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神話『ブルーポールズ』

【第5巻】-

 

 こうして、ビーラム島沖海戦はランズウッド軍の圧勝となったが、これは、ある意味、開戦以来初めての勝利と言ってもよかった。しかも、開戦以来、無敵を誇っていたスチュアート艦隊に壊滅的な打撃を与えての勝利だった。

 ブルック首相は議会で宣言した。

「わが軍はブラーニア軍を撃退しつつある。ビーラム島沖海戦での成果は我が国の制海権の確立に大きく寄与するだろう。今や反攻の時が始まったのだ。」

 新聞にはボルガン提督の言葉も大きく報じられた。

「この勝利は遠い道のりの最初の一歩でしかない。だが我々はその一歩を踏み出したのだ。」

 一方のパークス大統領はこの敗戦に激怒したが、引き下がるつもりは毛頭なかった。艦船、航空機、陸上兵員の派遣を次々に指示し、

「ランズウッド本土征服まで戦い続ける。」

と叫んだ。

 だが、軍の内部ではこの考えに否定的な軍首脳も少なくなかった。

「ビーラム島は本国からあまりにも遠すぎる。ニコベランとて遠いのに、ビーラムはさらに遠く、しかもランズウッド本土に近すぎる。」

「ランズウッド空軍が弱かった時なら良かったが、今、彼らの空軍は体勢を立て直してきている。彼らの攻撃圏内のビーラム島を保持するのは至難の業だ。無理に保持しようとするなら、いたずらに消耗するだけだ。」

 軍の上層部ではそんな意見がささやかれたが、戦争推進会議でパークスの同意を得ることはできなかった。

「ランズウッドはまいり始めている。もう一歩ではないか。ビーラム島沖海戦での失敗で怖気づいていてはならない。空母の数での優位は失われたかもしれないが、戦艦、巡洋艦など海軍力全体では依然として我が国が上ではないか。」

 そう言ってパークスはビーラム島死守とランズウッド本土爆撃の続行を命じた。

 しかし、ビーラム島沖海戦の二か月後、ランズウッド海空軍の強力なる援護の元、ランズウッド上陸部隊約ニ万名がビーラム島に上陸した。艦砲射撃と航空機の支援の元で行われたこの上陸作戦はまったくの奇襲であり、ブラーニア側はほとんどなすすべがなかった。ビーラム島の飛行場から戦闘機が舞い上がったが、優勢なランズウッド戦闘機隊の前に敗退しただけだった。

 こうして、ビーラム島を巡る激しい争奪戦が始まった。ブラーニアは増援部隊を送ろうとしたが、島に到達する手前で次々にランズウッド本土基地やボルガン艦隊の空母から来襲した爆撃機に沈められた。ビーラム島海域の制海権と制空権はしだいにランズウッドに移り、ブラーニア軍の補給は困難を極めた。

 低速の輸送船はビーラム島に近づくことができず、駆逐艦での兵員や物資の運搬も実施したが、その駆逐艦はわずか三か月で二十隻近くが撃沈された。ついには潜水艦まで輸送に駆り出されたが、潜水艦では搭載能力が乏しく、成果は微々たるものにしかならなかった。

 それでもビーラム島のブラーニア軍は堅牢な陣地を構築して必死の反撃を繰り広げたが、戦局を好転させることはできなかった。航空隊は空中戦で消耗して壊滅状態となり、ニコベラン島から出港した航空母艦からも次々に航空機が飛来したが、形成を挽回することはできなかった。食糧、医薬品、弾薬、すべてが不足していた。兵士たちは飢え、次々と戦意を失っていった。

 パークスもようやく事態に好転の可能性がないことを悟り、ビーラム島撤退を決定した。一か月後、ブラーニアは駆逐艦約二十隻を派遣して撤退作戦を実行した。ニコベラン島から派遣された機動部隊がこれを支援し、三回の撤退で一万人以上の兵士を撤退させることに成功したのだった。

 このとき、ランズウッドはこの撤退作戦にまったく気付かなかった。機動部隊からの大規模な航空支援があったこともあり、新たな反攻作戦のための増強が行なわれていると受け取っていたが、ブラーニア軍撤退の後に、舟艇が放棄されているのが発見され、初めて撤退の事実に気づいたのであった。

 だが、ともかく、ビーラム島の奪還により、ランズウッドの首都ニュークルツは空襲の恐怖から解放された。ニュークルツのすべての寺院の鐘が打ち鳴らされ、ブルック首相は大いに勝利を宣言した。

「我々は戦い抜いた。この一年数か月、苦しい、地を這うような戦いだった。だが、我々は耐え、そして勝利した。だが、戦いは終わっていない。完全なる勝利を手にするまで、我々は前進し続ける。」

 

 そんな中、グスタフが突然亡くなった。グスタフは、ブラーニア軍の空襲のさ中も心臓の病をおして指揮台に立ち続けていたが、ビーラム島が奪還されてわずか十日後に心臓発作のため他界したのだった。

 ラジオはその報を、ブルック首相の

「自由の使徒グスタフに、すべてのランズウッド国民が頭を垂れるだろう。」

という言葉とともに伝え、開戦一周年の日にグスタフ自身が自演した第二番の交響曲の録音を流した。

 その時の演奏会はナユタも聴きに行っていたが、荘重な葬送行進曲によって始まるこの曲が描き出した高貴な響きは忘れえないものだった。第四楽章では、アルトの独唱が平和と自由を希求する荘厳な歌を歌い、切れ目なく続く第五楽章では、悲劇的な楽想の中から沸き起こる希望の光をコントラバスの重低音が先導し、それはやがてトランペットの使命感に燃えたファンファーレとなり、ヴァイオリンの高揚した響きへとつながっていった。そして、荒々しい混沌の中から芽生えてくる崇高で無垢な精神の発露が高らかな合唱となって歌われたのだった。

 ゲーベルはグスタフの死に大きな衝撃を受け、わずか三日で、『グスタフに捧げる頌歌』という曲を書き上げた。それは小規模の管弦楽とアルトのための曲で、グスタフの好んだ韻律をベースにした深い悲しみに満ちた楽想が静かに流れる曲であった。

 ゲーベルはピアノ伴奏でその曲をナユタとマティアスに聞かせるとこう語った。

「グスタフの交響曲は崇高な音楽だった。人生と世界の本質、実存の苦悩の中から紡ぎだされたその音楽は宇宙的な広大さを持っていた。偉大な哲学者や宗教家が、世界、存在、自然、神、自我といった命題を解き明かそうとしてきたが、未だに答えは出ていない。グスタフの音楽は、答えのないこの世界の中での一人の人間としての苦悩を凝縮し、そして昇華させた音楽だった。」

 ゲーベルの言った通りだった。たしかに、セヴァスチャンもアマデウスもルードヴィッヒもすばらしい音楽だった。それはヒューマニズムとか、神のもとでの価値観とか、人間がすばらしいと思うものとかを讃える音楽であった。だが、グスタフの音楽はそれを越え出ているのだ。宇宙そのものの中で鳴り響くような音楽。その音楽は、オールオーバーな音楽に通じ、マティアスやパキゼーの音楽に通ずるものであった。

 だが、ゲーベルはこう付け加えることも忘れなかった。

「だけど、グスタフの作品がほんとうに理解されているかというとそうじゃない。将来きっと、グスタフは生前には作曲家として評価を得ることのできなかった大作曲家となるだろう。」

 実際、グスタフは指揮者として多大な人気を博し、しかも、ブラーニアに迫害され、この自由の国ランズウッドに亡命した使徒として評価されていたが、その作品が本当に支持されていたわけではなかった。少なくとも、セヴァスチャンやアマデウスの評価にはまるで及ばず、ロマン派の作曲家の中の一人、それも決して重要とはみなされない一人に過ぎなかった。

「でも、グスタフが人生を懸けて取り組んだ最大の目標は、交響曲を作ることだった。彼自身がかつて言ったように、きっとグスタフの時代が来るだろう。」

 ナユタはそう言ったし、マティアスもゲーベルも同じ思いであったろう。

 

 一か月後、ニュークルツ交響楽団がグスタフ追悼演奏会を開いた。指揮棒をとったのは、グスタフと古くから親交のあったシュレジンガーで、曲目は、ゲーベルの『グスタフに捧げる頌歌』とグスタフの遺作となった第十一番の交響曲であった。

 シュレジンガーは既に世界的大指揮者の一人に数えられ、ナユタらがランズウッドにやってくる少し前にやはりランズウッドに亡命し、現在は、ニュークルツ交響楽団の首席客演指揮者を務めていた。その指揮棒から無限に暖かい詩が溢れ出てくると言われたシュレジンガーは、グスタフの弟子とも最愛の友とも呼ばれ、グスタフをもっともよく知る最大の理解者でもあった。

 第十一番の交響曲は、そもそもグスタフ自身の指揮による初演が準備されていたのだが、グスタフの急逝によってシュレジンガーが初演することになったのだった。この交響曲は六つの楽章からなり、すべての楽章が独唱によって歌われた。最後の第六楽章は、この世界に別れを告げる惜別の歌のようでもあり、アルトの独唱が最後に、「私は石を打ち鳴らす世界に戻るだろう。」と歌った。

 ある評論家は語った。

「グスタフは自らの死を予見していたとしか思えない。」

 

 グスタフの後任として、ニュークルツ交響楽団の常任指揮者に就任したのはアルトゥールだった。アルトゥールは、ロマン主義の演奏を排し、徹底した楽譜至上主義を唱えた指揮者であり、ナユタもニュークルツで何度かその演奏を聴いたが、緊迫感を持ったとてつもない迫力はこれまた誰にもまねできないものであった。そのアルトゥールは音楽観においてはまったくグスタフとは相容れなかったが、グスタフが異人種迫害を受けてきたことについては常にグスタフを擁護する立場だった。実際、アルトゥールは、ランズウッドがグスタフを暖かく迎え入れていることについては、この国のもっとも誇らしい一面である最大級の賛辞を惜しまなかったが、彼はグスタフの曲を決して演奏しようとはしなかった。また、あるときは、グスタフが演奏会で使用する楽譜にいつもたくさんの書き込みをして演奏者に指示しているのを聞いて、作曲家を冒涜する行為と激しく非難したということもよく知られていた。

 そのアルトゥールはゲーベルの指揮者としての才能を見出し、しばしばニュークルツ交響楽団に客演指揮させた。アルトゥールはゲーベルの作曲した音楽を評価も理解もしなかっし、作曲家としてのゲーベルを決して擁護しようとはしなかったが、指揮者としての斬新な演奏は大いに期待したようだった。

 ゲーベルは近代及び現在の音楽を中心に斬新なプログラムを組んだ。感情に流された甘ったるい音楽を排し、斬新な音を紡ぎ出すゲーベルの音楽をアルトゥールは高く評価した。新聞記事によると、アルトゥールは次のようにゲーベルのことを賞賛したということだった。

「わしがどうしても理解できず、共感もできなかった作曲家の音楽をゲーベルは理解し、共感できるようだ。だから、彼はその作曲家たちの曲に生き生きとした魂を吹き込むことができる。また、古典の音楽も彼の感性と解釈を通して新しい輝きを放っている。」

 指揮者の道はゲーベルの人生にも大きな影響を与えた。指揮者としての才を見出されたゲーベルはアルトゥールを介して財界の資産家たちとも懇意になったようで、そんな中である資産家の娘と恋仲になり結婚したのだった。その資産家はパークスの忌み嫌う異人種に当っていたが、この国ではその異人種の者たちが数多くビジネスの世界で成功を収め、大きな財を成していた。そんな資産家の娘と結婚したゲーベルは大きな邸宅に移り住んだが、生活に窮するフェドラーへの援助に力を尽くしてもくれた。

 

 さて、ビーラム島の奪還は、ブラーニアに征服された国々の反ブラーニア活動に力を与えた。コヒツラントの山岳地帯ではそれまでもいくつかのレジスタンスやゲリラが活動していたが、ビーラム島の奪還を機に統合への動きが加速し、ヴェヒラムの率いる国民解放戦線が力を増していた。

 国民解放戦線はブラーニア占領地域での破壊工作を活発化させ、高架橋や鉄道を破壊したり、ブラーニア系の銀行に爆弾が投げ込んだりした。ブラーニア軍は国民解放戦線の一掃をもくろんだが、戦車が進めない山岳地帯に身をひそめ、しかも頻繁に居場所を変える解放戦線を崩壊させることはできなかった。

 ブラーニアはレジスタンスに身を投じた者を割り出し、その親族や親戚を捕えて、首都ル・マーズで公開処刑することまで行ったが、レジスタンスを抑え込むことはできなかった。ル・マーズで銃殺された罪なき人々の数は三千八百人にも及んだ。

 一方、国民解放戦線では、ブラーニアによって家族を殺された一般人までもが義勇軍に志願した。女性も少年も志願し、解放戦線は彼らを組織化し、ブラーニア軍に対するゲリラ攻撃を行い、ブラーニア軍の補給を妨害した。国民解放戦線の思想教唆や宣伝工作も加わって、ブラーニアへの抗戦は徹底しており、どんな苦境にあっても決してひるまなかった。

 そんな中、ランズウッドのマシュロビッチ少佐は、アシュグザから長い旅程を踏破して、山岳地帯にみすぼらしい司令部を置く解放戦線の指導者ヴェヒラムと連絡をつけることに成功した。マシュロビッチ少佐はブルック首相の親書を手渡し、コヒツラント国民解放戦線とランズウッドの連携が出来上がった。

 マシュロビッチ少佐が帰国すると、ランズウッドのブルック首相は改めて反ブラーニア戦線への支持を表明し、落下傘投下による武器、弾薬、食糧、医療品などの支給が始まった。

 二か月後、ヴェヒラムはニュークルツに現れた。彼は時代の寵児としてマスコミに取り上げられ、市民の大変な歓迎を受けた。新聞の一面には、彼とブルック首相が握手する写真が大きく掲載された。

 ブルックとヴェヒラムとの会談では、コヒツラントの主権回復のためにランズウッドが援助を惜しまないことが改めて確認され、ブラーニアに対して共同戦線を張ることが合意された。

「ランズウッドがヴェヒラムと手を携えるのは良いことなんだろうな。この戦いに勝つためには。」

 そうゲーベルは言ったが、ナユタはちょっと首をかしげた。

「ただ、コヒツラントでは、自由民主同盟もかなり力を持っていて、ヴェヒラムとは相容れないらしいじゃないか。のちのちめんどうなことにならなければいいがな。」

 たしかに、その点は気になることではあったが、新聞を読む限り、ブルックはヴェヒラムを高く買っているようだったし、ヴェヒラムの戦線がブラーニアとの戦いでの第二戦線の強化という意味でも重要だということはその通りであったろう。

「それより、クロイシュタットがどうしているかが心配なんだがな。」

 そう言ったのはマティアスだった。実際、クロイシュタットとはこの大戦が始まってから音信不通になってしまっていた。クロイシュタットは異人種であるため、ときどき伝わってくる収容所なるものに入れられているのかもしれなかった。

 実際、ブラーニアには政治犯、反政府主義者、異人種の者たちが入れられる巨大な収容所があるということはときどき伝わってきてはいたが、その実態は謎に包まれていた。

 そんな時、一本のドキュメンタリー映画が公開された。

 新聞報道などによると、ブラーニアの収容所において、非人道的な虐待や場合によっては虐殺が行われているのではないかという各国からの非難に対し、ブラーニアが中立的な国際人道支援団体を招いて収容所を公開し、その時の模様を収録したのが、このドキュメンタリー映画ということだった。

 ナユタたちもさっそく見に行ったが、視察団が列車で到着するところから映画が始まっていた。列車が収容所の中の駅に着くと、収容されている者たちからなる楽団が歓迎の曲を奏でた。視察団の一行が列車を降りてくると、制服姿のブラーニアの軍人とともに、同じく制服姿のブラーニアの女性職員、こぎれいな身なりの収容者が出迎え、それぞれの代表が花束を渡した。

「おい、あれは、ハースじゃないか?」

 その場面を見るなり、マティアスが小声で言った。

「えっ?ハース?」

「ああ、あの指揮者だよ。」

 それはたしかにハースだった。十二音技法のアーノルドの弟子で、ゲーベルたちの演奏会で彼の作品を演奏したこともあった。将来を嘱望されていた音楽家だったが、その映像の中では、その顔に浮かんでいるどこか弱々しい笑みがなんとも痛々しく感じられた。

 その後、場面は、収容所の中を視察団が案内され、ブラーニアの関係者や収容されている人々と言葉を交わす場面が続いた。収容所の大通りの両側にはこぎれいなバラックが並び、ところどころには花の植えられた庭園や子供の遊び場があり、さらに、収容所の中心部と思われる広場には、銀行、劇場、レストラン、喫茶店などが並んでいた。

 さらに、映画は、喫茶店で若いカップルが談笑する場面、収容者が作るサッカーチームどうしの試合の場面、子供たちが遊び戯れる場面へと続き、最後は、劇場での演奏会の様子だった。その場面ではハースが収容所内の管弦楽団を指揮してブラーニアの偉大な作曲家リヒャルトの有名なオペラの序曲を演奏していた。そして、その映像の中に、

ブラーニアの女性職員の言葉が挿入されていた。

「ここは監獄ではありませんし、ゲットーという言葉も適切ではありません。ここは、彼らのための新しい入植地なのです。」

 映画館を出ると、ゲーベルは言った。

「これがほんとうの姿かどうか。極めて疑わしいな。」

 ナユタもうなずいて答えた。

「そうだよ。これはブラーニアのプロパガンダにすぎない。国際人道支援団体は善意と正義の気持ちから訪問したのかもしれないが、結局、ブラーニアに利用されただけだよ。」

「収容者たちの笑顔はみなどこかよそよそしかったしな。」

 そう言ったのはマティアスだった。

 それにしてもクロイシュタットはどうしているのか、それは皆の心に重く圧し掛かったままだった。

 

 さて、ビーラム島を奪還したランズウッドにとって、次に是が非でも奪還しなければならいのはニコベラン島だった。ランズウッド参謀本部は、ニコベラン島攻略作戦を立案した。この攻略作戦でまず鍵を握るのは機動部隊主力の艦隊決戦であり、これによって制海権、制空権を奪えば、あとの戦いは圧倒的に有利になる。開戦後、ランズウッドの工業力をフル回転させて建造した八隻の新鋭空母を主力にブラーニアの空母戦隊を撃滅する。それがランズウッドの基本戦略だった。

 一方のブラーニアにとっては、開戦劈頭の奇襲で奪取したこのニコベラン島は本大戦での戦果の象徴であり、絶対に死守せねばならない島だった。ブラーニアは巨大な守備軍を派遣し、堅牢な陣地を築くとともに、ニコベラン島を基地とする強力な艦隊を配備していた。

 だが、ランズウッドがこの島に迫ってきている状況においては、敵機動部隊を撃破する以外、ニコベラン島を守る手はない。最新鋭の主力空母四隻を含む九隻の空母を軸に機動部隊を再建したブラーニア機動部隊の司令官は、新たに着任したヴィンクラー中将であった。

 ヴィンクラー中将は、徹底的な索敵によって、敵よりも早く敵艦隊を発見し、大編隊の航空部隊で先制攻撃をかけ、敵空母に壊滅的な打撃を与えるという基本方針を立てた。

「敵は空母だけだ。こちらは空母と航空基地と両方だ。先に敵の甲板を破壊すれば、勝敗は決する。」

 そう中将は語り、旗艦に幹部を集めると、次のような訓示を行った。

「この戦いは今次大戦の帰趨を決めかねない。敵機動部隊撃滅がこの決戦の最大の目的である。ニコベランの海と空は絶対に死守せねばならぬ。いかなる作戦を取ってでも、いかなる犠牲を払ってでも、この目的を達成せねばならない。」

 ブラーニアにとってそれほど重要な決戦であった。そして、ヴィンクラー中将には勝算があった。航空機の数では自軍が有利だ。しかも、ヴィンクラー中将の搭乗する旗艦は、四か月前に就航したばかりの新鋭艦であり、甲板には急降下爆撃機からの爆弾に耐えられる装甲を張り、魚雷に対しても周到な防御が施されている。

 艦長は、

「この船は十発や二十発の魚雷でも沈まないし、航空機の爆弾が落ちても甲板は破壊されない。」

と豪語していたほどだった。

 しかし、不吉な予感もあった。ブラーニア空軍はランズウッド本土空襲、ビーラム島沖海戦などで優秀なパイロットを数多く失っており、搭乗員の技量は著しく低下していた。しかも、スチュアートが心血を注いで開発したブラーニア戦闘機も、ランズウッドの必死の航空機開発の結果、必ずしも性能で優位とは言えなくなっていた。

 ヴィンクラー中将の載る旗艦は発着艦訓練も不十分なまま戦場に向かったが、対潜哨戒をしていた艦上攻撃機が着艦に失敗して、甲板上の艦上爆撃機に追突し、他の航空機も含めて七機が失われるという事故まで起こっていた。

 そんな状況の中、ニコベラン島を巡る戦いは、午前七時二十五分、ランズウッド空母から発艦した攻撃隊百二十七機がニコベラン島の基地を攻撃するところから始まった。ランズウッド軍を率いるボルガン中将が、敵空母に備えるべきと言う幕僚たちの声を一蹴し、

「まず一撃を加える。」

と先制攻撃にこだわった結果だった。

 これは先制攻撃によってニコベラン島の航空機を破壊し、飛行場を使用不能にしたいというボルガン提督の発想に基づいていた。空母の数は、ブラーニア軍が九隻、ランズウッドが十五隻でランズウッドが優勢だったが、ニコベラン島の基地航空機四百機を加えるとブラーニアが優勢となる。ニコベラン島の基地航空機を緒戦で叩くことが極めて重要なポイントという判断であった。

 ニコベラン島攻撃の様子はランズウッド報道班のカラードキュメンタリー映像に克明に捉えられた。ニコベラン島の基地からは次々に黒煙が上がったが、この時、基地航空機の多くは既に離陸済みで、一部はランズウッド空軍を待ち受け、他の部隊は既にランズウッド空母に向かっていた。戦況はまさに、先制攻撃を仕掛けるというヴィンクラー中将の思惑通りになっていた。ランズウッド軍の第一次攻撃は思ったほどの戦果を挙げることができず、飛行場には打撃を与えたものの使用不能にまでは至らなかった。

 ニコベラン島でランズウッド空軍の空襲が始まったという連絡はすぐにヴィンクラー中将の司令部にもたらされた。参謀の一人はにやっと笑って、

「勝ったな。」

とつぶやいた。

 敵はニコベラン島にやって来ていて、ブラーニア空母には来ていない。おそらくブラーニア空母をまだ発見できていないのだろう。一方のブラーニア軍は既に敵空母の位置を把握しているのだ。ニコベラン島からは攻撃機が敵空母に向かっていたし、ブラーニア空母からも今まさに攻撃機が発艦しようとしている。司令部の参謀たちが勝利を確信したのも無理からぬものがあったろう。

 一方のボルガン提督は無線でニコベラン島攻撃が十分な戦果を生まなかったという報告を受けたが、旗艦の艦橋で腕組みしたまま、顔色一つ変えなかった。さらに、レーダーで捉えられたブラーニア攻撃機の接近が報告されると、不安で動揺する参謀たちを見渡し、落ち着いた声で言った。

「ニコベラン島の航空機を壊滅させたかったが、できないものはしかたない。ともかく、彼らがやってくる。お招きしなくてはなるまい。」

 そう言うと、戦闘態勢を指示し、

「ことごとく撃ち落せ。おれたちの腕前を見せてやろうじゃないか。」

と参謀長の肩を叩いた。

 九時三十五分、ニコベラン島から離陸した攻撃隊二百七十四機がランズウッドの機動部隊に殺到した。しかし、ランズウッド海軍はレーダーでブラーニア攻撃隊の接近を探知しており、万全の準備を整えていた。

 攻撃部隊は、ランズウッド空母から舞い上がって待機していた戦闘機部隊によって、その多くが撃ち落された。戦闘機からの攻撃を切り抜けたブラーニア攻撃隊はランズウッド艦隊に迫ったが、待ち受けていたのは、万全の防空体勢を敷いていたランズウッド艦隊の対空砲火だった。スコールのような激しい対空砲火にブラーニアの攻撃機は次々に撃ち落され、その様子もカラー映像に記録された。ブラーニア航空機のあるものは空中で分解し、またあるものは黒煙を上げて海中に突っ込んだ。

 ブラーニアがランズウッド艦隊へ与えた打撃は、空母一隻中破、戦艦一隻中破だけだった。攻撃機は、帰路にも再びランズウッド戦闘機の襲撃を受け、帰還できたのはわずか四十六機に過ぎなかった。

 ブラーニアの攻撃機が去った直後、ボルガン司令部は、待ちに待ったブラーニア機動部隊発見の報を得た。司令部は色めきたった。

「今度はおれたちの番だ。」

「すぐに攻撃機の準備を。」

と攻撃準備を指示しようとした参謀たちをボルガン提督は押しとどめて言った。

「招待客はまだ全部は来ていない。空母艦隊の方々は遅れてやってくるのだろう。彼らも丁重にお迎えせねばなるまい。」

「しかし、敵空母を発見したのですぞ。」

「先手必勝。一刻も早く攻撃を仕掛けるべきです。」

 そう息巻く参謀たちに、ボルガン提督は落ち着いて答えた。

「もはや先手は敵にとられている。彼らの方が先にやってくるだろう。今ここで攻撃隊を準備すれば、爆弾を抱いた爆撃機を飛行甲板に並べたところへ敵が来る。ビーラム島沖海戦のときのブラーニア空母の二の舞になるだけだ。」

 そう言うと、ボルガン提督は、戦闘機だけを発艦させた。ボルガン提督のこの自信を支えたのは、この戦いのために、徹底的に強化した自軍の防空体制への信頼だった。

 はたして、十時二十五分、ブラーニア空母から発艦した航空部隊百九十二機がランズウッド機動部隊に迫った。攻撃隊を率いるのは、今次大戦緒戦のニコベラン島空襲で第二次攻撃隊を率いたフィッシャー中佐だった。だが、フィッシャー中佐を待ち受けていたのは、ランズウッドの精鋭戦闘機部隊だった。攻撃機は次々に撃ち落された。ようやくこれを切り抜けてランズウッド艦隊上空に達すると、フィッシャー中佐は全機突撃を指示した。しかし、急降下爆撃の神様と言われたフィッシャー中佐からの指令はそれが最後だった。大きく翼を振り、急旋回して激しい対空砲火の中へ急降下したフィッシャー中佐の最期を見た者は誰もいなかった。

 だが、ランズウッド艦隊も今回は無傷ではいられなかった。ボルガン提督の乗る旗艦には爆弾と魚雷が命中し、艦は大きく身震いした。ドキュメンタリー映画を撮影するカメラマンが爆弾直撃の映像をカメラに収めたが、そのカメラマンは殉職した。十一時、続けざまに爆弾が命中すると、艦橋は黒煙に包まれた。ボルガン提督は煙の立ち込める艦橋からロープを伝って脱出し、駆逐艦に移らざるを得なかった。この攻撃で、ランズウッド艦隊は、十五隻の空母のうち、先の攻撃で中破していた空母一隻が撃沈され、ボルガン提督の乗っていた空母も大破した。

 だが、ボルガン中将は意気軒昂だった。ブラーニア攻撃部隊が去ると、すすけた頬や破れ焦げた軍服にも構わず、

「さあ、これからだ。」

と幕僚たちに叫び、出撃準備を命じた。

 残っている無傷の十三隻の空母から、戦闘機八十五機、急降下爆撃機七十七機、雷撃機五十四機、計二百十六機が飛び立った。

 一方、ヴィンクラー中将は、空母一隻撃沈、一隻大破の報に不満だった。敵機動部隊はまだ壊滅していない。帰ってきた攻撃機はわずか三十一機に過ぎなかったが、それでもヴィンクラー中将は決断した。残っていた飛行機すべてに爆弾を積ませて発進させようとした。

 だが、その時、ランズウッド空母から発艦した航空機二百十六機がブラーニアの空母九隻に殺到した。雷撃機が対空砲火をかいくぐってブラーニア空母へ放った魚雷の命中を飛行機からのカメラがとらえた。午後一時五十分、ブラーニアの空母一隻が海に沈むと、さらに残るブラーニアの空母も次々に被弾し、夕日の沈むころ、空母三隻が海の藻屑と消えたのだった。両軍の対空防御力の決定的な差が勝敗を分けたと言ってよかった。

 このニコベラン島沖海戦の結果、ブラーニア機動部隊は壊滅し、ニコベラン島周辺の制海権と制空権は完全にランズウッドの手に落ちた。

 孤立したニコベラン島は徹底抗戦の姿勢を崩さなかったが、数日後、ランズウッド海兵隊の上陸作戦が開始された。午前五時、激しい空襲と艦砲射撃の嵐がニコベラン島に襲いかかり、続いて、午前7時十五分、ランズウッドの海兵隊が大型上陸用舟艇七十隻、小型上陸用舟艇百隻、水陸両用車六十八両でニコベラン島の南海岸への上陸を開始した。

 ブラーニア軍は水際撃滅を目論んでいたが、ランズウッド軍による空爆と艦砲射撃で守備隊は大きな損害を受け、十分な反撃を行えなかった。守備隊はランズウッド軍二千人あまりを死傷させたものの、守備隊のいくつかの大隊は全滅した。ランズウッド軍は大量の犠牲者を出しながらも、日没までに幅一キロ、奥行き数百メートルの橋頭堡を確保し、海兵隊二万名以上を上陸させたのだった。

 守備軍は必死の抵抗を続けながら、援軍を待ち望んだ。しかし、制空権と制海権を失ったブラーニア軍はどうしようもなかった。ブラーニア海軍は、何度か反撃を試みたが、そのたびに、ランズウッドの有力な航空勢力の前に敗退しただけだった。

 一か月後、ニコベラン島のブラーニア軍は戦う力を完全に失い、残っている数少ない兵士は降伏した。だが、そこで明らかになったのは、ニコベラン島にいたランズウッド国民のほとんどが既に連れ去られていたという事実だった。降伏した司令官が明らかにしたところによれば、ブラーニアがニコベラン島を占領した直後に、兵士全員と住民の大半はブラーニアに移され、おそらく強制労働に従事させられているだろうということだった。

 

 ニコベラン島攻略で大戦の潮目が変わったと言ってよかったが、全体の戦況は、勝敗の帰趨がはっきりしたというにはまだあまりにも遠い状況だった。ランズウッドにとって、これまでの戦いとは明らかに違う困難が待ち受けているのは間違いなかった。

 ビーラム島のときは、ランズウッド本土からの航空機が攻撃を仕掛けることができた。ビーラム島沖海戦でも、ランズウッド本土航空隊の果たした役割は大きかった。また、ニコベラン島を巡る争いでも、ニコベランはあまりにブラーニアから遠く、兵站確保の点で、ランズウッドの方が圧倒的に有利だった。

 だが、今後、大陸間の海洋に点在する島々を攻略して、ブラーニア本土に迫るためには、兵士や弾薬、食糧、さらにはさまざまな武器や戦車を海を越えて運ばねばならなかった。その海には、ブラーニアが誇る潜水艦部隊が散開していたし、数々の島に設置された航空基地はまさに不沈空母の役割を果たしているのだ。

 だが、ブルックにとってその戦いを戦う以外の道はなかった。今後の戦争遂行について話し合うため、ブルックは、ニコベラン島攻略の一か月後、ニコベラン島で会議を行った。いわゆるニコベラン会議である。

 この会議には、ビシュダール亡命政権の首相や地下組織であるルンベルグ解放同盟のリーダー、コヒツラントの国民解放戦線から派遣された者たちも参加していた。当然のことながら、彼らが特に強く要望したのは、できるだけ早くランズウッド軍が大陸に上陸してブラーニアを打ち倒し、自国を解放してくれることに他ならなかった。

 彼らはそのことを口々に訴えたが、この機を捉えて一日も早くランズウッド軍が大陸に上陸する方向に会議をもってゆきたいという彼らの思いが透けて見えると、ブルックは渋面を作って言った。

「ランズウッドに期待していただけるのはまことにありがたい。また、我が国は、全人類のために果たさねばならない責務を十分に認識してもいる。ただ、皆様方は心逸っておられるが、ぜひ、真摯な目で現状を見ていただきたい。我々はまだ反撃の緒についたに過ぎない。ブラーニア軍は依然として強大だし、我々の前には広大な海もある。」

 この言葉に出席者の一部が口を挟みかけたが、ブルックはそれを押しとどめて続けた。

「皆様方のご苦労と努力は十分に認識しています。ただ、ぜひ、理解いただきたいのは、ランズウッドの力だけでは、ブラーニアを打倒するのは極めて難しいということです。勝利のためには皆様方の協力が必須なのです。なんと言っても、この戦いは、皆様のための戦いでもあるのですから。」

 実際、ブルック及びランズウッドの軍首脳が特に期待をかけたのが、コヒツラント国民解放戦線とブラーニアとの戦いだった。この東部戦線にブラーニアの大軍を張り付けさせておくことが、海洋の島々での戦いを有利に進めるために不可欠であるためだった。

 また、ビシュダールやルンベルグ国内での反ブラーニア破壊活動や政治工作もこの戦いを有利に進めるためには必要だった。

 全体会議が終わると、ブルックはそれぞれの指導者たちと会談を行った。

「海洋の島々を攻略し、大陸に迫るためには、大陸内でのみなさんの活動が不可欠なのです。ブラーニアの全勢力を島々の防衛に充てさせないことこそが、大陸への上陸の時期を早めるのです。」

 そうブルックは力説し、資金、武器、さらには必要であれば兵士の提供まで約束したのだった。実際、それまでもビシュダールやコヒツラントでのレジスタンスは様々な破壊工作を行うとともに、貴重な情報源でもあった。そして、鉄道や道路の警備、家宅捜索などにブラーニアの数十万もの兵員を張りつけさせることだけでも十分な意味があった。

 これらの会談後、ブルックはニコベラン宣言を発表した。その宣言は、開戦当初の「決してランズウッドは屈しない。とことん戦い抜く。」という決意を越えて、地球と全人類が目指すべき方向を謳ったものだった。

 ニコベラン宣言では、単にブラーニアへの勝利を目指すのではなく、ブラーニアも含めて、全世界から軍国主義と全体主義を一掃し、地上にあまねく平和と自由をもたらすことを目指して戦うということが宣言された。ブラーニア人も含め全人類を抑圧や、隷属、差別から解放することも宣言された。

 だが、崇高な宣言とは裏腹に、現実の戦況や戦力バランスは予断を許すものではなかった。ランズウッド軍の上層部は、コヒツラント解放戦線による東部戦線の確立を望んでいたが、それが実際にどこまで寄与してくれるかは未知数だったし、大陸間にあるこの広大な海をどう渡るのか、どうシーレーンを確保し、最前線の島々に兵士や武器、食料を届けるのかも簡単な話ではなかった。

 実際、ニコベラン島の次にランズウッドが攻略したニエグ島では想像もできないほど大きな被害が出た。ニコベラン島陥落後、ブラーニアは新たな戦争遂行要領を作成し、絶対に敵から守るための絶対国防圏を設定したが、ニエグ島は絶対国防圏に含まれていなかったため、ブラーニアはわずか二千六百人ほどの守備隊しか置いていなかった。これに対し、ランズウッドは、ニエグ島周辺海域での制海権と制空権を確保し、かつ、守備隊の十倍以上の三万五千人の兵力で強襲をかけた。勝敗は火を見るより明らかで、戦いはわずか三日で守備隊の全滅で終息したが、島外のサンゴ礁で上陸用舟艇が座礁したり、ランズウッド守備兵からの水際での激しい砲火を浴びせられたりしてランズウッド側の被害も甚大だった。千九人が戦死し、二千二百九十六人が傷ついたのだった。

 ニエグ島の戦いが伝えられると、ランズウッド国民は愕然とせざるを得なかった。国会でもこの問題は議題として取り上げられた。

「国民の誰もが名前を聞いたこともないちっぽけな島の攻略に、これほどの人命と労力をつぎ込まねばならないのか?」

と追求し、この作戦の指揮官を国会で尋問すべきだと主張した議員もいたほどだった。

 実際、この先、大陸間の海洋の島々を一つずつ制圧せねばならないとしたら、いったいどれほどの損害が出るのか。ブラーニアに近づくほど抵抗はますます強まるはずなのだ。

 ナユタの仲間たちも暗澹とした表情だった。

「先が思いやられるな。」

とゲーベルが言うと、マティアスも首を振って言った。

「ほんとうにな。これじゃ、どれほどの犠牲が出るか想像もつかない。もっと賢い方法はないものだろうか。」

 だが、そんな方法を考える力を音楽家の彼らが持ち合わせているはずもなかった。

「ともかく、見守るしかないな。」

 ナユタもそう言うほかなかった。

 

 だが、ともかく、それから一年半、大陸間の海洋に点在する島々を巡って激しい戦いが繰り広げられ、ランズウッドは一つずつブラーニア軍が守備する島を攻略していったのだった。

 ブラーニアは徹底抗戦を叫び、各島で激しく抵抗したが、膨大な物量でまず制空権、制海権を確保し、敵の守備兵を圧倒する上陸兵力で攻略するランズウッドの前に形勢を挽回することはできなかった。航空戦での飛行機と搭乗員の損失は甚大で、艦船も次々にランズウッドの航空攻撃、潜水艦攻撃の前に沈んでいった。このため、どの島でも、最後は、空と海からの援助がなくなり、物資の補給も絶たれ、最後の一兵まで戦い続けて全滅する以外に術はなかった。

 海洋での島々での戦いでランズウッドの犠牲も少なくなかった。ある日、ナユタが大学でマティアスに会うと、マティアスは声を落してナユタに言った。

「また、一人、音楽科の若者が死んだよ。二人目だ。」

 そう言って、マティアスは、死んだ若者のことを語り、さらに、

「なあ、ナユタ。こんなことを知っているか?」

と続けた。

「ブラーニアでは戦争に駆り出され、無残に戦地で散った兵士たちを神として祀っているそうだ。惨めに死んでいった彼らを英霊として讃え、美化することによって、戦争完遂の姿勢を賛美し、国のために命を投げ出して戦うことを賛美し、全国民を戦争へと駆り立てているそうだ。そして国民は極度な情報統制のもとで勝利を信じ込まされ、ますます戦争に駆り立てられている。勇敢に、国家のためという美名のもとで死をも厭わず戦争に向かってゆく者だけが賛美され、疑念を呈する者は限りない非難を浴び、生命すら危うくなるらしい。」

「死者を悼む心に付け込んでますます若者たちを死地に駆り立てる行為だな。この戦いは容易ではないな。」

「ああ、ほんとうにどれほどの犠牲をさらに払えばいいのか?悲しいことだ。戦争の趨勢はもはや決している。彼らが理性的であるなら、もう戦争を止めるべきだ。」

「だが、それは無理だろうな。」

 ナユタは首を振って続けて言った。

「パークスにとって大切なのは、国民の幸せではあるまいからな。」

 この言葉にマティアスもうなずくほかなかった。

 

 だが、ともかく、ランズウッドは島伝いに侵攻し、いよいよビシュダールへの上陸が検討されるところまで到達した。だが、この作戦は簡単ではなかった。

 ビシュダール亡命政権は、以前にも増して早期大陸上陸を強く要請していたし、ルンベルグ解放同盟、コヒツラント国民解放戦線も同じくそれを望んでいたが、ランズウッド軍首脳部では十分な自信を持っていなかった。

 何よりも難しいと思われたのは、敵が強固に防御陣を張る海岸に強襲上陸することだった。海洋の島々でも、上陸には大きな犠牲を出し、それが報じられる度にランズウッド国内では衝撃が走ったが、大陸への上陸はその比ではないだろう。海洋の島々では、事前に制空権、制海権を確保することで、上陸に際しての敵航空機による攻撃をなくすことができたし、上陸の数か月前から、それらの島々への輸送船を攻撃することで、十分な兵力、装備を準備させずにおくこともできた。そして、上陸が始まったら、敵には援軍はない。

 だが、大陸への上陸はそうはいかなかった。大陸にあるブラーニア航空基地とブラーニア航空機をすべて壊滅させるなど不可能だったし、海岸の防御は島々とは比べものにならないくらい強固で厚みがあるはずだった。しかも、攻撃された地点に、すぐさま援軍を送り込むこともできるはずなのだ。

 ランズウッド軍首脳部の一部からは、島々を攻略した後、時間を掛けて、大陸の都市や工業地帯を徹底的に空襲するのが良いが最善の戦略だという意見も出されたが、ブルックは即座に却下した。彼自身の敢闘精神もそれを許さなかったろうが、それ以上に、政治的な観点からそれは許容できないことだった。この戦いに協力してくれている大陸の反ブラーニア勢力が望んでいるのは早期に上陸して、大陸からブラーニア軍と全体主義、軍国主義を一掃することだったし、そうすることによって全人類を自由と平和と安全に導くというのがニコベラン宣言であったからだった。

 このため、ブルック首相は、作戦決行予定の二年も前から特別の作戦準備委員会を組織して、綿密な作戦を検討させていたのだった。

 この作戦の最高指揮官には、陸軍のアディット将軍が任命された。アディット将軍は、この大戦が始まるときには一陸軍中佐に過ぎなかったが、ニュークルツの防衛では、ブラーニア空軍に対する邀撃で華々しい戦果を挙げ、さらに、島伝いの進行作戦で司令官として評価を高め、今や陸軍大将となっていた。冷静沈着で、大局を見失わない司令官というもっぱらの評判だった。また、温厚な人柄で、癖のある将軍たちを手なずけたり、海軍と調整したりする能力に長けている点も評価されたようだった。

 アディット将軍の司令部は、作戦準備委員会が準備したものに基づき、準備を進めた。作戦の根幹は、空軍によって可能な限り敵の反撃力を削ぎ、時を移すことなく、できる限りの強大な兵力を上陸地点に集中させて橋頭堡を築くというものだった。そのためには、兵員や車両、物資などを載せるための多数の艦船とそれを支援する軍艦が必要だったし、上陸用舟艇、耐水戦車も準備しなければならなかった。作戦準備委員会が特に力を入れたのは上陸のための戦車上陸用舟艇だった。これは重車輌を海外に上陸させるための船であり、その生産のためには国内の七万人の従事し、千隻あまりが建造されていた。

 また、この作戦を成功させるためには、ブラーニア守備軍を上陸地点に集中させないための情報攪乱策がぜひとも必要であったし、コヒツラントのレジスタンスにブラーニアの大軍をひきつけさせておくことも必要であった。

 コヒツラントのレジスタンスは以前よりはるかに活発になっていたが、状況はより複雑になっていた。それはもう一つのレジスタンス、すなわち自由コヒツラントが設立されたためだった。この指導者はかつて自由民主同盟を率いていたパトリスの後を継いだウェーバーという人物であったが、彼はヴェヒラムの国民解放戦線とは相いれず、自由民主同盟を基盤に、独自に自由コヒツラントを設立した。それは山中で結成され、世界中にそのニュースが放送されたが、ある意味では国民解放戦線への挑戦でもあった。

 ウェーバーはもともとコヒツラントの貴族の出身で、前回の大戦では陸軍大尉としてブラーニアと戦いで部隊を指揮し、今次大戦が始まるときには少将になっていた。ブラーニアによるコヒツラント侵攻によって政府が崩壊すると、ウェーバーはコヒツラントを率いるのは自分であると自負し、パトリスの率いる自由民主同盟に参加して頭角を現し、パトリスから後継者として指名されると、新たに自由コヒツラントを設立したのだった。

 ウェーバーは名家の出身ということに誇りをもち、人間的にも自尊心の強い自信家だった。庶民上がりのヴェヒラムを徹底的に忌み嫌っており、国民解放戦線のヴェヒラムと妥協する気など毛頭なかった。この対立はさまざまな場面で激しさを増し、国民解放戦線と自由コヒツラントの間の軍事衝突も一度や二度ではなかった。

 そのウェーバーは自由コヒツラントを設立してほどなく、ニュークルツにやってきた。彼はブルック首相と会うと、コヒツラントの偉大さと秘めている力を力説し、さらに、ヴェヒラムの解放戦線の危険を指摘したのだった。

「あんなやつらに、自由と平等の国を作る力なんてない。彼らの思想は唯我独善の思想であり、彼らが権力を取れば、独裁にしか結びつかない。農民をはじめとする貧しい無教養な者たちを束ねて死を厭わない兵士に仕立てているだけだ。」

 ブルック首相は、以前はヴェヒラムをレジスタンスの指導者として認めていたが、ウェーバーと面談したとたんに気が変わったらしかった。ウェーバーの独善的で尊大な性格と鼻っ柱の強さにはブルック首相も辟易したらしいが、その自信とカリスマ性が多くのコヒツラントの同志をひきつけ、国民解放戦線に匹敵し得る勢力になっていること、そして、国家体制に関する信条がランズウッドに近いこと、さらには軍事面、政治面の見識でもヴェヒラムを上回っているように見えたことなどから、新コヒツラントを担うべきなのはウェーバーであると信じたようであった。

 だが、ブラーニアを倒すまでは、両者に手を握らせ、打倒ブラーニアに結集させることがぜひとも必要だった。ブルック首相は、国民解放戦線と自由コヒツラントにそれぞれ軍事顧問を派遣し、さらには遠路を踏破してランズウッド軍を派遣した。

 ランズウッド軍は自由コヒツラント軍と合流し、さらには国民解放戦線との共同作戦を行ったが、進撃は困難を極めた。ブラーニアの兵力は頑強で、これまでの海洋の島々の攻略のようには行かなかった。

 実際、ブラーニア軍の拠点攻略のために、ランズウッド軍は千五百トンもの爆弾投下による空軍の支援の元で激しい戦いを展開したが、優勢なブラーニア軍の前に後退するほかなかった。だが、ともかく、この地にブラーニアの兵力をくぎ付けにしたこと自身が、ビシュダールへの上陸作戦に不可欠なことでもあった。

 パークス大統領は、コヒツラントでの戦いの勝利を宣言した。

「敵はこれまでの小さな勝利に酔い、おごり高ぶっている。小さな島での戦いに勝って自らの力を過信しているに過ぎない。我らの真の力に直面した時、彼らの力がいかに脆いものであるか、それをこの戦いが証明した。大陸での我が国の優位はいささかも揺らいでいない。戦争を継続する力のない彼らは、早く戦争を終わらせようと焦っているのだ。だが、彼らがブラーニアに近づいたとき、どんな破滅が彼らの軍を待ち受けているか、それを理解するべきだろう。」

 

 ちょうどその頃、大学の音楽科勤務でマティアスが懇意にしていた職員がコヒツラント戦線で負傷して戻ってきた。ナユタはマティアスと一緒に見舞いに行ったが、その男性は首を振って言うのだった。

「あんなところで戦わなくちゃならないとは思わなかったよ。トラックの通れないような道を延々と重い荷物を担いで歩かなくちゃならない。武器も全部、担いでゆくんだからな。戦う前に、半分以上の兵士がへばってた。おれもだけどな。」

「そんな厳しい戦場なのか。」

「ああ、あんな戦場はこりごりだよ。三十キロを超える荷物を背負い、山地を踏破するだけでもたいへんなことだけど、豪雨で増水した川を渡るときなんか、おれたち工兵たちが板を背にして川の中に並び、身を切るような水の冷たさに耐え、すべての兵隊たちが渡り終わるのを待つんだ。その橋を渡る兵士の中には疲れからふらついて川に転落する兵士が何人もいたが、誰もその兵士を助けはしない。上官の命令がなければ、仲間を助けることもできない。それが軍隊なんだ。皆、落ちた兵士には目もくれず、ただ、黙々と進軍するだけだ。」 

 そう語る男の顔は歪んでいた。

「でも、生きて帰って来れて良かったじゃないか。」

 マティアスがそう言うと、男の顔にかすかに笑みが見えた。

「ああ、そうだな。死んだら、つまらんからな。」

 その言葉からは、戦地での戦死者たちを見て、戦死したら惨めなだけだということを実感した様子が痛いほど伝わってきた。

 また、彼は、負傷した後の病院で、隣のベッドに寝ていた男のことも話してくれた。

「そいつは、おれたちと同じ輸送船団に乗っていたそうだが、その出征の船の中で虫垂炎にかかってしまったそうでね。船内にはたいした麻酔薬もなく、もちろん手術もできず、そいつはただただ苦しみもがいていたそうだよ。しかもブラーニア軍の潜水艦を警戒しながらゆっくり進むから、なかなか船は進みやしない。やっとのことで、船が陸地に着いた時には、腹が腐りかかっていたそうだ。それでも、一応、手術を受けたが、死ぬのを待つだけの患者が入れられるベッドに寝かされ、自分でも、もうだめなんだと思ったそうだ。だけど、彼はなんとか助かり、一般のベッドに移っていたときに、おれが隣にやってきたんだ。」

「みな、大変だったんだな。」

 このマティアスの言葉に、大きくうなずくと彼は自嘲気味に言った。

「ああ、軍靴を履いたまま寝たこともたびたびあったしな。」

「靴のままでか?」

「朝、集合すべき時間に遅れないようにするためには、靴を脱いで寝るわけにいかなかったんだ。ものすごく疲れていたからな。」

 それが戦争の生の姿なのだ。

 

 一方、コヒツラントでランズウッドの支援を受けたレジスタンス軍を撃破したと自負し、大いにその勝利を喧伝していたパークスは次の作戦を準備していた。

 次の目標はアシュグザだった。その背景には、パークスと会ってアシュグザ独立への協力を取り付けた自由アシュグザ仮政府の首班スワルディからの強い要望があったのはたしかだが、パークスにとっては重要だったのは、アシュグザ侵攻作戦が劣勢となっているこの大戦の帰趨を逆転させるための一撃となりうるという点だった。仮に、アシュグザ帝国の転覆と植民地支配からの解放とまでいかないまでも、この侵攻が成功すれば、ランズウッドの戦争継続を支えるアシュグザに大きな打撃を与えることができる。そして、ブラーニアは植民地支配からの解放を目指す正義の軍と讃えられるのだ。スワルディの率いる自由アシュグザ国民軍も必死に戦うだろう。

 この考えに沿って、ブラーニア陸軍はコヒツラントを出撃してアシュグザに侵攻する作戦計画を立案したが、大きな課題はコヒツラントとアシュグザの間に横たわる二千メートル級の山岳地帯だった。その山岳地帯には舗装されていない細い道路しかなく、補給が最大の課題だった。

 かつての電撃戦の英雄で少将となっていたガーラントは猛反対した。

「こんな無茶な作戦はない。尋常の神経とは言い難い。あの山道では、戦車も大砲も持って行けない。途中には大河も横たわっている。補給が滞り、兵士たちが武器弾薬にこと欠き、飢えに苦しむのは目に見えている。」

 だが、作戦を立案した参謀はその意見を一蹴した。

「この作戦は戦車こそ使いませんが、ガーラント少将殿の電撃戦そのもののです。だから補給など心配無用。食糧が尽きる前に一気に進撃して敵を攻略し、その食糧を手に入れれば良いのです。」

 この作戦の指揮を執ることになっていた中将も言った。

「断じて行えば鬼神も避く。ガーラント少将はいつからブラーニア魂を喪失されたのか。」

 パークスの不興を買ったガーラント少将は予備役に編入され、作戦決行が決まった。

 だが、戦いはガーラント少将が予見した通りとなった。ブラーニア陸軍は予定通りの日数で山岳地帯を踏破しアシュグザ領内でのランズウッド拠点に攻撃を掛けたが、ランズウッド陣地からの激しい十字砲火に敗退し、一時撤退するほかなかった。スワルディの自由アシュグザ国民軍も加わったが、高性能の武器は所持しておらず、兵の鍛錬もあまりに不十分で戦力としてはほとんど役に立たなかった。

 こうなると補給の問題がブラーニア軍にのしかかった。武器弾薬は日に日に乏しくなり、食糧もか細くなった。ランズウッド軍からの攻撃に耐えるだけの日々が続いてが、援軍も補給も来なかった。作戦の指揮を執る中将は一カ所に集中の攻撃によって形勢を挽回するよう幾度となく電報で即したが、最前線で指揮を執る旅団長はこれを無視して返電した。

「兵士たちは軍用馬を殺し、野を走るウサギやネズミ、蛇、カエルを食べて飢えを凌いでいる。武器弾薬も食糧も補給なく、この前線での窮状をなんら顧みもしない命令に従うことは兵を預かる将としてできかねる。」

 旅団長は独断で兵を撤退させ、ブラーニア軍は大量の死者を出す惨憺たる敗北を喫したのだった。

 だが一方で、この戦いはアシュグザの国民にも大きな厄災をもたらしたようだった。リトル・アシュグザでクンワールに会うと、彼は国の窮状について語った。

「ランズウッドではほとんど報じられていないのですが、アシュグザでは飢饉が発生していましてね。百万を超える餓死者が出ているんです。ランズウッドではブラーニアからのアシュグザ侵攻を撃退したことだけが大きく報じられていますけど、陰では悲惨なことが起こっているんです。」

「政府が締め付けて報道させていないんだろうな。ブルックにとっては戦争遂行が第一だろうから、それに水を差すような報道は嬉しくないだろうからな。」

 ナユタがそう言うと、クンワールは怒りを込めて言った。

「その通りですよ。戦争が始まって以来、検閲は厳しくなる一方です。本当のことをランズウッド市民の良心に訴えたいのですが、ブルックはアシュグザの救済に力を裂くべきだといような世論でも起こったら困ると思っているのでしょう。でも、実際、アシュグザの飢饉の惨状は悲惨だし、ランズウッドのアシュグザ侵攻がそれに拍車を掛けたんです。ランズウッドはブラーニアのアシュグザ侵攻に対抗するために、民衆が飢えている中で残っている食糧を軍用にかき集め、さらに民衆を徴用に駆り立てたんです。たまったものじゃない。それにブルックはアシュグザに対しては冷ややかそのもの。以前バグワーンが来てブルックに会ったときに痛感しましたが、ブルックの本心はアシュグザからは搾り取れるだけ搾り取ればいい、というものですよ。」

「よく分かりますよ。実はこの前、シュテファンから聞いたのですが、クンワールさんには愉快ならざることでしょうが、お伝えしますよ。ブルックは、『アシュグザで百万死のうが二百万死のうが戦争の勝敗にはなんの関係もない。あんな野卑で汚らしい奴らのことを考えるなど時間の無駄だ。』と側近に言ってたそうです。また、バグワーンのことも、賢者気取りの田舎者と愚弄していたそうです。」

 クンワールは大きく肩で息をしてため息をついた。

「これが自由と民主主義を標榜し、全体主義打倒を掲げて闘う国の元首とは。嘆かわしい限りです。だが、ともかく私はアシュグザもために何かしなくてはならない。今は、こちらにいるアシュグザの人間から寄付を募って本国に送っています。でも、焼け石に水のような額で。」

 ナユタは持っていた小切手帳を取り出すと、相当な額を書き入れてクンワールに渡した。

「これも焼け石に水かもしれないが、受け取ってください。大陸でブラーニアに苦しめられていたぼくたちをランズウッドが救ってくれた。ある意味ではぼくたちにとってランズウッドは恩人ですが、でも、そのランズウッドがアシュグザに対してしていることを考えるとほんとに忸怩たる思いです。これはほんの支援の気持ちですので。」

 クンワールは頭を下げて礼を言って受け取ったが、それからしばらくして、クンワールは国に帰って行った。

「この状況でここに留まっているわけにはいきません。国に帰って独立のために力を尽くすことにします。」

 それがクンワールの残した言葉だった。

 

 一方、時を同じくして、ランズウッドのアディット将軍は上陸作戦に向けて着々と準備を進めていた。航空機による爆撃が繰り返され、上陸の可能性のある地点に通じる鉄道網や橋脚が次々に破壊された。この空爆によって、ビシュダールの海岸地方の鉄道網の七十パーセントが破壊された。この攻撃はアディット将軍にとって極めて重要だった。大陸への上陸が成功したとしても、ブラーニアの新手の精鋭が上陸地点に現れればどうなるか。上陸部隊は行き場もなく、海に追い落とされるかもしれないのだ。外部からの援軍を遮断すること、それこそが勝利への道と言えた。

 さらに、上陸地点を悟られないことは極めて重要だったので、上陸しない場所に通じる鉄道網や橋脚の方により激しい空襲をかけたほどだった。また、同じ目的から、攻撃する予定のない場所への偵察や無線活動も大幅に活発化させた。

 上陸作戦は綿密に計画され、それに沿って厳しい訓練が行われた。上陸作戦においてまず重要なのはいつの何時に上陸するかだった。そして、それに合わせて全部隊が事前行動を開始しなければならなかった。艦艇と空軍部隊にとっては、月明を利用して海岸に近づくことも重要だった。潮流も考慮しなければならなかった。満潮時に海岸に接近すれば、海中の障害物が接岸を妨げる。逆に干潮時では上陸した兵士たちは長い海浜を歩かねばならない。これらの条件をすべて考慮して作戦日の候補が決定されたが、この日程もすべて天候に左右されるものだった。天気だけは、事前に決めることはできないのだ。

 

 ブラーニアがアシュグザ侵攻に失敗した一か月後、ついにビシュダールへの上陸作戦が開始された。これほどの大作戦が展開されたことは、神々の世界でも創造された世界の中でも例のない絶後のことであった。

 だが、かつてブラーニアの偉大な戦略家が語ったように、戦いには常に不確定性がついて回るのだ。戦いのためにどれほどの準備を行ったとしても、戦いが始まった途端、何が起こるかは誰にも分からない。そして、この上陸作戦の実際の勝敗は水際で決まる。ブラーニアの総司令官が

「この戦いは、わずか二十四時間で決する。」

と語っていた通りだった。

 攻撃部隊が集結し、十七万六千の兵員、二万の車輛、数千トンの食糧を積んだ輸送船団が上陸地点に近づいた。海上からの攻撃に先だって敵地背後に降下する空挺師団も出発する島の飛行場に集結した。出撃予定の航空機は五千機を越えた。

 作戦前夜、司令艦艇の司令部で会議が開かれた。天候は決して良くなかった。空には雲が垂れ込め、強い風が雨を伴ったが、海だけは穏やかだった。気象専門家は、明日の朝は風も一時弱まるだろうと言った。その後はおそらく二週間は荒天が続くということだった。危険を甘受して作戦を決行するか、それとも二週間待つか。しかし、二週間の時が過ぎれば、コヒツラントでの戦いを一段落させた師団やアシュグザ戦線から撤退した師団が上陸地点に移動するかもしれなかった。十分な準備を整えた上で必勝の行動を取ることを常日頃モットーとしていたアディット将軍にとってはおそらく生涯最大の決断であったろう。この大戦の命運が彼の一言にかかっているのかもしれなかった。

 アディット司令官は、しばらく席を外して自室にこもっていたが、参謀たちが待ち受ける会議室に戻ってくると、力を込めて言った。

「我々は世界のためにこの戦いを戦っている。そして、この上陸作戦のために膨大な労力を払って準備を進めてきた。まさに、今次大戦の帰趨を決める決戦だ。その決戦はいつやるのか。今しかない!」

 参謀たちの中には、慎重なアディット将軍の性格を考えて、今晩の作戦決行はないと思い込んでいた者も少なくなかったが、将軍の最後の一言を聞くと、全員がパッと立ち上がって敬礼し、すぐさま命令を全軍に伝えるべく駆け出していった。

 いよいよ空前絶後の大作戦が動き出したのだった。ブラーニアのニュークルツ空襲は退けた。ビーラム島は奪い返した。ニコベラン島も奪還した。緒戦でのブラーニアの優勢は完全に覆され、ブラーニアが征服した周辺国では、地下の抵抗運動が次第に強まりつつある。強大だったブラーニアの空軍力は疲弊し、立場は逆転しているのだ。そして、ついに、ビシュダールに最初の橋頭保を確保する戦いが始まるのだ。

 午前三時十五分過ぎ、ブラーニア軍の背後にランズウッドの落下傘部隊が降り立った。その任務は、上陸部隊の内陸進攻のために必要な二つの橋を占領確保することと、上陸作戦の最大の支障の一つとランズウッド司令部が懸念していた砲台陣地を破壊、あるいは占領することだった。特に、四門の大型砲を備えた砲台は上陸部隊に対する大きな脅威であり、何としても上陸前に無力化しておかねばならなかった。

 上陸軍に先駆けて最初にビシュダールに第一歩を印した空の挺身部隊の兵士たちは、引き続く空挺師団のために「着陸地帯」の標識を立てた。空挺師団のグライダーが次々に飛来し、兵士たちは次々に落下傘で降下した。なかには手前に降りすぎて沼にはまった兵士や、遠くまで行きすぎて敵陣地の中に降りてしまい、射殺されたり、捕虜になった者もあったが、目標地点に無事降り立った兵士たちは、ただちに運河にかかる二つの橋を守るブラーニア兵への攻撃に移った。ブラーニア兵は不意を突かれて狼狽し、迎撃の体制を整える間もなかった。二つの橋はランズウッド軍空挺部隊によって占拠された。

 さらに、降り立った勇士たちは、砲台に向かったが、ここではブラーニア軍の激しい応戦が待っていた。しかし、兵士の約半数が死傷するという激戦の末、午前五時、ランズウッド軍は砲台の破壊に成功したのだった。指揮官は黄色い信号弾を打ち上げ、作戦の成功を知らせた。

 朝陽が昇るころ、空を覆う爆撃機の大編隊が現れた。爆撃隊は次々にブラーニア軍陣地に爆弾の雨を降らせた。空の轟音と地上での爆発音がこの小さな大地を覆った。それまで世界で戦われたすべての戦いで費やされたものをまさにこの一点に集中したかのような激しさだった。

 海を見渡すと、数千の艦船が忽然と姿を現した。無数の小さな上陸用舟艇が波を切って押し寄せ、波打ち際に着くと、兵士たちが次々に砲弾の雨の中に飛び出してゆく。

 守備軍からの砲弾が次々に浜辺で炸裂し、倒れる兵士が続出したが、上陸部隊はひるまなかった。指揮官の怒号も掻き消されるほどの轟音と絶叫の中、ひとつひとつの陣地を奪い合う壮絶な白兵戦が果てしなく続いた。上空では戦闘機と爆撃機が轟音を発しながら飛び回って作戦を援護し、新たな部隊が次々に上陸すると、次第に上陸軍の優勢が明白になっていった。

 膨大な犠牲を払いながらも、アディット将軍が入念に準備した作戦は全体としては成功だった。ランズウッド軍は橋頭堡を確保し、夕方までに十五万以上の兵力を上陸させたのだった。

 

 上陸作戦に続くその地方の制圧にはブラーニア軍の必死の抵抗に苦しんだが、ランズウッド軍は上陸から二か月後、ビシュダールの首都ブルザンガに到達し、花の都と言われたこの都市を解放した。

 市民は街に繰り出して、ビシュダールとランズウッドの旗を振り、ブラーニア国旗は踏みにじられて火をつけられた。ブラーニア軍人専用だったレストランや映画館には石が投げつけられた。

 ランズウッド軍がブルザンガに到達したとき、ブラーニア軍は既に退却していたが、ブラーニア軍に協力してきたビシュダール人は次々に引き出されて罵倒された。逮捕された者も少なくなかった。ブラーニア将校を相手にしてきたコールガールや愛人たちは公衆の面前に引き出され、さまざまな罵倒を浴びせかけられた末に丸坊主にされた。

 二か月後、ブルザンガにブルック首相が現れた。美しい都は、いたるところにブラーニア占領下の傷跡が生々しく残っていたが、ブルックは胸当てをつけ正装した華麗な儀仗兵の列に迎えられ、オープンカーに乗って儀仗兵の先導する道を進んだ。その様はきらきらと照り輝く太陽に照らされ、参道の両側には群がって歓声を上げるブルザンガの人々で溢れていた。道の両側のビルのどの窓にも人々が溢れ、ランズウッドとビシュダールの旗が飾られ、熱狂する群衆の中をブルックの車は進んでいった。

 ブルックは無名戦士の墓に花束を手向け、その後は徒歩で公道を歩いた。ブルックは演壇に就くと、演説した。

「かつてこの国を支えてきたのは、『自由・平等・友愛』だった。それに対して、ブラーニアの侵略によって生まれた親ブラーニア政権は、国民を戦争に駆り立て、国への奉仕のみを重んずる『労働・連帯・祖国』を掲げた。しかし、この国は、再び、『自由・平等・友愛』を取り戻したのだ。」

 そして、ランズウッドとビシュダールの近衛兵の行進が行われ、鳩が大空に舞った。それは輝かしく美しい一日だった。

 

 しかし、ブラーニアの首都シュタルバーへの道は遠かった。海洋の島々での戦いでは、戦争開始後の大掛かりな艦艇建造によって圧倒的に有利となった海軍力によって制海権を確保し、それによって戦いを有利に進めてきたわけであるが、大陸での戦いでは陸軍が主役なのだ。しかも、パークス大統領は「焦土戦術」を宣言し、ブラーニア軍は後退に際して一切の利敵物を破壊し、焼き捨てた。食糧倉庫は焼かれ、鉄道は破壊され、橋もダムも破壊された。ランズウッド軍の前に広がるのは無限に続く不毛の大地であった。

 しかも、ブラーニアは残っている精鋭部隊を集め、強力な反撃を行った。この戦いは各地で激しい戦闘を引き起こし、しばしばランズウッド軍は打撃を受けて後退しなくてはならなかった。特に、進撃のために大きな川を渡河せねばならない箇所では、ブラーニアは対岸に強力な火砲を集め、頑強に抵抗した。

 だが、これを制したのはランズウッドの空軍力だった。ブラーニアもありったけの飛行機を集めて戦ったが、これまでの激戦による搭乗員の損失は甚だしく、新搭乗員の技量が未熟なこともあって、次第にランズウッドの空軍によって制空権を奪われた。ランズウッドの空軍は、川向こうのブラーニアの陣地、さらにその向こうの鉄道や補給路を激しく爆撃し、さらには、ブラーニアの各都市への無差別爆撃も強化した。

 こうして、ランズウッドを中心とする連合軍は進軍し、ついに、三十五万の大軍でブラーニア第二の都市キンシ―に迫った。

 ランズウッド空軍の猛爆撃が開始された。連合軍は市街に突入したが、ブラーニア軍の抵抗も激しかった。最前線では凄惨な戦いが続いた。毎日のように数メートルの区画、あるいは、建物の一部屋ごとを奪い合うという激しい市街戦が続いた。

 ブラーニアからランズウッドに亡命し、この戦いに従軍記者として同行していた詩人はこう書いた。

「キンシ―が燃えている。すべての大地とすべての道が燃えている。川からさえ炎が上がり、すべての空が焦げている。すべての美しかったものが灰となり、あらゆる建造物が瓦礫と化している。だが、燃えているのはそれだけではない。女たちや子供たちの心が、そして彼らの涙が燃えているのだ。道端には、何千という女や子供の死体が散らばっている。彼らは沈黙している。けれど、彼らの沈黙もぼくの心の中では燃えているのだ。飽くことなき戦いがこの地上に蔓延している。爆撃された都市よ、その残骸の下に埋め尽くされた無数の呻き声を形にしてみるがいい。衣服をはぎ取られて殺された少女たちの悲鳴を神への呪いの中に練り込んでみるがいい。邪悪な者たちの声が、この巨大文明のすみからすみまで響き渡っている。」

 また、ランズウッドの若い将校は従軍記者にこう漏らした。

「キンシ―はもはや都市ではない。瓦礫が積み上がり、砲声の止むことのない夜空に丸い月がぽっかりと浮かんでいる。残虐な光景とはまさにこんな光景を言うのだろう。明日はまた、新たな火の手が上がり、死者たちの慟哭が次から次へと押し寄せる。未だかつてこんな凄惨な戦いがあったろうか。でも、ぼくたちはここから逃げ出すことができない。黒い狂気がぼくたちをこの戦場に縛り付けているのだ。」

 この二つの言葉が載ったある反戦誌を読んだ日、ナユタはマティアスと会うと、声を落して言った。

「狂気が世界を覆っている。戦争がすべてとなり、理性が忘れられている。愛国心なる非理性が幅を利かせ、人間の尊厳が置き去りにされ、盲目的な情念が人々の心を支配している。それがこの世界の現実だ。」

 マティアスも答えて言った。

「あらゆるものを犠牲にするのが戦争だな。国のためという美名のもとで人の命を次々と犠牲にしてゆく。国とは、本来は、人のためにあるはずなのにな。かつての戦争はこうではなかったかもしれない。かつては兵士たちの戦争に過ぎなかった。もちろん、戦争の様々な影響はあったろうが、国民の大多数は戦争そのものに巻き込まれはしなかった。だが、今の戦争は、国民すべてを巻き込み、すべてを犠牲にするのだ。」

 だが、その声は社会の底辺でささやかれている声に過ぎなかった。同じような思いの人々は少なからずいたかもしれないが、社会で鳴り響いたのは進軍ラッパであり、兵士たちへの賞賛であり、勝利に向けた断固たる意志であり、犠牲を厭わず戦い抜く信念であった。

 それを支持した大衆が、ほんとうに心の底から支持したのかどうかは分からなかったが、負ければ惨めな未来が待っているだけなのだ。パークスの野望を砕き、世界に再び自由と平和を取り戻すには戦い抜かねばならないのも事実であった。

 

 そんなある日、音楽大学の中で、ゲーベルが慌てた様子でナユタに走り寄ってきた。

「公安当局から来てくれと言われている。クロイシュタットのことらしい。」

 早口でそう言ったゲーベルの言葉に驚き、ナユタはおうむ返しに聞き返した。

「クロイシュタット?クロイシュタットがどうしたって?」

 クロイシュタットとは世界大戦が始まると完全に音信不通になっていたが、そのクロイシュタットがどうしたというのか。

 ゲーベルが勢い込んで言った。

「ともかくその彼のことで来てくれと言うんだ。どんな事情かはよく分からないがな。ともかく、一緒に来てくれ。」

「分かった。すぐ行こう。」

 二人はマティアスも連れて急いで公安当局を訪れた。

 窓に鉄格子のはまった殺風景な部屋でしばらく待たされたが、そこに現れたのはクロイシュタットだった。

「クロイシュタット!」

 そうゲーベルは叫んだ。そうだ、クロイシュタットだ。だが、その風貌は様変わりしていた。顔には深いしわが刻み込まれ、髪は白くなっていた。落ち窪んだ眼が異様に光る相貌がナユタたちの心を打った。

「おれもやってきたよ。」

 かすかに笑みを浮かべて、クロイシュタットは重い声で言った。

 クロイシュタットの後ろに付き添っていた一人の若い男が説明した。

「クロイシュタットさんは強制収容所から逃げてこられました。地下組織の努力もあって、ランズウッドに亡命してこられたんです。ゲーベルさんに身元引受人になっていただきたいので、こうしてお呼びしました。ゲーベルさんは昔のお仲間ということで、今はランズウッドの市民権を得ておられますから。」 

 ゲーベルは身元引受けのことは即座に了承したが、同時に、急き立てるように聞き返した。

「強制収容所から逃げてきたってどういうことだ?何があったんだ?」

 だが、クロイシュタットが言葉を詰まらせるのを見ると、言い直した。

「いや、苦労したんだろうな。おれたちも心配してたんだ。連絡が取れなくなっていたからな。だから今日も、連絡をもらって三人で飛んできたんだ。」

 付添いの係官が手続きのために席を外すと、クロイシュタットは絵画に専念し始めてからのことを語り始めた。

「何度か手紙に書いたが、彼女の故郷で絵を描くのは素晴らしく素敵な日々だった。だが、それもルンベルグがブラーニアに併合されるまでのことだった。併合されてから不便で窮屈な生活が始まった。でも、なんとかなっていた。だけど、戦争が始まると、ゲットーに押し込められたよ。おれたちは異人種だからな。それから、収容所に送られた。あそこは地獄のようなところだった。」

「収容所のことはときどき噂で耳にするが、いったいどうなんてるんだ?」

 そう、ナユタが収容所のことを問うと、クロイシュタットは心の中に閉じ込められていたものを一気に吐き出すように語った。

「収容所に送られた時のことを思い出すと、今でも背筋が寒くなる。ぼくらは家畜用の貨車にぎゅうぎゅう詰めにされて送られたんだ。列車が収容所に近づくと、何重もの鉄条網の向こう側にバラックのような建物がたくさん立ち並んでいて、巨大な煙突や、見張り塔、探照灯などが見えた。それから、ぼろを着て、よろめきながらのろのろと歩く者たちの長い列が見えたよ。絞首台も見えた。五人くらい吊り下げられていた。あの光景は恐ろしい瞬間だった。今思い出しても心が凍りつくような一瞬だ。」

 クロイシュタットは首を大きく横に振りながら身震いして深く息を吐きだし、再び、言葉を続けた。

「列車が止まると、号令の声がして、貨車の扉が開かれた。ぼくたちは荷物を残して一列に並ばされた。列の先頭の者の前にブラーニアのいかつい顔の高級将校が立っていて、右の肘を左手で支えながら右手をあげ、右手の人差し指をほんの少し右か左に動かして指示を与えていた。ぼくの番が来たとき、彼はじろっとぼくの顔を覗き込んだ。今思い出してもぞっとするほど冷たい目だった。ぞっとした次の瞬間は、彼は人差し指を左に動かした。大半の者は右で、左に行かされたのは一割もいなかった。だけどな、その日の夕方、以前から収容所にいる者に、右に行かされた者はどうなったんだろうと言ったら、彼は外の煙突を指差して、『彼らはあそこで天に召されているだろうよ。』と答えたよ。収容所に送られたほとんどの者は最初に処分されてしまうんだ。」

「そうか。だが、そんな中を生き延びてきたんだな。」

 そう言ったナユタの言葉は震えていた。クロイシュタットは続けた。

「ああ、ほんとにあそこは恐ろしいところだよ。人間を家畜程度にしか扱わない。収容所には毎日のように新しい囚人たちが到着する。ぼくたちと同じように家畜用の貨車でね。ぼろを来た者たちが次々に降りてくる。そして、初日に処分されなかった者たちは狭くて汚くて寒い部屋に何人も押し込められ、昼間は重労働をさせられるんだ。たいていは穴を掘らされる。何日か経ってようやく穴が完成してしばらくすると今度は穴を埋める作業だ。だけど、その穴の中には裸の死体がいっぱいだ。男も女もいる。処刑された死体もあれば、収容所で亡くなった者もいる。おぞましい限りだ。そんな穴掘りを何度やらされたことか。そして、いたたまれないほどの死臭が至る所に充満し、でも、逃げ出す場所もない。」

 そう言って、クロイシュタットは、首を横に振った。ナユタがどうやって脱出したのか問うと、クロイシュタットは唇をかみしめて、小さな声で言った。

「そこにいても自分たちの未来は極まっている。みんなそんな思いだった。だから、一か八か蜂起したんだよ。」

 クロイシュタットの言葉によれば、密かに手に入れた数少ない武器を頼りに、ある日の未明、一斉に武装蜂起したということだった。蜂起した者の多くは殺され、武装蜂起は鎮圧されたのだろうが、十数人の者は鉄条網を破り、地雷原を越えて森に脱出したということだった。その後、仲間は散り散りになったが、クロイシュタットは地下組織のある場所までたどり着いて、助けられたということだった。客観的に見れば、ランズウッドの勢力が迫り、収容所の体制にほころびが生じ始めていた点も、クロイシュタットらの脱走が成功した理由のように思えた。

 クロイシュタットは続けて言った。

「ぼくは、以前から、自分は何のために生きているんだろうと常々考えていた。その疑問は今も心の中に横たわっている。だけどな、収容所の中では、それは消えていたよ。ただ、今日を生き延びること、そして、明日も生きることだけが目標だった。収容所に入った最初の頃、長く収容所にいる者から教えられたよ。病気になるな、健康でいろ、健康でなくとも健康だと思わせろ、決して目立つな、目を付けられたら、次の日は煙突行きなんだからなとな。」

 マティアスは妻や子供たちのことも聞いたが、その話になると、クロイシュタットはただ首を横に振った。落ち窪んだ目に、涙が溜まっていた。

 また、ゲーベルは、

「おれの家族のことも知らないよな。」

と言ったが、クロイシュタットはただ首を振っただけだった。クロイシュタットが語った煙突の中で天に召されたのかもしれないという思いがゲーベルの心の中に広がっていたのは確かだった。

 

 クロイシュタットの収容所での体験は新聞が多くの紙面を割いて報道した。それは大きな反響を呼び、国をも動かした。クロイシュタットは国会にも呼ばれて体験を語ったが、ブルック首相も目に涙をためてクロイシュタットの言葉に耳を傾けたということだった。

 それまでにもブラーニアの強制収容所の報告がなかったわけではなかった。コヒツラントの高官は強制収容所の情報を新聞記者に対して語っていたし、ランズウッドのラジオ放送も強制収容所での餓死や大量殺戮について放送し始めていた。あるブラーニア企業家が政府高官の主催するパーティに出席した際、公然と大量殺戮が語られているのに驚き、ランズウッドに亡命してその事実を語ったということもあった。

 だが、クロイシュタットの証言ほど、生々しく強制収容所での虐殺の実態を伝えたのは、まさに初めてだった。

 議会は、「人種差別撤廃宣言」を満場一致で可決し、さらには、虐待防止、拷問の禁止、基本的人権の尊重、一切の差別の禁止などを盛り込んだ「世界人権宣言」を、これまた満場一致で可決した。

 これらの宣言は他国に対していかなる拘束力ももたなかったが、世界に対してランズウッドの明白な決意を示したものであることは明らかだった。

 

 一方、マティアスは、クロイシュタットのために精力的に動き、大学でのポストを確保し、自分たちの住居の近くにクロイシュタットのためのアパートを見つけた。

 ただ、クロイシュタットは音楽よりも絵に関心が移っており、ひたすらに自分の内面を写したような絵を描き続けた。その絵画は、原始的で荒々しいタッチで描かれた背景の中に記号言語が散りばめられており、その絵を見ると、収容所がいかに彼の心を痛めつけたかをまざまざと感じることもできた。それはあの虐殺のようなことを生み出しうるのが人間なのだという悲憤であり、クロイシュタットの心の底に沈む悲しみであった。

 だが同時に、彼はこうも言った。

「この前、フェドラーに会ったが、元気がなかったな。心の底まで傷つけられているのがよく分かったよ。そして、おれの心もまったく同じだ。だけど、おれがまずなさねばならないのは、収容所のことをもっと世に知らせることだと信じているよ。」

 彼は、収容所の体験を執筆して本にまとめ、出版した。この本が世に出ると、大きな反響を呼んだが、クロイシュタットの体験を改めてその本で読んだマティアスはナユタに静かに語った。

「前にも言ったことがあるけど、この世界に神はいないか、いたとしても人間のことを考えていない神がいるだけのように思えるよ。宗教家は神について語り、神に祈ることを讃えるが、いったい神は人間のために何をしてくれたんだろうか。どれほどの人間が無意味に、虫けらのように殺されたことか。戦争によって、収容所の中で。また、戦争以外でも、地震や津波のような巨大な自然災害によっても、罪もない人々が次々に命を奪われてゆく。宗教家は人間が悪いからと言うかもしれんが、そのように人間を造ったのも神じゃないか。人間のこんな巨大な不幸を阻止することもできず、ただ傍観しているだけの神だからな。だから、神はいないか、いたとしても人間のことを考えていないか、あるいは無力でしかない、としか思えないよ。」

 マティアスのこの言葉を聞くと、ナユタは、

「その通りかもしれんな。」

と答えたが、マティアスはさらに続けて言った。

「ある作家のこんな言葉を読んだことがある。聖なる書には、『神その造りたるすべての物を見たまいけるに、はなはだ善かりき』とあるのだから、創造の仕事の最後には一切のものは本来善くあらねばならなかったはずだ。だが、実際は、一瞬間だけ、楽園の瞬間だけが善く完全であり、次の瞬間には、もう完全さの中に罪と呪いが入ってきた。世界の現在の災悪は、最初の人間の罪ではなく、造物主の罪なんだ。もし、造物主がほんとうに真義の神そのものだったら、世界創造の際、人間を誘惑に堕ちず、罪を犯さないものに造るのは容易だったに違いない。たしかそうその作家は書いていたよ。」

 そう語るとマティアスは真剣なまなざしで口をつぐんだが、しばらくすると、嘆息するような調子で言った。

「神というものは、この地上において宗教の力によってあまねく人々の心の中に浸透している。そして、人々は宗教の教えによって、世界と神について理解したと思っている。神を信じる人々は、神が光りあれと言い、神が天地を創り、人間を創ったと聞いて納得しているかもしれないが、でも、宗教はほんとうには世界の謎を何も解き明かしてはいない。なぜ神がいるのか?なぜ、神がいる世界が存在するかについて、どんな宗教も教えていないからね。」

「その通りだな。」

とナユタが頷くと、マティアスは続けた。

「だから、結局は、神は人間に対する束縛でしかないと思えるよ。人間の真に自由な発想というものがありうるべきだが、神という概念は様々な面からそれを束縛していると思える。そして、神は決して人間を救わない。ただ、人間の心の内にある不安が神を創造し、神にすがっているに過ぎない。ただ、その神もすでに死んだか、あるいは死にかけているように思えるよ。」

「世界は調和を失ってしまったのかもしれないな。」

「ああ、そうだ。人間のもっている限界、負の可能性を極限まで顕現させたのがこの大戦だ。人の命などとてつもなく軽く扱われ、憎しみと恨みで争いの歯車が回転させられている。より多くを殺し、より多く敵に苦しみを与えるために、すべての国の人間たちがあくせくし、そして自分たちもまた苦しみ、悲嘆に喘ぐ。そして、収容所では大量に殺し、不要な者は抹殺する。それがこの世界の現実、人間の引き起こした世界のなれの果て、人類の進歩というものの結果なのかもしれない。」

 この言葉を大きくうなずきながら聞くと、ナユタは告白するように言った。

「そんな世界のことをずっと心に巡らしていたんだけどな、おれは一人で放浪の旅に出てこようと思ってるんだ。君が言ったような根源的な問題を少し一人になって考えたいしね。どこへ行くか、あてがあるわけではないけど。」

 この言葉にマティアスは驚いていろいろ問いただしたが、ナユタの気持ちが固いのを知ると、ただ、

「でも、また戻ってくるんだろう?」

とだけ言った。

「ああ、たぶんな。心配せずに待っててくれよ。」

 そう言ってナユタはマティアスと別れた。ナユタがこのように告げたのは、この地上の悲惨な状況に直面し、神々の世界で、ヴィダールに会うべきと感じたためであった。

 

 ナユタは天界に戻ると、ヴィダールに面会を求めた。ヴィダールはナユタを立派な応接室に通し、面会に応じた。

 ヴィダールは警戒心を隠し、余裕を持った態度で言った。

「しばらく地上に行っておられたとのことですね。地上は今、世界大戦のさなか。いろいろ大変だったのでは?」

「地上ではこれまで誰も見たことのない凄惨な戦いが続いている。毎日のように何千、何万という人々が虫けらのように殺されている。この戦いは前回の大戦をはるかに上回る凄惨さだ。さらに、ブラーニアの収容所では、無数の男女、子供が裸にされて大量虐殺されている。都市では、空からの無差別爆撃が繰り返され、今やあらゆる市民が戦争の最前線に立たされ、生と死を分ける淵の上で喘いでいる。創造が引き起こしたこの結果をどう考えるのか。この状況をただ見守っていていいのか。そのことをうかがうために今日はやって来た。」

 ナユタはそう言ったが、ヴィダールは顔色も変えず、静かに言った。

「たしかに、今の地上がたいへんな状況であることは認識しています。しかし、これは前にも言ったように、単に歴史の一ページにすぎません。私はこのような危機を乗り越える力を、あなたのブルーポールが与えたと信じています。創造の際のあなたの助力がなければ、人間はこの危機に破滅していたかもしれない。しかし、あなたが与えた力が、人間たちに不屈の闘志、どんな困難にも挫けない勇気、悲惨の極みの中でもなお心に灯すことのできる希望を与えたと私は信じています。」

 だが、ナユタは厳しい声で言った。

「私はそうは思わない。今の危機的状況はこの創造の限界を指し示しているのではないか。そもそもこの創造では、かつてのヴァーサヴァの創造と同様、人間たちは飽くことなき衝動、すなわち、食べ、生み、奪うという衝動の虜でしかない。そして、その衝動は、共同体の内部では、憐みや謙虚の心によって制御されているが、逆に、共同体の外に対しては、奔放なまでに炸裂する。この人間たちの神は、仲間に対しては、『殺すなかれ、犯すなかれ。』と言うが、外の者たちに対しては、『その男どもはすべからく撃ち殺すべし。その女どもは己のものとすべし。なんとなれば、汝が敵から奪いたるものは、神が汝に賜うものだからだ。』と言うではないか。まさに、この地上の人間たちの神は『地球を征服せよ。』と命じているがごときだ。そしてそんな荒々しい衝動が、この創造の柱だという科学技術の進歩によって制御不能なまでに暴れ回り、この大地を荒れ果てさせているではないか。かつてのいかなる創造もこれほどの破滅的状況を作り出しはしなかった。為政者たちはいかに多数の命が必要もなく犠牲に供されようとも、そんなことは顧みもしない。犠牲を払うのは、戦争を始めるにも止めるにも、なんら発言できない国民大衆なのだ。こんな世界のどこに正義があるのか?」

 だが、ヴィダールの姿勢はなんら揺らがなかった。

「ナユタ殿。創造は新しい相に入っているのです。そしてまた科学と技術の進歩がそれを後押ししています。そのことを理解しなくてはなりません。人間たちを信じようではありませんか。人間たちはきっとこの危難を乗り越えるでしょう。そして、あなたが与えた力は、人間たちをしてさまざまなすばらしい文学、詩、芸術を生み出さしめました。この点でも、私はあなたに深く感謝しています。また、あなた自身、地上での音楽の体験を通して新しい音の道を見出されたのでは?これも創造の大きな価値と言えるのではありませんか。」

「創造の価値?かつてのヴァーサヴァの創造はパキゼーという高貴な法を生み出した。だが、今回の創造は何も生み出していはしない。生み出したのは悲劇と嘆き。そして、そんな厳しい体験から生み出された苦みを持った芸術だけだ。」

 このナユタの言葉にヴィダールは薄笑いを浮かべて言った。

「おっしゃるとおり、かつてのヴァーサヴァの創造はパキゼーの法を生み出しました。しかし、そもそも、ムチャリンダもあなたもヴァーサヴァの創造を是としなかった。そのあなたが是としなかった創造があなたやユビュがもっとも高貴と称えるパキゼーの法を生み出したことを考えていただきたいものです。その過程では幾多の混乱があったが、それこそがパキゼーの法を生み出す土壌でもあったはず。今、今世の創造はたしかに混乱しているかもしれませんが、そこから何かが生まれてくることがないとどうして言えるでしょう。いや、この混乱こそがすばらしいものを生み出す素地なのかもしれません。」

「だが、現実の地上で人々はどう生きているか。権力者たちは、権力と己の利益のために自国の人間がどれほどの悲惨な目に遭おうと顧みもしない。そして多くの人々は地に這いつくばって生きているだけ。もちろん、私が出会った音楽家や思想家に立派な者たちはいた。ほんとうにすばらしい人々だ。だが、彼らは世界の隅っこに追いやられているにすぎない。それが現実の世界だ。」

 ヴィダールは大きくうなずいて言った。

「よく分かります。人々の多くは愚かだ。だが、その中から本当に美しいもの、すばらしいものが生まれているのも事実では?高潔な思想、自らを省みない勇気と献身、高みを目指す一途な精神、そんなものが地上からは発露している。どれもとてつもなくすばらしく、美しい。神々の世界では生まれ得ない感動的なものどもです。どうしてこれを無価値なもののごとく片付けることができるでしょう。その内に秘められたすばらしいものにこそ目を向けるべきでは?しかも、この大戦の厳しい状況がそのような人間の高貴さを紡ぎ出し、より高みに押し上げているとも言えます。」

「虫けらのように殺されてもか。」

 ナユタは厳しい口調でそう言ったが、ヴィダールは平然と続けた。

「あなたはかつてのヴァーサヴァの創造のとき、創造を打ち壊そうとするムチャリンダと勇敢に戦い、そして、あなたの仲間であるマーシュ師、バルマン師、ユビュらが世界を導いてパキゼーの悟りへの道が開けました。たしかに、今、創造は問題を抱え、厳しい局面にあるかもしれませんが、だとしたら、あなたがなすべきことは、かつてのムチャリンダのように創造の破壊を主張するのではなく、その創造を正しい道に導く努力をなすべきでは?そのような努力については、我々はなんら異論はなく、いや、むしろ、喜んで、積極的に支持、支援致しますぞ。」

 ナユタはこの言葉に納得せず、表情を何一つ変えず、険しい表情でヴィダールを睨みつけたままだったが、ヴィダールはさらに付け加えた。

「この創造は宇宙の女王シュリー様によって支えられ、多くの神々に支持され、立法府の理解も得ています。一部に反対する神がいますが、それはものの数ではない。あなたがこの正統の道を共に歩まれることを私どもは切に願っております。」

 この言葉にナユタは毅然として席を立った。

「これからどうするかについては考えさせていただくしかない。」

 ナユタが部屋を後にすると、シュリーはヴィダールを呼んで聞いた。

「ナユタはなんと?」

「ナユタは創造の成り行きに文句を言いに来ただけです。地上に行って現在の大戦を目の当たりにしてきたのでしょうが、ともかくナユタは追い返しました。彼にはシュリー様が治めるこの宇宙の現実がまるで見えていないのでしょう。」

「そもそも、ナユタはいつの時代でも異端児でしかない。彼には、この創造に対する神々の支持も見えていないのであろう。」

「仰せのとおり。ナユタは過去の栄光を引きずる時代遅れの神でしかありません。その点では、シャルマらとまったく同類。今の時代が見えていないのです。今回の創造には神々は大いに満足し、特に、この大戦が生み出す数々の心を動かすことどもにも満足しております。創造が生み出しうる可能性を実現させた点で、この創造は大いに賞賛され、それを支えるシュリー様の権威はこの上なく高まっております。」

 この答えはシュリーを満足させた。

「ナユタはこれからどうするのであろうな。」

「森へ帰るしかないのでは?この世界にナユタを受け入れる場所などそうはありますまい。」

 しかし、ナユタは森には帰らず、まずウダヤ師の元を訪ねた。

 ナユタは地上の状況について語り、さらに、ヴィタールに冷たくあしらわれ、追い払われるように帰ってきたことを語った。そしてナユタは言った。

「神々は創造が生み出したものに興奮し、この創造を支持しています。しかし、かつてウパシーヴァ仙人は、世界はその内部に数々の混乱を包含しており、決して健全に発展することはない、いつか必ず世界が破たんする危機が訪れると言われました。私には、今まさにその危機が訪れているのではないかと思えます。」

「そうだな。ヴィタールもそしておそらくシュリーもこの創造の成功に酔い、誇らしげに思っているのであろうがな。まさに、ウパシーヴァ仙人が言われた世界の危機かもしれんな。真理が見失われ、興奮が世界を包み込んでいるのであろうな。」

 このウダヤ師の言葉を確認すると、ナユタは慎重に言葉を選びながら言った。

「私は、創造を打ち壊すべきというシャルマらの主張には賛同せずにきました。しかし、今回、地上に降りて、おぞましいばかりの現実を目の当たりにし、私も創造を打ち壊すべきではないかと思い始めています。」

 ナユタはこう言ってウダヤ師の顔色をうかがったが、ウダヤ師はあっさりと、

「それも良いかもしれぬな。」

と答えた。

「おまえがこの創造の開始にあたってブルーポールを発光させたことを重く考えすぎるべきではないだろう。ヴィダールもシュリーもおまえを重んじてはいないのだからな。創造をどうすべきか、その判断をするためにもおまえは地上へ行ったはず。そして、わしも同じ考えから、おまえが地上に行くことを勧めた。地上で体験したものに基づき、おまえ自身の信ずる道を行くが良いのではないかな。」

「ありがとうございます。では、まずシャルマと会いたいと思います。」

 ウダヤ師はうなずいて言った。

「それが道を開くかどうかは分からぬが、そうしてみるがいい。」

 こうして、ウダヤ師の同意を確認すると、ナユタはシャルマを訪ねた。

 シャルマは、

「よく来てくれた。待っていたよ。」

とナユタを歓迎し、さらに尋ねた。

「地上に行っていたそうだな。地上のことはいろいろ伝わってきているが、実際はどうだ?」

「ひどいものだ。創造された世界で、これほどまでに悲惨な世界が地上に顕現したことはなかった。人々は全体主義の元で戦争の部品となり、すべての価値が戦争の視点で測られている。毎日のように何千人という若者が命を落とし、市民たちは爆弾の下で逃げ回り、黒こげになって次々に死んでいる。けれど、戦いに倒れた兵士たちの行為、黒こげになった市民たちのことは永遠に知られることはない。こんな創造はもう打ち壊すべきだ。」

 シャルマはまじまじとナユタを見つめて言った。

「ナユタ、同意してくれるか。」

「ああ、これ以上、この創造を続けるべきではない。ヴァーサヴァの創造はパキゼーの教えを生み出したが、この創造はなんら真なるものを生み出さない。実際、創造は命を与えたが、同時に命を奪うものにすぎない。」

 この言葉を確認するとシャルマは意を強くして言った。

「今、おれたちは、また、大規模な集会を準備している。一緒に登壇してくれないか。」

「いいだろう。この創造にはおれ自身も責任があるしな。だが、実際のところ、神々はどう考えているのだ。この創造に疑問を持つ神々も多いのではないか。」

「そのとおりだ。おれたちの支持者は着実に増えている。」

 そのシャルマの言葉通り、ビハールの宮殿の前の広場でシャルマらが準備した集会には何万もの神々が詰めかけた。創造の停止を訴える幟が何十本も立てられ、創造の停止を訴えるシュプレヒコール、ヴィダールを非難するシュプレヒコールがこだました。

 ナユタが登壇すると、参加者から大きな歓声が上がり、

「ついにシャルマとナユタが手を組んだ。」

「この創造に関与したナユタが、ついに創造の停止に向けて動き出した。」

という声が沸き起こった。

 プシュパギリは主張した。

「この創造は恐ろしく悲惨な世界を生ぜしめた。地上すべてを巻き込んだ世界大戦では、日々百万発の弾丸が放たれ、何万もの兵士が命を絶たれている。ただの一日でだ。こんな創造に何の価値があるのか。人類は進歩してきたというが、かつてのどんな戦争もこれほど悲惨ではなかったし、これほど大規模な殺戮もなかった。今や何千万人が殺されているのだ。進歩こそがこの巨大な悲劇を引き起こしたとしか言えないではないか。このような創造を推進するヴィダールを我々はもはや行政府の長として認めることはできない。議会に正義があるなら、今こそ、ヴィダールの不信任案を可決し、彼の丞相職を解くべきだ。」

 ナユタも登壇して語った。

「この戦争は無益な戦争だ。あらゆるものを破壊しつくし、あらゆるものを戦禍に巻き込んだが、何も生み出しはしない。理にかなった常識と思慮分別さえあれば阻止できたはずであるにもかかわらず、人間たちの利己心と愚かさがこの惨劇を招いたのだ。前大戦が終わったとき、ヴィダール派の神々は、『この戦争は、戦争を終わらせるための戦争だ。』と言ったが、実際にはより悲惨な大戦を招いただけだった。現在、戦争の帰趨は決まったが、ブラーニアは徹底抗戦を叫び、国民を戦いに駆り立て、死んだ者たちを英霊と称えることで戦死者を賛美し、戦争遂行を続けている。指導者どもの野望のために戦場に駆り出され、みじめに死んでいった犠牲者は英雄として讃えられ、英霊として立派な寺院に祀られ、戦意高揚のために利用されている。指導者どもは、国民がどれほどの犠牲を強いられようとそんなものには見向きもせず、ただ己の野望のために生き残った者たちを新たな戦場に駆り立てるだけなのだ。物言わぬ戦死者は彼らにとっては、奉るに恰好の対象なのだ。指導者たちは皆、自分たちの立場しか考えていない。国民がいくら死のうがそんなことは二の次なのだ。」

 また、ナユタはこうも言った。

「トゥルナンのような純一な世界は、世界の片隅に追いやられ、欲望と欲望がぶつかり合う殺伐とした世界が地球を覆っている。結局のところ、創造は神々の愚かな火遊び、ばかげた道楽でしかない。そして、創造された世界で人々は塗炭の苦しみに遭い、理不尽な目に遭い、神を呪って死んでいっているのだ。創造が神の責務であるとか、神の尊い行為などというにはあまりにも無理があるのがこの現実だ。結局、創造はパキゼーの教え以外、何一つ真なるものを生み出していないではないか。」

 集会の成功に意を強くしたシャルマは再び創造の停止を議会に提案した。創造の停止を提案するシャルマの演説には少なからぬ議員たちが拍手を送ったが、与党からの反論も凄まじかった。与党の側からは、創造を擁護する発言に加え、辛辣な非難も投げかけられた。

「シャルマらは創造の停止しか主張しない。かつてのムチャリンダそのものだ。創造を立て直す力のない行き詰まった神の乱暴な議論に過ぎぬ。」

 投票ではわずか二十数票の差でシャルマの提案は否決された。だが、衝撃を受けたのはむしろヴィダールの側だった。まさかこんな僅差になるとは思ってもみなかったからだった。ナユタがシャルマに加担したことも僅差となった大きな要因のようだった。勢いを得たシャルマはナユタと力を合わせ、創造の停止を神々に訴える運動をさらに拡大していった。

 

 そんな折り、突然、シュリーのもとにやってきたのはユビュだった。シュリーはユビュがやって来たことに驚きを隠さなかったが、ユビュを迎えると型通りの丁寧な応対で迎え入れた。

 しかし、ユビュは丁寧だが簡単なあいさつを済ませると、次のように言った。

「私はパキゼーの指し示した道を歩むべく隠遁の生活を続けてきましたが、今、創造された世界が巨大な混沌の中に堕ち込んでいるのを目の当たりにし、いてもたってもいられず、こうして、やって来ました。かつて、父ヴァーサヴァが創造を開始した時のことが思い出されてなりません。あのとき、バルマン師、ウダヤ師、マーシュ師がそれぞれ創造の危険を示唆し、性急な創造を諫めたにもかかわらず、父ヴァーサヴァは強引に創造を開始し、その結果、神々の世界に大戦争を引き起こしました。今回の創造は、ナユタが輝かせたブルーポールの光が力を与えているかもしれませんが、でも、真理に向けた十分な方策が盛り込まれてはいないのではないでしょうか。先の創造が具現化した世界よりもはるかに恐ろしい世界が今ここに出現し、地上の人間たちは悲惨な現実の中に喘いでいます。多くの神々はその世界が引き起こすことどもに心躍らされ、歓喜をもって見つめているのかもしれませんが、そのような創造は正しいのでしょうか?そもそもパキゼーの法が輝いた時点で、それ以上の創造は不要だったはず。創造を継続するべき理由が残っているのでしょうか。」

 しかし、シュリーはまったく耳を貸さなかった。

「ユビュ、久しぶりにおまえに会えてうれしいが、残念ながら、おまえは創造の真の意義が分かっていない。創造の目標はパキゼーの法を輝かせることではない。創造の意義は、混乱の中から多様なものを生み出すことだ。混乱のないものからは何も生み出されはしない。矛盾と混乱と不条理に満ちた世界こそ、さまざまな新たなものを生み出す土壌であり、創造の真髄なのだ。それは父ヴァーサヴァが理想とした創造そのものでもあり、ヴィダールは父ヴァーサヴァから授かった創造の秘儀に基づいてこの創造を始めている。そして今回の創造は大いに成功した創造と言える。この創造はこれまでの創造が生み出しえなかったまったく別のものを生み出し、神々の心を刺激し、神々の心を満たすだろう。しかもこの創造は技術革新という新しいものをこの世界に導き入れ、その恩恵はすべての者が享受しているではないか。」

「ではお姉さんはパキゼーの法をどう思ってらっしゃるのですか?」

 そう問いかけるユビュにシュリーはきっぱりと答えた。

「一部の者は途方もなく輝かしい光が生み出されたと言っているようだが、結局、その教えは何をもたらしたか。何ももたらしはしなかった。その教えは廃れ、末法の世になり、今はただ経典の中に刻まれた空虚な幻影として残っているだけではないか。私自身もパキゼーの法について経典を読んだが、なんら心を打つものはなかった。結局、その教えは、現実から逃避した世捨て人の発想ではないか。おまえがパキゼーの法に頼ることまでやめろとは言わぬが、私にはとうてい価値あるものと同意するわけにはゆかない。」

 この言葉はユビュの心をひどく落胆させた。

「よく分かりました。わたしは隠遁の生活に戻ることにします。」

 ユビュはそう答えてシュリーの元を辞したが、パキゼーの教えに対するシュリーの冷たい反応はユビュにある決意をさせることになった。そんなユビュに対して、シュリーとユビュの姉妹の間に要らぬすきま風が吹くことは絶対に避けねばならないと信じているヴィダールは使者をウバリートに派遣した。

 使者は言った。

「今回のビハールでのユビュ様とシュリー女王との対談はユビュ様のお心に適わなかったかもしれませんが、シュリー女王も宰相のヴィダールもユビュ様がこの世界で満足のゆく生き方をなされるために可能な限り手助けをしたいという考えに微塵も変化はありません。この世界を拓いた第一の功労者であり、シュリー女王の妹君であらせられるユビュ様のためにぜひお役に立ちたいというのが、シュリー様とヴィダールの真に望んでおられることなのです。何か、ユビュ様のお心に適うご希望はありませんでしょうか。ぜひ、そのご希望をお聞かせいただきたいとヴィダールも申しています。すべて実現できるかどうかは分かりませんが、最善の努力は尽くさせていただきます。」

 ユビュの心の内にはシュリーに対する不信感が根強かったし、ヴィダールが政権運営を安定化させるためにこの使者を派遣したことも分かってはいたが、シュリーの対応がユビュの心に呼び起こした決意に基づいてユビュは言った。

「ありがとうございます。実はここウバリートに新しい学園を作れないものかと考えています。哲学、歴史、文学、数学などを教え、研究する殿堂を作りたいのです。今の世界では、ほんとうに大切なものが忘れ去られ、あるいは軽んじているように思えますので。」

 使者がこのユビュの返答をもって帰ると、ヴィダールはさっそくウバリートに壮大な学園を作る計画を立案し、ユビュに提案してきた。だが、ユビュはその案自身は飲まなかった。その背景には、ヴィダールの案が政権のための政策という視点で作られたものであるという点と、組織が大きくなれば、自分が理想と信じるものの実現にはかえってマイナスになるという現実的な判断があった。ユビュは、自分の意図が十分に繁栄できる程度のこじんまりした学園に規模を縮小した提案を行い、ヴィダールを同意させた。

 この件が議会に上程されると、シュリーやヴィダールの専制に批判的な議員から、もっとユビュを大切にし、もっと予算を付けて学園を充実させるべきではないかという意見も出されたが、ヴィダールは淡々と胸を張って答えた。

「その意見には私もまったく同感です。そして、我々は実際、この学園をもっと大規模なものにする提案を行いました。ただ、ユビュ様はまず、自分の意図がきちんと末端まで伝わるようなこじんまりした学園からスタートさせたいとおっしゃられ、そのため、今回議会に提出した案で落ち着いたのです。ただ、将来、ユビュ様が学園の運営に自信を持たれ、学園の拡張を希望されるなら、ぜひ、それに応えたいという思いを持っております。今回いただきましたご意見もそれを後押ししてくれるものですし。」

 こうして、ウバリートには新しい学園が作られることになった。取材に来た記者の質問に答えて、ユビュは語った。

「ここでは政府の意向や方針に囚われない自由で活発な研究が行われることになるでしょう。何よりも、パキゼーの教えを初めとする真に尊い思想を研究すること、歴史や文学、芸術、数学などに対して自由な発想で理解を深めることが目標です。そして、若者たちの教育も、都会の喧噪ではなくこの美しいのびやかな自然に囲まれた空間で、権威に縛られない自由闊達な雰囲気の中で行われるのです。」

 これこそが、姉シュリーとヴィダールが進める創造に対して、ユビュが為さねばならないと決意したことであった。

 このウバリート学園の創設には、かつてウバリートでユビュのもとにいたナキアやクマルビも参加した。ナキアには特別な思いもあった。それはルガルバンダ時代が終わって、女神第一号の博士になり、女神初の教授になったものの、女性の社会進出は思いのほか進んでいないという現実に対する思いだった。ユビュに会ったナキアは言った。

「形の上では男女同権になっていますが、現実では、依然として、女性は男性からの価値判断によって評価され、その評価によって女性が他の女性から評価される。こんなおかしな話はありません。本当の意味での女性の自立はまったく為されていないのです。」

 この言葉に応えて、ユビュは、ナキアをウバリート学園の副院長のひとりに抜擢すると、ナキアの推薦する女性教授を採用すると共に、入学する学生の比率を男女比一対一を原則とし、さらに神文系の学部では女性の自立に関する研究と提言を行う研究室を作ったのだった。学生の男女比を規定することについては、能力主義の原則に反するとの批判もなくはなかったが、ナキアは頑なに主張した。

「男女格差が現として存在する実情の元では、このくらいのことはやるべきです。これが将来のあるべき姿を引き寄せるのです。」

 さらにウバリート学園に対しては、イルシュマが多額の寄付を行ってくれた。

「私は故郷のバクテュエスを出て以来、ビジネスに目覚め、そのおもしろさにかまけて金儲けをやってきた。だが、金なんてある金額以上になると、持っていたって何の役にも立たない。」

 そう語るイルシュマは、学会の開催にも活用できる大講堂といくつかのセミナー室を備えたホールを寄贈し、さらに学生のための無利子の奨学金を提供することにしたのだった。

 そのイルシュマは、マカベアのクレアにも話をつけ、クレアは夫とともにウバリートにやって来た。クレアがウバリートに来て、ナキアに会うと、ふたりは共感し、ナキアはクレアをウバリート学園の男女同権推進室の室長にしたのだった。

 クレアの夫はマカベアの名士であったが、クレアに惚れ込んでいる夫は何の異論もなく、子供も連れてマカベアに引っ越したのだった。彼はクレアにこう言ったということだった。

「ユビュ様の志しにご協力できるなら、そんなすばらしいことはないではないか。マカベアでは暮らせるがウバリートでは暮らせないなんてことはあるはずがない。おれも生まれてこの方ずっとマカベアで生きてきたが、違う世界を見るのは悪いことじゃない。まあ、しばらくは主夫でもやって、地元の者たちとの会合などで宴会部長でも務めされてもらうとするかな。」

 彼はそう言ったが、ヒュブラーが立派な推薦文を書き、それに基づいてイルシュマが話をつけたことで、ウバリートの土木通商管理局の局長となったのだった。

 また、ウバリートでのクレアの活動には、イルシュマが活動資金の大半を拠出した。その資金のおかげで、クレアは男女同権と女神の社会進出のために活発な活動を行うことができ、ナキアの意向に沿ってウバリート学園の推進に貢献したのだった。

 

 さて、神々の世界では、創造の継続についてさらに厳しい議論や激しい創造破棄運動が続いたが、しばらくして地上では、キンシ―のブラーニア軍九万がついに降伏した。パークス大統領は絶対にキンシーを死守せよと厳命し、かつてブラーニア軍の元帥で敵に降伏した将軍はいないという伝統に基づき、キンシーの総司令官を元帥に昇進させるという策までとったが、万策尽きたブラーニア軍はランズウッド軍の降伏勧告に従ったのだった。

 もはや大戦の帰趨は誰の目にも明らかだった。そして、ある日突然、ラジオが

「戦争が終わった。」

と告げた。

 首都シュタルバーでの攻防戦がこれから繰り広げられるだろうと思っていた神々にとって、戦争がどうして急に終わったのか不思議だったが、追い詰められたブラーニアのパークス大統領が暗殺され、これに引き続いて起こったクーデターで権力を掌握したグループが無条件降伏を受け入れたからだった。徹底抗戦を叫んでいた大統領派は、クーデターによって次々に粛清されていった。

 ラジオからはヴィダールの声が流れた。

「世界大戦は終わった。これからは平和の構築の時代となるだろう。この戦争は、創造されたものの単なる一表象にすぎない。創造はこれからさらに新たな歩みを続けるだろう。私はこの創造がたいへんな艱難辛苦を人類に課したことを理解している。だが、人類は乗り越え、新たな時代を作るだろう。私は創造の停止を主張した神々を非難はしない。ただ私はすべての神々に言いたい。新しい時代が始まる。この世界を見守ろうではないかと。」

 仲間とともに、そのラジオ放送を聞いたプシュパギリは苦虫をかみつぶしたような顔で、吐き捨てるように言った。

「戦争が終わってまことに良かった。だが、戦争が終われば、それでこの創造の問題がなくなるわけではない。創造は依然として根本的な問題を孕んでいる。我々の取り組みももう一度再構築せねばならぬ。この創造の非を明らかにし、この創造を止めさせる我々の責務はなくなってはいない。」

 プシュパギリはこのように語ったが、地上で世界大戦が終わり、再びやってくるであろう平和な時代への期待が高まると、シャルマらの勢いは潮が引くように衰えていった。

「シャルマは未来を創造することのできない守旧派に過ぎない。」

「破壊だけにしか意義を見出さない神はもはや存在意義を失っている。かつてのムチャリンダの同類に過ぎない」

 そんな非難がシャルマらに浴びせかけられた。

 ヴィダールは世界大戦の終結を祝い、声高らかに議会で演説した。

「創造された世界はさらに新しい次元に進むだろう。困難を乗り越えた世界はさらにすばらしい実りをもたらすだろう。」

 シュリーは創造の展開を褒め称える神々の訪問を受け、上機嫌に語った。

「この創造こそ、これまでのすべての創造の中の最高のもの。前回の創造はムチャリンダやナユタの妨害で挫折したが、今回はシャルマやナユタの妨害を排し、創造は完成への道を突き進んでいる。大いに期待しようではないか。この創造がもたらす大いなる果実を味わおうではないか。」

 神々はシュリーを称え、ヴィダールを支持した。

 ナユタはそれを見てシャルマに語った。

「これが神々の現実だ。神々には真実は見えていないのだろう。ともかく、おれは地上に戻るよ。マティアスが待っているだろうしな。」

「そうか、分かったよ。だが、おれはこれで諦めるわけにはゆかぬ。こんな神々の世界を変えねばならぬ。これからも戦い続けねばならぬからな。」

 シャルマはそう言って戦いの継続を誓い、ナユタは再び別れを告げて地上に戻っていった。

 

 地上に戻ると、ナユタはマティアスと再会し、再び大学の研究員に戻った。だが、ここでマティアスから聞かされたのは、シュテファンとレジナルドが相次いで亡くなったということだった。類い希なる文筆の才を持ち、平和を希求してペンの力でパークスに立ち向かったシュテファン。謙虚な人格者で毅然とした紳士だったレジナルド。戦争末期の頃から健康が優れないとは聞いてはいたが、改めてこの二人が語る言葉をもう聞くことができないという現実を突きつけられるのは何とも悲しいことだった。さらに、マティアスが言ったのはフェドラーの病気のことだった。

「フェドラーは体の調子が悪くてな。薬でなんとか抑えているが、実は白血病なんだ。ディッタが懸命に看病していて、本人には言ってないようだが、本人もうすうす気づいているようでね。」

「けっこう悪いのか?」

 ナユタがそう聞き返すとマティアスは力なくうなずいて言った。

「ああ、おそらくそんなに長くはないだろう。あいつは大陸に戻って民族音楽の蒐集を続け、それを活かした新音楽を作ることを夢見ているのにな。戦争が終わって大陸に戻ることも夢じゃなくなったときに病に倒れるとは言葉では言えないほどやるせない気持ちだよ。」

 まさにその通りだったろう。

 この新大陸のランズウッドの文化になじめず、ただただルンベルグの故郷に思いを馳せ続けたフェドラー。すばらしい音楽を書いてもこのランズウッドでは受け入れられることがなく、大戦で軋む世界に心を荒ませていたフェドラー。そのフェドラーが、大戦が終わり、平和な時代がやってくるというまさにこのときにニュークルツの喧噪の中で病に伏しているのだ。マティアスが言った通りやるせない限りだった。

 フェドラーが亡くなったのはそれからしばらくしてからだった。戦争の時代の軋んだ世界も、このニュークルツの殺伐とした喧噪も忌み嫌っていたフェドラーがニュークルツでひっそり亡くなる。これはとてつもなく痛く悲しいことだった。

 だが、ディッタがそのフェドラーの部屋を整理していて見つけたのは完成間近の未完の二つの作品だった。一つはピアノ協奏曲第三番、もう一つはヴィオラ協奏曲だった。ピアノ協奏曲第三番はディッタの誕生日の贈り物として用意していたようで、最後の十数小節を残してほとんど完成していた。ヴィオラ協奏曲はヨーゼフが生活に困窮するフェドラーのために委嘱したもので、こちらも全体の構成はほぼ出来上がっていた。

「これをおれたちで完成させよう。」

 そう言ったゲーベルの言葉に皆うなずいた。楽譜を眺めながら相談した結果、ピアノ協奏曲第三番はマティアスが、ヴィオラ協奏曲はゲーベルがヨーゼフと相談して補筆することになり、ほどなくして両曲とも完成した。

 その曲の初演は、ザッハーが指揮するニュークルツ交響楽団の演奏会で行われた。ピアノはディッタ、ヴィオラはヴァイオリン奏者のヨーゼフが独奏を務めた。この演奏会は、フェドラーの追悼演奏会と銘打たれ、まず、フェドラーの代表作の一つである弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽が演奏された。この曲はまさにフェドラーの民族音楽蒐集の成果が詰め込まれたと言っても良い作品で、民族音楽の韻律と前衛的な音階とが錯綜しつつ精神的高みへと昇華してゆくすばらしい曲だった。二曲目がピアノ協奏曲第三番。神秘的な深遠から研ぎ澄まされた美しい旋律が浮かび上がってくるこの曲は、この暗い時代の中でひたすら何かを求め続けたフェドラーの真の声のようだった。最後に演奏されたヴィオラ協奏曲は静かで重い音調の曲で、このランズウッドでのフェドラーの最後の心そのもののように割り切れないやるせなさが漂う曲だった。

 演奏会自身は白血病で倒れた悲劇のフェドラーの追悼演奏会ということもあって一応の成功を収めた。それはディッタやナユタ、マティアス、ゲーベルたちにとってせめてもの心の慰めであったろう。

 

 だが、時代は悲しみに浸っているべき時代ではなかった。時代は大きく変わりつつあり、そして希望に満ちたのだ。

 実際、この大戦は世界に大きな変化をもたらした。多くの古いものが絶滅し、新しいものが起こって来た。時代の断絶と言ってもいい事態だった。

 ブラーニアが降伏すると、ランズウッドはすぐに軍を進駐させ占領政策を開始した。ブラーニア軍部は解体され、戦前の軍国体制は次々に改編させられた。前大戦後の不適切な平和条約が再び世界大戦を引き起こしたとの反省も踏まえ、ランズウッドはブラーニアを自陣営の一員と位置付けて、政治的にも経済的にも支援した。民主主義が復活し、人権が保障された。

 そんな中、進駐軍の占領政策の一環として故国に一時帰っていたゲーベルとクロイシュタットがニュークルツに戻ってきた。だが、マティアスとナユタが知らされたのは、故国で二人の親族の者たちは誰一人生き残っていなかったという過酷な現実だった。

 クロイシュタットはかつて自分がいた収容所も含め、進駐軍関係者とともにいくつかの収容所を訪問してきたということだった。また、ゲーベルは、パークスが推進した芸術統制を葬るべく占領軍が進める音楽政策に沿って、何度か新音楽の演奏会を行ったということだった。

「もちろん、自由に音楽を奏でることを喜ぶ人々もいた。でも民衆は音楽じゃなく食べ物に飢えてるんだ。」

 そうゲーベルは言い、人々がいかにその日暮らしをしているかを語った。

「爆撃によって廃墟同然になった都市の瓦礫の中で、ごみの中から食べ物を探し、排水管から水を飲み、薪をくべて料理を作っている。人々は闇市に殺到し、パンのために争い、盗み、欺き、そして施しを乞うている。まったく惨めとしか言いようがなかったよ。」

「でも、それがおれたちの故郷だからな。」

 クロイシュタットはそう言うと、ルンベルグに居を移すことを伝えた。そのクロイシュタットの思いには、大戦での勝利をただただ華々しく喜び、その底にどんな苦しみや悲しみが滲んでいたかを顧みようともしないランズウッドの風潮への反感もあっただろう。

 クロイシュタットは仲間たちに言った。

「戦争が終わって、おれはゲーベルと一緒にニュークルツの凱旋パレードを見に行った。ブルックはまさに英雄で、ステッキにシルクハットを掲げ、群衆の歓声に応えていた。それはまさに熱狂と言っていい光景だったよ。たしかに、生き残った者にとっては戦争の勝利は大きな喜びだろう。だが、その勝利の裏では惨めに死んでいった無数の者たちがいるんだ。ブラーニアやルンベルグの者たちだけじゃなく、ここランズウッドの若者にしても、勝ち目のない戦線に送られて死んでいった者は数知れないはずだ。おれには、その者たちはこのパレードを見て、冥界の底から怨みの目でブルックを睨んでいるとしか思えなかった。」

 その思いはゲーベルも同じだったろう。だが、そんな思いが世の中に響くことはなかった。それは秘かに囁かれることはあっただろうが、公の場で大きな声で語られることはなかった。

 だから、ゲーベルもこの国からは離れたいようで、ブラーニアに関わる仕事をするということだった。

「占領軍が音楽政策の一つとして、首都のシュタルバーに現代音楽センターを作るというんだ。ぼくはそれに関わることにしたよ。まずは来年の国際現代音楽夏期講習の準備からだ。」

 彼らは肉親を亡くした悲しみを胸に秘め、けれど、故国での使命と新しい希望を心の支えに未来に向けて踏み出そうとしているようだった。

 そんな中、ゲーベルは作曲家としての限界も感じているようだった。彼は言った。

「かつては、おれの心の中には不条理と義憤がないまぜになったようなやるせない思いが渦巻いていた。それがおれに新しい音楽を生み出さしめていたように思える。もちろん、今だって矛盾や不条理は渦巻いている。でも、今は、希望とやらねばならないことが目の前にあるんだ。たぶん、芸術家というものは、心に活気が溢れ、やりがいに満たされている時よりも、不満を抱き、自己嫌悪している時にこそ、良い作品が生み出せるんだ。」

 この言葉は、かつて、

「おれには破るべきでない法則など何もない。おれはあらゆる可能性を形にする。」

と語っていた彼の言葉とはあまりにもかけ離れたものだったが、ゲーベルはちょっとため息交じりに言った。

「これが創造力が枯渇するということかもしれないな。」

 そんな背景もあって、ゲーベルはアルトゥールの擁護もあって道が開けてきた指揮者としての可能性に人生を賭け始めていた。しばらくしてゲーベルはシュタルバー・フィルハーモニーに客演指揮して大きな成功を収め、このオーケストラの常任指揮者に就任した。ナユタたちはちょっとびっくりしたが、これには複雑な事情があった。

 以前のシュタルバー・フィルハーモニーの常任指揮者はヴィルヘルムという指揮者で、グスタフが大陸を去った後は、大陸一の指揮者と呼ばれていた。ヴィルヘルムの演奏はブラーニア・ロマン主義の伝統に立っていたが、音楽の奥底に潜むデモーニッシュともいえる情念を描き出すヒューマニスティックな演奏は途方もない深みを持ち、誰も太刀打ちできなかった。ナユタもルンベルグにいるとき、フィガラッシュ・フィルハーモニーに客演指揮したヴィルヘルムの演奏を聴いたことがあった。ナユタ自身は必ずしもその演奏を好きになれなかったが、たいそう立派な凄い演奏であることはまちがいなかった。

 そのヴィルヘルムはランズウッドを中心とする連合軍がシュタルバーに進駐すると、パークスへの協力を疑われてシュタルバー・フィルハーモニーの常任指揮者を解かれ、演奏禁止処分を受けていた。戦時中、パークスの意に沿ってシュタルバーで演奏を続けていたことがその理由であった。ヴィルヘルム自身は、「自分は音楽のために音楽を演奏するだけ。」と言っていたが、ヴィルヘルムの演奏会がパークスの国内政策の一助になった面は否定できなかった。音楽家の中でも戦時中のヴィルヘルムの行動を批判する者は少なくなく、クロイシュタットも吐き捨てるようにヴィルヘルムを非難した。そして、そのような音楽家の中の急先鋒が、グスタフの後任でニュークルツ交響楽団の常任指揮者になっていたアルトゥールだった。実際、アルトゥールは政治思想として全体主義を徹底的に嫌っており、パークスの国に留まって演奏を続けるヴィルヘルムには当時から強い非難を発していた。

 そのような背景の中で、演奏禁止処分を受けたヴィルヘルムに代わるシュタルバー・フィルハーモニーの常任指揮者としてアルトゥールが推薦したのがゲーベルだった。新しい時代にふさわしい新しい演奏スタイルを生み出すゲーベルをアルトゥールが強く支持した結果と言っても良かった。そして、また、ゲーベルがシュタルバー・フィルハーモニーの常任指揮者としてブラーニアに復帰することには、異人種差別に対するきっぱりとした決別の姿勢を明確にするという意味も込められていたようで、それもアルトゥールがゲーベルを推した理由の一つであると見られていた。

 ともかくゲーベルはシュタルバー・フィルハーモニーの常任指揮者に就任して、古典音楽やロマン派の音楽の演奏で人気を博す指揮者となっていった。彼は前衛音楽の作曲で培った斬新な音感覚を武器に、戦後の新世紀にふさわしい斬新な響きで交響曲を演奏し、時代に新風を吹き込んでいったのだった。

 そのゲーベルの成功にはジャーナリズムの力も大きかったろう。ブラーニアの秘密組織に恋人を殺され、自らも殺人の疑いをかけられ、さらにはパークスの異人種差別のために家族をすべて失った悲劇の音楽家、けれどそれに屈しない不屈の音楽家。それがマスメディアの作り上げたゲーベル像でもあり、指揮者としてのゲーベルの人気を押し上げる大きな要因になったのはまちがいなかった。

 そのゲーベルの指揮する音楽のレコードがレコード店に多数並ぶようになると、マティアスは言ったものだった。

「かつてグスタフは、『指揮は生活のため、作曲は自分のため。』と言ったが、ゲーベルはただ指揮だけになっている。才能を金のために浪費しているんじゃないか。たしかに金になる彼を持ち上げる回りがあるからだがな。実際、作曲とは比べものにならないくらい金は入るんだろうけど。」

 だが、同時にマティアスは言った。

「昔、フィガラッシュの場末の部屋で四人で音楽をやり、そのうちナユタが来てくれたあの頃が懐かしいよ。みんな、金も地位も名声もなかったが、音楽の喜びと夢があった。あの頃のあの弾むような心はもう取り戻せないんだろうな。」

 

2016111日掲載 / 2023925日改訂)

 

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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第5巻