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神話『ブルーポールズ』

【第5巻】-

向殿充浩

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 ニュークルツに帰ると、トゥルナン滞在中にお互いの気持ちを確かめ合ったマティアスとクララはすぐに入籍して結婚生活を始めた。

 マティアスとナユタは大学の職に復帰したが、マティアスはトゥルナンの一年間の滞在で体験したさまざまな韻律をノートに書きため、さらにそれらに基づくたくさんの曲を着想し、さまざまな楽想をノートに書き込んでいた。マティアスが真剣に取り組んだのは純正調と偶然性を組み合わせた音楽で、ナユタともしばしば意見を戦わせ、さまざまな音の実験を繰り返して、新音楽の創出と理論化に取り組んだ。

 その成果はニュークルツ近代美術館でのナユタとの共演として結実した。その演奏会では、二人ともトゥルナンの伝統服装に身を包み、トゥルナンの楽器も使用したが、その演奏はトゥルナンの伝統的なフレーズに、ジェネレータのノイズ、電子機器のサウンド、けたたましいサイレンなどを組み合わせた斬新な音楽だった。

 この演奏会の客はほんの数十人で世の注目を集めることはなかったが、その客の中にセルゲイがいた。セルゲイは演奏会が終わると、楽屋に二人を訪ね、興奮気味に語りかけた。

「すばらしい音楽。すばらしい斬新さでした。これこそ新しい時代を拓く音楽だ。」

 セルゲイは生計と資金稼ぎのために場末の劇場でのショーを続ける一方、新たにセルゲイ舞踊団とセルゲイ舞踊学院を創設し、新しい舞踊を手がけ始めているということだった。

「いろんな踊りを試していますが、その中の一つとしてアシュグザの伝統的な踊りに現代的、前衛的な踊りの要素を取り入れた試みをやっています。ただ、そのための良い音楽がなかった。でも、今日聴かせてもらった音楽はまさにその踊りにぴったりだ。」

 そう語るセルゲイの言葉に、ナユタもマティアスもすぐに興味を持った。

「でも今日演奏したのはトゥルナンの音階に基づくもので、アシュグザの音階ではありませんが。」

 ナユタはそう言ったが、セルゲイは意に介していなかった。

「私はアシュグザの伝統舞踊をやりたいわけじゃない。この世界にない新しい舞踊と創出したいのですよ。」

 数日後、セルゲイ舞踊学院でダンサーたちにその踊りを見せてもらうと、衣装はアシュグザの伝統的な衣装に近く、細かい指先の動き、足の動き、首の動きなどに伝統的な表現をそのまま残しながら、全体としての体や手足の動き、踊り手のグループとして動きはまったく斬新なものだった。

「これはおもしろい。やってみよう。」

 そう言ってマティアスがもってきた楽器でナユタと共に音楽を奏でるとその音楽は彼らのダンスと位相が合った。

「音楽はもっと前衛的な方が良いでしょうね。」

 そう言うマティアスの言葉にセルゲイが同意すると、マティアスは

「では、次回は電子機器なども交えた音楽で。」

と言って、継続的にコラボを進めることに同意したのだった。

 ナユタはちょっと心配して、

「しかし、これで大金は稼げないのでは?」

と言ったが、セルゲイは笑って答えた。

「そんなものは良いんですよ。生活するくらいの金はある。それさえあれば、あとは、金よりも夢ですよ。」

 そのセルゲイの顔には、かつて大陸でナンシーの踊りを売り出した頃と同様の生気に満ちた表情があった。

 その後、セルゲイはニュークルツの小さな劇場の一つでセルゲイ舞踊団の公演を行い、その中でマティアスとナユタの音楽を用いた踊りも披露したのだった。この公演は小さな成功に過ぎなかったが、芸術界からはそれなりの評価を得、マティアスとナユタはセルゲイ舞踊団のさまざまな舞踊の音楽を担当することになったのだった。

 このこともあって、ナユタとマティアスは改めてシャルミラらアシュグザの音楽家との交流も深め、彼らの音楽を活かした曲も作ってセルゲイに提供したが、一方、リトル・アシュグザで知りあった独立運動家のクンワールは活動をさらに活発化させているようだった。

 ナユタと会うと、クンワールは言った。

「世界の情勢が動いている中、独立運動も動いています。武力闘争を志向していたビハーリーは運動家たちの中で力を失っていましたが、この世界の緊迫の中で再び大きな支持を集めつつあります。ビハーリーは『現在の世界情勢の元では、平和的な独立運動やランズウッドとの交渉では独立は勝ち取れない。ランズウッドが実質的には武力でアシュグザを支配している以上、アシュグザの独立は武力によってのみ達成される。』と主張していて、最近はブラーニアとの接近を図っているという情報もあります。」

「ブラーニアですか。危険な匂いも感じますが。」

とナユタが驚いたように聞き返すと、クンワールは渋い顔で言った。

「パークスと手を組もうとしているんですよ。たしかに武力で独立をと言った途端、自分たちの武力だけでランズウッドに勝てないのは目に見えていますから。」

 クンワールがビハーリーを支持していないのはその話しぶりからすぐに分かったが、ナユタはさらに聞いた。

「それで、パークスは手を貸そうとしてるんですか?」

「それはまだ分かりません。ただ、ブラーニアとランズウッドの対立が深まる中、ブラーニアの要人の中にはアシュグザの独立運動を支援しようという者も現われているようです。ブラーニアで自由アシュグザ臨時政府を樹立するとか、自由アシュグザ軍を結成するとかの噂も飛び交っています。」

「そうですか。それでクンワールさんは?」

「私はビハーリーの考えには賛成しかねるので。たしかに、我々はランズウッドを支持しないが、ブラーニアはもっと悪い国のようにも思えますし。ともかく、今はこれまで通りの活動をするだけなのですが、今、本国では、アシュグザ独立を目指すアシュグザ国民会議が結成され、さらにビハーリーの動きもあり、情報収集や資金集めなどかつてないほど忙しいですよ。」

「そうですか。でも、自分の身の安全も考えないといけませんね。」

 このナユタの言葉にはクンワールは軽く笑って答えた。

「お気遣いありがとうと言っておきましょう。でも、独立を勝ち取るためにはそれなりの覚悟も必要だと言うことから目を逸らすつもりもありませんので。いざとなれば命を懸けます。」

 そう言うと、クンワールは真顔に戻って続けた。

「でも、友情は大切にしたいと思っておりますよ。」

 ナユタも答えて言った。

「私に何ができるかは分かりませんが、お役に立てることがあるなら、ご協力しますよ。」

 ともかく、世界は着実に動いているのだった。

 

 一方、クララは、トゥルナンでの一年の経験を書き留めたノートをもとに体験記を書き上げた。ナユタがその話をシュテファンにして出版社を紹介してもらい、しばらくして『異界に降り立って』という写真入りの体験記が出版されたのだった。

 同じ頃、レジナルド卿がランズウッドに帰ってきた。フランツ王子の帝師を辞任したということだった。ナユタがシュテファンとともにレジナルド卿に会うと、レジナルドは言った。

「ランズウッドに住むのは三十数年ぶりですよ。ニュークルツ大学の教授の職があったので、まずはそれをやりながら、コヒツラントの帝室のことやフランツ王子の帝師だった頃のことを本に纏めようと思っています。」

「それは良いことだ。歴史の証言ですからね。出版社は私が紹介しますよ。」

 そうシュテファンが言うと、レジナルドは憂いを浮かべて言った。

「本当は帝師を辞任したくはなかったのですが、難しい時代になりました。フランツは帝国の復興を夢見ているようで、ブラーニアとの絆を深めているようです。シュテファンさんやナユタさんはパークスが嫌いだろうから話が早いのですが、私にはブラーニアとの関係は非常に危険なものに思えましてね。自分の望みのためには役に立つかもしれませんが、本来のあるべき姿からはどんどん外れていっている。フランツは最後まで私に対して親愛の情を抱き続けてくれましたが、私とフランツの間には埋められない深い溝ができていることに思い至りました。」

「それで辞任を。」

「ええ、私が彼のことを親身に考えていることを彼は知っていたので、いつも私への感謝を忘れることはありませんでした。でも、彼には私の意見を聞くことはできなくなっていた。だから身を引いたのです。」

「そうですか。それで、コヒツラントや帝室はどんな状況なんでしょう。あるいは、これからどうなりそうなのでしょう?」

 そう問いかけたナユタにレジナルド卿は説明を続けた。

「情勢はいっそう危険なものとなりつつあります。新聞を読めばすぐ分かりますが、今、世界の目はブラーニアとコヒツラントの紛争に注がれていますからね。実際、前大戦の敗戦国であったブラーニア共和国がパークス大統領の元、驚異的なスピードで敗戦の痛手から立ち直り、大陸の強国として威を放ち始めたのに対し、コヒツラント人民共和国は戦勝国であったにもかかわらず、戦後の不況、国内の混乱と内戦で、国力は明らかに低下しています。そして、国力の回復とともに強引にコヒツラント進出を図るブラーニアの政策の元、次々と軋轢や紛争が生じているのです。『コヒツラントは我が国の生命線。』これが、ブラーニア国内で声高に叫ばれ、喧伝された言葉ですからね。」

「非常に危険な匂いがしますね。」

「その通りです。そして、その扇情的な叫びも相まって、ブラーニアの無遠慮なコヒツラント進出は両国の国民感情の軋轢を生まずにはいません。双方の国民感情はそれぞれ激しく沸騰し、相手を非難する興奮した感情が両国の社会を支配しつつあります。相手国に対する強い自己主張と敵愾心をむき出しにした演説が人々の支持と共感を集めています。もはや宥和的意見を述べることは、同胞から白い目で見られる危険と背中合わせでさえあります。」

「まさに危険な兆候だな。それでフランツ王子は?」

「さっきも言ったように、彼はブラーニアとの関係を深めています。実際のところ、コヒツラント国民の多くはいまだに帝室には畏敬の念を持っており、パークスにすれば、反ブラーニア感情を抑えるのにフランツ王子が使えると思っているんだと思います。」

「だとすれば、フランツ王子は利用されているだけになるな。」

 そう言ったシュテファンにレジナルド卿は答えた。

「ええ、そうです。でも、フランツも自分の帝国を復活するという野望のためにブラーニアを利用できると思っているのです。それもあながち見当外れとも言えないですし。」

「ただ、ブラーニアとフランツ王子の関係は表だったものにはなっていないようですね。」

 そうナユタが言うと、レジナルドはうなずいた。

「その通りです。でも、これから何が起こるか。フランツ王子が目を覚ましてくれれば嬉しいのですが。」

 レジナルド卿の表情には鬱々としたものがあった。

 

 そんな中、コヒツラントで発生したのが、ブレナン大尉殺害事件だった。ブラーニア陸軍のブレナン大尉は何がしかの任務、おそらくはコヒツラントでの情報収集、諜報活動、あるいはコヒツラント攪乱操作のため、部下二名とともにコヒツラントに入国したのだが、期日になっても帰ってこなかった。

 ブラーニア陸軍は調査員を派遣して消息を探らせたが、その結果明らかになったのは、ブレナン大尉がコヒツラントの反ブラーニア勢力の者たちに捕えられ、処刑されたという事実だった。しかも、証拠隠滅のため、処刑後、遺体は焼き捨てられたということだった。

 ブラーニアはこの事実を公表し、コヒツラント政府に対して謝罪と賠償、さらには、再発防止の約束を迫ったが、コヒツラント政府は、当初、殺害の事実すら認めようとしなかった。

 コヒツラント政府高官は声明を発表した。

「我々は、ブレナン大尉なる者が我が国で殺害されたという事実すら確認していない。そもそも我々の保有するいかなる記録においても、ブレナン大尉の入国は確認できていない。我々としては、ブラーニアから発せらせた悪意に満ちた非難は捏造に基づくものとしか思えない。仮に、ブレナン大尉が実際に我が国において殺害されたとすれば、そのこと自身については遺族の方々に同情申し上げたいが、我々としては、ブレナン大尉が身分を偽った偽造旅券などの手段で不正に入国し、正しからざる行為を働いていたが故の当然報いと考えざるを得ない。」

 この声明が発表されると、ブラーニア政府は猛反発した。ブラーニアの陸軍大臣は声を荒げて新聞記者に語った。

「ブレナン大尉は、正式なパスポートとビザを保有してコヒツラントに入国した。その記録がないと言うなら、それこそコヒツラントの意図的な事実隠蔽、あるいは管理能力の欠如を如実に暴露しているとしか言えないのではないか。」

 さらに、ブレナン大尉の葬儀において、涙ながらに語る未亡人の写真と記事が新聞に掲載された。

「お国のためにただただ身を削ってきた主人へのあんな言われなき非難は断じて許せません。」

 ブラーニア世論は激情とも言えるほどの感情的な反発を示した。新聞各紙は、一様に、強い論調で報道を続けた。

「正義のためにコヒツラントを誅するべし。」

「コヒツラントは邪悪な者たちの巣窟。」

「今すぐ出兵を。」

 そんな見出しが新聞紙上で踊った。

 だが、このようなブラーニアからの非難は、一方で、コヒツラント国民の反ブラーニア感情を激しく刺激するだけだった。

 数日後に起こったのが、コヒツラント国内で、ブラーニア人の女子生徒たちがピクニック中にコヒツラント市民に強姦されるという事件だった。ブラーニア政府はこの件でもコヒツラント政府に厳重に抗議したが、ブレナン大尉殺害事件で憤懣が鬱積していたブラーニア国内の反コヒツラント感情は一気に沸騰した。

 次の日、ブラーニア国内ではコヒツラント系住民への大規模な報復が自然発生的に起こり、流言飛語によってたちまち拡大した。首都のシュタルバーでは、コヒツラント系商店の窓ガラスが次々に割られ、商品が略奪された。興奮した暴徒はさらに、コヒツラント系住民が多く住む区域にも押し寄せ、コヒツラント系住民の一般家庭が次々に襲撃された。略奪、破壊、放火などありとあらゆる暴行が行なわれ、若い女性の中には凌辱された者も少なからずいたようだった。

 このことは、それまでにないほどコヒツラント国民の怒りを買い、コヒツラント国内での反ブラーニア運動はかつてないほどの盛り上がりを見せた。

 だが、ブラーニアのパークス大統領はいささかもたじろぐことなく、演説でコヒツラントを厳しく非難した。

「すべてはコヒツラントが起こした不正に根差している。正義のために武力を用いることをためらうほど我々の心は萎えてはいない。」

 だが、この事態に他国も黙っていなかった。ビシュダール、ランズウッドなどの各国は深刻な懸念を表明するとともに、強い圧力を加え始めた。ランズウッドのシュタイン首相は強い調子で演説した。

「もし、パークスが武力に訴えるなら、今度は我々は容赦しない。」

 実際、ランズウッドの世論と政策は変わり始めていた。大陸でのブラーニアの横暴がラジオから伝えられるたびに孤立主義の主張は弱まり、ブラーニアのルンベルグ完全併合の後は、タカ派的な主張が広く語られるようになっていた。

 議会では軍備拡張のための予算案が審議され、前年の五倍に上る国防予算が賛成多数で可決されていた。

 また、ビシュダールのハリソン大統領も断言した。

「我々はコヒツラントの同胞であり、仲間を見捨てることは決してない。」

 そして、水面下では、各国の要人が頻繁に生き来し、厳しい交渉が続いているようだった。

 だが、そんな情勢の中、ブラーニアの新たな策を準備していたのは、コヒツラントとの最前線を守備する陸軍第7師団のマッキンリー将軍と彼の懐刀と言われた参謀のオルソン中佐だった。オルソンはマッキンリーとともにパークス大統領に面会すると啖呵を切ってみせた。

「コヒツラントを制するに大軍は要りません。航空機の支援さえいただければ、我が高速戦車部隊が三週間で首都ル・マーズを陥落させてご覧にいれます。」

 コヒツラントの軍事力を考えると、それはやや無謀とも言える言葉のようにも聞こえたが、陸軍一の切れ者と言われ、しかもさまざまな謀略に通じていると言われるオルソンの言葉に、パークスは、具体的なことは一切聞かず、大きくうなずいて言った。

「良いだろう。だが、三週間の約束だけは必ず守れるのだろうな。」

 オルソン中佐は不敵な笑みを浮かべて答えた。

「戦いには不測の事態も起こります。それゆえ、リスクも考えて、三週間と申し上げておきます。ですが、おそらく実際にはそこまではかからないでしょう。」

 パークスの了解を得ると、マッキンリー中将は密かに戦端を開く準備を進め、同時に、戦端を開くための謀略の準備を始めた。

 マッキンリー中将とオルソン中佐の自信を支えていたのは、かつてニコルソン将軍が秘密裏に進めさせたブラーニア軍再興構想の中で、高速戦車、航空機などの新技術を綿密に検討して構想をまとめ上げられた新戦術だった。オルソンは、将来を嘱望される若手将校として、その検討委員に選ばれ、その新戦術の第一人者を自負していた。

 その新戦術とは、高速戦車部隊と歩兵、航空攻撃を組み合わせた電撃戦だった。低空戦術爆撃機が敵空軍の基地と航空機を破壊し、敵の連絡網を遮断する。これによってまず空を制圧し、次に、高速戦車部隊が敵防御の薄い部分を突破する。そして、その突破口から、錬度の高い機動的な歩兵部隊をトラックなどで運び、戦車部隊を支援する。この結果、敵の防御線は、防御線を突破した高速戦車部隊に後ろから攻撃されることになるか、あるいは、ただ単に取り残されるかのいずれかになる。

 オルソンはこの基本ドクトリンに沿って綿密な作戦計画を立て、秘かに準備を進めた。

 そして、戦端を開くことが決められた日、コヒツラントの首都ル・マーズに向かっていたブラーニアの列車が、突如、何者かによって爆破された。

 ブラーニアのパークス大統領は即座に声明を発表した。

「これは我が国に対する挑戦である。」

 これに呼応して、ブラーニアの各地の航空基地から次々に爆撃機が飛び立ち、ブラーニアの高速戦車部隊がコヒツラントの平原に一気に展開した。

 数時間後、パークスは、

「コヒツラント人の犯人を逮捕し、即座に銃殺した。」

と発表し、次のように叫んだ。

「列車を爆破したのは、我が国の生存権を否定するコヒツラントの無政府主義者だ。コヒツラントの政治的混乱が我が国の安全を脅かしている。これは、我が国の生存権が脅かされていることを意味しており、決して見過ごすことはできない。我々は断固として、我らの生存権を守り通す。」

 ブラーニアの爆撃機は次々に敵の要衝を破壊し、完璧なる制空権のもとでマッキンリーの高速戦車部隊はコヒツラントの平原を一気に進撃し、またたくまに、沿線諸都市を抑えた。

 これ以上領土拡大はしないというブエナ会談での合意をルンベルグ併合で踏みにじられていただけに、諸国の反発も凄まじかった。

 ランズウッドのシュタイン首相は、

「これは明らかな侵略だ。」

と断じ、厳しい非難の声を上げた。

 だが、ブラーニア軍は、このような各国の反応を歯牙にもかけないかように戦線を拡大し、占領地域を広げていった。コヒツラント陸軍も抵抗を試みたが、圧倒的な空軍力に支えられ機械化で格段にレベルの違うオルソンの戦車部隊の前にただ敗走を重ねるしかなかった。

 コヒツラントの首都ル・マーズはブラーニア軍に包囲され、列車爆破からわずか十日でコヒツラントは無条件降伏した。

 パークス大統領は高らかに宣言した。

「正義のため、そして、我が国の生存のため、コヒツラントを併合した。」

 実際には、コヒツラント人民共和国のケッセリン首班の政府が無条件降伏したにすぎず、反政府系の抵抗勢力が依然として割拠し、国内の広い地域を支配下に置いていたのだが、ともかく、ブラーニアのコヒツラント併合宣言は各国の非常に強い反発を招いた。

 ブラーニアと国境を接するビシュダール共和国は、すぐさま国境を閉鎖し、軍隊の大動員を発令した。海の向こうのランズウッド連合王国のシュタイン首相も激しい非難声明を発表し、石油の禁輸、ブラーニア金融資産の凍結など厳しい経済制裁を発動した。

 その反発は、ある意味、パークスの想定を大きく超えたものであったかもしれなかった。パークスは、各国の非難声明や非難決議は出されるかもしれないが、それだけのことであり、前回のルンベルグ併合において各国が結局何もできなかったことを踏まえ、今回も結局何もできはしないと考えていたのかもしれなかった。だが、何の協議もなくルンベルグ併合を行ったことが、各国の宥和政策の支持基盤を決定的に毀損してしまっていたのだ。

 

 ニュークルツの新聞はコヒツラントからの報道で興奮気味だったが、そんな中で、紙上を賑わしたのがフランツ王子の動向だった。新聞各紙は、王子がコヒツラントの王座に就こうとしているという情報を繰り返し報道し、ブラーニアの首都シュタルバーの官邸でパークスと会談したらしいとか、既にフィガラッシュを抜け出してル・マーズに向かっているとかさまざまな情報が入り乱れた。

 ナユタがニュークルツ大学にレジナルド卿を訪ねると、レジナルドは沈鬱な表情だった。

「世界のためという視点がフランツ王子には決定的に欠け落ちてしまっている。彼には、自分が舐めさせられた苦渋とパークスやブラーニア高官の甘い言葉だけが心に響いているのでしょう。また、フランツ王子は、自分が返り咲くことがコヒツラントの混乱を救い、ブラーニアの支援で国を立て直すことに繋がると思っているのかもしれないが、コヒツラントは結局ブラーニアの傀儡にしかならない。パークスはフランツを利用することしか考えていないはずですから。」

 この辛辣な言葉にナユタもうなずいて言った。

「パークスはコヒツラント侵攻で思いの外、諸外国やコヒツラント国内での反発が強いのを見て、フランツ王子をコヒツラント支配と政情の安定化のために利用としているのでしょうね。」

「ええ、その通りですよ。もともとコヒツラントの民衆には最近のブラーニアの傍若無人的な振る舞いに対して反発の空気が強いですからね。フランツを立てれば、コヒツラントのことはコヒツラントでという表向きの顔ができるということでしょうが、少なくともランズウッドなどがそれで納得するとは思えない。」

「そんな中、フランツ王子は帝国復興という夢を抱いて、さきほどおっしゃったような論理を自分の心の中に展開して自分の野望を正当化しているんでしょうね。でも、ほんとにフランツ王子自身にとっても危険なことのように思えます。」

「ええ、そうですよ。パークスは利用できる間はフランツ王子を利用し、利用できなくなったら簡単に排除するでしょうからね。国民にとって騒乱が渦巻くこれまでの状態とブラーニアの力を背景にした傀儡政権の秩序とどっちが良いかと言ったら、短期的には後者かもしませんが、長い目で見れば国を発展させる策ではないはずです。それに、ブラーニア支配に反発する勢力は今後より活発になるでしょうし。」

「ヴェヒラムとかパトリスですか?」

「ええ、皇帝一家がル・マーズを退去した後、ケッセリンの政府が一応落ち着いた状況の中で、彼らは一時活動を弱めていましたが、今回のことで激しい非難声明を出していますし。」

「そうですね。それは新聞で読みました。フランツ王子にも警告を発していますね。」

「ええ、ですからフランツ王子は世界を敵に回すことになりかねません。この前、シュテファンから電話があって、今回の件への非難の記事を書くんだが、フランツへの痛切な批判も加えるので了承して欲しいという電話でした。それで、思う存分書いてくださいと返事しておきました。」

 レジナルド卿はさらに、そんな記事を読んでフランツが目を覚ましてくれれば良いんだがと語り、でも、そうはならないだろうとも付け加えた。

「歴史の歯車は確実に回り始めているということです。」

 それがレジナルド卿の危機感だった。

 ちょうど時を同じくして、レジナルド卿の本が出版された。『帝国の落日』というタイトルだった。この書物では、まず、先の大戦前のコヒツラント帝国が衰退への道を歩んでいた事象を述べ、その大きな原因が帝国内の官僚組織が自己保全を第一優先にした政策を進めたため、時代の進展に適合した改革が行えなかったことにあると述べていた。さらに、その状況が先の大戦による経済の疲弊と社会混乱によってますます顕著になり、ついに皇帝が権力を手放すことになったことを述べていた。また、そのような状況の中でレジナルド卿が皇師となり、宮廷内で見聞きしたさまざまな動きやそれが国内外の情勢とどのように連関していたかについて述べ、いかにしたル・マーズの宮殿を退去することになったかについて述べていた。特に、ル・マーズの宮殿からの退去の前後数日の様子は、まさにその場にいた者の供述として極めて興味深いものであった。そしてレジナルドは、フランツ王子について、能力があり、謙虚で英明な王子として描いていたが、同時に、最終章において、パークスとブラーニアへの接近については断じて許容できないと述べ、非常に危険な未来を自ら招き寄せかねないと厳しい口調で警告を発していた。

 

 だが、パークスもフランツ王子もそんなことに耳を貸すはずがなかった。

 しばらくして、パークス大統領は、コヒツラント暫定自治政府を設立し、執政にフランツ王子が就任したと発表した。

「ブラーニアはコヒツラントを占領し、併合したが、ただただコヒツラントの内乱、政情不安などがコヒツラント及び周辺国にとって極めて危険なものになったため、その危険を排除するための措置であったに過ぎない。コヒツラントの自立を損ないたいなどという意思はブラーニアははなから持ち合わせていない。それを実際の形にしたのがフランツ王子を執政に迎えたコヒツラント暫定自治政府である。」

 次の日、フランツ王子はル・マーズ宮殿のバルコニーに現われ、宮殿の前に集まった大群衆に対して声明を発表し、ブラーニアとの連携によりかつての立派な大コヒツラントを再建すると呼びかけた。

 だが、それはニュークルツから見れば、パークスの傀儡以外のなにものでもなかった。

 ナユタがニュークルツ大学にレジナルド卿を訪ねると、彼はため息をついて言った。

「とうとう起こることが起こってしまいました。かつてはあの若者に夢を覚えたが、それは今は悪夢に変わりました。私の人生がその悪に貢献したかと思うと慚愧に堪えません。」

 ナユタは、

「でも、それはあなたのせいではないですよ。」

と言ったが、レジナルドは首を振った。

「でも、私の心には重いのですよ。」

 レジナルドの表情は沈鬱で晴れることはなかった。

 

 一方、パークス大統領は全世界に向けた和平提案を行い、シュタイン首相との首脳会談にも前向きな発言をしたが、新政府がブラーニアの傀儡に過ぎず、フランツ王子が意のままに操れるお飾りでしかないことは誰の目にも明らかだった。

 シュタイン首相は、新聞記者に対して、短く、

「検討に値しない。」

と吐き捨てるように語っただけだった。

 ナユタとゲーベルがマティアスの部屋で顔を合わせると、マティアスは言った。

「パークスはシュタインをなめている。シュタインは忍従してでも平和を維持したいと考えていたのだろうが、パークスはそれに付け込んできた。恫喝し、強引にやり通せば、なんでも通ると思っているのだろう。だが、シュタインには強い信念があり、最も嫌いなことは裏切られることだということをパークスは知らないのだろう。」

「そうだな。シュタインの態度は変わったな。だが、そうなると、もはや平和的な解決の道はなくなるんじゃないか。かつてのシュタインは、いかなる譲歩や忍従をしてでも平和をというような姿勢だったが、今回の対応は、まるで心の中では既に戦争を決意しているかのようだ。こんな暴力に基づく侵略を容認していては世界の秩序が保てないからな。」

 このナユタの言葉にゲーベルは顔を暗くして、絞り出すように言った。

「戦争になるのかな。戦争になったら、いったいどれだけの人間が死ぬことになるか。」

 マティアスが言った。

「でも、戦争になるって決まったわけじゃない。まだまだ交渉の余地があるんじゃないか?以前のような一方的な譲歩や妥協じゃないだろうけど。」

 だが、ナユタは首を横に振って言った。

「たしかに、交渉は行われるだろう。だけど、シュタインが戦争を決意しているとすれば、交渉がまとまる余地などあるとは思えないよ。」

 マティアスやナユタが言った通り、シュタインはもはや激しい怒りを隠さなかった。議会ではブラーニアを激しく非難する演説を行い、次々にブラーニアへの制裁を追加していった。特に、重大だったのは、前大戦終了後ずっと継続してきたブラーニアへの新規借款契約の拒否だった。

 さすがのパークスもこの厳しい反応に考え直したのか、対ランズウッド交渉を表明し、クリス特命大使をニュークルツに派遣した。シュタイン首相は腹心のコーデルにブラーニアとの交渉を担当させたが、コーデルは強硬な姿勢で交渉に臨み、交渉は難航した。

 そんな厳しい状況の中で新たに出てきたのが、列車を爆破したのは、ブラーニア軍の息のかかった者たちのようだという新聞報道だった。ランズウッド政府がリークしたものかもしれなかった。

 この報道が出ると、コーデルはさらに態度を硬化させ、十四カ条にわたる要求書を突きつけた。そこには、今回占領した地域からの即時撤兵、列車爆破の真相究明と犯人逮捕だけでなく、コヒツラントとルンベルグの独立の回復、暴力によって奪った領土の即時返還、人種弾圧の撤廃、自由選挙の実施などが並んでいた。

「とても飲めるものではないな。」

 そう語るマティアスにナユタは言った。

「実質的な最後通牒だよ。石油の禁輸と金融資産の凍結だけでもブラーニアにとっては相当な打撃だ。十四カ条を飲めないとなると、戦争しかない。」

「だけど、ぼくの回りの者たちは、ブラーニアは宣戦布告などするまいと言っている。実際、ブラーニアにとっても、石油や資源を抑え、工業力でも上回っているランズウッド相手の戦争は危険極まりないじゃないか。」

 たしかにその通りだった。戦争のことは人々の頭をよぎったかもしれないが、それはまだ遠いことだった。現実と理性的判断に基づけば、どうして実際に戦争になるというのか。そんな馬鹿なまねをいったい誰がするというのか。いかにパークスが強気でも、そんな危険な賭に出るほど彼は馬鹿じゃない。人々はそう信じていた。

 だが、ナユタは敢えて言った。

「でも、ブラーニアはこのままじゃやってゆけない。大統領のパークスらにとって、このままでは自国がやってゆけないとなれば、勝負に出るしかないんじゃないか?」

 ゲーベルが口を挟んだ。

「そういう意味では、シュタインはどう考えているんだろう。以前なら、なんとしても戦争は避けたいというのが彼の政策だったが。」

「ああ、確かにそうだった。実際、シュタインは以前、少なくともブエナ会談のころまではパークスを信頼できる人物と踏んでいたようだが、ルンベルグの併合で裏切られたと感じ、今回のコヒツラント併合では怒り心頭している。シュタインは戦争に踏み切りたいんじゃないかとさえ思うよ。今回の十四カ条だって、ある意味、宣戦してくれと言わんばかりだ。だから、コーデルは、最初の一発を相手に撃たせるための要求を突き付けたようにしか思えない。」

「たしかに、ランズウッドの国論を戦争推進にまとめるためには、まず相手に撃たせなくてはならないかもな。だが、ランズウッドは大丈夫なのだろうか?首相のシュタインはこれまで融和政策に重きを置きすぎており、戦争の準備は整っていないのではないか。」

 そう言ってマティアスが疑問を呈すると、ナユタは大きくうなずいて答えた。

「その通りだよ。だからこそ、ランズウッドの戦争準備が整っていないとなれば、やるなら今しかないとパークスが判断しても不思議じゃない。実際、ブラーニアでは、ランズウッドがブラーニアと対等以上の戦いができる戦力を整えるには少なくともあと三年くらいはかかると見ているかもしれない。第一、ランズウッドでは、パークスのような指導力を発揮してではなく、民主的な方法で世論や議会を相手にしてゆかなくてはならないから、孤立主義だったランズウッドを戦争に踏み出させるには相当の時間がかかると踏んでも不思議じゃない。」

 だが、世界は依然として、交渉によって妥協が図られるはずと信じていた。

 ビシュダールの首都ブルザンガでは、まだ陽気に休日を楽しむ人々がいたし、さらに、海のこちら側のランズウッドには特別な危機感はなかった。普段通りの生活が営まれ、ニュークルツのセントラル公園では、人々が普段通り、犬を連れて散歩したり、ランニングをしたり、デッキチェアに寝そべって日光浴をしたりしていた。ラッシュアワー、ショッピング、ランチやディナー、バカンス、ピクニック、映画、観劇、スポーツなど、今まで通りの光景が展開されていた。

 

 しかし、その数週間後、突然、ラジオがアナウンサーの悲痛とも言える叫びとともに、衝撃のニュースを伝えた。

 突如、ブラーニアがビシュダール、ランズウッドなどに対して宣戦布告し、ブラーニア空軍がランズウッド領土のニコベラン島に先制攻撃を仕掛けたというのだった。ニコベラン島では甚大な損害が出ている模様であり、また、大陸では、ブラーニア陸軍が大挙してビシュダールとの国境を越え、進撃を開始したというのだ。

 傲然と世界がどよめいた瞬間だった。

 ついに再び、世界大戦が始まったのだ。

 ブラーニア海軍のニコベラン島空襲はまったくの奇襲だった。この作戦は、ランズウッドと戦うためには緒戦でニコベラン島を基地とするランズウッド空母艦隊を航空兵力で撃滅することが絶対に必要というスチュアート中将の信念に基づいたものだった。

 スチュアートは、過去十数年、ブラーニアの航空兵力の強化に力を注いできたが、航空母艦を中心とする機動部隊には依然として差があることを認めざるを得なかった。しかも、ランズウッドの工業力はブラーニアを上回っている。だとしたら、「この戦いに勝つためには、緒戦でランズウッド機動部隊を壊滅させることが不可欠。」というのが彼の信念だった。

 軍内部の異論を押えて、この作戦を認めさせたスチュアートは、宣戦布告に合わせて、ブラーニアの誇る主力空母六隻からなる機動部隊を率いてニコベラン島に迫っていた。そして、この戦いは、スチュアートが開発を委託して実現した世界最高性能の戦闘機が威力を発揮する場でもあった。

 宣戦布告の日の早朝、スチュアート中将は攻撃命令を発した。午前六時、甲板の乗組員たちが頭上で大きく帽子を振る中、水平線が赤く染まる荒海に向かって第一次攻撃隊が飛び立った。水平爆撃機四十九機、雷撃機四十機、急降下爆撃機五十一機、艦上戦闘機四十三機、計百八十三機という大編隊だった。空には月齢十九日、下弦の月が見え隠れしていた。

 さらに、午前7時十五分には、第二次攻撃隊として、水平爆撃機五十四機、急降下爆撃機七十八機、艦上戦闘機三十五機、計百六十七機が発進した。

 第一次攻撃隊の指揮を執るガーランド中佐は、スチュアート中将がもっとも信頼を置く冷静沈着かつ果敢な指揮官であったが、ニコベラン島上空に達すると、七時四十九分、「全軍突撃せよ。」と下命した。ニコベラン島からは対空砲火一つなかった。

 ガーランド中佐は、七時五十二分、母艦に「奇襲成功」を打電し、ガーランド隊は次々にニコベラン島に襲い掛かった。港内には九十隻を越える艦艇がいたが、ブラーニア空軍の主要目標は、四隻の空母と六隻の戦艦だった。ニコベラン島基地は、空襲警報を鳴らし、本国打電した。

「ニコベランはブラーニア軍の奇襲を受けり。敵機多数。」

 港に停泊していた戦艦、空母などには次々に直撃弾が命中し、島の空港、施設などもあっというまに炎上した。

 第二次攻撃隊を率いるフィッシャー少佐がニコベラン島上空に達した時には、地上から活発な対空砲火が打ち上げられていた。しかし、敵戦闘機は現れなかった。第一次攻撃隊の奇襲によって、ブラーニアの戦闘機は一機も離陸できなかったのだ。

 八時五十四分、フィッシャー少佐が全軍突撃を下命すると、ブラーニア航空部隊の攻撃機は次々に大きく翼を振り、急旋回して急降下爆撃に移った。

 攻撃は残っている艦船、軍事工廠、格納庫などに集中した。フィッシャー隊は港を火と煙に包み、艦隊を粉砕して午前十時過ぎには引き上げた。空母四隻、戦艦五隻が沈没し、残った艦艇もその多くが無残な姿を晒した。

 ブラーニアでは、宣戦布告とともにニコベラン島での戦果が大々的に報じられた。さらに、 パークス大統領がラジオに向かって長々と演説し、その内容はラジオ電波に乗せられた。

 パークス大統領は、自民族の優秀さを誇り、絶対生存圏確保のための崇高な戦いが必要であることを謳い、さらには、列車爆破をブラーニア軍の陰謀と主張する他国の卑劣さを詰り、止むにやまれず、毅然として起たざるを得ないと力説した。

「我が国は挑戦を受けた。その挑戦はまさに我が国を貶め、わが民族を滅亡させんとするものだ。そんな挑戦を受けて、我々がそれを甘んじて受け入れ、身をかがめて忍従せねばならないいかなるいわれがあるというのか。我らは世界に誇るブラーニア民族ではないか。挑戦を受けたわが民族は、ついに、断固として起ち上がったのだ。全国民が毅然として起ち上がるべき時が来たのだ。そして、我らの真の力を世界に知らしめる時が来たのだ。世界は我らの力を改めて認識し、その巨大な破壊力に驚愕するだろう。わが民族の力を目の当たりにして、愚かにも我らに挑戦した輩は、その挑戦が自らを破滅に導くだけの荒唐無稽な夢物語であったことを悟るだろう。まさに彼らの試みは笑止千万ではないか。我らは戦い抜く。最後まで戦い抜く。すべての国民が、この大事業に参加し、手を携えて国家に奉仕するのだ。私はこの国の指導者として、すべての国民がこの聖戦のために持てるすべてのものを捧げることを要求する。我が国民の汗の一滴、血の一滴こそが国を守り、敵を屈服させる力の源泉なのだ。」

 まさにパークスは、国民に国家への絶対的な忠誠を求め、国力のすべてをこの戦争に注ぎ込むことを宣言したのだった。

 宣戦布告を受けたランズウッドでも、議会でシュタイン首相がブラーニアの卑劣さを非難し、徹底的に戦いぬことを宣言し、国民への団結を呼びかけた。

 ランズウッドの新聞には、

「狂気のブラーニア、宣戦布告す。」

「ブラーニア、逆上す。」

という見出しが躍った。

 シュタイン首相は、記者団に対して、ブラーニアの宣戦布告を自殺行為と呼び、

「きわめて無謀な冒険主義」

と断じた。

 次の日、ナユタが大学へ行くために街を歩き、地下鉄に乗ると、ニュークルツ市民の興奮と混乱を感じることができた。人々は顔をしかめ、興奮と焦慮に駆られて誰かと話し込んでいた。新しい情報があれば、その回りにはすぐに人の輪ができた。引き返すことのできないところに来てしまったのだという思いと、ブラーニアの奇襲に対する怒り、それを撃ち返せなかった自軍への落胆がない交ぜになった空気が人々を覆っていた。

 いよいよ戦争なのだ。もはや希望の時は去り、ブラーニアからの決定的な挑戦を受けた今、残された道は、ブラーニアを倒すか、ブラーニアに倒されるかなのだ。途方もないことがまさに始まったのだという思いがそれぞれの人の上に重くのしかかっていた。

 街頭のラジオの拡声器にくぎ付けになった人々は、アナウンサーのひきつった声を、心を締め付けられるような思いで聞いているようだった。そのラジオは、シュタイン首相の肉声を伝えていた。

「もはや交渉の時は終わった。戦いしかない時代が来たのだ。」

 大学でもブラーニアとの開戦の話ばかりだった。ゲーベルは仲間たちと集まると、顔をしかめて言った。

「とうとう、パークスの脅威がついにここまで押し寄せてきたんだな。」

 マティアスもフェドラーもうなずくばかりだったが、ナユタは、重い、けれど、きっぱりした口調で言った。

「でも、これで世界が動くよ。大きな犠牲が出るだろうけどな。」

「世界が動くか。たしかに、そうだな。だけど、これからどうなってゆくんだろうな。」

 ナユタは三人を元気づけるように言った。

「ランズウッドの強大な工業力がこの戦争に道筋をつけるだろう。ブラーニアの無謀を書き立てている新聞も少なくないが、実際、ブラーニアにとってこの賭けはあまりにも危険だ。しかも、ブラーニアとランズウッドの間には海がある。ぼくにはとてもブラーニアの勝利は見通せない。」

 だが、フェドラーはそんな話には興味がないように言った。

「ぼくには、今のこの生活しかない。今のこの生活を続けるしかないが、現実には、冷ややかな世界がぼくを取り巻いている。ぼくは、もう一人のぼくをルンベルグに残してきた。でも、ぼくは、来ずにはいられなかった。パークスからの脅威からだけでなく、それを受け入れる人々から逃れるためにも。」

 このフェドラーの言葉に、ナユタもうなずくほかなかった。そして、クロイシュタットやゲーベルの家族はどうなったのか。そんなこともナユタたちの心に大きくのしかかっていた。

 戦争の真の脅威はまさに始まったばかりなのだ。ゲーベルが重い口調で言った。

「かつての大戦の時には、少なくとも最初は熱狂や興奮があった。若者は進んで武器を取り、女たちは胸を張って息子たちを出征させた。だけど、今度はもうそうじゃない。この巨大な時代の潮流に飲み込まれて若者たちは出征するしかないが、それは服従であって歓呼じゃない。若者たちは、政治に翻弄され、不可解な悪夢に満ちた運命によって駆り出され、暴力の犠牲となって倒れてゆく。きっとこの戦争はそんな戦争になるよ。」

 

 そして、実のところ、シュタイン首相は断固たる決意を議会で表明したものの、ランズウッドの政府は一連の宥和政策と経済制裁などでブラーニアを封じ込めると信じ、開戦になるとは予想していなかった節もあった。一部には、石油の禁輸や金融資産の凍結が戦争を誘発すると懸念する者もいたが、政府はそうは信じておらず、逆に、経済制裁こそが戦争を抑止すると信じ切っていたのだろう。その政策がまさに破綻したのだった。

 しかも、孤立主義優先の世論のもと、外交的手段で平和を維持することを目指してきたシュタイン政権は、軍事を二の次にしてきていた。そのため、ランズウッドの戦争準備はあまりに不十分なままであり、開戦とともに攻勢に出たのはブラーニア軍だった。

 開戦三日目、ブラーニア航空部隊は、ニコベラン島基地空襲の報に接し、帰投を急いでいたランズウッド戦艦艦隊に殺到した。ランズウッドが不沈と誇っていた最新鋭の戦艦二隻は、スチュアート艦隊から発進したブラーニア航空機の攻撃によってわずか二時間で撃沈された。戦闘態勢にある戦艦が航空機によって撃沈された初めてのケースでもあった。

 また、ブラーニア陸軍は、宣戦布告とともに一気に隣国ビシュダールに攻め込んだ。各地の基地から飛び立った急降下爆撃機がビシュダールの諸都市を空襲し、防御陣地を次々に破壊した。補給線や通信線にも致命的な打撃を与えた。それに呼応して、三千両の戦車を有する電撃部隊が一気に隣国になだれ込んだ。

 ビシュダールでは、ブラーニアに対する防御線は完璧という神話が国の上層部から庶民まで広く信じられていたが、その神話はあっさりと覆された。最大の問題は、ビシュダールの軍上層部の発想が前大戦の戦いからほとんど抜け出ておらず、最新の攻撃手法に対する研究が決定的に欠けていたことだった。一部軍人からは、これからの戦いは塹壕戦ではなく、航空機と戦車が主力となる電撃戦だという意見も出されたが、この意見が採り上げられることはなく、むしろその考えを採用したのはブラーニアのマッキンリーとオルソンだったのだ。結局、ビシュダール軍部は航空機の威力を過小評価していたばかりではなく、新鋭高速戦車を主体とした電撃戦の破壊力も認識しなかった。

 戦車部隊の集中攻撃によって、ビシュダールの防御線は何カ所かで突破され、難攻不落と言われた堅固な要塞は、単純に迂回されてなすすべなく、後ろに取り残されただけだった。

 これは、コヒツラントへの電撃戦で名をはせたマッキンリー将軍と大佐に昇進したオルソンが練り上げた作戦の成果でもあった。小型戦車中心で機械化が進んでいなかったビシュダールの陸軍は、ブラーニアの機械化部隊の前になすすべもなく殲滅され、ブラーニア軍は首都ブルザンガに向けて進撃を続けた。

 大統領のハリソンは、ラジオからビシュダール国民に向かって演説した。

「ブラーニアは国際信義を踏みにじり、数えきれないほどの背反行為を犯して、わが首都ブルザンガに迫っている。これを救えるものは奇跡しかないかもしれぬ。だが、私は奇跡を信ずる。私はビシュダールを信じるからだ。」

 この言葉に、人々はすべてが決したことを知った。外務省の中庭では次々に機密文書が運ばれて火にくべられ、ビシュダールから地方へと逃げ出す者たちの長い列が国道に続いた。

 一方、壊滅的な打撃を受けたニコベラン島には、ブラーニア上陸軍が迫っていた。開戦から十日目、制海権と制空権を確保したブラーニア軍三万はランズウッド軍の抵抗を受けたものの上陸に成功、ニコベラン守備隊が降伏したのはそのわずか数日後のことだった。

 ニコベラン島陥落はランズウッドに衝撃を与えた。ランズウッドのシュタイン内閣は総辞職に追い込まれ、挙国一致内閣が誕生した。その内閣で首相の地位に就いたのは、これまで軍備拡張を主張し続けた好戦派のブルックだった。

 ブルックは必ずしも後継首相の第一候補ではなかったようだったし、議会も別の候補を推していたようだったが、その候補は首相就任を辞退した。今回の首班指名で発足する挙国一致内閣の最重要使命は戦争遂行であり、自分は戦争指導者に向いていないと自認したことがその理由のようだった。対するブルックは、喧嘩好きで独善的な信用ならない人物と見なされ、その政治的判断と政治的手腕には疑問符もついていたが、この国難に際して、意思が強く、決断力があり、精力的に活動するブルックに国の命運を委ねることが決まったのだった。

 ブルック新首相は、議会で首班指名を受けると、その受諾演説の中で、徹底抗戦を叫んだ。

「我々の差し伸べた手をブラーニアは振り払った。このつけは必ずや払わされることになるだろう。我々は総力を挙げてブラーニアに立ち向かう。全国民が一丸となり、この危機に立ち向かうのだ。自由を求めるすべての民族が我々を待っているのだ。」

 だが、その演説が必ずしも熱狂的に迎えらたわけではなかった。次の日の新聞には、

「多くの保守派議員は冷淡な反応しか示さなかった。」

「少なからぬ者たちがブルックに対する嫌悪感を抱き続けている。この内閣が長期政権になるとは考えにくい。」

というような議員の発言も載っていた。

 その新聞記事を読んで、マティスは言った。

「この危難に際して、政治も混乱しているようだな。危難だから混乱するんだろうがな。」

「ただ、こんな時、ブルック以外に戦争を遂行できる人物はいないかもな。大きな犠牲を払うことになるかもしれないが、とことん戦うという姿勢がなければ、この危難には対処できないだろう。」

 そう答えたのはナユタだった。

 実際、ブルックはすぐに行動を起こした。ブルックは挙国一致の戦時内閣を組閣すると、首相官邸に泊まり込んだ。執務室の中央のテーブルには大きな地図が広げられ、その地図には軍の配置が綿密に書き込まれた。その後、この部屋は敵の空襲を避けるために地下に移されたが、この部屋は、戦争推進の拠点となり、重要な戦略はすべてこの部屋で討議、決定され、この部屋から発信されたのだった。

 開戦劈頭からの壊滅的敗北の連続で、新聞も含め世間には弱気の風も吹いていたが、ブルックは揺るがなかった。ブルックの意思を背景に、参謀総長のアルワルディ大将は、定例記者会見で胸を張った。

「敵の攻勢は我が国の終焉には結びつかない。なぜなら、我々にはまだ海がある。国内基地の航空部隊を再整備し、防空能力を強化すれば、我々は戦争を継続できる。ニコベランでは大きな打撃を受けたが、我が工業力は早急に戦力を立て直すだろう。幸い、新鋭空母の建造は着々と進んでいる。まだ、時間があるのだ。」

 そして、ブルックは戦時体制を確立させるための法案を次々に議会に提案し、通過させた。戦争遂行のための政府主催の集会も何度も開かれた。そこでは断固戦うという叫びが参加者から湧き上がった。街では戦争完遂を誓うパレードが行われ、さらには、兵士志願を募るキャンペーンも盛んに行われた。志願兵を見送る集会も頻繁に開かれた。

 マティアスは言った。

「ぼくのとこの学生も何人も出征していったよ。興奮して勇ましく行った者もいるし、周囲の圧力でしかたなく志願した若者もいる。いったい何人が生きて帰ってくるのか分からないな。」

 この言葉にうなずいたフェドラーは力なく言った。

「ぼくには、この地球のどこかで空から降ってくる爆弾、上官の突撃命令、傷ついた兵士たちのゆがんだ顔がいつも心をよぎるよ。」

 そして、ニュークルツ市民の日常生活にもさまざまな影響が起こった。最初に起こったのは塩とコーヒーや紅茶が商店から消えるという事態だった。塩とコーヒー、紅茶はいずれも植民地のアシュグザから多くを仕入れていたが、戦争の開始と優勢なブラーニア海軍の影響で輸送が妨げられるというデマがまたたくまに市民に拡散し、市民が一斉に塩とコーヒー、紅茶を少しでも余分に買っておこうと買いに走っただった。このデマの原因は、いくつかの貿易商会や商社がこれらの品の値上がりを見込んで買い占めを行い、そのために一部の商店で実際に品薄状態になったためであったが、市民が買いだめに走ったことで一気にパニックが広がり、商店から品物が消えたのだった。

 このような事態に、政府は声明を発表した。

「アシュグザとの間のシーレーンは我が海軍によって守られており、なんの毀損も受けていない。」

 実際には、そのシーレーンはブラーニアの攻撃によって甚大というに近い障害が出始めていたのだが、ともかく、政府はそう強弁した。実際、市民が必要とする量の物資の供給はできていたのだろう。だが、シーレーンが原因でなく、市民の買い占めが原因だとしても、ともかく商店に品がない以上、市民は買いだめに走るほかなかった。

 塩は政府の専売だったが、生活必需品だけに塩の入荷した商店の前には長蛇の列ができ、闇市では法外な値で取り引きされたのだった。政府の専売制を無視して闇で塩を作る業者も次々に現れ、その塩は闇市に流れた。国内で塩を作る闇業者に対しては、政府も取り締まって逆に世のパニックを誘発することを恐れ、実質上の黙認状態だった。そんな中、国会議員の家族が経営する商店が、これらの塩をはじめ商品を店先から撤去して闇市に流して暴利を貪っていたというスキャンダルも明るみに出て、国会でこの問題が糾弾されたほどだった。

「これじゃ、自分の家で食事をするわけにはいかないな。」

 そう言ってゲーベルたちは自衛のため、平日は朝昼晩とも大学の食堂で食事をすることにした。学生、教員、職員の多くもそうだったため、食堂には見たこともないほどの長蛇の列ができた。市内のレストランにも客が押し寄せ、ある意味では一気に商売が繁盛したが、塩の備蓄のない店は閉店せざるを得なかった。そんなこともあって、一般の市民が大学の食堂に押し寄せる事態になったため、大学はこれまで市民に開放していたキャンパスを閉鎖し、中に入るには身分証の提示が必要なようにしたのだった。

 政府は繰り返し声明を発表し、かつ、政府保有の物資を市場に供給したことからようやくこの騒ぎは収まったが、政府はこのようなことへの対策と、実際に、シーレーンが脅かされている現実を考慮し、塩、コーヒー、紅茶の配給制を実施し、さらに、今後の戦時体制の強化のために、パンとバターまでも配給制にしたのだった。

 さらに、砂糖を大量に使う菓子パンは製造を禁止され、高級チョコレートは店頭から消えた。「贅沢は敵」という標語がいたる所に張り出され、華美な服装で街を歩くことも憚られるようになった。

 ともかく、そんな中で、ランズウッドは着々と戦時体制を整えていったが、開戦に向けてあらゆる準備をしてきたブラーニアの勢いは止まらなかった。ブラーニア軍の電撃戦は向かうところ敵なしといった破竹の進撃を続け、かつてどの軍隊もなしえなかった速さで敵領土を侵略した。

 ビシュダールは降伏し、陸軍はさらに周辺国を中心に次々に拠点を攻略して勢力を拡大した。また、海軍もニコベラン島を起点に、海洋に浮かぶ島々から次々にランズウッド軍を追い払い、ランズウッド本土に迫ったのだった。四隻の空母をニコベラン奇襲によって失い、制空権、制海権をランズウッド海軍に握られている状態で、ランズウッド海軍はなすすべがなかった。

 ブラーニアはさらに周辺の国々にブラーニア傘下に入るかどうかを迫り、拒否した場合には躊躇なく侵攻し、無条件降伏を強いたのだった。

 

 開戦から四ヶ月経って、ブラーニアは広大な領土を占有するに至った。コヒツラントでは反政府勢力が確保していた主要都市にもブラーニア軍が進駐し、無条件降伏したビシュダール共和国では親ブラーニアの政権ができた。そして、この征服によって、ブラーニアは、油田や、鉄、銅、錫、亜鉛、ボーキサイト、鉛などの鉱山を接収し、長期自給自立ができる体制を整えたのだった。

 パークス大統領は高らかにブラーニア共栄圏を宣言した。それはブラーニアと周辺の国々からなる共栄圏で、ブラーニアが中心となり、共栄圏の自助自立を謳い、各民族の協和を謳ったものだった。だが、その実は、ブラーニアの権力の元、ブラーニアが周辺諸国から搾取し、戦争推進を図るための体制にほかならなかった。

 コヒツラントでは、西コヒツラント鉄道会社が設立され、広漠とした国土を突っ切るコヒツラント西部の鉄道を接収した。西コヒツラント鉄道会社は鉄道のみならず、鉱山、ホテル、銀行、港湾、各種事業への投資なども行い、そこから得られる莫大な利益は、ブラーニアに吸い上げられ、軍備に充てられる仕組みであった。

 そして、ブラーニアの多数の農民がコヒツラントに移住した。村単位で移住した者たちも少なくなかった。コヒツラントの農民たちは、ブラーニアからの移住者に土地を奪われ、辺境の地に追いやられた。

 その一か月後、ブラーニア共和国では大統領選挙が行われた。対抗して立候補する者はなく、結果的にパークスの信任投票となったが、パークスは圧倒的な票で信任された。

 パークスに批判的で立候補したい者もいたであろうが、所詮勝ち目がなく、選挙後の弾圧や逮捕を恐れて誰も立候補しなかった。

 こうして、パークスはさらに五年間、ブラーニアの国家元首ならびにブラーニア軍最高司令官を務めることになり、マイクに向かって、ブラーニアの全国民が自分を支持していることを誇らしげに喧伝したのだった。

 

 そんな状況の中、コヒツラントやアシュグザの情勢も動いていた。

 コヒツラントの暫定自治政府は帝政復帰を宣言し、執政に就任していたフランツ王子を新皇帝の座につけた。

 パークスは国会で演説すると共に、世界に向かってラジオで喧伝した。

「コヒツラントの安定と平和をブラーニアの力で取り戻した。だが、我らは力で隣国を支配するのではない。コヒツラント国民が望む皇帝を帝位に就け、コヒツラント国民が望むものを実現したのだ。ブラーニアは混乱していたコヒツラントの治安を回復し、フランツ新皇帝による帝政復帰によって政治と政情の安定をもたらした。ブラーニアを基軸とした各国との協調と相互理解によって共存共栄がもたらされる。それがブラーニア共栄圏だ。コヒツラント国民はこれからフランツ新皇帝とともに、新しい未来に向かって歩みを進めるだろう。」

 フランツの戴冠の様子は写真やニュース映像で世界に発信された。フランツは皇帝にふさわしい正装で先祖の霊廟を訪問して献花し、戴冠式では、伝統に則って神器と伝えられる宝剣を持ち、月桂冠の冠をかぶって、帝国の復活を宣言した。

 だが、レジナルド卿は渋い顔でシュテファンとナユタに言った。

「分かっておられると思うが、まったくの傀儡ですよ。実質的に支配しているのはブラーニアですからね。」

 シュテファンも言った。

「向こうにいる者からの手紙によれば、ブラーニアは多くの農民をコヒツラントに移住させて入植させ、そのために土地を奪われた農民もいると言います。街ではブラーニア人が威張り、役所の重要ポストはブラーニア人が占めているそうです。」

「コヒツラント人はブラーニア人の下で、安い給料で使われているんでしょうね。」

 そう言ったレジナルドにシュテファンはうなずいて続けた。

「その通りですよ。そして、コヒツラントに行ったブラーニア人は良い暮らしをし、コヒツラント人を見下げて生きている。ブラーニア人専用のカフェやレストランにはコヒツラント人は入れないらしいですから。」

「フランツにはそういったことが見えないのだろうか。」

 そう言ってレジナルド卿はため息をつくばかりだった。

 

 また、アシュグザに関する動きとしては、クンワールが参加している独立運動のリーダーであるバグワーンがニュークルツにやって来た。ランズウッドとアシュグザの間のシーレーンは一応守られてはいたものの、ブラーニアの潜水艦が常にうろついていたし、時には船団がブラーニア空海軍から奇襲攻撃を受けることもあったため、ランズウッドは安全な航路を通る通常の倍の長旅の末にバグワーンを招いたのだった。

 クンワールは準備などでとてつもなく忙しく走り回っており、ナユタがリトル・アシュグザに行っても、ゆっくり話をしたり、ましてや食事を一緒にするなどのことはできなかった。

 バグワーンがニュークルツの港に降り立つと新聞記者らが取り囲み、次の日の新聞には写真と共にバグワーンの声明が掲載された。写真を見ると、バグワーンはアシュグザ伝統の質素な麻の衣装を着て、足には草履を履いており、手には竹の杖を持っていた。その後ろの方には小さくクンワールの姿もあった。

 バグワーンは声明を発表した。

「アシュグザの今後のことについて話し合いたいというブルック首相からの要請でニュークルツにやってきました。ランズウッドにとっても大事な時期であり、我々の独立に関しても重要な時期なので、真摯に話し合いたいと思います。」

 記者から会議の見通しを聞かれたバグワーンは答えて言った。

「それはブルック首相からの提案次第です。我々は歩み寄る意思を十分持っている。ただ、首相がアシュグザの将来に対してどんな見解をもち、どんな約束をするかを聞かねばなりません。ブラーニアとの戦争も大事かもしれませんが、アシュグザの国民にとっては、アシュグザの自由と独立がそれ以上に重要ですので。」

 ブルックとの会見にも今日と同じ服装で行くのかという記者からの質問にはバグワーンは笑って答えた。

「もちろんですよ。アシュグザの国民会議でもこの服装で出席しているのですから。これが私の正装です。」

 数日後、バグワーンはブルック首相と会見したが、さしたる成果はなかったようだった。新聞は政府高官の発言として、

「相互理解を深め、今後の相互協力を約した。ランズウッドはアシュグザに敬意をもって今後も支援を続ける。」

という言葉を伝えたがそれだけだった。

 ただ、政府高官が出席するバグワーンの歓迎会では、ナユタとマティアスは音楽家として呼ばれ、アシュグザの音階を用いた音楽を披露した。そこには、ランズウッドが人権という立場に立ってブラーニアから迫害された人々、異人種の人々を擁護しているという姿勢を誇示したいという意図があったようだし、さらにはランズウッドがアシュグザとの連携を真摯に考えているというサインを示したいという意図もあったようだった。だが、アシュグザの者たちからはそれは見え透いた取り繕いだった。彼らの目には、アシュグザへの植民地支配に対する批判をかわそうとするランズウッドの意図が明確に透けて見えたであろう。

 実際、バグワーンが帰国してしばらく経ってナユタがリトル・アシュグザでクンワールに会うと、彼は不満をぶちまけた。

「ブルックは結局、自分のことしか考えていなかった。戦争が終われば、アシュグザをランズウッド連邦内自治領として認めるとは約したようだが、それだってよくある二枚舌い過ぎないかもしれないし、何一つ確たる約束なんてない。ブルックは、ブラーニアとの戦争が厳しい今、戦争遂行に支障が出ないようにアシュグザをなだめすかしているに過ぎない。」

 それはまさにその通りだと言って良かったろう。

「ランズウッドがアシュグザに対してやっていることは、ブラーニアが他の国に対してやっていることと大差ないからな。」

 ナユタがそう言うと、クンワールはその通りとばかり、大きく相槌を打ち、さらに吐き捨てるように言った。

「正直、ブルックには失望しました。ブルックはアシュグザを蔑視している。後進国への偏見、人種偏見の塊としか思えなかった。」

「それでこれからはどうするんだ?」

「これまで通りですよ。国でバグワーンがどうするかにかかっている。ランズウッドが戦争に勝つためにアシュグザからさらに搾り取ることにならなければいいがな。」

 バグワーンとブルックの会談が事実上、決裂に終り、独立に向けての前向きな同意も動きもなかったことを見て取ると、武力闘争も辞さない考えのビハーリーは、「このランズウッドの危機の今の時期こそ、独立のための最大の好機。」と語り、飛行機を乗り継いでブラーニアに向かい、最後はブラーニアの軍用機で首都シュタルバーの飛行場に降り立った。

 実際、ランズウッドとアシュグザの間のシーレーンがブラーニアの攻勢によって棄損したことに伴い、ランズウッドによるアシュグザの支配、統制はさまざまなところでほころびを見せ始めていた。それは、ビハーリーのような独立運動家にはチャンスと見えただろうし、ブラーニアにとってアシュグザに手を伸ばすことは、ランズウッドをさらに苦境に追い込むための極めて有効な策を言うこともできた。

 ビハーリーはブラーニアでさまざまな政府高官と会い、ついにはパークスとも会談することに成功した。パークスはランズウッドを陰で支えるアシュグザからの賓客を厚遇し、会談の後、次のようにラジオに向かって演説した。

「この会談で、我々は完全なる同胞であることを確認した。ブラーニアはアシュグザがランズウッドの搾取の軛から解放されるために、できる限りの力を貸すことを約束した。アシュグザが独立を果たした折には、アシュグザはブラーニア共栄圏のもっとも重要なパートナーとなるだろう。ブラーニアは混乱していたコヒツラントにも平和と安定をもたらした。ブラーニアの力は世界の平和と繁栄のためにこれからも貢献し続ける。世界にはびこるランズウッドの植民地支配を砕き、植民地支配に喘ぐ人々をランズウッドの軛から解放すること、それがこの戦いの使命であり、最終目標である。」

 この声明を受けてビハーリーは自由アシュグザ政府を樹立して首班となり、さらに国に帰ると自分が意のままに動かせる自由アシュグザ国民軍を創設したのだった。

 

 それからしばらく経ってバットから手紙が来た。まず、バグワーンからナユタに会ったことと聞いたことが綴られ、ナユタへの感謝が書かれていた。そして戦争が始まってからのニュークルツでのナユタの生活を心配するとともにアシュグザの様子が書かれていた。独立運動はなかなか進展していないことようだったが、さらに次のように書かれていた。

「バグワーンは真摯に独立への道を歩もうとしています。ブルックとの会談はさしたる成果はなかったようですが、致し方ありません。ともかく、我が民族は我が民族の道を行くほかない。それで、もし、同意いただけるなら、ぜひ、音楽を通して、アシュグザのすぐれた伝統と未来への可能性をランズウッドの人々に理解させることに力を貸して欲しい。バグワーンも常々言っているが、アシュグザでの大衆運動と並んで、ランズウッドの人々のアシュグザへの理解こそが独立のために必要不可欠な要素なのです。ランズウッドの人々はアシュグザの音楽をただ異文化的な要素、エキゾチックな要素だけで見ていて、アシュグザ音楽の真の芸術性や可能性には目を開こうとしていない。ただ、それには私たちにも問題がある。ただ、伝統に留まり、伝統を維持するだけであれば、そのような目で見られてもいたしかたないかもしれません。また、その伝統的な音楽がランズウッドなどの先進国で関心を持たれているからとそれに甘んじている向きもある。だがら、ランズウッドの真の芸術音楽が目指す方向とアシュグザの音楽との位相は合っているのだということをナユタさんの音楽で現実的なものとして示して欲しいのです。」

 このバットの手紙はナユタの心を深く打った。ナユタは返信の手紙で感謝の気持ちを述べ、さらに書き綴った。

「私も音楽に対するバットさんの考えに全面的に賛成です。ブラーニアやルンベルグで発展してきた先進諸国の音楽は平均律や調性の点で優れたものももっているが、一方で多くの一流の音楽家がそれがすべてであるかのごとく信じこみ、また、それらに基づく先進諸国の音楽が最も芸術的に高度な音楽だとする考えに凝り固まっているのには困惑します。音楽の可能性はもっと多様であり、例えば、アシュグザの音楽が本質的に持っている純正調、集団での即興演奏、そして始まりも終りもないいわばオールオーバーな音楽というものは先進諸国の音楽が描くことができないものを描き、その音楽が達することのできないものへ達する可能性を包含していると思います。私は先進諸国の音楽を無視も否定もしませんが、それにのみ依拠するのではなくアシュグザやトゥルナンの音楽のような別の音楽との有機的な融合こそに音楽の目指すべき道があると信じています。そのような音楽をこれからも探究してゆきたいと思いますし、その点から、ぜひ、将来ぜひバットさんとも共演したいと思っています。」

 そう書いて、さらにいつかはアシュグザに行きたいこと、独立運動の成功を心より願っていることなどを書き添えたのだった。

 この手紙を送った後、ナユタはバットからの手紙をマティアスにも見せたが、マティアスはその手紙に感銘を受け、それからしばらくして「プリペイド・ピアノのための二十四の前奏曲とフーガ」という曲を書き上げた。この曲はプリペイド・ピアノを用いた曲だったが、その韻律はアシュグザ伝統の純正調に基づき、いたるところにアシュグザやトゥルナンの音階を散りばめた曲で、不思議なまでに神秘的で瞑想的な楽想を持った曲であった。

 また、ナユタは弦楽四重奏曲を書いた。これは先進諸国の代表的な演奏形態を用いて、純正調の音楽を作る試みだった。弦を普通に弓で弾くのではなく、弓を浮かせて軽く弦に触れるだけのようにして音を出す技法によって、それまでにまったくなかった響きを作りだした曲でもあった。

 

 さて、一方で、実際の戦争はまぎれもなく動いていた。パークス大統領の次の目標はランズウッド本土上陸作戦だった。その第一段階は、空爆による本土空襲だった。

 ニコベラン島からでは大型爆撃機をもってしても、航続距離の点からランズウッド本土空襲は不可能だったため、ブラーニアは二つの作戦を立てた。一つは、ニコベラン島に拠点を置く空母機動部隊による空襲、もう一つは、ブラーニアが占拠した島々のうちでランズウッド本土に近い最前線のビーラム島基地からの空襲だった。

 ブラーニアはパークスの命令の元、急ピッチで準備を進めたが、そもそもランズウッドへの上陸作戦、空軍による空襲は、開戦時の戦争遂行要領にも記載がなく、戦前の戦略ドクトリンやパイロットの訓練計画にも含まれていなかった。これは、ランズウッドの海軍を叩き、ランズウッドの干渉のない中で周辺国を陸軍の力で征服し、これによって長期持久体制を構築するというのが当初の構想だったためだった。

 そういった意味では、むしろ準備が整っていたのはランズウッドの方だった。宥和政策の推進者であったシュタイン元首相ですら、防空予算は実はまったく削っていなかった。彼は、国防予算を大幅に削って社会福祉や経済政策に投じていたが、国防予算で削ったのは大型戦艦や空母などの攻撃用軍艦、戦車などの陸軍兵器だった。シュタインは、ランズウッドを戦争に巻き込まない最善策は宥和政策と完璧なる防衛戦略だと信じ、レーダー、観測所、空襲警報などに関わるネットワークシステム、さらには、防空のための新技術開発費は惜しまなかったのだ。

 ブルック首相はこの準備を十分に活用することができた。しかも、ブルックは、首相就任以来、飛行機や兵器、弾薬などの大増産の号令をかけ、本土防衛体制をさらに整えていた。敵軍が上陸してくる可能性のある地点は徹底的に補強され、本土空襲に備えた防空演習も繰り返し行われた。

 ブラーニア空軍によるランズウッド本土の空襲、そしてブラーニア軍の本土上陸という危機が間近に迫っていたが、ランズウッド空軍は並々ならぬ強い決意でこの決戦に備えた。

 新聞記者に見通しを聞かれた空軍司令官は明言した。

「これまでの戦いはともかく、今度は引き下がるわけにはゆかない。我らはあらゆる準備を余念なく行ってきた。万全の準備を整えている我々の中に敵は飛び込んでくるのだ。我々は十分な勝算を持っている。」

 ブルック首相もラジオに向かって語った。

「我々は、勇敢なる市民、そして全軍の兵士とともに戦い抜く。市民の勇気がある限り、我々が挫けることは決してない。」

 

 だが、ランズウッド本土への空襲が始まる前に、パークス大統領は突如、マイクに向かって和平提案を行った。この和平提案は、ブラーニアが占領したニコベラン島、ビーラム島などのランズウッド領土だった島々をランズウッドに返還し、ビシュダールの独立を回復するというものだった。これまでさまざまな恫喝で世界を震撼させてきたパークスの言動から見れば、驚くべき大幅な譲歩と言えた。

 このことが報じられると、少なからぬ方面から、驚きの声とともに、

「この和平提案を受け入れるべきだ。」

「この提案は真剣に検討するに値する。」

という発言が次々に上がった。

 戦時内閣の中でもシリアスな議論が繰り返されたのは想像に難くなかった。和平提案受容の意見が出されたことも容易に想像できた。この提案に乗れば、ランズウッドの誰もが望んでいないこの戦争を止めれるのだ。これ以上の犠牲を出さなくても済む。しかも、ニコベラン島もビーラム島も還ってくるのだ。

 だが、二日後、ブルック首相はこの和平提案を断固として拒否した。

 政府の意図を伝えるラジオ放送や新聞は、ブルック首相の談話を報じた。

「もし、ブラーニアがビシュダール、コヒツラント、ルンベルグなどの周辺国から軍隊をすべて引き揚げ、これらの国々で一切の干渉のない自由選挙が行われるなら和平提案を考慮してもいい。だが、ビシュダールでは、親ブラーニアの政権が、国民の自由を抑え込んで、独裁政治を行うまったくの傀儡政権として存在している以上、パークスの言う独立は欺瞞に過ぎない。コヒツラントも傀儡の帝政であり、ルンベルグについてはパークスは何も約していない。しかも、パークスが放棄するというニコベラン島やビーラム島は兵站の点からも保持に多大な労力のかかる島々であり、結局、パークスの目論見は、大陸でのブラーニアの覇権を公に認めよというものにすぎない。我々はもはやランズウッドのことだけを考えるべき時ではなく、世界全体の自由を考えねばならないのだ。こんな和平提案の話し合いのテーブルにつくわけにはゆかない。我々はまだ負けてはいない。我々がこの世界で我々にふさわしい地位を取り戻すために必要なのは、パークスは我々を敗北させられないということを世界に示すことだ。今ここで戦いを止めて、どんな未来を描くことができるのか。ランズウッドは世界のために戦い続ける。私はその先頭に立つ。」

 新聞は社説で、ブルック首相を支持した。

 そんな新聞を読んで、ナユタはマティアスとゲーベルに別のことを付け加えた。

「おそらく、パークスはコヒツラントこそブラーニアに必要不可欠な生存圏と考えているんだろう。コヒツラントの広大な大地こそ、ブラーニア民族の繁栄のために必須の領土と考えているはずだ。だから、ランズウッドとの戦争を止め、ビシュダールを衛星国にし、コヒツラントのフランツの傀儡政権を利用して、ブラーニアの勢力圏を広げようとしているんだ。」

「たしかに、コヒツラントでは政府勢力の及んでいない領域がとてつもなく広く残っているからな。」

 そう言ったマティアスにナユタはうなずいて言った。

「そのとおりだ。だけど、この講和に応じて、大陸でのブラーニアの覇権を認めれば、世界が超大国としてのブラーニアに牛耳られるのは目に見えている。新聞は、こんな講和に応じたらランズウッドは二等国に転落すると書いているが、間違っていない指摘だよ。」

 だが、和平提案を拒否したということは、ブラーニアによる本土空襲と本土上陸が現実のものとして迫ってくることを意味した。ランズウッドの沿岸地帯では、女性も含めた一般人からなる本土防衛隊が組織され、機関銃がなければ、小銃、散弾銃、猟銃、ピストルなどもとり、場合によっては、竹槍やこん棒も手にした。首都ニュークルツをはじめ沿岸地帯の都市では、子供たちの疎開が始まった。

 そして、同時に、ランズウッド市民の間で、ブラーニアに対する敵意、憎しみも募っていき、ブラーニアからの移民は白い目で見られるようになった。

 スパイ容疑でブラーニア人が逮捕されたという記事もしばしば新聞に載るようになった。そして、ブラーニア軍の空襲が始まればそれに便乗してブラーニア移民たちによる暴動や略奪が始まるという流言飛語まで飛び交うようになり、政府はブラーニア人を収容所に移すことを決定した。ブラーニア人の多くは財産を差し押さえられ、小さな荷物一つで収容所に送られてなすすべがなかった。

 ただ、それはブラーニア人種に対してであり、ブラーニアから迫害されてこの国に渡ってきた異人種のゲーベルとマティアスは対象とはならなかった。ただ、それでも、二人が大学の職に留まり続けるためには、この国に忠誠を誓うという誓約書を出さねばならなかった。

 

 そして、ついに、ブラーニア空軍によるランズウッド本土空襲が始まった。

 その初日、空襲警報が鳴ると、いつも通り、音楽大学で勤務していたナユタは、何度も繰り返された避難訓練の手順通り、仲間たちとともにすぐに地下壕に避難した。

「いよいよだな。」

と言うナユタに、ゲーベルは無言でうなずいたが、そのまなざしは不安そうで、ややうつろだった。

 飛行機の轟音が響き、爆弾が炸裂する音が響いた。皆、黙っていた。

 ややあってどこからか歓声が響いた。ランズウッドの戦闘機がブラーニアの爆撃機一機を撃墜したのが見えたらしかった。

 しばらくして空襲警報の解除が伝わると、ナユタたちは地上に出た。音楽大学の周辺で特に被害はないようだったが、市内の数か所から煙が昇るのが見えた。

「それほどの被害ではなさそうだな。」

 ナユタがそう言うと、マティアスは答えた。

「そうだな。だけど、これから毎日こんなことが続くのかな。」

 ランズウッドへの初空襲の次の日、ブルック首相は議会で演説した。

「我々が屈するとき、それは全世界に暗黒の時代が始まることを意味する。だから、我々は決して屈しない。自由を守る我々の戦いは必ず勝利せねばならない。我々は断固として戦う。」

 ブルックは防空体制のさらなる強化を謳い、市民の協力を呼びかけ、航空機や対空砲火の増産を推進していった。新聞は、兵器増産の特集を組み、市民に献金を呼びかけた。

 この動きを新聞で読んだナユタは、ゲーベルとマティアスに言った。

「ぼくは防火隊に志願しようと思っている。」

 この言葉にゲーベルとマティアスは驚き、心配した。

「危険じゃないのか?」

 だが、ナユタは笑って答えた。

「ブルックが絶対にニュークルツを守ると宣言し、周りのランズウッド国民が首都を守って頑張ろうとしている以上、ルンベルグから亡命してきたぼくたちも何かしないとな。新聞に防火隊員の募集が出ていたんだ。」

 ナユタが隊員を募る募集の載っている新聞の紙面を見せると、そこには、防火隊員だけでなく、火災監視員、救護隊員、非難誘導隊員などへの市民の参加を呼び掛ける募集が多数載っていた。

「じゃあ、ぼくたちも。」

 ゲーベルとマティアスはそう言ったが、ナユタは押しとどめて言った。

「君たちは国籍的にも無理だ。残念ながら、ブラーニア人は排除されている。それに、君たちにはそんな危険なことはして欲しくない。マティアスもクララのことも考えないといけないしな。ほんとうは、君には、もう一度トゥルナンにでも行っていてもらいたいくらいだ。」

「だが、君だけにそんな危険なことをさせるわけにはいかないじゃないか。」

 そうマティアスは言ったが、ナユタは笑って自信たっぷりに答えた。

「心配するな。ぼくは大丈夫。君はあまり知らないだろうが、ぼくは体には自信があるんだ。それに、十分気を付けるさ。」

 

 ナユタが防火隊に入ると時を同じくして、ニュークルツでのブラーニア空軍の爆撃は激しさを増し、昼間だけでなく夜間爆撃も開始された。ナユタは防火隊の一員として空襲のたびに出動した。

 首都ニュークルツでは、ブラーニア軍の空爆の激しさに、首都移転の議論まで巻き起こったが、ブルック首相は毅然として、首都に踏みとどまった。

「いかなる犠牲を払っても、首都ニュークルツを守る。決して撤退はしない。我々は断固戦う。」

 そんなある夜、ナユタはゲーベルとマティアスを誘って言った。

「防空壕に隠れるだけでじゃなく、たまには、本物の戦争を見てみないか。今日は非番なんだ。」

 二人が同意すると、ナユタは二人を小高い丘の上の公園に誘った。

「ここなら、誤爆でもない限り、爆弾は降ってこない。」

 しばらく待っていると、夜中の十二時過ぎ、空襲警報が鳴った。敵機がニュークルツ上空に来る前にランズウッドの戦闘機部隊が迎え撃っているはずだったが、それは見えなかった。敵機の爆音が近づいてくると、市内の各所からサーチライトが一斉に空を照らし、高射砲が次々と火を噴いた。一機が火を噴いて弧を描くように墜落した。そして、また一機撃墜された。

 一方、市内からも火の手が上がった。四か所で火災が発生し、もうもうと煙が立ち上っていた。

 三人は無言で眺めていた。

「この戦いは必ず勝つよ。」

 ナユタがそうぽつりと言うと、ゲーベルは応えて言った。

「この戦いが何を生み出すのか、それは分からない。だが、ともかく戦うしかないということだな。」

「そうだ。だが、それにしても、無力で逃げ惑うほかない市民の上に爆弾の雨が降ってくる。安全な作戦司令室に座る司令官の命令一つで、何千人もの市民の命が犠牲になる。それが現代の戦争なんだ。」

 

 激しい空襲は連日のように続いた。ランズウッドも防空体制を次第に強化し、戦闘はますます激しさを増していった。毎日のように百機前後が来襲し、時には三百機を越える大編隊での大規模攻撃も行なわれた。攻撃は、首都ニュークルツだけでなく、港湾や飛行場、兵器工場、地方都市にも及んだ。

 だが、ニュークルツ市民は勇敢だった。市民は歯を食いしばって空襲に耐え、膨大な死傷者を出しながらもニュークルツから逃げ出そうとはしなかった。

 市民から選ばれた火災監視員や防火隊も活躍した。ナユタもその一員として消防車に乗り込んで活動した。

 ナユタはほとんど音楽大学に顔を出さず、防火隊に専念していたが、久しぶりに大学でマティアスの部屋を訪ねると、マティアスは待っていたかのように語りかけた。

「無事で良かった。なんでも、不死身のナユタとか言われているそうじゃないか。この前も燃え盛る火の中に飛び込んで子供を助け出したとか。たしかに、それ自身は素晴らしいことだけど、でも、あんまり無茶するなよ。」

 するとナユタは声を沈めて答えた。

「心配してくれてありがとう。でも、ぼくにできることはそのくらいさ。この爆弾の雨を止めることなんてできやしないからね。ほんとうに、戦争の悲惨さをいやというほど味わいながらの毎日さ。そんな中でほんのわずかに救いうるものを救っているだけだよ。」

「それはそうかもしれないがな。」

「一昨日の夜は特にひどくてな。昨日の朝、見てみると、真っ黒に焦げた子供や女たちの死体がごろごろ転がっていたよ。そして、兵士たちがその体を並べて次々にトラックに積み込んでいた。死者を扱うなんてもんじゃない。ただの物を扱うような感じだった。兵士たちが無表情にその作業を続けている様子はぞっとするほどだった。」

「それが戦争なんだな。いつまで続くんだろうな。君と一緒に行ったトゥルナンが懐かしいよ。」

 マティアスはため息交じりにそう言うばかりだった。

 実際、ニュークルツの市民は勇敢だったが、犠牲者も少なくなかった。しばしば一度の空襲で数千人が家を失い、負傷した市民で病院のベッドは満杯となり、時には、その病院に爆弾が落ちることさえあった。地下鉄のホームで毎夜を過ごす市民も多く、上下水道やガスや電力網が破壊され、生活に支障の出ている地区も少なくなかった。

 そんなニュークルツでは、ブルック首相がしばしば市内を視察したが、あるとき、ナユタらのいる音楽大学にもやってきた。音楽科の学生たちを前に、ブルックは講演し、この戦時下において音楽家がなすべき使命について熱っぽく語った。その後、ブルックは、音楽科の教授や研究員に声をかけ、

「自由な音楽こそがこの戦いに貢献するのだ。」

と語り、ナユタたちもブルックと言葉を交わした。

 ブルックが帰ると、ゲーベルは言った。

「想像はしていたが、言われているとおり尊大で傲慢な人物だな。だが、信念は持っており、戦争を指導するにはこんな人物でなければできないだろうな。」

 この言葉に対し、ナユタはただ次のように語った。

「彼は、彼の命令一つで何万もの若者が死ぬことになるのを知っている。でも、命令しないわけにはいかないわけだしな。」

 それからしばらく経って、ナユタはニュークルツ市から表彰を受けた。防火活動と人命救助での勇敢な活躍を讃えたものだった。

 表彰式の後、ゲーベルはナユタをつかまえると、渋い顔をして言った。

「おめでとうと言うべきかもしれないが、正直、おれは喜べなくてね。なあ、ナユタ、危ない真似はするなよ。命あってのものだねだからな。」

「ああ、分かっているよ。おれはただ命令に従ってやるべきことをやってるだけだ。ただ、それが少々勇敢に見えたんだろう。いずれにしても、これだけ多くの犠牲が出ている中で、その犠牲を少しだけ小さくすることに貢献したからと称えられてもうれしくはないがね。まるで人の不幸の上に築かれた栄誉みたいだしな。」

「だが、ともかく気を付けろよ。」

「ああ、君もな。明日のことは分からないとはいえ、お互い、命は大切にしないとな。」

 元気なナユタを見てゲーベルは少し安心したようだった。

 それから数日経って、消防署での勤務を終えて建物を出ると、一人の男がナユタを待っていた。ダグラスだった。

「やあ、久しぶり。あんたが表彰を受けたのを記事で見たんでね。急に会いたくなったのさ。おめでとうも言いたいしな。」

「そうか。それはありがとう。ちょうど仕事も終わって、これから昼飯だが、もしよければ一緒にどうだい。」

 ナユタがそう言うと、ダグラスは素直に喜んだ。

「じゃあ、いっしょに行こう。おれも暇なんだ。あんたと最後に酒場で会ったとき、もう会わないと言われたんで今日も躊躇したんだが、そう言ってくれてうれしいよ。」

 ナユタがダグラスと一緒にパブに行くと、ダグラスは上機嫌に料理と一緒にビールを注文した。

「最初の一杯はおれのおごりだ。表彰のお祝いだよ。」

 ビールが来て乾杯すると、ダグラスが改めて言った。

「それにしても、表彰とはたいしたもんだ。普通のやつは怖くてそんな勇敢なことはできないからな。おれもそうだけど。」

「でも、戦争全体から見れば、人々の辛酸をちょっと軽くしたくらいのことだよ。それで表彰されるというのも、ほんとうは面はゆいんだがね。」

 ナユタはそう言って肩をすくめたが、ダグラスは大きく笑った。

「まあ、そう言うな。みんなヒーローが欲しいんだ。爆弾の雨の中を逃げ惑うだけじゃ惨めなだけだからな。誰かを祭り上げてでもヒーローが必要なんだ。この戦争は勝たなくちゃならない。おれも以前はパークスを英雄視して、全体主義のハニッシュ党を支持していたが、今はっきり言えることはパークスはおれたちの敵だということだ。」

「じゃあ、今は誰を支持しているんだい。」

「支持とか、どうとかじゃなくなったよな。戦争になった以上、おれたちは従うだけ。今は戦争に勝つために命令されることをやるだけだ。おれは海軍の水兵さんで、駆逐艦に乗っているんだ。ちょうど今は船がドックで修理しているんで、おれも陸に上がっているんだがな。」

「駆逐艦ではどんなことをやってるんだい?」

 この質問にはダグラスは首を肩をすくめた。

「たいしたことはやっちゃいない。機械の保守、修理だよ。エンジンとかボイラーとかのな。だから弾も撃っちゃいねえし、爆雷も落としちゃいねえ。だけど、おれは将軍ってあだ名なんだ。」

 そのあだ名は陸軍参謀総長を務める有名なダグラス将軍と同名のためにつけられたものらしかったが、ダグラスはまんざらでもないようだった。

「将軍と呼ばれるのも悪い気はしないぜ。若い上官なんかは、命令するとき、『将軍、何々をお願いします。』とか言ったりするからな。」

「じゃあ、将軍にふさわしい飲み物を出さなくちゃいけないか。なんにする?スコッチで良いか?おれのおごりだ。」

「それはうれしいな。あんたの頼むスコットはいつも上等だからな。」

 料理とスコッチが来て、久しぶりの再会で話が弾んだ。ダグラスも上機嫌だった。

「今日は楽しいぜ。駆逐艦の中よりずっと良い。船は息が詰まるからな。」

 そう言うと、ダグラスは駆逐艦でのことを話し始めた。

「機械室に籠もっていたら、外は見えないし、油くさくて、うるさくて、気分は良くはないぜ。それに実際の戦闘のときには、恐ろしくてな。潜水艦相手ならこっちが上だからまだ良いが、敵の飛行機が来たときにはほんとうに怖いぜ。爆弾が落ちてきたらどうしようって。逃げ場も限られているしな。」

「それが実際の戦争なんだな。」

「ああ、そうだな。だけど、おれは戦闘シーンなんて目にしたこともない。甲板に出て海を見るのは、敵がいないときだけだからな。」

 それが戦争のほんとうの姿だった。新聞やラジオでは報じられない生の声でもあった。そこには戦争への熱狂も興奮もなかったが、この戦争は負けられないという思いが底流にあることも感じ取れた。

 

 さて、戦いが進むにつれ、ランズウッドの防空体制は着々と整備されていった。ランズウッドは、ビーラム島から本土までの間にある島々に監視員を置き、ブラーニア編隊の数や動きを逐一報告させた。さらに、レーダーによって、敵機の数や来襲方向、来襲時間などを正確に把握し、ランズウッド空軍は本土の戦闘機を発進させて上空で敵航空機を待ち伏せ、地上軍は万全の態勢で邀撃体制を整えた。

 さらに、ランズウッドは潜水艦部隊による広範囲の警戒網を構築し、敵空母の来襲に備えた。これらの策によって、次第にランズウッドが制空権を支配するようになり、ブラーニア空軍のランズウッド本土空襲も大きな犠牲を伴うようになった。

 こうして、ブラーニア空軍のランズウッド本土空襲は徐々に減っていったが、そんな中で起こったのが、ビーラム島の周辺海域でランズウッド潜水艦が放った魚雷が一隻のブラーニア小型空母を撃沈するという事件であった。

 この戦果はランズウッドにおいて大々的に取り上げられ、ブルック首相は胸を張った。

「我々は敵を撃退しつつある。我々は有効な反撃を用意できている。今後も、我が本土に近づく空母は、我が潜水艦の餌食になるだろう。」

 ダグラスのいる海で制海権と制空権に微妙な変化が生じ始めているのはたしかだった。ナユタはダグラスに思いを馳せた。ダグラスもその海で、一人の水兵として日夜戦っているのだ。

 そして、いよいよランズウッド本土から発進した爆撃機によるビーラム島への攻撃が開始された。ここに、ランズウッド本土のランズウッド空軍と、ビーラム島のブラーニア空軍の間の空の死闘が始まった。

 だが、ビーラム島を目指すランズウッド海軍の攻撃も容易ではなかった。空と海での戦いは涯てのない消耗戦となり、毎日のように空中戦が繰り返された。前回の大戦の主力が陸軍部隊であったのに対し、今回の大戦では、主役は航空機だった。

 そんな中、ランズウッド空軍に恐れられたのは、ブラーニアのゴールデンアローと呼ばれた戦隊だった。ゴールデンアロー戦隊は機体を金色に塗り、ランズウッド戦闘機より高い高度が可能な点と、急旋回、急降下能力に優れる機体の特徴を生かし、太陽を背に上から襲いかかる戦法を得意とした。いつしか、ランズウッド空軍からは「死神」として恐れられ、ゴールデンアローを見るとしっぽを巻いて逃げ出すこともしばしばだった。

 だが、そんなゴールデンアローに敢然と挑んだのが、ゲルツェ中尉だった。ゲルツェ中尉は、敵の裏をかく戦術として、海面すれすれに降下し、そこから急上昇して攻撃する戦法を編み出した。敵から見て、海面に反射する太陽のせいでゲルツェ中尉の機体が見えにくくなる方向から急上昇して攻撃する戦法であり、これによって、彼は次々に戦果を挙げた。

 そして、彼以外にも、集団戦法でブラーニア空軍に対するなどさまざまな工夫が凝らされ、次第に、高性能の戦闘機と熟練の搭乗員を誇っていたブラーニア空軍にも、空の死闘で消耗が目立ち始めた。

 そして、そんな中、エースパイロットは英雄に祭り上げられ、戦意高揚に利用された。実際、ゲルツェ中尉は、ゴールデンアロー戦隊を八機撃墜して一躍ヒーローとなり、新聞などのインタビューも受けたほどだった。その華々しい活躍を伝えるニュース映画も戦意高揚に活用された。だが、それは同時に、国家のためという美名のもと、若者が次々と志願させられ、戦地に送られるということでもあった。

 ゲーベルは苦々しく言った

「勇壮な進軍ラッパが吹き鳴らされているが、若者たちは泥にまみれて次々に倒れていくんだ。」

 だが、彼は、息交じりにこう付け加えるのも忘れなかった。

「でも、そのラッパが鳴らなければ、パークスの狂気が世界を覆うのも事実だしな。」

 この言葉に応えるようにナユタは言った。

「エースパイロットは国民のヒーローに祭り上げられているが、彼らのような勇敢な戦士の英雄的行為が勝利を導くわけじゃない。総司令官が、暗い執務室で練られた机上の作戦に則って命令を発し、兵士を駒のように動かすだけだ。市民は大量に戦争に駆り出され、大量殺戮兵器が兵士、市民の区別なく襲い掛かる。兵士はもはや勇敢かどうかが問われる戦士ではなく、数で数えられる戦いのための部品となりさがっている。そして、大量殺戮兵器の前に、大量に消費される戦いのための物資の一つにすぎなくなった。」

 実際、この戦いは国民すべてが総動員される総力戦でもあった。ラジオからは国民総決起を呼びかける勇ましい言葉が流れ、映画館で上映が義務付けられたニュース映画からは華々しい戦果や勇ましい兵士の姿が映し出された。若者たちは次々と戦場へと赴き、大量産の掛け声のもと、男たちだけでなく女たちも軍需工場へと駆り出された。そして、戦車、砲弾、大砲、飛行機などが大量生産され、空母、巡洋艦、潜水艦などの艦船も次々に建造されて就航していった。

 そんな中で出撃したのがボルガン少将率いる四隻のランズウッド空母艦隊だった。ボルガンは由緒正しい軍人一家の出であり、幼いときから軍人ごっこでボルガン中将を名乗るほどの英雄志向をもった果敢な戦争屋であり、粗野な言動と乱暴な用兵で少なからぬ批判もあった。だが、彼は戦艦などというものもまったく無意味と信じており、次の戦争では航空兵力による制空権の争いになるとの慧眼を持ち、前大戦の時から航空兵力の重要性を主張し続けたランズウッドきっての航空作戦の専門家でもあった。 

 戦うことこそが生きる喜びというボルガンにとって、前大戦後は、戦争のない中での軍務に内心鬱積したものがあったようで、娘の親友と不倫したりアルコールにおぼれたりして家庭内や軍部内でいろいろな問題を起こしたらしかったが、今次大戦の開始とともに本来の生起を取戻し、ブラーニア空母部隊の殲滅を夢に、ひたすら空母艦隊の育成と訓練に明け暮れてきたのだった。

 いよいよ出撃の命が下ると、ボルガン提督は剛毅な性格そのままに果敢に攻撃に出た。

「この海は我らの海だ。なんとしてもこの海を取り戻す。」

 そう叫んだボルガン提督は、ニコベラン島からビーラム島へ向かうブラーニア輸送船団に激しい攻撃を加えた。ビーラム島の兵士たちが待ち望む弾薬、食糧、医薬品、軍需品などが、兵士たちの見ている前で、次々に海に沈んだ。

 この報に接し、ブラーニアは制海権と制空権の確保をめざし、空母六隻を派遣した。率いるのは開戦劈頭のニコベラン空襲を指揮したブラーニア海軍の英雄スチュアート中将だった。

 ここにビーラム島沖海戦が始まった。

 スチュアート中将は慎重な作戦を立てた。まず、スチュアート中将は、ランズウッド本土からの爆撃機の航続距離の届かない位置に母艦を留めた。この策によってブラーニア空母を攻撃できるランズウッド航空機は、必然的にボルガン少将の四隻の空母の艦載機だけとなり、空母の数で勝るブラーニアが有利となる。それがスチュアートの狙いだった。また、スチュアート中将は、母艦の回りに周到に駆逐艦を配置し、潜水艦に対する万全の体制を敷き、敵空母への攻撃の基本を、空母からの単独攻撃ではなく、ビーラム島の航空隊との連携攻撃とした。スチュアートの標的は、なんといってもボルガン提督の率いる空母艦隊の撃滅だった。

 一方のボルガン艦隊も空母の数で劣勢なのは分かっていた。しかも、本土航空機が届かない位置に敵空母がいるとしたら、敵空母への攻撃は自分たちだけでやらねばならない。

 参謀たちは、いつも強気なボルガン提督に対して、いかにも言い出しにくそうに進言した。

「提督、不本意かもしれませんが、この情勢においては、我が空母を一旦退避させるべきではないかと考えます。まともに向かっていっては、勝機は見いだせません。」

 参謀たちは、この言葉に対して、ボルガン提督の怒りの言葉が返ってくるのではないかと懸念したが、返ってきたのは、

「いいだろう。そうしよう。」

というボルガン提督のあっさりした同意だった。

 だが、ボルガン提督は決戦を回避する気などさらさらなかった。

「この戦いを全国民が、いや、全世界が注視している。なんとしても、敵艦隊を撃滅するのだ。」

 そうボルガン少将は旗艦の艦橋で訓示し、臨戦態勢を整えた。

 戦いは、ボルガン艦隊が退避した次の日、ランズウッド本土航空機によるビーラム島攻撃によって始まった。朝七時、これまでなかったような大編隊の攻撃機がビーラム島を襲った。ランズウッド本土の複数の基地から飛び立った三百五十機の大編隊であった。ランズウッド編隊がビーラム島に近づくと、ブラーニア戦闘機が舞い上がったが、勇敢なランズウッド空軍は戦闘機をかいくぐってビーラム島への攻撃を次々に敢行した。

 この報に接しても、慎重なスチュアート中将は動かなかった。あくまでも任務は、ランズウッド空母の撃滅である。スチュアート中将は、

「ランズウッド本土からの空襲への守りはビーラム島基地航空隊の役目だ。」

と言い、ひたすら敵空母を捜し続けた。

 だが、次の日、再び、ランズウッドの大編隊がビーラム島に向かっているとの報が入ると、ビーラム島の基地からは、空母の戦闘機派遣の強い要請がなされた。スチュアート中将は迷った。敵空母発見の報はなく、敵空母艦載機からの攻撃もなかった。ブラーニア空母出撃の報に接し、ランズウッド空母部隊は逃げ出したのかもしれなかった。それに、ビーラム島の航空基地が大きな損傷を受けては、ビーラム島空軍との連携攻撃を基本とした中将の基本戦略が崩れてしまう。

 スチュアート中将は決断し、八十機の戦闘機をビーラム島へ派遣した。だが、ランズウッド本土航空隊から、ブラーニア母艦戦闘機が現れたとの報が入ると、ボルガン提督はにやっと笑った。

「さあ、諸君。これからだ。」

 大きな声でそう言うと、ボルガン提督は、全速力でブラーニア艦隊の方向に向けて母艦を走らせた。しばらく経って、探敵機から、敵艦隊発見の報が入ってきた。ボルガン提督があらかじめ予測した位置からさほど遠からぬ位置に敵空母はいた。ボルガン提督は時間を冷静に計算していた。ランズウッド本土航空隊のビーラム島攻撃が終わり、ブラーニアの艦上戦闘機が母艦に帰り、その戦闘機を収容して、爆撃機を甲板に並べる時間はいつか。その時間こそ、ボルガン艦隊の攻撃機が敵空母に襲い掛かるべき時間だった。

 そのために発艦すべきはいつか。その時間に、ボルガンは叫んだ。

「攻撃機発進。」

 四隻の空母から百五十二機の攻撃機が発艦した。戦闘機二十六機、爆撃機八十五機、雷撃機四十一機だった。

 一方のスチュアート艦隊も、ビーラム島に派遣した戦闘機が母艦にたどり着く頃、ついに、敵空母艦隊発見の報を得た。

「よし、いよいよだ。」

 そう語ると、スチュアート中将は、戦闘機を回収し、甲板に攻撃機を並べた。だが、攻撃機がまだ一割も発艦していない時、雲の合間から突如ランズウッド攻撃隊が襲いかかってきた。

「敵機来襲!」

と叫ぶ声がスピーカーからけたたましく発せられた。

 九時二十分、ランズウッドの水平爆撃機から第一弾が投じられた。スチュアート中将の乗る旗艦の周りには爆弾投下による大きな水しぶきが次々に上がった。

 スチュアート中将は口をへの字に結び、腕組みをしたままだった。横で回避運動の舵を取る艦長を見ようともせず、艦橋からまっすぐに前を睨んだままだった。もはや勝負は決してしまっているのかもしれなかった。

 水平爆撃機からの攻撃は成功しなかったが、急降下爆撃機が攻撃を開始すると、爆弾が空母の甲板に次々に命中した。命中した爆弾は空母の甲板に並んだ攻撃機の爆弾の爆発を誘発し、一気に火災が広がった。あっというまのできごとだった。

 六隻の空母すべてが大きな被害を受け、速度が落ちた。そこへ、雷撃機が魚雷を命中させ、この攻撃で四隻の空母が撃沈された。一方、ブラーニア空母からかろうじて発艦した航空隊はランズウッド艦隊に迫ったが、一隻の空母を撃沈しただけに終わった。そして、ランズウッド空軍の第二次攻撃隊により、残りの二隻のブラーニア空母も撃沈され、スチュアート中将は艦と運命を共にしたのだった。

 

2015621日掲載 / 最新改訂202064日)

 

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向殿充浩 / 神話『ブルーポールズ』第5巻