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神話『ブルーポールズ』

【第6巻】-

向殿充浩

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 真夏になった。

 天気の良い日が続き、ナユタは毎日のように朝早く起きて、高原の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。朝日の中、空は透けるように青く、光は弱く柔らかく、幼児のように生き生きと野を渡っていった。から松や白樺の沈黙の中から、つぶらで眩しい光の粒が新しい静寂を呼び起こしてくれた。

 午後になると空には大きな入道雲が広がり、さわやかな風が駆け抜けた。家の回りの野には緑の草が勢いよく伸び、花が咲き乱れ、虫たちが戯れた。

 近くの丘に登り、広大な高原を見渡し、ときには野原に寝そべって空を見上げるのも楽しいひとときだった。草むらからは、イナゴやバッタが飛び出してきたし、キリギリスの声も聞こえた。

 また、その丘の外れにある小さな池では、メダカが泳ぎ、水の上をアメンボが走り回り、トンボたちが交尾を繰り返していた。池の周りではコスモスが咲き、カナカナと鳴くヒグラシやミンミンゼミ、ツクツクボウシがやかましく、オニヤンマ、ギンヤンマ、黒い羽根のトンボなども飛んできた。チョウチョや蜂やアブもやってきた。

 けれど、そんな夏の日々の中、リリアンは一枚の絵のことで悩んでいるようだった。それは、リリアンがこの高原に来た直後から書き始めていた一枚で、大きなキャンバスに描かれた透明な冷たい青の海の上で、青黒色の球体と黄灰色や黒の象形文字とが瞑想的な響きを織りなしているような絵だったが、なかなか筆が進まないようだった。

 ナユタがその絵のことに触れると、彼女は言うのだった。

「これはけっこう気に入っているんだけど。でも、こんなんじゃまだだめ。何一つ本質的なものを解決も照明もしないこんな作品じゃ。結局は取るに足らない作品だって気がするわ。」

 この作品によって、いったい何が得られ、何が明らかにされるというのか。そんな思いが彼女の心の中を吹き抜けているようだった。

 道ははるか彼方なのだということを彼女は痛感していたのだろう。そして、結局、どこへも行き着かず、何ものにもならないということではないかという思いにもさいなまれているようでもあった。

 そして、彼女は、ため息交じりに言うのだった。

「でも、少なくともあの作品を描こうと思ったとき、そして、描き始めた最初の頃、力強い気力に溢れ、湧き上がってくる激しい創造の衝動を体中で感じた。でも、製作が進むにつれて光は弱まり、自分はただその仕事をとにもかくにも完成させねばならない一職人になりさがってしまう。あたかも創造の王者から、創造を欲する愚かな魔物への転落みたい。光は輝き続けない。創造とは結局、無形の光をむやみに形へと転化しようとする道化師の努力にすぎないと思えることもしばしばなのよ。」

 そんな彼女の心の奥底に横たわる悩みは、ナユタの心に新しい響きと共感を呼び起こした。彼女が悩んでいることは、ナユタの悩みでもあった。

 絵を描くのは何のためか?それは道のためか?どこかにある本来的なものへ至る道のためか?存在の秘密を解き明かし、一切の混乱を超えたひとつの極へ至るためか?

 そういった問いかけが、リリアンの心の中に渦巻いているようだった。

「高原は素敵だけど、ここに来たからといって自然に素晴らしい作品が生まれるわけじゃない。」

 そう彼女は言った。

 いったい、重要なことはなんであったろう。それは光から何かを創ることであったろうか?実は、単に光の中で戯れるだけで十分ではなかったのか?けれど、ほんとうに道はどこにあったのだろうか?いや、道はそもそもあったのだろうか?あるいは、仮に道が存在するとしても、自分にはそれを歩く能力があったのだろうか?なにもかもが混乱している。なにものかが心を踏みしだいている。地上に散らばっているすべてが瓦礫なのだ。

 そんな思いが彼女の胸の内に沈んでいるようだった。

 それからしばらく経って、彼女は別の新しい絵を一枚描いた。黒い世界にさまざま亀裂が入り、その中でかすかな光がぼおっと遊星を照らし出している世界だった。

 彼女の描かれた作品は、どれも深い根を持っていた。不可解なカオスとそれに伴う混乱を映し出したような彼女の作品。暗黒の闇から浮かび上がる光がただ暗号となるしかない世界。

「でも、ほんとうは、一切の混乱のない澄み切った空の朗らかさ、青い光の中での天使たちの輪舞、凍りついた大気の中での記号たちの無垢の笑い、そんなものを描きたいのよ。」

 そう彼女は言った。

「でも、空の青の中に感じ取ったインスピレーションとはなんだったんだろうと思うわ。たしかにそこには輝きを発する何かがあったはずだったのに何本か線を引き、色を一色か二色塗っただけで、限界に突き当たってしまう。そして、結局、重い暗みを引きずっている作品しか描けない。」

 彼女はそう語ったが、ナユタに心の奥底を吐露したことが彼女の心に何か作用したかもしれなかった。次の日の朝、リリアンは不思議な夢を見たとナユタに言った。

「雲の中のようなところに私はいて、あるいは三千メートルくらいの山頂にいてその周りを雲が流れていたの。白い光る雲の中で、古い時代の詩人たちが酒を酌み交わしていたわ。悠然として時を無為につぶしてゆく彼らのわざに私は驚嘆し、そして強い憧れによってひきつけられた。そして、今朝、満ち足りた眠りから覚めたとき、不思議なまでに新鮮な気分だった。さすらいの旅での目覚めのように、雲と空が呼ぶのが感じられ、軽やかな歌が心を巡った。外に出ると、澄みきった空の下に鮮やかな朝の世界が広がっていた。透けるような空の青さ、そして光が生き生きとして緑の中に輝いていた。山に立ち並ぶ白樺の白さも美しかった。今日は、空の朗らかさを写しとったような作品を描きたいわ。」

 その日、リリアンは新しい作品を描いた。いくらか厳粛な気分、そしてまるで儀式を執り行うような精神でリリアンはキャンバスに色をのせていった。不思議な原初的な響きが心の中に鳴り続けていたようだった。ほとんどその響きに導かれて彼女は絵筆を動かしていったのだろう。

 『緑色の空』と名付けられたその作品には、黙想的な静けさが世界に降り立つような気分が漂っていた。

 

 短い真夏の日々が終わる頃、ナユタがひとりで風の館に行くと、見知らぬ女神が席に案内してくれた。明るい笑顔と気持ちの良い澄んだ声が印象的な上品な女神だった。

 室内には、有名な『テヒリム』[1]という曲が流れていた。聞かれることを意識しない音楽、ただそこにある音楽、カウティリヤは好んでそんな音楽をしばしば室内に流していたが、それはこの高原に馴染み、そして、この店で心をくつろがせるナユタの心にもかなったものだった。

 しばらくすると、カウティリヤがその女神といっしょにやって来て、紹介してくれた。

「今度うちで働いてもらうことになったんです。」

 その女神は明るい声で深々と頭を下げた。

「サナムです。よろしくお願いします。」

 彼女は、ある地方都市の出身だと告げ、この夏を高原の別の店で店員として過ごしたのだが、この高原が気に入り、引き続きこの高原に留まりたくて、秋になってもやっている店を探していたところ、カウティリヤの妻と知り合って、ここにおいてもらうことになったということだった。

 あどけなさが残ると言っていいくらいのうら若い女神で、くったくのない笑顔が素敵だった。澄んだ線のやや細いかわいらしい声とユーモアを交えた明るい話しぶりも素敵だった。

 それから数日経って、ナユタがリリアンを連れて風の館に行くと、サナムはにこやかにふたりを出迎え、リリアンに対して、

「これからぜひよろしくお願いします。」

と挨拶した。

 ナユタとリリアンがケーキとお茶を頼むと、サナムは問いかけた。

「私もご一緒させていただいても良いですか?」

 ナユタが「ああ、いいよ。」と笑顔で答えると、彼女は、三人分のケーキとお茶を持ってきて、一緒に座った。

 カウティリヤはやって来て、

「今日のはサービスしておきますので、ごゆっくり。」

と言ったが、ナユタは笑って答えた。

「ありがとうございます。でも、私がもたせていただきますよ。」

 リリアンとサナムはすぐ仲良くなった。リリアンにとっては、サナムのような素朴で、のびやかやで、くったくのない女神との出会いも楽しかったのだろう。

 リリアンとサナムの間では話が弾んでいだ。サナムは以前は、首都ビハールの商社に勤めていたそうだが、その仕事が嫌になって、この高原にやって来たということを教えてくれた。

 また、彼女は写真に打ち込んでいて、この高原に来たのも美しい自然の写真を撮ってオプトネット上の自分のサイトに写真をアップするのが一つの目的だと教えてくれた。ただ、これからは何気ない瞬間を捉えた静物写真やポートレート写真に取り組みたいということだった。

 しかし、彼女は山や高原などの自然に強いあこがれを持ってはいるのものの、現代的、都会的なものを拒否してもいなければ、それを隔絶もしていなかった。今も、テレビとオプトネットで普通の世界とつながっており、ナユタやリリアンのように世間から半ば逃げ出して高原に住んでいるのではなかった。彼女は、ポケットかかばんに入れているローラブル有機端末で、普通の世界のさまざまな友達といつもつながっているのだった。

 サナムは、この高原で、乗馬やボート、ハイキングやトレッキングなども楽しんでいるということだった。つい先日、初めて馬に乗ったことも話してくれた。

「ところで、どこに住んでいるの?」

 そう聞いたリリアンに対し、

「赤い時計塔のある家に住んでいるんです。」

と彼女は説明してくれた。

 そう言えば、湖からちょっと離れた小高い丘のところにそんな家があったなとナユタは思いだした。

「一回行ってみたいわ。写真も見せてもらいたいわ。」

 リリアンがそう言うと、サナムは喜んだ。

「じゃあ明日にでも来てください。なんのおもてなしもできないですけど。」

 次の日、ナユタとリリアンは、サナムの家を訪ねた。赤い時計塔のある家で、中はこじんまりとして質素なつくりだった。わずかな家財道具とベッドがある部屋と簡単な台所とからなっていた。

 サナムはナユタとリリアンを時計塔の中に案内してくれた。狭い空間だったが、そこには小さな窓がついていて、窓を開けると高原と山を見渡すことができた。

 彼女の部屋には、山や草原など自然を撮った何枚もの写真が飾ってあった。

「お茶にしましょうか。」

 そう言ってサナムはコーヒーを入れてくれた。時計塔の下の庭に白い金属製のテーブルと椅子があり、リリアンが風の館で買ってきたケーキを並べた。

 そこからの眺めはすてきだった。丘の上だけあって広々とした眺望が広がり、緑の山が美しく輝いていた。日の光の柔らかさが心を和ませた。

「良い場所ね。こんな場所でゆっくりと時間を過ごすって素敵ね。」

 リリアンの言葉に、サナムはうれしそうだった。

「来てもらえて良かった。良い場所なんだけど、ひとりじゃ、つまんないし。」

 そう言うと、彼女は、有機パッドを取出し、

「一緒に写真を撮って、ネットにアップしても良いですか?」

と訊いた。ナユタとリリアンが同意すると、サナムは三人の写真を何枚か写した。

 その日、家に帰ってネットを見ると、さっそく、三人で写った写真がアップされていた。そこには、リリアンが買ってきたケーキや三人で眺めたその日の丘からの光景などの写真も載っていた。

 

 さて、高原にススキの穂が一杯に広がる頃、ナユタはリリアンを連れてウパシーヴァ仙人を訪ねた。ほぼ一年ぶりの再会に、ウパシーヴァ仙人は喜んでふたりを迎えてくれた。家の回りでは、コスモスの可憐な花が美しく揺れていた。リリアンが高原の生活にも慣れ、高原でのびのび暮らしていることを伝えると、ウパシーヴァ仙人はおおいに喜んだ。

「それは良かった。新しい場所で、新しい生活を始めるのもまた楽しいものじゃな。わしもここに移って、以前の暮らしとは違う生活を始めて、それはそれで日々を楽しんでおるよ。」

 ひとしきり近況報告などが終わると、ナユタは問いかけた。

「ところで、かつてウパシーヴァ様は、科学技術の進展を予見され、まさに現在の世界の出現を予想されました。昨年お聞きしたことと同じ質問になってしまうかもしれませんが、ウパシーヴァ様は神々の世界の現在の状況をどのように見ておられるのでしょうか。」

 この問いかけに、ウパシーヴァ仙人は真顔に戻って答えた。

「まず言わねばならぬのは、たしかに、科学技術は非常に重要な視点ではあるが、歴史は科学技術の視点だけで記述するものではないし、できるものでもないということだ。ただ、もし、科学技術いう視点に立つなら、今の神々の状況は、まさに、かつてない高みに達していると言わねばなるまい。ヴィダールの宣言ではないが、まさに、『我らは進歩した。』と胸を張るべき状況だろう。だが、前にも言ったが、その科学技術も停滞し始めているように見える。」

「進歩が停滞し始めているかどうかは、まだ私には実感としてはよく分かりませんが、やはりそうなのでしょうか。ビハールでお世話になったドレッシェル教授は進歩の終焉を主張しておられ、その説は傾聴に値するのですが、一年半ビハールに滞在し、さまざまな技術革新や研究成果を見せてもらった限りでは、必ずしも進歩が停滞しているとは感じませんでした。ただ、社会が平和になり、安定し、その上に立って大いなる繁栄が羽を広げ、神々がその中で何の疑問も持たずにこの生活を謳歌していることは理解できました。」

「たしかに、進歩の停滞はまだはっきりとは形になっておらぬし、実感できぬかもしれぬ。だが、科学技術による繁栄こそが進歩を止めつつあるはずだ。ドレッシェルの『古い時と新しい時』は読んだが、わしの考えと同じ位相じゃ。進歩の停滞は、繁栄の裏返しでもある。そして、物質的にはいささかの窮乏もないこの世界が実現することによって、二つのものが失われたのかもしれぬ。一つは進歩、そしてもう一つは、未知なるものへのまなざしだ。」

「未知なるものへのまなざし。」

 リリアンがそう鸚鵡返しに言った。

「そうじゃ。未知なるものへのまなざしじゃ。本来、未知なるまなざしの中からのみ真の輝きが発する。だが、今、そのまなざしは失われつつあるのかもしれん。だがな、神々は、もう一度輝きを取り戻さねばならぬのではないかな。そして、それができるのは、未知なるものへのまなざしを持っておる者たちだけじゃ。ナユタ、リリアン、おまえたちをおいて他にはないのではないかな。」

 この言葉は、前年にウパシーヴァ仙人を訪問した時にウパシーヴァ仙人が語った『真理が極められていない中で、芸術だけが終焉することはありえない。』という言葉と符合するものでもあった。

 ナユタは、ウパシーヴァ仙人の言葉にうなずきつつも、あえて問いかけた。

「しかし、私はただ音楽に没頭し、しかも、その音は、異端者の音に過ぎません。世の中は私の音とはまるで異なる相の内に繁栄を謳歌しています。」

「たしかにその通りかもしれぬ。だが、真理が輝くということは世の中が変わるとか、世の大勢がどうなるかということを必ずしも意味しない。異端者であることこそ、新しい道を切り開くために必須のことではないかな。革新は異端者にしかできぬ。おまえがヴァーサヴァの創造以来、宇宙の中で輝いてきたのは、おまえが、まさに異端者であったからに他ならないのではないかな。」

 この言葉にナユタが考え込んでいると、ウパシーヴァ仙人はさらに続けた。

「真理はひとりででも輝く。おまえ自身で、あるいはおまえ自身の中で輝く。あるいは、リリアン、おまえの中でもそうだ。それが真理の輝きだ。もちろん、それを、パキゼーは空に過ぎぬと言うかもしれぬがな。未知なるものにまなざしを投げて、道を捜してみることじゃよ。おまえたち自身の道をな。」

 この言葉に答えて、ナユタは言った。

「今、神々は時間を浪費して生きています。でも、私も別の意味で、時間を浪費して生きているにすぎません。その中でわずかに何かを生み出すに過ぎない。そして、その生み出されたものとて本来的な意味を持つわけではありません。」

「それがパキゼーの見抜いた真理にほかならぬな。」

 このウパシーヴァ仙人の言葉に、三人ともしばらく黙ってしまったが、仙人は再び口を開いて言った。

「もうひとつ大事なことだが、世界の起源を解き明かすことは科学にはできないかもしれないということだ。いつ世界が始まったのか?なぜ世界が存在するのか?世界が始まる前はどうなっていたのか?時間は永遠なのか?それらの問いには決して答えられないだろう。だから、いかにパキゼーが真理を見抜き、それ以上の真理は決して存在しないとしても、巨大なる未知なるものがこの世界には依然として横たわっているということだ。そのことに心を開くことによって、新たな道が生み出されるのではないかな。わしはそう思うておるよ。」

 ウパシーヴァ仙人はその言葉はリリアンにも心に深く刻み込まれる言葉であったろう。

 ウパシーヴァ仙人の元から帰ると、リリアンは絵画に没頭する日が多かった。彼女は黙々と新しい絵画を描き続けた。

 ある時、リリアンは言った。

「私の作品が、どういう意味を持ち、どういった価値を持つのかはよく分からないけど、ただ、どうしても描かねばならないものが出てくるのよ。誰かに見せたいわけではない。神々に訴えたいわけではない。私が訴えたい相手がいるとすれば、それは天かもしれない。」

 まさにその通りかもしれなかった。ナユタやリリアンの作品が立脚している精神世界に無縁な神々、現実の白日の世界の中でのみ生きている神々にとって、ふたりの作品は何の意味もない作品にすぎないかもしれなかった。

 しかし、ウパシーヴァ仙人が言ったように、この世界の根源的な意味に向かい合うことも、存在の不可思議さに触れることもないならば、いったいどんな本来的な何かが生み出されうるのか。ナユタやリリアンの作品が、その作品を聞く者や見る者を現実の世界から何か別の世界へといざなおうとしていることにこそが意義であったのかもしれなかった。

 

 秋になって、不意に、流浪の神ハーディがやってきた。

 ひょうひょうとした自由さと、そして冷酷なまでの傍観者的世界観を持ったこの男は、なんの予告もなしに、突然ナユタの家の扉を叩いたのだった。

 びっくりするナユタに、ハーディは、ただ言った。

「やってきたよ。ちょっと頼みたいことがあってね。」

「そうか。じゃあ、近くに、レストランがあるんで、一緒に行こう。」

 そう言って、ナユタはリリアンを呼び、三人で一緒に風の館に行った。主人のカウティリヤは奥の上等の席を用意すると言ったが、ハーディはベランダの席でいいと言って、外の風景のよく見える席に座った。

 ハーディは一週間前まで、ルガルバンダ文書の発掘をやっていたということだった。まだ紙がなく、象形文字を粘土板に刻んでいた時代にルガルバンダが書き記したものを発掘し、再構築する取り組みだった。発掘の様子をハーディは彼一流のいくらかシニカルな口調で語った。

「まあ、掘り返せば、何かが出てくるさ。そんなことを言えば、この大地すべてが過去の遺物の堆積だからな。それにしても学者たちは熱心なものさ。学者たちにとっては、かつての覇者ルガルバンダのルーツを探し求めることは意義があるんだろうけどな。」

 サナムが料理とワインといくつかの前菜をテーブルに並べてくれると、ハーディは、三人のグラスにワインをなみなみと注ぎ、

「このあやふやなる世界に乾杯!ついでにぼくたちの再会にもね。」

と言って、グラスを傾けた。そして、彼は、

「ところで、さっきも言ったが、実はひとつ頼みがあって来たんだ。」

と話を始めた。

「来年の六月にビハールで詩の上演会をやろうと思ってるんだ。もちろんそんな大げさなものじゃなくて、こじんまりしたものだけどね。で、その上演会のバックの壁画をリリアンに描いて欲しいんだ。また、ナユタさんには、シュヴァイガーと即興演奏をお願いしたいんだ。」

「詩の上演会に絵がいるんですか?それにいったいどんな壁画を描けばいいんでしょう?」

 そうリリアンは言ったが、詩の上演会に自分の絵が使われるかもしれないということには興味津々のようだった。

「あの象形文字のようなのがたくさん並んだやつさ。見ている人たちに、バックにあるのはぼくの詩を象形文字で書いたものなんじゃないかという気持ちを起こさせるような絵が欲しいんだよ。そしてぼくはピエロの服を着て、大詩人さながらに詩を読みあげるというわけさ。」

「それはおもしろいかもしれないですね。この詩の上演会のために新しい絵を描くのも悪くないし。私の絵で良いんなら、喜んで描かせてもらいます。」

「でも、描いて欲しい絵は決してぼくの詩のためである必要はまったくない。自分が描きたいように、好きな絵を描いてくれればそれでいい。いや、むしろ、ぼくはそれを望んでいるんだ。」

 そう言うとハーディは、ワインをぐいと飲み干し、ナユタの同意も確認すると、さらに語った。

「ともかく、これで舞台が整った。そして、そこで世にも稀なる戯れが繰り広げられるというわけだ。ぼくは詩を読む。だけど上演会の後半では、それはコンピュータに入って声の調子の変わった、ほとんど理解不能な声となって聴衆の耳に届く。そう、言葉はすべて謎に帰すわけだ。耳に入る言葉は理解不能、目に見える文字も解読不能というわけさ。」

「するとその上演会で重要なのは詩そのものではなくて、むしと理解不能なものを聴衆の前に提供することだというわけかい。」

 そう言ったのはナユタだった。

「ある意味では、その通り。もちろん、ある面では、ぼくの新しい詩の発表の場でもあるがね。ただ、その詩も実は同じ目的の詩であって、要するに、ぼくはひとつの空虚を作り出したいと思っているんだ。理解不能の言葉、理解不能の文字、そしてそういうものたちによって形成される閉じ込められた世界、そしてぼくの詩は、その閉じた世界のための詩なんだ。決して神々のための、あるいは宇宙存在や超越者のための詩じゃない。空虚のための、そしてカオスのための詩なんだ。」

 これに対して、リリアンが言った。

「だけど、カオスとか、そして空虚とかは、それ自身では意味を持たないんじゃない?たしかに、世界の中には、無数の解読不能の暗号が満ち満ちている。そして私たちは途上にあり、中途の混沌とした地平に漂っている。それはいわばカオスの状態。そして世界は理解不能。だけど私たちはその地平を破り、より明るい、より朗らかな世界へ踏み出したい、と道を求めている。」

 そこまで言ったとき、ハーディが不意に遮った。

「それは君のすばらしい哲学的発想だね。だけどぼくには到底理解しがたいものを含んでいる。君はカオスを超え出たところにもっと別の美しい世界を想定しているようだ。だけどぼくにとっては世界はたった一つ、それは君が最初に言った混沌とした解読不能の暗号に満ちた不可解な世界だけだ。だけどそれは暗号じゃない。それは単に『ただ在るもの』が散在するだけの世界。それですべてだ。それはカオスであり、そしてその上がない以上、その中のものはいかなる意味も、いかなる暗号的意味も持ちえない。それゆえに空虚なんだ。」

「だけど、それじゃ、その空虚と私たちの関係はどうなるの?」

 そう言ったリリアンの言葉に、ハーディは冷やかに答えた。

「みなさん自分たち中心にものを考えすぎているのさ。世界にとって我々なんてどうでもいい付随物、あたかも我々にとってのシラミ程度の存在なんだよ。神々にとって一匹のシラミが呼吸したり、食ったり、這ったりするのがどうでもいい、つまらないことであるのと同様な程度に、世界にとってどうでもいい他愛ないことをぼくたちは戯れる、ただそれだけのことなんだ。だからそこにあるのは、カオスと空虚だけなのさ。」

 それはまったく達観した、そして真理を言い当てた言葉ではあった。

 そして、ハーディは風のように行ってしまった。その夜、ナユタの心は痛かった。ハーディに感心せざるを得ないと同時に、自分にはとてもまねができないと痛感せずにはいられなかった。

 ある意味、ハーディは自分なんかよりはるかに優れた神なのだ。あのものに動じない醒めたまなざし、一切の混乱と一切の非真理性と一切の悲劇性とを笑って見過ごす態度。彼は詩を創るという創造的行為を行いながら、実は創造なんてものには少しもとらわれず、光が流れ去るのをただ黙って見送り、空虚の中で自己の戯れを戯れているだけなのだ。

 それに比べ、自分はなんとおろかな、ちっぽけなやつなのか。そして、消えゆく光の中から創造の光を取戻し、カオスの世界の中に法則を輝かせ、神と神の被造物に意味を与えようとするなど、一見英雄的行為のように見えて、実はまるで他愛ない夢を見ている哀れな道化師さながらだ。石はただただ砕け続けており、道は風の下でうごめいているだけなのだ。

 そんな叫び、そう叫ぶことによって自らの心を痛めつけるような叫びがナユタの心の中を吹き抜けた。

 

 それから数日間、どんよりと雲が垂れ込め、しとしとと雨が降った。その雨がようやく上がって青空がのぞくと、ナユタはひとり、この夏に新たに高原にできたスカイウェイの発着場所に行って、スカイウェイに乗った。

 スカイウェイは森以外の世界では当たり前の乗り物で、小型用であれば、着陸するための五メートル四方ほどの場所さえあれば、簡単に使える乗り物だったが、シュンラット高原にその着陸場所が設けられたのはこの夏が初めてだった。スカイウェイの着陸場所は申請さえすれば難なく認可されるのだが、森の神たちは導入に前向きではなく、ナユタも自分の家の前に広い土地はあるものの申請していなかった。

 ただ、森の開発の中での行政指導もあり、この夏、シュンラット高原の複数の個所に発着スポットが設置され、その一つが風の館の近くにできていたのだった。

 その日、ナユタは、スカイウェイを呼び、風の館の近くの発着スポットから乗った。その発着スポットは百メートル四方もあり、自家用車のまま乗り込める大型スカイウェイも発着可能と言うことであった。カウティリヤはスカイウェイを使って食材などを仕入れるようになったし、ナユタが注文する食品や生活用品などもスカイウェイで運ばれるようになっていた。スカイウェイならば、ビハールまでほんの一時間なのだ。

 その日、ナユタがスカイウェイに乗って向かったのは、シュンラット高原の向こうにそびえる連峰の中に新しくできた発着スポットだった。その場所は標高は二千二百メートルにあり、そこからすぐに山の中を散策できるということだった。スカイウェイが飛び上がると、高度は一気に上昇し、ほんの数分で目的地に着いた。

 スカイウェイを降りると、そこには、三方の山々に枯れ木たちが立ち並んでいた。

 山道を黙々と歩くと、ナユタは枯れ木たちの精神を感じることができた。枯れ木たちは腕を曲げ、顔を歪めて、けれど、超然とした笑いの中に立っていた。それは孤独と超越の起立だった。彼らは何も望んでいない。自分自身の存在の意味すらも望まない。光の中でも闇の中でも、彼らは同じ微笑で、淡々と永遠の時間の中に立ち続けているだけなのだ。

 その姿がナユタの心を打ち、心に沁み込んだ。枯れ木たちの姿がナユタの心に語りかけたもの、それは古い魂であり、威厳と誇りをもった姿であった。その姿と枯れ木たちの朗々たる朗らかさが、ハーディが波立たせたナユタの心を冷まし、本来的なのものを認識させてくれた。この空間の静けさがナユタの心にかなった。この枯れ木たちのように在ること、流れを渡ること、生の消費から抜け出して時間の外に立ち続けること、それがまさにあるべき姿ではなかったか。

 その日から数日間、ナユタはその時心に鳴り響いた音を響かせる試みを続けた。漠々とした音のうねりの中に、打楽器の連打が続き、それらの音と交錯するように朴訥とした笛の音が空を渡っているかのような音楽だった。

 

 しばらくして、高原には美しい紅葉が広がった。青い空の下で赤や黄色の輝きが織りなす山々がダイニングや庭先から見渡せた。

 リリアンは、

「こんなきれいな紅葉は初めて。」

と心を躍らせ、

「一緒に絵を描きに山に行かない?」

とナユタを誘った。

「アトリエに籠ってばかりいるより良いかもね。」

とナユタは同意し、さっそく、よく晴れたある日、ふたりはアミティスが用意してくれたランチボックスを持って出かけた。

 アミティスの車で家を出て、駐車場で車を止めて山道を少し登り、遠くに美しい山並みを望める小さな池のほとりに着くと、リリアンは改めて紅葉の美しさに目を輝かせた。美しい色彩が世界を巡り、心を吹き抜ける澄み切った風の中で世界が輝いていた。美しく紅葉した木立に風がざわめき、朝の光に輝く明るい空の沈黙が美しかった。

 リリアンは池のほとりにキャンバスを立て、ナユタのためにもキャンバスを立ててくれた。

 秋の澄み透った空の下、黄色や赤色の木の葉の上で光がきらきらと舞い踊っていた。野にはたくさんの赤とんぼが飛び交い、コスモスが可憐に咲き誇り、ススキの穂が輝いていた。そして、足元では、紫、白、黄色などの花がひっそりと咲いていた。

「何を描けば良いのかな。」

 ナユタはちょっと首をすくめてそう言ったが、リリアンは笑って答えた。

「なんでも良いのよ。好きなように描けば。」

 そして、リリアンは絵に没頭し始め、黙々と絵筆を動かし続けた。ナユタはしばらくキャンバスを立てたまま紅葉に見入っていたが、絵筆を取り上げると、明るい赤色をキャンバスに載せてゆき、さらに、黄色、緑、黒などを載せていった。

 リリアンがナユタの絵を覗き込むと、ナユタの答えは、

「見たとおりに描いているんだが。」

というものだった。

 それは、紅葉の輝いている山の一部分をそのまま写したような絵だったが、まさに、幾重にも折り重なる色彩が織りなす抽象画のように見えた。

「なかなか素敵じゃない。」

 リリアンはそう言ったが、ナユタは笑った。

「ははは。まあ、お遊びだけどね。」

 一方、リリアンは、水色の淡い地塗りの上にいくつもの記号を並べていた。それは、空の青の単純性と明朗さ、そして、その中で存在たちが自由に踊る世界だった。世界の中での記号たちの落ち着いた飛躍と暗号たちの黙想だった。

「今日は、外に描きに来て良かったわ。」

 彼女はそう言い、いつになく楽しそうだった。

 風が心地よく過ぎてゆき、ふたりはアミティスが準備してくれたお弁当を食べ、ナユタが沸かしたコーヒーを飲んだ。

 たしかに、芸術は決して単に世界の内のなにものかの描写ではなく、けれどまた、単に心の表現でもないはずだった。芸術はいわば哲学であり、存在の秘密を解き明かすもの、世界の本質に迫るもの、そして新しい地平へ踏破してゆくものであらねばならなかった。だからこそ、どこにもなく、まるで知りえないもの、未知なるものを描こうとし続けねばならないのだ。

 けれど、楽しく描くこと、描くこと自身を楽しむこと、それもまた芸術の本質に通じるものであるはずだった。まさに、今日はそんな日で、リリアンはいつになく楽しんで描いている風だった。たしかに芸術の目標がどこかにあるにしろ、それは理論に基づいて描かれるものではなく、常に心から出たものとして描かれない限り、真の作品は創造できはしないという意味では芸術は心の表現だった。考えてみれば、日ごろはあまりに理想を目指しすぎていたかもしれなかった。もう一度、心に対して素直に描いてみよう、そんな気分だったのだろう。

 食事を終えると、ナユタは、池のそばに寝そべり、それからいつのまにか眠ってしまった。

 目覚めると、日はまだ高く、空が青かった。心地よい眠りに満足し、気分が良かった。リリアンは絵をほとんど描き上げていた。作品はいつになく明るいイメージに溢れており、記号たちが中空の園で楽しげに戯れていた。

 彼女は、その作品を『空の中での青の戯れ』の連作の一枚にすると言った。

 池のほとりでのんびりと過ごし、ふたりがキャンバスをたたんだのは夕暮れが近づいてきてからだった。空にはまだ透明な明るさが広がっており、黄金色の光が柔らかく世界を包んでいた。混乱を鎮め、調和を呼び戻す音楽、淡々と一切を包括する存在者の響きが鳴り続けていた。 

 ナユタは、心の中の夢がかすかに震え、空の上を真っ青な風が吹き過ぎるのを感じた。大地に刻印された無数の慟哭は膨れ上がっては大気の中に弾け、世界は清新の光を失って、新たな混沌が澱んだ大地から噴き出しているかもしれなかったが、求道者たちは今なお、新しい音を宇宙の中に響かせようとし、この世界に未知なる形を描こうとしているのだ。

 秋の日の柔らかな光の下で、微かに震える夢が世界に突き当たり、けれど、不思議な鼓動が生まれてくる。それはまさに、賢者とともに過ごした秋の一日そのものだった。

 ナユタとリリアンはふもとに降りると、風の館に立ち寄った。店は紅葉を見に来たらしい若い男女が何人かいたが、主人のカウティリヤがふたりのために奥の静かな席を用意してくれた。

 カウティリヤがリリアンの絵を見て、

「今日は外に描きに行ったの?いつもとだいぶ感じが違うね。いつもよりずっとのびやかで明るい感じだね。」

と言ってくれたので、彼女は笑って答えた。

「たぶん自然の中で描いたからでしょう。実際、私たちはもっと自然から学ばなくちゃならないんですよね。」

 いつもカウティリヤが言っている言葉のままだった。

 カウティリヤが席を離れてしばらくすると、カウティリヤのふたりの子供たちがサナムと一緒にはしゃぎながら入ってきた。子供たちは野で摘んできたコスモスの花をうれしそうに抱え、クリスティーに見せていた。サナムは今日はいっそうきれいで、明るく輝いて見えた。その若い女神の笑顔を見ているだけで心に朗らかさが生まれ、幸せな気分になれるような、そんな女神だった。

 その夜、家に帰って、ナユタは、久しぶりに、『ホー・バン』[2]を弾いた。リリアンはじっと目を閉じて、この短い曲に聞き入っていた。

 

 それからしばらくして、ナユタとリリアンが風の館に行くと、カウティリヤの妻のクリスティーがいつもの笑顔で迎えてくれ、ふたりをベランダの席に案内してくれた。他に客はいなかった。

 こんなふうにこの店でゆっくり昼食をとるのも良いものだと思うと心がかすかに微笑んだ。室内には、セバスチャンの『インヴェンションとシンフォニア』が流れていた。シュヴァイガーの演奏だった。

 ふたりがスープカレーを注文して待っていると、カウティリヤ自身が、スープカレーを三皿もってきて、

「今日はサービスです。」

と言って、一緒に座った。

 主人は、

「ところで、最近、土偶を作ることを始めましてね。」

と言って、部屋の片隅のテーブルを指差した。

 そこには何体かの小さな土偶が並んでいた。

「まだ始めたばかりなので、不作ですけどね。でもゆくゆくは店の入り口に大きな土偶を置きたいんですよ。」

 リリアンが問いかけた。

「土偶って、前回の創造の中で、文明が発達する前の古代人たちが作ったものですよね。なぜ土偶を?」

 カウティリヤは笑いながら答えた。

「ぼくには本当の才能なんてないからですよ。ほんとうに才能のある神は自らの創造力によって独創的なものを作るでしょう。でもぼくには、土偶を真似て作るのが関の山。独創的なものなんてできっこないですから。でもそれでいいんです。ただ、ともかく、土偶には不思議な魅力を感じるんですよ。だから土偶を作ることには意味があると思ってるんです。」

 食後のコーヒーを飲んだ後、カウティリヤは裏庭に作った作業場を見せてくれたが、そこには作りかけの作品が多数並んでいた。彼は、目を輝かせて、土のこね方や色の付け方、野焼きの方法などについて説明してくれた。

 カウティリヤと別れて外を歩くと、世界が澄んでいた。一流ホテルの料理長だったカウティリヤが新しいことに挑戦するのもまた素敵だった。世界が新鮮なのだ。秋の気分、それは新しい予感に満ちた気分だった。

 家に帰ると、リリアンが新しく描いた絵を見せてくれた。彼女は最近、『鳥』をモチーフにした記号絵画に没頭していたが、その連作の一枚だった。それはおそらく、最近の彼女の気分にふさわしい、清々とした、朗々としたイメージの作品だった。

「インスピレーションは、この前、朝起きた時にやってきたの。」

 そう彼女は言った。

「まだ日が昇ったばかりで、外に出ると世界が新鮮な光の中に戯れていて、大気は冷たくひんやりして、空は透けるように青かった。光はまるで幼子のように生き生きとして柔らかく、木立や小川の上にきらめいていた。澄んだ鳥の声が聞こえ、山の斜面の木々が朝日の中にくっきりと浮かび上がり、その姿は賢者の笑いのように朗らかで静かだった。」

 それが彼女の胸の内を貫く新鮮な感動だったのだろう。存在自体の本質はカオスではなく、このような清澄の光なのだという響きがその絵から伝わってきた。だから、彼女は『鳥』の絵を描こうと思ったのだろう。

 『鳥』はたくさんの夢を運んでくる。一切の混乱を駆け抜け、究極的なものへ突き当たろうとする鳥。さまざまな図形や象形文字の間を飛び続ける鳥。存在の向こうへ、時間の向こうへ飛ぼうとする鳥。孤独に、自由に、未知なるものに向かって駆けてゆく鳥。

 未知なるものへの風が吹き過ぎてゆくかのようだった。

 

 数日後、ナユタが『ナイン・ポスト・カード』[3]という曲を弾いていると、突然、テレビ電話が鳴った。風の館のカウティリヤからで、会わせたい神がいるからちょっと来ないかということだった。ナユタがリリアンと一緒に風の館に行くと、カウティリヤはナスリーンという女神を紹介してれた。

 落ち着いた気品のある神だったが、今では誰も着なくなったようなゆったりした服を着て、首には石を連ねた飾りをさげていた。その服装は、ヴァーサヴァの最後の創造以前の世界で着られていたような服装だったが、彼女は、木を削った楽器で音楽を奏でる音楽家ということだった。

「今度、この高原にやって来て、しばらくこちらで暮らそうと思っているんです。」

 そう彼女が言うと、カウティリヤが付け加えた。

「知り合いからこの話を聞いて、ちょうどこの近くに空き家があるんで、そこに入ってもらうことにしたんです。」

 ナユタが、なぜ木を削った楽器を使うのか、どのように木から楽器を作るのか、と尋ねると、彼女は笑顔を見せながら、落ち着いた声で答えた。

「木は素朴だと思いませんか?もっとも原始的な音、もっとも素朴な音が木から生まれるんです。木を削り、叩いて音を確かめ、それからまた削るんです。よろしければ、ちょっと聞いてみませんか?」

 ナユタが「ぜひ。」と言うと、ナスリーンは、車に積んでいる自作の楽器をいくつか庭に並べて音を奏でてくれた。

 いずれも、木の幹をざっくりくり抜いたものを木の棒で叩くだけのものだったが、響いた音は得も言われぬほどに乾いた音で、時間を超越したように悠々とした、そして朴訥とした不思議な響きだった。木を打って生まれ出た響きが、大気の中に共鳴し、空に広がってゆくかのようだった。

 その音楽は、ミニマリズムの流れをひいてはいるが、音そのものは、はるか昔の響きであり、その融合がなんとも魅力的だった。

「木の削り具合で音階だけでなくさまざまな音色が可能なんです。」

 そう言って、彼女はナユタにも木の棒を渡して楽器を叩かせてくれた。

 実に不思議な音がした。音それ自体からして、これまでの音楽とは別の地平に立っているのだということが直感できた。リリアンも叩かせてもらったが、

「すごい。こんな素朴な響きは初めて。」

と興味津々だった。

「今度うちに遊びに来てくださいな。」

とナスリーンが言うので、ナユタとリリアンは、数日後に、彼女の家を訪ねることにした。

 ナスリーンの家を訪ねることにしていた日、朝、窓を開けると目の前の山で色彩が踊っていた。何度となく体験した、けれど新鮮な喜び。澄んだ空気と青い空。そして、山に立ち並ぶ木々が黄色に輝き、赤く輝き、あるいは濃く、あるいは軽やかに、自由な光の中に照り映えた。秋の光がさんさんと輝く美しい日だった。

 そんな光の中での色彩の輝きはナユタの心に不思議な感情を呼び起こした。いくらか神秘的に心の中心に青い焔が燃えるのを感じ、世界の法則が根底から覆されて色彩の海の中で自由の踊りが踊り続けられてゆくような感じ。そして、一切が朗らかに、静かに、はるけさの中へ深まり、高まりゆこうとするような感じだった。どんな画家だってこんなに美しく、こんなに朗らかに描きあげられるものではない。そんなことは決してできはしないだろう。

 ナスリーンの家は小さなおしゃれなつくりの家だったが、中は質素で、綺麗にかたずけられていた。その家の裏庭に小さな小屋が立っていた。

「ここが私の楽屋よ。」

 中に入ると、木をくり抜いたり、削ったりして作った様々な楽器があった。彼女はそのうちのいくつかを取り上げ、ナユタとリリアンにも持つように言い、それらを外の庭に運び出した。

「一緒に演奏しましょうよ。」

 そう言って、彼女はナユタとリリアンに撥を渡してくれた。

 音楽の経験がほとんどないリリアンは最初尻込みしたので、ナユタだけがまずナスリーンと一緒に音を響かせた。

 ナユタは、木を伐り出し、くり抜いて作った楽器を木の撥で叩いて音を出してみせた。それは、素朴で奔放な音がした。単音のどっしりとした乾いた音が、空全体に響き渡るかのようだった。

 ナスリーンの音も新鮮で清らかに響いた。静かな静かなこの上なく静かな音の流れが秋の大気の中に拡散した。

 真っ青な空の下で、山々に向かって素朴な音を響かせることのすばらしさ。それはまるで心と心が光の中で交錯しつつきらめきを発するかのような即興だった。

「リリアンさんも一緒に音を響かせましょうよ。」

 そうナスリーンに誘われても、リリアンは、

「でも、私はたぶんとっても下手だから。」

と言ったが、ナスリーンは、

「そんなことは良いのよ。」

とリリアンを即した。

 リリアンにとっては初めての経験だったが、彼女は楽しそうに木を打ち続けた。自分の響かせる音を楽しみ、ナユタとナスリーンの音と交錯させることを楽しんだ。

 撥を置くと、三人は庭の丸太の上に腰かけてお茶を飲んだ。野草の香りのする少し不思議な味のお茶で、ナスリーンはこれが好きなのだという。

「木の朴訥とした音にいつもほっとするの。普通の楽器の音はある意味、洗練されすぎて素朴さを失くしているわ。」

「太古の昔からぼくたちが自然の中で親しんできた響きなんだろうね。」

 そうナユタが言うと、彼女は、

「それに二人、三人で即興するのは素敵ね。波長の合わない相手だと、苦痛かもしれないけど、合う相手だと、ひとりで演奏するのとはまるで違う喜びがあるわ。今日はとてもすてきだったわ。」

と言い、ナユタに、今度、ぜひ一緒に即興演奏会をしないかと持ちかけた。

 その後、リリアンの絵の話になり、

「今度絵を見せてくださいな。」

と彼女が言うので、近いうちにナユタの家に来てもらうことになった。

 

 数日後、ナスリーンがナユタの家を訪ねてきてくれた。

 アミティスはおめかしをして彼女をにこやかに迎え、三人に、ランチを振る舞い、さらに、紅茶とデザートのケーキのをふるまった。

 ナスリーンは、リビングに飾ってあるリリアンの『沈黙の空』とダイニングの『古代譜』に強い印象を受けたようだった。

「すてきな絵ね。素朴で淡々と広がっている世界に不思議な音が鳴っているような感じがする。」

「ぼくも彼女の絵が気に入っていてね。この『古代譜』は彼女に初めて会ったときにもらったものなんだ。」

「そうなんですか。ほかにももっと見せてもらえる絵はあるんですか?」

 リリアンは自分の絵を気に入ってもらえてうれしそうだった。

「じゃあ、アトリエに行きましょう。いろんな絵を置いてますから。描きかけのもありますが。」

 アトリエでリリアンの絵を見て、ナスリーンは改めて感嘆した。

「素敵な絵ばかりね。一枚、自分の家に欲しいくらいだわ。」

「それなら、喜んで。」

 即座にリリアンはそう答えた。

「どれでも、好きな絵をどうぞ。」

「でも、展覧会に出品したり、売ったりするのもあるんじゃない?」

 ナスリーンはそう言って気遣ったが、リリアンはいっこうに意に介さなかった。

「まだ修行中の身ですから。」

 そう言って笑うリリアンにナユタも付け加えた。

「まあ、そのうち、すごい値になったりしたら、そのときはそのとき。絵をもらっておいて得をしたとでも思えばいいかも。」

「でも、その絵を気に入って手放さなければ、一銭の得にもならないわね。」

 笑ってそう答えたナスリーンにリリアンが言った。

「今は、欲しいと言ってもらえるだけでうれしいので、遠慮なく、どれでも。」

 そう言われて、ナスリーンは一枚の絵を選んだ。それは、リリアンは最近描いた『鳥』の連作の一枚だった。

「じゃあ、さっそく、この絵を届けに行こうか。」

とナユタが提案し、三人はその絵を持ってナスリーンの家に行った。

 その絵をナスリーンの家に飾ると、三人はこの前と同じように、庭に出て一緒に楽器を叩いた。そして、また一緒に丸太に座ってお茶を飲んだ。

 山を眺めながら、彼女はつぶやくように言った。

「昔の神々は、もっと、この世界に生きるということを知っていたように思うわ。悠々と歩き、見、呼吸し、囚われず、静かだった。山に囲まれ、大地の上で生きてた。粗末な食べ物、粗末な衣服、不便な生活だったかもしれないけれど、多くを望むことなく、天地における自分の立場をわきまえていたんじゃないかしら。それにひきかえ、私たちの世界は熱に浮かされ、不安にさいなまれ、無為に生きる術を忘れてしまったように思えるわ。多くの知識を知り、それによって便利で快適な生活を手に入れたけど、それで本当に豊かになったのかどうか。むしろ、私たちは一番知らねばならないことについては、無知のままなんじゃないかしら。私たちを豊かにするはずであり、豊かにすると思っているものが、実は私たちを混乱の中に導きこんでいるだけじゃないかしら。古代の神々は山や川や空や鳥や雲や星しか知らなかった。でも、宇宙との関係については、大地と時間の関係については、私たちよりはるかによく知っていたんじゃないかしら。」

 ナユタは同意して言った。

「ぼくたちは多くの知によって、本質的なものに関するまなざしを鈍らせてしまっているのだろうね。」

 ほんとうは、ナユタは、「古代には戦争があり、決して神々も人間たちも心豊かに生きていたわけではなかった。むしろ、いろんなものに心を軋ませていた。現代の何倍も辛苦をなめさせられた者も多い。」と言おうとしたが、それはやめた。

 少なくとも、「現代の神々は多くの知をもってはいるが、本来的なものへの眼差しを失っている」というのはどうも本当らしく思えたからだった。

 その代りに、彼はこう言った。

「かつて地上でマティアスという音楽家と一緒に過ごしたことがあってね。あの有名なマティアスだ。その彼はこう言ったことがある。自分は自分の音楽がどこかへ向かうのを望んではいない。音が音の行くところに任せ、音を在るがままにしておきたいとね[4]。そうすれば、音楽は流れ続け、どんなドラマも生み出しはしないし、静止した音の列がただ続くだけだ。木の音はそんな音だね。木の音には命が吹き込まれているように思えるよ。」

「そうね。音はただあり、ただ生きている。そして、木の音は古代の原初の音に通じるわ。」

 そう言った彼女の言葉は、確かに真を突いていただろう。それは、かつてバルマン師が悟り、エシューナ仙人が奏でた真の音そのものであるかもしれなかった。

 無機的な音が命を持っていることに耳を傾けねばならなかった。それは、始まりと終わりがある音楽とは異質の音楽であった。すべてが偶然に捧げられるわけでないとしても、偶然が場を占める音楽であった。

 ナユタは思い出したように言った。

「そう言えば、かつてエシューナ仙人が言っていた言葉を思い出したよ。こんな言葉だった。『音楽は抽象でなくてはならない。何かを描くのではなく、描くことができない、ただある音を奏でる。それが真の音楽だ。だから、夢を説明できないように、音楽を説明することもできない。捉えられないもの、けれど、そこにあるもの、それを奏でるのだ。』たしか、そんな言葉だった。」

 エシューナ仙人。それは伝説の仙人としてナスリーンも知ってはいたが、会ったこともなければ、その音楽を耳にしたこともなかった。

 ナユタはエシューナ仙人のことを語り、そのうち一緒に会いに行こうと約束した。

 

 ナスリーンはすてきな女神だった。彼女の中にあるものはいつも謙虚さであり、いささかなりとも傲慢とかうぬぼれというものを感じさせなかった。これまでずっと自分の音楽のための木を求めて田舎を訪ね歩いてきた彼女は、およそ豊かな生活とか、世間的な意味での成功とか、名声とかを求めていなかった。譲歩や愛嬌や仲間作りや伝手などで成功を増やそうとは努めていなかった。いかなる虚栄にも惑わされず、自由で朗らかな生き方に身を任せているのだ。

 そんなナスリーンとの出会いは、リリアンにとっても嬉しいことのようだった。リリアンはナスリーンを姉のように慕い、ナスリーンもリリアンを妹のようにかわいがった。ナユタは、かつてのトゥルナンでのニェタンとクララの姿を思い出した。

 ある日、リリアンとナユタとナスリーンの三人で風の館でランチをとっていたとき、ナスリーンが不意に、

「高原に来て良かったわ。都会だけじゃ息が詰まるものね。リリアンもそうじゃない?」

と言うと、リリアンはこう答えたものだった。

「私もそう。都会で育ち、学校にいた頃、ほんとうのことを言うと、生きていることが味気なく、よそよそしく感じられたわ。何のために自分は生きているんだろうっていう思いがいつも心のどこかで疼いていた気がする。」

 そして、リリアンは付け加えた。

「でも、ナユタが、その混沌の淵から私を救い出してくれました。」

 彼女は昔のことを思い出すように続けた。

「私はここに来るまで孤独だった。両親も、兄弟も、芸術院の仲間たちも、そして他の誰にしても本当には私のことは分からなかった。私が心の中で見ている世界、私が心の中に抱いている目標、そして、私が歩いている道、それは周りのみんなからはるかに遠く隔たっていて、誰も理解できなかった。だから、学校に行っていた頃も芸術院でも、いつも孤独で、しばしば惨めな気持ちで生きていた。私はひとりぼっちで、周りの人は別な方向を向いていた。私を温かく迎えてくれる場所はどこにもないように感じてた。みんなは、世間の中での平凡な幸福の中に埋没して生きていて、関心を持っていたのは、現実の中でいかに立ち回り、いかに喜びを手に入れるかということだけだった。そんな周りの神々は光を浴びて輝き、私は隅っこの日陰でうつむいてうずくまっていた。私はただ、そんな回りの神々を批判的なまなざしで見つめ、共感できず、楽しい心とか弾む心といったものはなくしたままだった。だから私の叫びは突き当たる所がなくて、だから私のつぶやきは白いキャンバスに塗りこめられる色になるしかなかった。それで、それから逃れるように、絵に打ち込み、ドレッシェル先生の研究室で研究に打ち込んだけど、心を荒ませて生きてきたような気がするわ。」

 これだけのことを彼女が語ったのは初めてだった。そして、その彼女の言葉はまさに本心だったろう。絵の才能はあったが、仲間からは隔てられ、共感する者もない孤独が彼女の生活を埋めていたのだろう。彼女は、神々の世界、神々の生活に属してはいたが、それはむしろその中に閉じ込められ、その中に縛り付けられていたと言ってもよかったろう。彼女の心はその外に立っていたのだ。彼女は排除される異邦人であったのだ。

 彼女と一般の神々の間に横たわる淵は今もなお深いままだろう。そして、それは、ナユタと世間とを隔てている淵でもあったろう。

 ナユタとのここでの生活は彼女に心の潤いと安らぎを与えてはいたが、彼女は、神々の世界、そして世の神々と決して和解したのではなかった。

 実際、それは彼女の絵がそれを物語っていた。この高原に来て、彼女の絵は自由さと朗らかさと奔放さを取り戻し、かつての陰鬱さが漂っていた絵に代わり、朗らかさとのびやかさが入って来てはいたが、切り立った断崖の上を歩く彼女の心は、いつも、絵の中に現れる激しい赤や厳しい青の飛沫となって絵の連続性に深い裂け目を刻んでいるのだ。

 時々、ナユタはその絵をかつてのグスタフの音楽と比高することもできた。自然と超越的なものの交錯する彼の交響曲と彼女の絵には共通のものを感じ取ることができた。自然の中に心を沈め、そして心を研ぎ澄まし、真理を見つめようとするまなざし、それが彼女の絵から感じられた。

 リリアンの言葉に誘い出されるように、ナスリーンも心の内を吐露した。

「私も同じような気がする。私もバルマン芸術院の音楽科に合格して、両親はすごく喜んでくれたし、回りからは羨望の目で見られた。でも、入ってみると、習うのはただ単にこれまでの音楽の規則や法則や流儀。そして、そこにあるのは伝統と権威。どこにも自由の息吹きがなかった。もちろん、前衛的な音楽、まったく新しい実験音楽を模索している神々もいたけど、私とは肌が合わなかった。なんか、素朴さがないというか、テクノロジーに走っているというか。それで、芸術院は一年もせずに辞めて、旅に出たのよ。」

「ひとりで?」

 リリアンがそう聞くと、ナスリーンはうなずいた。

「そう。ひとりで。幸い、ギランダ法のおかげで質素に旅をするならお金には困らないものね。最初は、音楽を求めるでもなくただの放浪の旅だった。でも、世界が新鮮だったわ。生まれて初めてほんとうの意味で自由になった気もした。」

「でも、強いと思うわ。私にはそんな勇気はなかった。」

「ある意味、向こう見ずだっただけよ。」

 そう言ってナスリーンは笑った。

「それで、あるとき、回りに誰もいない野の中で、石笛を吹いたの。その時の気分について言えば、天地だけがこの音に耳を傾けているというような気分だった。そして、こんな演奏にふさわしい楽器は何だろうと考えていくうちに辿り着いたのが、木を叩くことだったのよ。」

 

 それからしばらく経って、秋も深まったある夜、ナユタは不思議な夢を見た。

 夢の中で、ナユタは、ふと泉のほとりに立っていた。静かな泉の音が光の中に流れ、鳥の声が生き生きと響いていた。すると、ひとりの白髪の老いた神が静かに歩み出て泉の前に立ち止まり、もっていた壺に水を汲んだ。その倦むことを知らぬ朗らかな笑い、子供らしさと不思議な落ち着きを持ったその老いた神にナユタは驚嘆したが、老いた神は来た時と同じように、物静かな足取りで向こうへ歩いて行ってしまった。ナユタは老いた神の影が向こうの林の中に消えるまで、心を捉えられて立ち尽くしていた。

 すると別の方からひとりの若い神が現れた。破れた衣服を纏った求道者で、清新で美しい表情だった。彼は澄んだ深いまなざしでナユタを見つめ、そして右手でゆっくりと不思議な図形を空間に描いた。すると世界は突然魔法にかかったように一変し、きらびやかな紋様と瞑想の内なる言葉とが星々の間を急旋回にいつまでもいつまでも回り続けた。どれほどの年月が経ったかと思われるほどの涯しない時間の後に、その回転は鈍くなり、そして不意に墜落して朽ち、灰になってしまった。

 ふと目をあげると、そこには朗らかな賢者のまなざしがあった。ひとりの神が淡々と光の中に立っていた。不思議な喜びを口元にたたえ、自己の内に閉じこもり、心に憂いがなかった。世界は、生起からも消滅からも離れ、光だけが明るかった。そして世界いっぱいに笑い声が聞こえました。おそらくは、仙人たちの笑い、誰でもない者たちの笑いだった。

 この夢から醒めると、ナユタは、自分の中に何か失ったものがあるに違いないというような強い感情に捉われ、突然、アシュタカ仙人を訪ねようと思った。

 アシュタカ仙人は、ナユタの家から車で二時間ほどのところにある別の高原のさらに奥に住んでいた。

 ナユタがリリアンとともにアシュタカ仙人を訪ね、リリアンがアシュタカ仙人に贈るためにもってきた絵を見せると、アシュタカ仙人は、じっとその絵を見つめて言った。

「才能とは輝かしいものじゃな。それはいかなる努力によっても得ることができぬしろものじゃ。ただ、才能だけでは真の輝きは得られぬがな。この絵はありがたくいただくよ。」

 その絵は、『空の中で、音の饗宴』と名付けられた作品だった。ナユタはアシュタカ仙人の言葉が気にかかって問いかけた。

「このようなことをお聞きしてお恥ずかしいのですが、才能以外には何が必要なのでしょうか。」

 仙人は、大きく笑って答えた。

「そんなことは、おまえもよく知っていよう。別に難しいことでもなんでもない。必要なのは、努力と経験、そして、真理を目指す心じゃよ。」

 ナユタは納得してうなずいたが、さらにアシュタカ仙人に問いかけた。

「今回、訪問させていただきましたのは、リリアンを紹介したかったこともあるのですが、何より、世界はこれからどうなるのか、世界の在るべき姿はなんなのか、ということについておうかがいしたかったからなのです。」

 この質問を聞くと、アシュタカ仙人は真顔になり、姿勢を正して答えた。

「まず、世界がどうなるかじゃが、それについては、わしなどより、ウパシーヴァに尋ねるのが良いのではないかな。ウパシーヴァがこの神々の歴史を透徹したまなざしで見通し、未来についても類まれな洞察力を有しておることはおまえも知っていよう。そして、世界は生起すべきものが生起するだけの世界じゃ。」

「それは、たしかに、その通りと思います。」

 そうナユタが答えると、アシュタカ仙人はさらに続けて言った。

「だが、その世界の中で我らがどうするか、あるべき姿はなんなのかということはまた別の問題だ。そのそも、この神々の世界でも、そして、創造された人間たちの世界でもそうだったが、この世界の内では、さまざまなものがこの世界の内で生きることに価値を付与し、生きることに価値があると世界の内の存在者たちに思わせるような構図が作り上げられている。そして、神々も創造された人間たちもその幻想の中で生きてきた。そんな幻想の中で、世界は熱に浮かされ、興奮と感興によって高ぶった時間が延々と続いている。それを批判する気はない。ただ、はっきり言えることは、神々はただ時間を浪費しているだけだということだ。浪費して何が悪いのかと問われれば、別に何も悪いわけではないかもしれぬ。ただ、ともかく、それは浪費だ。」

「では、浪費でない在り方とはどういうものでしょうか。」

 そう問いかけたのは、リリアンだった。

「何が浪費でないかを答えるのは簡単なことではない。だが、そなたは絵を描くとよかろう。才能もあるしな。自らを突き詰め、真理を求めること。この世界の根源に突き当たり、その驚愕の実態を理解することだ。そこから道は始まるだろう。もっとも、パキゼーはそれもまた空であると言うであろうがな。」

 リリアンはアシュタカ仙人に言った。

「ときどき思うのですが、世界は美しいけれど、この世界の中の生はあまりにも滑稽に思えます。そして、なんと私たちたちは愚かなことに囚われていることだろうとしばしば思います。」

 アシュタカ仙人はうなずいて答えた。

「たしかにそうだ。良いことにせよ、悪いことにせよ、およそ望むこと、求めることそれ自体が滑稽なのだ。存在というものの深みにまなざしを投げるとき、すべての行為は滑稽に思える。」

「でも、世間の神々はそうではありません。私がともに生きていた世間の神々はこの世界を自分が生きるべき世界と信じ、自分が存在していることを自明のことのように感じています。彼らはまったく幸せに生きています。」

 ナユタが口を挟んだ。

「でも私もそしてリリアンもそうではありません。私はしばしば、この世界というものは自分がいるべき世界ではない、自分は場違いにもこの世界にいると感じ、当惑します。けれど、一方で、その私自身は迷いに満ち、根源的でないものに流され、それが根源的でないと知っているものに左右されています。」

 アシュタカ仙人は大きくうなずいて言った。

「自分とは誰なのか。自分は何のために存在しているのか、ということを自分自身と向かい合うことによって問い詰めることだろうな。その問いを世の中で見つめていても真の答えは得られまいな。世のためになっているとか、他のためになっているとかいうように、自分の価値を他のものに定位したのでは、真理には行き着くまいな。無に等しい冷徹な宇宙の中で、小さな星屑のごとき存在である自分自身と向き合う中で、その問いを問い詰めること、そのことによってのみ、真理は見られ得るだろうな。」

「かつてパキゼーはその問題をもっとも明解に解き明かしました。すなわち、明知に立脚していないことによって一切の迷いが生じ、その無明より苦が生ずると説きました。」

「その通りだ。だから、パキゼーの悟りは至高の輝きでもある。ただ、ユビュやヴィクートのようにそれに帰依するだけの生き方以外に別の道が存在しておかしくないのではないかな。わしには、おまえたちはそんな道を歩いているように見える。その道で何が得られるのかは分からぬとしても、その道を歩いてみるのも良いのではないかな。」

 この言葉に、ナユタとリリアンがうなずくのを確認すると、アシュタカ仙人は言った。

「おまえたちがどんな道を歩くか、そこから何が生み出されるか、わしは楽しみにしておるよ。」

 それは厳しい導師の顔ではなく、かわいい孫を見る老人のような表情だった。

 

 それから冬が近づいてきて、冷たく厳しい風が舞うようになり、山が白い雪をかぶるようになった。何日か続いたみぞれ交じり雨の後のある夕暮れ、空が澄んで晴れ上がると、空と白い雲の下で冷たい風が心地よく揺れた。

 そんな日には、再び心になにかしら清々たる響きが呼びさまされ、再び光が灯されたという気分になるものだった。世界が再び分をわきまえた落ち着きを取戻そうとしているのが予感された。激烈な叫びの中で極限に向かって破壊を望む鬼神の嵐が吹き荒れることはもはやなく、再び真理にまなざしを注ぎ、光を見つめることが可能なのだ。

 その日の夕食時、ナユタはやや唐突に言った。

「ところで、ぼくは山に登ろうと思ってね。」

 それは高原に移る前からナユタが考え、心に秘めていたことであったが、口にするのは初めてだった。リリアンはちょっと驚いたようだったが、ナユタは笑って続けた。

「なにも本式の登山家を目指すわけじゃない。ただ、この近くにもいろいろ山があるしね。まずは、この窓から見えるあの山に登ろうと思ってるんだ。」

 そう言ってナユタは窓の外の山を指差した。

「高さは?」

「ええと。たしか、二千五百メールとくらいだったと思うけど。アミティス、分かる?」

 問いかけられたアミティスは即座に答えた。

「二千五百三十一メートルです。」

「結構あるわね。」

「でも、ここの標高が千五百メートルくらいだし、車で千八百メートルくらいのところまで行けるから、それほどでもないと思うよ。」

 軽い口調でそう言ったナユタはなんとなく楽しそうだった。

 次の日、アイゼン、ピッケルなど、ナユタがネット注文していた登山道具が次々と届いた。ナユタはそれらを一つずつチェックし、使い方を習得し、登山の準備を進めた。

 それからしばらく経ったある晴れた日、ナユタはひとりで登山に出かけた。アミティスの車で少し標高の高いところにある駐車場まで行き、そこからナユタはリュックを担いで誰もいない山道を登った。ただ黙々と黙って道を登り続ける時間。それはナユタの心に何かが染み入る時間、心が何かに沈潜してゆく時間でもあった。

 樹林帯の静けさの中を黙々と歩き続け、そして、樹林帯を抜けると、突如として、眩しいほどの一面の白の世界が広がっていた。眼下にはシュンラットの高原やその向こうの山々も見渡せた。ナユタは大きな石の上にリュックを置いて腰を下ろした。汗を拭いて、アミティスが用意してくれた暖かいお茶を飲むとなんとも言えぬ幸せな気分だった。

 そこから、アイゼンを付けて山頂を目指すと、ナユタは心の高鳴りを覚えた。明るい静かな光を登ると、白い雪が世界に反射し、近くの切り立った岩峰や向こうの雄々しい山々が世界の隙間を埋めていった。

 世界はなんと新鮮な光に満ち満ちていることだろう。その光が扉をたたくとき、新しい法則の新しい音楽が自然と生まれ出ようとし、より高いもの、より自由なものへと駆り立てられる。

 そんな思いがナユタの心に突き刺さった。そして、何ものかへのあこがれが、白い稜線へ、空に突きささった岩峰へ、空の青い光へと広がっていった。大空の青さが心を燃え立たせ、涯しない時空の広がりが何ものかに凝集しようとする瞬間だった。太古以来の明るさ、太古以来の静けさがそこにはあった。時間の流れがこの一瞬に凝固しているかのようだった。

 頂上に着くと、広大な景色が見渡せた。眼下には高原が見えたし、遠くに見える雪山の連なりも素晴らしかった。ナユタは誰もいない山頂でアミティスが用意してくれたおにぎりを頬張り、静かな時間を楽しんだ。しばらくして、リュックにムックリを入れていたことを思い出し、ナユタはそれを取り出して奏でた。ムックリの凛とした響きはその雪の世界の中で弾けるように流れ続けた。

 その後も、ナユタはしばしば雪山に登った。テントを張って泊まってくることもあった。そんなとき、夜の星空をひとりで眺めると、ふとかつてマティアスとともに行ったトゥルナンで見た夜空が思い出されるのだった。

 また、晴れた日だけではなく、荒々しい吹雪の日に出かけることもあった。そして、ナユタは何時間も黙々と歩いた。それはある意味、沈思の時間でもあった。

 自分は世間の神ではない。自分は処世術に身を任せ、幸福を追求する神ではない。この宇宙の中で歩いてきたそれまでの道を思い返すと、自分は光に導かれるひとつの試みなのだ、という思いが心の中に再び浮かんできた。

 ヴァーサヴァの七本目のブルーポールを折ったこともその試みであり、自分は試みられているのだという思いだった。ヴィカルナ聖仙との出会いも、ナタラーヤ聖仙との出会いも、そして、バラドゥーラ仙人との出会いもそうだった。

 だが、同時に、歩いてきた道は改めて苦い味がした。そして、流れ過ぎたものはどうしようもなかった。けれど、ほんとうは、過去を向いて歩くのではなく、新しい道へと歩き出さねばならないのだ。だが、その道はどこへ向かっていたのか?いったい何を目指すべきなのか?ナユタは考え込みながら、黙々と山道を歩いた。

 すると、パキゼーのことが鮮やかに心の中に蘇ってきた。パキゼーが四つの苦について語っていたことが思い出された。生、老、病、死という四つの苦。そして苦を滅する道をパキゼーは説いた。けれど、真の苦は、その道、そしてニルヴァーナ自体にも何の根拠もなく、なんの意味もなく、まるで荒野の瓦礫に等しいということだった。すなわち、存在者が存在することの意義に対して加えられるカオスの挑戦に優る苦はなかった。けれど、一切は空というカオスからの挑戦が、そのまま一切は空であるという新たな朗らかさと新たな悟りに転化させられるという点にこそ、パキゼーの悟りの源があった。

 人であれ、神であれ、皆、「空」というふるさとから歩み出てきているのだ。それは自我の獲得として、自己と存在との、自我と世界との根源への問いとしてである。その問いが自己を揺さぶり、日常性に依拠する白日の平安を打ち壊す。パキゼーは、世俗の生活の中でそのことに気付かされて、自己の根源を根底から揺さぶられて驚愕しただろう。だが、ともかく、パキゼーは道を見出した。

 しかし、自分は道を見出していない。ナユタはそう思わざるを得なかった。自分はどこかから出てきて、そして、求め続け、同時に、駆り立てられ続けたのだ。そして、それは本来空であったものからひとつの虚妄によって展開されたものなのだ。その虚妄とは自我のかけがえのなさ、真理が存在し、かつそれが具現化されるべきだ、などということなのだ。自分を宇宙の涯てから出てこさせてもの、それ以来自分を駆り立てて来たもの、それこそが愚かな迷いでもあったのだろう。だが、出てきた以上、帰ることはできなかった。それはなぜか。結局、依然として、迷いの中にいるというだけのことかもしれなかった。

 そして、どこにも真実なものはつかめなかった。パキゼーのみは真理だったかもしれないが、神々の世界のために戦ってきたことも、その成果も何一つナユタを満たしていなかった。ただ、音の道だけがナユタを満たしていた。だから、ナユタはこの高原に来たのだろう。そして、リリアンもナユタを通じてようやく自己の道を見出し、この森で仙人たちと交わり、心の通う神々との付き合いを見出したのだろう。

「ぼくのなすべきことは何か。浮遊する世界の中で突破してゆくこと、新しい地平へ超え出てゆくこと。それは光に従ってより自由に、より朗らかになることだ。」

 そうナユタはノートに書きつけた。

 昔はたしかに澄んだ心があったかもしれないが、今はそうではなかった。何かに脅かされており、そのために心は静まらず、苛立っている。それは自分の存在が宙に浮いたままでどこにも定位されず、カオスの荒波の前で自分の中の一切が砕けようとしているからだ。

 かつては希望と目標があった。歩いて行くことは良いこと、優れたこと、意味に値することであった。けれど今はそうではない。道の持つ意味は怪しくなり、ナユタには次第に信じられなくなっている。

 心が不安に駆りたてられ、信念の上に立って心静かに道を展開することができなくなっているのだ。巨大な迷いの中に自分がいることをナユタは自問せざるを得なかった。

 

 さて、年の瀬も押し迫るころ、ナユタとリリアンは、風の館での冬至祭のパーティに招かれた。

「ビハールのような華やかなもんじゃないけどね。こじんまりやりたいんだ。」

 そんなカウティリヤの提案に応えて、ナユタ、リリアン、ナスリーンが集まったのだった。

 そう言えば、昨年の冬至祭の日には、ナユタはリリアンとふたりでビハールのレストランで食事をしたのだった。その時は、レストランの窓越しに大きなツリーに飾り付けられた有機照明が、さまざまな幻想的な色のりん光を発していたのが印象的だった。街では、男神と女神とのカップルが無数に集い、このお祭りの日を特別な自由性愛で楽しもうとしている姿が見て取れたものだった。

 今年の冬至祭のパーティは、ナユタがもってきたハーブ酒の乾杯で始まった。これはナユタがアミティスと一緒に庭で育てているハーブを用いてアミティスが作ったお酒だった。

 乾杯の後、サナムが写真を一枚取り出した。それは、秋の夕暮れに黄金色に輝く落葉松の林を撮ったもので、青い空の下で吹きそよぐ風が感じられる作品だった。

 カウティリヤがこの写真を風の館の壁に飾ると、次はリリアンの番だった。彼女は、最近描いていた『鳥』の連作の中の一枚を持ってきていた。絵のどこにも鳥らしきものは見当たらなかったが、鳥が持つ自由に飛翔するイメージが伝わってくる作品だった。

 この絵も壁に飾ると、カウティリヤは自分の作品を披露した。最近作った土偶だった。

「まだ、荒削りだけどね。」

 そうカウティリヤは言ったが、真摯さと奔放さを併せ持った作品だった。

 抽象的で尖鋭化されたフォルムと土の持つ朴訥とした感じとの不思議な調和が醸し出す響きが心を打った。

「次は、ナユタさんとナスリーンさんに演奏してもらいたいのですが、できれば、これを演奏してもらえないかと思いましてね。」

 そう言ってカウティリヤは部屋の一隅に置いてある土器の一群を示した。それらの土器には皮が張ってあり、カウティリヤはその土器を指差しながら説明した。

「この土器は、土偶と同じ時期に作られていた土器を真似て私が焼いたものなんです。その手本にした土器というのは、口の表面が平らなのが特徴で、また、口の周りに穴が一列に空いています。出土したこのような土器を見て地上の音楽家の一人が、楽器だと直感して演奏を行ったこともあるそうですが、それで私も同じような土器を作って、この口の周りの穴は皮を張って皮を張ってみたんです。」[4]

 ナユタもナスリーンも興味深そうにそれを眺めていたが、カウティリヤが撥を渡すと、ナユタはそれらの土器を次々に叩いて、

「良い響きだ。まるで大地に共振するかのような深みがある。」

と言い、

「古代の書を読むと、池に降り落ちる雨の滴を一つ一つ聞き分けながら違った音を出す太鼓を作っていったという説話があるが、この太鼓はそんな音を思い起こさせてくれるようだ。」[4]

と語った。

 ナユタとナスリーンとはそれぞれ撥をとり、音を奏でた。ふたりは、初めて耳にする音に心を沈めながら、素朴な響きの音を重ねあわせた。

 それは美しい時間だった。それから、カウティリヤの妻のクリスティーがふたりの子供をつれて入ってきて、子供たちは、両親からとお客たちからそれぞれプレゼントをもらった。ナユタたちがプレゼントしたのは、大きなウサギのぬいぐるみだった。リリアンとナスリーンが相談して選んだもので、大きな目が愛くるしく、かわいらしい子供服を着ており、椅子にちょこんと腰掛けさせることができた。ふたりの子供たちはそれぞれ貰ったウサギのぬいぐるみを抱え、大喜びだった。

 そのあと食事になったが、食事が終わると、みんなで外に出た。満天の星空だった。

「太古の時代と同じ星を見てるのね。」

とリリアンがささやいた。

 しばらくみんな星空を眺めていたが、カウティリヤが、

「中に戻ってワインを飲もうじゃないか。」

と声をかけ、室内に戻ったみんなのグラスにワインを注いで回った。

 ナユタは、ナスリーンのそばに座ると、語りかけた。

「リリアンはここに来てずいぶん元気になったし、明るくなったよ。都会ではいろいろ挫折や苦労もあったようだけどね。それにここで君に出会えたのも良かったよ。」

 そのリリアンは、カウティリヤと土偶の造形の話で盛り上がっていた。

 それからサナムがナユタとナスリーンのところにやってきて、

「最近、登山を始めたそうですね。」

と話しかけてきた。ナユタが登山の話をすると、サナムは今度ぜひいっしょに連れていって欲しいと言った。雪山の写真を撮りたいというのが彼女の希望だった。

 ナユタはにこやかに答えた。

「仲間ができてうれしいよ。ここにはそんなに厳しい山はないから、いろいろ登ろうじゃないか。それにしても雪山は良い。荘厳で厳粛で、孤高の美しさをもっている。」

 それからサナムの写真の話、カウティリヤの土偶の話、リリアンの絵の話、ナスリーンの音楽の話など、さまざまな話題で盛り上がった。まさに素敵な時間だった。

 

 それから、お正月になった。お正月休暇の期間はこの高原も都会からの客で騒がしかったが、お正月休みの喧騒も一段落し、高原に再び閑静な時間が戻っくると、ナユタは久しぶりにひとりで風の館に行った。

「今日はカウティリヤは外出なんですよ。」

 そう言ってサナムがナユタを迎えてくれた。クリーム色のエプロンがかわいらしく、髪を束ねるシュシュも素敵だった。

 ナユタがコーヒーを頼むと、彼女は

「一緒にお茶していいですか?」

と言い、カウティリヤの妻のクリスティーの許可を取ると、コーヒーを二つとお菓子をもってきてくれた。

「お菓子は奥さんからのサービスです。」

と彼女は言い、それからふたりは今度行く登山の計画なども含めていろんなことを話した。

 ほんとうに純情で、明るくくったくのない女の子だった。おそらくはナユタがもっていなかったもの、ナユタが失ってしまったものをすべて持ち合わせているような女の子だった。

 登山の話が一段落すると、会話は彼女の話を中心に回り、一つの話題から次の話題へと次々に飛び移った。そののびやかで素敵なこと、まるで恐れを知らず、夢とあこがれに満ちているのがよく分かった。

 次の登山の計画も決まり、ナユタは楽しい気持ちで店を出た。ただ、代金はすべて自分が持つとそっとクリスティーにささやくことを忘れなかった。

 その夜、ナユタがひとりで部屋にいると、ひんやりとした夜の沈黙に犬の遠吠えが長く尾を引いた。ナユタは窓辺にたたずみ、夜が世界にしたたり落ちて存在者の黒い影をゆらゆらとゆらめかせるのを静かに見つめた。

 すると、昼間、サナムと過ごした楽しい時間がナユタの心によみがえってきた。ただ、それは、現実の中での瞬時の花火のような楽しさでしかなく、捉えようとしても一瞬の後にははるか遠くへ流れ去り、はかない余韻を残すばかりの時間でもあった。

 ナユタは心の中でつぶやいた。

「流れ去るのは現実の中での喜びや苦しみだけではない。崇高なもの、偉大なもの、絶対的なもの、本来的なものもまたそうなのだ。真理もダルマも無常世界の中に囚われており、一切が瓦解する運命を担っている。誰が、不滅の真理だの、絶対の法則などと言ったのだろう。ぼくにはそれをあざ笑うカオスの声が耳をついて離れない。砕けるものは砕けるがいい。死神よ、カオスの使者よ、砕くべき運命にあるものはすみやかに砕いたらどうなんだ。」

 けれど、黒い沈黙の中では凍りついたように流れが止まり、存在の本質と自分とを結びつける糸は隠されていた。この世界のものでないトルソのような眼差しだけがすべての由来を見つめているのだ。

 窓を開けるとひんやりとした冷たい空気が流れ込んできて、風がゴーゴーと山を駆け下りるのが聞こえた。その音を耳にしながら座る自分は、けれど過去の自分ではなく、未来の自分ではなく、けれど現在の自分でもなかった。それはもはや自分ではなく、根拠のない空性の中の形を持たないなにものかにすぎない。そんな思いがナユタの心を駆け巡った。

 真理は依然として闇に覆われ、ほんとうには輝いていないのだ。

 

 数日後のある晴れた日、ナユタはサナムを連れて雪山に出かけた。サナムにとっては初めての雪山ということもあり、ナユタはあまり遠くない山の中の雪に埋もれた湖まで行ってテントで一泊することにした。

 ナユタが車で迎えに行くと、サナムは既に準備して待っており、

「今日はいい天気ですね。わくわくします。」

と屈託がなかった。リュックなどを車に積み込むと、カウティリヤ夫妻が

「じゃあ、気を付けて。」

と笑顔で送り出してくれた。

 アミティスの車が坂道を登ってゆくと、サナムが歓声を上げた。

「素敵な景色。夏にもここは通ったけど、全然違う景色。」

「冬にこの道を通ることはほとんどないからね。ゆっくり景色を楽しむといいよ。」

 車が大きなカーブを曲がると、ナユタが下の方を指差して言った。

「あそこが風の館だよ。」

「ほんとだ。ほんとに雪の中にぽつんとあるのね。」

 しばらく走って、車は駐車場で停まった。ナユタはリュックを担ぐと、アミティスに言った。

「じゃあ、行ってくるよ。また連絡するけど、戻ってくるのは明日の昼くらいかな。」

 ふたりは夏の散策のための樹林帯の中の遊歩道を進み、さらに誰もいない雪に覆われた湖のそばを通り抜け、樹氷が続く平原に出た。

「これが有名な樹氷なんですか。」

とサナムは目を輝かせ、何度もカメラのシャッターを切った。

 そこは一面の雪世界で明るい光に包まれていた。明るい光、澄んだ光が喜ばしく、木立から漏れる光は不思議なまでにきらびやかだった。

 それから尾根伝いに登って山頂に立つと、延々と向こうに続く雪の山脈を眺めることができた。枯れ木たちがさまざまな不思議な表情で起立し、朗らかな笑いが世界を包んでいた。すべてがおとぎ話のようで、雪の中の素敵な時間が過ぎていった。

 山頂でナユタはお湯を沸かし、ふたりはアミティスが用意してくれたお弁当を食べた。それはナユタにとっても、心をときめかされる時間だった。使命を果たすために道を歩いてきたナユタにとって、くったくのないのびやかなサナムとの時間がこれほど心を喜ばすというのも新鮮なことだった。

 ふたりはさらに尾根伝いに歩き、夕方、少し下って凍った湖のほとりでテントを張った。夕食は、ふたを取るだけであつあつの料理が出来上がる携帯食で、十分においしかった。

 食事が終わると、サナムは、

「今日は特別なデザートを用意してるんですよ。」

と言って、ザックから袋を取り出した。そして、彼女は、皿に外の雪を載せ、袋からアズキ、ホイップクリーム、カスタード、イチゴなどを取り出して、

「好きなものを載せて食べましょう。」

と言った。ふたりはそれぞれ好みのものを載せたが、それが出来上がると、

「こんな天然のパフェを一度やってみたかったんです。」

とサナムは楽しそうに言い、写真を撮って、さっそく、フレキシブル有機発光ディスプレイパッドで、アップしていた。

 それからテントの中でサナムはさまざまなことを語った。都会にいる友人たちのこと、風の館での生活のこと、風の館にやってきたお客たちのこと、写真のこと、これからの未来のことなどだった。そのいずれもナユタには新鮮だった。自分はなんとそんな日常からはるかに離れたところで生きてきたのか、と改めて感じざるを得なかったが、ともかく、それは楽しい時間でもあった。

 また、同時に、彼女の写真に賭ける並々ならぬ情熱とその観察眼とセンスには感心させられた。

「その写真の向こう側にあるもの。」

という表現を彼女は何度も使った。撮されたものを通して、その撮されたものが持つ本源的な何かを描き出すこと、それが彼女の目指すもののようだった。

 そんな観点から、彼女は普通の風景写真ではなく、これからはポートレートを撮りたいとも言った。

「でも、撮すべきものは考えても見つからない。瞬間瞬間に見えるんです。」

と言う彼女は、

「ナユタさんも撮って良いですか。」

と訊いた。ナユタが、

「ああ、良いよ。」

と答えると、屈託のない笑顔の返事が返ってきた。

「ありがとうございます。実はこれまでも撮してたんですけど、これからは大手を振って撮させてもらいます。」

 次の日はあいにく天気が悪く、ただ山を下るだけだったが、それでも彼女はたいへん満足したようだった。彼女は何度も、

「また、一緒に行きたいなあ。」

と言ったが、ナユタにとっても楽しい登山の二日間だった。

 

 さて、バルマン音楽院でナユタが知り合ったピアニストのシュヴァイガーがこの高原にやって来たのは、高原が雪の静けさに閉ざされた一月の終り頃だった。

 彼は基本的にはビハールで活動していたが、ナユタの家から車で三十分ほどの湖のそばに前年に建ったリゾートホテルに泊まりに来ているのだった。

 シュヴァイガーはナユタの家にやって来ると、

「良いところに住んでおられますね。静かで良いところだ。」

と挨拶した。

「いただいたメールによれば、こちらへは時々来られるとのことでしたが。」

と応じたナユタに、シュヴァイガーは笑って答えた。

「正直言うと、ときどき逃避したくなるんですよ。ビハールはたしかに音楽活動をするには適した場所ですが、でも、ときどき、気が滅入りましてね。ここの空気は良い。生き返った気分ですよ。」

 リリアンも交えて三人はしばらく近況などについていろいろ話をしたが、そのうち、シュヴァイガーは、壁に飾ってあるリリアンの作品『沈黙の空』や『古代譜』を指して言った。

「古代譜は謎に満ちている。沈黙の空もそうだ。時間と空間、天と我々の関係について訴えるものがありますね。」

 そして、彼は、リリアンが古代譜の中に描きこんだ象形文字のような記号が、ちょうど古代の占星術師たちが解き明かそうとした天地の理について語っているように思えるとも言った。

 それから数日経って、シュヴァイガーは再びナユタとリリアンを訪ねてきた。

「古代譜には古代の響きがある。これをモチーフに曲を作りました。ぜひ、聞いて欲しんです。もっともこれは即興の曲なんで、このメモリに入っているのはその断片の一つの即興演奏にすぎないですがね。」

 ナユタがメモリに入った曲を再生すると、それは不思議な韻律が交錯する呪術的なイメージの曲だった。ナユタは、かつてトゥルナンで聞いた音楽を思い浮かべながら言った。

「かつて地上でトゥルナンという地方で暮らしたときに聞いた韻律に似ているように思えますが。」

「それは否定しませんよ。ぼくはトゥルナンの音楽についてはかなり研究をしましたから。ぼくがマティアスの音楽をもっとも重要視しているのは知っておられるでしょう。だから、彼がトゥルナンについて書き記したものはすべて研究しましたのでね。」

 そう言われてみれば、たしかに、マティアスの演奏家を自認する彼が、トゥルナンの音楽に精通しているのは何の不思議もないことでもあった。

 その曲は、前衛でありながら、不思議なまでに懐かしい響きのする曲であり、偶然性が加味されていながら、この世界に横たわる必然を奏でているように聞こえた。心を高められ、別の次元にいざなわれるような音楽。そのシュヴァイガーの響きが新しい新鮮な風をナユタの心に吹き込ませてもくれた。

 

 シュヴァイガーがビハールに帰ると静かな日々が続いた。晴れた日には、しばしば、リリアンと一緒に高原の雪道を歩いた。

 ある日、ナユタとリリアンが近くにある凍った池のほとりにやってくると、光が強烈で、氷のように冷たく純粋に、きらめくように空間に舞っていた。真っ白な雪山が無言でそびえ、空が青く輝き、遠くの林が朝の光で真っ赤に燃えていた。池の回りの木々たちが光を発しながら朗らかに笑い、世界はあたかも今創造されたばかりのように輝きと新鮮さに溢れていた。誰もいない空間に高らかにシンフォニーが鳴り響き、愉悦に満ちた光の輪舞が見えた。

 不意に歓声が聞こえた。見ると、サナムがカウティリヤ夫妻のふたりの子供たちと一緒にスケートに来ていたのだった。サナムはナユタらに気付いて手を振り、三人は楽しそうに池の上で遊び続けた。きらきらと光の舞う池の上で、サナムたちの姿はあたかも自由な超在の遊びのようにさえ見えた。

 そしてまた、ひとりで雪の高原を歩く日も多かった。ナユタは、ひとりで雪の中にたたずみ、延々と降り続く雪の世界をながめたり、晴れた日には明るい光の中で黙想した。

 

(注)

[1] 「テヒリム」(Tehillim / 1981)はスティーヴ・ライヒ(Steve Reich / 1948-)の代表作の一つ。

[2] 「ホー・バン」(Ho Ban)は、カール・ストーン(Carl Stone / )が高橋アキのために作曲したピアノとエレクトロニクスのための作品。高橋アキが演奏したサティのジムノペディ1番をテープ処理した曲で、1984年にCarl Stoneが初来日した時に初演されている。

[3] ナイン・ポスト・カード:日本の環境音楽の草分け的存在とされる吉村弘(1940-2003)の代表作の一つ“MUSIC FOR NINE POST CARDS (1982)”がモデル。

[4] ケージ『小鳥たちのために』(1976, 青山マミ訳, 青土社)を参照・利用させていただきました。(p.69-71

 

20171219日掲載 / 最新改訂:2019526日)


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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第6巻