思い出して、涙を拭いながらその音楽に浸った。

 この芸術祭でのもう一つの挑戦的なイベントはハーディの詩の上演会だった。前年のビハールでのハーディの上演会に強いインパクトを受けたナユタは、

「ぜひ同じような上演会をこの芸術祭の中で」

と提案したが、ハーディは最初まったく取り合わなかった。

「おれはお上が好きじゃないのでね。」

 それがハーディの返事だった。

 だが、ナユタは粘り強く依頼を続け、まず、芸術祭の期間中、彼の詩を載せたパネルを展示室に掲げることに同意を取り付ける、さらに上演会についても再度要請した。

「ぼくの仲間たちにはみんな何かやって欲しいんだ。世の中がそれを受け入れるかどうかなんて分からないが、ともかく、自分たちの思いはぶつけてみたいんだ。」

 この言葉に、ハーディは、

「じゃあ、やるとするか。でも、政府の奴らには口出しさせないでくれよ。おれはあんな常識主義がすきじゃないからな。」

と言いつつ上演会の開催に同意し、リリアンにも協力してもらって上演の準備を進めたのだった。

 上演会の前日、下見と打合せのために会場に行くと、舞台の上で、ハーディが平服のままでひとりで振り付けの練習をしていた。

 舞台奥には、既に、リリアンの絵がセットされていた。その絵は非常に大きく、この舞台のために、数日前からリリアンがこの場で描いたというしろもので、黒ずんだ赤を基調にしており、さまざまな亀裂と混沌が渦巻いている宇宙を描いたような絵だった。画面下の方には黒いごつごつした形象が描かれ、大地の上の瓦礫を思わせた。

 主催者側の委員は、固定の絵ではなく、有機ディスプレイスクリーンにリリアンの絵も含めてさまざまな画像、映像を流し、デジタル処理も含めて舞台上での視覚効果を高めることを提案したようだったが、ハーディは

「視覚効果を高めて観客に受けようなんて発想はおれにはないんでね。」

と取り合わなかったということだった。

 準備を終えると、ナユタはハーディを夕食の席に招いてねぎらった。リリアンも一緒だった。

「今回はありがとう。明日が楽しみだよ。」

 ナユタはそう言って杯を掲げたが、ハーディはいつもながらシニカルだった。

「まあ、おれも明日が楽しみだよ。別の意味でね。世間の奴らがどんな反応をするのかがね。去年の上演会は、基本的には、おれの詩に興味を持っている奴らが来てただけだ。だけど、今度は、この芸術祭の中でのイベントということで、おれの詩を読んだこともない奴らが来るんだろう?」

「まあ、そうだな。」

 そうナユタがうなずくと、ハーディは続けた。

「世間の奴らはパキゼーを偉大な人物、偉大な教えだったと讃えているが、ほとんどの奴らはパキゼーの言葉一つ読んだことはない。セバスチャンの音楽にしても、軽快にアレンジしてBGMにするだけ。ジャクソンの絵も高値はつくが、ほんとうに理解しているのかどうか。その証拠にシュルツェの絵なんてほとんど見向きもされない。コンピュータが作ったゲームとさまざまなエンターテインメント、ショーや劇や映画にうつつを抜かしているだけ。そして、それを作る奴らが凄いやつを言われ、尊敬さえ集める世界。いやな世界だな。」

 ナユタはうなずきつつ答えた。

「まあ、それはその通りだ。だけど、この芸術祭は政府の主催で、一般の者たちもやって来るけど、ぼくたちが彼らに向けて何かをする必要はない。ぼくたちは、自ら信じるものをやればそれで良いんだ。」

「あなたの考えがそうだということはよく分かってますよ。だから、おれもこの上演会を開くことにしたんだし。ともかく、リリアンの描いてくれた絵はとても良い。おれがイメージしていたとおりの絵だ。おれは、その絵の前で、世間の奴らからは目を背け、魔術的な詩を作り、悪魔払いの詩を詠うというわけだ。」

「ところで、明日、演奏をしてくれと頼まれているが、どんな演奏をしたら良いんだ?」

 ナユタがそう訊くとハーディは笑った。

「まあ、好きにやってください。すべては即興。そのとき奏でたい音を響かせてもらえればそれでいい。リリアンの絵とおれの詩とあなたの即興の音楽。リリアンにもおれの読む詩のことは何も言わずに絵を描いてもらったし、あなたにもどんな音楽をとは言わずにおきます。また、おれもあなたがどんな音楽を演奏するのかは訊かずにおきますよ。即興ですからね。」

 ナユタも笑った。

「そういうことならそうしよう。いつもながら大胆だな。」

 そう言うと、ハーディはさらに杯を重ねた。

 次の日、ハーディの詩の上演会が開かれた。テレビ局やマスコミの記者も来ていた。

 その上演会は、前年の上演会以上に衝撃的だった。会場の照明が暗くなって幕が開くと、真っ暗な舞台にシュヴァイガーの『呪術師たちの声』が流れた。トゥルナンの音階に乗って呪術師たちの声が聞こえてくるようなシュヴァイガーの音楽が流れる中、ぼうっと薄暗い青い光に照らされてナユタが登場した。手にはエレクトリックヴァイオリンを持ち、シュヴァイガーの曲に乗せて痙攣するような繊細で美しい音を響かせた。その音が止むと、別の薄暗い赤い光に照らされて古老の賢者風の男が現われた。ハーディだった。舞台の袖でナユタが静かな音を奏でる中、ハーディは詩句を口にした。

「一切の混迷を見抜く亡者のまなざし。真音をすりつぶす愚者の試み。」

 そう語るとハーディは右手に持っていた巻物を解き、詩を朗読していった。自作の詩だった。三編の詩を淡々と読み上げると、ハーディを照らしたライトは消え、ナユタの演奏が流れ続ける中、後方のリリアンの絵が浮かび上がった。

 すると、再びふたりの男が舞台に浮かび上がった。ハーディとナユタだった。舞台上に座り込むナユタがエレクトリックヴァイオリンの即興を繰り広げる中、ハーディはシヴァ神の化身かとも見紛う姿で次々と詩を読んだ。だが、その詩はだんだんと理解不能なものへと変わってゆき、コンピュータ処理して流れるナユタの演奏にさらにナユタが音を重ねると、その空間はまさに不可思議な音空間そのものだった。最後には、ハーディの詩句はただの単語の羅列となった。

「暗黒の地に住むパラノイアよ、異質な世界を貫く豊饒の宴、淫猥なる祭儀と  悪魔崇拝、空間性の電磁的変調、意識にとって影であるような沈黙、天界から降り注ぐ錯綜した光のシャワー、狂気によって破壊された冥土の野原、悪意にあふれた音の装飾、奇怪な神々の祝宴、呻いているぼくの祭壇、原始的な混沌への回帰、蜃気楼の中のタブロー、」

 そんな言葉が聞こえた。そして、最後にハーディが口にしたのが、

「創造的な幻惑と新たな錯乱、」

という言葉だった。

 この言葉を最後に舞台の照明が消え、幕が下りた。会場でまばらな拍手が起こったが、立ち上がって拍手を送り続けたのは、なんとイルシュマだった。だが、ハーディとナユタが再び姿を現すことはなく、一般の観客は困惑を隠せなかったようだった。

 楽屋ではハーディが肩をすくめてナユタに言った。

「つまらぬことをしました。児戯に等しい。迷惑を掛けましたかね。」

 ナユタは笑って答えた。

「いえ、全然。世に挑戦するという意味では、ぼくなんかよりはるかに立派で勇気があるというべきだよ。もちろん、すべてに同調するわけじゃないけど。」

「ありがとう。」

 ちょっと皮肉っぽい笑いを浮かべてそう言うと、ハーディは続けた。

「世の者たちは自分の作品がどう受け取られるかを意識している。仮にその作品が世への挑戦であっても、その挑戦がどう受けとられるかを考えている。だけど、おれはそんなことはごめんなんで。おれはただ書きたいように詩を書き、やりたいように上演する。それだけさ。」

「かつて地上で会ったジャクソンも同じようなことを言ってたよ。彼は寡黙で自分の心の内を語らなかったがね。ただ、大酒飲みだったという点ではあんなと同じだ。」

 ハーディはにやっと笑って言った。

「そういうことなら、今日は大いに酒杯を上げねばならないと思うが?」

「じゃあ、そうしよう。」

 そのとき、ふたりの前に現われたのはイルシュマだった。

「では、その祝杯の場には私がご招待いたしましょう。」

 ハーディはちょっと皮肉っぽく言った。

「立ち上がっての大きな拍手。痛み入ります。」

 イルシュマは笑みを浮かべ、大きくうなずいて答えた。

「私は心を打たれたのですよ。もっとも、あなたの詩がほんとうに理解できたかどうかは分からない。ただ、ほとんどの者が理解してくれないようなものを演じる勇気、聴衆に阿ねるのではなく自ら信じるものを演じる気概に敬意を表したかったのです。ナユタさん、かつての地上の演奏会でグスタフは『私には理解できなかった。』と言いつつ、新しい音楽の演奏に立ち上がって拍手を送り続けたとか。私も同じことをしたまでです。」

 ハーディが答えて言った。

「では遠慮なく、祝杯の場に行かせていただきましょう。」

「ええ。ただ、男ばかりじゃつまらない。女神も呼ばなくては。」

 ハーディは大きく弾けた笑顔を見せて言った。

「あなたとは本質的に神種が違うような気がするが、いろんなところで気が合いますね。ではリリアンとサナムとナスリーンも呼ぶとしますか。」

 三神の女神に連絡を取ると、イルシュマは自分の経営するホテルのバーの個室にナユタとハーディを案内した。三神の女神もすぐにやって来た。

 六神が揃い、最初の料理が運ばれてくると、イルシュマは上等のシャンパンを各自のグラスに注がせ、立ち上がって言った。

「最初に一言。今日はこのような場に参加させていただき、光栄の至りです。こんな集いに私のような者が加えていただけることなどほとんどないでしょうから。私は皆さんのようなものは何も持っていませんが、でも、これからも今まで同様、皆さんの活動を支えさせていただきます。ご要望は何なりとお申し付け下さい。まっ、私の話はこのくらいにして、後は、好きなように食べて飲んで下さい。私がついて行けない話ばかりになってもかまいません。私にとっては霞を食らうような話を横で聞かせてもらえるのもまたとない機会ですので。では、今日のハーディの上演会の大成功を祝して乾杯しましょう。私は大成功と思っておりますので。乾杯!」

 乾杯のグラスを合わせると、さっそくナスリーンが言った。

「私にはおもしろかったけど、観客のどれだけが理解できたのかしら。終わった後のロビーでもぶつぶつ言っている神が何神かいたわ。」

 この言葉にうなずいてイルシュマが言った。

「そうでしょうね。ロビーで、記者たちが批評家たちにインタビューしていましたが、こんなことを言ってましたよ。『観客を無視した自己満足に過ぎない。』とか『何を言いたいのか、何を訴えたいのか皆目分からなかった。』とか『こんなおもしろみのないものが、ナユタのめざすものなのだろうか?』とか。でも私はだから良いんだと思っています。新しいものを開く前衛芸術において、みんなが理解でき賞賛するようなもので、ほんとうに良いものなんてないと思いますからね。楽屋でハーディとナユタさんにも言いましたが、こんな挑戦的なことをすること自身がとてつもなくすばらしいと思いますよ。」

 ハーディが言った。

「まあ、ある意味、おれたちがやっていることは、世間の片隅で、世間の理解できないものをやってるわけだ。だけど、それを世の誰もが知っている世界一の大富豪のイルシュマさんが支持し、支援くださるというわけだから、不思議な気がしますよ。」

 イルシュマが笑って言った。

「ご存じと思いますが、私とナユタさんの間には、はるか昔からの深く長い繋がりがありますからね。初めてお会いして以来、私はずっとナユタさんの信奉者ですので。」

「話は聞いていますが、ほとんど教祖を崇める信者のようなもんですね。」

「そう思っていただいてけっこうですよ。ただし、それは盲目的帰依でも妄信でもありませんので。」

 リリアンが口を挟んだ。

「終わった後のロビーで私に話しかけてきた批評家は、『天才的なきらめきがあった。』と言っていましたよ。ほんの一部の批評家かもしれないけど。」

 サナムも言った。

「私は写真を撮ったんで、一部はメディアに渡したし、明日以降、芸術祭の展示室にも飾ります。」

 ハーディが言った。

「まあ、ともかく、批判も評価も大いにけっこう。ただ、おれは自分がやりたいようにやるだけさ。でも、去年といい、今年といい、ビハールでけっこう疲れたんで、また旅に出るよ。ちょっと自由な空気を吸いたいんでね。」

 イルシュマが訊いた。

「それで、どこへ?」

 ハーディは笑った。

「そんなことは分からんさ。そのうち、気が向いたら、ふらっとね。」

「なるほど。必要ならいくらでも支援しますので。私は金儲けしか能のない凡神ですが、だからこそ、金で片の付くことはいくらでも支援しますよ。まずは私のホテルや乗り物にただで乗れるパスを差し上げましょう。ナユタさんには既にお渡ししていますので、ナスリーンさん、リリアンさん、サナムさんにもお送りしますよ。」

「ホテルにもただで泊まれるの?」

 そう聞き返したサナムにナユタが言った。

「そうだけど、その費用はイルシュマが個人として会社に対して払ってるわけだから。まあ、ほどほどにということだよ。」

「でも、おれにそんなものを渡したら際限がなくなるかもしれませんよ。」

 ハーディはそう言ったが、イルシュマはまるでびくつかなかった。

「かまいません。仮に、この五神が今後、毎日、私のホテルに泊まったとしても、なんら支障は生じません。ご安心ください。」

「さすが、イルシュマさんだ。ではそのイルシュマさんのために、改めて乾杯だ。」

 ハーディは上機嫌だった。この後も大酒を飲み、気を許せる仲間たちとおおいに盛り上がったのだった。

 

 さて、八月一九日には、エシューナ仙神もビハールにやって来て、ナユタ、ナスリーン、シュヴァイガー、バルマン師との共演を行った。この五神の音楽家が顔を揃えた後にも先にもない演奏会であった。シュヴァイガーはプリペアードピアノを、ナユタはサントゥールを、バルマン師は石磬を、ナスリーンは木を、そして、エシューナ仙神は、カウティリヤが焼いた土器に皮を張った鼓を演奏した。

 この日の演奏はナユタが指し示した一つのテーマによって始まった。それは、かつてマティアスが奏でた韻律によるテーマで、ナユタがそれを静かにサントゥールで響かせると、エシューナ仙神が土器でできた鼓から朴訥とした響きを共鳴させた。さらに、ナスリーンとバルマン師がそれぞれ木と石でナユタの韻律に共鳴する音の列を響かせ、シュヴァイガーはナユタの韻律に合わせて特別に調整したプリペアードピアノから、不思議な夢を紡ぎだすような調べを交錯させた。

 約一時間半にわたる演奏が終わると、五人の神は舞台に並んで頭を下げ、そのまま舞台の裾に引き下がって再び出てこなかった。

 そして、エシューナ仙神は演奏が終わると、準備されていた車でそのまま帰って行った。ナユタは、

「ぜひ、一度、ビハールを見学してみては。ビハールのホテルを用意するので、せめて一泊していただいて、演奏会の終わった後は、ホテルのレストランで一緒に食事を。」

と提案していたが、仙神は、

「わしにはそんなものは似合わんしな。」

と笑ってそっけなかった。

 森の仙神らしい言葉だった。実際、バラドゥーラ仙神、アシュタカ仙神、ウパシーヴァ仙神はこの芸術祭に招待されたが、来なかったし、実行委員会は、彼らに特別講演を依頼し、またパネルディスカッションにパネリストとして参加を求めたが、仙神たちはまるで首を縦に振らなかったのだった。

 ナユタは、バラドゥーラ仙神に対して、

「それでは、せめて芸術祭に来て、併せてビハールを見てみてはどうでしょうか。」

と提案したが、仙神はそっけなかった。

「まあ、悪く思うなよ。今回の芸術祭は良いことかもしれんし、おまえがビハールで演奏するのも良いだろう。ただ、わしは行かんよ。都会風の服装をするのも好きでないしな。」

と言っただけだった。

 

 一方、この芸術祭で、サナムは写真家として評価されたようだった。彼女が従来から取り組んできた自然の美しさを写した写真はプロの目から見ればそれほどのものでもなかったようだが、彼女が高原に来て撮し始めたポートレート写真はそれなりの評価を得た。彼女は、ナユタ、リリアン、カウティリヤ、ナスリーン、シュヴァイガー、ハーディなどを撮した写真を展示したが、独特の視点とセンスで撮したそれらの写真はそれぞれの被写体の神が秘めている何か、あるいはいつもは見せない素顔を浮かび上がらせていた。特に、ナユタの庭で撮った一枚、ナユタとリリアンが庭でくつろぎ、そばに立つロボットのアミティスがお茶を入れながら笑顔で受け答えしている様子を撮した写真は注目を集めたようで、ネット上で大きな話題になったようだった。また、彼女はこの芸術祭の専属首席カメラマンでもあり、会期中に行われた演奏会やイベントの写真も次々に展示した。そこには、いかつい無表情でオーケストラを指揮するクレンペラー、詩の上演会でのハーディ、ウバリート旅行団の演奏会、八月一九日の即興演奏会での五人の写真などがあった。

 また、シュヴァイガーは芸術祭の期間中、何度か演奏会を開いた。シュヴァイガーは、セバスチャンの『インベンションとシンフォニア』や『パルティータ』、マティアスの『プリペアードピアノのための二十四の前奏曲とフーガ』などを取り上げ、また、ナユタとの共演も行った。

 だが、シュヴァイガーの演奏会の中でなんといっても素晴らしかったのは、即興演奏による『トゥルナンの修行者たち』と『ザ・キャメル』だった。これらの曲はナユタの家で見たリリアンの『古代譜』からインスピレーションンを得たという曲だったが、ナユタにその一部を紹介した後、ナユタがトゥルナンで記録したさまざまな音楽の楽譜を丹念に研究し、その音楽語法を活用した曲となっていた。シュヴァイガーはこの二つの曲を芸術祭の期間中それぞれ四回演奏した。エレクトリックオルガンを用いたその即興演奏を聴くと、ナユタはトゥルナンに思いを馳せずにはいられなかった。マティアスとともに訪れたトゥルナンで見た金色の菩薩たちや僧侶たちが奏でた荘厳な勤行の声が鮮やかに心によみがえるのだった。

 シュヴァイガーの四回の演奏は、それぞれ大きく違っており、回を重ねるにつれて、より瞑想的、思索的な響きが強まっていったようだった。ナユタは毎回その演奏を聴き、シュヴァイガーに最大限の賛辞を贈った。

「広漠たる大地に乾いた風が舞い、金色の菩薩に祈りがささげられていたトゥルナンのことが思い出されるよ。だが、この曲の真の価値はこの世界の外にまなざしを投げていることだ。我々をこの世界の内に閉じ込めている壁を破り開き、世界の外の未知なる領域に我々をいざなってくれる音楽だ。」

 ナスリーンも何度か演奏会を開いた。特に、ある新進音楽家と共演したデュオコンサートは、実に素晴らしい演奏会だった。彼らが即興で演奏する『キャッチ・ウェイブ・イン・ビハール』と名付けられた曲では、演奏された音がコンピュータに取り込まれ、加工され、変調されて、最初の音楽とは似ても似つかぬほどイマジネーションに富んだ音楽となって出てくる。そして、コンピュータから出てくる音と、共演者の奏するエレクトリックヴァイオリンの音が交錯し、さらにそれがナスリーンの木の音と不思議な共鳴を生み出し、空間には青い光、赤い光が疾駆した。

 この演奏を聴いたナユタは、演奏会後、記者に対して熱っぽく語った。

「音楽家とは冒険家なのだ。未知なる音を求める探検家なのだ。」

 ただ、この演奏会で、聴衆は百人も集まっていなかった。

 また、毎週のように講演会も行われ、ウダヤ芸術院やマーシュ大学の教授をはじめ、識者たちが講演やパネルディスカッションを行った。

 そして、ドレッシェルは、この芸術祭に合わせて新著『求道者としてのナユタ』を出版した。それは、ドレッシェルが語っていたとおり、創造が停止された後のナユタを扱ったものだったが、創造を救う神、マーヤデーバを持つ戦いの神であったナユタから、真理と真音を求めるナユタへの軌跡を描いたものだった。

 この本でドレッシェルはこう書いた。

「ナユタは常に世界と戦ってきた。けれど、その戦いは終わっていない。彼は今、音楽家として世界と対峙しており、神の在り方を巡って世間と対峙している。彼はウバリート旅行団の活動を行い、そして、それが世に受け入れられなかったことをもって、彼の戦いは終わったと思っていたかもしれない。だが、その戦いはまだ終わってはいない。森にいるナユタの中で、次の戦いへの力が少しづつ蓄えられていることを私はなんら疑わない。その力はいつかきっと、かつてのブルーポールのように世界に向かって光を放ち、神々を震撼させ、衝撃を与え、宇宙に亀裂を走らせるだろう。」

 この言葉でこの書物は閉じられていた。

 そして、ドレッシェルは、この言葉の後に、直筆のサインとナユタへの献辞を入れて、その本をナユタに贈ったのだった。ナユタは、この最後の文章を静かに読み、ただ、

「ありがたくいただきます。」

と頭を下げた。

 こうして、芸術祭は一応つつがなく進められた。四か月にわたる芸術祭は、ナユタの圧倒的な知名度と政府の全面的なサポート、さらにはマスコミの宣伝力もあって、それなりの数の神々を集めることができた。

 政府はこの芸術祭の成功をアピールしたが、ほんとうに成功と言えるのかどうかは疑わしかった。

 実際、どれだけの神がほんとうにその芸術を理解できたのだろうか。

 テレビ局はこの芸術祭を好意的に伝えたとはいうもの、キャスターやコメンテーターで、次のように言って、はばからなかった者も少なくなかった。

「私たちにはそんな高尚なものは分かりませんが。」

「これが偉大な芸術なのかどうかを判断する能力は私たちは持ち合わせていませんので。」

 たしかに、一部の者たち、ナユタとその仲間たちの芸術を理解する者たちにとっては、それはとてつもなく素晴らしいものであったかもしれなかった。だが、多くの神々にとっては、それはただ、ニュースで大きく取り上げられたイベントということに過ぎなかった。

 入場者数は、政府やマスコミのアピールや宣伝にもかかわらず、主催者側が計画書に書き入れていた数字よりもはるかに少なかったし、いくつかの演奏会には、アーティストと称する人気者たちの音楽コンサートの十分の一、百分の一、時には千分の一の聴衆しか集まらなかった。

 ナスリーンと若手演奏家のデュオコンサートがこの首都ビハールで百人の聴衆を集めることもできなかったというのはまさにこの芸術祭に対する神々の受け止め方を端的に示していたと言えるだろう。

 ただ、それは、ナユタも最初から理解していたところのものであったし、ナユタは芸術祭の成否については、一切、口にしなかった。

 また、一部からは、批判的な言葉が投げかけられ、

「ナユタは完全に神々の心から離れてしまった。」

とさえ言われたが、それに対しても、一切反論を口にしなかった。

 芸術祭の最後を飾ったのはクレンペラーの演奏会だった。演奏したのは、ツィンマーの『平和のためのミサ曲』。ビハールでのあの復興祈念式典の日にクレンペラーが初演したあの記念碑的な曲だった。ナユタもユビュもあの日に思いを馳せながらこの演奏を聞いた。同じ思いの神もきっと少なくなかったであろう。あの日同様、最終楽章で、合唱団は高らかなトランペットの音と荒々しい弦の響きに導かれて、勇気と希望に支えられた雄壮な賛歌を歌い上げた。それはある意味、この世界のすばらしさを讃える音楽であり、しかし同時に、その上にある世界に思いを馳せる音楽でもあった。

 こうして芸術祭は幕を閉じた。

 次の日、政府主催のこじんまりとしたパーティが開かれた。シュリー、ヴィダール、ユビュ、バルマン師、ウダヤ師、マーシュ師、イルシュマ、クレンペラー、ナスリーン、シュヴァイガー、カウティリヤ、サナムなどが顔を揃えた。ただ、ハーディは来なかったし、森の仙神たちももちろん来なかった。シュリーがお祝いの言葉を述べ、サナムが写真を撮って回った。

 

 二日後、ナユタは、ビハール郊外の山の上で音楽を奏でた。それは、芸術祭閉幕後のことではあったが、真の意味での芸術際の締めくくりの演奏とも言えた。そして、それはかつて、エシューナ仙神とともに廃墟の寺院の上で音楽を奏でたことに思いを馳せ、その音がルガルバンダとの戦いへとユビュの心を呼び起こしたことに思いを馳せたものでもあった。

 その山の頂上にはナユタのためのエレクトリックオルガンが設置され、ネットライブ配信のための機材も運び込まれた。山頂からは、美しく広がるビハールの街並みが眼下に見下ろせた。

 ナユタが演奏するのは、『トゥルナンの呪術師たちの十の声』という題名の即興音楽だった。シュヴァイガーの『トゥルナンの修行者たち』に触発された音楽であることは明らかだった。日が暮れて、西の山にほのかに赤さが残る中で、最初の音が響いた。呪術的な音が延々と続き、幻影的なエレクトリックオルガンの音が大空にこだました。求道者たちが虚空の中で舞い踊るような音楽、呪術師たちが淡々と世界の秘密について朗唱するかのような音楽が満月の浮かぶ夜空の中にこだました。

 ナユタは表情も変えず、淡々と音を紡ぎ出し続けた。音が時間を渡り、空間限界性を踏破するかのようだった。その響きは、彼の生そのものであり、彼がヴァーサヴァの創造以来、体験し、苦悩したものすべてが詰め込まれた音の叙事詩のようであった。霊的な音調で始まったエレクトリックオルガンの演奏は、宇宙的次元の広がり、無窮の時空の広がりを持ったものだった。

 そばに立てかけたブルーポールは再び真っ青な光を放ち、ユビュとシュリーのブルーポールも夜空に青い光を放った。エシューナ仙神はただ頭を垂れてその音に耳を傾け、ユビュは弥勒菩薩のような無表情さでその音楽を聴き続けた。

 けれど、それだけだった。

 ナユタは、満月が煌々と照らす夜空の下で演奏を終えると、ただ、

「私は、宇宙に対して音を奏でただけだ。」

とつぶやき、そのまま、アミティスの車に乗って静かに森に引き上げたのだった。

 その演奏は、オプトネットでライブ配信され、テレビのニュースも取り上げたが、世の評価はかんばしくなかった。テレビのコメンテーターの中には、次のような疑問を投げかけた者もあった。

「ブルーポールは発光したかもしれないが、かつてのナユタの輝きはなくなってしまったかのように見えます。神々の心から乖離した世界で生きるナユタが真の輝きを取り戻せる日は来るのでしょうか?」

 これに対してビデオメッセージを出したのがイルシュマだった。

「私はかつてベルジャーラで始めてナユタさんに会って以来、ずっとナユタさんを信頼し、支えてきた。この世界に彼ほど真摯で孤高の神はいないではないか。そのナユタさんを現代の社会でもてはやされている軽薄な価値観で評価し、軽々しく批判するのは傲慢とも言える態度ではないか。私が彼らにまず言いたいのはまず自らを省みることだ。」

 世の表舞台には出ず利潤だけ追求してきたイルシュマにしては極めて異例のことだったし、これが批判を受けるとビジネスに悪影響が出る恐れもなくはなかったが、それでもこのようなメッセージを発したのはそれがまさにイルシュマの心の声だったからだろう。

 一説によると、イルシュマはそのコメンテーターを降ろさないなら、そのテレビ局とはスポンサー契約をしないと言ったとも言われるが、

「これがこの世界でもあるし、この多様性こそルガルバンダ世界を打ち倒してナユタが創り出した世界でもあるわけだから。」

と思い直して、代わりにビデオメッセージを出したということだった。

 世界一の大富豪のこの言葉に、「世界を裏で操っている奴らの言葉」というような冷ややかな反応もあったが、テレビではナユタに批判的なコメントをしたコメンテータやアナウンサーは、「謙虚に受け止めるべきメッセージ」と総じてポジティブな反応を示した。もっとも、その裏には、メディアにも絶大な力を持つイルシュマのメッセージまで批判したらその世界で生きて行けなくなるという思いもあったであろう。

 だが、ナユタは、実に、誰かに聞かせるためでもなく、誰かに何かを訴えるためでもなく、ただ、宇宙に対して音を奏でたのだ。

 そのナユタの心の中に沈んでいた思いは、「この世界は生きるに値するのか?」、「この世界は存在するに値するのか?」という問いでもあった。だが、森に帰ると、再び、静かな生活が待っていた。

 久しぶりの我が家で、リリアンとふたりで食卓に座り、アミティスが久しぶりの手料理を並べてくれると、ナユタはほっとした気持ちになって言った。

「また、静かな生活に戻れるな。久しぶりに安らいだ気持ちになったよ。ぼくにはやはりここの生活が合っている。もちろん、芸術祭は心を高ぶらせてくれるものや共感し合えるものもあって、大いに良かったけどね。ただ、ビハールの生活にはそもそもなじめないし、緊張することも多かったからね。」

「そうね。私も。やはり、ここが一番落ち着く場所。世界の中で唯一心が休まるのがこの場所だわ。」

 リリアンがそう言って微笑み返し、アミティスがいつもの笑顔でガザンリューを注いでくれた。ナユタはちょっと考え込みながら、

「ぼくたちの新しい道のために。」

と言って、リリアンとグラスを合わせた。

 だが、芸術祭の波紋は決して小さくはなかった。リリアンやカウティリヤには、ビハールの画廊から、個展を開かないかという打診が寄せられてきたし、ナユタにはバルマン芸術院やマーシュ大学から講演依頼が次々に寄せられ、また、改めて教授としての就任要請も寄せられた。さらに、森でナユタの指導を受けたいという神々、森でナユタたちとともに活動したいという神々も続出した。

 リリアンとカウティリヤはそれぞれ次の年にビハールで個展を開くことにしたが、ナユタは申し出のほとんどを断った。ただ、一つだけ、年に二回、夏と冬に高原で小さな音楽祭を開くことに同意しただけだった。それは新しい仲間との新しい試みの場として意味があると考えてのことであったし、シュヴァイガーとナスリーンが全面的な協力を申し出てくれたためでもあった。

 秋も深まる頃、そのナスリーンが、森の広場で三神の音楽家での即興演奏をするというので、ナユタは、リリアン、カウティリヤと一緒に出掛けた。同じメンバーによる演奏会は、ビハールでの芸術祭でも行われたのだが、ぜひ、そのコンサートを森で行いたいというナスリーンの希望から実現したもので、今後、この高原で開催しようとする音楽祭のプレ演奏会のような位置づけでもあった。このような音楽の演奏に本当の意味でふさわしい場所は森しかないというのがナスリーンの強い思いであったろう。

 演奏の場となった森の広場には、「シュンラット高原音楽祭プレ演奏会」の電子垂れ幕がかかり、ナユタも初めて目にする新しい楽器がいくつか置かれていた。これは、ビハールでのナスリーンのコンサートに感銘を受けたマスダーカンという彫刻家が、ナスリーンのために新たに作製した楽器ということだった。会場で配られたパンフレットによると、マスダーカンは、ナスリーンのビハールでのコンサートを聴いた後、森の中に分け入り、自ら木を伐採し、乾燥し、そして音を確かめながら新たな楽器づくりに取り組んだということだった。約四か月を要して作成された楽器は、木の素朴さとぬくもりが斬新なかたちと調和しており、造形そのものとしても価値を感じさせるものであった。

 三神の演奏家が会場に現れた。男性の奏者が、大きな丸太をくり抜いた楽器から素朴なそして力強い音を発すると、ナスリーンともう一人の女性の奏者が、繊細な旋律をそれにからませた。ナスリーンはドルヒヤ地方の音階によると思われるフレーズをしきりと繰り返し、それが他のふたりの奏者の音と見事に調和した。ドルヒヤはかつて、そして今もヴィクートが住んでいる地方であったが、彼女は以前から、ドルヒヤに行ってこの地方の音楽を研究していたようだった。ナスリーンは無我夢中で音楽に没頭し、音を奏で続けたその姿はまるで音の鬼神ででもあるかのようで、彼女と何回かともに音を共鳴させ合ったナユタにしても、いかに彼女が遠い存在であるかの思い知らされたような気分にさせられた。だが、音楽それ自身はほんとうに素晴らしかった。ナユタはその音、その音楽に満たされ、不思議なまでに心を浄められた思いだった。

 演奏会の後、楽屋に行くと、彼女は笑顔で

「久しぶり。」

とにっこり笑い、さらに、リリアンに向かって、

「この楽器は家の庭に置くのよ。そしたら、また一緒に演奏しましょうね。」

と言っていた。

 

 その後の晩秋は静かだった。

「去年は芸術祭の準備で忙しかったが、今年はゆっくりできるな。」

 そう言ってナユタはリリアンとくつろぎ、アミティスの手料理を楽しみ、風の館での静かな時間を過ごし、ナスリーンと一緒に庭や野で木を打ち鳴らした。

 晴れた日には、から松が青い空の中で黄金色に照り映え、清々とした風が心地よく高原を吹き抜けた。リリアンは再び、『空の中の青の戯れ』の連作に手を付け、ややくすんだ色調の青の背景の中で、赤や黄色や黄金色の記号たちが舞い踊る作品をいくつも描いた。

 冬が近づくある日、風の館に行くと、サナムが引っ越すという話を聞いた。たしかに、ポートレート写真家としても一定の知名度が出てきたし、写真家としてやってゆくためには高原ではあまりに世界が狭すぎたのだろう。ビハールに戻ることが彼女には必要のようだった。

 話を聞くと、フリーのカメラマンとしてやってゆくが、ある雑誌社との契約もできたということだった。

「ここの生活は好きだったんですけどね。」

 そう言って彼女はちょっとなごり惜しそうだったが、新しい未来に向けて目を輝かせてもいた。それに彼女のように何にでも興味を持ち、様々なものに積極的な女神にとってふさわしいのは、やはりこの高原ではなく、都会の普通の神々の世界であったろう。

 ここでは、男神たちとの楽しい集いも限られているし、この高原で自由性愛がどれだけ可能だったかも疑問だった。彼女のような女神が望んでいるのは、この高原での求道者のような世界ではなく、都会での刺激に満ちた生活なのだ。

 しばらく経って、サナムのささやかな送別会が風の館で開かれた。リリアンは、連作の『空の中の青の戯れ』の中から彼女に似つかわしいと思った一枚を贈った。空の青の中に、象形文字のような図形が舞い踊るような作品で、白い雲を思わせる白い絵の具が画面の上部と下部でもくもくと湧き上がっていた。でも、この作品は、ほんとうは、空の青の中に描き込まれた謎を持った図形にこそその真の意味が込められていただのだろうが、その本当の価値を理解してくれる神がどれほどいるのかは分からなかったろう。

 

 サナムが引っ越すと、冬が近づいてきた。山に重い雲が覆いかぶさり、みぞれ混じりの冷たい雨が降った。それから晴れた日に遠くの白い雪山が咆哮を上げ、枯れた野を荒涼とした風が駆け抜けた。

 その時間の中で、ナユタはただひたすらに石を叩き続けた。

 光の中へ図形が砕け続けている。多彩な波のざわめきと空の青さ。境界の向こう側へ、地平の向こう側へひっきりなしに落ち続ける小さな散り散りの図形たち。

 でも、その図形たちは自分が砕いたものではなく、絶対者の見えない手が時間を削って造り出したものなのだ。ぼくたちはただ空間の底からそれを見上げているだけ。

 そういう思いがナユタの心を巡った。

 

 それからしばらくして初雪が降った日、突然、ヴィシュヴァカルマンが訪ねてきた。応対に出たアミティスに対し、その老神は、

「ヴィシュヴァカルマンと申す。ナユタはおるかね。」

と尋ねた。

 アミティスがヴィシュヴァカルマンの突然の来訪を告げるとナユタはびっくりし、すぐに応接室に通し、供応するように言った。

 ヴィシュヴァカルマンは、この宇宙の創造に参加した神とも、この宇宙の内にあるあらゆるものを設計した万能の神とも言われた神だった。天才的な建築師カーランジャの究極の師でもあった。だが、ヴィシュヴァカルマンはヴァーサヴァの創造が始まるはるか前から森に隠遁したと伝えられており、ナユタも一度として会ったことはなかった。

 応接室にナユタが現れると、ヴィシュヴァカルマンは出されていたお茶にも菓子にも手をつけておらず、ただ短くこう言った。

「汝がナユタか。アシュタカの祈りが届いてやってきた。」

 この言葉はナユタを驚かせたが、ヴィシュヴァカルマンは続けて言った。

「わしは長く森の中に隠遁し続けてきたが、決して、この宇宙のことから目をそらしてきたわけではない。この神々の世界がまったく新しいものに変貌したことも承知しておる。だが、世界の本質が変わったわけではない。この新しい宇宙において、なお、真理を見出そうとしているナユタという神のために道を指し示して欲しいというのがアシュタカの祈りだった。」

 ナユタは緊張のため、手のひらが汗ばむのを感じた。

「アシュタカ仙神の祈りをお聞きになって、高名なヴィシュヴァカルマン様が私のところにやって来られた。こんなことがありうべきこととは思えませんが、たいへんにありがたく思います。」

 そう言って頭を下げたナユタに、ヴィシュヴァカルマンは言った。

「汝は真理を求め、道を求めていると聞いておるが、それは求め得たのであろうか。」

「いえ、未熟な私はまだ何も求め得ることはできておらず、何一つ極めておりません。」

「そうか。だがな、真理は複雑なものではない。極めて単純だ。汝はそのことを理解しておるのだろうか。」

「いえ、理解していないと思います。また、理解する術をもっていないように思います。ぜひ、それをご教示いただければ。」

 このナユタの言葉に、ヴィシュヴァカルマンは表情を緩めて語った。

「真理を見出そうとするに、どこから考え始めればよいか理解しておるか。」

 この問いにナユタがすぐには答えられずにいると、ヴィシュヴァカルマンは続けた。

「すべての基本は現実だ。現実とは、まさに、あるがものであり、そして、あるがままの姿だ。だから、真理は、現実に立脚し、ありのままの現実を見ることからしか始まりようがない。それが唯一の答えであり、それ以上でもそれ以下でもない。だから、わしは真理は極めて単純でしかないと言うのだ。」

 この言葉に、多少口ごもりながらナユタは応じた。

「では、その現実とはどのようなものなのでしょうか。現実のあるがままの姿とはいかなるものなのでしょうか。宇宙の創成にも関われたというヴィシュヴァカルマン様は、その現実なるものをどう理解しておいでなのでしょうか。」

「ナユタ。現実は、どのように理解すればよいとか、そういうものではない。現実は、ただあるのだ。だが、その現実とは、今、この世界の内で、神々が考えているようなものとはまるで乖離している。別の言い方をするなら、神々は現実を見ていないし、現実を理解してもいない。まずは、そのことを理解しなくてはならぬ。」

「では、その真の現実とはどのようなものなのでしょうか。」

「神々は、現実の世界を自分たちのための世界のように思い泥んでいる。目の前で起こっていることどもに心囚われ、それが現実だと思っている。だから、真の現実が見えないのだ。霧の中にいて、目の前に見える微かなものだけを見て、それが世界だと理解するようなものだ。だが、真の現実は単純だ。わしは世界の創成に関わったと言われており、実際、関わった。だが、わしは世界の内の存在者でしかなく、なぜ、宇宙が創造されたか、誰が宇宙と時間とを始めたか、その目的は何か、そのようなことはまるで知らぬ。宇宙創造に関わったわしですら、そのようなことを何一つ知らぬ。それが真の現実だ。そして、おそらく、アシュタカがわしからおまえに伝えさせたかったことはその一点に尽きるように思える。」

「ヴィシュヴァカルマン様でもこの宇宙の秘密はご存じないということですか。」

「知らない。だが、明らかなことは、我らのようなこの世界の内の存在者は、世界の目的をも目標をも知ることもなくただ存在させられているということだ。その視点、まさに、そういった現実に立脚するなら、この世界の内で価値と思われている一切のことどもは、実にどうでもいい些末事でしかない。それが現実であり、そして、真理なのだ。」

「では、そのような現実、そして真理の中で、私たちはどうあるべきなのでしょう。そして、神としてどのように生きてゆけばよいのでしょうか。」

「さあな。」

 そう言って、ヴィシュヴァカルマンは笑った。

「その問いは、結局のところ、神として生きるとは何なのかということだ。そして、そもそも神とはいったい何なのかが問われているということだ。だが、そんなことはわしは知らん。わしにはそんなことは何の興味もないのでな。ただ、現実と真理は厳然としてある。それだけだ。アシュタカはかつてわしが教えを授けたひとりだ。また、アシュタカに教えを請えば良いのではないかな。」

 この言葉にナユタはちょっと慌てて言った。

「もっと教え授けていただきたいものがたくさんあります。これからもご教示いただけますでしょうか?」

 だが、ヴィシュヴァカルマンは笑った。

「そんなものはないよ。わしは創造には関わったが、ただ一介の森の神に過ぎぬ。今日伝えた以上に汝に授けるものなどもっておらぬよ。」

 そう言うと、ヴィシュヴァカルマンは出されていたお茶と菓子には手も付けようとせず、立ち上がった。

「では、わしは行くよ。」

 ナユタが玄関の外まで見送ると、ヴィシュヴァカルマンは背を向けて右手を挙げ、数歩歩いたかと思うと、その姿は忽然と消えたのだった。

 

 次の日、ナユタはリリアンを連れて、アシュタカ仙神を訪ねた。ヴィシュヴァカルマンが突然訪ねてきたことを伝えると、アシュタカ仙神は大きくうなずきながら言った。

「わしの祈りが届いたのであろうな。それにしても、ドゥータカといい、ヴィシュヴァカルマンといい、依然として宇宙には、真理のみを見つめ続け、それだけに向かい合う者がいるということだ。そのことだけは心に留めておくことだ。」

 そして、仙神は、リリアンがアシュタカ仙神に贈るために持参してきた一枚の絵『風たちの踊り』を見つめ、次のように言った。

「この絵はなかなかいいな。悲しみの染み込んだ大地の上を、飄々とした風が吹きわたってゆくようじゃな。この絵はありがたくいただくよ。」

 その絵を壁に掛けると、仙神は改めてじっくりとその絵を眺め、静かに語り出した。

「そなたには絵の才能がある。だが、前も言ったように思うが、大切なことは、自分とは誰なのか、自分は何のために存在しているのか、ということを自分自身と向かい合って突き詰め、そこから真理への道を開くことじゃ。そして、この世界の根源に突き当たり、その驚愕の実態を理解することだ。だがな、」

 そう言って仙神は言葉を切り、ナユタとリリアンをじっと見つめて、続けた。

「わしの言葉がおまえたちの心にかなうかどうかは分からぬが、世界はそもそも最初からひび割れているとは思わぬか。」

 この言葉にナユタがかすかにうなずくと、アシュタカ仙神はさらに続けた。

「そもそもこの世界はなすべきものがなされ、満願が叶う世界ではない。そして、無数の異質なものや異なる願望が交錯する混沌とした世界にすぎぬ。その中で真なるものはあるのか。また、何かこれこそ究極のものと見えるものがなされたとしても、それは結局いかなる意味があると言えるのか。世界がなぜ存在するかも知れず、世界の目標もあるべき姿も我らには隠されているこの世界において、完結することの可能な美しい世界などというものは幻想にすぎぬ。まさに、世界は最初からひびが入っておるのだ。たしかに、世の多くの者たちはそのことを理解しておらぬだろう。そういった意味では、真理は隠蔽されておるとも言える。暴露されてはならないとも言える。だから、みな、生きることに必死になり、生きている中で必死になにごとかをなそうとしている。ルガルバンダもそうだったし、シュリーやヴィダールもまた然りだ。彼らは世界を支配し、君臨することに究極の価値を見出しておるのだからな。だだ、ひとりパキゼーだけが真実を見抜き、一切は空ということを唱えたのだ。」

「以前、アシュタカ仙神は、パキゼーの時代はさまざまな思想の揺籃した枢軸時代であり、その時代、人間たちは、世界の中での自分たちの限界を初めて認識したとおっしゃいました。そして、『真理は自分自身に出会うことによってのみ開示されうる。』とも言われました。でもその限界というのは、決して創造された世界の中の人間たちだけのことではなく、私たち神々にとっても同じだということを知りました。私たちも、自分がなにものであるかを知ることができないこのひびの入った世界の中に生き続けているわけですから。」

 そう口を挟んだナユタに、アシュタカ仙神は答えて言った。

「その通りだ。世界を誰が造ったのだとしても、その者の意思は我らには計り知れぬだろう。それが我らに課せらせた定めとしか言いようがあるまい。ただ、一切は空と言ったパキゼーの朗々たる静けさだけは、これもまた厳然として在る。そのことを知ることもまた大切かもしれぬな。」

「そういう意味では、ユビュやヴィクートはそれを本当に理解し、だからその道を歩くべく隠遁の道を選んでいるのかもしれません。」

「そうかもしれぬな。だが、おまえには別の定めがあるのかもしれぬ。だから、このひび割れた世界でおまえが道を行くことこそ、世界がおまえたちに課していることと言えるかもしれんな。」

 この言葉にナユタとリリアンが考え込んでいると、アシュタカ仙神は、声を落として、言った。

「もし、よろしければ、曼陀羅を教えて進ぜるが。」

「曼陀羅?」

「そうじゃ、曼陀羅じゃ。曼陀羅はある意味、このひび割れた世界に吹き込む異界からの風でもある。その曼陀羅を習う気はないかな。」

「アシュタカ仙神は曼陀羅を描けるのですか?」

 ちょっと驚いたようにナユタがそう言うと、アシュタカ仙神は軽く笑った。

「森の神には知られていない力があるということをおまえは理解しておらぬようじゃのう。」

 そう言うと仙神は、奥の部屋から、何枚もの曼陀羅を持ち出してきた。

 ナユタとリリアンは感嘆し、息をのんだ。ふたりは色鮮やかな色彩で描かれた菩薩や如来が並ぶ不思議な曼陀羅の世界に引き込まれていたが、アシュタカ仙神は、リリアンに向かって言った。

「曼陀羅がそなたの絵にどのように役立つかは分からぬが、これを学んでおくことは悪くあるまい。これはこれで一つの世界、一つの宇宙だからな。」

 リリアンが、

「私は曼陀羅に途方もない可能性を感じました。ぜひ、ご教示ください。」

と言うと、アシュタカ仙神は答えて言った。

「曼陀羅には厳格な法則がある。それを理解し、そして、それが描こうとする世界そのものへの理解をなすことが求められる。ナユタ、おまえも習ってみぬか。おまえの音楽にも役立つかもしれぬぞ。」

「そうですね。かつて、ヨシュタがムチャリンダとの戦いに赴く途上で砂曼陀羅を学んだと言い伝えられています。また、前回の創造の際、地上のトゥルナンでたくさんの曼陀羅を見ましたが、自分で描いたことはありませんし、曼陀羅の法則を学びもしませんでした。私も学びたいと思います。」

 この言葉にうなずくと、仙神はさらにこう言ってナユタに問いかけた。

「この世界をこの世界の内から見るのではなく、この世界の外から見ること。そうすれば、すべてが違って見える。もう一度繰り返しになるが、ほんとうにこれこそ価値がある、これこそなすべきであると言えるものはあるのであろうかな。それをなすことによって得られるそのものに真の価値があるというものはなんであるのだろうかな。」

「そのようなものを見出すことはできませんでした。」

 ナユタはそう答え、さらに続けて言った。

「これまで私はさまざまな時空を潜り抜け、さまざまな体験をしてきました。その一つ一つには心を高め、心を高ぶらせてくれたものもありました。しかし、思い返してみると、いかなるものによっても本当に心が満たされることはありませんでした。一度として真に満足することはありませんでした。そして、それは、それらが真に意味を持ってはいないからに他ならないからだと思い当たります。パキゼーはそのようなものはどこにもないと見抜きました。彼は、価値があると思えるものその一つ一つについて、それがどういう真の価値を有すると言えるのか、どんな本源的な価値に値するかを突き詰めたのだと思います。そして、彼は、地上にあるいかなるものにも、究極的に価値もあるをものを見出すことができないことを見抜いたのだと思います。」

「その通りだ。」

「だから、音の世界にも、真音を求めることにも、ほんとうの価値は何もないのだと思います。」

 そのナユタの言葉にアシュタカ仙神は大きくうなづきながら言った。

「そういった洞察の先にしか、真の道、すなわちパキゼーが指し示した輝きが発しえないということこそ、この世界の途方もない茫漠さの原点であろうな。だがな、ナユタ。音の道を探すが良い。そして、リリアンも曼陀羅を描くがいい。何が得られるかも分からぬし、得られたものがいかなる価値を持つかも分からぬがな。」

「それで良いと言えるのでしょうか。もちろん、私に別な道はないように思えるのですが。」

 このリリアンの問いに、アシュタカ仙神は笑って答えた。

「なんにために生きているのか。生きていることの意味、存在することの意味は何か、何かをなすことにいかなる意味があるのか、それには結局答え得ない。パキゼーの答えのみが真理であるだろう。だが、それらが無意味ということが、すなわち我らの心を落ち込ませ、暗くさせる理由とはならない。一切は空という朗々とした朗らかさがあるのみではないか。そして、そこから何ものにもこだわらない清明な境地が生まれてくる。それもまたパキゼーが見出したことでもあるしな。」

 それからしばらく、ナユタとリリアンはしばしばアシュタカ仙神の元を訪れて、曼陀羅を習った。

 曼陀羅について一通りのことを学ぶと、リリアンは自らの曼陀羅を描き始めた。

 中央に青い弥勒菩薩を配し、その周辺には菩薩たちが飛雲に乗って描かれた。また、八本の手を持つ真っ赤な鬼神を中心に、菩薩が織りなす宇宙全体が回転するかのような絵もあった。

 一方、ナユタは、パキゼーをモチーフに曼陀羅を描いた。淡々と歩を進めるパキゼーを中央に描き、彼に襲い掛かる鬼神たちをパキゼーの放つ光が威圧する曼陀羅、また、座禅を組むパキゼーの回りを神々と菩薩たちが取り囲む曼陀羅もあった。パキゼーのまなざしは、あまりにも遠くを、おそらくは数十億年先の世界を見つめるまなざしだった。

 さらに、ナユタは砂曼陀羅の修業にも励んだ。

 幾日も部屋に閉じこもって砂曼陀羅を描き続け、ある日、完成した砂曼陀羅を足でかき消すとそのまま眠ってしまい、起きてみると、朝から雪だった。風も強く、横なぐりの雪が吹きすさんでいた。床には、ナユタがかき消した砂の色がそのままになっていた。

 すると突然、改めて、一切は空なのだという真理がナユタの心に染み込んだ。

 自分たちが求め続けている究極のもの、一者、絶対者、そういうもの一切が実に根源的な基盤を持っていないのだということが改めて心に沁み透った。それらはただ自分たちの内で、そしてこの世界の内側で意味を持つにすぎなかった。自分たちが本来的なものと呼ぶものが究極的に意味を持つわけではなかった。時間の外で、世界の外で意味を持つわけではなかった。すべては世界の内に囚われている自分たちの世界の内での意味にすぎなかった。すなわち、存在している者にとっての意味にすぎなかったのだ。けれど自分は存在しているものであるだけでない。自分は、存在しなかったであろう者、存在しなくなるであろう者であるのだ。

 自分のこれまでの道は本来的なものを求める道だった。そうナユタは思った。そしてナユタにとって最も問題だったのは、その本来的なものがこの無常世界の中でどういう根源的な意味を持ちうるのかということであった。すなわち、「一切は無ではないのか?」という問いかけであった。

 そうだ、たしかに、一切は無意味であった。けれど、意味とはなんであったか?何故に意味が必要であったのか?

 それは自分たちがこの生きるということの内につんのめって生きており、我に囚われ、存在と時間の真の姿を見ていないからだった。意味など実は、その囚われた「私」が必要としていたにすぎないのだ。なにゆえ、一切が無意味であり、すべてが無に帰することを嘆き悲しまねばならないのか?そんな悲しみは、ただただ囚われたまなざしにとってそうであるだけだったのではないか。

 一切は無なのではない。一切は空なのだ。空であるがゆえに一切の意味が空であり、本来的なものが空であるのだ。空であるということは、朗らかさであった。それは意味の意味を否定することであり、意味の意味を求めないことであり、そして、パキゼーが見出した真理そのものであった。

 なんという単純な真理!なんと長い間この単純な真理を見ることができず、本来的なものの意味を求めて悩み続けてきたのだろう。

 そんな思いがナユタの胸の内を吹き抜け続けた。

 午後になると吹雪は止み、冬の美しい雪世界にまぶしい光が強烈に差し込んだ。

 そうだ、たしかに美しいものはあった。神秘的な深淵からの照射があった。そして、心をときめかすきらびやかな光のシンフォニーがあった。けれど、自然はただひとつの朗らかさを有しているだけなのだ。

 美しいもの、素晴らしいもの、醜いもの、愚かなもの、それから、喜びと苦しみ、楽しみと嘆きがあった。けれど、最後に残るものは空ではなかったか?

 ナユタは空の青を見つめた。そして、青の中に一切の美しさと醜さ、一切の偉大さと他愛なさがあるのを感じた。世界の境涯では、びゅうびゅうと風が荒れ騒いでいるのだ。

 

 アシュタカ仙神から曼陀羅の手ほどきを受けて以来、リリアンもひたすら曼陀羅に打ち込んでいた。曼陀羅の色の幾何配置を突き詰め、曼陀羅の精神を活かした抽象絵画を描くこと、それが最近のリリアンの絵の傾向だった。彼女はしばしば自然の中で瞑想し、最高の真理を見つめ続け、そして、そこで得た着想を持って家に帰り、アトリエに籠った。

 また、ナユタは、曼陀羅を用いた偶然性の音楽にも没頭し、しばしば、リリアンが描いた曼陀羅を用いて音楽を奏でた。さらに、ナユタはナスリーンとも音を奏で、それは木の朴訥とした音と、曼陀羅の中を展開し続ける時間とその中の偶然性が織りなすまったく新しい音楽となった。

 そんな生活の中、雪が降りしきる日には小さな露天風呂の隣の屋根のあるベランダで、ナユタはしばしばひとりで時間を過ごした。雪が風に舞う様をナユタは黙って見続け、その向こうの木々を静かに見つめた。

 時には、『パルティータ』や『スティル・ウェイ』、あるいはマティアスの曲が流れていた。そうしていると、ナユタの脳裏には、はるか昔のできごと、ヴァーサヴァの館での戦いのこと、レゲシュでの戦いのこと、あるいはパキゼーのことなどが鮮明に蘇ってくるのだった。

 ときには、リリアンとふたりでそのベランダで長い時間を過ごすこともあった。リリアンはこの時間を愛し、

「私はこの時間だけは特別に大切にしたい。」

としばしば言った。

「ここには神々の世界とは違う世界、別の静謐の世界、心を開くことができる世界がある。なぜ、私たちがここにいるのか、そして、ここにいる必要があるのかどうか、意味があるかどうかも分からない。でも、この世界の中に存在せざるをえないなら、この時間は大切にしたの。」

 それが彼女の偽らざる気持ちだったろう。

 そしてナユタは、瞑想的な静けさの中で、音を紡いでいった。まさに曼陀羅の音世界だった。でも、その音はただ響いて消えてゆくにすぎない。永続する音は何もなかった。録音によって固化することはできるかもしれないが、その固化した音を響かせた自分という者が決して永続することはない。今の自分はその固化した自分ではないのだ。

 そんな思いは、曼陀羅の世界と溶け合った。ナユタはそれを言葉にして、ハーディに送った。それはこんな言葉だった。

 

  ぼくが描き出したいと思うもの、

  それは別の世界の朗らかさ、

  時間と存在の断点、

  瞑想と仏頭の静けさ、

  ゴーゴーという時間の流れ、

  荒野での渺茫たる風、

  世界の混乱とぼくの混乱、

  遊星の上での様々な生起の多彩さとたあいなさ。

  それは激しさを捨て、荒々しさから離れ、

  心の底に沈み込む重い石のようなもの。

  でもとても描けはしない。

 

 春が近づくころ、突然、冬の寒さがぶり返して吹雪の日が何日か続いたが、ようやく雪の止んだ朝、光が明るさがナユタの心を打った。数日にわたって降り積もった新雪が美しく輝き、世界に光が溢れていた。

 ナユタはリリアンとともに朝食を食べ終わると、ひとりで外に出て、新雪の道を歩いた。世界が静まり返っていた。カラマツが光の中に立ち並び、音もなく風が流れていった。

 ナユタは一つの詩をノートに書きつけた。

 

  光はどこからかやってくる。

  白い家の古びた紋章の鳥はいつも荘重に沈黙を続ける。

  けれどそのまなざしは大空を駆ける時のような輝きを発し、

  その翼は太古の時代の飛翔の響きをとどめている。

 

  冬の日の朝、向こうの山が大空の中に煌々と輝き、

  清められた光の中で

  紋章の鳥のつんざくような叫びを聞いたことがあった。

 

  光はどこからかやってくる!

  そして、光は新しい道を照明し、

  止めどもない試みに新しい生命を与え続け、

  鳥はこの世界の存在者に光の由来を告げるのだ。

 

 この詩をノートに書きつけると、ナユタはなぜか急にナスリーンに会いたくなり、オプトメールを送った。彼女からはすぐに返事が来て、ナユタはそのまま彼女の家に向かった。

 ナユタが彼女の家に着くと、雪の庭には既に楽器が並べられていた。

「いい天気ね。まだちょっと寒いかもしれないけど、音をこの静かな世界に返してあげるのにこれ以上の日はそうはないわ。」

 彼女はそう言うと、いつものハーブティーを入れてくれた。

「こうしていると、昔、バラドゥーラ仙神の家の前の庭で過ごした時間のことを思い出すよ。ぼくにとってはかけがえのない時間だった。」

 ナユタがしみじみそう言うと、ナスリーンはうなずいて言った。

「そうね。そんな時間は大切にしなくちゃね。でも、ここにはそんな時間はいくらでもあって、ほんとに素敵な場所だと思うわ。ここに来る前は、そんな時間はなかなか持てなかったもの。」

「そうかもしれない。外の世界はいつも荒れ騒いでいるからね。刺激にはこと欠かないだろうけど。」

「でも、ここはただ静かなだけじゃなくて、心をときめかすものはいっぱいあるわ。今日も、こんな気持ちの良い朝に心を躍らせていたら、ナユタさんが来てくれたし。」

 彼女はそう言って立ち上がると、

「じゃあ。」

と言って、雪の上の楽器の一つを叩いて単音を響かせ、さらに短いフレーズを奏でた。不思議な響きだったが、ここ最近彼女がこだわっていたドルヒアの響きではなく、むしろ、今日のこの光の世界にふさわしい孤高の響きだった。

 ナユタも立ち上がり、木の音を響かせた。高く響く乾いた木の音が青い大気の中に消えていった。

 

 それからしばらく経ったある日、ハーディがやって来た。いつものように飄々と、そして突然にだった。

 ハーディはやってくると、

「風の館を予約してるんだ。」

と言ってナユタを風の館に連れ出した。席に着くと、彼はさっそくワインを一本持ってこさせた。

 そしてハーディは、自ら二つのグラスに並々とワインを注ぐと、

「一発の弾丸によって虫けらのように葬り去られるより以上に意味のある生き方に。」

と言って杯をかかげた。

「でも、そんなものはありはしないのさ。」

 そう彼は続けて、ナユタと杯を合わせた。

「あの詩は良かったな。」

 そう言って彼はもう一度ナユタの杯と合わせた。この前、ナユタがハーディに送った「ぼくが描き出したいと思うもの」で始まる詩のことだった。

「ありがとう。君の詩の足元にも及ばないけどね。」

 ハーディは肩をすくめて見せ、

「だけど、詩なんてつまらんさ。」

と言った。

「誰かに共感して欲しいわけじゃない。誰かの役に立ちたいわけでも、誰かに評価して欲しいのでもない。ぼくが詩を書くのは、ただ書きたいからだ。だけど、その詩はぼくにとってどんな意味があるのか。結局、ただのつぶやきに過ぎないのさ。」

 そして、彼は新たに僻地で仕事を見つけ、来月からそこで働くのだと言った。何をするのかと聞いたら、古い言語を紐解き、古代の神話を再生するプロジェクトに参加するのだという。うまくいきそうなのか、とナユタが問うと、彼はいつもの通り、先のことにはまったく気にかけていない風だった。駄目なら駄目で良いさという気分なのだろう。

 いろいろ話を聞いていると、ハーディはその地方の古い呪術を学べないかと思っているようだった。いつものことで、何か月になるか、何年になるか分からないのだろう。ただ彼は言った。

「今度はしばらく帰ってこないかもしれない。しばらく別の世界に浸ってみたいのでね。なあ、ナユタ、地上で、君の友人だったって男が、ぼくたちはつまらない世界に生きている、と言ったそうだが、今だってぼくたちはつまらない世界に住んでいるとは思わないか。」

 この言葉にナユタがかすかにうなずくと、ハーディはこう言った。

「ぼくたちが見出さねばならない法則、ぼくたちが描き出さねばならない形、ぼくたちが到達しなければならない地平、いったいそのようなものは存在するのだろうか?ぼくたちの手の内の石は本当に磨かれねばならなかったのだろうか?第一、いったい何のためにそのようなことをしなければならないのか。そして、誰がそのようなことをぼくに負わせたと言えるのか。そして、もし、そのようなこと一切が単なる幻影だというなら、ぼくたちは自らの道をどこへも突き当てることができなくなってしまうだろう。」

 このハーディの言葉に、ナユタは、

「でも、素晴らしい詩ができているじゃないか。」

と言ったが、ハーディは笑い飛ばしてこう言っただけだった。

「素晴らしい詩?どうだかね。ただ、詩について言うなら、悟ったことが一つある。詩は創造だが、その詩を生み出す創造力というものは、実に、心の内に何かを思い描くという想像力に他ならない。そして、心に思い描くという想像は何もしないで生み出されるものじゃない。それが生み出されるためには、何も生み出さない長い現実の生活が必要なんだ。ナユタさんもきっとそうだ。そして、ようやく新しい詩を創造できても、納得できる詩なんて一度として書けたことがない。」

 そう言うと、彼はこの日、浴びるほど酒を飲んだ。奔放で楽天的に見える彼の心の奥底を覗き込んだような気分だった。

 その夜、ハーディと別れて自分の部屋に帰ると、ナユタは窓を開けて月を見上げた。ひんやりとした夜の風が心の表面をざわめかせた。ハーディが言ったことはまさに真理であったろう。そして、ハーディの語ったさまざまな言葉が思い出された。

 グラスの酒を飲み乾したハーディは、さらにこう言ったものだった。

「しばしばこんな混乱した気分、鬱な気分になるよ。瞑想の修業を積んでいないことが悪いのかもしれないけど、ぼくはそんなものをする気にはなれないしね。」

 ハーディの言葉は、ナユタの心を波立たせた。たしかに、世界は混沌と混乱の中に浮かんでいた。本当のものはどこにもなかったし、自分たちが生きてゆく中で真に意味のあると言えるもの、そのものによって自分たちが生きていることにまさに意義があると言えるものもどこにもなかったのだ。まさに、かつて、フェドラーが言った通り、『我々はつまらない世界に生きている。』としか言えなかった。そして、そのことに立脚するなら、結局、真理は、パキゼーの語った『一切は空』ということだけだった。

 ただ、世の神々は、ひび割れた世界という現実を忘れ、あるいは隠蔽し、この素晴らしい世界、この美しい世界という幻想、生きる素晴らしさ、生きる喜び、友情、愛などというもので世界の価値を塑造しているだけなのだ。そして、ときには、悲しみすら、この世界に生きることに心を浸らせるもととなっているのだ。実際、この世界の中では、すべての者たちがその虚飾、幻想を維持することに加担し、そのこと自身が価値として賞賛されているのだ。

 そんな思いを心に巡らせると、ハーディの心の中の苦い思いがナユタの心に染み込んでいった。結局最後に残るのは、この意味のない世界の中でどう生きてゆけばいいのか、ということかもしれなかった。

 ナユタはペンをとってノートに書きつけた。

「ぼくはいつも孤独で、なんという滑稽な道を歩いていることだろう。たしかにぼくは何かを目指している。道を切り開かねばならないという強い思いが常に胸の内にある。けれど、すべてはまったくの徒労、取るに足らない他愛ない戯れにすぎないかもしれない。何かをなすことが重要なのではない。ただ、自分の中から出てこようとするものを展開しようとしているにすぎないのだけどするだけなのかもしれないけれど。」

 

 次の日の朝、『植物文様』の流れる明るい室内で、青い空と白い雪、穏やかな山と褐色の木立などを眺めながら、アミティスの用意してくれた朝食をリリアンととっていて、ふと、ナユタは山に登ろうと決めた。

 昨夜のハーディとの対話、そして自分の中での自問自答がそんな気持ちにさせたのかもしれなかった。ひとりになりたかったのかもしれなかった。

 アミティスが持たせてくれたお弁当をリュックに入れて、ナユタは家を出た。明るい光の中を誰ひとりいない牧場の斜面を通り、林の中の道を抜けて山頂を目指した。樹林帯を抜けて木のない雪の斜面に出ると遠くジャンクール峰から連なる雪の山脈が見渡せた。

 再び心が自由になった。そうナユタは感じた。光の上を、雪の上をナユタは黙々と歩き続けた。自分がこれまで歩いてきた道のひとつひとつが自分の中で照明された。何と長い間、心が自由を失っていたことだろう。そして、なんと長い間心に笑い声を聞かなかったことだろう。そんな思いだった。心が笑うためには決して楽しいことや充実したことや意義あることが必要なのではなかった。光の中で、はてしない山のはるけさの中で心が再び自由になり、心には笑いと静寂があった。

 遠く雪の山脈が広く連なり、はてしないはるけさと美しい静けさが世界に満ち、時間を超越したなにかがその中に流れ込む。音ひとつなく明るい静寂が世界に溢れ、かすかな風の中で木立が揺れた。

 時間すら動いていることが感知されない瞬間がそこにあった。

 それからまたナユタは登り始めた。雪の斜面をトラバースしてそのまま登り、斜面の終わる所で再び樹林帯に入った。樹林帯を抜けると頂上直下だった。雪は柔らかく、アイゼンなしで直登できた。

 頂上に立つと、遠くに美しい雪の山並みが見渡せた。誰もいなかった。いくらか冷たかったが、そんな展望の中でもってきた昼食を食べるのも楽しかった。

 美しい一日だった。頂上を後にして小さなコルまで下り、それから樹林帯を下った。登る途中で休んだ場所で再び腰を下ろした。道を模索し続けて歩いてきたこの年月が思い出された。かつて歩いてきた道はけっしてナユタが望んだような道ではなく、ナユタを導いてくれた光はいつも心細く、はっきりしなかった。この世界の内の目標は決して空の朗らかさに通じてはいなかった。それはおそらく混沌としていて、暗黒のカオスへと崩壊すべき冷たい宇宙へと、そして愚かな世界内存在者の滑稽な演戯へと通じているだろう。

 振り返ると山頂が美しく輝いていた。ふもとに着いたのはもう四時を過ぎてからだった。家に帰るにはまだ早かったので風の館に行くと、客は誰もいなかった。カウティリヤがコーヒーを持ってきてくれ、ひとりで静かに飲んだ。明るい日差しの中で、この落ち着いた店でコーヒーを飲むのはいつもいい気分だった。店内には、『スティル・ウェイ』が流れていた。すべてが美しく、すべてが素敵だった。

 

 しばらく経って、ハーディからオプティックネットで、一つの詩が届いた。『雨粒の音に耳を傾け』という詩だった。

 

ひとつひとつの雨粒の音に耳を傾け、

小さな石たちの発する微かな光とともに、

時間の外にある未知なるものたちに

まなざしを投げるぼくの仲間たち。

 

石たちのざわめきがぼくたちの心をざわつかせ、

木片を打ち鳴らす者たちの音の列が

その小さな世界に共鳴する。

 

この空の向こうでは、

今日もシヴァ神が破壊の踊りを踊り、

神々が新しい世界の創造を模索しているかもしれない。

 

異界から舞い降りる不思議な形象たち、

石たちの夢を紡いでいる雨粒の静けさ。

ぼくたちの音が虚空の中に掻き消え、

微かな風が草の匂いを運んでくる。

 

石たちとともに過ごした雨の一日。

 

 『Four Walls』を聞きながらこの詩を読んで、「道はまだ完結してない。」という思いが改めてナユタの心をよぎった。

 空の上では今日も縹渺たる風が吹きすさび、胸の中にぽっかりと穴が開いて、切り刻まれた夢の破片の数々が小さなきらめきを伴って降り積もり続けているのだ。世界は寂々として涯しなく、描いてきた音たちは道の上で砕けている。

 ナユタは心の中で天に向かって叫んだ。

「さあ、舞い降りてくるがいい、異界に輝きを放つ羅神たちよ。さあ、大地を踏みしめてみるがいい、この世界に異を唱える求道者たちよ。」

 けれど、静かになった地平の上では石たちが押し黙ったままなのだ。空の中に砕ける夢の破片はただキャンバスの上に埋め込まれているだけなのだ。

 

 その数日後、突然、ナユタの家にやってきたのはヴィカルナ聖仙であった。初めてヴィカルナ聖仙に会ったときと同じ姿ように、白いあごひげを生やし、長い髪を肩の下まで真っすぐに垂らした姿で、あの時と同じく、腕には青い腕飾りをつけ、青い勾玉を連ねた首飾りをつけていた。

 まったく予期せぬ訪問で、ナユタはびっくりしたが、ヴィカルナ聖仙は、

「久しぶりに会えてうれしいよ。ナユタ。」

と気さくに語りかけた。

「世界はまったく違う相に入った。この世界についておまえと話がしたかったのでな。」

 ナユタは驚きつつも、ヴィカルナ聖仙をリビングに迎え入れ、

「アミティス。リリアンを呼んできてくれるかい。」

とアミティスに声をかけた。

「いまのは、アミティスというロボットです。すぐに、リリアンという女神がやって来ると思います。いま、一緒に住んでいるんです。」

「そうか、なかなか良いところに住んでおるな。ここに来る前にビハールにも行ってきたが、あそこはひどいな。ここは静かで良い。」

「えっ?聖仙はビハールに行かれたんですか?」

「ああ、せっかくだから、今の世の最前線を見ておこうと思ってな。だが、ともかく、思っていた以上にひどかった。正直言って、失望したよ。」

「そうですね。私もしばらく前にビハールに行きましたが、たしかに、世界はすべて変わってしまいました。このような世界を実現するために、私たちは苦悩し、努力してきたのだろうか、という疑問が心に疼いています。そして、世界は表面的には繁栄を謳歌していますが、その奥底では依然としてきしみ続けているのです。」

「そうだな。さっきも言ったが、世界は本当に別次元に移ってしまったな。だがら、おまえのところに来たのだよ。」

 ふたりがそんな会話を交わしている間に、リリアンがやって来た。

 リリアンはヴィカルナ聖仙の突然の来訪に驚きつつ、

「初めまして。リリアンと申します。」

とあいさつした。三神がソファーに腰を下ろすと、アミティスがフルーツと紅茶を出してくれた。

 ヴィカルナ聖仙は、出されたものを味わいながら、改めて言った。

「ナユタ。なんのために、これまで苦悩し、努力してきたのか、と言ったな。だが、言えることは、ただ、生起すべきものが生起したということだ。これが世界の行き着く先であったというなら、それ以上でもそれ以下でもない。」

「たしかにそうかもしれません。」

とナユタが答えると、ヴィカルナ聖仙は淡々と語った。

「たしかに世界は変わった。世界は静かになり、今は神々にとってはただ幸福な時間が滔々と流れ続けている。だが、それは、決して真理が具現化しているわけでない。真理は隠され、神々はただ自己を満足させるために生きているに過ぎない。」

「では、真理はどこにあるのでしょう。」

 そう問いかけたナユタをじっと見つめて、ヴィカルナ聖仙は諭すように語った。

「真理か。ひとつはパキゼーの輝きであろうな。そして、もう一つはシヴァ神の心にあるだろう。おまえと初めて会ったとき、あの漆黒の部屋の中でおまえはシヴァ神の踊るのを見た。一切の混沌をただ喜悦に満ちたまなざしで見つめ、一切の破壊を淡々と踊るシヴァの踊りをな。それがもう一つの真理だ。だがさらにもう一つ言えることは、さっきも言ったが、この世界では、真理は何一つ具現していないということだ。」

「その通りかもしれません。」

と言ってナユタが考え込んでいると、

「それで、実はな。」

とヴィカルナ聖仙は言って、続けた。

「おまえも知っていようが、わしもナタラーヤも永遠の円環の中に旅立った後も、時に応じてこの世界に関わってきた。だが、今のこの世界が実現し、この世界ではもはやわしがなすべきものは何もなくなってしまった。だから、ナユタ。別れを言いに来たのだよ。もう二度とおまえに会うこともあるまい。」

 この突然の言葉にナユタは顔をひきつらせた。なんと言っていいか分からず、ただ、

「でも、またお会いできるでしょうか?私には、まだ、ヴィカルナ聖仙から教えを乞うべきものがあると思っているのですが。」

と言うのが精いっぱいだった。

 だが、ヴィカルナ聖仙は笑って答えた。

「その言葉だけもらっておくよ。時の濁流の中に浮かんでいるに過ぎない我らにとって未来のことなど分かりようがないからな。だが、もはやわしがおまえに授けるものは何もないのではないかな。おまえも今後、迷いや困難に直面することもあるかもしれぬ。だが、そのとき道は自ら切り開くしかないということだ。」

 この言葉を心の中で咀嚼しながら、しかし、ナユタは問いかけた。

「まだまだ教えていただかねばならないことがたくさんあるはずと思っています。」

「それはどんなことかな。」

「例えば、ぜひ、一度おうかがいしたいと思っていたことがあります。それは、世界はそもそもどうなっていて、時間はいつ始まり、いつ終わるのか。世界は誰が造り、この世界の外はどうなっているのかということです。」

 この問いかけにヴィカルナ聖仙は笑顔を見せて答えた。

「それについて、わしとてそんなに多くを知っているわけではない。ただ、これだけは教えてやろう。言い伝えられているところでは、一切はヴィシュヌ神の夢から生まれたと言われている。そして、その夢とともに、この世界、この時間が始まったということだ。ヴィシュヌは永劫の乳海の上に身を横たえていると言い伝えられている。」

「では、そのヴィシュヌ神はなぜ存在するのか、いつから存在するのか、ということについてはどうなのでしょうか?そしてまた、世界が閉じられるということはないのでしょか。このいつ始まったかもわからない世界、この世界に終わりはないのでしょうか?そもそもこの世界は存在しなければならないのでしょうか?もし、そうだとすれば、なぜ存在しなければならないのでしょうか?」

 この言葉に対して、ヴィカルナ聖仙はからからと笑って答えた。

「そんなことは知らんよ。我らは世界の内に閉じ込められている存在でしかないからな。この世界が存在する理由も意味も知る由もない。世界に終りというものがあり、いつか世界が閉じられるとすれば、それも良かろうな。ただ、それらはすべて我らのあずかり知らぬところでしかない。」

 ナユタはこの言葉を噛みしめるように聞いたが、それでもなお尋ねた。

「その通りかもしれません。ただ、それではその中で、我々はそもそもどう生きてゆくべきなのでしょうか。」

「我々は膨大な時間の渦の中に飲み込まれているに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。それだけだ。」

 この言葉にナユタはただ黙って頭を下げた。

「それにしても、そんなことに思いを馳せるのは、おまえがまだまだ青二才だということだ。」

 そう言ってヴィカルナ聖仙は笑った。そして、ただ、

「では、わしは行くよ。」

と言って、立ち上がり、そして姿を消したのだった。

 

 大地は沈黙し、森は静まり返っていた。

 天の窓からこぼれ落ちる小さな光の粒たちが、かすかな夢の暖かみをもって降り注いでいるかのようであった。

 

 それがこの物語の終りであった。

 

 

201846日掲載 / 最新改定:202066日)


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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第6巻