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神話『ブルーポールズ』

【第6巻】-

向殿充浩

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 二日後、シャルマが、プシュパギリ、ギランダとともに歓迎の席を設けてくれた。ナユタが、住む場所やロボットのことではたいへん満足していると言うと、プシュパギリはシャンターヤのことに触れた。

「直接の連絡は来ていないかもしれないが、経費面では、財務長官のシャンターヤが何かと便宜を図っているようだ。最高の待遇を指示していると聞いている。費用面のことで困ったことがあったら彼に相談すると良い。」

「ありがとう。でもお金で困ることなんて何もない。ギランダ法案のおかげもあるし。」

 そう言ってナユタが笑うと、ギランダが応じた。

「基礎給付基本法に感謝いただけて光栄です。この法案はこの世界に住まうすべての神に恩恵をもたらしていると自負しています。」

「初めて聞いた時には大胆な法律だと思ったよ。かつて地上では生活保護という制度があったが、それをさらに推し進めた法律というところかな。」

 ギランダは首を振った。

「申し訳ないがそれは全然違います。すべての者にあるレベル以上の生活を保証するという建前で言えば表面的には似て見えるかもしれないが、本質は全然違います。かつての生活保護は、自らの力で自分の生活を構築できない弱者を救済するがその本質でした。もちろん、病気やその他のやむを得ぬ事情で自分の生活を構築できない者もいましたが、同時に、自分自身の努力不足や怠慢で生活保護を必要とする者もたくさんいました。その視点から言えば、かつての生活保護はある意味、人生の落伍者を救うという面の強い法律でした。しかし、基礎給付基本法は根本的に違います。この法律は弱者を救済するのではなく、すべての者に生活に必要な基礎となる資金を政府が与えるというものなのです。そして、その意味するところは、世界を変えると言うことなのです。」

「世界を変えるか。」

「ええ、かつて創造された世界で、ジークムントという心理学者が、魂の中にある野蛮なもの、根源的な憎悪と破壊衝動は絶対に根絶できないと主張しました。そして、彼の学説は、二度の世界大戦で実証されたように見えなくもない。でも、我々はそれは正しくないと信じてきました。それが基礎給付法の出発点なのです。」

「かつての人間たちの社会では、富なくしては徳も成り立たぬ、と言われていたしな。」

「その通りです。基礎給付法によって、争うことよりもただ素直に受けることがはるかに自分にとって大きな利得があるという世界が実現できたと思っています。まさに、ジークムントの言った根源的な破壊衝動は克服されたのです。」

 この言葉を受けて、プシュパギリが発言した。

「ジークムントの説が正しいかどうかはよく分からないが、少なくとも社会格差を是正する方向にギランダの法案が大きく寄与したのは間違いない。かつての社会は、人間の社会でも神々の社会でも、放っておけば自然に社会格差が拡大してゆく社会だった。富める者はますます富み、貧しい者たちはますます貧しくなる社会だ。実際、創造が停止される少し前の人間の社会では、人口の一パーセントの富豪たちが富の八割以上を握っていると言われていた。神々の世界はそこまでひどくはないが、それでもギランダ法案ができる前は大きな格差が存在した。そして、そんな格差はそもそも単純には貧しい者たちを虐げているとも言えるし、実際問題として、さまざまな社会の軋轢と不安定さをもたらす。その意味で、社会格差、経済格差を適正な程度の範囲に収めるためにギランダの法案は大きな役割を果たしたわけだ。」

 シャルマも言った。

「ある意味では社会格差が進歩を導くとも言えるし、進歩の結果、社会格差が拡大するとも言えるが、いずれにしても、ギランダの法案は社会格差の縮小に大きく寄与し、世の中に大きな安定をもたらしたわけだ。」 

 そう言われてギランダは素直にうれしそうだったが、彼は同時にこうも言った。

「ただ、あの法律だけではうまく機能しなかったでしょう。ある意味、基礎給付法が成功したのはシャンターヤが作った資産税法のおかげです。」

「それはたしかにそうだな。」

 シャルマはそう言うと、続けて言った。

「ギランダから基礎給付法の相談を受けたとき、理念としては素晴らしいが、実際に、財源という点でうまく機能するのかと正直、疑問に持ったよ。たしかに、ロボットが世界の生産を支えるようになり、すべての神々がある一定以上の生活をするのに必要な消費量を世界全体の生産能力が上回ってきたのは事実だが、ただ、神々に支給する基礎給付の財源という点が大丈夫かと思ってね。それで、財務長官になっていたシャンターヤに相談したらどうかと言ったんですよ。」

「なるほど。」

 ナユタがうなずくと、ギランダがその先を説明した。

「最初、シャンターヤは難色を示したんです。政府財政の観点から言えばノーだ。そう彼ははっきり言いました。でも、同時に、少し時間をくれないか、策を考えてみる、とも言ってくれた。なんと言っても、昔からの仲間ですからね。しばらく経って彼が持ってきたのが、資産税法の原型でした。彼はプシュパギリに相談してこの法律の考え方をまとめたんですけどね。」

「そうなのか?」

「ええ。でも、考え方は簡単です。」

 そう言って、プシュパギリが続けた。

「要は、たくさん持っている者からたくさん取ると言うことです。ただ、たくさん収入がある者からたくさん取るのではなく、資産が多い者からたくさん取る仕組みに変えたわけです。ご存じと思いますが、ざっくり言えば、それまでは収入と消費に対して税が掛けられていたのを、シャンターヤの税制改革で、収入に対する課税を廃止し、代わって資産に対して課税するようにしたわけわけです。これは経済的にも大きな効果を生みました。それまでは収入に対して課税されるだけだったので、いくらでも蓄財が可能だった。しかし、資産税法によって、ただ金や資産を保有していても、それはただ年々減ってゆくだけになった。、だったら、金を使って資産を減らし、税率を下げた方が利口だという心理も働く。資産税法の最大税率は五%ですからね。」

「その金が世の中に出て行くことによって経済も活性化するわけだな。」

 ナユタがそう言うと、その通りという表情でプシュパギリが続けた。

「また、ある一定以上の資産を持っている者にとっては、資産税の方が基礎給付より多くなります。それはある意味では、ある一定以上の資産をもっている者は基礎給付を受け取っていないのに等しいと言うことです。」

「しかし、資産に課税するのは、個神の資産を把握するという点で難しい点もあるんじゃないのか?」

「いや、実際、それが一番の課題でした。ただ、時代がキャッシュレスになり、すべての売買取引などが電子的に把握できるようなったおかげで、解決できています。金融資産は把握されていますし、資産税法以降に購入された資産、すなわち、土地や建物、金、ダイヤ、宝石、美術品等ですが、それらも把握されています。もちろん、それ以前に購入された資産には自己申告されていなければ課税できていないわけですが、その資産を売ろうとすると、過去に遡って課税され、その税率も通常の三倍になりますので、なかなかこの税法の網をかいくぐるのは簡単ではありません。」

「なるほど。そう言った意味でも、みんなの努力でこの世界がより良い世界になっているということだろうな。」

 そう言ってナユタが三神をねぎらうと、ギランダがおもむろに言った。

「でも、創造が停止され、基礎給付法も成立し、もう、自分たちが為さねばならないものはなくなったようにも見えます。それとこの前議会に提案された男女議員同数法はご存じでしょう?」

 ナユタが知らないと言うとギランダが説明した。

「かつての世界は、この神々の世界にしろ、創造された人間たちの世界にしろ、基本的に男優位の社会でしたが、ヴィダールの創造の最後のあたりから女性の社会進出が目立ってきました。」

「たしかに、そのようだな。」

「もっとも、女王のシュリーは、同性の進出を必ずしも喜んではいなかったようなのですが、ユビュは女性の進出に力を入れていましてね。ウバリート学園からはたくさんの優秀な女神が輩出され、社会のさまざまなところで活躍しています。そして、ウバリート学園では、昨年、ついに、女性の教授の数が男性の教授の数を越えたということです。マーシュ大学ではまだ女性教授は四分の一程度ですけどね。」

「その旗頭はナキアかな。」

「ええ、ご存じのように、彼女は、世界初の女性教授で、ウバリート学園では副学長としてユビュを支えています。」

「クレアもがんばっているんだろうな。」

「そうですね。また、政治の世界でも女神がどんどん進出してきて、今、議員の三分の一が女神です。それを男女同数にしようというのがその新しい法案です。」

 シャルマが口を挟んだ。

「強制的に男女同数にするのが良いかどうかは疑問もあるが、能力を有する女神が増えてきている現状を踏まえるなら、適切な法案とも言えるな。皮肉な言い方をするなら、男神も議員の半数を確保できるわけで、将来的には、男神保護の役割を果たすかもしれないけどな。」

 ギランダが再び言った。

「そんなわけで、今後男神の議員は大幅に減るわけで、シャルマは議員からの引退を表明していますが、我々も身を引くのにちょうど良い時期かと思っています。」

「もっとも、一番早く引退したのは、ナユタとヴィクートだがな。」

 そう言って笑ったのは、シャルマだった。この言葉にちょっと苦笑いしてナユタが訊いた。

「だが、シャルマも森に別荘を建てて移るとか聞いたが。」

「いや、実は建てるんじゃなくて、古城を一つ買い取ったんだ。」

「古城?」

「実は別荘を建てようかと思って土地を見に行ったんだが、そのとき、ついでに森のはずれにある古城を案内されて。外観は古風な作りだが、内部は全部リフォームされていて、気に入ったんで即決で買ってしまったよ。」

「古城って高いんじゃないのか?」

 そうプシュパギリが言ったが、シャルマは笑った。

「いや、安いもんだよ。せいぜい高級車一台分くらいの値段だ。土地の値段なんてただに近いしな。」

「じゃあ、これからはそっちで暮らすのか?」

 ナユタはそう訊いたが、シャルマは否定した。

「ああ、そこで少しのんびり暮らそうと思ってるけど、ただ、何もしないのもつまらないので、ビハールの家と行ったり来たりを考えてる。ありがたいことに、コンサルや講演などの依頼も次々あるんでね。」

 シャルマらのコンサルタント料や講演料が法外とも思えるほどの高額であり、それにもかかわらず依頼が絶えないという話もネットで読んだことがあった。

「それで古城での生活はどうなんだ?」

「すこぶる快適だよ。召使いロボットが三台いるんで、庭の手入れや家の中のことはすべてやってくれる。朝、起きて、木々に囲まれたベランダで鳥のさえずりを聞きながら飲むコーヒーは格別だよ。それから犬と散歩に行くんだ。」

「犬を飼ってるのか?」

「ああ、ロボットだがね。トラジーって言うんだ。毎朝、散歩をねだるんでかわいいよ。その時間が近づくとそわそわしてきて、おれがぐずぐずしていると、せかすしな。だが、ともかく、ビハールのせわしなさから解放されて、ゆっくり冷たい空気を吸えるのが良いよ。」

 政治の世界から身を引き、新しい生活を始めるのはシャルマだけではなかった。プシュパギリもギランダも次回の総選挙には立候補しないということで、プシュパギリは故郷のヤズディアに帰るつもりということだった。

「今もヤズディアの大学で客員教授を兼任しているんだ。年にほんの数回授業をするだけだがな。それで議員を辞めたら学長に就任して欲しいという話がきていて、その話を受けるつもりだ。」

 一方、ギランダは一切仕事はしないつもりと言い切った。

「おれは、おれの作った基礎給付法を活用させてもらうよ。かつて、ルガルバンダとの戦いで敗れた後、行者に扮して世界を放浪したことが懐かしくてね。もう一回、世界を隅々まで訪ねてみたいんだ。」

 三神それぞれ自分の新しい生き方に踏み出そうとしているのがよく分かった。久しぶりの再会の場で、話は尽きなかったが、そんな中でナユタはイルシュマのことを持ち出した。

「ところで明後日イルシュマが会いたいと言うので会うんだが、おまえたちはイルシュマとの関係はどうなんだ?以前は、イルシュマがヴィダールの創造を支えたこともあって、対立していたはずだが。」

 この質問にはまずシャルマが答えた。

「今はいちおう和解していますよ。創造も終わったことですし。創造が生み出したおぞましい世界という点では創造には問題があったと今も信じているが、一方で、あの創造によって生み出された高度な科学技術が今の我々の世界を支えているわけでもありますから。」

 これを受けてプシュパギリが言った。

「まあ、ともかく、とてつもなく優秀な男だからな。シュリーとヴィダールの政府を支える大番頭のようなもので、政府の政策に沿ってビジネス展開もするし、自分のビジネスに都合の良いように政策を変えさせてもいるしな。政府への寄付や献金の額も半端ないし。世界の富の何割かはイルシュマのものと言われていますよ。」

 ギランダが付け加えた。

「実際、ヴィダールの創造で一番儲けたのはイルシュマですし。最近も、『スチュアート提督の野望』という映画がネット公開されてたいへん話題になっていますが、知りませんか?」

「スチュアートとは、あのニコベラン空襲の?」

「ええ。ですから、スチュアート中将が関わった世界一の戦闘機の開発から、空母艦隊の創設、そして、ニコベラン空襲、ビーラム沖開戦へと物語は展開するわけです。あの大戦でのできごとはたくさんの作品のモデルになっていて、イルシュマにしてみれば、儲けるための恰好の素材を提供してくれたということになると思います。」

「なるほどな。」

「ただ、イルシュマはただ儲けのことだけ考えている男ではありませんね。ご存じの通り、ユビュ様のウバリート学園の創設の時には資金を提供しましたし、今も奨学金などさまざまな支援を行っている。また、美術品を収集して美術館を開いたり、科学・芸術・文学などの分野ですぐれた功績のあったものへの賞も出しており、芸術文化面での貢献も小さくありません。」

「芸術方面では、エルアザルも一緒にやってるんだろうな。」

「ええ、そうですよ。芸術面ではイルシュマもエルアザルに頼り切ってますからね。さっき言った映画も実際の作製はエルアザルの会社が請け負っていますし。まあ、エルアザルも我々とは比べものにならないほどの金持ちですよ。」

 プシュパギリが付け加えた。

「ただ、あいつも儲けるだけじゃなくて芸術、文化を育成するのにもちゃんと力を注いでいる。バルマン芸術院やマーシュ大学にも多額の寄付をしているし、演劇家や俳優を養成する学校も作っている。その学校に入った者は学費から食費からすべて無料だ。とにかく、かつてヤズディアで一緒に戦ったときから、とにかく勇気と知恵のある男だったからな。」

「そうか。それじゃあ、エルアザルにも会わなくちゃな。ともかく、明後日はイルシュマに会うことにするよ。何か用件があるのかどうかも分からないけどな。」

 ナユタはそう言うとそれ以上はイルシュマのことは言わず、別の話題に移っていった。

 

 二日後、イルシュマの秘書から伝えられた超高級ホテルに行くと、すぐにコンシェルジュが最上階のレストランの個室に案内してくれた。

 イルシュマは既に来ていて、

「来ていただいて、ありがとうございます。」

と笑顔で挨拶してきたが、体型はかつてとは大きく違ってでっぷり太り、貫禄がついていた。

 ナユタは笑って言った。

「久しぶりだな。それにしても、ずいぶん貫禄がついたものだな。」

 給仕が席を引いてくれて、ふたりが席に着き、給仕が乾杯用のスパークリングワインと前菜を並べると、イルシュマは、

「再会を喜んでおります。積もる話もございますし。」

と言って乾杯し、料理を勧めて言った。

「今日の料理は、ビハール屈指のシェフに作らせております。ご堪能いただければと思います。」

 前菜にはサクラマスとアスパラのスモーク、イクラのワカサギの南蛮漬け、ウニの冷製パスタ、などが並んでいたが、とてつもなくおいしかった。

「たしかに、うまいな。森から出てきて、ビハールでマンションに住むようになって、準備してもらったロボットが作る料理もおいしくてびっくりしたが、これはまた格別だな。」

「ありがとうございます。それにしてもナユタ様はビハールはほんとに久しぶりなのでは?ビハールもずいぶん変わって驚かれたのではないかと思いますが。」

「ああ、前にビハールにいたのは、まだヴィダールの創造があった時代だったからな。」

 ビハールの新しい生活や住む場所のことなどでひとしきり会話が弾むと、ナユタはさらに言った。

「それにしてもイルシュマも偉くなったもんだ。保有資産はシュリーの資産をはるかに越えているらしいし、おまえに関する本もたくさん出ているらしいな。この前も、『イルシュマに学ぶ成功の秘訣』とかいう本も出ていたな。」

「恐れ入ります。でも、ある意味、メディアが彼らのビジネスのために私を利用しているだけですよ。成功者を取り上げて、ある意味、そいつをヒーローに仕立て上げるわけですから。でも、私がやって来たビジネスも失敗も多い。ただ、トータルして成功による利得が失敗による損失を上回っているだけです。世の中の者たちが見ているのは仮面に過ぎないということです。」

「まあ、それはそうかもしれないな。」

「ええ、だから、私が本当は何に苦労し、何に心を配ってきたかはどの本にも書いてありません。結局、世の中は美談やヒーローを欲しているということです。クマルビも言ってましたよ。成功した技術者、研究者がしばしば取り上げられるが、思いつきがうまくいったとか、失敗からヒントを得たとか、そんなのはまやかしだって言ってました。たしかに、一回だけならそれで成功することもあるんでしょうが、繰り返し成功するための秘訣はたゆまぬ努力と綿密な取り組みだけだと言っていました。」

「だが、ともかく、おまえもクマルビもそれからナキアもみんなよくやってるよ。とろこで、一つ聞いておきたいんだが、一昨日、シャルマらに会って話を聞いたところによると、いちおうおまえとも和解状態ということのようだな。」

「ええ、お陰様で、ありがとうございます。ヴィダールの創造が閉じられて、シャルマらも創造が生み出した科学技術が現在の世界を支えていることをいちおう認めてくれていますし。ただ、本質的に同意できたわけではなく、私はシャルマらが厳しく糾弾していた創造された世界の問題点、人間たちが生み出すおぞましい世界そのものについても、この世界で何が起こりうるか、何が生じうるかを形にして見せたという点で価値があったものと思っています。」

「まあ、それは分からなくもないが、それは創造者の言い分であって、創造された者たちの立場に立ったものの見方ではないだろう。かつての地上であったように、人間のためにモルモットの命を犠牲にして研究をするのとなんら変わらない。」

「ただ、そのモルモットたちは人間のために役に立つわけで、同じように、人間はわれわれ神々の役に立つわけです。」

「だが、その意味するとことは、我々神々も人間と同じように傲慢な発想に立っているというわけだ。」

「そう言われればその通りです。我々神々は結局、傲慢な存在だということで、私はそれを否定はしません。それが現実だと思いますので。」

「だが、本来は、我々は、神の道とか、真理への道を歩むべきではないかと思うが。」

 この言葉にイルシュマは大きく笑った。ちょうど、給仕が次の料理やワインを持ってきたのでちょっと話が中断したが、ワインで改めて乾杯し、次の料理に手をつけると、イルシュマは改めて言った。

「ナユタ様は真理とか神の道とか言われる。けっこうなことです。しかし、そもそも、神の道とはなんぞやです。たしかにナユタ様は真の道を求め、神としてのあるべきものを目指しておられるかもしれない。しかし、世のほとんどの神にとって、求めているのは、ただ、自らの満足や充足、自らの平安や慰安、そういったものではないですか?それが傲慢な発想、傲慢な存在というならその通り。ですが、それが現実です。現にある実の姿です。そして、そんな神々によってこの世界は成り立ち、維持されている。森の神は真理を追い求めているかもしれないが、森の神だけでは世界は成り立たない。これもまた真理ではありませんか?」

「それについては、その通りかもな。ただ、おれは、それに同調する気はないということだ。」

「立派な心がけであり、気高いお心です。ただ、私の道はそこには通じていない。そして、世の神々の道もまたしかりです。たしかに、ナユタ様に、世の神々に同調していただく必要はありません。ただ、これだけはご理解いただきたいのは、この現在の世界を維持するということを怠れば、またいつでもかつてのルガルバンダ時代のような暗黒の時代に逆戻りしかねないということです。そして、その今の世界を支えているのは、森の神ではなく、この世界のまさに傲慢な姿勢の世の神々なのです。」

 ナユタが残念ながら同意せざるを得ないといった表情でうなずくと、イルシュマは大きな笑顔を見せて言った。

「だが、ともかく、ナユタ様。私はこれからもナユタ様をお支えいたします。何なりとお申し付けいただければと思います。」

 ナユタも笑って冗談めかして言った。

「その言葉はありがたいが、おまえはシュリーやヴィダールにすり寄り、彼らの御用商人とか言われているんじゃないのか?」

 イルシュマは笑い飛ばした。

「はっはっは。御用商人と言われているというのは事実ですし、実際に、そんなことをやっているのも事実です。ですが、それはビジネス上のディールでしかなく、敬意からではない。ディールと言っても、多分に政治的なディールの要素を含んでいますが。ともかく、私の心は、かつてバクテュエスで初めて会ったときからずっとナユタ様とともにです。そして、ナユタ様やユビュ様が私に道を開いて下さったことへの感謝を忘れたことは一度としてありませんぞ。実際、ユビュ様のウバリート学園には少なからぬ貢献をさせていただいておりますし、今後も継続してゆきます。」

「そのようだな。ナキアやクマルビもウバリート学園を支えているようだし。」

「ただ、私に言わせれば、ふたりとも世間から隔離された学園に逃避しているようなところもありますし。でも、まあ、そこの水が合うならそれでよし。妹のナキアはむしろウバリート学園の僧院のような生活が好きなようですしね。」

「まあ、そうかもしれんな。数学の数式に打ち込むには、ビハールの喧噪よりも良いだろうな。」

「ええ、それにナキアは自由性愛を毛嫌いしていますし。自由性愛なんていやらしい限り。心を情欲にかき乱される生活なんてまっぴら、と彼女は言ってますので。ともかく、ナユタ様が森におられたときには私がなすことはなかなかなかったでしょうが、今回ビハールに出てこられたのですから、いろいろとお手伝いさせていただいたり、支援させていただいたりしたいと思っています。」

「その申し出自身はありがたいがな。」

「そう言っていただいてありがたく思います。それにしても、この世界は様変わりし、立派になったとは思いませんか。もちろん、それが、真理とか、神の道とかに照らしてどうかというのはあるかもしれませんが、でもともかく世界は豊かになり、困窮と苦労が常に根底にあった神生は、喜びと幸せに満たされた神生に変わった。そして、世界は平和のうちに時を刻んでいる。」

「まあ、それについては同意するよ。神々は生き生きとし、皆喜びをもって生きているように見えるしな。そして、それが、ヴィダールの創造によってもたらされたということも否定はしない。こうして、おまえとこんな高級なレストランでこんな高級な食事をできるのもそのおかげだし。かつて、ベルジャーラで初めて会ったときには考えられもしなかったことだ。」

「そうですね。惨めな辺境の民族のひとりに過ぎなかった私が、こうして、ナユタ様と優雅に食事を楽しんでいる。まことに万感迫るものがあります。」

「そうだったな。厳しい時代だったからな。だが、あの時、初めて会って、おまえの才能はすぐに分かったよ。」

「ありがとうございます。私にとっては、正直言って、バルマン師やマーシュ様、ユビュ様のために力を尽くしてはおりましたが、未来が見えていたわけではありません。その私にとって未来が見えたのはナユタ様がベルジャーラに来られた時でした。そして、ある夜、ナユタ様がサントゥールを響かせられた。その響きを聞いて、私には目の前に未来が開けてくるように思えたものです。そして、おそらくユビュ様も同じ思いだったのではないかと思いますが、ルガルバンダとの戦いに起つことを決意されました。」

「そうだったな。それにしても、あれ以来のおまえの献身には感謝しているよ。」

 その言葉にイルシュマが軽く頭を下げると、ナユタはエルアザルのことを聞いた。

「そういえば、エルアザルは依然として活発に頑張っているようだな。」

「ええ、とにかくやり手ですので。ナユタ様はエルアザル・シアターには行かれましたか?」

「いや、ビハールのことはまだよく知らなくて。」

 ナユタがそう言うと、イルシュマはシートディスプレイを取り出して指で操作した。壁際の天井からロールディスプレイが降りてきて、そこにシアターの写真が映し出された。

「エルアザル・シアターはビハールで一番の劇場でして。演劇もやれば、ミュージカル、コンサートなどもやります。大きなホールもあるので、美術展もときどきやります。もっともナユタ様の影響と思いますが、エルアザルは決して下卑なものはやりませんでね。例えば、ただ人気があるだけのミュージシャンなどは絶対に舞台に立たせません。」

「なるほど。そういうことなら、ぜひ行ってみたいものだな。」

「それでしたら、いつでもどうぞ。エルアザルの事業はすべて私のビジネスの範疇にあり、私のビジネスに関するものはナユタ様はすべて無料でご利用になれますので。クレンペラーのコンサートもありますし、ちょうど今週末は地上でナユタ様も関わられたセルゲイの舞踊もやる公演があります。」

「セルゲイの舞踊か。それは懐かしいな。」

「では、席をお取りしましょう。何枚用意しましょう。私がお付き合いしても良いんですが。」

「いや、一枚でいい。ひとりで行くよ。」

「分かりました。それでは、最上の席をお取りしましょう。エルアザルにも言っておきます。」

と言って、イルシュマはタブレットで予約を入れてくれた。

「予約は簡単ですので、今後、自由に何枚でも予約いただいてけっこうです。」

「そんなことをしたら、赤字になるんじゃないのか?」

とナユタは笑って言ったが、イルシュマも笑って答えた。

「大丈夫です。ナユタ様がどんなに頑張っても、劇場がそれでえ埋まることはありませんので。」

 そう言うと、イルシュマはさらにエルアザル・シアターでの催し物などをひとしきり説明してうれ、ビハールでの住まいのことや大学でのことなどに話題を移した。道は違うかもしれないが、かつての仲間との交流にはやはり心温まるものがあった。

 

 その週末、ナユタはエルアザル・シアターに出かけた。その劇場は宮殿に続く大通りからちょっと入った広場に面していた。ナユタが劇場でリストバンドをかざすと、すぐに上品なコンセルジュロボットが歩み出て言った。

「ナユタ様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ。」

 そのロボットについて行き、案内された部屋に入ると、待っていたのはエルアザルだった。

「おお、久しぶりだな。」

と声をかけたナユタに、エルアザルは深々と頭を下げて言った。

「ほんとうにご無沙汰しております。今回、ナユタ様がビハールに出てこられたと聞いて、ぜひここにも来ていただきたいと思っておりました。」

 開演までそんなに時間があるわけではなかったので、挨拶と簡単な話だけだったが、エルアザルは公演の後、一緒に夕食をと言ってくれた。

 公演では、さまざまな踊りが披露された。ヤズディア、ドルヒヤ、バクテュエスなどの地方の伝統的な踊りもあれば、セルゲイが手がけた舞踊もあり、さらには最前衛の創作舞踊もあった。セルゲイの舞踊では、かつてナユタやマティアスが作曲した音楽が使われて舞踊が披露され、ナユタは目頭が熱くなるのを押さえられなかった。

 公演が終わると、劇場内のレストランでエルアザルと夕食を共にした。

「いかがでしたでしょう?ナユタ様の目から見ると、いろいろ至らない点もあるかと思いますが。」

とエルアザルは言ったが、ナユタは笑って答えた。

「立派な公演だよ。伝統的なものもあれば前衛もある。良いことだ。それにしても、セルゲイの舞踊は久しぶりに見たが、ほんとに懐かしかったよ。」

「ありがとうございます。それにしてもセルゲイは、ほんとに斬新で芸術性の高い舞踊を残してくれたものだと思います。よろしければ、今後の催し物などを定期的にご案内しますが。」

 エルアザルがそう言うので、案内をもらうことした。エルアザルはさらに舞踊のための音楽をお願いできないかとか、この劇場の出し物のための顧問になってくれないかとも言ったが、ナユタはやんわり断った。

「また機会があったらな。今回は、この現在のこの世界を見るためにビハールに来たんだ。たぶん、そんなに長くは居ないし。」

 エルアザルは残念がったが、ナユタがエレアザルの事業に理解を示してくれたのにはほんとうにうれしいそうだった。

 

 

 こうしてビハールでのナユタの新しい生活が始まっていった。ドレッシェルはナユタにマーシュ大学での講演やあるいはできることなら定期的な講義を依頼したかったようだったが、ナユタはそれは受けなかった。

 その代り、ナユタはドレッシェル教授と個人的に意見交換したり、ドレッシェルのゼミに定期的に出席することにし、さらに、バルマン芸術院にも席を作ってもらい、新音楽の探求を行うとともに、バルマン芸術院のメンバーとの交流を行うことにした。

 ナユタが出席した最初のゼミで、ドレッシェルが取り上げたのは、「進歩」についてだった。

 ドレッシェルは次のように話を始めた。

「ルガルバンダが拓いたこの世界は、ある意味、良くも悪くも、欲望を満たすことを第一義にした社会だった。ルガルバンダの覇権が倒れた後も、ルガルバンダによって火をつけられた神々の心の内の欲望は消えなかった。欲しいものを手に入れるためにしのぎを削る社会、それが手に入れば、次の欲求に必死になる社会、より多く手に入れる者が羨望のまなざしを浴び、より多く手に入れようと努力することが優れたことと評価される社会だ。さらに、ヴィダールが始めた創造によって地上で激しい技術革新が起こり、それによって得られる快適さや新しい喜び、新しい興奮などが神々の世界にも押し寄せると、その欲望はさらに高まったように見える。当時、地上では、進歩があたりまえのこと、当然のこととして捉えられ、神々の世界でもこれからは進歩の時代だということが大いに叫ばれたものだった。」

 そう語ると、ドレッシェルは一枚のグラフをスクリーンに映し出した。

「これはよく知られたグラフだが、」

と言って、ドレッシェルは説明を続けた。

 横軸が年、縦軸はエネルギー消費量の対数のグラフだった。ウパシーヴァ仙人が言っていたことに相当するグラフだった。グラフには二本の線があり、一本が地上のもの、もう一本が神々の世界のものだったが、二本とも指数関数的にエネルギー消費が増えてゆく様子を示していた。ただ、そのグラフでの最新の年はシュリー紀元百六十年だった。

「このグラフによって、進歩は加速度的に起こり、その速度はどんどん速くなってゆくと主張された。進歩は加速度的に進むという説が、ある意味、通説となったわけだ。ある技術革新が起こると、それが派生的にさまざまな新たなブレークスルーを引き起こすため、進歩がどんどん速くなるのだと説明された。だが、このグラフを見て。、おやっと思った者もいると思うが、このグラフは紀元百六十年までしか示していない。これがこのグラフのみそなんだが、それでは、その先はどうなるか?」

 そう言って、ドレッシェルは次のグラフを出した。

「最初に出したエネルギー消費量の推移を示したグラフはシュリー紀元百六十年までのものだったが、これは、その後の変化を示したものだ。」

 そのグラフによれば、エネルギー消費量は、シュリー紀元百六十年以降は伸びが緩やかになってきているのが見て取れた。

「少なからぬ学者がこのデータに基づいて、進歩が緩やかになり、やがて進歩は止まると主張した。だが、これに反対する学者も多かった。彼らは、エネルギー消費量の増加がなくなっても、あるいは減少に転じたとしても進歩は加速度的に進む。エネルギー消費を抑えられること自身が進歩なのだ。彼らはそう主張した。」

 それはナユタがウパシーヴァ仙人から聞いていた話の通りだった。

 ドレッシェルは話し続けた。

「だが、私たちの実感としてはどうだろう。たしかに加速度的に進歩が起こっている領域も少なくないが、進歩が緩やかになってきている科学領域が増え、全体としての変化はかつてに比べてだんだん緩やかになっているように私は感じている。かつては、世の中に進歩に取り残されまいと必死についてゆく神々がたくさんいたものだが、いまではそんな心配をする者はほとんどいないんじゃないだろうか。」

 この問いかけに、出席者の多くがうなずいた。ドレッシェルが続けた。

「定常になるのか、進歩は続くのか?それはまだ議論されている。だが、進歩が緩やかになっているのは間違いないと私は考えている。また、一部の学者は、無限の欲求がある限り、この社会は無限に進歩を続けると主張しているが、ほんとうにそうだろうか。君たちはどう思う?」

 この問いかけに、

「先生。」

と、さっそくひとりの学生が手を上げた。

「以前のゼミで、先生は、たしか、過去の神々と創造された人間の世界を見てくると、進歩し発展した社会は必ず、その発展によって生じる矛盾によってその発展を阻害する力が働き、社会の崩壊や停滞につながる、ということをおっしゃっておられました。そう考えると、一部の学者の言う無限の進歩はありえないことになると思います。」

「良い視点だ。ではまず、この点から議論しようじゃないか。」

 そう言って、ドレッシェルは微笑んだ。

「たしかに私はそう言った。だが、進歩は無限と主張する学者たちはこう言っている。現在の我々の世界は、自らの社会の発展が引き起こす矛盾とそれによって生じる阻害要因を克服できているとね。たしかに一見するとそう見える。かつての進歩や発展は、社会格差と貧富の差を増大させ、その結果、支配者と被支配者の軋轢が増大した。その軋轢を抑え込むために、さまざまな権威や武力が必要となり、それらが交錯して社会の歪み、矛盾が増大し、極限的な悲惨さを生み出しさえした。だが、今、我々の世界では、進歩と発展は社会格差と貧富の差を縮小させ、社会の根本矛盾を解消する方向で進歩が進んでいる。ギランダ法案が大きな役割を果たしているとも言える。だから、発展を阻害する力は生まれず、新たな欲求が新たな進歩を生み、進歩は無限に続く。一部の学者たちはそう主張しているのだ。」

 別の研究員が発言した。

「でも、無限ということはそもそも原理的にありえないのでは?」

「たしかに、原理的に、無限というのはおかしいかもしれないね。ただ、進歩は無限と主張している学者たちはこう主張するだろう。言葉通りの無限というのは適切ではないかもしれない。ただ、現在は究極のところにまったく到達していないわけで、『進歩は実質、無限に見えるくらいこれからも続く。』という意味なのだ。言葉の表現として、『進歩は無限』と言っているだけなのだ、とでも言うのではないだろうか。」

 この言葉に出席者たちは考え込んだ。誰もが、ドレッシェル教授は進歩は無限には続かないと考えているのだということを知っていたが、「進歩は無限には続かない。」ということを主張する論拠を持ち出せなかった。

 発言する者がいないのを見て、ナユタが発言した。

「新参者の私が発言するのはおこがましいかもしれませんが、」

「いえいえ、どうぞ自由に発言なさってください。そういう場ですから。」

 ドレッシェルが笑顔で答えると、ナユタは

「ありがとうございます。」

と言ってさらに続けた。

「私は以前、森で、ウパシーヴァ仙人と進歩は停滞しつつあるという話を交わしたことがあります。そのときのウパシーヴァ仙人の言葉を思い出しながら今しゃべっているのですが、進歩は不満から生まれ、逆に満足は進歩を停滞させるとは言えないでしょうか。私はこのビハールに来てまだ日が浅いのですが、ここではっきり目の当たりにしたのは、現代の社会が神々の心を非常に満たしているということです。物質的な充足と時間的なゆとりがあり、制約のない自由な世界であり、さまざまな喜びや楽しみで満ちている世界です。そんな世界は、新たな進歩を生み出す力を弱めるのではないでしょうか。現状に満足する心は進歩を生み出さない、とは言えないでしょうか。先生は、発展によって生じる矛盾によって発展を阻害する力が働くと言われたとのことでした。発展には不満が不可欠なのに、発展によって不満が減少し、進歩を進める力が弱まるという矛盾が生じると言えないでしょうか。」

 最後の言葉はやや無理な解釈、無理な論理構成でものごとを捉えようとしている印象を与えたが、ドレッシェルはそのことは指摘せず、うなずいて、少し話題を変えて次のように言った。

「その点を考える上で、ネオビートニクは良い題材だと思っています。神々の世界でネオビートニクが、シュリー紀元百五十年頃、ビハールに出現ししたのをご存知ですか?」

「ええ、直接には知りませんが、情報は入っていました。」

「そもそも、ビートニクは、創造された地上で、最後の世界大戦が終わってしばらく経って現れた現象でした。当時、若者たちが突然、だらしのない身なりでニュークルツの一角にたむろし始め、放縦の生活を始めました。彼らは義務を嫌い、古い価値観を否定し、反抗の精神を露わにしました。フリーセックスを賞賛し、闘争を忌み嫌いました。そう言う意味では、自由性愛はビートニクの産物でもあります。当時、多くの人々はそれを理解せず、偏狭な敵意か、冷笑を伴った無視で対応したものでした。」

「ただ、その現象はわずか数年で消えたと聞いています。当時、私もニュークルツにいて、その若者たちを目にしましたが、社会に浸透することはなかった。」

 ナユタがそう口を挟むと、ドレッシェルは軽く微笑んで言った。

「社会に浸透することはなかったという表現は正しくないのではないかと思います。たしかに、表面上は消えたかもしれません。でも、それは消えたのでもなく、彼らが世の中に同化してものでもありません。世の中が彼らを受け入れたのです。そして、彼らの精神こそが、次の時代の基礎となる精神なったのです。」

 ナユタがなるほどという表情でうなずくと、ドレッシェルは、スクリーンに別の資料を映し出した。『地上のビートニクと神々のネオビートニク』と題された資料で、何年か前の学会での講演資料のようだった。

 ドレッシェルはその資料を使って説明した。

「神々の世界に、ネオビートニクと呼ばれる現象が現れたのは、シュリー紀元百五十年頃でした。当時は、百四十七年にギランダ給付法が施行され、ある意味、一切働かなくても生きてゆける制度ができた直後でした。ギランダ給付法に反対する神々は、そんなことをしたらみんなが怠惰になり、社会のモラルが崩壊すると警鐘を鳴らしたのですが、まさにそれが形に表れたのがネオビートニク現象と言えます。精神構造的には、創造された地上での過去のビートニクの影響も大きかったと思います。彼らはかつての地上のビートニクと同じように、神々の義務を嫌い、古い価値観を否定し、自由恋愛と自由性愛を賞賛し、闘争を忌み嫌いました。」

「ただ、そのネオビートニクも長くは続かなかったのでは?」

 ナユタがそう言うと、ドレッシェルはその通りという表情を見せた。

「地上のビートニク同様、ネオビートニクは長くは続きませんでした。しかし、先ほど、地上のビートニクは消えたのではなく社会が受け入れたと言いましたが、同じように、ネオビートニクも社会に受け入れられたのです。なぜなら、ネオビートニクの精神は、世の神々の心の奥底に眠っていた精神だったからです。本当に望んでいるものと結びついたものだったからです。」

「それはどういう意味でしょう。」

「それまで神々の世界は常に緊張した世界でした。ヴァーサヴァの創造の時代までは、神々は清貧の中で生きていました。偉大な神々ですら、贅沢とかにははまるで無縁でした。しかし、ルガルバンダ時代に入ると経済的な発展、技術の進歩が始まりました。そして、ヴィダールが新たな創造を始めると、創造された世界での科学技術の進歩を取り入れることによって飛躍的な経済発展が始まりました。そして、ギランダ給付法です。この豊かな社会こそネオビートニクの源泉です。安定した経済が当たり前であり、不安も貧困も欠乏もない世界、その中で育った若い神たちの心にあったもの、それは、古い権威の否定でした。彼らには成功への努力は無縁だったのです。」

 ナユタは答えた。

「たしかにそうかもしれません。そういう意味では、神々は使命を忘れ、ひ弱になり、ただ、自分たちの欲望にだけ目を向けているように見えます。」

「その通りです。かつてのヴァーサヴァの時代にはすべての神はなすべきものを持っていました。偉大な神々はそれぞれ崇高な使命を背負っており、それ以外の神々もみな世界を支えるための義務を持っていました。しかし、今やそのようなものはこの世界を生きるために必要なものではなくなりました。必死に働く必要はなく、変化も進歩もゆっくりした世界で、けれど、刺激だけは求めている世界です。そして、刺激は溢れんばかりに提供されている。だから、いわゆるハードワークをする者はいなくなりました。もちろん、好きで必死で働く者がいないわけではありませんがね。そして、基本的神権という考え方がすべての神々を護っている。理想をめざし、自らの使命を果たそうとする崇高な精神、モノを求めず精神の清らかさを尊ぶ心は失われてしまったように見えます。」

「それに関連するかもしれませんが、今の世の神々は本を読まなくなったと聞いています。かつては、宇宙開闢以来のすべての書物を読んだというルガルバンダのような神もいたわけですが。」

「同感です。ただ、厳密なことを言うと、必ずしも本を読まなくなったわけではありません。むしろ、現代はかつてないほど本が読まれ、そしてかつてないほどのスピードで消費されているのです。ただ、その本というのは、軽い本です。神々の興味をそそる題材について書かれた本、底の浅い小説などなどです。古典を読む者はめっきり減りました。自らを高めるために哲学書を読み、思索に耽るということもなくなりました。」

「そういった意味では、皆、自らの感覚を満たし、喜ばすために本を読んでいるということですね。そして、世の神々の生き方も。」

「その通りです。かつて、偉大な神々の心の本質は世界への挑戦であり、世界との戦いであり、それがさまざなま英雄的精神と英雄的行為、まさに創造的行為を生み出してきました。それは、例えばナユタさんでした。ナユタさんは、世界との際限のない戦いをするよう運命づけられていたように、私には見えます。そして、あなたは常に求め続け、決して満足することがなかった。」

「そうかもしれません。そして、現在も、この世界の在り方に対する強い疑念が心の底に沈んでいるのも事実です。」

 そのナユタの言葉にうなずくと、ドレッシェルは言った。

「その現在の世の中こそ、進歩がもたらしたものであり、そして同時に、その行き着く先は進歩の終焉ではないかというのが私の基本的な考えです。しかし、かつては進歩の終焉を予言し、警告を発する者も多かったが、今はそんな者たちも少なくなりました。みな、この世界に満たされているのです。でも、少なくとも、私は科学技術の進歩が終焉とまでは行かないとしても、進歩が緩やかになっているのは実感しておりますし、それが我々の世界に及ぼす影響は決して小さくないと信じています。私の研究室で、科学技術の進歩と我々の世界の関係について検討を重ねている学者がいますので、次回は、彼女に話をさせたいと思います。ナデシュダ博士、どうかね。」

 名前を呼ばれたナデシュダという女神ははっきりした声で笑顔を見せた。

「ありがとうございます。準備させていただきます。」

「よろしい。では、次回は二週間後に。」

 ゼミが終わると、ナデシュダ女史はドレッシェルとナユタのもとにやって来て、改めて挨拶した。

「ナユタさんが問いかけられている神々の在り方というものに対して、科学技術の進歩がどのようにかかわっているかを私の研究に基づいてお話しさせていただければと思います。」「ありがとうございます。それで、ナデシュダさんはどういうバックグランドをお持ちなんですか?」

 ちょっと意表を突かれた質問だったのか、一瞬彼女は口ごもったが、すぐに答えた。

「私は大学で心理学の講座で学び、神々の欲望や衝動の起源、すなわち、何によって欲望や衝動が起こるのか、何が欲望や衝動に作用するのかを研究して、博士号を取得しました。それで、今は、ドレッシェル先生の研究室で、何が科学技術の進歩を引き起こすか、進歩の速度を決めいてる因子は何なのか、それと神々の欲望や衝動がどう関わっているのか、ひいては社会がどう作用しているのかを研究しています。」

「それはおもしろい。二週間後が楽しみです。」

「ナユタさん。彼女は気鋭の学者ですのでね。期待していただければと思います。」

 そうドレッシェルが付け加えた。

 

 二週間後のゼミで、ナデシュダ博士は、まず、こう前置きした。

「今日は最新の研究成果も交えて、科学技術の進歩の影響について論じることが目的ですが、その核心に入る前に、一つの質問、一つの問題提起をしたいと思います。」

 そう言って、彼女は、スクリーンに文字を映し出した。そこには、

「なぜ、産業革命は創造された人間の世界で起こり、神々の世界では起きなかったか?」

と書かれていた。

 ナデシュタ博士は次のように続けた。

「産業革命は、創造された世界で、ある時期、ある地域で発生しました。蒸気機関が発明され、それに連動するように、鉱工業の革新と拡大が次々に引き起こされました。私たちは歴史の事実としてただ単純にこのことを受け入れています。しかし、立ち止まって考えるなら、なぜ、産業革命は創造された人間の世界で、あの時期、あの地域で起こり、地上の他の地域や神々の世界では起きなかったかという疑問が湧いてきます。神々の世界は極めて長い歴史を持っています。しかし、神々の世界では一度も産業革命は起こりませんでした。なぜなのでしょうか。ちなみに、これはこの問題の提唱者の名をとって、オルソン問題と呼ばれています。」

 これはナユタにとっても考えたことのない新しい問いかけだった。でも、たしかに、考えてみれば、その疑問はたしかに疑問だった。

 ナデシュタ博士は言った。

「今日はこのことが主題ではないので、簡単に答えたいと思います。それは、かつて地上の歴史学者ジョゼフが唱えた『挑戦と応戦』[2]という概念、あるいは、我々の世界で最近イアンという歴史学者が言っている『発展のパラドックス』[3]という概念で答えられ得るでしょう。文明の進展によって引き起こされる社会の中での軋轢とそれに対する人々の応戦が、それまでなかった新しい世界を生み出すのです。狩猟採取社会から農耕社会へ、集落から都市へ、封建国家から中央集権国家への移行もすべてそのような力によって生み出されました。そして、産業革命は、先進国家間の競争が生み出す軋轢の力で生み出されました。まさに、創造された世界のあの時期、産業革命という応戦がなされる環境が生み出されていたのです。一方、神々の世界にはそのような環境は生まれませんでした。もし、ルガルバンダ帝国が打倒されず、別の帝国との並立、さらに、どの帝国にも属さない複数の辺境という構図が生まれ、それぞれが競いながら発展する構図となれば、あるいは、神々の世界にも産業革命が生まれたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。ルガルバンダの帝国は打倒され、民主的で平和な単一世界が生まれたからです。」

 ナデシュタ博士はさらに続けた。

「さて、その後のヴィダールによって創造された世界は産業革命によって急速に発展した科学技術によって進歩を続けました。そして、私たちの世界はその科学技術を学ぶことで同様の進展を続けてきたのです。そして、今、科学技術の進歩は、私たちをこれまでにないほどの高みに昇らせています。では、今後の科学進展と社会進展はどうなってゆくのでしょうか?それには大きく二つの意見があり、加速度的進展理論と漸近集約理論と呼ばれています。誰か、これを簡潔に説明できますか?」

 若い学生のひとりが手を上げて答えた。

「加速度的進展理論では、科学技術の発展と集積によってさらに新しい次のブレークスルーがより短期で生み出されるため、進歩は加速度的に進むと主張しています。だが、疑問を挟む学者がいなかったわけではありません。そもそも無限などというのはありえないのではないか、という発想です。これが漸近集約理論に結びついています。一方、漸近集約理論では、すべての科学技術の進展はS字カーブを描くという経験則に基づき、また、進歩が無限ということはないという考え方から、進歩はだんだん緩やかになると予想します。」

「良いでしょう。では、どちらが正しいのでしょう。君の意見は?」

「ぼくが今感じているのは、進歩が緩やかになってきている科学領域がある一方で、加速度的に進歩が起こっている領域も少なくなく、それらが社会をさらに大きく変えつつあるのではないかということなのですが。」

「良いでしょう。実際、過激な加速度的進展理論者は別として、多くの加速度的進展理論者はこう主張しています。社会と科学技術が無限に加速度的に進歩するかどうかについては意見を保留してもいい。なぜならそれは今考えねばならない喫緊の課題ではないからだ。ただ、言えるのは、現在、そして近い将来は、まだ、進歩が緩やかになるのではなく、加速度的に進展する状態なのだ。そう彼らは主張しています。でも、本当でしょうか?技術だけに焦点を当てればそういう考えになるかもしれません。しかし、その技術を開発するのは誰なのか?ということを考えねばなりません。」

「だから、神々の欲望や衝動との関係が大事になる。」

 そう、ドレッシェルが口を挟んだ。

「そのとおりです。産業革命について言及しましたが、その革命を起こした人々にはそうするだけの理由があった。さらに、その後の科学進展も、人々の欲望や衝動が生み出したブレークスルーと改良とによって加速度的に進展したのです。それを受け継いだ神々の世界でも、より良い生活、より便利な生活という欲望、そして、それを生み出すことが自らの大きな利得になるという社会構図の中で創造された世界に依存しない進歩が可能となりました。しかし、今、どうでしょうか?ギランダ給付法はすべての神に安定した豊かな生活を保証し、神々は今の生活に満足して生きています。もちろん、科学技術が引き出す新しいものは常に心を高ぶらせ、神々を惹きつけます。ただ、新しいものを受け入れるには自らも何らかの変化が必要となることに留意しなくてはなりません。そのため、その新しいものが何を生み出し、もっと端的に言えば、今不満足な何ものを叶えてくれるのかという点がポイントとなります。進歩が早ければ、それだけ大きく心を動かされる。しかし、心の抵抗も比例して大きくなる。そのとき、それによって得られるものがそれに対応するだけ大きければ、神々は新しいものを次々に受け入れるでしょう。しかし、今、神々は満たされた世界に生き、そのため、新たに得られるものの価値は相対的に低下しつつあります。そのため、神々は、次第に新しいものに以前ほどは強く惹きつけられなくなり、以前ほど熱狂しなくなっているように見えます。今以上に何かを求めないなら、進歩はそんなには進まない。産業革命のようなことはもう起きないのです。」

 ナデシュタ博士は別のグラフをスクリーンに映し出した。そのグラフでは、全宇宙の総生産金額の年次推移がプロットされていた。そのグラフはまさにS字カーブを描いていた。

「このグラフを見て、どう思いますか?」

 ナデシュダ博士のこの問いかけにナユタが答えた。

「このグラフを見る限り、答えは明白なのでは?進歩は止まりつつあると言えるのでは?」

 しかし、ナデシュタ博士は首を振った。

「いいえ。進歩が続くと主張する学者たちは、進歩と生産金額が相関するという考えに同意しないでしょう。実際、かつての創造された地上の世界においても、年平均成長率十パーセント程度の経済の高度成長期が終わり、年々の成長率が二〜三パーセントあるいはそれ以下に低下しても、技術の進展、すなわち進歩はその後も続きました。そして、そこには、技術の進歩によって価格が下がるという事象も深くかかわっています。実際、以前よりはるかに高性能のものが同じ価格で手に入るようになり、あるいは、同じ機能であれば、はるかに安く手に入るようになったのです。」

 ナユタがうなずくと、ナデシュタ博士は続けて言った。

「ですから、このグラフ一枚で、進歩が終焉すると主張するのはやや乱暴で、学者としての分析が不十分と思います。そこで、私は、このようなことを考え、分析するとき、まず、この世界にとって重要な技術分野を特定し、それぞれについて、どのような経緯をとっているかを分析することが必要と考えました。この場合、その技術分野が少なすぎてはいけません。誤差が大きくなりすぎますからね。ただ、一方で、多すぎると分析が煩雑になり、また、分析の統一性が保てなくなる恐れがあります。そのようなことを考えて、私はここに映し出した三十の分野を選びました。」

 次のスライドが映し出された。スクリーンには、メモリ技術、演算技術、情報処理技術、食糧生産管理技術、自動調理技術、コミュニケーション技術、移動体技術、エネルギー技術、センサ技術、ロボット技術、フレキシブル技術、ディスプレイ技術、ゲーム技術、映像処理技術、感情操作技術、仮想現実技術、ナノ分子制御技術など、彼女が選び出した最先端技術分野が並んでいた。

「これらの技術について生産金額の年次推移を示したのが次のスライドです。」

 次のスライドが映し出された。三十の技術それぞれについてのプロットが打たれたグラフで、それぞれの技術についてすぐに理解するのは難しかったが、彼女は言った。

「非常に見にくいグラフになっています。三十もの分野すべてを一緒にプロットしていますからね。でも、全体を見るにはこのグラフは適しています。見てお分かりと思いますが、現在において、急速に進展している分野は必ずしも多くありません。でも、三十年前には、多くの技術が急速な進展の最中だったのです。」

 ひとりの研究生が発言した。

「たしかに、説得力のあるグラフと思います。ただ、選ばれている技術が現時点で主要と見なされているものであるため、そのように見えるということはありませんか?これから急速に伸びる技術はまだ注目されておらず、取り上げられていないということはないでしょうか。これから三十年後に先生と同じように、その時点で重要と思う技術分野を三十選んでこのようなグラフを作ると、三十年前は多くの技術が急速に進展していたけどということにはならないのでしょうか?」

 良い視点だった。ナユタもなるほどと思った。だが、ナデシュタ博士はうなずきつつもこう答えた。

「非常に重要な視点と思います。ただ、それを検証するのは簡単ではありません。三十年経てば、明白になってくるでしょうが。それで、そのような批判も考えて、別の検討を行いました。」

 そう言うと、彼女は別のグラフを示した。

「市場規模がギランダ給付金の一万倍以上ある商品で、過去十年間に市場が十倍以上になった商品をリストアップし、その数を年ごとにグラフにしたのがこちらです。このグラフを見ると、その数が年々減少していることが分かります。これこそが進歩が停滞しつつある明白な証拠ではないかと思えます。さらに大事なことは、それが神々の心に何を引き起こすかということです。」

 そう言うと、彼女はスクリーンにさらに別の一枚のグラフを映し出した。

「これは諸先輩方の調べたデータも含めてまとめたものですが、過去三十年に渡って集計してきたアンケートの結果です。毎年、その年に出たトピックス的な新技術や新商品について、無作為に選んだ被験者に五段階の評価をつけてもらっています。これを見ると、大きな傾向として、新しいものが神々の心を高ぶらせる傾向がだんだんと減じているのが分かります。それはそのまま、新しいものを生み出す努力によって得られる利得が小さくなってきていることを意味しており、新しい科学技術を生み出そうとする力を削いでゆくことになります。そして、実際、政府の予算も科学技術のためより、安定のためにより多く注ぎ込まれている。もし、ギランダ給付法がなく、そのための予算を科学技術に注ぐなら、もっと進歩するのかもしれませんが。」

「では、あなたは進歩は止まると。」

 そうナユタは口を挟んだ。

「ええ。おそらく、理論としては、加速度的進展理論と漸近集約理論はそれぞれ正しい面を持っています。そして、現実の世界は、その二つの力がせめぎあう場と見えます。かつては、加速度的進展理論の正しさを証明するような技術進展が起こる領域が数多くあり、もちろん、今もそれは少なくありません。ただ、相対的に見るなら、その率は下がっているように見えます。」

 その後もナデシュタ博士の提示した内容を巡って議論が続いたが、進歩の終焉についてこれほどはっきりした見解を聞いたのはナユタは初めてだった。まさに、ウパシーヴァ仙人が言っていたことが、科学的に主張されていたのだ。

 だが、ゼミの最後で、ドレッシェルは次のように言った。

「たいへん有意義なゼミだった。だが、この問題を考えるとき、もう一つ重要な点は、今日の議論とは逆の議論です。心、欲望、社会が進歩というものにどう影響するかということが彼女の研究課題で、それは非常に重要なのですが、もう一つの視点は、科学技術の進歩というものが神々の欲望や衝動にどう影響するのか、ひいては社会にどう作用するのかということです。問題は、進歩そのものが停滞することではないとも言えます。」

 そうドレッシェルは言い切ると、さらに続けて補足した。

「進歩が停滞し、変化に乏しい世界が実現した時、その中で神々はまどろんで生きるだけになるようにも思えます。かつての創造された地上の世界で、進歩から取り残された未開の地域では、まさに同じことが起こっていたのです。それは言ってみれば、何かを目指し、新しい何かに挑戦する心がなくなるとき生まれる世界とはどんな世界なのかということでもあるのです。」

 これこそが、ドレッシェルが心に抱いている問題の核心なのだとナユタは思い至った。たしかに、この世界のことを考えるためにもっとも重要なことは、進歩が終焉するかどうかではないはずだった。大事なこと、本質的なことはもっと他にあるはずだった。

 

 その日、家に帰って、ナユタは考え込んだ。パキゼーの法が輝いて以降、世界はただ下り坂になっているのかもしれなかった。たしかに、世界の本質はパキゼーが見抜いた通り、空であるとしても、この世界において、真なるものが何であるかは依然として謎であり、その真なるほんとうのものを求めねばならなかったのではないか。そして、一方で、今の神々の在り方は、真理から目をそむけ、ただ、享楽に興ずるだけではなかったか。それがナユタの心で渦巻く疑問だった。

「真理が輝かねばならないはずだ。」

 そうナユタは心の中でつぶやいた。

 なんのために生きているのか?存在し続けることにいかなる意味があるのか?仮にその意味が空であるというのが自明であるとしても、存在することの意味が問われ続けねばならないのではないか。それがナユタの心の中の声だった。

201763日掲載 / 最新改訂:2019316日)


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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第6巻