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神話『ブルーポールズ』

【第6巻】-

向殿充浩

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 ナユタがそんな暮らしをしていたある日、突然バラドゥーラ仙人が訪ねてきた。

「雪道を歩いておったら、いつの間にか、おまえの家の前まで来てしもうたのでな。」

 そう言って、バラドゥーラ仙人は靴についた雪を落としながら笑った。

「連絡してくだされば、車で迎えに行きましたのに。」

 ナユタはそう言ったが、仙人は軽く手を振った。

「そんなものは要らんよ。それに、おまえを訪ねるために家を出たわけでもないしな。ただ、いつの間にかおまえのところに来てしもうたということは、たぶん、おまえの顔を見たかったのじゃろうて。」

 ナユタが仙人を招き入れ、応接室のソファーに腰を降ろすと、仙人は壁に掛かったリリアンの『沈黙の空』をじっと眺めながら尋ねた。

「リリアンは元気かな。」

「彼女は今、アトリエに行っているんです。呼んできましょう。」

 仙人は軽く手を横に振った。

「いやいや呼ばんでいい。後で顔を出すとするよ。それにしても、この絵を見ると、リリアンが孤独を心の内に持ち、険しい断崖をよじ登るような心で生きておるのがよく分かる。かつてのシュルツェを思い出すよ。」

「そうですね。彼女は楽しく過ごしているように見える時もしばしばですが、手放しに幸せな気持ちで生きてはいないように見えます。」

「そうだろうな。だが、それで良いのじゃよ。自分に満足し、生きることに満足するなら、決して真の創造は生まれぬからな。心の奥底に疼いているものこそが真の何かを生むものだ。そういう意味では、おまえもまたそうだがな。」

 そう言って笑うと、バラドゥーラ仙人は、アミティスが出してくれた紅茶をおいしそうに飲み、最近の高原での暮らしや世の中のことなどについてナユタと語り合った。

 話が一段落すると、ふたりはリリアンのアトリエを訪ね、バラドゥーラ仙人は彼女の近況も尋ねて談笑した。

「今日は泊まっていかれてはいかがですか?」

 ナユタはそう言ったが、バラドゥーラ仙人は笑って答えた。

「いやいや歩いて帰るよ。日暮れまでには家に帰り着きたいしな。」

「では、アミティスの車で送らせましょう。」

 ナユタはそう言ったが、仙人は笑って断った。

「いや、今日はいいよ。天気も良いし、歩くのにこんなに良い日はない。こんな日に歩いて帰るのは楽しいものだ。」

 外に出ると、仙人は雪の野の上の青空にたなびく白い雲を見上げて言った。

「おまえが初めて森に来た時のことを今もよく覚えておる。おまえは、宇宙にこの神ありと言われた英雄ナユタで、わしはただの世捨ての神だったが、おまえと暮らした日々は楽しかった。わしにとっては、まるでかわいい孫のような存在だった。おまえがルガルバンダを倒して森に戻ってきて、わしの家の庭にうずくまっていた時のこともよく覚えている。わしにとっても悲しいことだった。だが、ともかく、時は流れた。そして、わしは日々をただ淡々と見送っている。元々、世捨ての神だったしな。」

 その表情には、自らの内からの光に佇んでいる倦み疲れることのない朗らかな精神が漂っていた。ナユタははっとして何かに心を打たれたが、仙人は、

「じゃあ、またな。」

と言って、飄々と去っていった。

 バラドゥーラ仙人が帰ると、ナユタはアミティスにシャンパンをもってこさせ、ひとりで静かな高原を眺めた。窓の向こうに広がる美しい雪の世界。しかし、その青く輝く空を見上げると、なぜか悲しい気持ちがこみ上げてきた。

「自分の戦いは終わったのだろうか。」

 ふとそんな思いがナユタの心に浮かんだ。ヴァーサヴァの創造に端を発したムチャリンダとの戦い、ヨシュタの戦い、パキゼーのこと、ルガルバンダとの戦い、そんなことどもがナユタの心を次々によぎった。それは、ある意味、世界を相手にしたナユタの戦いだった。そして、今はただ静かにこうして安らぎ、隠遁の生活を送っている。でも、それで極めるべきものは極められたと言えるのかどうか。求めるべきものは求め得たと言えるのかどうか。真理は輝いたと言えるのかどうか。世界は完成されたとか、何かに到達したと言えるのかどうか。

 答えは「否」だった。実に、何も実ってはいない。時間が流れ、世界は変わったが、本質的には何も実ってはいないのだ。

 それがナユタの心にわだかまっているものだった。たしかに、リリアンとアミティスとの笑顔のある生活、森の自然の安らぎと美しさ、森の仙人たちとの交流、ナスリーンと奏でる新しい音楽の発露、そんなすてきなものはいろいろあった。けれど、真なるものは実にまだ、何も具現されていないのではないか。

 そう思って空を見上げると、夕暮れの近づく真っ青な空から明るい光が柔らかく降り注ぎ、小さなこま雪が風に乗って舞い踊っていた。石に刻まれた小さな夢たちが、けれど、何かをつぶやき続け、疾駆する風たちが何かを語り続けているかのようだった。

「明日は山に行こう。」

 ふとナユタはそう決心した。

 

 次の日は快晴だった。ナユタは行ったことのない山に行こうと決め、アミティスの車でふもとまで送ってもらった。

「じゃあ、ここで待ってますね。もし、場所が変わるようなら、そこに迎えに行きますね。」

 そう言って、アミティスの車が送り出してくれた。

 ナユタはザックを担いでひとりで登り始めた。樹林帯の中の道を黙々と歩くのも気持ちよかった。静かな誰もいない世界に自分の足音だけが響いた。さまざまな雑念がその足音の中に消え去るかのようだった。

 樹林帯を抜けると、突然視界が開け、輝くような明るい高原が見渡せた。さらに次の山を目指すと、広々とした美しい雪原に出た。一面の雪世界で、まばゆいばかりの明るい光に包まれ、遠く、雄大な雪の山脈も見渡せた。

 峠を越えて湖まで行くと、そこでは、凍った湖がしーんと静まり返り、枯れた木々がさまざまな不思議な表情で起立し、朗らかな笑いに包まれていた。明るい光、澄んだ光が喜ばしく、木立から漏れる光は不思議なまでにきらびやかだった。すべてがおとぎ話のようで、雪の中のすてきな時間が過ぎていった。

 その雪の原野の中で、ナユタは目を閉じて心を鎮めた。存在というものが自分から遊離した時間だった。

「日常ではぼくたちは重力のために存在にへばりつかされている。ぼくは存在の中でしか、ものを考えられなくなっている。でも、目を閉じて心を鎮めると、ぼくというものが存在から浮き上がる。それでぼくは自由に、そして心は軽やかになる。でもその自由、その軽やかさは本当にぼくのものになったのだろうか。存在というもののもつ不可思議さに触れるたびに、ぼくは心のどこかで『存在が捉えられない』という疑念に突き当たっているのではないだろうか。」

 そんな思索がナユタの中を駆け巡った。そして、それは、自分たちがそれなりに自由に朗らかに生きているというこの現実の生活への疑問でもあった。存在というものが本来持っているあやふやさの前で、ほんとうになさねばならないものは何か。そういうものはあるのか、ないのか。自由に朗らかに音を奏でていればそれで良いのか。自由に生き生きと生きていることが良いことなのか。幸せであり、満足できれば、それで良いのか。存在というものの本源的な意味が捉えられないとき、それらの疑問に対する答えもまたイエスではないはずだった。

 ナユタは思った。

「ぼくは恐ろしい断崖を見せられている。そして何かをなさねばならないと駆り立てられる。それは喜びの中で道を行くことではなく、むしろ、不安と苦渋に満ちた道だ。ぼくはどこかある極点に引きつけられている。」

 そんな思いにまとわりつかれながら、ナユタは雪道を歩いた。日が暮れると、ナユタは雪の中にテントを張った。そして、夜、テントから顔を出して、天の星々を見つめた。太古の沈黙、それはナスリーンの木の音とも符合するものだった。

 ナユタは、ナスリーンと一緒に作った木をくり抜いた小さな楽器を取り出し、ひとりで音を響かせた。長く響く、乾いた単音の甲高い響きが山の中にこだました。太古の響きが雪の原野に響いたかのようだった。そして、それはひゅうひゅうという風の音に共鳴し、雪の静けさや星の光とも共鳴した。

 ナユタは雪の上に横になり、天を見上げ、そして自問自答した。

 いったい存在し、生き続けることの本来の意味はどこにあったのだろう。朗々とした光の内に生きることが意味であったのだろうか?そして、そんな光が輝き続けないとしたら、その光を求め続けることが意味だったのだろうか?

 いずれにしても、光はナユタの中で輝き続けてはいなかった。歩いてきた道は歪み、混乱に苛まれ、そして光は時としてしか輝かなかった。ヴィカルナ聖仙は、「光がないと言うのは、光を見ようとしない者がそう言うだけだ。」と言った。だとすれば、自分は光を見る力に欠け、自らの内に光を灯し続ける力がないとか言いようがないのかもしれなかった。

「そもそもぼくは小さな存在。十億光年の彼方から見れば、ぼくの存在など、塵ほどでしかない。ぼくの住んでいる世界は中間の世界、浮遊する世界。支えのない海原の小舟、空中のチリのような世界。」

 そうナユタはつぶやいたが、すると、ふと、荒野のただ中で、砕けた仏頭が冷たい石畳の上に転がっている光景が心に浮かんだ。ナユタは詩句を口にした。

 

 砕けた仏頭が冷たい石畳の上に転がる。

 ブッダの笑いが言葉のない黒い時間を見つめ、

 青白い月明かりの下で首のないトルソが凍りついたように起立を続ける。

 壁画の中の意味をはぎ取られた赤い暗号、

 そして色褪せて時間の中に埋没しようとする青銅製の呪文。

 物思いに沈んだ月明かりの下で、かつて貧しい名人が仏頭を刻んだはずだった。

 星々の清々たる演技に導かれて孤独な旅人が謎の文字を掘り込んだかもしれなかった。

 天使は静かに降り立って、砕けた仏頭を一つずつ拾い集めるかもしれない。

 荒野が沈黙に覆い尽くされる時、存在が石のそばで朽ち果ててしまう時にだ。

 

 次の日の朝、夜明け前に目を覚ましてテントから外を見ると、山の稜線が赤く輝いていた。薄青色の空には、白い半月が登っていた。雪山の美しい静けさ、無限の沈黙がそこにあった。日の出とともにテントをたたみ、ザックを担ぐと、朝の凍りつくような空気が気持ちよかった。ナユタは誰もいない雪の道を黙々と歩き、いくつかのピークを超えて縦走を続けた。それ自身が心を満たす時間、幸せな時間だった。心の中に静けさと光が舞い降り、世界は美しかった。

 歩き続けるうちに思い立ったのは、このままバラドゥーラ仙人の家を訪ねてみようということだった。バラドゥーラ仙人の家は、今いる場所からそう遠くはないはずだった。

 休憩がてらザックを降ろして岩の上に腰掛け、もってきたチョコレートをかじりながらフレキシブル有機パッドで調べると、仙人の家はここから歩いて四時間くらいだった。

 夕方近くなってバラドゥーラ仙人の家の近くまでやってくると、小さな湖の畔にぽつんと一軒の家が建っていた。仙人の家に違いなかった。池は凍っており、上には真っ白な新雪が積もっていた。氷の間から涸れた草の穂が出ていて、風にたなびいていた。

 バラドゥーラ仙人の家の前までやってくると、家の玄関にはインターフォンが設置してあった。ボタンを押しても画面はオンにならなかったが、しばらくするとバラドゥーラ仙人が出てきた。

「ナユタ。よく来たな。突然でびっくりしておるがな。」

 そう言って笑顔で迎えてくれた仙人にナユタは頭を下げて言った。

「突然ですみません。つい先日うちに来ていただいたばっかりでしたのに。雪山を歩いていたら、つい、ここを訪ねてみようと思い立ったものですから。」

「そう言ってくるのはうれしいことだ。ともかく、雪を落として家に入れ。たいしたもてなしはできんがな。」

 そう言って仙人はナユタを家に上がらせた。仙人の家はこじんまりとしており、ロボットも車もなかったが、非常に清潔で、さまざまなエレクトロニクス製品も揃っているように見えた。

「今日は泊まってゆくがいい。まずは風呂にでも入るか。」

 そう言って勧められるままに風呂に入ると、それは露天風呂で目の前には湖が広がっており、その向こうには雪の山並みが連なっていた。湯はぬるぬるした温泉水のようで肌に気持ちよかった。風呂から上がって湯のことを聞くと、仙人が説明してくれた。

「ここの湯は源泉掛け流しでな。アルカリ性でいろんな成分が入っておるそうじゃ。温度が高いので、適温になるまで温度を下げてから浴槽に入れるようになっているんじゃが、冬は湯を家中に巡らせて、家を暖めながら湯温を下げるというふうになっておるそうじゃ。」

「それで家中が暖かいんですね。でも、夏はどうしてるんですか?」

「夏は、熱交換器を通して湯を作ったり、あるいは電気に変えたりするらしい。わしには詳しいことは分からんがな。ともかく、この家では電気代は一円も払っておらん。有機太陽電池も屋根や壁に付いておるしな。」

「なるほど。快適な家ですね。昔の森の家とは段違いですね。」

「まあ、そうだな。だが、昔の家に住めと言われれば、喜んで住めるがな。別に、前の家で不自由に思ったことは何もないからな。」

 バラドゥーラ仙人はそう言って大きく笑うと、ナユタを食卓のテーブルの椅子に座らせてくれた。テーブルには既に料理が並んでいた。

「簡単な料理ですまんな。全部、冷凍ものかレトルトなんでな。みな、ネットで注文してスカイウェイで届けてくれたものだがな。」

 仙人はそう言ったが、料理はおいしそうだった。真ん中には、生の肉や刺身が並んでいた。

「この肉は何なんですか?」

「それは馬肉じゃよ。もちろん、馬肉と言っても馬を殺した肉ではなく、工場で生産されたものだがな。ともかく、こんなものが簡単に食べれるのも今の時代だからだな。」

 テーブルには、さまざまな種類の葉っぱの載ったリーフサラダ、肉じゃが、キムチ、もずく、納豆、ひじき、卵焼きなども並んでいたが、仙人は冷蔵庫からハーフサイズのボトルを取り出していた。

「今日は、これでも飲むとしよう。ソーマ酒じゃよ。」

「ソーマ酒ですか。初めて仙人の家をお訪ねしたとき、飲ませてもらいました。今でも売っているんですね。」

「ああ、あまり飲む者はいないが、今はネット社会だから、取り寄せるのは別に難しくもない。」

 ソーマ酒はあのときと同じ味だった。ある意味、非常に癖の強い酒だったが、あのとき同様、心の疲れが飛んで行くような思いを覚えた。

 その夜は、その初めて会った時のことなど昔話に花が咲いた。懐かしい思い出だった。

 

 それから一週間ほど経って、ドレッシェルが訪ねてきてくれた。一年ぶりの再会だった。

 ドレッシェルはナユタに会うと、さっそく言った。

「英雄たちが宇宙の舞台を闊歩していた時代は終わってしまいました。あなたはここで世間から隔絶した生活を続けれおられ、シャールバは新たに開発された森に居を構え、ただ有閑の日々を送っていると言います。ユビュはウバリートにこもったままですし、シュリーもただ君臨しているにすぎません。」

「たしかにそうかもしれませんね。」

 そうナユタが答えてドレッシェルの次の言葉を待つと、ドレッシェルは、ナユタに関する本を書きたいと言った。

 前回の創造までのナユタについては、さまざまな本が出ているが、創造が閉じられて以降のナユタについてぜひ書きたいということだった。それはある意味では、前年にドレッシェルが刊行した『古い時と新しい時』の続編ともいうべき本にしたいらしかった。

 ドレッシェルは説明して言った。

「『古い時と新しい時』では、ネオビートニク以来の現在の世界について述べ、ある意味では、それに批判的に、また挑戦的に書きました。だが、はっきり言って、新しい道を指し示したわけではない。もし、私に真の力があるなら、私自身が道を切り開くべきかもしれないが、私は自分の非力を理解しています。でも、あなたは違う。あなたは道を開くことができる。」

「しかし、私は市井の神になり、今は森に退いています。私にそんな力があるかどうか?たしかに、私はなお悩み、道を求めていますが、けれど、未だ答えを見いだせてはいません。」

「もし、ナユタさんに道が見い出せないなら、この世界のいかなる神も道を見い出せないのではないか、私にはそう思えます。世の神々は自分の立っている地平を唯一絶対の地平と思いがちだ。そして、自分の立っている地平よりも高い地平を見ようとせず、あるいは敬遠し、あるいは事実上忘却してしまうことによって、誤った自己正当化と不遜な態度に陥っている。だが、あなたは依然として道を求め、道を捜しておられる。」

 ナユタはこの言葉を聞くと、静かに微笑んでこう言った。

「期待に応えることができるかどうか分かりませんが、あなたがお書きになりたいものに対して、お力になれることがあれば、ならせていただきましょう。」

 ドレッシェルが

「ありがとうございます。」

と答えると、ナユタは戸棚から一冊のノートを取り出し、その一ページを見せた。

 そこには、こう書いてあった。

「ぼくが描きたいもの、それは例えば、星辰の法則が支配する宇宙。暗い無明の中に星が光を宿して巡ってゆく歴史の流れ。神々の運命を超えて、幾千年のかなたより空間のひずみを超えてたどり着く小さな光。

 ぼくが描きたいもの。それは例えば、雨の中の星座。池に波紋が浮かび、その輪が星座の運行と共振する世界。そして、星座の響きが流れ込むと一切の音が流れを止める静寂の時間。」

 ドレッシェルは、じっとそのページを見つめ、何度か読み返していたようだが、心を打たれたことを表情に隠さず、こう言った。

「やはり、あなたはナユタだ。あなたの心は真理を求める求道者そのものだ。ヴァーサヴァの創造以来のあなたの軌跡がこの言葉の中に結晶化しているかのようだ。」

「これは、創造が停止された以降のノートです。こんなものが価値があるかどうか。ただ、興味がおありになるなら、このコピーを差し上げましょう。」

 ドレッシェルはこの申し出に大いに喜んだ。ナユタはアミティスを呼んで、そのノートのデジタルコピーを作るように頼んだ。

 アミティスがそのノートをもって向こうに行くと、ドレッシェルは別のことを話し始めた。

「実は、最近、創造審査委員会というのができて、そのメンバーになりましてね。」

「創造審査委員会?」

「ええ、新たな創造についての提案について審査する委員会です。あまりご存じないかもしれませんが、ヴィダールが始めた前回の創造が停止された後も、あの創造は停止すべきでなかった、新たな創造を行うべきだ、創造が何を生み出すかもっと見てみたい、という声は後を絶ちません。」

「それについては、ネットなどで多少は目にしたことがあります。ただ、どちらかというと、あまり見識のない者たちが、粗雑で乱暴な願望、興味本位の歪んだ希望を喚き散らしているだけという印象をもっています。」

「その印象は正しいと思います。だから、世の大勢はそんなものを取り上げはしなかった。しかし、一方で、最近、ロボット学者の中から、真剣に、もう一度創造を起こすべきだという議論が出ていましてね。そのこともあってライリーが創造審査委員会を立ち上げたのです。もっとも、現時点では、政府の立場は新たな創造に否定的ですから、創造に関する提案をきちんと取り上げ審査したという体裁を整えるためのものでしょうが、ただ、ロボット学者からの主張には相当強いものがありましてね。」

「しかし、ロボット学者はなぜそれほどまでに?」

「ご存じのように、ヴィダールが始めた前回の創造では、人間たちが不死性を獲得する可能性が出てきたということで、創造が停止されました。不死性の獲得には、遺伝子操作による老化の阻止もありましたが、神々にとってより決定的だったのは、人間の記憶と思考をロボットに移すことによって実質的な不死を獲得するということでした。ヴィダールやライリーなどにとっては、それは直感的に危険と判断されることであり、遺棄すべきことだったと思います。しかし、当時から、そのようなが世界が何を生み出すかと見てみたいという声がないわけではありませんでした。」

「どんな世界を見てみたいというのでしょうか?」

「ロボット学者は、最後は、ロボットが意思を持ち、人間のいないロボットだけの世界になるというのです。人間の記憶を受け継いだロボットと、人間に作られたロボットだけからなる世界です。」

「ロボットが意思を持ちうるという話はトゥクール教授からも聞きましたが、少なくとも我々の世界ではそれは禁止されています。人間の世界では、ロボットが意思を持つようになるのでしょうか?」

「ええ、ロボット学者はそう考えています。人間の世界でもロボットに意思を持たせることは禁止されるかもしれない。しかし、かつて、人間たちの世界で、ハッカーとか、ネット攻撃が頻発したことはご存じでしょう。大局的視点、全体最適の観点では愚かな行為を個々の人間が引き起こす世界、それが創造された人間たちの世界でしたからね。幸い、我々の世界ではそのような愚かな行為の発生は限りなく抑えられていますが。」

「そうすると、創造された世界では、ロボットが意思を持ち、ロボットが世界を支配することになるというわけですか。」

「そういうことです。」

「しかし、それを実際に、創造して確かめねばならない必要性というのはどこから出てくるのでしょう。」

「それは結局、知的興味ということですよ。」

 ちょっとシニカルな調子のドレッシェルの言葉に、ナユタはうなずくほかなかった。ドレッシェルは続けて言った。

「たしかに、彼らが言うように、知的興味は尽きないと思います。そんな世界になったとき、世界は進歩するのかそれとも定常世界になるのか。どんな芸術が生み出されるのか、それとも生み出されないのか。そのロボットたちはどのように生きるのか。」

「なるほど。」

「私は、ある意味、この我々の神々の世界のような世界が生まれるのではないかと思っています。不死性を獲得し、欲望を満たすものはいくらでもあり、そして、我々の世界同様、その欲望すらも心理工学などでうまくコントロールできるようになるでしょうから。」

「それで、創造審査委員会での議論はどんな様子なのですか?」

「政府の方針もありますから、新しい創造を始めるということにはならないと思いますが、かなりの議論が起こっているのは確かです。」

「それで、ドレッシェルさんの考えや立場は?」

「私の立場は、結局、我々の世界と似たような世界になる創造を起こす必要性はないというものです。」

 この言葉はナユタを安堵させた。

「トゥクールも同じ考えで、いろいろ支援してもらっています。進歩に対する考え方は百八十度違っていますがね。」

 そう言って笑うと、ドレッシェルはさらに、この件で、今後もナユタの助言や意見をもらいたいと依頼したのだった。

 

 次の日、ナユタがリリアンとともに風の館に行くと、『グリーン』という曲の心地よい音とともに、カウティリヤが迎えてくれた。

「サナムのアルバムができていますよ。見て行かれると良い。」

「どんなアルバムなんですか?」

「この冬に撮った写真を集めて作ったものですよ。」

 そう言うと、カウティリヤはサナムを呼んでくれた。

 彼女は、フレキ有機パッドを持ってきて、作ったアルバムを店のローラブル有機テレビに出してくれた。

 題名は『ナユタとその仲間たち』だった。晩秋の風の館でナユタがリリアンやナスリーンと談笑する写真に始まり、風の館やナユタの家の庭での写真、風の館での冬至祭のパーティのときの写真、ナユタとサナムがふたりで雪山に行ったときの写真などが並んでいた。

 写真そのものは既にメールで送られてきており、サナムの写真の腕前に感心したものだが、それを用いてすてきなアルバムを作ってくれていたのだった。

 美しい山々の写真もあったし、リリアンのはにかむような笑顔の写真、落ち着いた微笑みを浮かべたナスリーンの写真も印象的だった。また、ナユタとナスリーンが風の館の外の雪原の庭に並んで座っているのを斜めの方向から望遠レンズを使って撮った写真があったが、それは、ナスリーンが音楽や自然や芸術について語っていたときのものだった。ナユタはじっとその時のナスリーンの言葉を思い出した。

 彼女は自分の道だけを見つめ、ひとりで道を歩いている。彼女の言葉はナユタにそう教えてくれた。孤独に、淡々と孤高の道を歩いている彼女。それは、ある意味、かつてのナユタの道と相通じるものであり、いや、今のナユタの心にも当然、相通じるものであった。

 ただ、ナユタのように混乱に巻き込まれながら迷い迷い生きているのとは違う強さが彼女からは感じられ、それがある意味ではなにか近寄りがたい、ある意味ではある距離以上近づけない何かを醸し出していた。少なくともナユタにはそう感じられた。

 しばらくして、ナスリーンが店にやって来た。ナスリーンがやって来ると、改めてサナムの作ったアルバムをみんなで眺めた。それからリリアンは一緒に楽器を打ち鳴らしてみたいと言った。ナスリーンは、それじゃあ、と言って、風の館に預けてある楽器をいくつか持ち出し、リリアンとふたりで打ち鳴らした。ナユタは、ひとりでお茶を飲みながら聞いていたが、それはすてきな光景、すてきな時間でもあった。

 

 リリアンはナスリーンと一緒のときは楽しそうだったが、家では自分の芸術のことでいろいろ考え込んでいることも多かった。

 彼女は、雪の庭にナユタと一緒に座っているとき、言うのだった。

「私はいつも明るい響きを持つ絵の上に、ナイフでキャンバスを切り裂くかのように、真っ赤な絵の具を投げつけている。そして、私の心の中の瓦礫がすべて粉々になって足元に落ちてしまうと、すべてはむなしく、何も残っていないという叫びが心の中をつんざくの。」

「私は、ほんとうは、実りのない道を淡々と歩く術を学ばねばならないのだと思うけど、それがどんなに困難か。」

「私の道の上には哀れな天使たちがうずくまっている。」

 この高原での冬の季節に彼女が描いた作品は、ひどく暗い、光のない作品ばかりだった。

 いったい何を描けばよかったのだろう。それが彼女の心の中にぐつぐつと疼いている思いのようだった。たしかに描くに値するものがあるはずだったし、描くことによって照明されるものもあるはずだった。でも、これまでにおびただしい数の画家たちがたくさんのものを描いてきたのだ。いったい描くべき何が残っているのか。そんな思いも彼女の中を駆け抜けているようだった。

 でも、本当はそうではない、ということがナユタには分かっていた。実に、本当に描かれねばならないものは、まだ何も描かれてはいない。そして、そんな思いは、彼女自身の心にも突き当たっているはずだった。ほんとうに描かれねばならない唯一のもの、それはこの世界の外、自分たちが生きているこの外にあるはずだった。世界の内側にあるものは、たとえそれがどんなに美しく感じ取れるとしても真に描かねばならないものではない。外に在るものこそが照明されねばならないはずだった。

 けれど、それはどうやって描けばよかったのか?そして、自分の中から生まれ出ようとしているものを描くことと、それとはなんと矛盾していることだろう。

 それはナユタの心の内に疼いている思いと共鳴するものでもあった。この地上にはすてきなもの、心をときめかせるものがあった。けれどそれら一切がじつは他愛ない戯れの産物であり、瓦礫と化すべき存在にすぎなかった。黙々と何かを目指して努力してきたはずだった。けれど残っているのは消え去ってゆくだけの音と空しい思想と弱々しい自我だけだった。

 

 高原に春が近づく頃、ナユタはひとりでジャンクールという山に登ろうと思い立った。

 ジャンクールは三千メートル級の世界有数の山であり、夏にはたくさんの登山家が押し寄せるが、冬の間はわずかな者たちが登るだけのようだった。ナユタは、ジャンクールの西側にあるロープウェイに乗ってそこからジャンクール峰に登り、さらに、ジャンクールを越えて、東側にあるトルバテン渓谷に降り、可能であれば、渓谷を挟んで反対側のグァミード山に登るという計画を立てた。

 ナユタは装備を整えると、数日家を空けるとリリアンとアミティスに伝え、車で出かけた。数時間のドライブの末、昼前にロープウェイの山麓駅に着くと、ナユタは車のアミティスに、トルバテン渓谷の出口で待っているように伝えて、車を降りた。

 あいにくの雨で、車のアミティスは、ちょっと心配そうな声で、

「気を付けて行ってきてください。」

と言って、送り出してくれた。

 山麓駅では客はまばらで、ロープウェイに乗ってきたのは、山スキーを担いだ数人のグループだけだった。

 ロープウェイから降りると、雨は雪に変わり、ガスで視界はきかなかった。ナユタはまずロープウェイ乗り場にある店で昼食を取った。この地域特産のキノコを用いたキノコそばが有名だとメニューにあったので、それを頼んだ。素朴な味だったが、アミティスの作る料理にははるかにかなわないレベルだった。

 装備を整えて外に出ると、雪の中のトレースだけははっきりしており、山頂への道はすぐに分かった。

 登り始めてしばらく経ったとき、ほんの一瞬の間だけ、視界が開けて山脈の西側の斜面が見えた。強い風がごうごうと唸りをあげて山を駆け下りる。壮絶な山と雪との戦いを思わせる光景だった。

 誰もいない道を歩き、黙々と小さなピークを上り下りした後、急な斜面を登って右にトラバースするとジャンクール山荘に行き着いた。登山者は他になく、風は相変わらず強く、視界はなかった。山荘は屋根まで雪に覆われていて、わずかに、赤い屋根が雪の上に顔をのぞかせているだけだった。ナユタは山荘のそばの林の中にひとりでテントを張った。

 次の日は朝から悪天候だった。日の光は感じられるのだが、ガスでまったく視界がなかった。一日中テントの中で停滞せざるを得なかった。静かに絶え間なく雪が降り続いた。しかし、夕暮れ近くなると、青空が見えた。夜になると雲の切れ目から星々がきらめくのが見えた。月が出て、外は意外なほどに明るい。誰もいない世界の沈黙、無言の木々、それはいくらか不気味ではさえあった。

 明日はきっと晴れる。そう思ってナユタは早めに寒いテントの中で眠りに就いた。

 次の日、朝、四時に起床すると、空には星が光っていた。五時過ぎに歩き始めると、空にはまだ雲が多かったが、視界は良かった。少し登ると雪の山々が朝の沈黙の中にくっきり見えた。日の出前の静寂の中にたたずむ山々の端正な表情がすばらしかった。山は大きな眠りの中にそびえ立ち、深い沈静の中にゴーゴーという風の音を響かせる。青い空に描き出された雪の白い稜線は重々しい沈黙に耐え、空を破り開こうとする鋭い黒い岩峰は風雪のおたけびを静めようとしていた。

 ナユタは誰も登ってこない稜線を黙々と登った。雪はよく締まっていて、アイゼンが心地よく効いた。日が昇って来ると、西の山々が赤く染まった。そして、山頂に近づくころには残っていた雲も次第に消え、空には透けるような青さが広がった。

 七時頃山頂に着くと、そこは素晴らしい世界だった。白い山の美しい沈黙が涯てしなく続いていた。静まり返った遠い雪の山並みがナユタを時間のはるけさへとひきつけた。青い空の下、滑らかな雪の稜線は風雪のあとをとどめているけれど、その中から響いてくる音楽はまるで光の国のフーガのようで、囚われることのない自由と淡々とした笑いを湛えていた。

 太古の時代このかた、山は何度そんな沈黙に沸き返ったことだろう!超越者の起立と世界の外での朗々たる沈黙、どこからか光の描く荘厳なレクィエムが響いてくるのをナユタは感じた。

 ナユタは心満たされて山を下りた。十時頃山荘のそばのテントに戻り、それからテントをたたんでトルバテン渓谷に下りた。渓谷にかかる吊り橋のほとりに着くと、ベンチでザックを降ろして昼食を取った。写真などで有名なその場所は、観光シーズンにはたいへんな賑わいをみせているようだったが、今は誰もいなかった。清らかな音で流れ続ける渓流の向こうの雪山をひとりで眺めるのもすてきだった。真っ青な快晴の空にジャンクールの白い峻峰が朗々と連なっていた。誰もいない世界の中での光の明るさと褐色の林のきらめきと美しい川の響きが心を打った。孤独であることは、少なくともこの世界の中ではすばらしいことだった。

 そうして山を眺めていると、ナユタの心には、およそ空である以上のものは何もない、という真理が自然に響いた。どんな美しいものも、いかなる醜いもの以上ではありえない。どんなすばらしいものも、いかなる瓦礫以上ではありえない。そして、いかなる真理も、実に一切の非真理以上ではありえない。すべてが限界を持ち、すべてが相対的で確固たる場所を持たず、すべてが浮遊していた。

 それは実に、パキゼーの教えそのものであったかもしれないが、そのことが染み入るようにナユタの心に響いたのは実にこのときが初めてであったかもしれなかった。

 そして、ナユタの心には次のような思いが響いた。

「ぼくはどんな生き方に対しても満足し、心を落ち着かせることはないのかもしれない。」

 そして、それは、いかなる生き方においても、絶対とか真とかいうことがなく、すべてのものには裂け目が存在し、一切は空に他ならないからだった。

 ナユタは心の中でつぶやいた。

「けれど、それにもかかわらず、ぼくは何をなすべきかと問うのか?何をなしたにせよ、ぼくは満たされることがなく、その場その場での一時的な充実、一時的な満足があるだけと分かっているのに。」

 だが、そう考えると、別のつぶやきが心に響いた。

「けれど、だからこそ、ぼくは駆られる者なのだ。ぼくのなすことはただひとつ、道を行くこと、光への道をゆくことだ。世界とぼくの深淵に沈潜することにおいて、より朗らかに、より自由になることだ。けれど、おそらくはぼくは光への単なる追従者ではないだろう。ぼくは試みられる者であるだろう。」

 その日、ナユタはさらに川沿いを上流方向に歩いて、次の日の登ろうと考えているグァミード山の登山口までやってきて、川のほとりにテントを張った。川の流れが心地よく響き続けた。

 次の日も良い天気だった。午前四時、星がキラキラと輝き、不気味と言っていいほどの沈黙とすがすがしい静寂が世界を包んでいた。

 今日はグァミード山に登るのだ。五時半に出発、外はもう明るかった。少し登ると朝日に輝くジャンクールが見えた。薄暗い空の青さの中に目の前の山の黒い岩肌と白い雪が光に輝いて神々しいばかりだった。山はなんと深い沈黙の中に己の魂を携えていたことだろう。世界を覆い尽くす静寂の中で、けれど、山の無言の厳しい表情から照射される光はまるで創世のできごとのように純粋で新しかった。不思議な原光の中でのジャンクールの輝き、それはまるで苦しみと喜びの新たな誕生を感じさせる荘厳な響きを持っていた。

 すべてが美しい調和の旋律をもっていた。それはずっと昔、はるか昔に世界の美しさに心を打たれた時そのままの原初の美しさ、清々としたはるけさ、超越者の響きだった。なんと長い間、その輝きを忘れ、時間と存在との間に横たわるその響きを呼吸することを怠ってきたのだろう、という気がした。そしてまたかつてはなんとそんな響きに囲まれて生きていたのだろうということ、そしてその時代はそんなはるか昔ではなく、ついこの前のことのように思えた。そうなのだ。屍に等しい時間と瓦礫の堆積を生み出すに過ぎない生の浪費とがこの二つの時を隔てる空白の時間として横たわっているにすぎないのだ。

 かなり長い急な斜面を登って樹林帯を抜け出ると、世界は明るい雪の輝きと高らかな静寂の音楽に満ちていた。振り返るとジャンクール峰の真っ白な稜線がすばらしい迫力でそびえていた。

 ナユタは頂上で腰を降ろし、迫りくる山の稜線を見つめた。世界は太古の沈黙に沸き返り、明るさと自由さと高貴さと威厳とを兼ね備えていた。青い空の下に真っ白に延びる稜線。その稜線の中から頭を突き出したジャンクールの美しさ。自由の中の荘重さだった。

 遠く白い稜線を連ねる山脈の沈黙が涯てしなく続き、世界は囚われることのない自由と淡々とした笑いとをたたえていた。そんな思いがナユタの心に響いた。

 白い雲海の向こうに遠い山脈が連なっており、不思議にはるけさとはてしなさとを感じさせられる気分だった。遠いところへ、はてなきものへ、ナユタの思いは常に流れ続けた。

 十時過ぎまで頂上にいて、それから一時間ほどで下に降りた。明るい静けさに満ちた世界でナユタはひとりテントをたたみ、トルバテン渓谷沿いに歩いた。ほとんど雪に埋もれた川のほとりを朗らかな、高らかな気分で歩いた。心が笑い、心が世界を楽しんだ。再び自由になった。そして、ナユタは流木の上に腰を下ろし、空の青さと山と林を眺めた。

 ナユタの中では再びある考えが蒸留されてきた。自分は光に呼び起こされた道を歩いてきたかもしれないが、本来的なものは世界の内にあるのではないという想いだった。本来的なものはその外にあるのだ。世界の内にあるものに付与されているように感じ取れる一切の意味に疑問が付される。パキゼーの達した境地そのものの意味が無意味であることを知ること、それこそが真の朗らかさへの道であった。一切は空であった。

 ナユタは再び立ち上がって道を歩いた。誰にも会わなかった。誰もいない枯野は、けれど、枯れ木たちの歌に満ちていて、明るい光の中で褐色の林がまるで魔法の記号のように立ち並び、赤や黄の色彩的な音楽を奏でていた。

 背後には雪を抱いた厳粛な岩峰がそびえ、青い空の中に煌々と光を放っていた。枯れ木たちの音楽はいつも子供たちの戯れのように自由で、光の中で世界は向こうの国のように不思議な法則に支配されていた。その法則の中ではすべてが象形文字の自由な輪舞で、その中を歩く自分はまるで魔術師によって描かれた壁画の中の一つの記号であるかのようだった。

 トルバテン渓谷の駐車場に着いたのはもう夕方だった。夏になれば車で溢れるのだろうが、今の時期は雪のために車は来れないので一台の車もなかった。天気は下り坂で、雨も降りそうなので、ナユタは屋根のある場所にテントを張った。川に降りてコッヘルを洗ったが、手が凍りつくほど冷たかった。

 次の日、満たされた気持ちで眠りから覚めると、外はまだ暗かった。空がほんのり明るかったが、ジャンクール峰の稜線には雲がかかっていた。

 朝食もとらずに、6時前にテントをたたんで、ナユタは歩き始めた。静かなトルバテン渓谷を歩くのは心地よかった。不思議な静寂の中で水の音だけが絶え間ない響きを奏でていた。いくつかの池のそばをナユタは歩き、ときどきジャンクール峰を振り返ると、その威容さと静けさがすばらしかった。

 そこからナユタはアミティスの車を待たせてある場所まで道を下ったが、何か所か雪崩で道が埋まっており、その上をアイゼンとピッケルで慎重に越えねばならなかった。アミティスが待っている車の場所に着いたのは十時ころだった。

 家に帰ってからしばらくナユタの心を支配していたのは、一切はむなしいという感情だった。なぜ、突然そういう思いが心の中に自然に、清澄の流れのように染み透っていったのかは分からなかったが、おそらく、ひとりで行ったジャンクール峰への登山に関係があるのだろう。ともかくそういう思考が心の中の他の濁った思考を滔々と押し流していった。

 そう、一切はむなしかった。例えば、素晴らしく生きることがむなしかった。それにはなんの本来的意味も認められなかった。世界の中で、努力や闘争によって得られれものすべてが無意味だった。そしてまたどんな優れた作品も無価値だった。一切は瓦礫以上ではなかった。努力と成功と幸せと喜びが意味を持たなかった。この世界では、時間の止まった海で天使たちが静かに羽を休め、存在の断崖では朽ち果てた図形がさらさらと風の中に吹き払われているのだ。

 残っているもの、それはただ一切は空という透明な思想、すべての混乱を鎮め、朗らかさをもたらす一つの真理だけだった。それは既にパキゼーが明確に照らし出した真理ではあったが、その真理が改めて、不思議なまでに深く、澄み通って心に響いた。

 

 高原に遅い春がやって来くると、ナユタはリリアン、ナスリーンとともに、エシューナ仙人を訪ねた。エシューナ仙人は車で二時間のところに住んでいたが、エシューナ仙人が新しい家に移ってからナユタが訪ねるのは初めてのことだった。

「ナユタ、しばらくぶりじゃな。元気そうでなによりだ。」

とエシューナ仙人が笑顔で出迎えてくれると、ナユタはリリアンとナスリーンを紹介した。

「ふたりのことはナユタから聞いておるよ。」

 そうエシューナ仙人が語りかけると、リリアンとナスリーンはそれぞれ丁寧にあいさつし、さらにナスリーンは言った。

「エシューナ様にお会いでき、こんなうれしいことはありません。もっと早くにお目にかかりたかったのですが、私の音は戸外で響かせたいと思い、春まで待っていました。」

「そうか。それは楽しみじゃな。では、さっそくその音を聴かせてもらうとするか。」

 エシューナ仙人が上機嫌で答えると、ナユタとナスリーンは車に積んできた楽器を庭に並べた。

 ナスリーンが乾いた木の音を森の中に響かせると、エシューナ仙人はじっと目を閉じてその音に聞き入り、感嘆して言った。

「これも始源の音の一つだな。わしはナユタが取り組んでおる電子音楽やコンピュータ音楽、あるいは偶然性を活かした音楽を否定するつもりはないが、もっとも素朴なものの中に始源の音があるというのも真理であるはずじゃ。」

 そして、仙人は家に戻ると、サントゥールを取り出してきた。

「ナユタ、久しぶりにサントゥールを奏でてみたくなったよ。一緒に演奏しようではないか。音楽は即興的に響かねばならないからな。」

 そう言ってエシューナ仙人がサントゥールを響かせると、その音は、ナスリーンとナユタが響かせる乾いた木の音と実によく調和した。聴衆はリリアンと大地だけだった。

「音が大地に、そしてこの大空に還ってゆくようじゃな。」

 そう語ったエシューナ仙人はこの共演がことのほか気に入ったようだった。

「女神の音というものは良いものだな。わしが体験したこれまでのどんな音とも違う響きをナスリーンの音は持っておる。以前、バルマン師と三神で音を奏でたことがあったな。それは途方もなく素晴らしい音だったと信じているが、ナスリーンと奏でる音には、もっと柔らかな息吹き、不思議な生命力が宿っているように感じられる。おそらく、世界が男神だけで成り立っていないのに、男神だけで演奏する音楽というのは、何か偏ったものになっているのかもしれんな。」

 噛みしめるようにそう言ったエシューナ仙人はさらに続けて語った。

「こんな音が響くのを耳にするたびに、真なるものへの道を歩いている気になる。当たり前のことだが、どれほど快適で、どれほど満足のゆく暮らしをしたところで、それで真理に近づいたとは言えまい。真理はまったく別の次元にあるからな。」

 ナユタがうなずいて答えた。

「まったくその通りと思います。ビハールで暮らして一番痛感したことの一つはそういったことでした。ただ、正直なことを言うと、では、何によって真理を生きていると言えるのか?あるいは、自分は真理を生きているのか?そういったことが見えないのです。」

 エシューナ仙人は軽やかに笑った。

「それは誰にもなかなか見えるものじゃない。だがな、一つ一つのもの、一つ一つの行為に潜むそのものの本質的なものを突き詰めてゆけば、いくばくか何かが見えてくるのではないかな?快適な暮らしや満足のゆく生活がいかなる真の価値を有するのか、それによっていかなる何ものかが得られるか、それを突き詰めると、そこにはほとんど空虚しか残っておらぬことが見えてくるのではないかな。」

「宇宙に漂う真音を釣り上げ、その真音を奏でねばなりませんね。」

 ナユタのこの言葉にエシューナ仙人は大きくうなずいた。

「その通りだ。そしてその真音は、この宇宙において存在するということの本質的な意味を突き詰めるまなざしによってのみ釣り上げられるのだ。もっとも、パキゼーは、その真音すら空でしかないと喝破するかもしれぬが、彼の道は真音を奏でることから始まったのだからな。」

 ナユタはエシューナ仙人の言葉に満たされたが、リリアンは恐る恐る尋ねた。

「こんなときに、こんなことを聞いて良いのかどうか、こんなことを聞くことに意味があるかどうか分かりませんが、世の神々はまさに今おっしゃったような視点をまったく持たず、あるいは忘却して目の前の生活を生き、楽しんでいます。それについて、エシューナ様はどのように考えておられるのでしょうか?」

 エシューナ仙人は表情を崩して大きく笑った。

「それなら既にパキゼーが答えを出しておる。世間には世間の道がある。私は世間とは争わない。それだけじゃ。ただ、わしにとっては、おまえたちのような仲間があり、そして、バラドゥーラやウパシーヴァ、アシュタカのような立派な者たちと共に歩めることが大きな喜びじゃよ。」

 リリアンはうなずいて言った。

「つまらない質問をしてすみません。でも、ビハールで、私は誰も仲間がいませんでした。ナユタさんに出会い、さらにこうして森でいろいろな方と交流することができ、この上ないことと思っています。」

「そう言ってもらえるとありがたい。それにしても森の中での仲間たちとの交流はいつも心温まるな。」

 エシューナ仙人はそう言っていつになく楽しそうだった。

 

 それから一週間ほど経って、桜が咲き、さらにその後、庭のハナミズキが可憐な白い花を咲かせ、サクランボも白い花を咲かせた。リリアンは美しい花に心躍らせ、さらに、ネットで、近くにミズバショウの群生地があることを調べてきた。ナユタは早速、アミティスも連れて、車で出かけた。

 群生地に向かう途中の道沿いには、スイセンの黄色や白の花が点々と続いた。群生地に着くと、広々とした静かな湿地帯に、ミズバショウの白い花が一面に広がっていた。

「なんて、きれい。」

 車を降りるなり、リリアンはそう声を上げて小走りに群生地に駆け寄り、

「こんな美しい光景は見たことない。」

と目を輝かせた。

 真っ白なミズバショウはみずみずしく可憐で、その向こうには雪をいだいた山が連なっていた。水の中の土は褐色に色づいており、その上を透明な水がさらさら流れていた。水の中を覗き込むと小さな生き物たちが泳いでいた。メダカもいたし、ミズスマシもいた。

 群生地の中に設けられた遊歩道をたどり、広々とした群生地を見渡せる場所までくると、アミティスがお弁当を広げてくれた。ゆっくりとお茶を飲み、可憐な花を眺める幸せな時間だった。

 ほととぎすの鳴き声がしんとした空間に響き、時をおいて、別の鳥の声も聞こえた。そばには、スズランの白い花たちが咲いていたし、回りには、桜、梅、桃、あんずなどが花を咲かせていた。新緑の薄い緑の葉っぱの中に浮かぶ淡い色の花たちが可憐だった。

 かつてはこんなひと時はなかったな。そんな思いがナユタの心をかすかに癒した。いや、本当に心が癒されたかどうかは分からなかったが、それでも彼は自分の心が微笑んでいるように思えた。いつも切り立った崖の上を歩いてきたような自分のこれまでの道では、ほんとうに、こんな時間を過ごしたことはなかったことなのだ。

 リリアンは、「せっかくなので。」と言って、もってきたスケッチ帳に写生を始め、水彩絵の具で淡い色を付けた。普段は描いたこともない絵画だったが、ミズバショウの咲くせせらぎに桜の花が舞い散る野辺の道が描かれ、ほんのりした暖かさを運んでくる絵だった。

 その日、ナユタはこの絵をダイニングの壁に飾った。

 

 五月になると、ビハールでシュヴァイガーの演奏会があった。ナユタとリリアンはビハールに出かけたが、一年ぶりのビハールだった。

 会場は小さなホールで、聴衆は百数十人といったところだったが、演奏されたのは、『ピアノ・フェイズ』、マティアスの『プリペアードピアノのための二十四の前奏曲とフーガ』、セバスチャンの『トッカータ』、そして高原でその一部を聞かせてくれたシュヴァイガーの新作『呪術師たちの声』だった。

 『ピアノ・フェイズ』はゆったりしたテンポの演奏だったが、曲が始まった瞬間からナユタは異次元の世界に心がいざなわれた。

 真っ黒な空間に赤や黄色の色彩の飛沫が飛び交うイメージ、緩やかな、あるいは急峻な曲線が縺れ合い、光の帯が絡み合うイメージ。そんなイメージが交錯し、純粋で透明な音の列、きらめくような水の音、石の音、木琴の音が並んだ。

 ナユタは宇宙の風を感じた。モノが緩やかに動き、トキが幾つかの断点で凝固し、発光の向こうから世界の奥義を語る声、ダルマの由来を語る声が流れてくるかのようだった。無数の相が心の中で弾け飛び、宇宙の風が喪の空間を吹き抜けた。

 『プリペアードピアノのための二十四の前奏曲とフーガ』は、マティアスを得意としているシュヴァイガーだけあって卓越したものであったが、その後のセバスチャンの演奏も個性的で鮮烈だった。多くの演奏家が、セバスチャンの時代の楽器と音色にこだわる中、シュヴァイガーはピアノの美しい音色によってきらめくように純粋で美しいセバスチャンを奏でた。その透明な響きはみずみずしい生命力を持ち、セバスチャンの孤高の精神そのものを照らし出しているかのようであった。

 そして、最後のシュヴァイガーの自作は衝撃的だった。シュヴァイガーがピアノ演奏したものをコンピュータ回路にかけて増幅させるシステムを用いた即興演奏で、あのトゥルナンの音階が静止した時空間で、はてることなく交錯した。まさに、呪術師たちの声が聞こえてくるような音楽、呪術師たちの声が呼びかけてくるかのような音楽だった。

 演奏会が終わって会場を出ると、空には丸い月が浮かんでいた。周りには超高層ビルディングが輝き、都会の喧騒が溢れていた。ナユタとリリアンはホテルに帰り、最上階にある夜景の見える静かなレストランで夕食をとった。そこは本当にはなじむことのできない世界ではあったが、シュヴァイガーの演奏に満たされ、美しい夜景を眺めながら久しぶりにふたりで都会のレストランに座るのも悪くなかった。

 次の日、ナユタはリリアンが行きたいと言った展覧会に一緒に行った。前衛美術家たちの間で最近評価が高まっているジョナサンの展覧会だった。

 そこには天才的な作品が並んでいた。大きな巨人の像がゆっくりと動いていたが、それは神々の存在の哀れさを表しているかのようでもあった。そしてまた、柔和な表情の仏像のそばで槌をふるう四神の黒い無表情な巨神もいた。それはまさに鑑賞者を包み込むジョナサン独特の空間だった。訪れた客はまばらで、ナユタとリリアンはゆっくりとこれらの作品を楽しむことができた。

 館内には音楽が流れていた。別の世界から流れてくるかのような音楽、そして、しゃべる人形の哀れさとおかしみ。それは高みに達したはずの現代文明の底でうごめく神々のなまの姿、真の姿を伝えているように思えた。

 ナユタとリリアンが会場内の喫茶コーナーでお茶を飲んでいると、ガラスの向こうで小さな女の子がこっちを見ていた。そして、その子は急に笑って、それからよたよたした足取りで母親の方へ駆けて行った。

 ジョナサンの夢。意味ありげな、存在というものの正体を暴きだすような夢。そして、夢を言葉にする行為。そこには、現代の抽象的な美学に代わって、個人の意味を問うまなざし、思索と内省から出てくる多彩な物語があった。夢を伝える彼の言葉が胸を打った。

 ナユタは、会場で配られたパンフレットに載っていたジョナサンの言葉を見つけた。

「ジャクソンのオールオーヴァーは私にとって決定的な影響を与えた。それは全一的な空間を志向していたからだ。」

 ナユタはなぜ自分がジョナサンの作品に心惹かれるのかが分かるような気がした。両者に共通するのは、さまざまな夢やイメージが交錯し、一つの全一的な宇宙が作りだされ、その底には、存在の深奥に対する怯えたようなまなざしが根ざしているということだった。そして、それはリリアンの絵にも通じるものだった。

 小さな女の子はまだガラスの向こうで無邪気に遊んでいた。そして、その子さえもジョナサンの創造した世界の一部のように感じられた。

 ふたりは午後の電車に乗って帰ったが、高原のふもとの駅に着くと、リンゴのような赤いほっぺをした女子生徒たちが楽しそうにたむろしていた。

 何かほっとした気分だった。ビハールでの二日間の緊張から解放され、ふたりは迎えに来ていたアミティスの車に乗り込んだ。だが、ともかく、今回のビハールでの演奏会と展覧会は、リリアンにとっても、心に刻み込まれる何かがあったようだった。雪が残る道を通り、静かな湖のそばを通り過ぎると、彼女は噛みしめるようにナユタに語った。

「やっぱり、ここがいいわ。たしかに絵を描くことは自分を豊かにしてくれるけど、絵だけが大切なんじゃないってことが改めてよく分かったわ。この自然を呼吸し、宇宙の星々と交信し、大地に心を通わせ、風の音に耳を澄ます生活。この静かな時間の中で自らを見つめ直し、私がここにいる不思議に思いを馳せ、自らの存在意義を問いただすこと、それが自分を豊かにしれくれているんだと改めて分かったわ。」

 この言葉に直接答えるわけではなかったが、ナユタは答えて言った。

「でも、ぼくたちがどこに行き着くのか、それはぼくには分からない。道ははるかに続いている。そして、自分が道の途上にいるただの旅人にすぎないと思うことがよくあるよ。真理への道はまだまだ先にある。ただ、かつてパキゼーが語ってくれたことが思い出される。彼は、アーラーラ・カーラーマという賢者とウッダカ・ラーマプッタという賢者に教えを請うたそうだが、二人の高名な賢者は、それぞれ、『この道の先に何があるかは分からぬが、道はこれしかない。』と言ったそうだ。そして、パキゼーはこの言葉に信を置かず、その道を離脱し、悟りへと至った。ぼくたちは、ひょととしたら、アーラーラやウッダカと同じなのかもしれない。道はこれしかない、その先に何があるか分からぬがともかく道を歩くほかはないとね。そういう意味ではパキゼーこそ真の賢者だったと思うよ。」

 そして、ナユタはパキゼーに関するいくつかの思い出話をリリアンに聞かせた。

 神々の学校では、一応パキゼーの教えを取り上げるので、リリアンもある程度の知識は持っていたが、普通の神々同様、経典を読んだことはなかったし、ほんとうにその教えを知っているわけではなかった。だが、ナユタの話を聞いて、それからしばらく、リリアンはパキゼーの言葉が書かれた経典を熱心に読んでいた。

 

 六月になると、何日かどんよりとした雨の日々が続いたが、ある朝、窓のカーテンを開けると、澄んだ空気の中にみずみずしい新緑に覆われた山々が広がっていた。ついこの前まではそんなみずみずしさはなかったのに、ほんの数日で若葉がいっせいに広がったのだった。

 新緑の美しさにナユタは心打たれ、ふと、二か月前に雪の中を歩いたドルバテン渓谷はどうなっているのだろうと思い浮かんだ。すると、すぐにでも行ってみたい衝動に駆られ、リリアンが朝食のためにやってくると、ナユタはリリアンを誘った。

「そう言えば、ナスリーンさんもドルバテン渓谷のことは興味を持っていたわよ。」

とリリアンが教えてくれたので、ナスリーンも誘ってトルバテン渓谷に行くことにした。

 空が真っ青に晴れ渡ったある朝早く、三神は車でトルバテン渓谷に向かった。一度、高原を降り、そこからハイウェイを一時間弱走り、さらにトルバテン渓谷に向かってアミティスの車は走った。

 トルバテン渓谷の入り口で車を降りると、目の前にはジャンクール峰の威容がそびえていた。雪をいだいたジャンクールが真っ青な空に映える雄大さにリリアンもナスリーンは心打たれたようだった。

 三神はそこから上流に向かって歩いた。朝の空気が気持ちよかった。ナスリーンは、

「トルバテン渓谷って良いところね。空気がとっても澄んでいて、水の音がなんともいえず心に響くし。そのうち、この音を使ってみたいわ。」

と言い、水辺に駆け寄って冷たい川の流れに手を差し入れ、水の上を泳ぐカモの親子にやさしい視線を送った。

 カラマツからは新緑が芽吹き、澄んだ空気が三神の心を吹き抜けていった。

 ナスリーンとナユタは、川原で乾いた流木や枯れ木の枝を集め、それを打ち鳴らした。

「水の音と調和する響きね。」

とナスリーンは言い、それから三神は水の流れと山を眺めながら、もってきたおにぎりを食べた。アミティスがもたせてくれたものだった。

 それは、ナユタにとっても夢を詰め込んだような時間であったろう。

「こんなそんなすてきな日も悪くないな。」

 そう彼はひとり呟いた。落葉松とネコヤナギの新緑がみずみずしく真っ青な空に舞っていた。世界は光に満ち、美しさに満ちていた。

 三神はさらに上流のほうに歩いてゆき、しゃれた喫茶店でお茶を飲んだ。テラスから見えるジャンクール峰が青い空の中に煌々と輝き続け、まるで時間が止まったような感じだった。

 

 六月の下旬になると、ナユタが前年に植えたサクランボの実が真っ赤に実った。ある日、ナユタはカウティリヤの店が休みの日を選んで、カウティリヤの家族やサナム、ナスリーンを招いてサクランボ狩りをすることにした。たわわに実ったサクランボの赤い実をもいで口に入れると、甘酸っぱいなんとも言えないおいしさが口の中に広がった。

「世の中にこんなおいしいものがあるなんて。」

とリリアンは声を弾ませ、カウティリヤのふたりの子供は大喜びでサクランボを頬張って庭の中を駆け回った。

 テーブルにはカウティリヤがもってきた野菜カレーやケーキが並べられ、アミティスはコーヒーやさまざまなハーブティーを用意していた。野菜カレーはスパイスがよく効いており、ケーキは甘さを抑えたサバランだった。

 サナムはみんなのスナップ写真を撮ってくれた。カウティリヤの妻のクリスティーとナユタが椅子に座ってみんなを眺めている写真、子供たちが大はしゃぎでリリアンに抱きついている写真、ナスリーンとカウティリヤが談笑する写真などだった。アミティスがにこやかな笑顔でお茶を配っている写真もあった。

「こんな幸せな時間、楽しい時間はビハールにはなかった。」

 ぽつんとそう言ったリリアンにカウティリヤはにこやかに答えた。

「ここは世間とは隔離された世界ですから。」

 まさに、世間とは違う世界、そして、賢者や仙人や聖仙たちとも違う世界、そして、かつてのナユタの歩いてきた道とも違う世界だった。

 

 それからしばらくして、ハーディの詩の上演会が近づいてきた。リリアンは上演会のために『結晶化する光』を描きあげた。画面下方の暗い混沌とした世界と、画面上方の抜けるような青の世界が接しており、その境界では、まるで世界と世界でないものとが接するかのように、さまざまな形が砕けていた。そして、青の世界の中では朗々とした光り輝く形象が乱舞し、静かに、静かに、境界めがけて舞い降りてきているような絵だった。

 彼女はこの絵を描くのに苦労もし、時間も要したが、何度も何度も描き直し、絵の具を塗り直ししてゆくうちに、下方の世界も上方の世界もキャンバスの上に凹凸をもって描かれ、それが世界の深みを暗示するかのような不思議な奥行きを与えていた。上方の青の世界だとて、決して平らな青の世界ではなく、混沌を内包した美しさなのだ。

 そして境界の上にそっと描かれた二本の赤い線。これはナユタとリリアンを表象しているかのようだった。

 七月になって、いよいよハーディの詩の上演会が近づくと、ナユタとリリアンはビハールへ行き、準備の作業を行った。

 上演会の前日、準備を終えてハーディと杯を傾けると、ハーディはまくしたてた。

「絶対者とか真理とかは、自由に対する束縛ではないかね。我々の真の自由は、我々が絶対者のいない地平に踏み出したとき初めて可能になるんだ。絶対者が存在する限り、我々は絶対者に従うか、絶対者に反抗するかという選択を迫られる。それほど絶対者という存在は偉大なのだ。絶対者の存在がひとたび意識されたならば、絶対者に関与する地平で一切のことが運ばれる。哲学ですら、その地平に自らの限界を設定してしまう。絶対者への帰依、絶対者への賛美、絶対者との闘争、絶対者の否定、それらすべてが絶対者という概念に起因する限界だ。一方で、絶対者の非在を考えてみると良い。そのとき初めて無限の地平が開けるんだ。そこではもはや絶対者を信ずる必要も、絶対者と戦う必要もない。その地平は絶対者の非在ゆえに浮遊する地平であり、何一つ絶対的なもののない相対的な地平となるだろう。そして自由の中で、安定した地盤のない空間の中で自己を展開する能力を有する者だけがその地平を無限に歩みゆく可能性を獲得することができる。タブーは死に、一切が疑問に付され、いかなるものも問われえないということはない。」

 そして彼は言い切った。

「だが、絶対者が世界を創ったんじゃない。絶対者は我々の被造物に過ぎない。」

 次の日のハーディの詩の上演会は衝撃的だった。舞台の上には、カウティリヤが作った巨大な二体の土偶が置かれ、後ろには、リリアンの描いた絵が飾られていた。象形文字のような記号によって描かれた暗い色調の絵が何枚も並べられていた。

 そして、暗闇に包まれた舞台にハーディが鈍いスポットライトを浴びながら登場した。東方の祭司のような服装だった。毅然とした態度で歩いてくると、ハーディはバックの壁画に軽く敬意を表し、それから立ったまま詩を朗読した。創造とカオスとについて述べた真摯な、けれどどこかに嘲りを含んだ詩だったが、悲劇性と謙虚さを伴った清澄な美しさに満ちていた。舞台は終始うす暗い光に包まれ、バックには瞑想的で神秘的な音楽が流れた。ナユタがハーディのために作曲した音楽だった。

 ハーディが退場すると舞台は一瞬暗くなり、それから透明な真っ青な光に包まれた。そこへハーディはピエロの服装で登場した。音楽は先ほどのナユタの音楽が変調されたもので、一度コンピュータに送られて出てきているものだった。

 ピエロはしきりにバックの壁画を仰ぎ、それから腕を振り、声を振り絞って詩を読んだが、その行為そのものがひどく滑稽に見えた。いったん舞台に送り出された音とそれからピエロの声とが再びマイクを通してコンピュータに送られ、最初の音楽と掛け合わされて再び舞台で響いた。

 次第に音は単調化してゆき、ピエロの詩の文句は聞き取りにくくなり、ついには断片的な単語と絶叫するピエロと青い光と波のような音だけが残った。カオス、、、、生殖のための、、、、壊れた壺、、、、海の中の女、、、、ぼく、、、、ぼく、、、、、

 そして、同時に舞台の中央奥から一枚の絵がぼうっと浮かび上がってきた。それはリリアンの描いた『結晶化する光』だった。その絵がスポットライトで照らし出されると、まるで混沌とした暗闇の世界からぼうっと光が浮かび上がってくるかのようであった。

 しかし、ピエロの行為はもどかしいと同時に滑稽でたあいない印象を与えた。絶叫するピエロがついに倒れた時、おそらく神々の心には喜劇の終わった安堵感がよぎったに違いない。

 暗闇の中に月明かりが光り、それから古典的な響きが流れた。やはりナユタの音楽であったが、バロック音楽を思わせるような厳粛さが感じ取れた。

 ひとりの老人が杖をついて登場し、つぶやいた。

「創造は別の者に任せておけばいいんじゃ。なんでわしらが創造の真似事をせねばならんというんじゃ。」

 老人は、ピエロへの哀歌を朗誦し、そしてバックの壁画を読んだ。リリアンの描いた理解不能の象形文字を理解不能の言語で滔々と朗読し、そして退場した。

 未知なるものへの一撃。けれど、ハーディが演じたものはいったいなんだったのだろう。ハーディの読んだ詩よりも、あの理解不能の単に断片的な単語しか聞き取れなかったピエロの言葉の方が、そして、ピエロへの哀歌よりもリリアンの壁画を読んで老人が発したあのわけのわからない言葉の方が心を打ったのはなぜだったのだろう。

 ハーディはある意味では、すべての芸術、すべての詩の意義を否定しているのだ。創造すること、表現することの愚かさを謳ったのだ。

「おれは楽天的な失笑主義者だった。」

 ハーディは以前ナユタにそう語ったことがあったが、今や、彼は、カオスの到来を予感し、偉大な、けれど滑稽な反抗を企てているのだ。でも、同時に、カオスの向こうにあるものに投げかけるまなざしをナユタは感じることもできた。まさに、ハーディはカオスへの殉教者であったかもしれなかった。

 世界というものに存在する壁がある。そしてその壁の内側で生み出される一切の行為が、その壁の外から見れば単に他愛ない戯れにすぎないという真理、それが彼のテーマであったのだろう。ナユタはそう感じた。その通り、まったくその通りなのだ。そして、分かりすぎるほど分かりきっているのだ。

「けれど、それでは道はどこにあるというのか?いや、道なんて他愛もない妄想にすぎないということか。でも、だとしたら、ぼくは何をしたらいいのか?」

 そういうつぶやきがナユタの胸の内に疼いた。

 幕が下りて、ナユタはリリアンとともに、外に出た。日の光がまぶしかった。梅雨の合間の爽快な晴れ間が高層ビル群の上に広がり、世界は爽やかで明るかった。

 ハーディに会いにゆく必要はなかった。彼はおそらく仲間たちと談笑し、これから街へ繰り出して楽しく過ごすだろう。賢者の仮面を気楽に脱ぎ捨て、暗い根をもたぬ一介の市民として今日の祝杯を上げるだろう。あるいは今夜寝る女神とよろしくやっているかもしれない。それがハーディなのだ。

 実際、彼はまさに自由性愛の中で生きていた。

「毎日、別の女神と寝る。いったいどんな不都合があるというのかい。」

 それが彼の口癖だった。ロボットとも寝たし、娼婦とも寝たし、気に入った女神の家に入り浸ったこともあった。ただ、たいていの場合はどの相手とも一度きりらしく、それが彼の世界観に符合していたのだろう。

 彼はしばしば語ったものだった。

「我々は無意味の中に生きている。無意味な時間と無意味な空間の中に浮かんでいる無意味な存在者、それがぼくたちだ。そうは思わないかい。」

 そして気に入った相手と寝、大酒を飲み、心の中のうっぷんを詩にぶつけ、世界をあざ笑って生きているのだ。

 リリアンは一度、こんなことを言ったことがあった。

「あなたの詩には共感するものがあるわ。でも一つだけ言っておくけど、自由性愛は好きじゃないの。だから私は誘わないでね。」

 そのとき、この詩人は肩をすくめて答えたものだった。

「もちろんですとも、お嬢様。あなたにナイトがついているのを知らない者はいないですから。」

 さて、ハーディの詩の上演会のあと一週間、ナユタはひとりでビハールに残った。マーシュ大学やバルマン芸術院の神々を訪ねたりするためだった。一方、リリアンは、特に彼らに会いたいとは思わないと言い、ナユタとともにドレッシェルを訪ねると、そのままひとりでシュンラット高原に帰っていった。

 ナユタは、バルマン芸術院でかつてのウバリート旅行団の仲間を訪ねたり、シュルツェやジャクソンの絵画を研究している学者たちからいろいろ教えを乞うた。また、マティアスに関する著作を書きつつある芸術院の教授からもインタビューを求められて、それにも応じた。

 そして、ビハールでの最後の夜、ハーディに誘われて夜の食事会に参加した。正直、気乗りしなかったが、ハーディに、

「こんな世界も見ておくべきだと思うがね。」

と強く誘われたためだった。

 仲間たちが集まり、酒が運ばれてきて皆で乾杯すると、場は一気に盛り上がり、さまざまなおしゃべりが始まった。そして、その多くがナユタの知らない世界の会話だった。まさに、そこは一般の神々の世界そのものであり、その会話の多くは、男と女のことだった。

 それにしても誰もがなんとそういうことに精通していることだろう。そう、ナユタは思わざるを得なかった。

「初対面の見知らぬ女神とすぐやるのもなかなかのもんだよ。まさに、自由性愛なればこそだな。」

とある男神はしたり顔で語っていた。

「それで、どんなだったの?」

と隣の女神に聞かれ、彼は自慢げに答えた。

「街を歩いていて目が合ったんだ。すらりとした黒髪の美しい女神でね。そしたら、向こうから誘ってきてね。」

「向こうから?」

「ああ、『どう?』ってね。ちょっと意地悪して、冷たく『そうだなあ。』と言って考え込んでいるふりをすると、ぼくの手を取って自分の腹に押し当ててきたよ。」

「なんだ、男漁りが好きなただの好色女じゃない。」

「まあ、そうかもな。薄い服を着て、ミニスカートからは細い生足。胸やお尻を見ているだけでぞくぞくしたよ。」

「あきれた。それでどうなったの?」

「まあ、あとは推して知るべしさ。ベットでの乱れ具合も半端じゃなかったしな。」

 すると別の女神が口を挟んだ。

「じゃあ、今度は私とね。」

 男神は軽くうなずいた。

「なんだったら今からでも良いぜ。」

 また、別の女神は最近寝た男神について自慢げに語り、

「なんといっても男女対等になった点がすてきね。かつては女神が男神に媚び、男神が女神を選んでいたけど、今はまったく対等だものね。」

と付け加えた。

 ナユタは彼らにはなじめず、途方もない溝が横たわっていることを感じないわけにはいかなかった。見回してみると、意気投合した男女が愛撫しあったり、キスしたりしているのも眼に入った。スカートの中に手を伸ばしてくる男神の手をやんわり払いのけ、

「ここじゃ、駄目。でも、ここが我慢できないんでしょう?」

と言って、男神の股間を軽くなで、手を取って一緒に出て行った女神もいた。リリアンがビハールに残るのに同意せず、ひとりで帰ったのもうなずけることだった。

 でも結局、彼らは愛すべき神々だった。単純にそして容易に生きている神々だったのだ。平凡で、そして険しい世界の断崖からは目をそらし、隅っこで少しばかりの暖かさに身を寄せ合っているような生き方に触れてみるのも決して悪いことではなかったろう。

 ただ、ナユタは決して彼らの仲間にはなりえなかった。ハーディはナユタを別の場所に連れ出して言った。

「まあ、悪く思うなよ。愉快じゃなかったかもしれないが、これが世界の現実というわけさ。現実を知っておくこともまた意味があると思うしね。」

「それに対しては同意するよ。でも、みんなの話は、ぼくには子供のおしゃべりのようにしか聞こえなかった。陽気に騒いでいるが、浜辺の波の泡みたいでしかない。彼らは楽しそうに話しているが、ぼくにはおもしろくもなんともなかった。心もうつろ、頭は空っぽ。なんの思想も哲学もない。でも、今日は、たしかに愉快じゃなかったが、いろいろ世の実情を感じ取ることもできたんでね。それでよしとするよ。ただ、もしよければ、このまま失礼したいが。」

 ハーディはあっさり同意した。

「ああ、それが良いかもな。分かってたとは思うが、みんなただおもしろおかしく生きているだけだ。そして、おれもね。そもそも悩みなんて本質的に存在しているわけじゃない。だから、笑えるネタを見つけ、興味をそそる話題を見つけ、みんなでワイワイ騒いで生きているというわけさ。もちろん、そんなものに何の価値もない。そのとおりさ。でも、詩だって何の価値もない。崇高な思想だって同じだ。だから、喜びはいつも酒がもたらしてくれるだけなのさ。でもな、」

 ハーディはナユタの目を覗き込むと、続けて言った。

「世界が没落の予感に満ちているのが分かるかい。この世界なんてつまんない世界さ。誰も本当のものを持っていない。現実の中のまやかしと根拠のない基盤の上のあやふやな幸せに酔っているだけ。おれの詩の意味をほんとうに理解している者はここにはいない。世界が没落するのは目に見えている。」

 そう言うと、ハーディは笑いながら付け加えた。

「おれは異端者。そしてあなたも。でも、この世界に対する態度は違っている。おれの態度は反抗さ。またそのうちシュンラットに行くよ。」

 ハーディはそう言って、部屋に戻って行った。

 ホテルに戻ったナユタの心は疼いていた。ハーディは、なんと自由に、なんと捉われなく生きていたことだろう。それに比べ、自分は何といろいろなものに捉われて生きていることか。

 ハーディは反抗と言った。ある意味、簡単な生き方だったかもしれなかった。世の中に納得できない、だから、反抗する。それだけだった。

 そして、そんなことを思う中で突き当たったのは、すべては思っていたほどすてきでも美しくもなかったということだった。生きることの中のものすべてがそうだった。そして、混乱に悩まされ、解き難い問いの前で、まなざしを足元に落としているのだ。自分はうつむいて首を振り、ひとり立ち去ってゆくばかりなのだ。ビハールからも逃げ出すだけなのだ。

 美しいものは、それが新しいときだけ。生の内にあるものはすべてが次第に古くなり、魔法が解けたように色褪せてゆくばかりだ。夢見たようなものはどこにもなかった。

 

 次の日、ナユタは疲れて浮かぬ顔をして家に帰りついたが、アミティスがいつもの笑顔で迎えてくれると気持ちが和らいだ。

 リリアンはナユタの顔を見ると、なんとなく様子を察したようだった。

「お疲れ様。」

と言ってナユタを迎え入れると、

「今日は久しぶりなので、アミティスが特別に力を入れてごちそうを作ってるわ。まずは露天風呂にでも入ってゆっくりしたら。」

とくつろがせてくれた。

 その日、まだ日暮れ前に、久しぶりにリリアンとふたりで夕食の席に着くと、外では、夕暮れの陽光が窓から見えるカラマツの林を美しく照らしていた。

「明日からは、また、ゆっくりとした生活を送ることにするよ。ビハールでは疲れた。」

 そう言ってナユタは久しぶりのガザンリューを飲み干し、アミティスの手料理をおいしそうに味わった。

 

 次の日、ナユタはひとりで高原に歩きに出かけた。

 空には雲が立ち込め、七月というのに風は冷たかったが、灰色の空の下の山々の沈黙が不思議に心を打った。

 本来的なものは本当にどこにあったのか。だが、世界中が非情の沈黙を守り、存在者たちが自己を顧みることもなく淡々と己の道を歩いているのが感じ取れた。悩んでいるのは自分だけかもしれなかった。この高原の中ではそう思えてくるのだ。

 そして、同時に、ナユタの心の中では激しい感情が駆け抜けていた。

 自分は結局、誰なのか?そして存在とは?世界がぐるぐる回り、何一つ明らかにならず、カオスの音楽が鳴り続けるだけの空虚な世界。

 自分はつまらない愚かな存在で、何もできはしない。そんな自己嫌悪の気持ちが心に疼いた。なんと愚かなやつなんだ、という声が、自分の心の中から自分自身に対して響き続けるのだった。なにひとつ成し遂げられてしない。いったい自分は何をしているのか?何を目指し、何のために生きているのか?そんな問いが心の中を駆け巡った。

 けれど、そもそも真理とは何なのか。真理はどこにあったのか。そして真理への道はどこにあるのか。真理は依然としてまるで極められていなかった。そして道は未だ歩かれていなかった。しかも、世界の現実は、ナユタの心に反しており、ナユタの音を荒々しく踏み荒らしているのだ。

 ナユタは、小さな詩をノートに書きつけた。

 

ほんとうは何かを創りだしたいわけではない。

めぐりあわせの悪い星座の下でただ法則に従って歩いているだけなのだ。

図形は砕けるし、キャンバスは色塗られずにはいない。

野ざらしにされたあばら家、

うずくまる天使たち、

雨に打たれた小鳥たち。

ぼくたちの中の古い時間が瓦解し続けている。

 

 家に帰ると、自分の墓標に花を供えるような気持ちで、ナユタは『ホー・バン』を弾いた。

 しばらくして、ハーディから詩集が送られてきた。先日の上演会で朗誦した詩も含んだ詩集だった。彼一流のアイロニーを含んだ、しかし、真摯な言葉の列が印象的な荘重な詩が多かった。

 ハーディは、

「真理は表現されるものではない。」

と言ったが、まさにその通りだったろう。彼は世界を嘲りの気持ちで見つめ、同時に、世の者たちが幻影を見て生きている姿を見抜いていたのだ。だから彼は真理を表現することを拒絶し、人々の前にカオスと空虚を並べて見せているのだ。

 彼は、

「詩とは、言葉で表現できないものを表すべきだ。音楽がそうであるようにね。」

と常々言っていたが、まさに彼の詩は言葉で表せないものを描き出そうとする試みに他ならなかった。

 ナユタは、

「カオスが真理ではないし、カオスや空虚の中に真理があるわけでもない。」

と言いたかったが、もし、それを彼に言っても、彼はきっと笑って、こう答えるだろう。

「でも、カオスでないもの、空虚でないものの中に真理があるわけでもないよ。真理は向こうにあるんだ。だから、真理はこちら側のものによっては表現しえないのだ。」

 たしかにそうだった。実際、表現された形というものは、それ自体、新たな謎とならざるを得ない。結局、真理というものはただ在るだけであって、その中から何かを取り出してくるなんてことはできはしないことなのだ。ひとかけらの記号すらもだ。

 真理の世界にあっては途方もない輝きを放っていた記号たちとて、その外ではつまらない粘土のかけらにすぎない。

 彼の詩はある意味ではナユタの心に対する強い反鐘でもあるかもしれなかった。

 

 それから真夏になり、空には入道雲が立ち昇った。

 ナユタの家の庭では美しい花々が咲き乱れた。昨年はまだ引っ越してきたばかりで、手入れも十分に行き届かない庭でいくらかの花が咲いただけだったが、今年はアミティスと一緒に庭の手入れにも力を入れたおかげで、さまざまな花が咲き乱れた。アミティスはさまざまな情報を仕入れて苗や種を手に入れてきたし、毎日のように忙しく庭の手入れに精を出していた。

 特に、真っ青なラベンダーが一面に咲き誇る一角はナユタが気に入った場所だった。アミティスはラベンダーのドライフラワーも作って家に飾ってくれ、室内にはラベンダーの独特の香りが漂った。

 また、庭には農園もあり、そこでアミティスは、バジル、ローズマリー、ミントなど、さまざまなハーブを育てていた。

「かつては、芋やトウモロコシ、トマト、なす、カボチャ、タマネギなどの野菜を育てたものだけどね。」

 そう言って、ナユタは首をすくめて見せたが、ナユタの希望で、アミティスは、トウモロコシとトマト、スイカも育てていた。取れたてのトウモロコシを生で食べたり、大きく育ったスイカを切って食べるのも楽しみの一つだった。 

 こんな庭仕事や農作業のため、アミティスはお風呂に入ったり、シャワーを浴びるようになった。ロボットのアミティスはそれまではお風呂に入るとか、シャワーを浴びるとかいうことはなかったが、今では庭仕事をした後は必ずシャワーで体を洗い流していた。湯船に浸かるということはほとんどなかったが、リリアンと一緒に庭いじりをした後、リリアンに誘われてふたりで露天風呂に入ることも珍しくなかった。ロボットにとって、露天風呂に入ることが喜びということはなかったであろうが、リリアンと一緒に露天風呂に入っているときには、しばしば、楽しげなふたりの笑い声が聞こえてきたものだった。

 アミティスがかいがいしく働いたおかげもあって、今年の庭は一年前とは比べものにならないくらい美しかった。

「ずいぶんすてきになったものだ。」

 そうナユタは感慨深げに言い、それを聞いたアミティスはいつものように頬を赤らめるのだった。その庭には、赤や黄色、白や紫の花々に誘われて蝶々や蜂たちも集まってきた。草の陰では、さまざまな虫たちも息づいていた。ときには、鳥もやってきた。ひらひらとやってきたモンシロチョウが花の間を飛び交う姿もすてきだった。

 また、この庭には、ところどころに、カウティリヤが作ってくれた土偶や土器が置かれていた。花のみずみずしさと無表情な土偶とが織りなす世界、それもまたすてきな世界だった。

 そんな庭に椅子を出し、ナユタはゆったりとした時間を過ごした。空を見上げると空の青さが心地よい風とともに心を吹き抜けるのだった。

 アミティスに頼んで、おいしいコーヒーやハーブティを出してもらうこともあった。また、ときに、リリアンとふたり並んで庭とその向こうの空を眺めるのも心安らぐひとときだった。

 この庭にはサナムもしばしば写真を写しに来た。彼女は、最近買ったという最新の小型三十二Kウルトラビジョンカメラを持ち、さまざまな花の写真、さらにはやってきた生き物たちを写した。土偶を囲んで咲く花の上を蝶々と蜂が飛び回る写真も撮っていた。

 三十二Kカメラは動画望遠機能を使えば、百メートル先の生き物たちを毎秒九百六十枚撮影してこれを拡大すれば、1センチメートル角のものを一万画素で表現できるという代物だった。このカメラを使ってサナムは花だけでなく、さまざまな蝶々や蜂、鳥たちの写真も撮っていた。土偶を囲んで咲く花の上を蝶々と蜂が飛び回る写真もあり、なかなかすばらしい一枚だった。

 サナムはもともとは自然の写真を撮っていたが、ナユタと知り合ってからは、ナユタやリリアン、カウティリヤ、ナスリーンなどの写真も撮っていた。彼女は自然な素顔を写すのを心がけているようで、庭でくつろぐナユタや、音楽を演奏するナユタとナスリーン、絵の制作をするリリアンなども写していた。ときには、アミティスが写っている写真もあった。

 一方、敷地の外では、今年の森はかまびすしかった。森の開発が進み、前年にナユタの家から少し離れた湖のそばに建てられたリゾートホテルのおかげで、ビハールなど都会からの神々がレジャーやリゾートに押し寄せたからだった。

 リゾートホテルの近くには水族館、美術館、人形館、オルゴール館などが立ち並び、今年オープンした遊園地では若い女神たちの歓声がこだました。

 夜には湖の上で花火が打ち上げられた。

 ある日、ナユタはリリアンと一緒にその湖に行ったが、まず、目についたのは、湖のそばの大きな遊園地だった。そこには、昔流行ったメリーゴーランドや回転木馬、観覧車、ティーカップ、射的場、迷路などがあった。今では、都会ではそんな古臭いものはまるで残っていなかったが、ある意味、この高原で昔懐かしいそんな遊具で遊ぶのも神々にとっては楽しいものだったのだろう。そんな多くの遊具には神々が集まり、ナユタとリリアンも観覧車に乗って湖とその向こうに広がる山と高原を眺めた。

 そして、湖のほとりは若者たちで騒がしく、その放縦ぶりも目に余るくらいだった。リリアンと同じくらいの年ごろの女神たちが、ひらひらした洋服をなびかせて集い、彼女たちを目当てに集まる男神たちとグループをなして浮かれ騒いでいた。

「ある意味、ここはビハールと一緒ね。」

とリリアンは言ったが、まさにその通りだったろう。

 若者たちは、青春を謳歌し、自由性愛を楽しみ、享楽的な音楽や踊りに歓喜していた。それが神々の現実であった。道を求める神など異端に過ぎなかった。真理を求める神なんてアウトサイダーなのだ。

 そんなものを目にしながら、ナユタとリリアンは予約していたホテルのレストランを訪れ、ディナーの席についた。上等の生酒が運ばれてきて、ふたりが乾杯すると、ウニとイクラを使った前菜に始まる懐石料理が次々と運ばれてきた。しばらくすると、湖の上で大きな花火が上がった。それは美しかったが、一瞬のきらめきに過ぎなかった。それははかなく、根源的なもの、本質的なものには行き着かない些末な輝きに過ぎなかった。それは心を楽しませるが、かつてのブルーポールやマーダナの輝きのように心を高め、鎮めはしなかった。それが神々の世界、そしてまさに今そこにある現実だった。

 ナユタの心には、

「世の神々は混乱し、道を見失い、ただ、その日、その日を欲望にまかせて生き、流されて生きているに過ぎない。」

という思いが浮かんだが、それに応えるように心に浮かんできたのは、

「でも、自分もまた道を見失い、混乱して生きている。」

という思いであった。

 その夜、ナユタとリリアンはそのホテルに宿泊し、次の日の朝、湖のほとりに新しくできたセイジという影絵作家の美術館を訪れた。カウティリヤがすてきな絵が並んでいると勧めてくれた美術館だった。

 よく手入れされた庭を歩いてゆくと、その画家の生み出した猫やカエルのキャラクターたちが道の両側で様々なポーズで迎えてくれた。館内に入ると、静かで幻想的な情景のすてきな影絵が並んでいた。小人たちが跳びはね、動物たちや少女が戯れ、木漏れ日がやさしく降り注ぐ世界の美しさ。心に清澄の風を吹き込んでくれるような絵だった。

 館内を見終わった頃、館長らしき女神がナユタに語りかけてきた。

「ナユタさんですよね。」

「ええ、そうですが。」

 ナユタがそう返事をすると、その女神は顔をほころばせて言った。

「わざわざ来ていただきましてありがとうございます。私どもとしてもたいへん光栄に思います。この美術館をオープンしてもうすぐ三ヶ月になりますが、実は、ナユタさんがこの近くにお住まいということで、オプトメールを差し上げようと思っていたところでした。できましたら、セイジと対談いただき、それをこの美術館の季刊誌とホームページに載せさせていただければと思っているのですが、いかがでしょうか。」

 この申し出にナユタは、

「ありがとうございます。」

と笑顔で答えたが、続けて言った。

「ここに飾られている絵にはとてもすてきで感銘を受けました。美術館としての雰囲気もたいへんすばらしい。でも、おそらく、私は根本的に生き方が違うので、本当に分かりあうこともないし、本当に、共感し合うことはないでしょう。」

 このナユタの答えに館長はちょっとけげんげな表情を見せたが、ナユタは続けて言った。

「そこのパネルにも書いてありましたが、セイジさんは、愛と夢と生きる喜びをテーマにしてすてきな作品を生み出しておられる。その世界は美しくきらめくものに満ち、それが夢を伴って影絵として焼き付けられている。それはたしかに、心をときめかす心象風景であり、それを形にしたいというセイジさんの心はよく分かります。そして、それが神々の心を打ち、癒し、神々の心と共感し、共鳴しているのもよく分かります。その姿勢はほんとうに真摯なものだと思います。でも、私は違う地平で生きている。愛と夢と生きる喜び、それは私が根底に持っているものではありません。私には森の仙人たちの生き方の方が心に馴染むのです。」

「そうですか。でも、それでも対談いただくことは可能では。必ずしも同じ考えではないふたりが対談するのも意味があるのでは?」

 館長の女神はそう言ったが、ナユタはあっさり答えた。

「いや、やめておきましょう。おそらくすれ違うだけでしょうから。むしろ、私の近所に、風の館というレストランを開き、最近は土偶の製作もやっているカウティリヤという神がいますが、彼と対談するのはどうですか。元はビハールの有名ホテルの料理長だった神です。よろしければ、紹介しますが。」

 館長はなおもナユタとの対談ができないだろうかと話を続けたが、ナユタがとうてい同意してくれそうもないと分かると、改めて来館の礼を言い、一度、カウティリヤの店に伺うことにしたいと言ってくれた。

 館長と別れると、ナユタはぽつりとリリアンに言った。

「すてきな絵だけど、ぼくには君の絵の方がはるかにすてきでね。」

「ありがとう。でも、ある意味、こんな絵を描けるのは幸せね。私にはとても描けやしない。」

「それで良いんだよ。生きていることの素晴らしさを形にし、それが多くの神々の心をとらえる。それがこの世界の構図だからね。でも、ぼくとは隔たっている。」

 そう言うと、ナユタはさらに、

「一枚、買っていこうと思うんだ。カウティリヤに贈ろうと思ってね。」

と言って、売店に飾ってある一枚の絵を指差した。

「この作品は、今日見た中で、特別に心を打ったのでね。」

 それは「走馬灯」という題名のついた作品で、夕暮れの湖のそばの大木の回りを木馬が回り、その一つに少女が乗っている絵だった。空には星が一つ輝き、向こうには、夕日に照らされて輝く山並みが日の影った山並みへと続いていた。ただただ無表情に木馬に乗り続ける少女、光と影の交錯する世界が生み出す寂寥感がすてきだった。

 その絵を買うと、ナユタとリリアンは湖をあとにし、その足で、風の館に行った。

 カウティリヤの店はにぎわっていた。オプトネット上の情報サイトで、シュンラット高原のおいしい店のひとつに取り上げられたこともあり、特に、若い女神たちのグループがたくさん押し寄せたためだった。このため、ナユタもリリアンもほとんど風の館には近づかなかったのだが、この日、ナユタとリリアンがやってくると、カウティリヤは笑顔で迎えてくれた。

「いらっしゃい。あまり静かじゃないが、せめてこっちの席でゆっくりしてください。」

 そう言って彼が案内してくれた席はベランダの奥にあり、テーブルの上には、「予約席」の表示が光っていた。

「ここは予約されているのでは?」

とリリアンが聞いたが、カウティリヤは笑って答えた。

「ええ、あなたがたのためにね。」

「でも、私たちはたまにしか来ないけど。」

「いいんですよ。特別な方のために、特別な席をいつも空けておく。それが私の主義ですので。どうぞお気になさらずに。来ていただけるだけで、心が安らぎますのでね。」

 そう言ってカウティリヤは屈託がなかった。

「ちょっと話があるので、あとで時間をいただければ。」

とナユタが言うと、カウティリヤは笑顔で答えた。

「分かりました。では、またのちほど。」

 カウティリヤが注文を聞いて向こうに行ってしばらくすると、サナムが料理を運んできた。「昨日は花火を見に行ったんですよ。」

 料理を並べながらそう言ったサナムに、リリアンが、

「私たちも昨日行ったのよ。」

と言うと、サナムは楽しそうに笑った。

「えー、そうなんですか。すてきですよね。花火が輝いて消え去る。その一瞬だけの輝きがもつ刹那性がたまりません。でも、湖の回りにはいろんなものがあって、まだまだ行ってないとことかあるんで、今度の休みにお友達と行くことにしてるんです。」

「それは楽しみだね。じゃあ、これをもってゆくと良い。」

 そう言ってナユタが渡したのは、昨日ホテルでもらったシャンパンの無料サービス券だった。

 ナユタとリリアンが食事を終え、サナムがお皿を片付けると、カウティリヤがコーヒーを三つ入れてやって来た。

「もういいんですか?」

とナユタが聞くと、カウティリヤは腰を下ろしながら言った。

「ええ、食事のオーダーはもう終わりで、夕方まではカフェのみですから。それにしても高原は騒がしいですね。」

「でも、お店は賑わっていいじゃないですか。」

 ナユタがそう言ったが、カウティリヤは笑った。

「まあ、そうかもしれませんが。でも、儲けることが目的ではありませんのでね。もっと静かに、自然を愛する神々が、ゆったりとお茶と時間を楽しむ店が私の理想なんですがね。」

 ナユタがこの言葉に、

「そうですね。」

と言ってうなずくと、カウティリヤは続けた。

「みんな、ただ、いつもと違う非日常という興奮の中でこの高原を楽しんでいるに過ぎない。彼らの中にあるのは笑いであり、喜びであり、決して、自然への沈潜や心の静寂じゃありません。そして夜ともなれば、性愛の歓びに感情を爆発させ、心の歓喜を求めているにすぎません。」

 それはまったくナユタも同感であった。

「まあ、平和になり、科学技術の進展の恩恵ということだろうけどね。」

とナユタは皮肉っぽく言ったが、続けて今朝のことを話し始めた。

「実は今朝、カウティリヤさんから勧めてもらったセイジの美術館に行ってきましてね。そしたら、館長からセイジと対談してそれを機関誌やウェブに載せたいと提案されたんです。ただ、セイジの影絵はすてきだけど、どうも根本的なところでぼくとは位相が合わないように感じましてね。お断りしたんです。ただ、勝手に言って悪かったかもしれないけど、カウティリヤさんとの対談はどうですかと提案したんです。よろしかったですかね。」

 カウティリヤはまんざらでもないという顔をして答えた。

「いや、私にとってはありがたい話です。私のようなものが世界的に著名なセイジと対談できるだけでも光栄なことです。でも、ナユタさんが対談した方がと思いますが。」

 ナユタは手を軽く横に振って言った。

「いやいや、ぼくはいいんです。でも、カウティリヤさんが喜んで下さるならうれしいですよ。ビハールの有名ホテルの料理長が森で小さなレストランを開き、自然と対話しながら暮らし、最近は土偶の製作にも打ち込んでいる。セイジとの共鳴するものがあるような気がしますし。ともかく、近いうちに館長の女神からメールが入ると思います。それともう一つ。」

 そう言って、ナユタは、セイジ美術館で買ってきた絵を取り出しながら続けた。

「これをセイジ美術館で買ってきましてね。今日見た絵の中では特に気に入った絵で、『走馬灯』という題名がついています。もし、良ければ、これをお店に飾ってもらえばと思ったのですが、どうですかね。」

 この申し出もカウティリヤを喜ばせた。彼はさっそく絵を飾る場所を決め、その絵を飾った。

「この絵のさびしげな風情がなんとも良いですね。」

 そう言ってカウティリヤは喜んだ。

 それからしばらくしてカウティリヤとセイジの対談が実現したようで、風の館で対談した写真と対談内容がセイジ美術館のホームページに掲載された。そこには、サナムが写した何枚かの写真も掲載された。土偶の作製に打ち込むするカウティリヤの写真、土偶が置かれたナユタの庭園の写真もあった。

 その対談の中で、カウティリヤはかつてビハールのホテルで料理長だったときのことについて語っていた。

「コンクールなどでいただいた賞状や盾はありますが、店には飾っていません。過去の経歴を売りにするつもりはありませんし、過去を生きているのではありませんので。」

 これに答えて、セイジはこう言っていた。

「それはすてきだし、大事なことですね。この世界の美しさに目を向け、静かにその美しさに心遊ばせる。そんなことが大切なんじゃないでしょうか。ぼくには、空の中で揺れ動く木の葉っぱたちの揺らめきだけでもとてつもなく美しく思える。」

 カウティリヤはさらにセイジからの質問に答える形で、高原で暮らす今の気持ちを淡々と述べていた。

 ふたりは意気投合し合ったようで、ナユタが買ってきて風の館に飾られたセイジの『走馬灯』の前でのふたりのツーショット写真もホームページに載っていた。そのセイジとカウティリヤのツーショット写真もサナムが撮したものということだったが、プリントされて風の館で『走馬灯』の横に飾られた。

 

2018220日掲載 / 最新改訂:20191014日)


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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第6巻