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神話『ブルーポールズ』

【第5巻】-

 

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 次の日、ナユタは大学に行くと、マティアスに昨夜のことを話したが、マティアスはその話に乗ってこなかった。

「あまり、そんな奴らに関わらないことだ。ブラーニアはひどい国になったが、この国だって暗部は山のようにある。人種差別も厳然とあるしな。おれやゲーベルにしても異人種ということで向こうでほどあからさまな敵視はされていないけど、街中ではうさん臭くみられているし、アシュグザに対する偏見や蔑視だって根強いじゃないか。これがこの世界だよ。」

 マティアスの言葉にはうなずかざるを得なかった。

「まあ、そうだな。」

とナユタが言うと、マティアスは別のことを話し始めた。

「ところで話があるんだ。この国の西の方に異なる文化圏があるのを知っているだろう。」

 唐突な言葉に戸惑いつつも、ナユタは答えた。

「ああ、トゥルナンのことか。図書館の本や新聞で読んだことがある。大ランズウッド博物館にもトゥルナン展示室があったな。非常に興味あるよ。」

「だったら、ナユタ。そこに行ってみないか。どんな暮らしをし、どんな考えや思想で生きているのか興味があるし、彼らの音楽にも興味があるんだ。トゥルナンには、この国とも、我々の文明とも違う何かがある。アシュグザもそうだと思うけど、別の世界観に立脚した文化と音楽。それに直に触れてみたいんだ。」

 それはおもしろいかもしれないと思ったナユタが同意すると、マティアスはさらに言った。

「実はクララも一緒に行きたいと言っているんだ。」

 クララの名前が出てきたのにはびっくりしたが、マティアスはグスタフが呼んでくれたパーティで新進ピアニストのクララと知り合って以来、交際が進展しているようだった。

「おれと彼女だけじゃあまりにも不安だし。」

とマティアスは言ったが、たしかに、まだ結婚も婚約もしていない男女二人だけで行くのにはクララも同意しないだろう。

 ともかく、この提案は興味深かった。トゥルナンは神秘的な印象を与える地方であり、伝説のヴェールに包み隠されていると言っても良かった。そんな未知の行くこと自身が途方もなく楽しみなことでもあった。

 その後、二人は、ゲーベルとフェドラーにも声をかけたが、二人は乗ってこなかった。ゲーベルは十二音技法の理論に関する本の執筆に追われていたし、フェドラーはまったくこの話に興味を示さなかった。フェドラーは子供も生まれ、妻との家庭生活が大事だったのは理解できるところだった。

 結局、ランズウッドの西方にあるトゥルナンに行くのは、マティアス、クララ、ナユタの三人だけとなったが、三人は着々と準備を進めた。マティアスはトゥルナンの民族音楽の研究と蒐集のためという名目で大学とランズウッド音楽協会から一定の資金を得、マティアスとナユタはそれを理由に大学に長期休暇の願いを出した。

 一方、シュテファンとジョゼフはそれぞれこの話にたいへん興味を示し、羨ましがった。シュテファンは言った。

「そんな別な世界を見に行く機会というのはそんなにあるものじゃない。羨ましい限りだ。私も心臓の持病さえなければ、一緒について行きたいくらいだ。トゥルナンのような高地に行くと言ったら、まちがいなく医者から命の保証はしませんよと止められるだろうどね。」

 ジョゼフは異文明という観点から語ってくれた。

「私の研究ではこの世界には二十一の文明があります。そのうちのいくつかは既に死滅しており、一方、今ある文明の中で、もっとも優勢にあるのは我々の文明です。これに対して、トゥルナンはこれまで我々の文明とほとんど接触を持ってこなかった別の起源をもつ文明です。その文明自身も興味深いし、我々との文明との遭遇がまさに現代において始まっていることを考えると、その遭遇が何をもたらすかも非常に興味深い。ぜひ自分の目で見てきていただければと思いますよ。」

 

 初夏のある日、三人は鉄道に乗って西に向かった。ニュークルツを出るのは、この国に来て初めてのことだった。沿線には広大な農地が広がり、延々と地平線が続いた。その後、列車は荒れた荒野のまっただ中を走った。線路の両側には、まるで記念碑が並んでいるように見える赤い岩山が点在していた。ガイドブックによると、太古の地層が風化や浸食によって独特の形になったもので、赤く見えるのはその地層にもともと鉄分が大量に含まれていて、それが酸化したためということだった。

 そんな中を走って終着駅で汽車を降りると、若い係官が出迎えに来ていた。

「ようこそ。マティアス先生。お待ちしておりました。役場の保安課のテカムセと言います。」

 係官は笑顔でにこやかに挨拶すると、ポーターたちに荷物を運ぶ指示を次々に出し、ポーターたちが働き始めると、マティアスらを駅の外に案内した。

 駅前は汽車の到着に合わせて出迎えに来た人々で多少ざわついていたが、ニュークルツとはまったく異なる田舎で、澄んだ空気がひんやりとして気持ちよかった。

 駅の広場には、立派な羽根飾りを頭に付けた戦士の像が建っていた。ナユタが興味を持って近づくと、テカムセが説明してくれた。

「これは私の曾祖父で、このあたりの部族の酋長でした。名前は私と同じテカムセです。私の父がこのテカムセにちなんで私の名をテカムセにしたんです。」

「彼はどんなことをしたんです?」

「テカムセは部族一の戦士で、かつてランズウッドがこの地方を支配下に組み入れようとしたとき、部族を率いて果敢に戦いを挑んだんです。」

「その戦いの結果は?」

「テカムセは勇敢に戦いましたが、残念ながら、最後は敗れ、戦いで死にました。しかし、その英雄的行為は語り継がれ、こうして像も建てられたのです。彼は高潔な人物で、ただただ自由と独立のために戦った。だから、部族の者たちからだけでなく、ランズウッドの人々からも賞賛させています。」

「なるほど。」

「それで、今でも部族の伝統や文化を守ることに力を注ぎ、それを誇りに思っている人たちもいますが、子孫の私たちにとっては、どちらが良かったか。」

 そう言って、テカムセはちょっと肩をすくめて笑った。

「ランズウッドに屈したおかげで私たちは文明の恩恵にも浴し、安定した生活を手に入れ、私自身もこうして、下っ端ですけどランズウッドの役人として暮らせているわけですし。」

 ちょうどそこへ別の男がやってきた。

「準備できましたぜ。」

 その男は、深いしわをあごひげの中からのぞかせたおやじで、アルベルトという名の案内人だった。アルベルトの案内する方に行くと、荷物は既に馬車に積み終わっていた。

 テカムセが言った。

「アルベルト。よろしく頼むよ。何といっても、ニュークルツから来られた立派な音楽の教授様だからな。」

「ああ、任せてくんな。それにしても女もいると聞いてびっくりしてたが、まさか、こんな若い娘がくるとはな。トゥルナンなんて都会の若い娘が行くようなところじゃねえけどな。」

 だが、クララは明るく笑った。

「でも、よろしくね。アルベルトのだんな。それに、トゥルナンにも半分は女性が住んでいるんでしょう?」

 アルベルトはふっと笑って両肩をすくませた。

「まあな。ただ、おれが言ったことがどういうことかってこたあ、行ってみりゃ、分かるってもんよ。」

 アルベルトの下には、現地の若者が二人付き従っており、簡単に挨拶した。

「テガナウィダです。」

「パドマンサヴァです。」

 二人とも人懐こい笑顔と下僕らしいへりくだった態度であいさつしたが、その名前を覚えることはできなかった。

「こいつらは、ロバで行きますから。」

とアルベルトが付け加えた。

 今回のために最新のカメラを購入したクララは、さっそく熱心に何枚か写真を写していた。駅を出発すると、のどかな田園風景の中をしばらく行き、それから山道に入った。その日は、山道の途中で仮営したが、次の日は峠越えだった。

 標高三千六百メートルの高地にあるトゥルナンに入るには、四千七百メートルの峠を越えねばならない。マティアスとクララは早くも高山病に悩まされ始めていた。峠で休憩のために馬車を降りると、薄い酸素濃度のために足元がふらつき、歩くと十歩ごとに肩で息をして休まねばならないほどだった。

 だが、峠からは八千メートル級の雪をいだいた山脈が神々しいまでに美しく連なっているのが見渡せ、道端には青いケシが咲いていた。

 頭痛に悩まされながらも、マティアスは言った。

「こんな美しい世界は見たことがない。故郷のブラーニアやルンベルグにも美しい山々はあったけど、こんな神々しさに触れたことはない。ここには心を高める何かがあるね。」

 クララもしんどそうではあったが、カメラを取出し、何枚も写真を撮っていた。

 峠から見た光景は不思議な世界に見えた。緑に輝くトゥルナン盆地を草ひとつない褐色の山々が取り囲み、その上には、青い空と白い雲。その雲の影が褐色の山の上をゆっくりと動き、静かな風がただ流れていた。

 峠を越えてトゥルナン盆地に入ると、道の両側にぽつんぽつんと家が見えてきた。そんな民家はみなみすぼらしくて貧しそうだったが、屋根に何本もの白い旗が立てられ、その旗には経典の文句らしきものが木版刷りしてあった。アルベルトによれば、タルチョという名で、タルチョが風にたなびく度に経文を読経したことになるということだった。

 さらに進むと小さな村とゴンパが見えてきた。ゴンパの白い塔は遠目にもはっきりと認められ、青い空の下でなんとも言えない素朴な美しさを感じさせた。

「あそこでちょっと休憩しましょうぜ。」

 アルベルトはそう言って、村で馬車を止めた。村の入り口には小さな祠があり、その中に小さな金色の仏像が収まっていた。仏像には青、赤、黄の布がかけられ、仏像の前では香が焚かれていた。これまで嗅いだことのない香りに、クララは興奮気味だった。

「なんて不思議な香りなんでしょう。私たちの世界にはない香りね。」

 彼女は小さな祠と仏像をカメラに収めていった。アルベルトが軽口を叩いた。

「その香が欲しけりゃ、トゥルナンに着いたらいくらでも買えますよ。土産にたんと買って帰ったらいい。」

 ちょっとすると少し年齢のいった僧侶が出てきて、アルベルトと親しげに挨拶を交わした。着ているものは粗末だったが、朴訥とした雰囲気の中にどことなく僧侶らしい気品が漂っていた。僧侶は住居に戻るとスカーフのような白い布を三つもってきて、ナユタたちの首にそれぞれその白い布を掛けてくれた。

「それはカターって言うんですぜ。」

とアルベルトが説明してくれた。アルベルトによると、大切な友人や知人を迎えるときに心からの敬意を込めて相手の首にカターを掛けるのが習慣なのだという。誕生日や結婚式のときにも相手にカターを掛けるそうで、相手への敬意の徴なのだという。

「歓迎してもらっているということですね。ありがとうございます。」

とナユタが言うと、僧侶は控えめに笑顔を作りながら言った。

「もちろんです。遥か遠くから来られたお客様ですから。」

 そう言うと、僧侶はお茶を勧めてくれ、ヤクのチーズを出してくれたが、お世辞にもおいしいとは言えなかった。それから、ナユタたちはゴンパの中に案内された。薄暗い室内には金色の本尊が安置されており、もうもうと香の煙が立ち込めていた。まるで下界の者たちを見下ろすかのようなまなざし。ある種の近寄りがたさが感じられた。

 再び外に出ると村人が何人も集まってきていた。皆貧しそうで、擦り切れてところどころに穴の開いた埃だらけの衣服に身を包んでいたが、その表情には温かみと親しみが込められており、ナユタたちの心を和らげてくれた。村人たちの中には、マニ車を持っている者もいた。

「マニ車を一回回すとお経を一回唱えるのと同じ功徳を積むことになるんですよ。だから、みんな、手に持って歩きながら回しているんです。」

 そうアルベルトが説明してくれた。さらに、アルベルトが指差す先を見ると、広場の一角に大きなマニ車をいくつも並べて備え付けたところがあり、人々は歩きながら、次々に回していた。

「これも回せば功徳を積むことができるのか?」

 マティアスの問いに、アルベルトがそうだと答えると、マティアスはちょっと皮肉っぽく言った。

「便利なものだね。」

「私たちも回していいのかしら。」

 クララがそう聞くと、アルベルトは

「もちろん。」

と答えた。

 クララはマニ車を回し、さらに、カメラをマティアスに渡して、マニ車の前で僧侶と一緒に写真に納まった。

「この世界に入るのなら、私たちもこれを回さなくちゃいけないんじゃない?」

と言うクララに促されて、ナユタとマティアスもマニ車を回した。

 ゴンパの方に目を向けると、五体投地を始めた二人の信者がいた。ゴンパに手を合わせると地面に体を伏せ、それから少し前の位置で立ち上がって再び手を合わせて祈る。その繰り返しだった。

「不思議な世界。」

 クララはそう呟いて、もってきたカメラで熱心に写真を撮っていた。

 村を出てさらに道を進むと、ブッダの像が岩の表面に刻まれていたり、石に彫られていたりするのが目に入った。また、静かな瞑想の中に佇むブッダの像が道端の蓮華の座に端坐するのも目にすることができた。

 トゥルナンに着くと、三人はその独特の美しさに改めて心を奪われた。太陽の光にきらきらと輝く青い川の向こうに、荘厳な切り立った雪の山脈が続き、丘の上には壮麗な寺院が建っている。

「あの寺院が有名なセラグーン宮だな。」

 そうマティアスが言った。ナユタも図書館の本で見たことがあった。青い空の下、雪の峰を背景にそびえるセラグーン宮は言いようもなく荘厳で美しかった。

 純朴そうな人々が行き交い、ヤクやロバがのんびりと放牧され、いたるところにタルチョがはためく世界。そこは不思議な精神が息づく異界であり、世界それ自身が心を鎮める曼陀羅のごとくであった。

 マティアスが感慨深げに言った。

「ここはとほうもない田舎だけど、ルンベルグの村々とはまったく違う異質のものがある。フェドラーやゲーベルは好きじゃないかもしれないけどな。ここの素朴さは故郷の素朴さと同じじゃない。そこにどんな文化、どんな気分が横たわっているかでまるで違う世界になるんだ。」

「でも、私はこの世界は気に入ったわ。こんな異界といっていい世界に心踊らされるわ。」

 クララがそう答えると、マティアスも笑顔で言った。

「いや、ぼくもだよ。ほんとにわくわくした気持ちになるよ。」

 

 三人は下宿させてくれる約束になっている家を訪ねた。にこにこと朴訥とした笑顔をたたえて出てきた老人は、バハドゥールという名で、頭を低くして三人を迎えてくれた。

 バハドゥールの妻は腰をかがめて、紅茶とお菓子を出してくれた。後で分かったのだが、トゥルナンではお茶はバター茶が一般的であり、紅茶はニュークルツから来る三人を迎えるために、老人が特別に用意したものらしかった。お菓子は地元のお菓子で、バターご飯にヨーグルトを添えたものであったが、これも後で聞いたところでは、重要な客人をもてなす特別な菓子ということであった。ナユタは喜んで食べたが、マティアスとクララの口には合わなかったらしく、彼らは一つまみ食べただけで、紅茶だけを飲んでいた。ただ、この紅茶もヤクのミルクのたっぷり入ったもので、必ずしもおいしいとは言えなかった。

「みなさんのことは手紙を受け取っています。ここに滞在したいとのことですな。それにしても都会からの客はめずらしい。こんな場所にわざわざ来る者はおらんでな。」

 そう語る老人に、ナユタは言った。

「この世界には下界とは異なる風が吹いています。心の中を吹き抜けるこんな風を感じたことはありませんでした。」

「そうかの。ここに吹く風はただの風に過ぎんがの。」

 老人は飄々とそう答えて笑い、三人をそれぞれの部屋に案内した。案内された部屋は老人の邸宅の二階にあったが、殺風景で粗末な部屋だった。

 マティアスが軽口をたたいた。

「たいした部屋だな。ニュークルツの刑務所もこれほどじゃないんじゃないか。でも、電気はちゃんとあるみたいだな。」

 たしかに、電気は来ていたが、部屋の天井には裸電球が一つついているだけで、住んでみて分かったのは、停電が頻発するため、電気がつかない時間の方がはるかに長いということだった。

 夕食の時間に食堂に降りてゆくと、すでに夕食の品がテーブルに並んでおり、バハドゥール老人夫妻と若い娘がひとり待っていた。その娘ははにかみがちに挨拶した。ニェタンという名の孫娘ということだった。両親は少し離れたところで農地を耕しているとのことで、街の学校に通うために、祖父の家に下宿しているということだった。

 夕食は、キュウリや白菜、なすなどの野菜を刻んで塩と香辛料で軽く味付けしたもの、小魚と小エビの入ったスープ、それに豚肉をニンニクと唐辛子で炒めた料理だった。けっしておいしいと言えるものではなかったが、後で分かったのは、ナユタたちを歓迎するための特別のごちそうだったということだった。

 穏やかな表情で料理を勧めてくれる老人二人は朴訥とした風情で無口だったが、ニェタンはくったくのない無垢な少女で、日々を生き生きと生きている様子だった。彼女は首都ニュークルツの大学に行くことを夢見ていると言ったが、マティアスは、戦争が始まりそうなので、しばらくはここにいた方が良いと助言していた。彼女はたいへん残念そうだったが、しかたのないことだった。

 

 次の日、バハドゥール老人は三人を丘の上のセラグーン宮に連れて行ってくれた。寺院に入ると、中は薄暗く、金色に輝く不思議な仏像の列が三人を迎えた。いたる所に曼陀羅があり、しばらく歩いて行くと、不思議な音楽が聞こえてきた。

 シンバルや鈴、太鼓、銅鑼が奏でる独特の音楽が響き、僧侶たちが唱える読経の韻律に共鳴していた。ナユタはその響きに心打たれ、しばし立ち止まってその音楽を聴き続けた。

 寺院の中には、巨大な黄金色の本尊が祀られ、さらには、たくさんの曼陀羅や仏像があった。偉大な交合を遂げる憤怒神の像もあった。

 その後、宮殿内の政庁舎で三人は、ランズウッドから派遣されている官吏と会い、必要な手続きを行った。

 官吏は言った。

「一年ちょっとの滞在ですな。まあ、ここは何かと不便だが、それは我慢してもらうしかありません。こんな荒涼とした地を支配することが我が国の利になっているのかどうか分かりませんが、そのことも住んでみれば分かるでしょう。」

 官吏はさらに宮殿内を案内しつつ、いろんなことを説明してくれた。

 政治的にはトゥルナンはランズウッド連合王国に属していたが、半独立の自治区であり、その首長は法主と呼ばれる宗教上の指導者であった。トゥルナンにはランズウッドの他の地域とは異なる宗教が根付いており、輪廻転生が強く信じられていた。この地では、あらゆるものに宗教が入り込み、宗教の力は非常に強いようだった。大きな三つの寺院をはじめ、大小無数の寺があり、その寺院の頂点に立つのが、セラグーン宮に住む法主であった。

 セラグーン宮は高さ七十メートルほどの岩山の上に築かれた宮殿であり、寺院と自治政府が同居していた。自治政府には、ランズウッドから派遣された調整官、財務官などの役人がいたが、それほどの権限はないようであった。宮殿内には、公式謁見室、会議室、閣僚の執務室、その他の事務室などがあり、さらには、宝庫、武器庫などもあった。また、宮殿の内部にはたくさんの仏像や曼陀羅があり、まるでトゥルナンの不思議な世界に迷い込んだような錯覚に陥るほどだった。そして、この宮殿でとくに有名なのは、中央の広場とそれに続く大伽藍で、その壮大さは他では見ることのできないほどのものであった。

 ナユタたちの相手をしてくれた官吏は最後に説明してくれた。

「前の法主はある意味ランズウッドに盾突き、自治ではなく独立を模索した政略家だったのですが、今の法主はランズウッドの支配とランズウッドから認められた自治区扱いを喜んで受け入れています。その方がよほど賢明ですな。ランズウッドにとってのメリットはよく分かりませんが、トゥルナンにとっては、必要な物資がやって来て飢える心配がなくなり、ランズウッド資本で道路や灌漑用水も整ってゆくのですからな。」

 官吏はさらに付け加えて言った。

「ちなみに、昔は、トゥルナンでは内紛が絶えなかったそうです。前の法主まで、五代に渡って、二十二歳まで生きた法主はいません。みな毒殺されたというのは公然の秘密です。」

「どんな理由で?」

 聞いたのはマティアスだった。

「聡明な法主、やり手の法主では、近臣の者たちがうまい汁が吸えないからですよ。みな、自分の利益のためならなんだってやるということです。ランズウッドが介入して、法主は命の安泰を得、近臣は既得権の維持ができたというとこでしょうかな。」

 そう言って皮肉っぽく笑うと、官吏は、困ったことが起きたらいつでも相談に来るようにと言ってくれた。

 

 こうして、トゥルナンでの三人の新しい生活が始まった。三人は毎日のように出かけて寺院や遺跡を訪ね、由来や伝説、逸話などを聞いた。また、セラグーン宮の官吏の手配で、地元の音楽家を紹介され、彼らとの交流も始まった。

 マティアスとクララは最初、日々の生活になかなか馴染むことができず苦労していたが、ナユタは難なく順応した。

「なんでそんなに苦もなく彼らの生活に同化できるんだい。ぼくには都会の生活が染みついていて、スイッチを押せば電気がつくとか、蛇口をひねれば水が出るとかに慣れていて、ここの生活は慣れるのに一苦労だよ。ツァンパもうまくないしな。」

 そうマティアスが言うと、クララは屈託なく首をすくめた。

「でもここの生活に馴染まなくちゃ。ツァンパはそれなりにいけるわよ。でも、トイレは苦労するわね。こんな暗くて怖いトイレは生まれて初めてだわ。」

「トイレだけじゃないよ。停電も困りもんだし、シャワーもお湯がしょっちゅう水に変わるしな。この前なんか、髪にシャンプーをつけたときにシャワーが水になって、しかも電気が消えて大変だったよ。」

 ツァンパは、麦を乾煎りして粉にしたこの地方の主食で、たしかに、お世辞にもおいしいとは言えなかった。だが、ナユタは笑って言った。

「ぼくは昔、森に住んでいたことがあってね。そのときとなんにも変らない。むしろぼくにとっては、都会の生活こそ驚きの連続だったよ。」

「まあ、ここの生活に慣れるしかないしな。ヤクの肉にもちょっとは慣れたしな。」

 そう言って、マティアスは苦笑した。トゥルナンで肉と言えば、まずヤクの肉で、たいていは油と塩で煮るか炒めるかだった。ヤギや羊の肉も時々出たが、豚肉が出ることはめったになく、牛肉にいたっては、まだお目にかかっていなかった。

 

 一方、ニェタンはクララになつき、まるでお姉さんに接するように慕うようになった。実際、クララが話してくれるニュークルツのことは本当に興味津々だったろう。

 あるとき、ニェタンが寺の修復を手伝っていると言うのをクララが聞いて、マティアスとナユタも一緒に修復の様子を見に行ったことがあった。ニェタンは、仲間たちと歌いながら地面を踏み固めていた。二十人ぐらいの少女が先に平らな板がついた棒を持って並び、歌に合わせてその棒で地面を叩き、足踏みする。別の場所では、やはり少女たちが壁の修復をしていたが、彼女たちも歌いながら作業を行っていた。なんとも朴訥とした光景であった。ナユタはニェタンに誘われて、一緒に並んで地面を踏み固めたが、それを眺めているマティスとクララの様子は仲睦まじい感じで、ナユタには二人の関係を改めて理解することができた。クララは、少女たちと一緒に作業をするナユタを写真に収めてくれた。

 

 マティアスらがトゥルナンでの生活にもどうにか慣れた頃、法主の行幸を見る機会があった。トゥルナンの法主は普段はセラグーン宮に住んでいるのだが、夏の間は平地の離宮に移るのを常としていた。ナユタらが見たのは、そのセラグーン宮から離宮に向かう行幸だった。

 沿道に詰めかけた街の人々と共に待っていると、威厳と壮麗さを兼ね備えた行列がやってきた。駕籠に乗った法主が顔を見せることはなかったが、おつきの者たちの装束や捧げている宝物だけでも目を楽しませてくれる代物だった。クララは目を輝かせて声を上ずらせた。

「こんなの見たこともない。ほんとに、こんな別の世界を目の当たりにできるなんて。」

 街の人々も感嘆と畏敬の念をもって行列を見送り、行列を進む法主様の駕籠に向かって手を合わせる老人も少なくなかった。

 実際、ここトゥルナンでは、セラグーン宮の法主を頂点とする独自の宗教が大きな勢力を誇っていた。トゥルナンには大きな寺院が三つあったが、それぞれが数千人の僧侶を擁していた。

 トゥルナンの朝はこの三つの寺院からの独特の呼び声で始まる。その声は、寺院の屋根に登った僧からのもので、最初は低い声で静かに始まり、次第に大きい声になる。この地の朝にふさわしい荘重さと伸びやかさを兼ね備えた朝の合図だった。

 ナユタら三人は、特別の許可を得て、何度か寺院の行事を見学させてもらった。

 朝の合図からしばらくすると、大講堂に僧たちが集まってくる。高僧が朝の勤行を宣言すると、何百人もの僧が声を合わせる読経が始まる。その様はたいへん荘厳であり、見事でもあった。

 読経が終わると、二十人以上の小僧たちが立ち上がって、一斉にバター茶を配り始める。

 バター茶はこの地方独特のもので、緑茶を圧搾したものを砕いて水の中に入れ、石灰を少量加えて数時間煎じ詰め、その煎じ汁を湯の中に入れて、さらにヤクのバターと塩とを加えるというものだった。

 小僧たちは、上席の者から各自の椀に茶を注いでゆくが、末席の者に茶が行き渡るまで、誰も茶を飲もうとはしない。すべての僧にバター茶が行き渡ると、僧の一人が経文を唱えて仏像に茶を捧げ、それから一同が茶を飲み始める。バター茶の表面にはバターの薄い皮がはっているので、皮を別の側に吹きやって飲む。ただ、バター茶はいくらか飲み残し、各自、携えてきている袋からツァンパを取り出して残りの茶に入れ、団子にして食べるのが習慣のようであった。

 そんな僧たちの修業は相当に厳しいとのことだった。彼らは、毎日のように戸外で問答を繰り返す。教師が出した課題に対して、二人一組になり、立っている一人が問いかけ、座っているもう一方が答える。そして、他の僧たちがその二人を取り囲んで座る。

 立っている僧は、数珠を左手にかけ、問いの言葉を発すると同時に左の足を高く揚げ、上下向い合せて広げた手を大きな声を上げながら打ち、同時に足を地面に打ちつける。聞くところによると、足を踏み下ろす時には地獄の蓋も破れようかという勢いを持ってやらねばならず、また、手は、三千世界の悪魔の胆をこの一声で驚破するほどの勢いで打たねばならないと教えられるそうだった。

 そして、質問者がうまい切込みを入れる問いを発すると、回りの僧たちが手を叩き、また、答え手がうまく返答すると、それにも回りの僧たちが手を叩く。逆に、厳しい質問に答えに窮するようなことがあると、一同がどっと笑う。この問答をするため、僧たちは毎日相当の勉強をしなければならず、落伍して、俗界に戻る者も少ないということだった。

 僧院での生活は、女色はもちろん酒も厳禁であったが、中には街に出て酒を飲む僧もいるらしかった。そのような僧を取り締まるため、寺院の役人が門の前で見張っているのだが、僧の方もニンニクやネギをいっぱい食べてきて、酒の匂いをごまかすらしかった。

 

 秋が近づくと、一面のそばの花が美しく野を白く覆った。実りをつけた麦の畑が陽光の下で黄金色に輝くのも美しかった。

 九月になると大きな祭りがあった。セラグーン宮の広場の中央には巨大な柱が建てられ、その柱から何本もの綱が張られ、その綱には経文の印刷されたさまざまな色の布が付けられていた。

 どんなことが始まるのだろうと待っていると、立派な法衣を纏い、縮緬で飾り立てられた少年たちの行列が現れた。少年たちはみな香を焚いた香炉をもっており、その香の強い香りは周りで見ているナユタたちの所にも漂ってきた。少年たちが広場に控え終わると、僧侶の一団が現れた。僧侶たちは柱の前で厳かな声色で祈祷を上げ、それが終わると華やかな祭りとなった。

 鐃鉢と呼ばれるシンバルのような鳴物が打ち鳴らされ、仮面をかぶった男たちが、トゥルナン特有の弦楽器ダムニャンの響きに合わせて不思議な動きの踊りを踊り、女たちは足拍子をとりながら輪になって手を繋ぎ、高い声で歌を歌った。それから若い少女の一団がやってきた。ニェタンもその踊りに参加しているというので、三人は一生懸命彼女を探した。

「ほら、あそこだ。」

 一番早く彼女を見つけたナユタが二人に向かって叫んだ。

 ニェタンは他の少女たちと同じく美しく着飾り、髪には花をさしており、いつになく美しく化粧し、優雅な舞いを仲間の少女たちとともに踊った。

「なかなか素敵だ。」

とマティアスが言えば、クララは彼女のアップの写真を撮ろうと、望遠レンズを付けてシャッターを押していた。

 

 この祭りでもそうだったが、ここトゥルナンでは音楽が非常に重要であり、その独特の響きはマティアスとナユタを惹きつけた。実際、マティアスとナユタにとっては、音楽の点からもこの滞在はたいへん貴重なものであった。彼らはさまざまな楽器を発見し、そしてこれまで耳にしてこなかった音階を体験したのだった。二人は現地の楽師たちと語り合い、共に演奏し合って交流を深めた。それはまさに心温まるひと時であり、心を満たされる時間でもあった。

 マティアスがここで学んだのは純正調の音階だった。その音階はナユタにとっては慣れ親しんでいたものだったが、平均律から出発したマティアスにはまったく新鮮な響きだった。

「こんな音を探していたんだよ。こんな音を知らなかったわけじゃないが、こんな音階の音がこの地では生きている。ここへ来た目的の一つがこんな音を求めることだったが、まさに期待していたとおりだよ。」

 そう語るマティアスはさらに続けて言った。

「ぼくはブラーニアで平均律に基づく音楽を学び、そこからスタートして、ルンベルグやブラーニアで音楽を作り、奏でてきた。でも、ずっと疑問に思っていたんだ。平均律では音の可能性が制限されているんじゃないかとね。ここに来て、その思いが正しかったことが分かったように思う。たしかに、平均律でよって生み出された偉大な音楽はある。セヴァスチャンもアマデウスもルードヴィヒもほんとうにすばらしい。その音楽は、ぼくたちの文明、ぼくたちの宗教に根ざし、ヒューマニズムや人文主義に基づき、人間の尊厳とか、人間の高貴な精神を歌いあげている。そんな世界観を反映した音楽でもある。でも、それでも、ぼくにはその音楽は限界を持っているように思えてね。」

「それはそれらの音楽が彼らの世界観に基づいた音楽、彼らの価値観に囚われた音楽だという意味か?」

 ナユタがそう聞くと、マティアスはうなずいて言った。

「ああ、そうだ。グスタフはそれを破り開こうとしているが、まだ十分じゃない。ただ、その破り開いた先に何があるのか、どんな音楽が生まれうるのか。でも、その答えの一つをこのトゥルナンの地で見つけたような気がするよ。人間が主役じゃない世界観、そして平均律じゃない音律。そこには途方もない可能性が秘められているよ。」

 この言葉にはナユタも同感だった。

 そんな音楽をこの地で学び、探求し続けるマティアスらのことを伝え聞いたある寺の長老は、一つの提案をしてくれた。

「一度、三人の演奏を聞かせてくれないか?」

 三人は快く引き受け、ある日、その寺院の境内で演奏会が行われることになった。

 その日、寺院の境内は、その寺の僧侶だけでなく、街の者や他の寺院から来た僧侶で埋め尽くされた。マティアスが太鼓を叩き、ナユタは弦が二本の原始的な楽器を奏で、クララは木琴のような楽器を演奏した。彼らが奏した音階はトゥルナンで学んだ音階であり、僧たちになじみのものだったが、同時に新鮮な響きがちりばめられた即興演奏であった。まさに、マティアスが語った「新しい可能性を秘めた響き」がそこにあった。それは平均律の音楽とはまったく異なり、そして、ここトゥルナンの伝統音楽とも異なる新しい音楽とも言えた。

 

 十月の祭りのときには、セラグーン宮の広場で、三大寺院の僧侶たちへの講義が行われた。そして、その後、学僧たちが議論を戦わせる大討論会が催された。その熱気はたいへんなもので、激しい論戦がいたる所で繰り広げられた。

 学僧たちにとっては、日ごろの勉学や問答の成果を見せる年に一度の機会であり、その意気込みは並ではなかった。しかも、他の寺の学僧との問答となるので、ある面では寺の名誉も担っていることになり、責任は重大であった。優れた問答を行った者には惜しみない賞賛が送られるが、うまく論戦を戦わせることができなかった者は、相当に落ち込むことになるとバハドゥール老人は言っていた。

 この祭りのときには、一般の人々も寺の境内に自由に入ることができるので、人々は右手にマニ車をもち、それぞれお堂で礼拝しながら、巡回していた。世間話をしながら巡回する者も多いが、五体投地で進む敬虔な信者も少なくなかった。

 トゥルナンの人々は肌は黄色く、髪は黒い。かつては荒々しい気風であったらしいが、仏の教えが伝えられた以降は柔和なものに変わったということであった。もちろん、排他的な気風も少なからず残っており、不審な他民族の者が入ってくることを極端に嫌う気風も残っているようだったが、穏やかな人が非常に多いのは確かだった。

 バハドゥール老人もそんな一人であり、彼はいつも穏やかで何の執着ももつことなく日々を過ごしているように見えた。

「いったい、彼は何が望みなのだろう。いったい何を求めて生きているのだろう、と思うことがよくあるよ。」

 マティアスはしばしばそう言ったが、まさにその通りの人物だった。

 無口で飄々としており、怒ったり、妬んだり、羨んだりという言葉が彼の口から発せられるのをナユタも聞いたことがなかった。

 この老人は、僧侶でもなく、寺で修行したことも教えを受けたこともなく、高邁な思想も高貴な精神も持ち合わせているわけではなかったが、何ものにも執着を持たず、淡々と生きているという点では、輪廻から離脱した存在のようにも見え、その生き方そのものは、いかなる僧侶よりも悟りに近いかもしれなかった。

 このように敬意を表するに値する人も少なくなかったが、すべてがそうでないというのは、どこの世界でも共通のことであった。

 この頃話題になったのは、神通力を持ち合わせ、人の心を読み、病を治し、未来を読み解くとたいそうな評判になっていたある寺の高僧が、実は、金をたくさん集めて蓄え、隠者という姿を借りて金儲けにいそしんでいたに過ぎない似非坊主であることが暴露されたという話だった。

 また、トゥルナンから離れたマタヴァイという村では、村の五十人ばかりいる尼僧のうち、男を持たないのは一人だけであり、男の僧の中には、尼僧も含めて複数の女をもっている者もいるという話だった。

 さらに、ここトゥルナンでは多夫一妻がけっこうあるということも聞いた。バハドゥール夫妻は一夫一妻とのことだったが、ニェタンを生んだ母親は、ある三人兄弟と結婚したのだということだった。だから、ニェタンの本当の父親が誰なのかは分からないわけであったが、父と呼ばれているのは長男で、他の二人は叔父と呼ばれているということであった。

 ニェタンの両親も一つの典型例であったが、別な例としては、他人同士が相談して一人の妻をもらうとか、最初一夫一妻だったものが家庭内での妻の権力が強くなって、夫の了解の元、別の男を引っ張ってくるということもあるそうだった。また、妻が亡くなった時に、その夫と子供とが一人の女をもらってくるということもあるらしかった。一方、厳として卑しい行為とされているのがいとこ同士の結婚で、世間的に激しく糾弾されるのみならず、法的にも厳しく処罰されるということだった。

 そういった意味では性に関しては非常に混濁とした世界が展開しているという印象だったが、一方、政治の世界も混濁しているようだった。

 実際、政庁舎の中枢ではさまざまな駆け引きや陰謀などが渦巻いているようだった。マティアスが知り合った医者は法主の侍従医と親しく、政府内のこともいろいろと教えてくれた。

「忠臣なんていやしませんよ。」

 その医者は吐き捨てるようにそう言ったものだった。

「みな、自分のことしか考えていない。不忠だが奸智に長けた者たちがうまく立ち回っているのが政の世界ですよ。表面では法主に対しへりくだった態度でいかにも忠義を尽くしているかのように振る舞い、裏では、己の利になるようにさまざまな徒党を組み、策謀に加担している。他の者を陥れるために、法主にあることないことを吹き込むのも彼らの知恵の一つですからな。」

 その医者は数年前に起こった事件のことを教えてくれた。土木工事を管轄していたある大臣が罷免されたのだが、それは、ある地域での土木工事の影響で、蕎麦の実の収穫が減少したことに関して誹謗されたのが原因ということだった。その大臣は郊外に蕎麦畑を持っていたのだが、蕎麦の収穫が減少すれば蕎麦の価格が上がり自分の収入が増えるのでその土木工事を押し進めたのだという非難だった。その土木工事は担当する役人たちが計画し、公平に見ても問題のない判断だったが、結果として自分の利益につながったことが政敵から付け込まれることになったのだとその医師は解説してくれた。

 これらの現実を聞き及ぶにつけ、ナユタが一つ疑問に思ったのが、なぜかくも多くの僧侶が厳しい修行に明け暮れているのかということだった。だが、この疑問に対して、その医者はあっさりとこう答えた。

「衆生済度のために仏の道の修業に努めておる者は千人に一人いますかどうか。ほとんどの者にとって、世を救うとか、人を救うということはどうでもいいのですよ。」

「では修行の真の目的は?」

 そう聞き返すナユタに、その医者は何も知らないのかというような顔つきできっぱり言った。

「名声と富。この二つですよ。この二つ以外にはありません。学問を利用して名を上げ、それによって富を得ること、それが目標です。そもそもここでは、僧侶や学者は富で評価されます。学識や徳がいくらあっても、財産のないものは評価されない。逆に、智徳もなく無学だが、万金をもっている僧侶が賞賛を得る。だから、僧侶たちは金を蓄えることに奔走しているのです。」

「しかし、僧侶たちはどうやって金を儲けるのですか?」

「商売をやったり、農業をやったり、工芸をやったり、牧畜をやったり、さまざまです。また、俗家にお経を読みに行って布施金をせっせとため込むのも普通のことです。実際、私はこれまで、清貧でかまわぬから衆生の苦しみを救おう、社会に利することをしようという僧侶には出会ったことがありません。」

 まったく明快な答えだった。

 

 一方、そんなトゥルナンの世界に浸っていても、ナユタたちは週に一回届く新聞で世界の動きを知ることができた。三人がトゥルナンにやってきて四か月が過ぎた頃、ブラーニアがルンベルグを完全併合したことが新聞に載っていた。

 ルンベルグのレーガー首相は、併合の是非を問う国民投票を実施しようとしたが、国境沿いにブラーニアの大軍団が配置されるに及んで断念するほかなかったということだった。レーガーがラジオに向かって行った悲痛な演説が新聞に載っていた。

「ブラーニアは昨日、回答期限付きの最後通牒を突き付け、ブラーニア政府の指定する人物をルンベルグ首相に任命するよう要請しました。そうしないなら、即座に、ブラーニア軍が国境を越えて進軍するのです。私は、国民投票を呼びかけ、国民投票を実施すれば併合反対派が勝利すると確信しています。しかし、ブラーニアの大軍が国境に配備された現実に直面し、もはや首相の職を辞するほか道がなかったことをお伝えせねばなりません。残念ながら、我々は力に屈したのです。ルンベルグに神のご加護を!」

 この事態に、戦争を望まないビシュダールとコヒツラントは、手出しすることができなかった。ランズウッドのシュタイン首相は激怒したが、どうすることもできなかった。

 そもそもシュタイン首相はつい数か月前に行われた総選挙でこう宣言したばかりだった。

「私はこの国の若者を、みなさんの家族を、大陸での戦いには派遣しない。わが党が政権にある限り、決してそんなことは起こらない。それを私は約束する。」

 今回の事態に、シュタイン首相の政府は、怒りを込めた声明を発表しただけだった。

「今回の事案は結局、ブラーニアとルンベルグの二国間の問題であり、我々にできることは限られていると言わざるを得ない。ルンベルグのためにできる限り平和的努力をしたが、それには限界があったことを認識せざるを得ない。だが、この暴挙は決して許容されるべきものではないし、世界は絶対にこのことを認めもしない。我々は、今後もあらゆる平和的手段を用いて、世界平和のために努力する強い意志をもっている。」

 この最後の言葉は、これまでにない強い決意の表明であったが、結局、それはいわば、外野席からのヤジに過ぎなかった。それに実際のところ、ランズウッド軍の兵力は大規模な戦争を遂行するにはあまりにも小規模であり、武力を行使するということは実際問題としても土台無理な話だった。また、先の選挙公約からしても国全体を介入賛成でまとめるなど途方もないことでしかなかった。

 次の日、レーガーの後任となった新首相は、ブラーニアによるルンベルグ併合の署名にサインし、ブラーニア軍のルンベルグ進駐を要請した。新聞によれば、パークスは旧バームサーラ帝国の宮殿のバルコニーに立ち、誇らしげに演説したということだった。バルコニーで演説するパークスと宮殿の広場を埋め尽くす人々を写した写真から、いかにブラーニア軍の進駐がブラーニア系住民から熱狂を持って歓迎されたかも伝わってきた。

 パークスは演説で、

「私は宣言する。二つに分かれていた帝国は今日一つになった。大ブラーニアは再び偉大な国となるのだ。」

と宣言し、大ブラーニアの復活を高らかに謳い上げたということだった。

 この演説の内容を読んで、マティアスはため息をついて言った。

「ぼくたちは破滅の世紀に生を受けた。以前フェドラーの言ったとおり、ぼくたちはつまらない世界に住んでいるな。」

 そう言うと、彼はナユタを誘って、いくつかの楽器をもって河原に出かけた。西に傾きかけた太陽の下で世界は輝いて見えたが、マティアスはぽつりと言った。

「ぼくらはこの地上に置き去りにされただけの存在。点のごときものだな。」

 マティアスは太鼓を打ち鳴らし、ナユタもそれに応じた。それは世界に対する挽歌、人間の一切の愚かさに対する挽歌のごときであった。

 だが、その後の新聞を読むと、ランズウッドの空気は明らかに変わってきているようだった。シュタインに批判的な好戦派のブルックは

「我々は戦わずして敗れた。」

と議会で演説し、厳しくシュタインの政府を批判したし、新聞の論調も、大陸への不干渉という基本スタンスからブラーニアの横暴を厳しく非難する論調に変わってきたようだった。

 また、シュタインの政策も少しずつ変わってきていた。次年度予算の概算要求では、軍事費が突出して高い伸びを示していた。

 シュタインの演説でも大陸の諸問題への言及が増え、世界平和に対する脅威に立ち向かうという言葉もたびたび盛り込まれるようになった。

 おそらく、シュタインはブエナにおいてパークスとの間で真に心が通じ合い、世界を際限のない恐怖から救ったと信じていたのだろう。だが、それはすべて毀損されてしまったのだ。大陸から決定的に距離を置き、敵対者との融和によって自国と世界の平和と繁栄を守るというのは幻想だったと気づかされのはまちがいなかった。新聞の下欄に小さく載っている首相日程の欄を見ると、ビシュダールやコヒツラントの関係者との面談が増えているように思えた。

 実際、新聞の記事にはしばしば新しい新鋭戦闘機の生産や配備のことが載り、軍需品の生産も急ピッチで進んでいるようだったが、ブラーニアははるかにそれを上回る規模で武器や軍需品生産を進めているかもしれななかった

 ある政府高官はこう発言したということだった。

「この程度で十分かどうか。」

 

 それからしばらく経って、トゥルナンの早い冬が訪れた。十一月には初雪が降り、十二月には完全な雪世界となった。

 雪が降ると、木々が真っ白に雪化粧し、美しい光景が広がった。それは幻想的な光景だった。褐色の家々に白い雪が降り積もり、向こうの山に日が差し込んで黄金色に輝き、厚い雲からかすかにのぞく空の青さが遠いはるけさを心の中に呼び覚ました。

 そんなある日、ナユタは、凍てついた道の上を寒そうに肩をすぼめて歩く街の人々をやり過ごし、ひとり河原に出て木々に降り積もる雪を眺め、その静けさを眺め、そして、荘厳な寺院と荘重な山々を眺めた。心を鎮められる世界だった。

 絶えることのない水の流れが、宇宙の涯てから出てきて以来のすべての歩みを思い出させてくれた。ナユタはその水の流れを凝視し、ただただ心を澄ませた。

 その後もナユタはしばしばひとりで、雪の上を歩き、原野の中で瞑想を行った。晴れた日にはせせらぎが青く輝き、真っ白な雪の原野に光の粒が降り注ぎ、山々が荘厳にそびえた。そして、雪の吹きすさぶ日にはすべてがゴーゴーという風雪に包み込まれた。すべてがナユタの心に適っていた。

 

 大晦日が近づくと街はにぎやかだった。宮殿でも寺でも万灯籠が掲げられ、宮殿や寺院の屋上からは美しい音楽が奏でられた。一般の民家の屋根にも灯明が掲げられ、夜空に映える灯明の美しさにマティアスもクララも感嘆した。

 大晦日の夜、三人は、バハドゥール夫妻と孫娘のニェタンと一緒に、三大寺院の一つに詣でた。いつもは閉ざされている大門がこの日は一般の者たちのために開放される。中庭には小さな雪灯籠が並べられ、幻想的な光景が広がっていた。先に進むと、大きな建物の中に、黄金色の仏像が現れた。その仏像は黄、赤、緑、紫などの鮮やかな布で飾り立てられ、その前で多くの信者が祈りを捧げていた。

 寺院を出て、繁華街の方に足を運ぶと、いつもは人気のない通りにまでたくさんの出店が並び、多くの人が行き交っていた。どの顔も幸せそうだった。

 六人は一旦家に帰ったが、しばらく休んだのち、マティアスとナユタは、クララとニェタンを連れて家を出た。マティアスの提案で、初日の出を見に行くためだった。家から約二時間歩き、空が少し明るくなってくる頃、四人は小高い丘に着いた。そこからは、美しい雪の山並みがくっきりと見渡せ、静寂の中で沈黙する山の荘厳さにナユタは心を打たれた。しばらくすると、西の山の頂上付近が赤く染まり始め、それは気高い咆哮を感じさせた。

 ニェタンも山から初日の出を見たのは初めてで、その美しさに心奪われていた。

 マティアスは語った。

「世界にはこんな美しいもの、こんな気高いものがある。殺伐とし、欲望が渦巻く世界に、その同じ世界の中にこんな世界がある、それこそが世界の不思議だよ。」

 実際、その通りだった。年が明けてしばらく経ってからの新聞に、併合されたルンベルグのことが載っていた。記事に拠れば、暴力と異人種差別が吹き荒れているようだった。

 異人種の者たちは公職から追放され、美術館、博物館、映画館、劇場に行くことが禁止され、図書館の利用も禁止された。大学教授は素手で街路を磨かなければならず、子供たちは、「パークス万歳」と声を揃えて叫ばねばならなかった。

 何かの嫌疑、反逆とか陰謀とかの嫌疑を掛けられた者の家には、捜査令状もなしに荒々しい捜査が踏み込み、家中を引っかき回し、抵抗したり抗議する者には容赦なく鉄拳を食らわせるということも載っていた。さらに、異人種の者が公の場のベンチに座ることを禁止するという鬼畜のような命令まで出されたということだった。

 そんなときに、マティアスに届いたのが、ルンベルグに残してきた母親が亡くなったという知らせだった。マティアスはちょっと肩を落としたが、力ない笑いを見せてつぶやくように言った。

「そんなに悲しんでいるわけじゃないんだ。これで良かったと思ってる。」

 ナユタがそうかというようにうなずくとマティアスは続けた。

「母はあまり健康じゃなかったけど、近くの公園をゆっくり散歩して、ベンチでゆっくりするのが好きだった。だけど、ベンチに座ることはブラーニアの法律で禁じられたというし、ぼくたちの人種に襲いかかっている恐ろしい野蛮さを母があまり経験せずに済んだだけで幸せだったと思うよ。」

 まさに旧大陸では、精神的拷問が社会を覆い、人々は非人間性に慣れ、良心は沈黙してしまっているということだった。

 

 だが、ナユタたちはそこからはるか遠いところにいた。トゥルナンはほんとうに遠いところだった。二月になると雪祭りが行われた。街全体がすっぽりと雪に覆い尽くされ、寺院の回りには雪でできた灯篭が立てられ、その一つ一つにロウソクが灯された。雪の灯篭は街の者たちや若い僧侶がそれぞれ自分たちの灯篭を一つずつ作るということだった。ニェタンも仲間の少女たちと一緒に雪灯篭を一つ作ったということだった。

 日が暮れて雪灯篭に燈明が点じられると、雪灯籠が並ぶ様がなんとも幻想的で美しかった。マティアスとナユタは、クララ、ニェタンと一緒に街に出かけたが、そこでは屋台が並び、酒が振る舞われた。街中でたまたまニェタンの友人たちに出会い、クララがみんなに髪飾りを一つずつ買ってやると、彼女たちはたいそう喜び、髪飾りをつけてはしゃいでいた。

 祭りが終わると、吹雪の日が続いたが、しばらく経って空が晴れ渡ったある日、ニェタンが白鳥を見に行きませんかと誘うので、ナユタたちは四人で出かけた。もう午後の遅い時間だったが、街の郊外の川のほとりに行くと、向こうに続く山が真っ白に輝き、白鳥が何羽か悠々と空を舞っていた。川の両側の平原には真っ白な雪が降り積もり、褐色の木々が光り輝いていた。雪原の向こうの川の中ほどの浅瀬に白鳥たちがたむろしており、雪の降り積もった中洲の上にうずくまっている白鳥もいた。四十羽くらいいただろうか。

 ニェタンが、

「毎年ここに来るんです。」

と教えてくれた。

 ナユタは美しい青空の下で光を浴びながら、白鳥の群れを眺め続けた。ときどき一羽二羽の白鳥が首を伸ばしたり、羽を広げたり、水の上にゆっくり泳い出したりした。

 マティアスとクララが登山用具を用いてお茶を沸かしてくれ、四人は美しい山並みを眺めながらバハドゥールが持たせてくれたツァンパを食べた。川の音だけが心地よく響き続けた。時間の流れが止まったかのような静かな世界だった。

 クララがニェタンに

「白鳥の近くまで行ってみようよ。」

と言って、二人がそばを離れると、マティアスは、

「なあ、ナユタ。」

と語り出した。

「人間尊重、人間愛、人類同胞の自己敬愛、人文主義、ヒューマニズム。そういうことについてゲーベルが言ってたことを覚えているかい。ゲーベルはこう言ったよな。音楽も文学もみなその方向を向いている。それ以外のものがあるとすれば、神だけだ。神を崇めるか、人を崇めるか、それだけのことだとな。」

「覚えているよ。そうだったな。」

「ああ、そして、彼はいつもこうも言ってた。『宇宙における真実、真理、真音は何なのか?でも、誰もそれに注意を払おうともしない。みな、神か人に捉われている。そして世に流布する人文主義の流れの中で、世界の真の姿は見失われている。音楽も文学も真理を写していない。』とね。だからこそ、ゲーベルは新しい音を探求していたんだ。ぼくはただ新しい音楽を模索しただけだったけどな。でも、このトゥルナンに来て、ようやく彼の言ったことが分かりかけてきたよ。これまでの音楽は、音楽が自ら進行し、展開するのに任せるのではなく、目的に向かって語られる構造物、物語だった。だけど、なぜ、あるがままの音、自然に生み出されるままの音ではいけないのか。」

 ナユタも同感だった。ナユタはかつてのパキゼーやバルマン師、エシューナ仙人の音を思い出した。まさに彼らの音こそ、神から離れ、人から離れ、ただ宇宙そのものが鳴り響く音楽ではなかったか。

 ナユタはうなずきながら言った。

「まったくその通りだ。ぼくもここに来て良かったよ。」

 すると、マティアスがぽつんと言った。

「ぼくは神は信じない。」

 ナユタが驚く風もなく黙っていると、マティアスは続けた。

「この世界の混乱、数えきれないほどの不幸、それこそが神が造った世界そのものの姿であり、神はそれを防ぐことをしないか、防ぐ力がないか、どちらかだとしかぼくには思えない。本当に神がいて、絶対的な力と善意を持っているのなら、なんで洪水、干ばつ、噴火、地震、津波なんてものが人間を襲うんだ。神に力があるなら、そうならないようにすればいいじゃないか。戦争だって、人間同士のことだけど、戦争なんてしないように人間を創ればよかったじゃないか。」

 ナユタは耳が痛かったが、マティアスの言う通りだった。

「そうかもしれんな。ただ、敬虔な人々は、神への帰依を怠り、神の教えに従わないことがこの世界の問題の根源だと主張しているがね。」

 そうナユタが言うと、マティアスは吐き捨てるように言った。

「ばかな思想だよ。神は無慈悲か、無力か、それともそもそもいないか、それだけだ。いずれにしても、敬われるべき何ものも持っていないと思えるがね。だから、結局、ほんとうは、人々が己の心の不安から神を創造したに過ぎない。できることなら、人間が造った神というものがいない世界で生きたいね。」

 ナユタが小さくうなずくとマティアスはつぶやくように言った。

「この世界の真の姿を見るなら、ぼくたちは神と結びついているわけではないし、絶対者や唯一者と結びついているわけでもない。この世界の何らかの根源的な真理に結びついているのでもない。ぼくたちは、世界の根源から遊離した存在として、単に偶然、ここに、そして、この時間に存在しているに過ぎない。そして、幻影と虚構によって構築された世界の内であがいているに過ぎない。でも、そんな世界の秘密はめったに語られることはないがね。」

 そう言うと、マティアスは持っていた頭陀袋から一冊の本を取り出した。

「これはフリードリッヒの『ザラスシュトラの言葉』だ。ここに来てずっと読んでいるんだが、ここに書かれていることこそ真理だよ。」

 この書はナユタも知っていた。フリードリッヒはブラーニアの著名な哲学者で、古代の教祖ザラスシュトラの名を借りてその思想を書いた『ザラスシュトラの言葉』はその代表作として知られていた。

 マティアスは続けた。

「フリードリッヒはこう書いている。世界は苦しみと悩みに苛まれている神の創造物に過ぎない。その世界に住まう者たちは己の苦悩から目をそらし、自分の根源を忘れるか、歓楽的な陶酔の中で生きている。それがこの世界の真の姿だ。その妄想がこの世界を維持させている、とね。」

 それは、マティアスの偽らざる心境と一致するものであったのだろう。ただパキゼーのみが、かつてその真理を見抜き、悟り、そして、そこから踏破する一つの道を指し示したのだ。

 夕暮れが近づいてきて、クララとニェタンが戻ってくると、どこからかから次々に白鳥の群れが飛来してきては、水辺に降りた。昼間は餌を探しに別の場所に行っていた白鳥たちが夕暮れとともに戻って来ているようだった。夕暮れの空の遠くに、白鳥たちが小さく見え始めると、やがてそれはすぐに近づいてくる。一羽だけで飛んでくることはまずなく、最低でも二羽、たいていは数羽、多いときには十数羽だった。一列に並んで飛ぶか、V字隊形で飛んでくる。その様は優美なことこの上なく、何度見ても見飽きなかった。そして、水辺に来ると、大きく旋回して、次々に着水するのだった。

 

 この水辺でマティアスは神と世界について語ったが、それはトゥルナンに来て以来、特にマティアスの心を支配している事柄のようだった。マティアスは、トゥルナンに来て以来、ここの宗教も熱心に研究していて、その影響も大きいようだった。実際、マティアスはしばしばトゥルナンのいろいろな寺院に出かけては僧侶たちからさまざまな教えを請うていた。

 あるとき、マティアスはナユタとクララに対して、世界についてこんなことを説明してくれた。

「世界の構造がどのようになっているか考えたことがあるかい。昨日、ダムサン寺の僧侶から驚異的な世界の構造を聞いたよ。彼らの神話によれば、世界はそれぞれが長大な時間からなる4つのユガが繰り返す世界だそうだ。」

 その世界はナユタがよく知っている世界ではあったが、彼は黙ってマティアスの話を聞いた。

「ユガって、ここに来て何回か耳にしたわ。そのユガってどんな世界なの?」

 そう問いかけるクララに、マティアスが答えて言った。

「最初にあるのは、クリタ・ユガで、完全無欠の世界だそうだ。ダルマ神は四本脚で歩き、すべては整っていて、明るく輝く太陽の光が豊穣の大地をもたらす。人間たちは、正義と真義に基づき、誠実かつ謙虚に生きている。白い唯一神が崇拝され、愛と徳が行動の基準となっている。このようなクリタ・ユガが百七十二万八千年続くそうだが、完全な世界は永遠には続かない。次のトレーター・ユガでは不完全なものが現れてくる。ダルマは三本脚になり、人間たちの心には利己心が生じ、利をめぐる人間同士の駆け引きや喧嘩が始まる。人々は義務に従って生き、神は赤色になる。でも、トレーター・ユガでは、バラモンは悪人よりも多い。このトレーター・ユガは百二十九万六千年続く。その次がドゥヴァーパラ・ユガだ。神は黄色になり、ダルマは二本脚となり、正義と悪、徳と欲望が拮抗し、あらゆる場所で争いが生じる。だが、半分の人はまだ正道を歩いている。このドゥヴァーパラ・ユガの長さは八十六万四千年。そして、最後のカリ・ユガは堕落した世界だ。神の色は黒くなり、ダルマはもはや一本脚となる。人々は邪悪で浅はかで、乞食のようであり、不幸が蔓延する。妬みと諍いが世界に蔓延し、憎しみが次々に争いを引き起こし、戦いの炎が地上から消えることはない。権力と富が尊ばれ、男も女も淫らで、誰もが煩悩と情欲に翻弄される。このカリ・ユガは四十三万二千年だ。」

「ぼくたちの今の世界は、カリ・ユガの時代だそうだな。」

 そう口を挟んだナユタに、マティアスは大きくうなずいて続けた。

「ああ、そうだ。今の世を見れば、まさにカリ・ユガの時代としか思えない。ある僧はこんなふうに言っていたよ。カリ・ユガの時代には、強欲な権力者たちが狂気を振りかざして大地を踏みにじる。野心と虚偽がはびこる荒れた大地の上で、人間は短命となり、欲望に翻弄され、妬みと恨みによる諍いが止むことはない。男たちは手当たり次第に生娘を漁り、女たちは唇を情欲に濡らして淫売婦となる。田畑は砂漠と化し、川は干上がり、花々は朽ちて、嘆きの歌が野を覆い尽くす。」

 両腕を胸の前に抱えて聞いていたクララがつぶやいた。

「恐ろしい世界。」

 マティアスに代わってナユタが続けた。

「ああ、そうだ。そして最後には、血を求める者たちの声が大地に蔓延し、巨大な風が起こって炎は地上を覆い、この世のすべてを破壊する。世界は黒焦げとなり、巨大なきのこ雲が破壊された街の上に立ち昇る。その下で、人々は焼けただれた真っ赤な肌を晒して水を求め、ただただ惨めに死んでゆく。黒い雨が降り、雨が大地を浸し、十二年間降り続く。まさに、暗黒の時代、カーリーの時代なんだ。」

 クララは大きなため息をついて言った。

「そんな時代が四十三万二千年も続くのね?」

 そう言ったクララに対して、マティアスは言った。

「こんなもので驚いてはいけない。この四つのユガの合計は四百三十二万年でそれをマハーユガと言うんだが、このマハーユガの千倍、つまり、四十三億二千万年がカルパと呼ばれるんだ。」

「四十三億二千万年。地球ができてから約四十五億年と言われているから、そのくらいの年月ってわけね。」

「ああそうだ。だが、神々の世界では、四十三億二千万年はブラフマーと言われる神のただの一昼にすぎない。そして世界で生成したすべてのものはこの昼の終わりに消滅し、そのあと、ブラフマーの夜が同じく四十三億二千万年続くんだ。」

 ナユタはうなずいて聞いた。その四十三億二千万年とは、まさに、前々回の創造が潰えてからヴァーサヴァの創造までの期間そのものであった。

 マティアスが続けた。

「そして、宇宙には、さらにアナンタという蛇の上に横たわるヴィシュヌ、カイラーサ山の頂きに住む破壊の神シヴァがいて、世界の生成と破壊とを創造している。ブラフマーはヴィシュヌの臍から咲く蓮の花びらから生まれ、シヴァはヴィシュヌの額から生まれたと言われているそうだ。もちろん、こんな話を単に非科学的な神話だというのは簡単だ。だけど、ぼくがこのような神話に惹きつけられるのは、このような途方もない世界観が、そもそも世界とはなんだろうかと改めてぼくに問いかけるからなんだ。ぼくたちの時間感覚とは桁外れに違う巨大な時間と空間を目の当たりにするとき、ぼくは何かに目覚めさせられるんだ。ぼくたちはみな、自分たちの小さな時間、小さな生活圏、文化などに閉じ込められて生きているにすぎないと気づかされるんだ。」

「たしかにそうかもしれないな。この世界に住む人々はみな別の時間観念で生きているからな。そして、それはまさに、目の前の生活と人生に束縛された狭い時間感覚でしかないのだろうな。考えてみれば、人類の文明が始まってから一万年、人類が誕生してから百数十万年、だけどそれだって四十五億年という地球の歴史から見ればほんの瞬きほどの時間だし、地球の誕生以前の宇宙の歴史もあるわけだからな。」

 そう口をはさんだナユタの言葉を受けて、マティアスが続けた。

「そのとおりだよ。ぼくたちは自分たちの街、あるいは国で生きているけど、ぼくたちが住む地球だって宇宙の中ではほんとにちっぽけな存在で、宇宙は百数十億光年もの広がりがあるって話だしな。一度、計算したことがあるんだ。今後の宇宙の歴史も入れて二百億光年を一年としたとき、人の一生はどのくらいの時間になるかってね。」

「とっても短いんだろうな。」

「ああ、人の一生を百年として計算すると出てきた答えは、0.16秒だった。たったの0.16秒だよ。瞬きするくらいの一瞬さ。それが、この巨大な宇宙の中でぼくたちに与えられている時間ということだ。だけど、人々は、自分たちの持っている狭い時間と空間の観念の中でほとんど疑問もなく生きている。ぼくたちが日々の生活では空気の存在をまるで感じもしないのと同じようなものだ。立派な人間と称えられる人たち、学者、政治家、文筆家などもその枠を超え出てはいない。だけど、このトゥルナンに来て、ここの神話や宗教を学んで、ぼくたちがどんな世界に住んでいるのかを思い至らせてもらった気がする。」

 マティアスはそう言うと、一呼吸おいてさらに続けて言った。

「この世界を誰が作ったか?何のために作ったか?世界に初めはあるのか?もし、あるならその前はどうなっていたのか?存在はなぜ存在するのか?そういったことには誰も答えられない。だとすれば、ぼくたちの存在する意味、生きてゆく意味、そういったものがよりどころとすべき根拠などというものはどこにもないことになる。そしてあるのは、ただ茫々とした巨大な時間と空間の広がりだけ。」

「そういったことは私も感じるわ。ここはそれを感じ取らせてくれる世界ね。たしかに心に沈潜してくる何か、決して向こうの都会では心に響くことのなかったものがここでは自然に入ってくるように感じられるわ。そういった意味ではほんとうにここに来て良かったわ。」

 そうクララが言うと、ナユタも深くうなずいた。

 

 トゥルナンの春は遅い。四月になってようやく街中の雪がなくなったが、フィガラッシュやニュークルツでは例年三月下旬から四月初めに咲く桜がここトゥルナンで花開くのは五月になってからだった。 

 桜が咲くと、街中が淡いピンクに彩られた。こんなにたくさんの桜があったのかと驚くほど、いたるところで桜が咲き誇っていた。道の両側に並ぶ桜並木や野の小川に沿って並ぶ桜が雪山に映える姿はなんとも美しかった。

「こんな桜は見たことがない。」

 そう言って、クララはその光景をカメラに収めていた。

 その満開の桜の下で、五月の祭りが盛大に開催された。その日、午前中は、寺院で大法要が営まれ、その後、大行列が行なわれた。これはセラグーン宮を出て街中を通って再びセラグーン宮に帰る行列だったが、セラグーン宮が所持する様々な宝物を捧持して練り歩くもので見ものであった。

 午後には、古代行列が行なわれた。三大寺院の代表者が正装で威厳を正して先導する後を、古金襴の旗や幢幡が続き、菩薩や弥勒、声聞などに扮した仮装行列が続いた。四天王の装束を身に着けたもの、八部衆の大王達、恐ろしい仮面をかぶった鬼神たちの列もあった。その後を美しく着飾った少女たちの群れが踊りながら続き、街の広場に着いて整列すると、その少女たちが美しい舞いを披露した。このときも、ニェタンは仲間たちと踊ったが、少女たちの踊りは非世俗的な妖艶さに満ちた不思議な踊りだった。

 また、さまざまな催し物も同時に行なわれた。出店も出たし、力試しや相撲や弓術の競技も行われた。菩薩を守る鬼神たちが悪魔を退治する伝説にちなんで、鉄の甲冑をつけ、腰に長剣をさげた古代の武者行列も行なわれた。

 力試しは、置いてある石を持ち上げるという単純な競技で、もっとも重い石を持ち上げた者が勝者となった。ナユタは弓術の競技に出たが、すべての矢を的に当てるという誰もやったことのない離れ業を演じて優勝し、地元の人々の賞賛を浴びた。

 

 さて、マティアスとクララとは、この高地で一緒に暮してさらに親密さを増し、マティアスは結婚の意志を固めたようだった。

「結婚式は、ニュークルツに帰ってからかい。」

と問うナユタに、マティアスは、

「そうだな。冬になる前にはそうしたいな。」

と答えた。

 ただ、ナユタが、

「じゃあ、来年には子供を授かるかもな。」

と言うと、マティアスはそれをあっさり否定した。

 一つには、クララが子育てによって演奏家としての活動を妨げられるのを望んでいないことがあったようだが、マティアス自身も子供を望んでいないようだった。

 マティアスは、こんな風に語った。

「自分の祖先の中で、子供を残さずに死んだ者は一人もいない。ただの一人もだ。いや、もっと言うなら、ぼくたちの祖先がまだ人間でなかった時、脊椎動物でもなかった時から数えても、ぼくの祖先で子供を残さずに死んだ者は絶対にいない。多くの生き物たちが子供を残さずに死んでいることを考えると、自分がこの世界に生まれてきたことは途方もなく低い確率で生じたことなんだと実感するよ。実際、魚にしても、実にたくさんの卵を産み、その中で子供を産むまでに成長するのは、極めてわずかだからな。」

「たしかに、それはそうだ。自分たちの祖先がもし違う相手と結婚していたら、自分は生まれてこなかったろうし、もっと言えば、自分の先祖のそれぞれが受精した日に、もし、その両親が性行為を行わなかったらとか、あるいは別の精子が受精していたらとか考えると、ほんとうに、途方もなく低い確率だ。」

「だけど、ぼくはそのこと、そんなわずかな確率によって生まれてきたことを、なんら幸せなことと思っていない。むしろ、ちょっとどうかなって、自分が生まれてこなければ、どんなに幸いだったろうとか思えるよ。もっと言えば、自分が生まれてきたことは、運が悪かったとさえ思える。生まれてこなければ、自分が存在しない膨大な過去の時間と、そしてこれからの自分が存在しない膨大な未来の時間が切れ目なく続くただそれだけだからな。」

「そうかもしれんな。世の多くの者たちは、生まれてきたことを感謝すべきだとか、ありがたいことだと言ったり、感じたりしているのかもしれないがね。」

「その通りだ。だけどな、ナユタ。この世界をもう一度、ほんとうに虚心坦懐に見てみろよ。神か誰かがこの世界を創った。でも、ぼくたちにはそれが何のためか分からない。そんな世界に偶然に投げ入れられたに過ぎないのがぼくたちの存在だ。そして、この世界はあまりにも醜いものが無数に跋扈していて、あまりに不完全で、あまりに未熟だ。世界には、未だに隷属状態に置かれたたくさんの人々がいるし、旱魃や飢饉に脅えながら生きている人たちもたくさんいる。先進国の搾取と、私腹を肥やすことに汲々とする悪辣な役人によって虐げられた人々。そして、今は、先進国の普通の市民が一個の命が実に軽々しく扱われる戦場へと駆り出され、女性や子供たちの上にも爆弾の雨が降ろうとしている。これがこの世界の真の姿だよ。ただ、世の人々はそんな世界の姿をほんとうには見ていない、あるいは見ようとしていないように思えるよ。そんなことを考えると、生まれてこないこと以上に幸いなことはないといつも思えるんだ。だから、そんな世界の中に自分の子供を連れてきたくはない。実際、子供は親のために生まれてくる。本人が望んでもいないのにね。」

 そして、彼はしみじみと思い出すように続けた。

「ぼくは両親にはとってもかわいがられてね。両親にとってはぼくが生まれてきたことはすばらしことだったんだと思うよ。実際、両親の様子から、自分が両親の喜びなんだと子供心に常に感じ続けてきた。だがら、ぼくが生まれてきたことは両親にとっては良いことだったんだろうけど、ぼく自身にとってはそうじゃない。冷たい言い方になるかもしれないが、ぼくたちは、本質的に意味のない人生、重荷を背負った人生を送るために、親の勝手な行為によってこの世に生を受けたんだ。もちろん、みんながそう思ったら、この世界は壊れてしまうけどね。ともかく、それでぼくは子供を望んでいない。幸い、クララも自分の演奏家としてのキャリアを子育てのために犠牲にしたくないと考えているのでね。」

 それが、マティアスの答えだった。

 

 初夏になると、トゥルナン盆地は美しい緑に覆われた。新緑の淡い緑が盆地に広がり、空が青く晴れ上がった日には、緑のみずみずしさが眼に眩しく、遠く連なる雪山も美しかった。

 冬の光景とはまるで様相を異にした美しさだった。冬の雪山の厳粛さや純白な清らかさに変わって、生命力に溢れた緑の輝きが心に弾んだ。

 街の郊外の田園地帯に出かけると、クララは歓声を上げて言った。

「こんな美しい光景はニュークルツじゃ絶対に見れない。」

 まさにそのとおりだった。それはニュークルツでも旧大陸でも見ることのできない世界だった。そして、川の水は明るい陽光を照り返して青く輝き、麦畑は美しい雪の山脈を向こうに青々と光を放ち、蝶がひらひらと舞い、雲雀がさえずった。その中から民族衣装に身を包んだ少女たちの歌声が聞こえてくる光景。それはこの上なく美しい平和な世界だった。

 学校が休みの日には、ニェタンも民族衣装姿で両親の畑仕事を手伝っていた。そんなある日、ナユタたちが訪ねてゆくと、ニェタンの両親は手を休めてお茶の時間にしてくれた。ニェタンの家族は両親と父親の弟が二人、それからニェタンの弟二人と妹一人だった。ニェタンと上の弟が農作業を手伝っていた。一番下の妹はまだ小さくて、下の弟が面倒を見ていた。さらに、この日、手伝いに来てくれている親戚が四人ほどいた。

 ニェタンの両親はときどき野菜や卵を持ってバハドゥール老人のところに訪ねてきていたので、ナユタたちも何度か会ったことがあったが、朴訥とした典型的なトゥルナンの農民そのものだった。

 クララはトゥルナンで一番の菓子屋で買ってきたお菓子を持ってきていていた。彼女がそれを取り出すと、父親は屈託のない素朴な笑顔で言った。

「すまんですのう。娘がいっつも世話になっとりますのに。」

 クララが菓子箱を開けると、みんなの顔が輝いた。父親が言った。

「おお、カプセじゃ。こんなもんはめったに食べれんけえのう。」

 カプセは、ヤクの乳から作ったバターと小麦で作った生地を油で揚げたお菓子で、トゥルナンでは、正月や結婚式などのお祝い事の時にしか出ない代物だった。

 母親は菓子箱の包装紙に見覚えがあるらしく、その包装紙を受け取って確認してから言った。

「おとうさん。これはスリーズのカプセよ。」

 トゥルナン第一の菓子屋スリーズは普通の庶民には手の届かない店だっただけに、スリーズという名を聞いてみんなが感嘆の声を上げた。

「スリーズの菓子が食べれるたあ、贅沢じゃのう。今日は良い日じゃわい。」

 そう言って、父親はご機嫌だった。ニェタンの兄弟たちもおいしそうに食べていた。

 畑に座り込んで、美しい山や畑を眺めるのはなんとも良いものだった。みんなの幸せそうな笑顔がその光景に言い様もなく馴染んだ。

 近くの赤い実を見つけて、クララが尋ねた。

「これは食べれるの?」

 母親が手を左右に大きく振って笑った。

「食べれるけどおいしくないんよ。」

 ナユタもちょっとかじってみたが、確かにおいしくなかった。母親が包みから何か取り出してナユタたちに勧めた。

「良かったら、どうぞ。口に合うかどうか分からんけどねえ。」

 イナゴの唐揚げだった。ナユタは手を伸ばして食べたが、クララとマティアスはちょっと気味悪そうに眺めるだけだった。

「さて、もうひと仕事するかのう。」

 そう言って父親が立ち上がり、みんなも農作業に戻っていった。ブラーニアとの戦争の危機が迫っている同じ国とは思えない、のどかで朴訥とした一日だった。

 

 トゥルナンの滞在期間は残すところわずかだったが、マティアスとナユタはニュークルツに帰る前に、トゥルナンから少し離れたいくつかの聖地を訪れたいと考え、下宿屋のバハドゥール老人に相談した。老人はマティアスの話をいつもの謙虚な姿勢で聞いていたが、マティアスの話が終わると静かに言った。

「案内人を探したいということですな。それでしたら、私がご案内しましょう。行きたいという聖地には昔行ったことがありますから。」

 この申し出は、マティアスとナユタにはことのほかうれしかった。

 七月になって、ナユタ、マティアス、クララの三人は、下宿屋の老人バハドゥールとともにロバに乗って旅に出かけた。

 まず訪れたのは、マンドーリという聖地で、約二千年前にクルカーンという僧が修行を行った場所と言い伝えられていた。クルカーンが座禅を組んだと言われる岩窟も残っていた。

 言い伝えによると、クルカーンは、若い頃からたいそう才能と学識に恵まれていたが、学問は極めつくしたと慢心し、これからは快楽を極め尽くそうと考え、仲間の三人とともに、王宮にしばしば忍び込み、宮廷の美女すべてを犯したということだった。しかし、この事実に驚愕した王は衛士による監視を強め、ついにある日、彼らは発見されて仲間三人は切り殺されてしまった。だが、クルカーンは王の陰に身をひそめて窮地を脱することができた。このとき、クルカーンは、愛欲が苦悩と不幸の原因であると悟り、王宮から逃走した後、山上で出家し、経典を求めて旅をし、マンドーリにたどり着いたということであった。クルカーンはこの地で修行し、大乗を教える『七十論』を著したが、この著作は、トゥルナンの寺院の僧侶たちにとって、何をおいても学ばねばならないもっとも重要な経典の一つであった。

 マティアスは感慨深げに言った。

「トゥルナンでは僧侶は金儲けに入れ込み、女を囲って愛欲にまみれて生きている。だけど、本当は教えは立派なものなんだろうな。」

 ナユタもうなずいて言った。

「そうだな。若い僧たちの問答は真剣そのものだったし、信者は真摯に信仰しているしな。そして、曼陀羅は神秘的で奥が深い。そんな聖と俗が混在して渾然一体となっているのがトゥルナンの世界なんだろうな。」

 マンドーリを見て回ると、かつて仏像が安置されていたという場所がぽっかりと空いていた。ここに敬虔な読経の声が、十年、数十年、数百年と響き続けたのだ。岩窟の一角には、小さな仏像や石の破片が山のように積まれていた。金を払えば、買うことができるということだった。

 

 次にナユタらが訪れたのは、シャンタラのミイラが安置されたダラーン寺であった。シャンタラは、トゥルナンのセラグーン宮を開いた始祖とも言われており、遠くジョンバン大学で学び、トゥルナンにその教えを授けたと伝えられていた。シャンタラはジョンバン大学で尊敬を集め、多くの僧が、荒涼としたトゥルナンなどには行かず、ジョンバン大学での学究の道を選ぶように懇願したが、シャンタラは、

「私を呼ぶより広い世界がある。そこに教えを広めねばならない。」

と語り、出立したとのことであった。別の言い伝えでは、菩薩が夢に立ち現われ、行けば寿命は短くなるが、より多くの人の心を救うことができるだろうと諭したとも言われていた。

 ダラーン寺の僧侶に内部を案内してもらうと、薄暗い寺院の内部にはさまざまな仏像や仏画が乱雑に飾られていたが、中央の台座に座る金色の菩薩のまなざしは下界の者たちの愚かさを見抜いているもののまなざしのように感じられた。畏怖の念に駆られたのはナユタだけではなく、マティアスやクララも同じ衝撃を感じ取っているようだった。僧侶はシャンタラのミイラが安置されているという廟に案内すると、ナユタたちを座らせてくれ、シャンタラの教えの一部を語ってくれた。

 マティアスは寺から出るとぽつんと言った。

「きっと、いや、まちがいなくシャンタラの教えはすばらしいものだったんだろう。だけど、その教えに基づくなら、我々はまるで何かの罰を受けているかのようにこの世界に存在させられているように思える。この世界はそんな我々を存在させるための舞台でしかない。真理からはかけ離れた舞台。それがぼくたちの世界だと思えるよ。」

 ダラーン寺の境内には、小さなストゥーパがいくつもあり、銀の台座に宝石がちりばめられていた。銀の塔の上には金の板が嵌めこまれていたが、礼拝に来る信者たちが少しずつ金をはがすため、かなり剥げ落ちてしまっていた。また、ダラーン寺の境内には、たくさんの貝の化石があった。バハドゥール老人は、かつてここが海の底だったのだと説明してくれた。

 

 次にナユタらが目指したのは今回の旅の最終目的地であるレムサンという聖地だったが、そこに行く道は遠かった。途中、河を渡らねばならなかったが、橋はないので、金を払って渡し船で渡った。船は、木を組み合わせたものにヤクの皮で底を包み込んだ簡単なつくりで、上流の方から乗り、下流の対岸に着く。この渡し船は渡り終えると、乾かし、櫓を船に通して、上流の方に担いでいくとのことであった。

 途中、シャーマンが住むという村を訪ねたが、バハドゥール老人は金を払って湯を沸かしてもらい、四人は持参のツァンパを食べた。ここでは、自然の精霊がシャーマンに宿っていると強く信じているということであった。セラグーン宮の法主を中心とした正統の教えの一方で、自然崇拝や原始宗教から続いている民間信仰、民族宗教も人々の心の中にそれなりに根を下ろしていたし、正統の教えとの融合も随所に見られた。民家の屋根やテントからは陀羅尼を印刷した小さな旗を張り巡らされていた。青龍、朱雀、白虎、玄武、麒麟などが描かれた旗も用いられていた。これは、天国から神秘の縄を伝って神が人間界に現れ、幸福は旗を伝わって天から降りてくると信じられているためだという。また、幟を立てたりするのも民衆信仰に由来するようであったが、これはセラグーン宮でも取り入れられていた。

 そして、白い着物を着ているシャーマンは、気象を左右する力を持っているということだった。彼らは、一見しただけで空の雲が雨を降らせるかどうかを見分け、神通力によって雲の動きを操ることができると言っていた。にわかには信じがたかったが、農民たちは、八月に雹やあられが降るとせっかく育てた麦が涸れてしまうので、シャーマンのところに行って、雹や霰が降らないように頼みにゆくということだった。

 この村を出ると、四人はさらに峠を越え、美しい真っ青に澄んだ湖のほとりにテントを張った。青いケシがひっそりと咲き、湖の周囲には美しい緑の山々が連なっていた。それは、かつてユビュが世界を帰滅させたあの湖を思い出させた。あのときの湖と同じように、水は途方もなく青く澄みきり、回りの山々の緑が美しく輝いていた。

 クララは感動のあまり言葉も出ず、この光景を見つめ続けた。バハドゥール老人が説明してくれた。

「トゥルナンでは、この湖の水が涸れると世界が滅ぶと言い伝えられておりますよ。」

 半ば天に属する湖だった。

 その夜、ナユタたちは、草原に寝そべり、バハドゥール老人とともに、夜空を見上げた。満天の星空の下で、老人は淡々と語った。

「人は亡くなると、空の星に帰るそうですじゃ。そうであっても、そうでなくても、どちらでもかまいませんがの。」

 バハドゥール老人らしい言葉だった。

 この言葉を聞くと、マティアスはそっとナユタに囁いた。

「ぼくたちは、いかなる理由か分からぬ理由でこの世界に生を受けた。ぼくたちは天の底でうごめいているだけだからな。」

「そうだな。」

とナユタがうなずくと、マティアスは続けて言った。

「そのトゥルナンに来て、分かったことがある。いや、きっと、前から分かっていたんだけどな。」

 そう言って一息つくと、マティアスは続けた。

「ここには独特の精神世界があり、ぼくたちの世界とは著しく異なっている。でも、それで感じるのは、ぼくたちは世界の本質から目をそらし、自らの描き出した幻影の中で生きているに過ぎないということだ。世界は冷徹で、その中でぼくたちが何のために存在するのかは皆目分からない。ある意味、世界の本質は、ぼくたちにそっぽを向いており、一方で、この地上では、欲望と混濁した精神が渦を巻いているんだ。」

 ナユタはもう一度、

「そうだな。」

と言うと、マティアスは星空を見続けながら言った。

「そんな世界にぼくたちはただ放り込まれているにすぎない。混乱、混沌、理不尽と虚偽の横行する軋轢に満ちたこの世界にただ放り込まれている。自分の意思でこの世界に生まれてきたのでも、この社会、この国に入ってきたわけでもない。フェドラーのことを思う度にそんな思いに突き当たるよ。」

 まさに偽らざるマティアスの心の底の声であったろう。

 

 次の日、ナユタたちは最後の目的地レムサンに着いた。レムサンは、シャンタラがセラグーン宮を作る前に修行をした聖地で、広々とした場所に多くの遺跡が残っていた。壊れてしまって石組みだけが残る遺跡も多かったが、綺麗に掃き清められたストゥーパや小さなゴンパには、今なお巡礼者が訪れていた。そのゴンパは小さかったが、本堂の中には、何万という数えきれないほどの経典がうず高く積まれていた。すべて熱心な僧が写経したものだった。マティアスらが遠くニュークルツから来たと聞いて、僧侶は白絹のカタをかけてくれた。

 ここレムサンを訪問したマティアスたちの大きな目的は、二日後に行われる夏の大祭だった。祭りの前日、ナユタたちは祭で音楽を奏でる者たちの練習を見に行った。その音楽はこの地方独特の韻律によるものだったが、トゥルナンでこれまで聞いてきた音楽よりも土俗的かつ尖鋭的で、ある意味、妖術的でさえあった。

 バハドゥールから、マティアスたちが首都ニュークルツの音楽大学から来ていることを聞かされた楽長は、休憩の合間にマティアスに語りかけた。

「首都からわざわざ来られたそうで。私どもの音楽はいかがですか?私にはよその音楽のことはまるで分かりませんが。」

「ここの音楽は、たいへん興味深く聞かせていただいています。今回の訪問の大きな目的の一つが、この地方の音楽を学ぶことでしてね。」

 そうマティアスが答えると、楽長は大きく笑って機嫌よく言った。

「そうですか。それは良かった。よろしければ、楽器も触ってみていただいて結構ですよ。」

 ナユタたちは喜んで音を奏でさせてもらった。どの楽器もトゥルナンの楽器とは少しずつ異なっていたが、独特の音色と韻律を持っており、興味深いものばかりだった。

 ナユタが楽長に語りかけた。

「できれば、一緒に練習に参加させてもらって、一緒に音楽を奏でてみたいのですが。」

「演奏できますかね。」

 楽長は必ずしもうれしそうではなかったが、ナユタが演奏できると思うと答えると許可してくれた。

「少しなら良いでしょう。ただ、楽譜はありませんし、誰も演奏を教えませんが、よろしいですか。」

「ええ、よろしくお願いします。」

 そう答えると、ナユタは最後列に座らせてもらった。練習が再開されると、まず、最前列に座る楽長が最初のフレーズを演奏した。それに続いて何人かの奏者が合奏に加わり、さらに、ほぼ全員が合奏に加わった。先ほどとは違う曲だった。

 ナユタは最初は奏者たちの音楽に耳を傾けていたが、しばらくすると自然に合奏に加わった。その演奏はなんの違和感もなく他の奏者の音楽に溶け込んでいた。

 演奏の間、マティアスはその音列を熱心にノートに記録し続けた。クララは何枚か写真を撮っていた。

 演奏が終わると、楽長はナユタに言った。

「なかなか素晴らしい。あなたの音は完全に我々の音に調和していた。こんなことができるなどとは信じられない。よろしければ、明日の祭りの本番でも一緒に演奏しませんか。」

 これはナユタにとってもすてきな申し出だった。ナユタは喜んでこの申し出を受けた。

 マティアスは

「たいしたもんだな。」

とナユタを称えたが、ナユタはあっさりと答えた。

「ぼくは昔からいろんな民族楽器を扱ってきたからね。」

 次の日はいよいよ夏の大祭だった。昼の間は出店が並び、広場の一角に設けられた舞台で歌や踊りなどいろいろな催し物が行われたが、この祭りのハイライトは日が暮れてからだった。

 その祭りは、金色の鳥が舞う日、過去のあらゆる罪が贖われ、聖と俗の混融するこの大地に、再び清浄の契りが結ばれるという言い伝えにちなんだ独特のものだった。バハドゥールが説明してくれたところによると、その夜、人々は、天に向かって祈りを捧げ、この大地に生きる者との結びを作るのだという。

 その祭りの意味は、ナユタにもなんとなく分かるような気がした。トゥルナンを含むこの地方は、素晴らしいもの、気高いものを持っているが、同時に、極めて俗欲にまみれた世界でもあることはこの一年の滞在で強く感じたことでもあった。多くの人々は、僧侶ですら、俗欲に突き動かされて生きているにすぎなかった。だが、その世界から、他の場所では見られないような高貴な思想、深みのある音楽、そしてバハドゥールのような達観した者たちが生まれてきている。それがこの地方の驚異であるとともに、底知れぬ魅力でもあった。

 夜の祭りが始まると、ナユタは、他の楽師たちとともに、広場の一角に座を占めた。楽長が音楽を始めると、神々しい衣装に仮面をかぶった者たちの荘厳な列が現れ、広場の中央の火の回りに並んだ。その仮面はまさにさまざまな鬼神たちを表しており、そのゆったりとした足運びは息を飲むばかりだった。

「まるで神々の列のようだ。」

とマティアスは感嘆の言葉を発し、クララはくぎ付けになったようにその光景を凝視していた。

 白い衣を着たシャーマンが進み出て呪文を唱えると、同時に、青い光、緑の光が火の回りに飛び散った。ラグドゥンと呼ばれる長いラッパが吹き鳴らされた。その響きの荘厳さは例えようもなく、その光景はもはや地上のものとは思えないほどだった。

 そんな中、楽長は少しずつ奏者に演奏を止めさせ、最後には演奏するのは楽長とナユタだけになり、ついには楽長も演奏を止めて音を奏でるのはナユタだけになった。楽長は静かにナユタを見守り続けた。ナユタはただ音楽に没頭し、奏で続けた。その音楽は完全にレムサンの音楽であり、同時に、孤高の精神に満たされた気高い音楽だった。

 ナユタは宇宙からの風を感じた。打楽器の即興的な響きが交錯する空間で、古い経典の言葉を朗誦するシャーマンの祈祷が滔々と続いた。

 色鮮やかなマンダラの上で、瞑想を続ける菩薩たちと踊り狂う鬼神たち。そして、交合を遂げる神々とともに世界を破り開く声聞たちの列。ナユタは世界の底で怯える石たちとともに宇宙の風を肌で感じ、大地に渦巻く求道者たちの声に音を灯した。菩薩たちが舞い降りる祭壇の上で、新しい音が打ち鳴らされているのだ。

 シャーマンの祈祷が終わると、再び合奏が始まり、回りを囲むように控えていた美しく着飾った女たちが、ティンシャと呼ばれる一種のシンバルが打ち鳴らされるのに合わせて歌を歌い始めた。トゥンカルというほら貝、ワンドゥンという短いラッパも吹き鳴らされた。その陶酔的な雰囲気の中、美しく化粧した少女たちの踊り、勇ましく武装した男たちの剣の舞いが続いた。

「まさに、神の世界との交信といった感じね。こんな世界は地上には他にはどこにもないかも。」

 この旅の最後の目的地であるレムさんでの祭りの光景がマティアスとクララの心に深く刻み込まれたのは間違いなかった。

 こうしてナユタらは一年の滞在の後、トゥルナンを後にしたのだった。

 

2015524日掲載 / 2023815日改訂)

 

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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第5巻