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神話『ブルーポールズ』

【第6巻】-

向殿充浩

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 冬が近づくころ、ナユタはある週末、リリアンを連れて森に帰った。それはほんの日帰りの旅ではあったが、リリアンにとっては珍しいものだらけのようだった。

 ナユタがウパシーヴァ仙神の新しい家を訪ねると、ウパシーヴァ仙神は笑顔で出迎えてくれた。

「やあよく来たな。こちらがリリアンさんか。よろしく。ここは田舎の一軒屋で、都会の若い女神には似合わんかもしれんがね。」

 新しい家は小さいがこぎれいだった。今までの家との大きな違いは、玄関を入ると履物を脱ぐ構造になっている点で、ナユタとリリアンは畳の敷いてある部屋に通された。畳の部屋のソファーに腰を下ろすように言うと、ウパシーヴァ仙神は、自らお茶とお菓子を持ってきた。

「ここにはロボットはおらんからな。」

「政府はロボットを無償貸与すると言っていますが。」

 ナユタはそう言ったが、仙神は笑いながら答えた。

「ああ、そうじゃよ。だが、わしにはロボットはいらん。ロボットには気を使わなくて良いとはいうが、家の中に別の誰かがいるのは落ち着かんしな。」

 一通りの近況報告やリリアンの紹介などが終わると、ナユタは言った。

「かつて、ウパシーヴァ仙神は世界の進歩、そして進歩の終焉を予見されました。しかし、それは技術の世界のことです。芸術はどうなのか、それを議論したくて、やって参りました。」

 この言葉にウパシーヴァ仙神が「なるほど。」という表情でうなずくと、ナユタは続けて言った。

「芸術は行き詰まっているのか?すなわち芸術の進歩は終焉するのか?それともさらなる可能性があるのか。これは技術の進歩とは別の次元の、そしてまた重要なことのように思えるのです。芸術には二つの側面があることを、ビハールに出て改めて学びました。一つは社会との関わり。もう一つは芸術自身の自律的な進展です。」

「その通りだ。社会が新たになると、その社会に見合った新しい芸術が生まれてくる。だが、今、世界が進歩の終焉に直面し、変化のない安定した社会となったこの時点では、もはや社会からの新しい要求は起こらないだろう。そして、芸術自身の自律的進展という視点で言うと、芸術のある可能性が見出されると、それは徹底的にそしてさまざまな点からその可能性が試みられ、汲み上げられる。そして、それが突き詰められたとき、その可能性は汲みつくされたものとなり、もはやその様式では誰も偉大な芸術を作れなくなる。だから、真の芸術家は新しい技法を取り入れてきた。古い様式では、新たな地平は切り開けないからだ。そして、芸術の可能性は今やあらゆる可能性が汲みつくされているように見えなくもない。ただ、神々は常に新しい刺激を求め続けるから、常に新しいものは生み出されるだろうが、それは必ずしも新しい芸術を拓くということではないからな。」

 この言葉に、リリアンの表情は引き締まり、緊張して、ウパシーヴァ仙神の次の言葉を待った。ナユタが発言した。

「では、芸術の自律的進展がもはや起こらない地点に至り、また、社会も変化のない安定したものとなって新たな芸術を欲しないとしたら、芸術にはもはや未来はないということでしょうか?」

 ウパシーヴァ仙神は、ナユタの目を見つめ、そして口調を変えて言った。

「ところで、真理は極められたのであろうかな。」

 ナユタが言葉を発しないのを見て、ウパシーヴァ仙神は続けて言った。

「真の芸術は常に真理と向き合っており、ある意味、表裏一体とも言える。もし、真理が極められたのなら、もはや芸術は必要ないと言っていいだろう。たしかに、ある意味では、パキゼーの法によって、真理は極められたと言えなくもない。だが、この現実の世界で、おまえもそしてわしも含めてだが、この現実の世界をパキゼーの法とは別の次元で生きている以上、我らにとって依然として真理は極められていないと言うこともできる。たしかに、パキゼーの法以上の真理はないのかもしれぬ。だが、我らがなお真理を求めているとするなら、なぜ、芸術だけが終焉することがあるだろうか。」

「芸術だけが終焉することはありえない。」

 そうナユタはつぶやいた。ウパシーヴァ仙神は力を込めて語った。

「そうだ。そして、真の創造者は孤独の中で道を歩む。既存の群れの中からは何も生まれはしない。ビハールにたむろする神々の有限な精神は、その閉じられた領域の中で心を楽しませているが、森の神々の無限を志向する精神は、未知なるものに向かって開かれている。世界は依然として未知なるものに満ち満ちているとは思わんかね。そして、真理を目指す者たちの中から、必ず何かが生まれてくるとわしは信じるよ。」

「では、そのときの様式はどうなるのでしょう。新しい様式が生まれてくるのでしょうか?そして、その様式と、これまでの芸術が進んできた道とはどういう関係になるのでしょうか?」

 このナユタの問いに、ウパシーヴァ仙神は、

「さあな。」

と笑った。

「それにな。古い様式はその可能性がすべて汲みつくされたと言ったが、それはひょっとすると思い込みかもしれんしな。古い様式の中から、何かがよみがえってくることがないとどうして言えよう。ただ、いずれにしても、それが社会から受け入れられるかどうかは別の問題だ。かつて芸術家は何世代も時代の先を行き、最初は受け入れられなかったが、そのうち偉大なものは認められ、受け入れられてきた。それはなぜか。それは、時代がその芸術家に追いついたからだ。だが、これからはそうはならぬかもしれん。進歩のない現状の安泰にあぐらをかいている今の神々、今の時代が真理を目指して芸術を突き詰める芸術家に追いつくことはないかもしれんからな。」

 この対話から明確な何かが得られたわけではなかったが、ナユタとリリアンは心に感ずるものがあったに違いなかった。

「真理が極められていない中で、芸術だけが終焉することはありえない。」

 そう語ったウパシーヴァ仙神の言葉は、ふたりの心に深く刻み込まれたようだった。

 そして、リリアンはこの日帰り旅行で触れた森の生活にもずいぶんと心を打たれたようだった。

 帰りの自動車の中で、リリアンはぽつりと言った。

「私も森に住んでみたいなあ。」

 ナユタは一瞬、横の彼女の顔を覗き込んだが、また前を向いてさらりと言った。

「ぼくはいつまでもビハールにいるつもりじゃない。そのうち森に帰る。いつでも来れるように君のための部屋も用意しておくよ。」

「ありがとう。じゃあ、一緒に住んでも良い?」

 考え込む風でもなく、あっさりとリリアンがそう言うと、ナユタは喜んでいった。

「それは嬉しいね。」

「それで絵も描けるかしら。」

「庭にアトリエを作ればいいかな。ぼくの音楽室も庭に作ろうと思ってるしね。ビハールと違て、土地は余るほどあるからね。」

「楽しみ。庭のアトリエで絵が描けるなんて夢のよう。」

 そう答えたリリアンの声が弾んでいるのを聞いて、ナユタはうれしかった。

「じゃあ、住む場所を見に行くかい。まだ、いつになるか分からないし、家も建っていないけどね。」

 そう言うと、ナユタは車のアミティスに家を建てる場所に行くように言った。その場所はウパシーヴァ仙神の家のある場所よりずっと高地にあり、道を進むにつれて、道の両側に雪が積もっているのが見えるようになった。

 その場所に着くと、そこは広々とした広場だった。ほとんどサッカー場が二つ入るくらいの広さがあり、周りにはカラマツの木が立ち並び、その向こうには雪をかぶった山々が見渡せた。

 車の外に出るとウパシーヴァ仙神の家のある場所よりずっと寒かったが、リリアンはその場所の静けさが気に入ったようだった。

「素敵な場所ね。どこに家を建てるの?」

「どこでも。この広場の好きなところに建てればいいんだ。」

 びっくりしたように、リリアンは聞き返した。

「これ全部がナユタさんの?」

「ああ、あの林の向こうにある小川のもっと先までね。向こうの山もそうだし。」

 そう言って、ナユタは南の広場の向こうの林と西の方の山を指差した。

「へぇ。全部でどのくらいの広さなの?」

「二千ヘクタールくらいあるんだ。財務長官のシャンターヤが話をつけてくれて、政府から買ったんだ。もっとも、実際にはぼくの預金を管理しているイルシュマが引き出して払ったんだろうけどね。」

 二千ヘクタールがどれくらいの広さかすぐにはぴんとこなかったが、とてつもなく広いことは間違いないようだった。

「それにしても良い場所ね。こんなに静かで。広々してるし。」

 鳥の声が林の上に響いた。風が林を揺らす音が静寂の中にこだました。その音に耳を傾け、リリアンは言った。

「ここで一緒に暮らす。夢のように素敵。」

 ナユタが森に帰るときにリリアンもついて来ることがあっさり決まった。心を通わせることのできるリリアンが一緒に来てくれるならナユタにとってもこのうえないことだった。

 帰りの自動車の中で、家のプランのこと、周辺の地理のこと、生活のために考えておいたり、知っておかねばならないことなど、さまざまなことが話題になった。ナユタがすぐに答えられないことも少なくなかったが、それだけリリアンがこの話にいかに乗り気になったかということだった。

 

 年が明けると、一月のある日、バルマン芸術院でシュヴァイガーという客員研究員がミニ演奏会を行うというので、ナユタは聞きに行った。前衛音楽の作曲家、ピアニストとして、多少注目される存在としてその名前はナユタの耳にも入っていたし、曲目にマティアスの代表作である『プリペアード・ピアノのための二十四の前奏曲とフーガ』が入っていたためだった。

 現代の音楽家は、この曲をどのように演奏するのだろう。そんな関心からナユタは聞きに行ったのだが、そのプリペアード・ピアノの音は、それまで聞いたこともないほど斬新な響きで、ナユタはその演奏に強く惹きつけられた。マティアスがあの苦難の時代に書いた音列が水晶の輝きのようにきらめき、マティアスの曲が新しい未知なるものを纏って響いているかのようであった。そしてまた、気負いもてらいもなく、端正な姿勢で淡々と弾き続けるシュヴァイガーの姿も印象的だった。

 演奏会が終わると、ナユタはシュヴァイガーに挨拶した。

「久しぶりに素晴らしい演奏を聞かせていただきました。ナユタと申します。」

 その神は少し驚いたようだった。

「初めまして。来ていただいてありがとうございます。まさか、ナユタさんが聞きに来ておられるとは思いませんでした。」

「今日の演奏は素晴らしかった。こんな斬新な音は耳にしたことがありませんでした。」

 シュヴァイガーはちょっと言い訳のような口調で言った。

「ナユタさんが地上でマティアスと交流があったことはよく知っています。おそらく、私の演奏はナユタさんが知っている演奏とはまったく違うかもしれませんが、私はこう演奏したいのです。」

 演奏しているときのちょっと神経質そうで緊張した雰囲気は消え、フランクで控えめな柔らかな物腰だった。

「たしかに、あなたの演奏は斬新で、かつての演奏とはまるで異なっている。マティアスもそんな風に演奏したことはなかった。でも、私の心を打ちました。」

 ナユタのこの言葉はシュヴァイガーを喜ばせた。

「よろしければ、ちょっとカフェにでも。ここはもう片付けを始めるはずなので。」

「それはありがとうございます。」

 ナユタがそう答えると、シュヴァイガーは会場の担当者に声をかけ、そそくさと片付けを始めた。

 カフェでナユタとシュヴァイガーはマティアスの音楽も含め、さまざまなことを語り合った。久しぶりに心を通わせることのできた音楽家だった。ナユタが感じたのは、シュヴァイガーの発想の自由さと卑俗なものに毒されない高貴さだった。

「偉大な音楽においては、すべての音がさまざまな可能性を秘めています。それを探すのが私の道なのです。その尽きせぬ泉のようなものから新しい響きを響かせたい。いつもそう思ってます。」

と語った彼の言葉が印象的だった。

 家に帰って改めてオプティックネットで調べると、シュヴァイガーは、マティアスを特に得意としており、さまざまな前衛音楽の演奏や初演も手がけていることが分かった。マティアスの作品の演奏家として高い評価を与える批評家もいるようだった。

 ネットには既に彼の演奏する『プリペアード・ピアノのための二十四の前奏曲とフーガ』がアップされており、ナユタはこれを愛聴するようになった。

 また、彼は斬新なセバスチャンの演奏でも注目されていて、それもネットで聞くことができた。みずみずしいピアノの音が生き生きと踊る彼のセバスチャンは、セバスチャンの時代の楽器を用いてその時代の演奏スタイルを重視する従来の演奏とはまるで異なっていたが、その新鮮な響きはまさにセバスチャンの音楽が持つ別の新たな可能性を顕現させてくれた。

 

 さて、春になる頃、ドレッシェルが新しい本を出版した。『古い時と新しい時』と題されたその本は、科学技術と芸術の変化を現代史の視点からとらえ、進歩の終焉とその先にあるものを指し示そうとする野心作だった。ドレッシェルが生み出したいと言っていた新たな哲学思想を生むための土台となる思想をまとめたものと言ってもよかった。

 この本の出版記念講演会で、ドレッシェルは、次のように述べた。

「私はこの本の第一章をネオビートニクから始めました。ネオビートニクがシュリー紀元百五十年頃に現れたとき、それは一部の異端者たちの現象でしかありませんでした。彼らは義務を放棄し、自由を手に入れ、生活に困ることはありませんでしたが、一方でレベルの低い生活を甘受しなければなりませんでした。だから、世の神々はネオビートニクを冷やかに見送り、依然として上昇志向を持ち続け、努力を続けました。その結果、経済はより発展し、社会はより安定化し、今や、何の不安もなく、豊かな生活が努力なしに手に入る時代になりました。けれど、そんな世界の中ではもはや誰も上昇志向など持ち続けはしない。もはや多くの者たちは回りの者より上になりたいなどという思いを持とうとはせず、ましてや、使命などという言葉は死語とならざるを得なかった。今や、ネオビートニクの精神が社会の標準、社会の基盤になっているといっても過言ではないでしょう。そして、科学技術の進歩は緩やかになり、私は進歩の終焉が近づいていると感じています。先端科学研究ではなく、技術最適化が求められているとも言えます。

 一方、社会では、常に社会を健全化し、安定化させる方向の思考や行動を是とする力が働くものです。かつてもそうであったし、今もそうです。そういう思考、そういう行動をする者がより多くの支持を得、社会からの恩恵を受ける仕組みとなっているからです。そして、その現象は、神々が安定を求めているというその心の根底に根差しています。安定を得られない仕組みは生き残りの可能性が減るからです。

 だから、今の社会はその力学の究極の姿と言っていい。社会の健全化を阻む可能性のあるものは、そもそも最初から排除されます。許容されるのは、現実の中の喜びを生み出す音楽、美術、演劇、スポーツ、映画、文学などです。だから、映画では正義は必ず勝ちます。第二章では、こういった現代の社会を芸術の変化も含めて取り扱いました。

 そして、第三章では、未来はどこに向かうのかを扱います。一言で言えば、進歩の終焉という方向で書きましたが、具体的にどうなるかはまだ明確ではありません。そのいくつかの可能性をこの第三章では示唆しました。

 一方、私は、この世界の中での偶然というものの不思議な意味を理解しなくてはならないと思っています。なぜ、私はここにいるのか。なぜ、この世界は存在しているのか。その謎に対する答えは、偶然しかないかもしれません。この世界、そして、我々の存在のすべてが、各瞬間各瞬間の積み重ねられた偶然の膨大な堆積の上に成り立っているものに他ならない。偶然があるものを与え、別なものを排除するのです。

 第四章では、そのような哲学的な思索を行いました。ある意味、この本は現在の社会における事実を明らかにするとともに、この社会への新たな問いかけとして書きました。この本は、決して、今の神々の世界を是としない。だから、私のこの本は、社会の安定に寄与するものでもありません。むしろ、それに挑戦するものなのです。」

 この最後の言葉、「この本は、社会の安定に寄与するものではない。むしろ、それに挑戦するものだ。」というドレッシェルの言葉がネットに流れると、ドレッシェルの本に対する賛否が多少ネット上をにぎわした。

 実際、ドレッシェルの新刊本はさまざまな議論を巻き起こし、さらにナユタがドレッシェルの招聘でビハールに来ていることもあり、多くの神々がナユタやドレッシェルとの議論を望んだ。

 マーシュ大学の宗教社会学の権威であるキルヒナー教授がナユタに対談を申し入れてきたのもその一つだった。

 キルヒナー教授はナユタに言った。

「たしかに過去の世界、そして人間の世界においては、パキゼーの悟りは素晴らしいものであったかもしれません。しかし、今、この世界、そして滅することのない神々にとって、それにどんな意味があるというのでしょう。宗教はもはや意味を持たない。哲学もです。今この平穏な世界で、ただ楽しく、満たされて過ごせばいい。悟りなどまるで必要ではないのです。是非の点はともかく、それが現実であり、事実なのです。」

「この世界で満たされないものは何もないかのように見える。たしかに、そのことを私はビハールに来て学びました。」

 ややシニカルな調子でそう答えたナユタに対して、キルヒナーは、そんなナユタの調子はまったく無視して続けた。

「創造に何の価値があったのか。それも考えるべき重要なポイントです。あなたが創造のために力を尽くされたこと、これには敬意を表します。また、かつてはナタラーヤ聖仙、ヴィカルナ聖仙といった偉大な神がすばらしい創造を行ったとか。しかし、そもそも創造は何を生み出し、我々神々にとって何の価値があったのでしょう。たしかに、ヴィダールが行なった創造は技術の進歩という意味で大きな意義がありました。逆に言えば、それまでの創造はただの徒労だったと言えます。しかし、今、この世界が実現し、創造は不要なものとなったのです。」

「それはまさに、ヴィダールが創造を停止した論理そのものですね。」

「ええ、私がその考えをまとめ、ヴィダールに答申しましたのでね。」

「そうですか。」

とナユタは言ったが、疑念を浮かべた表情を隠さず次のように聞いた。

「では、ヴァーサヴァの最後の創造についてはどうお考えですか?あなたはパキゼーの教えはすばらしいものかもしれないとおっしゃった。しかし、同時に、その意味には疑問符を付けられた。たしかにあの創造は不完全な設定の元で開始され、それが故に、たくさんの無用な混乱を呼び起こした。けれど、それはヨシュタを生み、パキゼーを生み、輝かしい高貴な法をも生み出した。それは人間にとって、そして同時に神々の在り方にとって素晴らしい洞察を生み出したと思っています。」

「たしかにそうですね。そしてパキゼーの教えが当時の地上の人間たちと神々にとっては意味があったということを私は否定しません。ただ、もはやそれは不要なもの、無用なものとなり、現在の世界では、限りなく無意味に近づいていると思っています。逆にお尋ねしたいが、ヴァーサヴァの創造が生み出したもの、あるいはパキゼーの教えが今の世界にいかなる意味を持ちうると言えるのでしょうか?」

 結局、キルヒナーとの対談はナユタにとっては何も生み出しはしなかった。ただ、キルヒナーにとっては、政府の識者会議に席を置く者として、自らの主張、そして、それに基づく政府の姿勢をきちんとナユタに伝え、また、ナユタと議論を行ったという事実が意味を持ったようだった。

 ドレッシェルの新刊本『古い時と新しい時』については政府の中でも多少議論が起こったようだが、その本が社会に対して、特に目立った反響を引き起こさないことが明らかとなってくると、ヴィダールはなんの反応も示さないことを決めた。

 定例の記者会見で、記者から質問を受けたときもそうだった。

「ドレッシェル教授の本を、政府が主導するこの社会への挑戦と受け取る向きがあるが、政府としてどう考えるか?」

 こう聞かれて、ヴィダールは落ち着いて答えた。

「この本は、宇宙憲章に謳われた神々の自由と基本的神権に基づいて出版されたと理解しています。このような本が出ることは、社会の活性化と学問の進展という両面から喜ばしいことです。ドレッシェル教授の本や思想が、この神々の世界の更なる進展に寄与することを期待しています。」

 

 新刊本に関する騒ぎが一段落すると、ドレッシェルは、ハーディという詩人をナユタに紹介したいと言ってきた。

「昔からの友人でね。もっと早く紹介したかったんですが、これまで地方に行っていたため紹介できませんでした。彼は詩神ですが、普通の世の詩神とは違う。何と言うか、この世界に囚われず、この世界の内を見てないというか、この我々の世界のものを越え出るまなざしをもっている。だから、あなたとも位相の合う部分があるのではないかと思いましてね。」

「そうですか。それではよろしくお願いします。実のところ、このビハールにやって来て、森の外の世界はほんとうに世界の内のものに囚われ、神々は世界の内側のものに縛られて生きているとつくづく感じました。この世界にある思想、神々の思考、小説や演劇、音楽、美術、なにもかもが世界の内側のものでしかない。」

「まったく同感です。だからこそ、私はナユタさんをビハールにお呼びしたんです。この世界の内側しか見ず、それに囚われた発想で生きている者たちが創り出す世界、それがこの世界です。だからこそ、そんな発想に基づくものがはびこっており、文学、芸術、哲学、そして日々の会話から政治家の発言、メディアの論調まで、まさに世界の隅々にまで染み込んでいるのです。どこに世界の外に踏み出したところでの思考、思想、哲学、文学、音楽、美術があるのかと思います。でも、少なくともそれは森の中にはある。そしてあなたの中にもある。」

「ありがとうございます。パキゼーの教えはまさにそのまなざしから生まれたものだったと思います。バルマン師やエシューナ仙神の音楽はまさにそんなまなざしの音楽です。それからリリアンの絵にもそれを感じます。」

「そうですね。そしてハーディもだと思います。ただ、彼はちょっと取っつきにくいかもしれませんので、念のため、最初に言っておきます。彼の態度は、ある意味、世界の内側のものに縛られていることへの反抗、世界の内に囚われている者たちへの反抗です。彼は世界の内のものには基本的に批判的ですので。」

「分かりました。ともかく、会わせてもらいますよ。」

 ドレッシェルの話によると、ハーディはいちおう詩神であったが、詩によって生計を立てているわけではなく、生活のほとんどを基礎給付基本法による給付金と気ままなアルバイトによって支えているということだった。

 数日後、ドレッシェルはハーディをナユタに引き合わせてくれた。

 ハーディは、あごひげを生やし、長い髪を後ろで束ねていたが、服装はいたって普通だった。彼は、今ではみなロボットの仕事になってしまったような仕事や僻地での仕事もするということで、店員をやったり、牧場で働いたり、少なくとも三十以上の職業を経験してきたということだった。

「最近は、ロボットの方が重宝がられるので、なかなか仕事探しは難しいですがね。」

 ハーディはそう言ったが、彼はそんな不安定な生活に対してまったく朗らかな風だった。 彼と話をしていると、ほとんど驚嘆するばかりの天性の奔放さをもった詩神ということがよく理解できた。彼はマーシュ大学をトップクラスの成績で卒業したのだが、その後エリートとしての生活をわずか数か月で放り出し、それからの彼の生き方は、家もなく、故郷もなく、ただ歩いて行く途上にあるだけとでもいうような文字通り流浪の旅であったらしかった。彼の測りきれないくらいの感受性がそれを強いたのだとしか言えなかったろう。そして、実際、給付金のほとんどは、放浪の旅に費やされたようだった。

 別な意味では、ハーディは異端者として、落伍者として、辛酸をなめてきているはずだった。ときにはホームレスとして数週間を公園で過ごしたこともあるということだった。けれど、彼はそれを少しも苦とせず、淡々と受け入れている風で、公園でホームレス生活をする彼のもとに市の担当者が来たときには、こううそぶいたという話だった。

「ぼくのためにこんな住みやすい場所を作ってくれているのだから、まったくありがたいことだ。」

 その時のことをドレッシェルが話題に出すと、ハーディは、

「ディオゲネスという哲学者を知っていますか?」

と問いかけ、続けて語った。

「ディオゲネスはかつての創造された世界にいた哲学者ですが、当時、大帝国を築いたアレクサンドロスが彼の住む町に来たとき、他の哲学者たちはみな歓迎のあいさつに出向いたのに、ディオゲネスだけは何もしなかったと言います。それを聞いて、アレクサンドロスは自らディオゲネスのもとに出向き、『望むものを与えるので申してみよ。』と言ったそうですが、ちょうど日向ぼっこをしていたディオゲネスは、『そこに立たれては日陰になるので、ちょっとどいて欲しい。』と言ったそうですよ。ある意味、彼は私の理想ですね。ちなみに、アレクサンドロスは、ディオゲネスの誇りと偉大さに感服し、『自分がもしアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスになりたい。』と言って立ち去ったそうですよ。」

 実際、ハーディは、普通の神にはとてもまねのできないすばらしく達観した哲学をもっているようだった。そしてそれゆえにこそ彼は、世界と神々に対して恐ろしいまでのあざけりの言葉を彼の詩の中に練り込み、偉大な作品やそして最後には絶対者に対してまでも冷淡なまなざしを投げていることが理解できた。

 ハーディは言った。

「世の神々がぼくの詩をどう思うかなんて、どうでもいい。ぼくはただ詩を書くだけ。それだけさ。でも、それはナユタさんも同じでしょう。あなたの音楽がとても世の神々のために奏でられているとは思えませんからね。」

 そして、ハーディは

「私はあなたの過去はそれなりには知っていますが、」

と切り出し、さらに言った。

「あなたは永遠の業を背負って生きているようだ。だが、済んでしまったものに引きずられて生きることが賢明なのかどうか。」

 この言葉にナユタが少し考え込んでいると、ハーディは大胆に言った。

「永遠の業と過去に引きずられているがゆえに、真実が見えなくなってしまっているのでは?」

「それはどういう意味でしょう。」

 ナユタがそう問い返すと、ハーディはさらに続けた。

「この世界では、一切がカオスの中に燃え盛り、狂乱の渦の中に踊り狂っているように見えます。表面は静かで、平和と平穏が支配しているように見えるとしても、世界の本質は、荒れ騒いでいる。未知なるものの中でね。あなたはそういった世界の本質の真っただ中にいたにもかかわらず、その本質を見ていないのでは?。」

 そこまで言うと、彼はそれまでの真剣な表情を急に緩め、

「でも、これもどうでもいいことですがね。」

と大きく笑った。

 ナユタはハーディの言葉に深く打たれ、

「あなたには賢者の相がある。」

と言ったが、ハーディは、

「何をばかな。」

と笑い飛ばした。

「ぼくは、あなたの森の仲間の仙神や宇宙の賢神たちとは違いますよ。ぼくはただのさすらい神、ただのアウトサイダーに過ぎない。それに、ぼくは決して世に高尚と言われているものにも必ずしも同調していませんしね。ただ、アウトサイダーという意味では、あなたと位相が合っているのかもしれませんがね。」

 そう言うとハーディは付け加えて言った。

「でも、一つだけ断っておかなくてはいけません。ナユタさん、あなたは宇宙の英雄で、あなたがこの現在の世界を切り拓いた恩恵を私も被っているのでしょう。それに敬意を表さないわけではないが、でも、そのことに意を配ってあなたとお付き合いするつもりはない。ぼくはただ目の前の今のあなたと付き合うだけ。それで良ければこれからもお付き合いさせてもらいますが。」

 これは悪くない言葉だった。ナユタは言った。

「じゃあ、それでよろしくおねがいしますよ。過去の私と付き合ってもらう必要はどこにもありません。あなたと付き合うのは今の私ですので。」

 この出会いは、ナユタにとっては新鮮で、心を刺激するものだった。それからナユタは何度もハーディに会い、親交を深めたのだった。

 

 ナユタはその後もビハールで活動を続けたが、秋が近づく頃、ドレッシェル教授に告げて言った。

「いろいろお世話になりましたが、森に帰ろうと思います。契約が十二月までですので、来年になったら森に帰るつもりです。」

 ドレッシェルは予期していたようで、特に驚きもせずに言った。

「そうですか。やはり帰られますか。この一年は私にとっても大変有意義でした。できれば、もうしばらくと思っていましたが。客員教授のポストを延長することは難しくありませんので。」

 この言葉にナユタは改めて謝意を表したが、森に帰る気持ちに変わりはないと告げ、さらに続けて言った。

「ビハールに呼んでいただいたことにはたいへん感謝しています。たいへん貴重なそして有意義な体験でした。この一年でこの世界のことがよく分かりました。ただ、同時に、ここには私の求めるものがなく、これ以上、ここにいてもそれほどのものが得られるわけでないことも分かりました。」

「そうでしょうね。でも、また、ビハールに来たいとお思いになれば、いつでも大歓迎です。短い滞在でも、長期の滞在でもどちらでもご希望に沿って準備いたしますよ。」

「ありがとうございます。ドレッシェルさん。あなたには何から何までお世話になった。あなたとはこれからも交流を続けさせていただきたいと思っています。いつか、森にも来ていただきたいとも思いますしね。」

 この言葉にドレッシェルは感謝の言葉で答え、さらに続けて言った。

「リリアンも一緒なんですよね。」

 ナユタが森に帰るとき、彼女もいっしょについてゆくということは関係者皆が知っていることだった。

「ええ、彼女の部屋も準備していますし、庭にはアトリエも建てますので。」

「それは楽しみだ。」

 ドレッシェルは顔をほころばせ、次のように付け加えた。

「彼女にとっても新しい道が開ける契機になるかもしれない。鬼才とも言っていい才能のある女神ですからね。また、あなたにとっても、これまでと違った森の生活が始まることを期待しています。」

 

 森に帰ることを決めると、準備で忙しかった。新しい家は伝説の建築家カーランジャの流れを汲む建築家が引き受けてくれた。ハルドゥーンが申し出ていた最新の心理工学技術も取り入れてくれた。ただ、その建築家は最初、お城のような大豪邸を提案したが、ナユタはあっさり断った。

「そんなところに住みたいわけではありません。ぼくはただの森の住神に過ぎませんから。」

「でも、資金的には何の問題もないでしょう?」

 建築家はそう言ったが、ナユタは同意せず、結局、最初提案されたものよりははるかにこじんまりしたものになった。建築家がぜひにと言った大きな時計のついた尖塔やダンスホールにもなりそうな大広間は却下だった。それでもその建築家は、ナユタの新しい家に並々ならぬ熱意を示し、玄関を入ったところの広々とした空間に螺旋階段を付けること、二階に広々としたバルコニーを作ることをナユタに同意させた。

 

 年が明けて、大学の職を離れ、家も出来上がってくると、ナユタはアミティスと共に引っ越しの準備を始めた。

 そんな中、イルシュマが、ナキア、クマルビ、クレア、チャシタナ、リュクセス、ベレニケを呼んで食事会を開いてくれた。エルアザルもやってきた。ナキアとクマルビは最近結婚したということで、その報告とお祝いも兼ねての会だった。そのナキアとクマルビ、さらにはクレアに会うのは、ウバリート旅行団を率いてウバリートを訪れたとき以来だったし、エルアザルに会うのも久しぶりだった。チャシタナに会うのは、前回の創造で地上に降りる前にビハールで会って以来だった。リュクセスやベレニケとは、ふたりがビハールを去って以来、初めてだった。

 ナキアとクマルビに会うとナユタはにこやかに言った。

「最近結婚したと聞いたよ。おめでとう。」

 ナキアとクマルビがそれぞれ、

「ありがとうございます。」

と挨拶すると、イルシュマは、

「まあ、その話はあとでゆっくりしてもらおうと思ってますよ。まずは席にどうぞ。」

と食事会の席に案内した。

 みんなが顔を揃え、スパークリングワインでの乾杯で食事が始まると、さっそくクレアがナユタに言った。

「ナキアさんとクマルビさんはほんとに仲が良いんですよ。お似合いのカップルだってみんな言ってますよ。」

「それは良かった。訊いて良ければ、どんな経緯で結婚することになったか聞きたいが。」

とナユタが言うと、イルシュマが説明した。

「そもそもふたりはバクテュエスにいたときから幼なじみですのでね。きっかけと言っては何ですが、私はクマルビがあまりに研究だけに没頭しているのでいろいろ女性を紹介したんです。でも、クマルビはそれを全部断りましてね。すてきなお嬢さんも少なくなかったはずなんですが、あまりに頑ななんで、ふと、『じゃあ、ナキアはどうだ?』って聞いたら、『ナキアにその気があるなら考えてもいいけど、ナキアはぼくなんて相手にしてくれないよ。』って言いましてね。それで今度はナキアに話をもってったんですよ。」

「まあ、イルシュマさんはそういう方面でも長けてらっしゃるのね。」

 クレアがそう言うと、イルシュマは、

「ありがとうございます。」

と微笑んで、さらに続けた。

「ただ、ナキアはそれ以前は、『男には興味がない。』とか『結婚する気なんてない。』とずっと言ってましてね。言っても無駄かなと思いつつ、行き掛かり上、話をしないわけにゆかないので、ナキアにクマルビとのことを話したんですよ。そしたら、『クマルビがどうしてもって言うんなら考えるわ。』って言われましてね。だからクマルビがナキアにどうしてもって言ってくれたら話はとんとん拍子だったんでしょうけど、なにせクマルビも奥手なので、ふたりの間を取り持つにはいろいろ苦労しました。感謝してくれてるんだろうね。」

 ナキアは答えて言った。

「もちろんよ。クマルビは家では良い夫だし。兄さんみたな才覚はないけど、ずっと誠実だし。ただ、ちょっと理屈っぽいし、けっこう頑固ですけどね。」

「でも、それは昔から分かってたことだからな。ともかく、ふたりが結婚することになってほっとしましたよ。」

 イルシュマがそう言って笑うと、クレアが言った。

「クマルビさんはイルシュマさんが紹介した女性を全部断ったんでしょう?ひょっとしてクマルビさんの初恋の相手はナキアさんじゃなくて?」

「いや、それは。」

とクマルビが口ごもると、ナキアが言った。

「じゃあ、誰なの?」

 イルシュマが助け船を出した。

「まあ、そうクマルビをいじめるなよ。おれは昔のことを知っているけど、クマルビの初恋の相手はナキアだろう?正直に言えよ。」

「ええ、まあ。」

 そうクマルビがうなずくと、チャシタナが大きく笑って言った。

「じゃあ、なんの問題もないじゃありませんか。言うことないハッピーエンドだ。」

 実際、ふたりは幸せそうだった。お互い気心も知れており、学者としてもお互いに相手を認めている間柄でもあり、ほんとうに良いカップルと言えた。

 しばらくこの話題で盛り上がった後、イルシュマが話題を変えて言った。

「ところで、ナユタさんはリュセスとベレニケとは久しぶりなんでしょう?」

「ああ、ふたりがビハールを離れてから初めてだよ。それで、あれからどうしてるんだ?」

 リュクセスはにこやかに答えた。

「お陰様でのびのび生きています。正直、あの時ビハールを去ったときには内心憤懣のようなものもないわけではなかったのですが、今となっては、あの時ビハールを去って良かったと思っています。あの後、ドルヒヤに建てたドルヒヤ民俗博物館に加え、ドルヒヤ歴史文化館も作りましたし、さらにドルヒヤ文化大学も作りました。ドルヒヤ文化大学ではマーシュ大学とも連携していまして、私もマーシュ大学の客員教授も務めています。」

「それは良い活動だな。リュクセスらしいよ。それに『地理誌』は今では古典的な名著だからな。」

 イルシュマが付け加えた。

「『地理誌』は単に各民族のことや地理的なことを伝える古典というに留まらず、今ではルガルバンダ時代を知るための貴重な歴史書でもありますし。それから最近ではチャシタナと一緒にドルヒヤ民族村も作っています。」

「ドルヒヤ民族村。それはどんなところなんだ。」

「広大な敷地に世界のさまざまな民族の建物を集め、そこで実際に伝統的な踊りや仕事、生活などを見たり、体験したりできる施設です。言ってみれば、体験型のテーマパークと言ったところで、楽しみながら各民族のことを学べるという施設です。」

「それにチャシタナも関わっているということか。」

「ええ、関わっているというより、これはチャシタナの事業でして。また、この施設での出し物にはエルアザルが関わっています。エルアザルは演劇などの分野で手広く事業をやっていますが、この民族村での公演はある意味、ヤズディア派とドルヒヤ派の和解という面もありましてね。」

「たしかに、この対立がリュクセスがビハールを離れる直接のきっかけだったろうからな。」

「ええ、でも、そもそもの周辺部族対策という意味では今ではもう対立点などなくなっていると言って良い。ただ、当時の対立に根ざす感情的なしこり、それから派閥意識も残っていますので。そういった意味では、エルアザルとリュクセスの提携は意味がありました。エルアザルの劇のお披露目の日にはジャトゥカムも来てくれましたし。」

 エルアザルが言った。

「この件では多少貢献できたかもしれません。私はともかく儲けのためではなく、良いものを世に出すことに意を注いでいますので。」

「それは良いことだったな。それにしても、チャシタナは農場だけじゃなく、いろんな事をやってるんだな。」

 チャシタナが答えた。

「ええ、多角経営の時代ですから。実は、イルシュマにも助けてもらってリゾート事業を手広く展開しています。」

「リゾート事業?」

 ナユタがそう聞き返すと、チャシタナは続けた。

「ええ、ホテル、スキー場などを営んでいます。ドルヒヤの民族村もその一環です。妻はビハール出身で、都会者の願望は私なんかよりずっと敏感で、彼女の考えも活かして展開してます。言ってみれば、俗世の者たちの願望や欲望が相手なので、ナユタさんのお考えと合っているかどうかは分かりませんが。」

「まあ、良いじゃないか。この世界の平和と安定に貢献し、世の神に喜びをもたらしているんだろうから。奥さんも元気なら何よりだ。ホテルやテーマパークと言えば、イルシュマはアルセイスグループにも投資しているはずだが、関係はあるのか?」

「いえ、それはありません。イルシュマはアルセイスは才覚があり、事業発展という観点から提携をしてはどうかと言うんですが、妻が乗り気じゃありませんでね。ご存じと思いますが、アルセイスはかつてはビハールで高級娼婦だった女神で、一方、私の妻はビハールの良家の子女だったので、そういうものには本質的に嫌悪感をもっていましてね。もちろん、今の自由性愛の時代ですから、嫌悪感は行き過ぎかもしれませんが、でも、自由な性愛と女を売って金を稼ぐのは別なはずですし。」

 イルシュマが付け加えた。

「私は事業の発展という視点から提携を進めたんですが、今にして思えば提携しなくて良かったと思っています。アルセイスはどちらかと言えば、レジャー向けでいわば欲望を発散できるものを志向しているのに対し、チャシタナの経営するものはもっと上品でゆったりとくつろげるリゾート的なものを目指しています。私自身について言えば、そのような両方の方向それぞれに投資できて満足しています。」

「そう言えば、ビハールでアルセイスという名の掲げられた店があったな。」

「ええ、先も言ったように、アルセイスは商才がありますので。今では、服飾、インナーウェア、アクセサリー、エステなど女神向けビジネスに力を入れる総合ビューティー企業にもなっています。また、レジャーも従来のホテルやテーマパークなどに加え、バーチャル・ゲームやキャラクタービジネスなどにも力を入れ、いわば、総合エンターテインメント企業になっています。ただ、チャシタナはそれとは違う路線を堅持していましてね。」

 チャシタナが受け継いだ。

「私どものモットーの一つが自然との共生です。ただ神が楽しめばいいのではなく、自然と触れあい心を落ち着かせる空間と時間を提供する。それが目指している姿でして、そんなリゾートホテルに今、妻が特に力を入れていましてね。何泊もしてゆっくりくつろげる宿というコンセプトで、農場で獲れる新鮮で一番良質の食材を用いたディナーを売りにしています。彼女は最近は料理研究家としてもほどほどに有名になっていて、農場で獲れるものを使った新しいレシピをネットにアップしています。」

「農産物の事業にも良い効果があるんだろうな。」

「ええ、その通りです。ところで、もし、よろしければ、私の農場で採れたものを定期的にナユタさんに届けしますが。これまでは孤高のナユタ様に対してあまり干渉するのも失礼かと遠慮していたんですが、妻はあんなにお世話になったナユタさんに何にもしなくてほんとに良いの?といつも言いますので。」

「そういうことなら喜んでいただくよ。うちのロボットのアミティスは料理が上手だから楽しみだ。奥さんのレシピも参考にするように言っておくよ。」

「ありがとうございます。妻も喜ぶと思います。季節の果物もお送りしますので、それも楽しんでいただけると思います。それにしても世の中は変わりましたね。うちの農場も主な作業はロボットが行っているんですが、まさにロボットが作った農作物を使ってロボットが料理する時代ですからね。」

 こんな会話を聞いていたクレアはちょっと改まった調子でナユタに言った。

「ところで、ナユタさんは世間の風から離れ、森の中に隠遁して孤高の道を歩いておられたのかもしれませんが、今回、ビハールでの生活も体験して少しは気が変わられたんでしょうか?もし、そうなら、私としては少し嬉しいけど。でもまた、森に帰られるんですね。」

 ナユタは苦笑しながら言った。

「まあ、多少は世間のことが分かったかな。世の新しい進歩のことも理解できたし。ただ、それは現実を知ったというわけで、それに同調しようというわけではないのでね。」

「まあ、ナユタさんらしいですわ。でも、イルシュマから聞きましたけど、引っ越すときには、ビハールで知り合った若い女性も一緒だとか。」

「彼女も森に住んでみたいと言うんでね。まあ、森も昔のように不便で貧しい場所でもなくなったし。」

「でも、良いことですわ。ナユタさんが少しでも世間の風に当たって、世のことにも同化されるのは、私としては嬉しいことですわ。前からずっと、隠遁以外の道もあるんじゃないかとずっと思ってましたので。もっとも、世間の神々と同じになって欲しくはありませんけど。それにしても、今日も彼女にも来てもらえば良かったのに。会いたかったわ。」

「彼女はこういう集まりがあまり好きじゃないのでね。一応誘ってはみたんだけど。」

「まあ、あんまりナユタさんを困らせるなよ。どうしてもと思えば、そのうち、森のナユタさんの家を訪ねれば良いんだから。」

 イルシュマは横からそう言ったが、みんながリリアンのことを聞きたがるので、ナユタは彼女のことをいくらか説明した。

 その話が一段落すると、考え深げにイルシュマが言った。

「それにしても、今日はこうして懐かしい昔の仲間が顔を揃えて、嬉しい限りですよ。でも時代は流れた。ナユタさんは初めて会ったときには宇宙の英雄で、反ルガルバンダの総帥でしたが、今のナユタさんは音楽家ですからね。正直言うと、私はほんとうにはナユタさんの音楽を理解できていないと思いますが、ともかく、敬意は表しています。」

「イルシュマさんもなんですか?」

 そう言ったのはクレアだった。

「私もナユタさんの音楽は何度も聞きましたが、正直、難しすぎてなかなか分かりません。でも、私なんかが分かるよう音楽を奏でるんだったら、それはもうナユタさんじゃないって、ずっと自分に言い聞かせてきました。」

「いろいろ苦労をかけたと思っているよ。」

とナユタは言ったが、クレアは涼やかな笑顔で答えた。

「苦労だなんて思ってないから大丈夫ですよ。戦いの時は、いろいろ心配とかはしましたし、祭壇で祈りを捧げたりしましたけど。でも、私にとっては、ナユタさんに会って神生が開けました。」

 この言葉にみんな大きくうなずいた。実際、リュクセスもベレニケもイルシュマもナキアもクマルビもチャシタナもみんなナユタとの出会いから神生が開けたのだ。

 だが、ナユタは謙虚に言った。

「ともかく世話になったよ。苦労もかけたし。そういえば、以前お子さんにはウバリートで会ったが、今は大きくなったのかな。」

「ええ、お陰様で。女の子ふたりなんですが、上の子はウバリート学園に入って、ナキアさんの研究室で研究をやってます。」

「なかなか優秀なお子さんなんですよ。利発だし、クレアさんのように機転も利くし。」

 ナキアがそう言うと、クレアは頭を下げて笑った。

「ありがとうございます。母親としては娘がご迷惑をお掛けしないか、いつも心配しているんですけどね。それから、下の子は、ビハールに出て、デザイナーを目指しています。これもなかなかたいへんな世界のようですけど。」

「なるほどな。ところで、ユビュはどんな感じなんだ。」

「ユビュ様は相変らずです。パキゼーの教えに帰依し、敬虔な生活を送っておられますが、私たちに対してはいつもにこやかで。ほんとにすてきな方だと思います。」

 ナキアが付け加えた。

「でも、世界がこのままで良いとは思ってらっしゃらないようで。多分、ナユタ様と同じような心持ちなんじゃないかと思います。一方で学園の経営があるので、私たちにそんなことを見せることはないんですが、言葉の端からときどき、現状の世界を是とはなさっておられないんだなあとはよく感じます。」

 クレアも言った。

「ほんとにそうですね。この前、お会いしたとき、ナユタさんがビハールに出てこられていることが話題になって、『ナユタさんはどういう道を歩こうとしてるんだろう。でも、きっと新しい道はまたナユタさんから始まる。』と言われてました。」

 ナユタは笑ってはぐらかして答えた。

「そうかどうか分からないけどね。ともかく、また森に帰って新しい生活を模索するよ。」

 この言葉に大きくうなずいてイルシュマが言った。

「ナユタさんがどんな道を歩もうと、これからもずっと支え続けてもらいます。私の一つの使命と思っていますので。」

 するとクレアが聞いた。

「でも、イルシュマさんは結婚はしないの?お相手はいくらでもいるでしょうに。」

 これはみんなが聞きたいことでもあったろう。だが、イルシュマは苦笑しつつ言った。

「結婚して幸せに生きておられる皆さんの前ではちょっと言いにくいですが、結婚に縛られたくないのですよ。金目当てで近づいてくる女も多いですし。それに今のこの時代になって、自由な間柄でもいられますので。」

 これには皆それなりに納得するほかなかった。

 それにしても久方ぶりに楽しい会だった。昔の仲間たちと旧交を温め、みんながそれぞれ新しい道、新しい世界を歩いているのを聞くだけでも心が温かく、明るくなり、元気が出る思いだった。

 

 さまざまな準備が整うと、三月の中旬、高原にかすかに春の兆しが訪れ始める頃、ナユタはドレッシェルらに別れを告げ、リリアンとアミティスを連れて森に帰った。

 高原にはたくさんの雪が残り、早春というにもまだ早い感じだった。リリアンは車を降りるなり、声を弾ませた。

「こんなに雪があるなんて。」

 新しい家に入ると、一階には、広々としたリビング、ダイニングキッチン、応接室があり、目の前に美しい雪山が連なっている光景が見渡せた。中庭に面した小さな露天風呂や、こじんまりしたアミティスのための部屋があり、そのそばの螺旋階段を登ると、二階にナユタの部屋とリリアンの部屋、さらには来客用の部屋が用意されていた。

 また、広々とした庭には、リリアンのためのアトリエと、ナユタのための音楽室が建てられていた。

「春になったら、この庭で、お花や野菜やハーブを育てる予定なんですよ。」

とアミティスが楽しそうにリリアンに話しかけた。

「アミティスがやるの?」

「ええ。」

「うまくできる?」

 リリアンはちょっと怪訝げだったが、ナユタが横から説明した。

「ぼくは森で長く暮らして、自分のための野菜は自分で育てていたからね。ここは冬は雪に埋もれるんで、ある程度は取り寄せなくちゃならないだろうけど、可能ならここで育てたいと思ってる。アミティスにも教えるつもりだよ。」

 リリアンは新しい家がとても気に入ったようだった。自分の部屋は南向きの気持ちのいい部屋で、正面に雪の山並みが見渡せるのも素敵だったし、もう一つの窓からは東の山々が見渡せた。また、ナユタが庭に準備してくれたアトリエもリリアンを感動させた。

 その夜はアミティスがささやかなお祝いの食卓を用意してくれた。それはある意味、新しい家族が増えたお祝い、リリアンを歓迎する宴でもあった。

 アミティスはナユタのお気に入りの生酒ガザンリューを出し、前菜にはこの地方特産といううるいのお浸しとゆきのしたの和え物を並べ、さらに、たらのめやこごみの天ぷら、川魚の焼きもの、芋煮を出してくれた。芋煮にはヨーネザウワー牛が入っており、里芋やコンニャクにもよく味が浸みていて、リリアンは、

「この芋煮って、とってもおいしいわね。」

と大喜びだった。

 数日経って、荷物の整理などが一段落すると、ふたりは、ビハールのナユタの家ではリビングに飾っていたリリアンの『古代譜』をダイニングに飾り、リビングには、彼女の『沈黙の空』を飾った。『沈黙の空』は、静かな抒情が真っ青な空に漂うような作品で、黙想する何ものかが列を作っているようなイメージがナユタの心に浮かび上がってくる作品だった。

 そのリビングには、窓辺の日当たりの良い位置に、ビハールの家から連れてきたパキラが置かれた。パキラは今ではナユタの背の丈近くまで伸び、みずみずしい若葉がたくさん芽吹いていた。

「アミティスによれば、パキラはその家に住む者たちの心を映すそうだよ。」

とナユタが言うとリリアンも笑顔で言った。

「じゃあ、もう、家族みたいなものね。緑の葉が初々しくて、うれしい気分になるわ。」

 チャシタナからの野菜もクール小型スカイウェイで届いた。箱を開けて中を見ると、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、山芋、ナス、カボチャ、レンコンなどが入っており、さらに肉類やさまざまな調味料も一緒に入っていた。

 アミティスはさっそくチャシタナの農場が監修したレシピサイトへアクセスし、さまざまな料理を作った。

 こうして、リリアンにとっては初めてのビハール以外での生活が始まったが、彼女には何もかもが新鮮で、同時に戸惑うことばかりのようだった。そして、ナユタの生活にも大きな変化が訪れた。リリアンがナユタの家に住むようになったためだった。

 森に来てリリアンがまず驚いたのは、雪と雨だった。ビハールでは科学技術の力でほとんど雨も雪も降らず、振るとしても小雨がぱらつくとか、雪がちらつくといった程度で、そもそも傘をさす必要などまるでなかったからだった。

 だから、ざあざあ降る雨とかしんしんと積もる雪というものは、リリアンにとっては、書物の中の話、映像の中の話に過ぎなかった。四月の初めに吹雪の日があり、次の日の朝、五十センチほどの雪が積もっていた時には、

「もう春かと思ったのに、こんなに雪が積もるなんて。」

とリリアンは驚き、庭に出て子供のようにはしゃいで、アミティスといっしょに大きな雪だるまを作って喜んでいた。

 けれど、なんといってもビハールとこことの一番大きな違いは、高原の静かさであり、豊かな自然だった。ここにはビルもなく、喧噪もなかった。都会ではさまざまなものが提供され、それによって生活し、それを楽しみ、そして、喧噪の中で仲間たちと集う生活が繰り広げられていたが、ここではそれに代わって、自然や自分自身に向き合うことができた。都会の中にあっては、多くの神々に囲まれながら孤立し孤独だった彼女は、ここでは孤独ではなく、自然と一緒に生き生きと生きることができた。

 四月の末になって、庭の小さな桜の木がようやく花を咲かせた。それは前年の秋にナユタが植えた数本の桜で、花は数えるほどしかなかったが、淡いピンクの花が雪山を背景に風に揺らぐ姿が美しかった。

「なんて素敵。こんな可憐な桜は初めて。」

 そう言ってリリアンが喜ぶと、ナユタはトゥルナンの桜を思い出しつつ言った。

「来年はもっと花が増えるよ。何年か経てば、桜が咲き誇るようになるよ。でも、今年のちっちゃな桜もかわいいね。」

 桜はまさに春を告げる花で、桜が散り始めると、木々から次々に新緑が芽を出し、急速に春が訪れた。

 ナユタとアミティスは野菜や花やハーブを育て始めた。家の前には広大な敷地があり、その庭から森へは柵もフェンスもなく続いていた。その庭の一角で、ナユタは野菜を育てるための畑を耕し、キュウリ、ナス、トマト、カボチャ、オクラなどを育てた。スイカやひまわり、トウモロコシ、ミントやローズマリーなどのハーブやラベンダーも植えた。その周囲には、サクランボや桃、柿、リンゴ、栗、ハナミズキなどの木も植えた。周りには自然がそのまま残っており、ナユタはそれを活かして庭を整えた。

 ロボットのアミティスにとってそれが喜びというわけではなかったろうが、彼女もかいがいしく野菜や花やハーブを育てた。そして実った野菜やハーブは日々の食卓に上ったし、美しく咲いた花々はアミティスが積んできては家の花瓶に生けた。

 リリアンもそれを見て、

「楽しそうね。」

とわくわくした声で言い、自分もアミティスと一緒に花を育て始めた。

 ナユタが耕した畑の周りには小川が流れており、ナユタは小さな橋を架けたり、歩くための歩道を造ったりした。その庭の一角には、東屋があり、ナユタはそこで静かに時間を過ごすことができた。また別の場所に屋根はないが机といすが置いてあり、そこで時間を過ごしたり、星空を眺めたりすることもできた。ナユタはそんな場所で、音楽の構想を練り、楽譜を書いたりもした。アミティスはそんなナユタのところに、お茶やケーキを持ってきてくれた。

 そんな高原の生活でまずリリアンが学んだのは、心の奥深い琴線に触れる世界との遭遇ということだった。ナユタは何度かリリアンを連れ出し、夜の高原に寝そべって、満天の星を見上げた。

「かつて地上に行ったとき、トゥルナンという地で老人が言ってたよ。『人は亡くなると、空の星に帰るそうだ。そうであっても、そうでなくても、どちらでもかまわんがね。』とね。」

「自らの存在の限界を理解している者だけが言える言葉なんでしょうね。」

 まさにその通りだった。

「ほんとうは神だって限界を持っている。所詮は、ぼくたちはこの世界に縛り付けられ、閉じ込められているに過ぎない。世界の外に出る自由なんてないんだからね。」

「でも、みんな、そんなことは考えてもいないわ。みんな、今の時代は、自由に、好きなことができる、そう思っているものね。」

「たしかに、時間は無限にあって、限りがない。でも、違いはただそれだけだ。本質は何も違いやしない。パキゼーが言った通り、存在すること、存在し続けること、そして存在することにおいて為すさまざまな行為に、実はいかなる価値もないという真理があるだけなんだ。」

 この言葉は彼女を考え込ませたようだった。

 彼女は、毎日のように、アトリエに何時間も籠って絵を描いた。彼女は、長い髪を後ろで結い、いつもエプロンをして絵に没頭していた。アトリエの中には、絵具が飛び散っていた。ナユタは時として、彼女が絵を作製している場所を訪れたが、彼女の静かな手の動きとそれによってキャンバスの上に放たれる絵具の飛沫はなんとも彼の心をときめかせた。それは自由ではつらつとした精神の発露であり、そして偶然性の生み出す世界だった。まさに、新しい世界が生まれ出ているかのようだった。

 

 高原が緑に覆われると、ナユタとリリアンはしばしば湖や牧場に出かけた。初夏の高原にはみずみずしい緑の野が広がり、白い花、黄色い花、ピンクの花などたくさんの花が咲き乱れた。

 蜂たちがぶんぶんと花の回りを飛び回り、蝶がひらひらと舞っていた。たくさんのトンボが空を行き交い、草の上を歩くと、小さな虫たちが飛び跳ねた。バッタもいたし、キリギリスもいた。ときには、カマキリを見つけることもあった。

 牧場や湖の向こうには美しい緑の山並みが広がり、その上には初夏の雲が浮かんだ。誰もいない牧場でのゆったりとした時間、それもリリアンの心を癒した。彼女は黙って緑の野を眺め、風を感じ、空を仰いだ。

 近くの池まで足を延ばすと、水の上にはアメンボがいたし、水の中には魚たちが泳いでいた。東屋で休むと鳥たちのさえずりだけがこだました。

 リリアンがひとりで出かけてくることも少なくなかった。彼女は、自然の中を何時間も歩き、その中で浮かんできた着想をもって家に帰り、その着想をキャンバスに焼き付けるべく、何時間もアトリエに籠った。

「絵の中のリズムは森の鼓動が与えてくれる。」

 そう彼女は言ったものだった。

 そんな高原での生活はリリアンに朗らかさを取り戻させたようでもあった。実際、リリアンはビハールにいたときよりもよく笑うようになったし、大学や芸術院の中でときおり見せていた険しい表情やあきれたような表情は影をひそめた。そして、食事などの時にはナユタと楽しげに談笑し、また、アミティスとも親しく言葉を交わし、生き生きした微笑みが女性としての魅力を引き立たせた。

 アミティスの出すお茶やお菓子や料理、さらにはアミティスが活ける花についても、リリアンはナユタよりもはるかに関心を示し、しばしば、素材や作り方について長い時間アミティスと談笑した。ロボットのアミティスはその態度に反応して、ますます活け花や料理に打ち込むようになっていった。新しい料理についてオプトネットで情報を得ると、彼女はそれを出し、リリアンがそれを褒めると、アミティスは頬を赤くしながら、それについて解説し、

「喜んでもらってこんなにうれしいことはない。」

と微笑むのだった。

 六月の終わり頃、チャシタナからサクランボが一箱届いた。箱の中に真っ赤な粒が並ぶ様は鮮やかで、食べてみると、甘さと酸味の絶妙のバランスでこの上ないおいしさだった。「こんなおいしいサクランボは食べたことがない。」

とリリアンは言ったが、それはナユタも同感だった。

「この家にもサクランボの木は植えたんで、来年は実がつくかもしれないが、きっとこんなにおいしくはないだろうな。」

とナユタは笑った。

 

 七月の初め、ナユタの家の近くの湖のほとりに、「風の館」という名の新しいカフェレストランがオープンした。こじんまりした素敵な雰囲気の店だった。

 開店の日にナユタとリリアンはさっそく出掛けたが、ふたりが入ってゆくと、主神らしき男神が迎えてくれた。

「ようこそ、ナユタさん。お待ちしておりました。そのうち来ていただきたいとは思っておりましたが、この店の一番最初のお客様があなたというのは感激この上ありません。私は、カウティリヤと申します。」

 ナユタとリリアンは、ベランダの席に案内された。その席からの眺めは美しく、青く輝く湖と新緑の山の緑、湖の向こうに広がる野の光景が素敵だった。

 ナユタはリリアンとともに席に腰を下ろすと、カウティリヤと名乗る神に問いかけた。

「こんな森の奥地では商売にもなりませんでしょうに。どうしてこちらに?」

「そうかもしれませんね。」

 カウティリヤはそう言って軽く笑い、続けて説明してくれた。

「しばらく下の世界から離れてみたかったので、思い切って来てみました。私は森で暮らす仙神や芸術家の方々のようなものは何も持ち合わせてはおりませんが、こちらで自然の中で静かに暮らしてみたいと思いましてね。妻と子供たちを連れてやって来ました。」

 今の時代、夫婦相思相愛で、子供がふたりもいるのは珍しいことでもあったが、続いて現れた妻のクリスティーはロングスカートのよく似合う上品な女神だった。一緒についてきたふたりの子供はかわいらしい女の子でおそろいの白いワンピースを着ていた。

 リリアンはクリスティーににこやかに話しかけ、しゃがみ込んで女の子たちに、

「こんにちは。」

と言った。ふたりの女の子たちはちょっとうつむいたが、はにかみながらも挨拶を返した。

 挨拶を終わると、リリアンは明太子とキノコのクリームパスタのセットを頼み、デザートして、ラフランスのムースとアイスクリームが載っているフルーツプレート、それにハーブティーを頼んだ。

 ナユタは、

「何を頼もうかな。」

とちょっと迷っていたが、リリアンが

「このイチゴのミルフィーユがおいしそうじゃない。」

と言うので、ナユタはデザートにはそれとコーヒーを頼み、旬の野菜と生ハムのペペロンチーノを選んだ。

「私にも少しくださいね。」

とリリアンは楽しそうだった。

 注文したものが出てくるまでの間、リリアンは、フレキシブル有機パッドを取り出し、カウティリヤについて調べた。調べてみると、彼は、ビハールの一流ホテルの料理長だったことが分かった。

 たしかに出されたものは一流の味だった。カウティリヤが一流の調理師だったことについてリリアンが話題に出すと、カウティリヤの答えは

「ありがとうございます。でも、それは捨ててきました。」

というものだった。

「料理はただの技でしかありません。それは神々の心を満たし、幸せにするかもしれないが、真のものを与えるわけではありません。また、作り手の心の奥底にある何かを表現しているものでもありません。ただ、食する者の五感を満たすためだけの技にすぎません。それで別のものを求めてここにやって来たんですよ。どうぞ、これからもごひいきにしていただければ。」

 主人の謙虚な物腰はナユタとリリアンにたいへん良い印象を与えた。

 それから何日か経って、ふたりはディナーのフルコースを予約して、再び「風の館」を訪れた。料理は絶品のフルコースで、カウティリヤが採算を度外視して料理を出しているのは明らかだった。前菜には、フォアグラを使ったテリーヌ、おいしいソースで味付けされたサーモン、ホタテ、生ハム、ウニなどが新鮮な野菜とともに並んでいた。

「この野菜は取り寄せたものですが、ゆくゆくは裏の庭で育てたいと思っています。」

とカウティリヤが説明してくれた。

 続いて出てきたのは、カボチャのスープで、味付けがすばらしかった。さらに、ヒラメとアワビのプレート、ヨーネザウワー牛のステーキと続いた。デザートには、美しいプレートの上に、新鮮なフルーツ、生クリーム、シャーベットなどが載っていた。

 その後も、ナユタとリリアンはしばしば「風の館」を訪れた。ナユタとリリアンがそれぞれひとりで来る時もあった。

 しばらくして、ある時、カウティリヤは自然について語った。

「自然は私たちの偉大な教師だと思っています。この教師に比べたら、街の教師たちは、あまりにも雄弁に過ぎ、あまりにも議論と闘争を好み、あまりにも理想と目標を追いすぎています。自然はけっしてそんな風には訴えない。これが正しい、それこそが真理であるとは決して主張しない。自然はいつもひとりで無言で淡々とした笑いの中に立っています。けれど、その起立の中にこそ、本当に私たちがまなざしを注がねばならない真実があると思っています。」

 まさにそれが、カウティリヤが都会から逃げ出してきた理由であったろう。

 また、カウティリヤが家族を大切にしている姿も心を温めるものがあった。この自由性愛の時代、家族というものは次第にその意義を失っているかのように見えたし、神々の世界では、そもそも家族というものは創造された人間たちの世界でほどは重要ではなかった。過去をひも解いてみるなら、創造された世界においても、動物たちはかならずしも家族を持っていたわけではなく、家族とは、人間だけではないとしても、人間に特有のものということもできた。そして、神々の世界において、神々はそもそも必ずしも家族を持っていたわけではないのだが、人間の世界の影響から家族というものの重要性が高まってはいた時期もあった。そして、今は再び、その意義は低下しているように思えた。だが、そんな世界の中で、カウティリヤは家族を大事にし、妻を愛し、ふたりの子供を大切にしていたのだった。

 

 それからしばらくして、バラドゥーラ仙神が訪ねてきてくれた。バラドゥーラ仙神は、車を持っていなかったので、三時間の距離を歩いてやって来た。

 ナユタは、車で迎えに行くと言ったのだが、それに対する仙神の答えは、

「いや、歩いて行くよ。途中の道で見れるもの、体験できるものすべてが新しいではないか。それは歩かねば分からぬからな。もっとも帰りは送ってもらうかもしれぬがな。」

というものだった。

 バラドゥーラ仙神がやってくると、ナユタは、リリアン、アミティスとともに迎えた。仙神は、ナユタとリリアンと挨拶を交わした後、アミティスに対してはなんと声をかけたらいいのかちょっと戸惑っていたが、アミティスは自分から、

「バラドゥーラ様、初めまして。アミティスと申します。」

とにこやかに挨拶した。

 この日、アミティスは料理に腕を振るった。生酒のガザンリューが出されると、

「こんなうまい酒は飲んだことがないな。」

とバラドゥーラ仙神も感嘆しきりだった。

 また、アミティスは、こごみ、うこぎ、行者菜など、この付近でとれるものをふんだんに使って、おしゃれな料理を食卓に並べた。

 メインの肉料理について仙神は、

「わしは肉は硬くてかみごたえのある肉が好きなんじゃが。」

と言っていたが、霜降りのヨーネザウワー牛のロースをレアに焼いたステーキを口にすると、

「こんなうまい肉は食ったことがないな。」

とこれまた感嘆しきりだった。

「バラドゥーラ様。たまにはこんな肉も良いのではないかと思っています。」

と言うナユタに、仙神も

「そうかもしれぬな。世界は変わったな。」

とうなずくばかりだった。

 実際、バラドゥーラ仙神も、新しい家ではエアコンや有機テレビ、オプトネット、有機太陽電池、クッキングプロセッサなどのエレクトロニクス製品を導入したということだった。ただ、ロボット、車はもたず、テレビやオプティックネットも置いてはあるが、まったくと言っていいほど使っていないということだった。

「わしはテレビは嫌いでな。一方的に作り手の思想や考えを押し付けてくる。そして、その根底にあるものは、低レベルの現実主義に根差すものでしかないからな。また、視聴者の意見を反映させる番組もあるが、結局のところ、その視聴者というのも見識に乏しい者たち、あるいは偏狭な思想をもった者たちが多いしな。」

 一方、バラドゥーラ仙神は、リリアンの絵には強く惹きつけられたようだった。リビングに飾られた彼女の『沈黙の空』をじっと見つめて、仙神はナユタに語りかけた。

「ナユタ、昔の家にあったシュルツェの絵を覚えておるじゃろう。あの絵に通じるものがあるな。この世界を自分のものと思っていない者の絵じゃな。存在の不可思議さ、自分という存在のあやふやさに依拠した繊細な響きが紡ぎ出されておる。このキャンバスは、まるで、漂泊者の魂の焼け付く荒れ野、未知なるものを夢見る者たちが漕ぎ出した大海原のようじゃな。」

 この言葉に誘い出されるかのように、リリアンは、なかばつぶやくように言った。

「私は、自分でも何か分からないものを描いているように思います。いったい、なぜ描かねばねらないのかも分からないような気がします。ただ、何かが私を導いているように思えるんです。」

 バラドゥーラ仙神は、この言葉にうなずくと、ひとりごとのような口調で言った。

「偉大な創造からは常に強烈な光が照射されている。そしてそのような創造は、存在の深みへの天才的な衝迫であり、真理へのたゆまない帰依であろう。けれど、それは、もしかすると、存在を知らない者の、存在を知らないが故の偉大な戯れであるかもしれない。存在と世界に限りなく深いまなざしを投げた者たちは、例えばパキゼーのように、もはや創造などという他愛ない遊戯を欲するという愚かな欲望から離れているかもしれないからな。」

 ナユタはそれに答えるように語った。

「分かるような気がします。私はもともと芸術とは別の世界で生きていましたが、バルマン師とエシューナ仙神に学んだ音の道はとてつもなく自分を高めてくれました。そして、新しい音は、今なお私の中から次々に湧き起ってきます。でも、音を紡いだり、形をキャンバスに焼き付けたりすることが、ほんとうのところ、実に、いかなる意味と価値を持っているかという疑問は残されたままです。芸術とは実はなんの価値もない他愛ない遊戯ではなかったのか、という思いは常に胸の内にくすぶっています。」

 次の日の朝、バラドゥーラ仙神はナユタとふたりだけになると言った。

「それにしてもいろいろなものが変わってしまったな。ただ、ここの生活も悪くないようだな。」

「そうですね。でも、こうしていると、かつてバラドゥーラ様のもとで一緒に暮らした日々のことを思い出します。もうはるか昔のこととなってしまいましたが、でも私の心の中では昨日のことのように思えます。」

「そうだな。だが、おまえにはまだ新しい音を追い求める道があるはずじゃからな。」

 ナユタはうなずいて答えた。

「ええ、今はひたすら偶然性に基づく静謐の音楽を追及しています。静謐の中で音を奏でるという、ある意味での音楽の根源的な姿勢に根差す新しい音楽を追い求れないかと思っています。それがかつての音楽に比べてどのような優位性をもちうるのかは分かりませんし、以前の音楽を越えるものかどうかも分かりません。ただ、今、私の心に響く新しい音があるのです。」

「そうか。わしには音楽のことはあまり分からぬが、それを探求するのもまたよし。それにしても、ビハールに行き、リリアンが来たこととも良かったかな。」

 バラドゥーラ仙神は納得したようにそう言ったが、ナユタは考え込むように言った。

「しかし、この道が真理に行き着くのかどうか?」

 一呼吸おいて、ナユタは続けた。

「結局のところ、私たちは決して真理に達することがないのかもしれません。私たち自身の外にある真理というものは限りない深淵に通じていて私たちが行きつくことができないし、私たち自身がそれであるべきという真理に対しては、私たち自身の種々の限界が対立していて私たちがそこへ達することができない。たしかに、一つの真理が存在すると考えられます。けれど、その真理は実は浮遊した真理で、どこにも真理の全貌はないのかもしれません。ただ、照明された側面がかすかに闇の中に浮かび上がるだけ。それは一切が空であり、真理は空性の中にのみ存在しうるからかもしれません。」

 バラドゥーラ仙神は、ナユタのやや唐突な言葉について考え込んでいたが、口を開くと、次のように言った。

「今でもよく思い出すが、おまえがかつてビハールから帰ってきたとき、わしの家のドアをノックすることもできずに座り込んでおったな。そのことが、いつも思い出されてな。あれが、おまえの真の心を写しておったのじゃろうと今も思っておる。」

 ナユタはその言葉を聞くと、改めて自分の心の内を吐露するような口調で語った。

「私は孤独に、どこといってあてどもなく、ただ自分の道を歩いてきただけでした。どこにも根を下ろすことなく、また、落ち着くことも、真に何かを掴めたことも一度もありませんでした。」

 かすかにうなずいて、バラドゥーラ仙神は言った。

「そうだな。おまえは宇宙の涯てからひとりで出てきた。だから、おまえは、まさに漂泊者そのものかもしれんな。だがな、ナユタ、おまえの中からは常に真摯なものが流れ出ており、それがおまえを突き動かしてきたはずじゃ。おまえは前々回の創造での英雄的行為によって宇宙の英雄となり、宇宙にナユタありと言われるようになったが、おまえ自身は、常に真の道を模索する求道者であり、深い悩みの中で生きてきたことをわしは理解しておる。だからな、ナユタ、おまえ自身の道を行くことじゃ。おまえの中からひとりで出てこようとするものがおまえを導くはずじゃ。」

 しかし、このナユタを励ますようなバラドゥーラ仙神の言葉を聞いて、ナユタはむしろ顔を暗くし、うつむいたような声で言った。

「しかし、私の道は混乱し、ただただ下り坂になっているようにも見えます。どこにも究極の真なるものはなく、この世界に真なるものがあるとすれば、それは結局、パキゼーの空の悟りしかない。そして、そんな本質が空である世界の中で、では私は何をなすべきかを決して見出すことはできず、ただただ時の流れの中、世の動きの中で喘いでいるに過ぎないのです。」

「そうかもしれぬな。だが、その中でおまえが行い、おまえが生み出してきたものはそれでも光を放ち、かけがえのないものであるとわしは信じておるよ。」

 この言葉にナユタが考え込んでいると、バラドゥーラ仙神は続けて言った。

「今はリリアンやアミティスと平穏な暮らしをしてみるのも良いのではないかな。だがな、宇宙は依然としておまえを必要としているとわしは信じておる。おまえがなさねばならいものはかならずあるはずじゃ。きっとその時がくるだろうよ。」

「それはいつなのでしょう。そして、どんなことが来るのでしょう。」

 そうナユタは訊きたかったが、彼はそれを口にはしなかった。ただ、ナユタはシュルツェの残した言葉を口にした。

「シュルツェはこう言いました。『人間のいない土地。何頭かのきりんと何匹かのトカゲ。茨の茂みの中では一匹のシラミ。上には小さな空。ものを思う必要もない。それが夢だ。』彼の残した言葉はいつも心に響きます。地上に見いだされるものの内でもっともおろかなものは人間だとも彼は言いました。でも、この世界においては、もっとも愚かなものはわれわれ神々であり、彼の言った通り、無垢なものこそ本当に尊いように思います。」

「そうかもしれぬな。この世界はまさに神々の欲望が織りなす喧噪の世界でしかないからな。だからこそ、わしらは森の生活を選んだのだしな。」

 そう言うと、バラドゥーラ仙神は、ナユタを元気づけるようにこう言った。

「もう一度繰り返すが、自分自身に立脚することじゃよ。この世界の中で唯一の根拠となりうる自己自身にな。自己に立脚しないところから諸々の迷いが生じ、多くの煩悩によって次から次へとさいなまれる。無明を断ち、自己に帰ること、そこから空の朗らかさが輝き出るのではないかな。」

 この言葉にナユタは微かにうなずいて答えた。

「たしかにそうかもしれません。自己に立脚しないところでは私たちはさまざな戦いに巻き込まれてしまいます。幸せのための戦い、正義と不正義との外的な、あるいは内的な争いに巻き込まれ、欲望と真理の分裂に苦しみ、真理と非真理との戦いに駆り立てられます。私は外的なものとのかかわりにおいて囚われ、非真理に対して戦いを宣言し、私自身の矛盾や葛藤に陥り、その連環は際限がありません。それが、ヴァーサヴァの創造が終わったのちの世界での私だったようにも思えます。」

「そうだな。だから、今一度、自己自身に立ち返ってみるのだ。自分とは誰なのか?およそいかなる真理も非真理も、喜びも悲しみも、自分自身の根源とは無縁で、ただあとから付け加わった泥土のごときものではなかったか。邪念を落した静かな観想において、再び自分自身が感得されるはずじゃ。自分自身とはなにか?自分自身とは空であり、自分と根源的に結びつくいかなる存在も世界内にはない。けれどそれは冷たい孤独を意味するのではなく、それだけの充足した存在であって、そこに付け加えるべきもの、取り去られるものは何もないということなのだ。いったいなぜおまえが孤独であってはならないのか?なぜ自分が世界の根源を明らかにせねばならないのか?すべてはあとから付与された邪念、妄想による煩悩にすぎず、根源として自分自身にはなんらつながりを持っていないのだ。」

 バラドゥーラ仙神はそう言うと一つの詩をナユタに見せた。それは前回の創造の際に地上のある無名の詩人が書いたものだった。ナユタはそれを読んだ。

「世界は深い混乱で熱病のように苦しみ、宇宙は法則を失ったカオスの中に時の車輪を回転させている。世界を支配する帝王は暗黒の地底に沈み込み、死の天使は静かに降り立つときを待ち続けている。

 かつて青い海原に漕ぎ出した小舟は星座の運動に由来する運命の不思議な糸に操られ、世界の内のきらめくような閃光はいつも小舟の行く道を金色に照らし出したものだった。秘められた宇宙存在の法則はまるで貝の歌のように夢と魔法の響きに満ち溢れ、奇跡のような大きな調和を響かせたものだった。

 けれど、光はいつも遠くへ流れ去ろうとし、暗い山の夜は永遠の中に沈黙しようとしている。いつか世界はその不思議な色のベールを脱ぎ、法則は荒涼たるまなざしでぼくの存在を覗き込む。音楽はまるで異次元の世界に由来するかのように根拠がなく、空なる宇宙の中で謎が解き明かされる日はこないだろう。

 世界の外に在って、ぼくたちを見つめ続ける神の姿はぼくの目には認知できない。空ははてしなく青く続くけれど、ぼくの心は知らない神に祈りを捧げようとしている。

 ぼくはもはやぼくの存在を信じない。ぼくは世界と神とを信じない。けれど、その日、神の意志をつかさどる太古の鳥は紋章から抜け出して空の青へと駆けてゆくかもしれない。」

 バラドゥーラ仙神は言った。

「その詩人はこうも書いておる。」

 そう言って、ノートのページをめくって別の詩をナユタに見せた。そこには、こう書いてあった。

「世界を創造したのは誰か?それは創世主であったか?世界を創造したのは自分ではなかったか?ぼくが創造した時間と空間。ぼくが創造したぼくと神。けれど、ぼくは世界を時間のうちに、そして存在を世界の内に創造したのだ。だから神は死なねばならなかったし、世界は没落しなければならなかった。けれどいったい時間はどこにあったか?世界は存在したか?

 ぼくと神とを包括する真の世界存在はおそらく深い淵の中に沈み込んでるだろう。誰もその謎を解くことはできないし、誰もその核心を見抜くことはできないだろう。存在を定位する法則は照明されず、ぼくの創造した世界はあやふやで根拠をもたない。

 まやかしの眼差しによって見られた世界は消えねばならないだろう。根拠のない法則によって支えられた時間と存在は光の前では輝きを失うだろう、とな。」

 ナユタがこの言葉を考え込んでいると、バラドゥーラ仙神は再び笑顔を見せて言った。

「ナユタ。おまえはこの宇宙にナユタありと言われた神だ。だから、おまえの道はおまえが見つけるほかはない。そして、道は必ず見つかると信じているよ。」

 そう言うと、バラドゥーラ仙神は、急に話を変えて言った。

「ところで、久しぶりに庭でトウモロコシでも食わんか。見ると、立派なトウモロコシがなっているようだしな。」

「では、まきを割りましょう。」

 ナユタはそう答えると、仙神とともに庭に出てまきを割り、火を起こし、庭のトウモロコシを三つもいで焼いた。トウモロコシが焼きあがると、仙神はリリアンも呼んでこさせ、ナユタとリリアンにトウモロコシを渡して言った。

「ナユタ、昔、一緒に釣ってきた魚を庭で焼いて食べたな。わしにとっては途方もなく楽しい静かな時間だった。」

 ナユタはうなずき、

「今でもあの生活は忘れられません。」

と言い、トウモロコシをほおばった。澄んだ風がひゅうひゅうと舞い、仙神の顔が朗らかに輝いていた。

 ふとナユタは言った。

「私はまだ仙神から学ぶべきものを学んでいないように思います。」

 だが、バラドゥーラ仙神は笑って答えた。

「さあ、どうかな。だが、おまえが学ぶべきものはそのうち学べるはずじゃよ。おまえがおまえの道を行けばな。」

 この言葉にナユタはしばらく考え込んだが、ぽつりと言った。

「繰り返しになりますが、そもそも、我々が存在し、生きてゆくことの中で、本当に大事なもの、大切にすべきものは何なのだろうかという問いが疼いています。少なくとも、それは都会の繁栄でもないし、世の神々が大切だと称しているものの中にもないように思います。」

 バラドゥーラ仙神はうなずいた。

「そうだな。その通りじゃよ。本当に価値のあるものは何なのか、わしはそれがあるとするなら、それは森の中で探すしかないと思っておる。エシューナやアシュタカも同じ思いじゃろう。だから、彼らは、森に引きこもって道を探しているわけだ。」

 そう言ったバラドゥーラ仙神の顔は飄々とした笑顔で輝いているように見えた。そして、トウモロコシを食べ終わると、バラドゥーラ仙神は立ち上がって言った。

「ナユタ、また来るよ。ともかく、おまえの元気な顔を見れて、うれしかったよ。」 

 ナユタが、

「帰りはぜひ車で。」

と言うので、バラドゥーラ仙神は

「それでは遠慮なくそうさせてもらうよ。」

と答え、アミティスの車で帰っていった。

 

20171021日掲載 / 最新改訂:2023724


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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第6巻