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神話『ブルーポールズ』

【第6巻】-

向殿充浩

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 ナユタが森の中に閉じ籠もり、世捨て人のようにただ淡々と日々を送っている間にも、神々の世界は着実に進歩を続けていた。創造が停止されたシュリー紀元百三十一年、すなわち、シュリーが戴冠した年から百三十一年目以降、神々の世界は創造された人間たちの世界の成果に依存することなく自律的に技術進展できる世界へと変貌していた。

 そして、平和で安定した社会の上に立った神々の世界は、さらなる技術進展によってますます豊かになっていた。シュリーとヴィダールは神々の世界を繁栄させるためのさまざまな施策を押し進め、神々から絶大な支持を得ていた。

 生産は機械化され、ロボットが活躍した。乗り物は自動で動き、もはや自動車も列車も飛行機もロケットも神々自身が操縦する必要はなかった。

 農作物は工場での完全管理の元で生産され、肉類はシュリー紀元百四十五年以降は、動物や魚を屠るのではなく、完全に、工場で食肉として生産されていた。すなわち、肉の素から肉を増殖させるという画期的な技術であった。

 そんな世界は、まさにウパシーヴァ仙人が予言した通りの世界ということであり、ある意味、至福の世界でもあった。ある著名なジャーナリストはこう公言したほどだった。

「我々は今や、かつてはとても考えられもしなかったほどのユートピアに生きている。」

 そして、そんな世界を支える法案の一つが、シュリー紀元百四十七年にギランダが提唱した『基礎給付基本法』だった。それは、元々は創造された人間たちの世界において発案され、一部で試行的に取り入れられたりもした制度だったが、すべての神に、安定した生活を送るための給付金を与えるというものだった。

 そのような考え方は、神の数が大きく増え続けている間は成り立ちにくかったが、世界が豊かになり、教育の普及に伴って子供の出生率が劇的に下がり、その結果、神口が斬増しかしなくなったことが法案成立の背景にあった。神の数が増えないなら、世界の総生産量の増加が、そのまま、ひとり当たりの消費可能量の増加に直結するのだ。

 そして、ギランダは、機械化とロボットの導入によって増大した世界の総生産量が、すべての神に一定レベルの安定した生活を提供するのに十分な量となったことを踏まえ、この法案を提出したのだった。また、一部の巨万の富を築いた者に富が集中しすぎることの裏返しとして、十分に豊かな暮らしができるとは言い難い神々が多数存在していた現実も背景にあった。この法案を実施するための財源確保のために、富裕層を中心に大幅な増税とはなったが、そもそも一部の者たちが使い切れもしない富を占有している現実と、それによって引き起こされる社会格差がさまざまな軋轢を招くことを考えれば、ある意味極めて現実的な解と言ってよかった。

 『基礎給付基本法』は別名『ギランダ基本法』とか『ギランダ給付法』とか呼ばれたが、すべての神に、十分に安定した生活をするための基礎給付を行うという法案であり、この結果、この法案に基づいて給付されるものによって得られるもので満足するなら一切働かなくてもよくなったのだった。

 もちろん社会格差は依然として存在したが、生活のために働かねばならないとか、生活のためにあくせくしなければならないとかいったことは、もはや過去の話となったのだった。実際、まったく仕事をしない神も少なくなかった。また、仕事を続けるにしても、それは働くことが楽しいからとか、基礎給付では得られない贅沢をしたいからとかということが一般的になっていった。

 その結果、神々は平穏な日々をさまざまな楽しみに満ちて暮らすことができた。適度な苦にならない仕事をこなし、プライベートの時間には自分の好みに応じた生き方をする。それが大多数の神々のライフスタイルだった。

 日々の生活では、レストランでの食事、映画鑑賞、観劇、スポーツ観戦、コンサートなどを存分に楽しむことができ、テニス、水泳、ゴルフ、スキー、スケートなど、自分の好きなスポーツを望むときに楽しむことができた。ピクニック、ハイキング、山歩き、登山、海水浴、セーリング、観光旅行や長期のリゾート旅行も楽しまれた。

 コミュニケーションのための技術進展は、遠く離れた神々とまるで一メートルの距離で会っているかのごとく過ごすことを可能としたし、テレビとオプティックネットはさまざまな楽しみとコミュニケーションを運び、その空間で行われるゲームや賭け事は神々を興奮させた。ネットは次々に新たな映像と情報を運んできたし、さまざまなゲーム、映像、音楽などもいつでもどこでも存分に堪能することができた。家に戻れば、リビングでは、四方を囲まれた壁型有機発光ディスプレイによって、遠い観光地や海や山にまさに自分がいるかのごとき体感を得ることができたし、風の匂い、潮の匂い、花の匂いもリビングに流れるのだった。

 そしてこの世界を支えるもう一つの存在がロボットだった。ロボットは生活を支えるだけでなく、サッカー、野球、テニス、ラグビーなど、すべてのスポーツをこなし、ロボット同士の試合を観戦することも神々の楽しみだった。神々はひいきのチームや選手を熱狂的に応援した。時には、ロボットに挑戦する神が現れ、話題をさらうこともあった。

 

 そんな世界の変化の中で、森に住むナユタは何を考えて生きていたのだろうか。

「地上の人間たちは最後には平和の内に安閑として生きるようになったが、今の神々はその延長にあるだけだ。かつて清貧の内に生きていた神々は、今は、豊かな物質生活を享受し、享楽の中に身をやつしている。だが、それは生を称賛し、自らの存在の根源への疑問を封印した世界観の上に生きているにすぎない。世界は秘密のベールを失い、一切が平板になった。」

 そんな疑問に付きまとわれながら、ナユタは森の中で日々を送っていたのだった。そしてそのナユタの心の中には別の思いが沈み込んでいた。

 それは、突破されねばならないものは何一つ突破されていない、という思いだった。幾多の創造が繰り返され、神々の世界は変化してきたが、いまだ真理に行き着いたわけでもなく、真の道が具現化されたわけでもなかった。パキゼーの光はたしかに真の光であったかもしれないが、それはもはやほとんど忘れ去られていた。

 真理は何一つ具現されず、世界は下り坂の道を歩いているようにも見えた。輝いていた光は弱まり、世界のみずみずしさは失われてはいなかったか。世界には相も変わらず喧噪が渦巻き、単に興奮と感興が沸騰するだけの場になってはいなかったか。

 そして一方で、その世界の中で自分は何をしているのかという疑問もあった。自分は相も変わらず、今もなお地に這いつくばり、遊星の上をあてどもなくうごめいているだけではないか。真理は輝かず、真音にも行きついていない。結局、何一つ、形になっていない。道が混乱し、心が光を失って澱んでしまっているのではないか。そんな思いがナユタの胸の内で疼いていた。それは、ある意味、一個の個神として、自分自身の在り方を問い詰める問いでもあった。

 夜、しばしば、ナユタは真っ暗な部屋にロウソクを灯して知らない超越者に祈りを捧げた。星座たちが法則から外れて不規則に運動しているのが感じられた。不気味な意志が、超越者からか、あるいは他の絶対者から漂ってきているかのようだった。世界がかすかに瓦解し始めているのが感知できた。

「神々の世界を導くのが使命ではない。」

 そうナユタは自分に向かってつぶやいた。だが、パキゼーの法が心を満たしたわけでもなかった。音の道においても、どんな音楽を生み出せば良いのか、どんな音を奏でれば良いのか、進むべき道が見えなかった。道が混乱しているのが感じられた。

 

 そんなナユタの元にも文明の変化は次々と押し寄せていた。『ギランダ基礎給付基本法』のおかげで、森の神々も、今では、どんな貧しい仙人でさえ、温調の効いた安全な室内で暮らしていた。そして、オプテックネットのおかげで、全宇宙のどの神々とも即座に繋がることができ、欲しい情報は望みさえすればなんでも手に入れることができた。

 技術的な視点で言えば、肉類が工場で生産されるようになったことに伴い、動物を殺して食することが禁止された影響も大きかった。それまで魚などを採って食していた森の神々は魚を採ることができなくなり、森の外の工場で生産される魚肉類を購入する他なくなったからだった。そうなると、必然的に、森は孤立した自給自足の世界ではなくなり、外の世界との流通の確保が不可欠となる。そして、魚肉類などの注文では、街に出かけないならオプトネットによってネット注文せざるを得ず、これがオプトネットに抵抗を感じる森の神々を翻意させる大きな要因ともなったのだった。

 もっとも、森の神がテレビを見なければならないわけではなかったし、ネットで情報を取らねばならないわけではなく、誰かとメールをやり取りしなければならないわけでもなかった。だから、森の神々の多くはそれなりに孤立して暮らしていたし、バラドゥーラ仙人やナユタたちもそうだった。

 それに、森の生活は都会での華やかで喧噪に満ちた生活とは大きく異なっており、高級料理を出す格式の高いレストランとか、おしゃれなカフェとか、落ち着いた雰囲気のしゃれたバーとか、美しいネオンの夜景とか、そういったものは何もなかった。都会と違って、日々の生活が天候に左右され、雨や雪が降るとか、風が強いとか、ときには嵐が来るとかということもあった。

 だが、神々の世界の変化がさらに森の生活を変えようと押し寄せてきつつあるのも事実だった。実際、かつての森は結界によって守られた聖域であったが、シュリー紀元百五十五年に行われた宇宙憲章の改訂によって、ついに森も神々の政府の支配地に組み入れられたのだった。このとき多少の反論もあったようだったが、科学技術的に後進の森に対して政府がさまざまな援助を行うことを約すことによって、大きな混乱もなく受け入れられたのだった。

 その結果、森の生活の中にさまざまな文明の利器が浸透してきただけでなく、森は以前の隔絶された神聖な場所から、都会の神々にとって非日常的なものを与えてくれるリゾート地へと変化しつつあった。

 森には舗装された道路が整備され、おしゃれなレストランやリゾートホテル、さらには別荘が建てられた。スカイウェイという空の乗り物の着陸場所も森の中に整備され、ビハールから数十分で行ける森も少なくなかった。数人乗りの小型スカイウェイだけでなく、自動車ごと乗り込める大型スカイウェイ対応の着陸場所もでき、森は都会の神々が気楽にレジャーやレクレーションのためにやって来れる場所へと変貌しつつあった。まさに、かつて初めてナユタが森にやって来た時とはまるで違った世界へと変貌しようとしていたのだった。

 さらに、森の整備に対しては政府の支援が加わった。シュリーとヴィダールの政府は、神々の意見を入れて、森の整備を進める法案を議会に提出した。その法案が森を破壊することにつながるのではないかという反対意見もないではなかったが、大多数の神々が政府案を支持する中、政府案はさしたる問題もなく議会を通過した。森の神々の中には反対意見も少なくなかったが、森の神々が政治的に発言する力はなかったし、ナユタだけは別だったかもしれないが、ナユタは黙したままだった。

 森の整備がさしたる抵抗もなく押し進められた背景には、シャルマ、プシュパギリ、ギランダといった保守派の重鎮がこの森の整備法案に特に異論を唱えなかったためでもあった。創造の是非に関する争いがなくなって以降、彼らの政治的な求心力はなくなってきており、シャルマは、既に次回の総選挙には立候補しないことを表明し、整備された森に豪勢な別荘を立て、今後はコンサルタントや講演などを中心とした生活を送るらしかった。また、プシュパギリ、ギランダも正式にはなんの表明も行わなかったが、それぞれ政治の第一線から退くだろうというのが衆目の一致した見方だった。

 こうして、森の整備に関する法案が成立すると、都会に近いエリアは新たな整備区域として開発が進められ、そこに住んでいた神々は、政府の資金援助の元で奥地に引っ越すか、そのまま住み続けるかを選択することとなった。

 そして、これまで都会に住んでいた神々で、新たに森に住むようになった神も少なくなかった。ビハールでの興奮した生き方ではなく、静かな生活を望む神がそれだけいるということでもあった。森の生活がかつてのように困窮の中での過酷なものではなくり、それなりに快適になったからでもあった。そして、それだけ、森には下界の風が吹き込んできたということでもあった。

 ただ、宇宙の三賢神、バルマン師、ウダヤ師、マーシュ師は、依然として、世間から離れた僻地でひっそりと暮らしていた。彼らは、開発の手が伸びる森はむしろ敬遠し、それぞれ宇宙の僻地に留まっていたのだった。

 

 このような状況の中、都会との交流を好まない森の神々は次々と奥地へと引っ越すしかなかった。そのことは、ナユタらにとっても考えねばならないことであった。

 いち早く引っ越しを決めたのはエシューナ仙人だった。

「わしには世間の風はどうもな。またひとりで奥地で暮らすことにするよ。」

 仙人はそうと言って、引っ越していった。

 バラドゥーラ仙人も、ナユタのところにやって来て言った。

「わしも奥地に引っ越すことにしたよ。エシューナは既に引っ越したしな。ウパシーヴァやアシュタカも引っ越し先を決めたそうだ。政府も引っ越しのために奨励金を出してくれるしな。」

「そうですか。政府はこのあたりをリゾートエリアにしたいのでしょうね。それで、どちらに引っ越されるのですか?」

「この森の向こうにシュンラットという高原があるのは知っておるじゃろう。そこに移ろうと思っておる。高地なので、ここよりずっと気温が低くて、冬は雪に閉ざされるがな。もっとも、そこにも都会の風は吹き込んできてはおるらしいが、ここよりは格段に静かじゃろうて。それより、おまえはどうする。よければ、おまえもそこに行かんか。まあ、おまえはもともと森の神ではないし、ここにおるのも悪くないかもしれぬがな。」

 この問いかけにナユタはきっぱりと答えた。

「いえ、今より、リゾート化が進むことが確実な状況で、ここに留まり続けるつもりはありません。ただ、このままでは森はどんどん浸食され、私たちの居場所はなくなってしまうのではないかと心配です。」

 このナユタの心配に、バラドゥーラ仙人はからからと笑って答えた。

「心配いらんよ。世の神々は森にはなじまん。彼らはただ、喧騒に満ちた都会の生活に倦んだときに、森に新鮮さと慰安を求めるにすぎん。今は、森に進出してきているが、そのうち、それ以上森を浸食しないという平衡状態になるだろうよ。結局、世の神々は、都会の豊かさと刺激を必要としているからな。そしてまた、神々は森にあるものを都会に持ち込もうとするだろうしな。広々とした森林公園を都会の中に造ることもできるし、六面有機発光ディスプレイ空間に森の音や風や香りを組み合わせて、都会の中にまさに森を再現することもできるわけだしな。それにそもそも、神々が科学技術の力によって素晴らしい世界を手に入れたとしても、その世界は、この本当の世界の内のほんの一部でしかない。地図を広げて見ればすぐに分かるだろうが、世界の面積の九割以上は手つかずの森のままだ。そこでは太古以来の生き物たちの営みが相も変わらず続いている。だから、我々が、少し奥に引っ込めば、我々の森の世界は保てるじゃろう。」

「そうかもしれませんね。」

 そう言ってうなずくナユタに、バラドゥーラ仙人はさらに続けた。

「それに森の神も変わったしな。昔は、立ったまま一年を過ごす神、石の上に座ったまま三年間勤行を続ける神もいたものだが、今は、そんな行を行う者はほとんどおらん。まあ、残っているのは、ドゥータカ行者くらいだ。ドゥータカだけは、依然として超俗的な生き方を何の疑義ももたず、続けておるようじゃがな。」

「そうですね。むしろ、一般の都会の神の中から、冒険心と名誉心でとんでもないことをする者が出ているのが世の姿ですね。高層ビルの壁を何分で登れるとか。」

「そうだな。そう言った意味では、まさに都会の神と森の神の間には深い溝が依然として横たわっているということじゃよ。いずれにしても、おまえがいいなら一緒にシュンラットへ行かんか。」

「ありがとうございます。シュンラットは雪深いということですが、雪の国と言えば、かつて地上でトゥルナンという地に滞在して雪の世界の美しさを味わいました。厳しい寒さではありましたが、しばしば青い空の元で美しく輝く雪世界と澄んだ空気が心を高めてくれたものでした。私もそこに移りたいと思います。」

 このナユタの言葉に、バラドゥーラ仙人は素直に喜んで、答えた。

「では、そうしよう。これから具体的に住む場所のことや家のこと、引っ越しのことなどで忙しくなるがな。」

 

 それからしばらくして、ナユタの元にウパシーヴァ仙人がやってきた。

 ウパシーヴァ仙人も奥地に引っ越すことになり、その挨拶も兼ねてやって来たのだが、ナユタは改めて問いかけた。

「それにしても、神々の世界は、これからどうなるのでしょうか。」

 この問いに、ウパシーヴァ仙人はじっと考え込みながら答えた。

「その点については、さまざまな視点から考えねばなるまいな。だが、その中の視点として、重要なものの一つは、文明の進歩というものがこれからどうなるかということではないかと思っている。」

「文明の進歩。」

「そうじゃ。科学の進展によって引き起こされた科学技術文明の進歩といってもいいじゃろう。ヴィダールが創造した世界によって、科学技術の進展による進歩というものが生まれた。もちろん、それまでの世界、例えば、ヴァーサヴァが創造した世界、ルガルバンダが作り出した世界でも進歩はなくはなかったが、それは遅々たるものでしかなかった。それに対して、ヴィダールの創造した世界では、かつて例を見ない、激しい、そして急速な進歩が生じ、それが世界を、そして歴史を動かした。進歩は目にはっきり見えるもの、目を見張らせるものとなった。その創造された世界は停止されたが、その進歩は神々の世界に引き継がれ、今の我々の世界は、その進歩の上に成り立った世界となっている。進歩は神々を興奮させ、神々は進歩の果実を追い求め、血眼になってそれをさらに突き進めるようになった。ある意味では、進歩は神々の世界に活力を与えたと言ってもいい。だが、その進歩はこれからどうなるのか。それが、まさにおまえが問いかけている『神々の世界はこれからどうなるか』ということと密接に結びついておろう。」

 このウパシーヴァ仙人の答えは、『神々の本来の在り方』という視点から神々の世界を考えていたナユタの視点とは異質のものであったが、ナユタの興味を惹くものでもあった。

「たしかに、進歩がこの世界の在り方に大きく関わっているのは確かでしょうね。それで、その文明の進歩という視点から考えると、どういうことになるのでしょうか。」

「文明の進歩がいったい何を引き起こすのか?進歩と文明が我々の世界と我々自身に何をもたらすのか?それについては、依然として明らかになってはいないと言っていい。歴史を研究する者は多いが、多くの者はその場その場の事象に囚われて歴史の全体像を見ていない。それは一般の神々においてもそうだ。」

「そう言われれば、その通りかもしれませんね。」

「歴史学者もまずは歴史を記述することに専念し、次になぜそうなったかを議論する。だが、本質的な歴史の流れはどうなっているのか、そして、その流れはどこに向かい、いかなる本質的変化を引き起こすかについては十分な考察がなされているとは言い難い。文明の進歩が何をもたらしたか。進歩は戦争や格差を誘起したが、大局的に見るならそれは世界を豊にした。衣食住すべてがより良いものになり、今や生きるために働いたり、あくせくする必要はなくなった。だが、そんな進歩はこれから何をもたらすのか。一部の学者の間では、文明の進歩が何を引き起こすかについては真剣な議論がなされてきたし、今もその議論は続いておるが、本当には何も分かっていない。」

「ウパシーヴァ様でも分かってはおられないということですか。」

「そうだ。もちろん、わしには予言はできる。だが、それが正しいかどうか。実際に、さまざまな論争もあるしな。」

 ウパシーヴァ仙人は考え深げにそう答え、さらに続けて言った。

「実はな。あるとき、わしは招かれて、マーシュ大学に行ったことがあってな。マーシュ師からの直々の依頼で行ったのだが、文明の進歩について教授連と何度か議論したものだ。その時、わしは、こう問いかけた。『ひとつの技術の進展が次々に新しい技術進展の可能性を開くため、進歩は加速度的に進歩すると一般に言われている。だが、だとすれば、その進歩の速度はどこまでは高まるのだろうか。』とな。そして、わしはこう言った。『無限などということはありうるはずがないのだから、必ず、進歩はそれ以上加速度的にならない点に到達するはずだ。そしてまた、進歩はエネルギー消費の加速度的増加を引き起こしたが、エネルギーも有限なのだから、必ずエネルギー消費の増加速度が上昇しない点も来るはずだ。そのとき、進歩は止まり始めるのではないか。』とな。ただ、エネルギーの観点で進歩を論じるというわしの考えは、今から思えば、正しくなかったようだが、ともかく、ある有力な教授は反論してこう言ったよ。『進歩とエネルギー消費量の加速を結びつけるのは正しくない。エネルギー効率の革新によって、より豊かな生活をより少ないエネルギーで実現する方向に世界は進む。だから、いつかは、エネルギー消費が減少に転ずる日が来る。だが、それは進歩が止まることを意味せず、むしろ進歩が進むのだ。これまでは、エネルギー量の増加で進歩が量られていたかもしれないが、将来は、エネルギー効率が進歩の尺度となるだろう。』とな。」

「たしかに、エネルギー効率は劇的に向上しました。」

「その通りだ。エアコンが発明されたとき、最初は一部屋用で二キロワットだったものが、しばらくすると一キロワット、さらに五百ワット、三百ワットと減り、今やわずか二百ワットになっている。だから、わしがエネルギー消費の増加速度が減少に転ずるとき進歩が停滞に向かうと言ったことは正しくなかった。だが、彼らもまた正しくなかった。横軸に年をとり、縦軸にエアコンの消費電力を対数プロットすると、最初のうちは直線になっていた。だが、四百ワットを切るあたりから、その線は寝てくるようになった。それはどんな技術でもだいたいその傾向になっている。」

「技術の進歩が停滞し始めているということですか?」

「それではちょっと言い過ぎだがな。ともかく、いかなる技術も進歩の限界に突き当たるとは言える。ただ、それが文明全体の進歩とどう関係づけられるのかは依然として課題だろう。わしは、進歩は止まりつつあると思っておるが、それは直感であって証明されいるとは言えないと言われたら、その通りだろう。それに、今わしが述べた議論は極めて荒っぽい粗雑な議論で、実際には、文明の進歩を論ずるためのさまざまな指標が提示され、議論されている。」

「なかなか難しい学問領域なのですね。」

「そうだな。それに、文明の進歩を科学技術だけで議論するのはおそらく正しくない。科学技術の進歩は、ある意味、人間や神々の欲望によって生み出される。だが、同時に、科学技術の進歩、そして、文明の進歩は、その欲望そのものに影響を及ぼす。我々が本当に考えねばならないのは、科学技術の視点から文明の進歩を考えることではなく、進歩によって経済の安定が得られ、神々の心や欲望が変化し、それが進歩にどういう影響を及ぼすかということだ。」

 ウパシーヴァ仙人は一息ついてさらに続けた。

「別の観点から話をしよう。ひとつ、思い出してみるがいい。そもそも昔は進歩という考えはなかった。宇宙は繰り返すだけ、時間が流れるだけの世界だった。次々に創造が起こされ、そして創造が打ち壊されて次の創造が始まる。それがこの宇宙だった。ルガルバンダが世界を統一し、さらに、おまえがルガルバンダを打ち倒して新しい世界を拓いても、まだ、進歩という概念はなかった。だが、ヴィダールが新しい創造を開始し、その創造された世界で科学技術の劇的な進展によって進歩が実感され始めたとき、『進歩』という概念が初めて意味を持って語られるようになった。そして、その人類の科学技術を取り込んだ神々の世界でも進歩が始まった。そして、進歩は加速度的に進み、『現代は過去より優れている。』という思想が生まれた。別な意味で言うなら、かつては、時代は下り坂になっていると思われていたものだった。ヴィカルナ聖仙やナタラーヤ聖仙の時代の輝きを取り戻すことは到底できないと多くの神々が思ったものだ。だが、今や、聖仙の時代よりはるかに良い時代を我々は手に入れていると神々は信じている。だが、その進歩によって安定した世界が実現した時、進歩は終焉するとわしは信じている。」

「進歩が終焉する。」

 ナユタはつぶやくように、鸚鵡返しにこの言葉を繰り返して考え込んだ。ウパシーヴァ仙人が続けた。

「そうだ。かつて、世界というのは、その中に暮らす人間や神々にとって、決して満たされることのない場であった。人にしても神にしても、常に不満をいだきつつ生きるしかなかった。だから、彼らは外なる世界と戦わねばならなかった。昨日より今日、今日より明日を良くしたい、そういう強い思いに突き動かされずにはいなかった。前にも言ったことがあると思うが、ヴァーサヴァやヴィダールが創造した世界で、人間は食欲と性欲と征服欲に突き動かされていた。だが、これらの欲望は決して人間固有のものではなく、そもそもは神々自身の欲望でもあった。だが、今や、食は飽くほどにあり、性欲は現在の平和と安定によって満たされ、征服欲はギランダ法案などによって限りなく抑え込まれている。まさに、世界は、そこに住まう者たちにとって、十分に心を満たすことのできる場となっている。だが、そうなったら、進歩はどうなるか。進歩というものはある意味、不足、不満から生まれるものだ。より良いものを求めるところから進歩が生じる。だが、現状に甘んじればよくなったとき、進歩など生じようがないではないか。」

 この言葉にナユタはうなずいて言った。

「たしかに、そうかもしれません。神々の世界のことはいろいろとテレビやオプトネットで入って来ていますが、最近は変化があまりないようにも感じます。」

 ウパシーヴァ仙人が続けた。

「進歩は誰によってなされたのか?結局のところ、進歩は新たなものを目指す心をもった者たちによってなされてきた。しかし、進歩によって生活が安定し、未知なるものを切り開こうとする者が減れば、それだけ、進歩を押し進める力は弱まるであろう。時代を切り開こうとする者たちのたゆまぬ努力が、経済発展と社会の安定をもたらし、さまざまな不安と憂いを除き去ったとき、現状を楽しむことを第一に求める一般大衆に新しい時代を引き渡したのだ。そして、同時に、ルガルバンダを倒した後の自由主義と民主主義に基づく新たな政治体制が使命を持たぬ大衆に力を与えたとも言える。かつては、偉大な神々の前で素直に自らの非力を認め、腰を低くしていた大衆が、新たな政治体制の元で展開される衆愚政治の中、そして経済発展の中で力を得たのだ。そして、心ある神々は次々に居場所を失い、社会の中枢から去っている。そういった観点からも、今まさに、進歩が終焉しようとしているのかもしれぬな。」

 このような対話の後、ウパシーヴァ仙人はナユタに言った。

「一度、アシュタカ仙人を訪ねてみると良いかもな。」

 この言葉に、ナユタもうなずいて言った。

「私もそうしたいと思います。かつて私はアシュタカ仙人より道を指し示していただきました。今、この新しい時代に、仙人がなんと語られるのか、ぜひお聞きしたいと思います。」

 

 しばらく経って、ナユタはアシュタカ仙人を訪ねた。ナユタがやってくると、仙人は、笑顔を見せてナユタを迎えた。

「教えを乞いに参りました。」

と言うナユタに、アシュタカ仙人はあっさりと答えた。

「わしに教え授けるものがあるかどうか分からぬがな。ともかく、歓迎するよ。」

 ふたりが座に着くと、ナユタは問いかけた。

「宇宙では神々の争いが止み、平和で安定した世界が実現しました。その中で、神々はこの平和な時代を楽しみ、毎日、笑いながら過ごしています。もはや、悲惨な世界とか、殺伐とした大地とかいうものはなくなり、天上のごとき世界がこの宇宙に実現しています。この世界の新しい相について、仙人がどうお考えか、おうかがいしたくて参ったのです。」

 アシュタカ仙人は、

「また、恐ろしく難しいことを聞きに来たものだな。」

と笑って答えたが、さらに続けた。

「この新しい相が生まれ出たというのは、ある意味、歴史上の大きな転換を意味すると思っておる。歴史についてはウパシーヴァの方が詳しいかもしれんが、わしにも思うことがあってな。なあ、ナユタ。この新しい世界の相では、新しい哲学が止み、新しい美術も新しい音楽も止んだように見える。かつて、進歩が激しかった時代には、地上の人間たちの世界でも、この神々の世界でも、新しい世界の中で自らの在り方を問う新しい哲学が次々に興ったものだった。時代の精神状況の変化がそれを引き起こしていたことは間違いなかった。そして、その時代精神の変化は音楽や美術や文学にも影響を及ぼさずにはいなかった。だから、音楽や美術の新しい潮流が生まれ続けた。だが、進歩が緩やかになり、世界の変革の速度が落ちてくると、新しい哲学は生まれなくなり、新しい音楽も新しい美術も生まれにくくなる。芸術の革新を即す土壌がなくなっていると言えばよいのかもしれん。もちろん、おまえも含め、新しい芸術を追及している者がいないわけではないが、それはいわば、社会の片隅での出来事に過ぎん。」

「言われることはよく分かります。まさに、その通りと思います。縹渺たる大地にこぼれ落ちる音たちを拾い集める求道者のごとき音楽家はいなくなり、心を心地よく満たすだけの甘美な旋律を奏でる音楽家たちが世の神々の賞賛を受け、ときには崇拝さえされています。」

「その通りだ。そして、別の視点から言えば、本当の意味で大衆が力を持ったとも言える。かつて、創造された世界で産業革命の成果が世界を劇的に変えたとき、大衆という概念が生まれた。そして、大衆はそれ以前に比べればはるかに力を持ち、そして、煽動的で尖鋭な言葉によって大衆の心を掴む者が権力者にのし上がりさえした。だが、今から思えば、まだ大衆は本当には力を持っていなかった。そんな大衆の心を掴んで権力を得ようとする社会の上層にいる者たちが依然として主役であり続けたとも言える。それが劇的に変化したのは、オプトネットの発達によってだった。誰もが、自分の意見、考え、自分が撮った画像や映像を全世界に向かって発信できるるようになった。そのネット空間では、すべての参加者が対等となり、そのネット空間でもてはやされるものが、この世界で認められるもの、評価されるものとなり、非難されるものは、法ではなくネット空間によって裁かれた。だが、ともかく、その空間は大衆の心、大衆の考え方を基盤とした空間となった。そして、この新しい相において、神々は平安平穏のうちに生きている。神々はもはや誰に頼るでもなく、誰に帰依するでもなく、生きているのだ。大衆が求めるのは真理ではなく、現世の中での満足でしかない。」

「その通りです。もはや誰も絶対者に祈りを捧げようとはせず、自分たちがこの世界の主人であるかのごとき気分でこの大地を闊歩しているように見えます。」

 アシュタカ仙人はこのナユタの言葉にうなずくと、

「繁栄と安泰のあるところ、誰が絶対者を必要とするだろう。」

と言って言葉を区切り、さらに続けて言った。

「かつては、神々もそして創造された人間たちも切り立った断崖の上を歩いていた。冷たい風に吹きすさばれ、困窮と苦難の中で生きていた。そして、そんな存在者たちにとって、常に超在が必要だった。人間には神が、そして神には絶対者がな。」

 ナユタがうなずくと、アシュタカ仙人はさらに続けた。

「だが、今や、神々は幸福だ。欲しいものは手に入るし、手に入らないものは欲しがる必要もない。暮らしは楽で安全で、恐れるものはない。激情や不安にさいなまれることもなく、思想の対立も諍いも重要なものではなくなった。そして、それが自由の意味なのだ。かつてこそが不自由であり、今こそが自由なのだ。今は誰も不安定を欲しない。神々にとっては、不安定こそが不自由であり、安定こそが自由なのだ。」

「そうですね。神々の世界には快楽がどっさりとあり、今日はこの快楽、あすはこの楽しみと、日々飛び回れば済む世界になったようですね。常に新しい刺激、新しい感興があり、神々は飽きることがないのでしょう。そして、それらは、高尚なものからはおよそかけ離れた領域で、ただ、感覚や官能を喜ばせることどものみで構成されています。」

「その通りだ。まさに、この文明は崇高なもの、悲壮的なものを全然必要としていない。そんなものは、本の中、劇の中、映像の中で楽しめばいいものなのだ。どんな神も何かを争うよりは、ただ、安閑たるものの中に逃げ込む方がどんなに楽で、どんなに楽しいかを理解している。そして争うことによっては、それよりはるかにわずかなものしか得られないことも理解している。そう言った意味では、彼らの世界は、我々の森の世界とは大きく隔たっているわけだ。世界は二つの極に分裂したと言ってもいい。」

「真理はもはや必要とされていないようにも見えます。」

 このナユタの言葉に、

「そうだな。」

とうなずくと、アシュタカ仙人は話題を変えて次のように問いかけた。

「今の世界について考えるために、やはり一つ非常に重要なことはあの創造のことではないかと思う。わしは常々創造の価値について考えておるのじゃが、今にして思えば、あのヴァーサヴァの最後の創造こそ、最も偉大な創造であったとしか思えぬ。それまでの創造、例えば、ナラターヤ聖仙やヴィカルナ聖仙の創造は芸術作品としてはとてつもない輝きをもっておった。だが、新たな哲学思想を生み出した点、つまり、パキゼーのことじゃが、その点においてあのヴァーサヴァの創造こそ全創造の頂点に立つものだろう。」

「その観点に立つなら、あの創造の価値からはるかに離れたところに位置する現在の神々の状況はどのように見るべきなのでしょうか。」

「パキゼーの思想は、存在の根源を問うまなざしに源を発しており、それは真理へ至る真の道であった。一方で、ヴィダールの創造は、別の意味を持っている。科学技術がとてつもなく進展した点と、創造の限界を示したという二つの点で、画期的なものであったとも言えるだろう。そして今、神々の歴史は新しい相に入っている。だが、改めて考えるに、神々の世界は、実にパキゼーの発光以降、ただ、下り坂になっているようにも見える。」

 アシュタカ仙人との対話では、さらにこの現在の世界について様々なことが語り合われたが、アシュタカ仙人は最後にナユタにこう言った。

「だがな、ナユタ。もう一度、心に刻んでおかねばならないことがある。それは、存在は実はまだ極められてはいない、ということだ。未知なるものは昔のまま残っている。世界は謎のままだ。だから、ほんとうは、新しい哲学、新しい芸術が生まれ出ねばならん。それは世界の神々には無視されるかもしれんが、それは森の中から出てくるはずじゃ。だからな、ナユタ。おまえが世の神々と位相を合わせて生きる必要はない。彼らには彼らの流儀、彼らの思想がある。だが、我らは世の神々と同じ位相で生きておらぬし、そうせねばならぬ理由もない。ただ、いずれにしても、一度、おまえ自身で、この新しい世界を体験してみるのも良いかもしれぬな。たしかに、森でもテレビやオプティックネットがあり、様々な情報は入っては来るが、今を生きている神々との実際の接触、現在の森の外での実際の生活を体験してみなければ分からぬものもあろう。それらを自分で体験してみることも重要かもしれぬな。」

「そうかもしれません。お言葉を胸に刻んでおきたいと思います。」

 そう言って、ナユタはさらにアシュタカ仙人に丁寧に礼を言い、別れの言葉を述べた。

「なあ、ナユタ。またいつでも訪ねてくるがいい。おまえと話をするのはわしにとっても楽しみじゃよ。」

 アシュタカ仙人はそう言ってナユタを玄関まで見送り、ふたりは改めて別れの挨拶を交わしたのだった。

 

 家に帰り、ひとりになると、再びナユタは考え込んだ。

 自分とは誰なのか。自分は何をなすべきなのか。宇宙の虚無、誰が何のために創ったか分からないこの冷たい宇宙の中で、自分はいったいいかなる存在で、何をしたら良いのか。そんな根源的な問いが心の中に横たわっていた。

 たしかに神々の世界にも、さまざまな哲学、新しい思想があったが、そのいずれもが世界を突破しようとするものではなかった。いずれもが、世界の内に目をやり、世界の内のもののために思考を回転させているの過ぎなかった。この世界の中での生き方、在り方を考え、教えるものでしかなかった。

 もちろん、世界を突破しようとするものがないわけではなかった。そのもっとも偉大なものはパキゼーの教えであったろう。だが、それは、世界の内のためのものを何ら提供しないがゆえに、世に受け入れられないものでもあった。世に受け入れられるためには、世界の内での利得と結びつくよう姿を変えねばならず、それはそのまま、教えの真の意味が決定的に損なわれることをも意味していた。

 そしてまた、パキゼーの聖なる教えはたしかに偉大であったが、それでほんとうにすべてと言いうるのかどうか、という疑問もあった。

 そんな思いが、神々の世界から疎外された存在としての意識と絡み合い、ナユタをして、さらに深く考え込ませるのだった。ナユタは決して満たされていなかった。巨大な疑問がわだかまったままだった。すべては空であったかもしれないが、では、何をなせば良いのか。それに対する答えは未だに得られていないのだ。

 

 森でそんなことを考えながら、そして仙人たちと議論を繰り返していたナユタの元に、ある日、ウパシーヴァ仙人から突然、手紙が来た。手紙によれば、ウパシーヴァ仙人が以前、文明の進歩について議論するためマーシュ大学に行ったとき進歩の終焉を主張していたドレッシェルという教授にナユタのことを伝えたところ、その教授がナユタをマーシュ大学に招きたいと言っているということだった。ナユタがこの世界がこれからどうなるかということについて考える上でも、ドレッシェル教授の招きに応じるのはたいへんに有益だと思うという仙人の助言も添えられていた。

 手紙には、近いうちにドレッシェル教授から連絡が入るだろうと書かれていたが、実際、数日後、ドレッシェルから手紙が届いた。

 手紙によれば、ドレッシェルはマーシュ大学哲学科の教授で、元々は現代史の研究者であったが、近年は、神々の世界の変化を受けて、現在の神々の世界の分析と今後の在り方を論じているようであった。進歩がどうなるかという点もドレッシェルの大きなテーマのようではあったが、それ以上に、神々の在るべき姿を考えたいという哲学的思考が背後にあることが読み取れた。

 そして、ドレッシェルは、ナユタを旧世界の主役と位置付け、そのナユタと、現在の神々の世界とこれからの世界について検討するため、マーシュ大学に来て欲しいと提案してきたのだった。ビハールに住むところを用意し、マーシュ大学にポストを準備したいとも書かれていた。

 その手紙の文面からは、ドレッシェルが現在の神々の世界の在り方に疑問を持ち、それこそが、ナユタと会いたい理由であることがうかがわれた。また、現代の世界の分析を通して、新たな哲学思想を生む端緒としたいという趣旨のことも書かれていた。

 ネットでドレッシェルの経歴を検索すると、ウバリートの学園を卒業し、その後、その学園で研究を続け、今はマーシュ大学の哲学科の教授であることが分かった。

 ナユタはドレッシェルとメールでやり取りし、さらに、何度かテレビ会談を行い、この要請を応諾した。ウパシーヴァ仙人が現在の世界について進歩の終焉ということも交えて語ったこと、アシュタカ仙人が神々の現在の世界を実際に自分の目で見るのも重要ではないかと助言してくれたこともナユタの心を後押しした。

 しばらくして、ドレッシェルは、大学の客員教授のポストをナユタのために用意したので、あとはただ単身で来てくれればいいと伝えてきた。

 

 ビハールに出るにあたって、ナユタは再び長く伸ばしていた髪を短く切り、今風の服装に改めた。かつて地上に行っていた時の服もあったが、今では明らかに古くさい感じになっていたし、ドレッシェルがナユタのために、服や靴を送ってきてくれたのだった。

 さらに、ドレッシェルは、

「勝手に用意して恐縮ではあるが、ビハールに来てから着るための服を何着か、住む部屋に置いておいた。」

というメールもよこしてくれた。

 ナユタにとっては神々の都ビハールに行くのは久々のことだった。初夏のある日、約束の時間に森の入り口まで歩いて行くと、そこには地面が舗装された駐車場があり、一台の車が待っていた。ドレッシェルが用意してくれた車だった。ナユタが自動車に乗り込んだが、かつてのように神が自動車を運転するということはなく、自動車は、涼やかな女性の声で、

「ナユタ様、ようこそ。では、まず、スカイウェイの場所まで走ります。」

と言って、勝手に走り始めた。かつてビハールの街を走っていたガソリン車と違って、静かな電気自動車だった。スカイウェイの着陸場所まで来ると、そこにはスカイウェイが待っていた。ナユタが乗り込むと、スカイウェイはすぐに飛び上がり、ビハールまではひとっ飛びだった。降りた場所は、ある高層住宅の前だった。スカイウェイを降りると、ドレッシェルが自ら迎えに来てくれていた。

「お待ちしていました。時間どおりですね。」

とドレッシェルは笑顔で迎えてくれた。

「迎えに来ていただいて、ありがとうございます。スカイウェイは初めて乗りましたが、乗り心地も良いし、速いですね。」

 ナユタがそう応じると、ドレッシェルは

「まずは、住むところへご案内しましょう。」

と目の前の高層住宅に案内した。

「この建物は地上二百七十二階建ての新築マンションで、用意した部屋は最上階にあります。住む場所を確保するために大学や政府にも掛け合ったのですが、結局、ナユタさんのためならということで、イルシュマさんが用意してくれました。政府や大学が用意してくれるものよりはるかに良いはずですので。」

「そうですか。それはありがとうございます。イルシュマとは昔からの付き合いですが、いつも私のことを考えてくれてありがたいですよ。恩を決して忘れないという意味ではまさに神の鏡ですよ。もっとも私は必ずしも恩を施したわけではなくて、むしろ、最初から彼に助けられ、支えてもらったんですけどね。それにしても立派なマンションですね。」

「この建物は伝説の建築家カーランジャの弟子が作ったものでしてね。」

「そうですか。カーランジャは今はどうしているのでしょうね。」

「よくは知りませんが、今も、先駆的な建築に没頭しているらしいですよ。なにしろ、宇宙開闢以来の建築の天才ですからね。」

ナユタは、かつて闇の世界にヴィカルナ聖仙を訪ねた時に見たカーランジャの天才的なわざを思い出した。

 ふたりが玄関までやってくると、ドレッシェルは言った。

「建物や部屋にはいくつかセキュリティがありますが、ナユタさんの顔と瞳孔は既に登録されていますから、問題ありません。」

 ナユタがドアに近づくと、ドアは自動的に開いた。

 二百七十二階に上がるためにエレベータに乗ると、四方はガラス張りだった。エレベータが上昇を始めると一気に高度が上がり、周りの街並みがはるか下方に見渡せた。

 エレベータを降りると、ドレッシェルは言った。

「部屋では神型ロボットが待っています。彼女がすべて身の回りのことは世話してくれますよ。」

「そうですか。神型ロボットのことは知っていますが、森ではまだそんなものはないので、私自身は直接見たことがないんです。」

「そうですか。であれば、神型ロボットを体験するというのも意味がありますね。」

 部屋番号は、二千七百二十一だった。ナユタが玄関に立つと、ここでも自動的にセキュリティが解除されてドアが開いた。そして奥から若い女神が姿を現した。ドレッシェルから事前にロボットだということを聞いていなかったら、ほんとうの女神と思っただろう。そう思えるほど、まるでロボットらしさはなく、ほんとうの女神そのものだった。

「ナユタさんが来られたよ。」

と言うドレッシェルに、そのロボットは深々とお辞儀した。

「アミティスと申します。今日からよろしくお願い致します。」

 短いスカートから伸びる長い脚とまっすぐな黒髪が素敵だった。声はさっきの車の中で聞いた女性の声と同じような声だった。顔つきはどこかかつてのクレアを思わせるものがあった。

「話には聞いていましたが、これが神型ロボットですか。」

「ええ、今では一家にひとりのロボットは当たり前。ふたり以上のロボットを持っている家も少なくありません。それと、ナユタさん。ロボットはただの機械ではないので、まずは、ご挨拶を。」

 そう言われて、ナユタはぎこちなく、軽く頭を下げた。

「ナユタです。どうぞよろしく。」

 すると、アミティスというロボットは、パッと頬を赤くし、涼やかな笑顔でナユタに微笑みかけ、

「いえ、こちらこそ。さあ、どうぞ、中へ。今日からここがご自分の家ですから。ドレッシェルさんもどうぞ。」

とふたりを中へ案内した。

 ドレッシェル教授は、ナユタの後からついて来ながら、説明した。

「ぼくと彼女は一応既に顔見知りなんです。あなたを迎えるためにいろいろここの準備がありましたからね。それと、もう一つ。あなたをここまで運んできた車やスカイウェイを運転してきたのは彼女なんですよ。」

「それは、どういうことですか?」

 すぐには飲み込めずにナユタが聞き返したが、ドレッシェルは、

「まずは、リビングにどうぞ。」

と言って、ナユタのためにリビングのドアを開けてくれた。

 リビングは広くゆったりとしていて、外には広々とした眺望が広がっていた。

 ドレッシェルはナユタの質問に答えた。

「彼女の体はここにあっても、無線で車やスカイウェイと繋がっているんですよ。頭が一つで、体が二か所にあるというのはなかなか我々の感覚では理解しにくいのですが、よく考えれば、我々だって、頭と手足や目や耳が相互にやり取りしている。目や耳や手足から得た情報で頭が考え、その頭で考えた結果に基づいて手足が動くわけで、ただ、目や耳や手足と頭とが有線で結びつけられているに過ぎない。ロボットの場合は、それが無線でも繋がっているというわけです。だから、私たちが目で見て手足を動かすのと同じように、彼女は、この部屋にいて、遠く離れた場所の車やスカイウェイを運転することができるのです。」

「そういうものですか。」

 ナユタはいささか驚いた様子だったが、ドレッシェルは笑って続けた。

「我々は、物事をやる場合になかなかマルチにはできなくて、何か一つに集中しがちです。でも、ロボットはそうじゃない。彼女の頭脳にあるコンピュータは複数の処理を同時にこなすことができますのでね。だから、彼女は、今、この部屋にあなたを迎えてお茶の準備をしていると思いますが、同じ集中力で別のこともやっているかもしれない。まあ、ロボットにとって、集中力なんて概念はないでしょうけどね。」

 そう語ると、ドレッシェルは窓辺に歩み寄った。窓からは、ビハールの街や遠くの山並みが眺められた。ドレッシェルは上機嫌に説明した。

「良い眺めでしょう。ビハールでも有数の高級マンションですからね。ちなみに、ここでの生活に必要なものは揃えたつもりです。もちろん、さらに欲しいものは買い足していただければよろしいですが。また、家事などはぜんぶアミティスがやってくれますから、ご心配なく。」

 リビングでふたりがソファーに腰を下ろすと、アミティスがお茶とケーキを出してくれた。

「なかなかおいしいケーキだね。紅茶の香りも良い。このケーキはどうしたんだい?」

 そう問いかけるドレッシェルに、アミティスは笑顔で答えた。

「今日はナユタさんが初めて来られるので、頑張って作ったんです。」

 ナユタは、

「ありがとう。とてもおいしいよ。」

とアミティスに語りかけ、さらに感慨深げにドレッシェルに言った。

「前回の創造の際、私は地上に降りて、トゥルナンという僻地に行ったことがありましてね。そのとき、私たちを泊めてくれる家に初めて行ったとき、特別のおもてなしとしてお茶とお菓子を出してくれました。正直言ってとてもおいしいなんて言えるものじゃなかったけど、でも彼らにとってそのもてなしは特別のものでした。素朴で良い人たちでしたよ。」

「そうですか。良い話をうかがいました。物質的な豊かさだけが価値の基準ではないという視点を私も持っています。来週からが楽しみです。」

「そうですね。それにしてもこのケーキとお茶は最高だ。森ではとても味わえないものだし、アミティスさんのまごころがこもっているしね。」

 この言葉に、アミティスはとても喜び、

「ありがとうございます。今日から頑張りますので、よろしくお願いします。」

と弾んだ声で、改めて深々と頭を下げた。

 お茶とケーキでくつろぐと、ドレッシェルは、小さな小片二個と腕時計風のバンドと下敷き状のものを取り出しながら言った。

「まず、これをお渡ししなくてはならない。」

 小さな小片は、サイズが一センチ角くらい、厚さは一ミリの半分程度だった。

「これは、この世界で暮らすには必需品です。森には、まだあまりないでしょうが、これから森でも使われるようになるでしょう。この小さなチップには、必要な情報が組み込まれており、通信、録音、録画などの機能もあります。今日は二個お持ちしましたが、中身は一緒で、この二個はチップ同士でデータのやり取りをしますので、常にこの二個は同一です。一つはこのフレキシブルバンド、もう一つはフレキシブル有機パッドに装着します。」

 そう言って、ドレッシェルはその小さなチップをフレキシブルパッドと腕時計風のフレキシブルバンドとに装着し、設定をオンにした。時間といくつかのアイコンがすぐに画面が現れた。下敷き状のフレキシブルパッドの画面には、ナユタもよく知っているパソコン初期画面が現れた。

「このチップはパーソナル認証がなされていますので、ナユタさん自身と繋がっており、さらには、アミティスとも繋がっています。常に一個はもっておくのが基本です。」

「大事なもののわけだ。忘れたりするとたいへんなんですか?」

「もちろん、持ってなくても大丈夫ですが、持っておけばいろいろ便利ですのでね。家の外に出るときには、自分だけ外に出てチップが家に残っていれば、玄関で警告が鳴るようになっていますから、忘れることはほとんどありませんよ。外でも、あなたからある距離以上に離れるとこの時にも警告が鳴るようになっています。」

「なら安心だ。でも、外で、失くしたりしたらたいへんですね。」

 ドレッシェルは笑った。

「それも、それほど心配しなくて大丈夫ですよ。まず、家の外で持ち主からある距離以上離れるとパーソナル認証が切れてチップは機能しなくなります。そして、チップを失くしたら、そのチップはすぐに廃棄され、新しいのが発行されます。そのチップはナユタさんのですから、誰かが使用するなんてことはできません。」

「そうですか。便利そうですが、いろいろ慣れないといけませんね。」

「そうですね。ともかく、今日、明日はゆっくりしてください。分からないことがあれば、いつでも電話かメールを下さい。では、来週の月曜日の朝、研究室でお待ちしています。今日の車とスカイウェイはレンタルでしたが、ナユタさん自身の車も用意しています。さっき言ったように、アミティスがこの部屋にいながら運転しますので、その車でお越しください。」

 そう言って、ドレッシェルはナユタの部屋を後にした。

 

 ナユタの新しい生活の始まりだった。部屋の中を歩いてみると、生活に必要なものはなんでも揃っているように見受けられた。清潔で明るい光の溢れるダイニング、大きなベッドの備え付けてある広々とした寝室、ゆったりとした立派なリビング、豪勢なお風呂と洗面台。また、書斎には、新品のパソコンが備え付けられており、オプティックネットも含め、すぐに使用可能だった。冷蔵庫にはさまざまな食べ物や飲み物が詰まっていた。さらには、室内のお風呂に隣接して、ベランダには露天風呂もついていた。

 ダイニングテーブルの中央には、かわいらしい花が活けられ、リビングにはみずみずしい観葉樹の植木があった。

 ナユタが木の名前を尋ねると、アミティスが明るい声で説明してくれた。

「それはパキラという木で、幸福の木と呼ばれているんです。その家に住んでいる者の気持ちによって元気になったり、元気を失くしたりするとも言われているんですよ。」

 パキラは高さ一メートルくらいで緑色の若葉がみずみずしかった。

 さらに彼女はテーブルの花についても説明してくれた。

「今朝、花屋から届けてもらって活けたんです。」

「それはありがとう。」

とナユタが言うと、アミティスは、また頬をパッと赤くして微笑んだ。

 しばらくすると、アミティスが言ってきた。

「お疲れでしょう。まずは、お風呂に入りませんか?露天風呂がお勧めですが。」

「じゃあ、そうしようか。」

とナユタは答え、露天風呂に入ることにした。

「いろんなお湯が楽しめますが、何かご希望はありますか?」

「いや、特には。」

 ナユタが短くそう言うと、アミティスは弾んだ声で、

「じゃあ、今日は、シラホネ湯にしてみますね。」

と楽しそうに言った。

「シラホネ湯ってどんな湯なの?」

「硫黄の匂いのする真っ白な湯なんです。ちょっと肌にチクチクするかもしれませんが、体をぽかぽか温めてくれますよ。」

 露天風呂はたしかに気持ちが良かった。お湯につかりながら眺めるこの地上二百七十二階からの眺めもまた良かった。ビハールの宮殿も見えたし、かつて、ルガルバンダとの決戦を行ったナッチェルの野もはるか遠くに見渡せた。

 お湯から上がると、気持ちのいい肌着とゆったりした部屋着が用意されていた。ナユタが露天風呂のそばのベランダの椅子でくつろいでいると、アミティスがシャンパンを持ってきてくれた。すっと気持ちよく喉を潤してくれる感じがなんともいえないお酒で、森では味わえない高級品であることはまちがいなかった。

 夕食のためにダイニングの席に座ると、窓の向こうには、山並みに沈もうとする夕日が見えた。アミティスがグラスに食前酒を注いでくれた。甘い香りが素敵なラフランスのお酒だった。

「飲み物は何になさいますか?」

とアミティスが言うので、

「何があるの?」

と聞き返すと、彼女は、A4サイズのフレキシブル有機ディスプレイを見せてくれた。そこには、ビールやワイン、シャンパンなどのリストが並んでいた。その中にウバリートの地ビールというのがあったので、ナユタはそれを頼んだ。

「ウバリートには思い出があるんだ。」

 そうナユタは言った。

 アミティスがウバリート産地ビールと前菜を運んできた。ビールはホップの苦みが程よく効いたコクのあるピルスナーだった。前菜は、酢味噌であえた旬菜と、葉わさびとクコの実であしらえたうに豆腐。すばらしい味わいに感嘆していると、アミティスは、あわび、白牡丹海老、サザエが並んだ刺身の盛り合わせ、松茸の土瓶蒸し、たらば蟹と山菜のてんぷらなどを次々に運んできた。

 ナユタのビールが少なくなっているのに気付いて、アミティスが、

「別のお飲み物をお持ちしましょうか?」

と聞いてきた。

 ナユタが、

「じゃあ、なにかお勧めのものがあれば、それを。」

と答えると、アミティスはガザンリューという酒を運んできた。その酒は、ナユタがいまだかつて味わったことがないフルーティな口当たりの良さと生酒特有のフレッシュな香りが格別だった。

 アミティスは、さらに、霜降り牛の陶板焼きを運んできた。

「このお肉はヨーネザウワー牛といって有名なお肉なんですよ。ヨーネザウワーは北の方の地方ですが、先にお出ししたガザンリューというお酒もこの地方特有の生酒で、極めて少量しか生産されていないので、幻のお酒と言われているんですよ。」

 森で食べていた牛肉とはまったく違い、霜降りの極め細やかさがまさに口の中でとろけるような柔らかさだった。

 デザートは新鮮なチェリーとシャーベット、それにプチケーキを三つ載せたプレートで、シナモンティーがついてきた。

 すっかり満足してナユタはこのビハールでの最初の一日を過ごしたが、食後、ナユタは再びベランダに出て外を見渡した。ひんやりした冷気が心地よく、空は満天の星空だったが、ナユタは心静かにナッチェルの地の方向を見やった。

 かつての決戦の日のことがまざまざと思い出された。はるか昔のことであるのに、決戦の前日、ナッチェルの野でバルマン師とともにサントゥールを奏で、そばにいたユビュのブルーポールが煌々と輝いたことも鮮明に思い出された。

 しかし、同時に、あの時、無数の兵士たちが倒れ、無数の神々が地に伏せたことがナユタの脳裏にまざまざと蘇った。かつての僚友カーシャパを倒さざるを得なかったことも、いまだもってナユタの心には痛かった。なさねばならない戦いであったかもしれないが、それは苦い思い出でもあった。

 静かに目を閉じ、ナユタは思った。

「この世界を実現するために、あの戦いが本当に必要だったのかどうか。そして、今の世界が、あれだけの犠牲を払うに値するものになっているのかどうか。」

 そうナユタはつぶやいたが、すべては過ぎ去ってしまったことでもあった。

 

 次の日、ナユタが目覚めると、アミティスはさっそく食卓に朝食を並べてくれた。

 新鮮なグレープフルーツジュース、イチジク入りのヨーグルト、ふっくらした目玉焼きが二つ。今では、その卵も鶏が産むのではなく、工場で卵として生産されているのだった。さらには、新鮮な野菜サラダとふっくらしたパンにコーヒーだった。

 食後、ナユタはこの部屋の様々な機能について発見した。部屋の壁には有機発光ディスプレイが埋め込まれており、すべてを透明な窓に変えることもできれば、映像を映し出すことによって、あたかも別の場所にいるかのようにすることもできた。また、その壁は照明に変えることもできたし、実は、有機太陽電池による発電機能も持っていることをアミティスは教えてくれた。

 ここの生活から出るゴミは、なんでもダストポットに放り込めば全部、分解無害化処理され、部屋の中には、好みに応じて、様々な芳香を香らせることもできた。さらに、部屋の明るさや温度も自動的に最適化され、さらには好みや気分によって調整可能であり、それらの調整は、備え付けてあるリモコンで行うこともできないわけではなかったが、もっとも簡単には、単に、

「もっと明るく。」

とか、

「もっと涼しく。」

とか、

「何度に。」

と言えばよかった。

 後日、ナユタは希望する設定を心に思うだけでそうなるようにする研究もかなり進んでいることを知ったが、心の中では実に様々な思いが交錯しているだけに、その思いに沿って機械が反応することが必ずしも快適な環境作りにならないというのが、現時点での課題のようだった。

 昼近くになって、ナユタは外に出てみることにした。

「時間があるので、街に出てみようと思うんだが。」

と言うと、アミティスは、

「じゃあ、これを忘れずに。」

と言って、フレキシブルリストバンドを渡してくれた。

「これで、いつでも、私とつながることができますから。」

 さらに、アミティスは、にっこり微笑んで言った。

「車を用意しますね。玄関のところで待っています。」

 ナユタが

「夕方までには帰るよ。」

と言って玄関を出ると、アミティスは、

「分かりました。夕食を作って待ってますね。」

と言って、送り出してくれた。

 高層マンションの一階まで下りて外に出ると、車が待っていた。ナユタが近づくと自動的にドアが開き、ナユタは車に乗り込んだ。すると、車は、アミティスの声で、

「どこへ行きましょうか?」

と聞いてきた。まさに、この車は部屋にいるアミティスと繋がっているのだった。いや、この車もアミティスの体の一部と言うべきかもしれなかった。

「じゃあ、街の中心で降ろしてくれるかい。」

と言うと、車はアミティスの声で、

「じゃあ、行きますね。」

と言って走り出した。この車も静かな電気自動車で、その電気はまずは車体を覆うフレキシブル有機太陽電池でまかなわれ、足らなければ車に備えられた蓄電池の電気が使われ、それでも足らなければ、無線給電で走りながらでも電気が供給される仕組みだった。

 ビハールの中心街に着くと、車は、

「じゃあ、待ってますので、帰るときには、リストバンドで連絡してくださいね。」

と言って、ナユタを降ろしてくれた。

 車を降りた場所は宮殿に続く大通りで、かつての博物館やオペラハウスも残っていたが、それらと並んで高級品を売るブティックや大きなショッピングモールがあった。

 街行く神々の服装もかつてとは明らかに雰囲気が変わっており、ラフなスタイルの者も少なくなかった。若い娘たちはミニスカートやホットパンツをはき、長い生足を出して歩いていた。ノースリーブの薄い服を身に着けている女神も多かった。夏といってもかつてのようなうだるような暑さではなく、完全な空調管理の元、気持ちの良い夏が作り出されているのだった。足の爪にマニキュアをしてヒールの付いたサンダルを履いた女神、指にネールを施した女神たちが街を歩き、談笑し、集っていた。男神たちと女神たちの楽しそうな輪がいくつもできていた。

 ナユタはその道を北に向かって歩き、勝利の門までやってきた。ライオンの頭と鷲の翼を持つ牡牛像と人面有翼獣像のある巨門ではたくさんの観光客が集っていた。かつては勝利の門から向こうは宮殿の敷地であり、特別な日以外は一般の神々は入れなかったものだが、今は自由に開放されていた。

 門をくぐると、スフィンクスの並ぶ参道の両側は広大な緑の公園となって、ここも一般に開放されていた。ジョギングをする者、散歩をする者、走り回る子供たち。平和な光景だった。池まで来ると、噴水が上がり、カモが泳いでいた。睡蓮が美しく咲き誇っている場所もあった。

 公園の中には、かつて復興祈念式典が行われた場所があった。かつてナユタたちが建てた不戦の碑もあった。不戦の碑のそばには、金属プレートに刻まれた説明があり、それに拠れば、不戦の碑に灯されている火は、式典の日以来一度も消えることなく燃え続けているとのことだった。そこは誰もいないひっそりした場所だったが、不戦の碑には真新しい花束が複数置かれていた。

 そこからさらに歩いて、公園を出ると、道はかつての裏通りに繋がっていた。しかし、かつての裏通りに並んでいた男神たちが集う酒場はもうなかった。娼婦の館が並んでいた界隈も、綺麗な店が並ぶおしゃれな通りに変わっていた。

 バックを売る店、アクセサリーを売る店、宝石店、時計店、靴店などが並び、おしゃれなブティック、紳士用品の店、おもちゃを売る店、古本屋、楽器店もあった。画廊もあったし、画材を売る店もあった。ブティックでは、マネキンではなく、ロボットらしき店員が商品の服を着てじっと立っていた。レストラン、カフェ、おしゃれなバーやビアレストラン、居酒屋もあった。

 そこを抜けて大通りに戻ると、立派なホテルや大きなデパート、コンサートホール、美術館などが並んでいた。

 かつて創造された世界のフィガラッシュに降り立った時を思い出しながら、ナユタは、

「あの時もいろいろと驚き、目を見開いたものだが、今回はそれ以上だ。」

と思わざるを得なかった。

 あの時、最初の日にフィガラッシュのカフェに入ったことを思い出し、ナユタは、ショッピングモールの中を歩き、一軒のしゃれたカフェに入った。ただ、昔と違って、席についてウェイトレスが注文を聞きに来るのではなく、まず、レジカウンターで注文するという新しいシステムになっており、カウンターの後ろに、さまざまな種類の飲み物が掲示されていた。

 レジの前にナユタが進むと、髪を茶髪に染め、目の周りをくっきりと隈取り、つば付きの帽子をかぶった若い女神が聞いてきた。

「何になさいますか?」

 愛想のよい屈託のない笑顔と弾けるような明るい声の調子だったが、彼女も実はロボットなのだということにナユタは気付いた。アミティスほど女神らしくはなく、どこかロボットらしさが残っていた。

 ナユタがちょっと迷った末に飲み物と生ハムのサンドイッチを注文すると、その女神ロボットはにっこり微笑んで涼しい気持ちの良い声で金額を告げ、

「お好きな席でお待ちください。」

と言った。

 前日、ドレッシェルから、チップさえ持って入ればそれでパーソナル認証がなされているため、現金を使う必要はまったくないと聞いていたが、まさにその通りだった。

 ナユタが、窓際の席に座っていると、別の女神ロボットが注文したものを運んできた。

 席の向きは窓の方を向いており、ナユタはサンドイッチを食べながら、ガラス越しに窓の外を眺めることができた。

 窓の外を眺めていると、さまざまな神々が通り過ぎるのを見ることができた。ある程度予想していた世界だったが、その世界をナユタは実感することができた。

 かつて男神は、いかつい顔をしたり、ぶっきらぼうな感じだったり、不機嫌な顔をしたりして歩いていたし、女神たちは、不安げな表情をどこかに残したり、無表情だったり、うつむいたりして道を行き交っていたものだったが、今はそんな神はいなかった。みな、活力と輝きに溢れ、喜びと自信がその表情に現れていた。若い女神たちのグループは、弾けるように何かを話しながら、弾むように歩き過ぎて行った。

「これが、まさに今の世というわけだな。」

 そうナユタは心の中でつぶやいた。だが、同時に、心の中で一つの疑問に突き当たった。

「彼らは何をめざし、何を求めて生きているのだろう。たしかに、たくさんの喜びや満足があるのだろう。そして幸せなのだろう。それはたしかに、かつての、困窮し、不安と憤りに苛まれて生きていた頃に比べればはるかに良いのかもしれない。だが、これが神としても求めるべきものだったのだろうか。」

 そんなことを考えながら、ナユタはその席に座って窓の外を眺め続けた。通路を挟んだ斜め向かいに女性の下着を売る店が見えた。かつての世界ではそんなものを店頭で売るなど考えられもしなかったが、女性のカラフルな下着が店頭に飾られ、道に面して並んでいた。店の名前を見ると、アルセイスという名が掲げられていた。例のアルセイスの経営する店なのだろう。よく見ると、店の中ではアクセサリーや化粧品、香水も売っているようだった。

 しばらくすると、ナユタの左隣の席に若い女神が座った。待っている間、彼女はフレキシブル有機発光ディスプレイパッドを取り出して何かを検索しているようだった。ウェイトレスの女神型ロボットがシャンパンとスパゲッティを運んできた。女神はシャンパンを一口飲むと、カバンからスマートグラスを取出した。ナユタもネットで見たことのある映像と音声が楽しめる眼鏡だった。彼女はそれを装着するとシャンパンと料理をひとり楽しみ始めた。かつて、ナユタがビハールに来たときには、若い女神がひとりでそんな風に店に座って昼間から酒と料理を楽しむなどということも皆無だったし、スマートグラスで誰にも邪魔されず自分の世界に浸るなどというのもなかったわけで、時代の様変わりを実感せざるを得なかった。

 その店を出るとナユタはさらに通りを歩いていくつかの店に入った。まさにモノが溢れ、幸せが溢れた世界だった。

 夕方になってナユタはリストバンドをクリックして車を呼んだ。家に帰ると、改めてアミティスが迎えてくれた。前日同様、露天風呂に入ったが、今日はクサツ湯というお湯だった。そして、この日、アミティスはあっさりした魚料理を出してくれ、これもまた森では味わえないおいしさだった。

 アミティスがデザートはベランダで召し上がることもできますよと言うので、ナユタはベランダに出て、デザートと軽めのシャンパンを持ってきてもらった。ゆったりした気分でくつろぐことができたが、同時に心の中はざわついていた。慌ただしかったこの二日間のことが思い出された。ほんの三日前には、こことは比べるべくもない森の中の貧相な家で暮らしていたのだ。

 ベランダから眺めると、ビハールの宮殿はライトアップされ、中心街は煌々と明るかったが、その遠く向こうに広がるナッチェルの野には灯りがぽつんぽつんとしかなかった。ベランダの椅子でシャンパンを味わいながら、改めてあの戦いを思い返すと、なんとも言えない寂寥感が苦い味となって滲み出てくるのだった。

 たしかに、戦わねばならない戦いだったかもしれなかった。そして、あの戦いはたしかに世界を変えたのだった。だが、その新しい世界で、神々はけれど、ただ欲にまみれて生きているのだ。そんな世界を作るために無数の者たちが倒れた戦いのほんとうの意味とは何なのか。そんな思いが胸の中を去来し、ナユタの心を頑なにさせるのだった。

 だが、ともかく、ビハールに出てきたのだ。この世界のことをもう一度自分の目で見、経験し、知ること。そして、ドレッシェルと進歩について語り合い、世界の在り方や進んでいる方向を理解すること、今、為すべきことはそれなのだ。明日からは、そんな生活が始まるのだ。それはほんとうには自分の心に合致しないかもしれないが、でも、全然楽しみでないと言ったら嘘になるだろう。森の生活とはまったく別の現実の世界での生活が始まるのだ。

 

 次の日の朝、アミティスの車でマーシュ大学に行くと、ドレッシェルは既に部屋で待っていた。教授室はすっきりとして心地よい空間で、窓辺には観葉植物が置かれ、壁には明るい雰囲気の抽象絵画が掛けられていた。ちょっと驚いたように、ナユタは軽く言った。

「今は、教授室はこんな雰囲気なんですね。」

「ええ、そうですね。昔ながらの教授室を想像されていましたか?たしかに、昔は、教授室と言えば、壁に書物がびっしりと並び、机の上には仕事をするスペースがあるのだろうかというほど本や雑誌がうず高く積み上げられていたものですけどね。でも、今は、情報はコンピュータのメモリの中に納まり、いつでも、このパソコンからでも携帯パッドからでも取り出せる。検索技術も昔とは全然レベルが違いますのでね。」

 笑いながらドレッシェルはそう説明すると、ナユタにソファーに腰掛けるように勧めた。秘書ロボットがコーヒーを運んできた。アミティスとはずいぶん雰囲気が違い、タイトのミニスカートにブラウスという姿の闊達な感じのロボットで、両耳の大きなイヤリングと首に下げた真珠のネックレスがちょっと派手な印象を与えていた。

「用があったり、分からないことがあれば、なんでも彼女に言ってください。名前は、ナンシーと言います。」

 ナンシーという名のロボットは、

「初めまして。ナンシーと申します。」

と笑顔であいさつした。

「あとで、ナンシーがあなたの部屋に案内します。パソコンなどは既に準備されていて、すぐに使えるはずです。」

 ドレッシェルはそう言うと、一枚の紙を渡してくれた。スケジュール表だった。

「それにしても、よく来ていただけた。明日からが楽しみですよ。今後の一応のプランを組んでいますので、まずはそれに沿ってと思います。隔週でゼミがありますので、ぜひ出て下さい。直近では、明後日、ウダヤ総合技術院のトゥクール教授との面談を設定させていただいています。彼はロボットの権威ですので、興味深い話が聞けると思います。」

「ありがとうございます。何が起こるのか分かりませんが、わくわくします。」

「そう言っていただけるとありがたい。それから、今日の昼食は学長も交えたランチミーティングを予定していますので、いっしょに行きましょう。ともかく、ここでは自由に活動していただければと思います。ここでの活動が、ナユタさん自身にとって価値のあるものになればと思っておりますので。」

 この言葉にナユタは改めて礼を言い、それから、マンションのことやアミティスのこと、昨日の午後外出したことなどが話題となった。これらの話が一段落すると、ドレッシェルは研究室の面々と引き合わせてくれ、その後、ナンシーがナユタの部屋に案内してくれた。

 ほどほどの広さの気持ちの良い部屋で、窓辺には、花を咲かせたシンビジウムの鉢がおいてあった。パソコンはすぐに使うことができた。

 昼近くなって、ドレッシェルが迎えに来て、一緒に学長を交えたランチミーティングに行った。学長は、立派なひげを生やした恰幅の良い紳士だったが、ナユタを迎えると上機嫌に言った。

「お待ちしておりましたよ。ナユタさんを教授としてお迎えできて光栄の至りです。我が大学にとっても箔がつくというものです。このマーシュ大学は伝統のある大学ではありますが、最近は、新興の大学にちょっと押されておりますのでね。」

「マーシュ師が創設された大学で教授になるなど、私にとってもありがたい話です。どうぞよろしくお願いします。」

 ナユタがそう答えると、学長は席に座るよう勧め、皆が席に着くと、学長が面々を紹介した。副学長、事務長、哲学科の学科長が同席していた。給仕ロボットが前菜とワインを運んできた。ナユタはちょっと驚いて隣に座るドレッシェルに言った。

「お昼からワインが出るんですか。」

「いつもじゃありませんよ。今日は特別です。ただ、その特別はちょくちょくあるようですがね。」

 ドレッシェルはそう言ってちょっと肩をすくめた。学長はナユタに住む場所や研究室での部屋などのことを尋ね、万事問題なく進んでいる様子をナユタとドレッシェルから聞くと、上機嫌だった。

「たしかに、ビハールはかつてのビハールとは変わりましたからな。大学での研究だけでなく、ビハールそのものもぜひ堪能いただければと思います。」

「ところで、マーシュ師はどのようにこの大学とは関わっておられるのですか?」

 ナユタのこの質問には、ふたりいる副学長のうちのひとりが慇懃な微笑みを浮かべて答えた。

「マーシュ師はこの大学の名誉学長です。何と言っても創設者でいらっしゃいますので。毎年、私と事務長とでマーシュ師を訪問し、大学の状況を説明し、ご意見などをうかがっております。また、何年かに一度には、大学に直接足をお運びいただいて、直接、大学の様子を見ていただいております。」

「そうですか。マーシュ師には久しくお会いしていないが、お元気ですか?」

「ええ、それはお元気です。この世の動向などどこ吹く風といった風情ですが、いつも意気軒昂でいらっしゃいますよ。」

 そう言って、副学長は大きく笑ったが、その笑いには好感を持てなかった。最初に見せた慇懃な笑顔といい、威厳の整った立派な容貌の底に潜むなんとも名状しがたい冷ややかさが感じられたからだった。この社会の中では、このような者たちが偉くなっているのかもしれなかった。森の仙人たちのように、どことは言えず敬意を抱かざるを得ない雰囲気というものが感じられないまったく次元の違う世界なのだ。

 学長らとのランチが終わると、ドレッシェルはねぎらうように言った。

「今日はお疲れになったでしょう。今日はこれくらいにして、明日は、私との最初の意見交換をと思っています。今日はあと、記念館にでも行かれればと思います。」

「ありがとうございます。それでは、記念館に行ってみることにしますよ。明日から、よろしくお願いします。」

 ドレッシェル教授の勧めに従って、ナユタはその日の午後はマーシュ大学の記念館を訪れた。その記念館では、ルガルバンダが創設したビハール図書館の歴史に始まり、世界最初の大学としてマーシュ師が創設したマーシュ大学の歴史などが展示されていた。マーシュ師の最新の写真も飾られていたし、歴代学長の写真もその業績と共に展示されていた。

 

 

20151025日試行掲載 / 201733日掲載 / 最新改訂2023723日)


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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第6巻