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神話『ブルーポールズ』

【第5巻】-

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 さて、その頃、世情は不穏になって来ていた。まさに、ウダヤ師やウパシーヴァ仙神が言っていたとおりだった。そして、世界の平和に対する新たな危機が、ナユタたちの住むルンベルグ共和国の隣国ブラーニア共和国からじわりじわりと押し寄せていた。

 その混乱は、ある意味、大戦が生み出した歪みに起因していた。戦勝国が敗戦国に突きつけた平和条約は、敗戦国を徹底的に踏みつけるものであり、支払不可能な賠償金がブラーニアを国家と社会の破綻の淵に追いやっていたのだ。

 たしかに表面上は、ブラーニア共和国は、戦勝国が理想として押し付けた新憲法によって民主主義と平和主義の形を整えてはいた。そして、徴兵制の廃止と、軍備に対して課された厳しい制限によって、国家予算に占める国防費の割合は激減し、産業の復興に国家予算を重点的に配分できるはずであった。

 だが、現実には、戦勝国によって締結させられた平和条約による巨額の賠償金が経済復興の重荷になっていたし、屈辱的な講和条約を締結させられたという反感も社会の底辺にまで広く染み込んでいた。そんな中、異なる考えの政治家や思想家が尖鋭なアジテーションを行い、革命まがいのテロ行為も辞さないなど、国内の騒然とした世相も順調な復興を阻んでいた。そして、復興の進まない国内産業のために国際収支は著しく悪化し、そのことが通貨価値を崩落させ、その結果、激しいインフレーションが社会を苛んだのだった。

 ウパシーヴァ仙神から、ルンベルグでのインフレは治まっているが、ブラーニアではそれにもまして激しいインフレが起こっているとは聞いていたが、そのブラーニアでのインフレは一向に治まる気配がなく、ますます荒れ狂っているようだった。

 新聞によれば、朝ある値段で売られていたものが、夕方にはその十倍近くになったとか、切手一枚の値段が大邸宅の値段と同じというようなことが実際に起こっているようだった。国民が貯蓄として蓄えていたものは紙くず同然となり、国家と社会への不満が国民の間に渦巻き、さらには、異人種への敵意も明白な形をとって現れ始めていた。テロや暴動が後を絶たない不安な社会が人々の上にのしかかり、国家社会主義への信奉者は増えるばかりだった。

 そして、国民は国家や共和国政府を信じず、道義や道徳は馬鹿にされ、その日その日の享楽に走る者はあとを絶たなかった。ブラーニアの首都シュタルバーでの演奏旅行から帰ってきたマティアスは言った。

「今、シュタルバーでは、十六歳でまだ処女だっていうのは恥辱らしいよ。だから、どの娘も自分たちの火遊びを吹聴している。本来なら良き市民の娘であるはずなんだがね。すべてが狂ってるよ。」

 そんな状況の中で、しかし、戦勝国はブラーニアに毎年の賠償金を支払わせることについて、いささかも手を緩めようとしなかった。そして、支払い能力のないブラーニアは、その支払いを海の向こうの戦勝国ランズウッドからの借款によって履行したにすぎなかった。

 だが、激しいインフレはある日、収束した。通貨は一兆分の一に切り下げられ、同時に、一応の経済の安定が得られたのだった。再び明るい日々が戻ってきて見通しがきくようになり、人々は自分の財産、自分の未来を計算できるようになった。しかし、ほとんどの人は膨大な資産を失ったのだ。誰もが幻滅し、困惑した。自分たちは欺かれ、恥辱にまみれさせられたとも感じた。そしてそのことが、社会の底に消し去ることのできない憎悪と憤激を沈殿させていったのだった。

 

 そんな国内情勢の中、ブラーニア軍の内部では、巨大な陸海空軍再建に向けた動きが渦巻いていた。その根底にあるのは、前大戦後の国際秩序への反感であり、さらに、ブラーニアが必然的にその国際秩序の中で塗炭の苦しみを味わわされているという認識だった。その国際秩序に挑戦し、その国際秩序を改変あるいは破壊するほかブラーニアの将来の道は開けないのではないか、という思いだった。

 その中心にいたのが、旧ブラーニア帝国軍最後の参謀総長であったニコルソン将軍だった。ニコルソンは共和国憲法が施行されたその年に新大統領となったノルケ元帥から国防長官に任命されると、即座に軍再建に取りかかった。

 だが、前大戦後の講和条約によって、ブラーニア帝国の巨大な陸海軍は解体され、ブラーニア国防軍の規模は十万人以下に制限され、艦船の数も制限を受けていた。その中でどうやって軍事力を再興するのか。それがニコルソンンの課題だった。

 国防長官に就任すると、ニコルソンは、秘密裏に、ブラーニア軍再興構想を企画した。徴兵制が禁止され、国防軍の規模は十万以下とされていたが、ニコルソンにとって決して悲観すべきことではなかった。ニコルソンには明確な構想があった。その十万を鍛え上げておけば、時が来て軍備拡張が可能となったとき、彼らは十万の指揮官となって全軍を動かす核と成りうるのだ。

 そんな思いを胸に、ニコルソンは、前大戦のあらゆる戦闘を綿密に検討すべく、組織的に研究させたのだった。

 そして、ニコルソンがもう一つ重視したのが海軍だった。

「先の大戦で敗れた最大の理由は、海軍力の差だ。もし、海の向こうのランズウッドが戦いに加わらず、大陸での陸軍だけの戦いが中心であったなら、我が陸軍は間違いなく勝利していた。」

 彼はそう明言していた。実際、先の大戦において、巨大な工業力を誇るランズウッドから供給された物資と武器が、同盟国側の優勢を決定づけたことは間違いなかった。そして、ブラーニアの脆弱な海軍は、ランズウッド海軍に守られた同盟国側の輸送船を攻撃することもままならず、それがそのまま大陸での戦力差となって、勝敗を分けたのだった。

 この認識のもと、ニコルソンは海軍力の強化が不可欠であることを痛感していた。だが、先の大戦後の条約によって保有艦船には制限がかけられている。いかにしてランズウッドに対抗できる海軍力を作り上げるかは簡単な問題ではなかった。

 そんな中、ニコルソンは手元に届けられた一冊の報告書に目を止めた。スチュアートという海軍中佐がまとめた『近代戦における航空機の活用』という報告書だった。スチュアートは海軍きっての航空の専門家であり、先の大戦では航空隊を率いてランズウッド艦船への初の空襲を行ったことで名を馳せた飛行機乗りでもあった。

 ニコルソンはこの報告書を読むと、さっそく検討委員会を開催させた。ニコルソン大将隣席のもとで行われた委員会で、スチュアート中佐は航空兵力活用に関する新概念を滔々と説明し、次のように断言した。

「これからは航空機の時代です。航空兵力によって勝敗が決するのです。陸での戦いも、海での戦いも、制空権を取った方が勝利するのです。」

 しかし、彼の主張はあまりに尖鋭過ぎ、戦車や大砲、戦艦を重視する陸海軍の軍人たちからは冷やかな冷笑と厳しい批判が浴びせられた。

 ある海軍提督は言い切った。

「飛行機が戦艦を打ち破ったことなど一度もないし、今後、百年間でそんなことが起ころうなどとはわしには信じられぬ。」

 また、ある陸軍の幹部は、

「飛行機で敵の戦車や大砲を破壊することはできるかもしれぬ。だが、それは破壊するだけだ。敵陣を占領し、都市を攻略するためには陸軍兵力が不可欠だ。その意味では、飛行機は単に補助兵力に過ぎない。」

と言い、ニコルソンの臨席を意識して、

「もちろん、補助兵力も兵力ではありますから、それを強化することに反対は致しませんが、陸軍主力の強化も決しておろそかにされませんように。」

と付け加えたのだった。

 だが、ニコルソン大将はスチュアートの報告書の価値を明確に認識していた。陸海軍の出席者がさまざまな異論を述べた後、ニコルソンは会議の最後に明言した。

「飛行機の価値について未知な部分が多いことについては列席諸君に同意しよう。だが、私は飛行機の可能性に賭けるつもりだ。」

 ニコルソン大将が航空機に着目した理由は、戦力としての重要性もさることながら、航空機が先の大戦後の平和条約によって縛られていないという点だった。軍人や船舶の数には厳しい制限がかけられている一方、航空機に関しては何の制約もなかった。

「航空機は自由競争だ。これからの時代、航空機が勝敗を決するとすれば、我がブラーニアは他国と対等に戦える。いや、敵より先に航空機を整備すれば、世界一の強国になれるはずだ。」

 ニコルソンはそう宣言し、スチュアートのために一定の予算を付けたのだった。

 この予算を活用してスチュアートがまず取り組んだのが、世界一の戦闘機を開発することだった。彼はブラーニアの航空機生産の最大手企業を訪れると、熱弁を奮った。

「敗戦で打ちひしがれたブラーニアを再興するには世界最高の戦闘機が必要だ。ランズウッドのどんな新鋭戦闘機と戦っても勝てる戦闘機を開発して欲しい。必要な技術はなんでも提供する。資金も惜しまない。」

 そう言ってスチュアートは要求仕様書を手渡した。だが、その要求を見た主任技師は渋い顔をした。要求された仕様書には、現時点の性能をはるかに上回る速度、装備、航続距離、急降下能力、急上昇能力などが書かれていたためだった。

「これを実現するには二十年はかかりますよ。」

 そう主任技師は言ったが、スチュアートは机を叩いて言った。

「君らは誰かが開発した技術を用いて飛行機を作るつもりか。それなら確かに二十年はかかるだろう。だが、私が求めているのは、誰かが開発した技術を使うのではなく、君たち自身が必要な技術を開発することだ。その気になれば、この航空機は七年以内にできるはずだ。十五年かかれば、敵も同じ性能の飛行機を作ってくるはずだぞ。」

 スチュアートはこの開発要求を認めさせると、頻繁に開発現場を訪れ、技術者たちとの議論を繰り返した。このスチュアートの熱意もあって、技術者たちは世界最高性能の戦闘機の開発を着々と進めたのだった。

 そして、スチュアートは、大佐に昇進すると、航空隊の司令官として、パイロットの養成に力を尽くし、さらに、航空母艦を中心とした機動部隊の運用について、さまざまな角度から研究を重ねたのだった。

 

 政府や軍の幹部たちがブラーニア再興に向けて密かに準備を進めている中、ブラーニア社会の底辺では社会不安が増大し、暴動や労働争議、テロや暗殺が頻発した。古い帝国は崩壊し、形の上では世界で最も民主的な憲法を持つ共和国になってはいたが、実際には全体主義の足音がひたひたと迫っていたのだ。

 そして、それに伴って、人種差別が激しさを増しつつあった。異人種排斥の根底には、大陸の人々全体に根を張る人種意識があったが、異人種排斥を唱えて講和条約締結後しばらく経って結成されたのが「ブラーニア民族主義同盟」だった。

 この同盟には、右派の議員が多数参加し、次のようなことが声高に主張された。

「ブラーニア国の再建に必要不可欠な要素は、ブラーニア民族の優秀さと美徳を国の礎とすることである。」

「異民族によって引き起こされる厄災がこの国の将来に暗雲を投げかけていることを直視せねばならない。」

「ブラーニア文化の優越性を否定するあらゆる勢力と戦わねばならない。異人種は、民族の敵、国家の敵、非国民である。」

 「ブラーニア民族主義同盟」は新しい国会において、ブラーニア民族を優遇し、異人種を排斥するための法案を提出した。これらの法案は国会を通過しなかったが、これらの法案が廃案となると、国民の間では、これに抗議するさまざまな集会が開かれ、

「民族の敵、国家の敵、非国民を容赦するな。」

という先鋭的なアジテーションが行なわれた。

 この動きはゲーベルたちにも無関係ではなかった。ゲーベル、マティアスはブラーニア国籍だがブラーニア人にとって異人種であり、クロイシュタットもルンベルグ国籍だがゲーベルやマティアスと同人種だったからだった。

「困った時代になったものだ。昔から差別がないわけじゃなかったが、こんなにあからさまじゃなかった。」

 そうゲーベルが言えば、クロイシュタットも言った。

「ああ、これまではほとんど問題なく生きてこれたからな。」

 実際、ゲーベルたちの人種は、大学教授、芸術家、実業家など社会的地位のある多く者を排出しており、大陸の社会の中に溶け込み、受け入られてきていたのだ。だが、それに対して、公然と剥き出しの敵意が向けられようとしているのだった。

 そして、異人種を攻撃する動きは全体主義を標榜する過激なグループの活動とも結びついていた。社会は明らかに変化の兆しを見せていた。

 ナユタがそのような社会の底流で流れている先鋭的な動きを実感したのは、ある演奏会に出演することになってブラーニアの一地方都市に行ったときのことだった。

 演奏会の終わった日、ホテルに帰ると、明日はストライキが予定されており、ルンベルグに帰るための鉄道は動かないだろうと聞かされた。実際、次の日、鉄道は動いておらず、街は何か閑散とした雰囲気だった。暇そうな労働者や鉄道職員がぶらぶら歩いているのも目についた。

 しかたなく、ナユタは街の中心にある広場まで歩いてみたが、広場は目立って人気が少なかった。商店は閉まり、カフェも賑わっていなかった。そんなカフェの一つに座っていると、若者たちを載せたトラックが三台広場に入ってきた。広場で止まると、呼笛が吹き鳴らされ、若者たちが一斉にトラックから飛び降り、整列した。全員、同じ灰色のシャツの制服を着、長靴を履き、手には棒か旗を持っていた。彼らは手にしたゴムの棍棒で人々を追い払い、その後、集合すると、隊伍を整えて広場を行進しながら歌を歌った。国家を讃え、自民族を讃え、国家に奉仕することを讃える歌だった。

 回りの人々の中には、露骨に嫌な顔をしたり、腹立たしげに拳を握る者もいたし、「悪魔め」と罵る者もいたが、若者たちは歌が終わると、リーダーの笛の一吹きで一斉にトラックに飛び乗り、トラックはすぐに走り去っていった。統率され、断固たる意思を持ったもの、それが若者たちを惹きつけ、熱狂させている現実がそこにあった。

 その運動の頂点にいたのは、この社会情勢の中で急激に力をつけたパークスという政治家だった。ナユタたちが初めてパークスの名を聞いたのは数年前のことだったが、その時は、ただ、ある地方都市でパークスという名の凶暴な扇動家が騒ぎを起こしているというだけの話だった。そんな話は当時いたる所にあり、そして、そんな扇動者は浮かび上がってはすぐに消えていったので、当時、パークスという名を気にも止めなかったものだった。

 だが、パークスは着実に勢力を拡大していた。ナユタの見た訓練された若者たち、若者たちが身につけていたきちっとした制服、そして、立派なトラック。それは、彼らの後ろに、資金も含めた強い後ろ盾があることを示していた。若者たちが準軍事的に訓練されていることから感じられるのは、軍が彼らの訓練に関与し、資金を出しているというのがいちばんありそうなことだった。

 そんな活動のリーダーであるパークスは独善的な正義感に支えられた偏狭な国家主義者だった。彼は、ブラーニアに覆いかぶさっている悲惨な現況は、戦勝国による過酷な抑圧と、ブラーニア国内に深く広く入り込んでいる異民族が原因と信じてはばからなかった。そして、それは戦勝国から課せられた巨額の賠償金に対する国民の憤激と合致するものだった。

 しばらく経って新聞に載ったのは、パークスが有志たちとともにブラーニア民族民主主義労働党を結成したというニュースだった。新聞によれば、その綱領では、次のようなことが定められたということだった。

「民族同胞のための民族国家樹立を目指す。」

「民族同胞の生存権確保こそが我が国の目指すべき道である。」

「民族同胞でない者は、適切な法案によって区別され、その適用を受けねばならない。」

 彼は、新憲法のもとで合法的に勢力を伸ばすことを目指して第三回普通選挙に立候補して当選したが、彼の党が獲得できた議席数は彼が狙っていた数よりもはるかに少なかった。そして、この選挙結果は彼に新たな信念を植え付けることとなった。

「この国は民主的に選挙で選ばれた議員によって構成される議会と、議会の支持に基づく政府によって運営されている。だが、このような民主主義においては、多数こそが正義という美名のもと、愚昧な大衆に迎合する政治が横行しているだけではないか。大衆は正しい判断のできる輩ではない。ある意味、大衆ほど愚劣で横着なものはない。そして、そんな民主主義の必然的帰結となる大衆政治においては、真に価値のある施策が大衆の支持を得られないばかりに実行できないという事態にもなりかねない。大衆の支持を得ることが重要なのではない。彼らは、教育し、指導せねばならない。正しいことを彼らに植え付けることこそ、我らの役目だ。彼らに我々を支持させねばならないのだ。」

 パークスは、以前にも増して過激な言葉で、新たな民族救済運動と異人種排斥運動とを繰り広げた。それは極めて粗雑な精神に支えられた政治運動であったが、通貨の崩落とインフレーションによって生活基盤を破壊された中産階級の多くが、その怒りの感情からパークスの主張に快哉を叫び、支持を表明し、さらにはパークスの新党に参加した。

 国民の間には国家全体主義の思想が浸透し、新聞の多くもパークスの活動を支持した。第四回総選挙でパークスの党は議席を倍増させ、一定の勢力となっていたが、今、世間の注目を集めていたのは、来たるべき次の第五回総選挙でパークスの党がどこまで議席を伸長させるかということであった。

 

 ゲーベルらのパークスに対する嫌悪感は非常に強かった。なによりも、ゲーベル、マティアス、クロイシュタットがブラーニア人にとって異人種であり、パークスがブラーニア人の優越性に固執し、異人種を排斥することを公言していたからだった。また、ルンベルグ人のフェドラーとキャサリンもパークスの言動に見え隠れする侵略主義を敵視していた。そして、ゲーベルらを擁護するグスタフもルンベルグ国籍の異人種であった。

「パークスなんて、虫唾が走るわ。」

 そう、キャサリンは吐き捨てるように言ったが、ルンベルグ国内にも、パークスの息のかかった勢力がじわじわと浸透してきているのも事実だった。実際、ルンベルグには多数のブラーニア人が住んでおり、パークスがルンベルグ国内にさらに勢力を広げようとしていることは多くの人々に信じられているところだった。

 ある意味、フィガラッシュの状況はその縮図とも言えた。表面では、この都でしばしば繰り広げられるパレード、美しく飾られた馬車が列をなすパレードに群衆が歓声を上げていたが、その裏では、ブラーニア人、ルンベルグ人、さらにはそれ以外の異人種の軋轢が増していた。ルンベルグ人口の三分の一を占めるブラーニア人の指導者たちは汎ブラーニア主義を掲げ、二つの国に分裂したブラーニア民族の統一を悲願としていた。しかし、当然のことながら、それはルンベルグの存在意義を根源から脅かすことを意味していた。

 ルンベルグ共和国のカンディ首相は、繰り返し断言した。

「ルンベルグは独立の共和国である。いかなる他国の支配も干渉も受けない。」

 しかし、パークス支持の個人、団体、結社などの活動を封じ込めることはできなかった。

 そして、ブラーニアの第五回総選挙では、パークスの率いる民族民主主義労働党は大躍進を遂げ、第二党としての議席を確保した。解散前に過半数を握っていたリベラル系の自由党は国民の不信に晒され、何とか第一党の立場は保持したものの議席数は大幅に減らし、過半数割れとなったのだった。内閣の首相を務めていた党首は選挙結果を受け、次のような声明を発表して辞任する他なかった。

「残念だが、今回の選挙結果を厳粛に受け止めるしかない。そして、私の役割は終わったと認識する他ない。だが、この国の進むべき道が、国際協調と自由平和主義であるのは間違いない。依然として、国民の支持が最も高い党は我が党であり、私の後任と我が党を国民が支持してくれることを期待している。」

 だが、後任の党首を選ぶ争いは党内の分裂を招き、党としての発言力は著しく毀損されずにはいなかった。また、大統領のノルケ元帥は、自由党の支持も受けてはいたものの、もともとリベラルとはかけ離れた軍出身でもあり、自由党の敗北と言っていい選挙結果にまんざらでもないというのが、一般の見方であった。

 ノルケ元帥は、国を統率する大統領にふさわしい発言を行いつつも、随所に本音の垣間見える発言を繰り返した。例えば、総選挙後に召集された国会で、ノルケ元帥は次のように演説した。

「今回の戦後五回目の総選挙が適正かつ民主的に履行されたことを誇りに思っている。こえは、我が国が着実に復興を遂げていることの証でもある。だが同時に、我々はこの選挙結果が意味するものを真摯に理解しなくてはならない。何と言っても、選挙結果は民意である。その民意が何を望んでいるか、それを理解することなく、国を正しい方向に導くことはできない。」

 ある意味、言葉の上ではあたりまえのことを言っただけの声明であったが、そんな風に理解した者は誰もいなかった。ノルケ元帥が大統領となる際、自由党の支持が必要だったため表向きは友好的な関係を維持してはいたが、現実の諸課題への対応では大統領と自由党とで意見が分かれることは決して少なくなかったからだった。大統領の声明は、今後、自由党の影響力を削減し、パークスの党を重んじるという明確なサインであった。

 実際、総選挙後の組閣では、自由党の新党首が首相を務めることとなったが、自由党の閣僚の数は約半分に減らされた。逆に、パークスの党は、自由党より一人少ないだけの閣僚を送り込むことに成功したのだった。

 だが、パークス自身は政権には加わらなかった。政権に縛られず、自由な発言と行動を確保した方が、自分たちの勢力伸長に有利と判断したためというのが、広く認識されたことだった。

 内閣ができると、ノルケ大統領は新聞記者の質問に対して明確に言い切った。

「国民に支持された民族民主主義労働党からの大臣たちは、その支持を支えに良い仕事をしてくれるはずだ。何と言っても、彼らは、国民が何を望んでいるかを理解しているわけだからね。」

 この発言を苦虫をかみつぶすような思いで聞いた議員は、自由党を中心に少なくなかったはずが、表立った異論は出されなかった。そして、一方のパークスはますます尖鋭的な主張と行動を繰り返した。

「自分たちには国民がついてきている。」

「自分たちの後ろには大統領がいる。」

 そんなパークスの発言がしばしば新聞や雑誌の見出しに踊った。そして、パークスの党の閣僚たちは、自由党主導の政策にしばしば異論を唱え、その異論をノルケ大統領が容れる中で、パークスの党の発言力はますます高まっていった。

 そして、テロや暴動などの社会不安も相まって、国家の存続に関する問題、他国との関係などについて軟弱に見える政策を行なったり、穏健な意見を述べたりすることは極めて危険なことになっていった。そんな政治家には常に暗殺の危機が付きまとい、狂信的な青年によって葬り去られた政治家や活動家の数は数えきれなかった。

 そんな時代背景の中、パークスが大きな支持を得たもう一つの理由は決断するということだった。政治と社会の混乱の中、毅然とした決断をなすことのできない政治家たちの中で、パークスの毅然とした態度、決意に満ちた行動が支持された。まさに、ただ明快な言葉を語り、ただ決断するというそれだけの理由でパークスは大きな支持を得ることができた。彼の決断が正しいかどうか、適切かどうかではなく、決めるという姿勢によって称賛を浴びたのだった。

 そんな中、ナユタはグスタフのパーティでシュテファンという文筆家と知り合い、その後、時々行きつけのカフェ・シュタイドルで顔を合せたが、その文筆家はこう言ったものだった。

「大衆は素朴であるが、素朴であればあるほど、彼らを引き回すのは容易なのです。テオドールという哲学者が言った通り、大衆はスローガンやアジテーションによって簡単に扇動される。標語や広告が世に溢れているのはそのためですよ。そして、その力によって一旦動き出したら、それを止めることは非常に困難だ。集団催眠とも言って良いと事態です。昨日まで自由を讃える政府を支持していた者たちが、今日はパークスに忠誠を誓って敬礼する。それが大衆社会なのです。」

 シュテファンは前回の大戦のとき、ほとんどの文筆家仲間が祖国の戦争を支持した中で敢然と反戦論を展開した作家であったが、社会を見通す彼の目はまさに慧眼と言って良かった。

「パークスは自分の語る道の先に何か素晴らしい未来が待っているという予感を国民に植え付けている。それを真に受ける大衆は、杖一本で門の中に追い込める家畜の群れも同然ということを彼は理解しているのでしょう。大衆というものは、鈴を付けた先導羊のあとから、どこに連れてゆかれるか考えもせずについてゆく羊の群れ同然なのです。」

 彼の語ったとおり、国民は極めて盲目的になっているとしか言えなかったが、ともかく、パークスの強硬姿勢はブラーニア国内では大きな支持を得、パークス個人を崇拝する動きも加速していった。前大戦の結果によって強いられた屈辱を甘んじて受け入れた結果として他国から押し付けられたどんなすばらしい民主憲法よりも、自国を強い国、美しい国にするというパークスの信念が国民の心を動かしたのだった。

「この国は世界一の美しい国だ。わがブラーニア民族は世界一素晴らしい民族だ。」

 そう繰り返すパークスの言葉は、ブラーニア国民の自尊心をくすぐり、さらには、自信を植え付けずにはいなかった。だが、憎悪を煽る言葉は、その低劣な精神によって、融和的な言葉、リベラルな言葉より扇情的であり、攻撃的である。その背後には背理が働いているのだ。

 

 ゲーベルたちはパークスを毛嫌いしていたが、芸術家や文化人でパークスを支持する者も少なくなかった。そして、一方のパークスも、ブラーニアの誇る音楽芸術には強い誇りを持っているようで、演説の中などでもしばしばそのことを言及していた。

 パークスは何度となく力説していた。

「ブラーニアが誇る大音楽家たちの作品ほど輝かしくブラーニア精神を表現したものはない。その音楽は万人のために広められねばならない。」

 パークスの音楽体験の原点が、前大戦以前のある年の『シュタルバー芸術週間』を聞きに行ったことにあるということも広く知られていた。グスタフのところのパーティの席で、ある劇場監督はこんな話をしてくれた。

「最終日のブラーニアの偉大な作曲家たちの作品によるプログラムには特に感銘を受けたとパークスは言葉を詰まらせながら語っていましたよ。」

 だが、グスタフは皮肉交じりにこう言ったものだった。

「そうですか。でも、そのとき、そのコンサートを指揮していたのは、パークスが排斥したいという異人種に属するこの私なんですがね。」

 その劇場監督は鷹揚として答えた。

「パークスは、良いものは良いと理解できる人物ですからな。ある意味、彼のような、文化や芸術が分かる人物が政治的に力を持つことはありがたいことではないですかな。」

 グスタフは首をすくめて見せただけだった。

 一方で、パークスは前衛的な音楽は理解できず、できることなら排除したいと考えていた。

「無調の音楽ほど人々の心から遠い音楽はない。そんな音楽は誰もいない場所でなら響かせても構わないのかもしれないが、人々の前で奏でるべきものではない。」

 それがパークスの主張しているところだった。

 劇場監督らがグスタフのそばを離れると、グスタフはナユタに語りかけた。

「ぼくたちはほんとうの音楽をやらなくちゃならない。真の音楽が分からない連中がすばらしい音楽と言って喝采する音楽ではなく、ほんとうに音楽が分かる者たちの心に染み入る音楽をね。ナユタさん、あなたは仲間だと思っていますよ。」

「ありがとうございます。気持ちとしてはまったく同感です。私の音楽はあなたの音楽にまるで及ばないかもしれないが、ほんとうの音楽をという思いだけは持っているつもりです。」

 ナユタがそう答えると、パーティに来ていたシュテファンが声を掛けてくれた。

「私も心から賛意を表しますよ。ほんとうの音楽、ほんとうの芸術、そういったものこそが真の価値を持っているのですからな。」

 

 ともかく、パークスはいつの間にか国民的英雄となっていたが、一方で第五回総選挙の結果できた新内閣は極めて不安定だった。自由党の首相は、パークスの党の閣僚たちを抑えることができず、不協和音が続出した。

 そして、新年度の予算案作成において、自由党の財務大臣が中心となって作った緊縮財政と保護貿易を核とした予算案が内閣に提出されると、パークスの党の経済大臣が激しくかみついた。

「こんな予算案は国民をさらに困窮に追い込むだけではないか。政府の財政均衡のことしか頭になく、国民をばかにした案としか言いようがない。」

 おそらくパークスの指示によるものであったろうが、経済大臣は、自由党が反論の論陣を張り一切譲歩する気のないことを見て取ると、決然と大臣職を辞職したのだった。

 首相は、自由党から新たな経済大臣を任命しようとして人選も行ったが、ノルケ大統領は裁可しなかった。

「経済大臣の意見を無視した予算案作成こそ問題ではないか。」

 それがノルケ大統領の言い分だった。そして、

「新経済大臣は、パークスの党から迎えよ。」

というのが、ノルケ大統領が首相に厳命したことだった。

 これに対して、パークスは声明を発表した。

「首相が、緊縮財政至上主義に基づく現予算案を破棄し、公共投資など政府支出を大幅に増やす案を作るのでない限り、経済大臣を出すことはない。」

 こうなると、首相にとって取れる手段は議会の解散しかなかった。こうして、第五回総選挙から半年も経たずに第六回総選挙が行われることとなった。そして、その選挙結果は決定的だった。パークスの民族民主主義労働党は過半数こそ得られなかったものの第一党となり、自由党はさらに議席数を減らして第二党に転落したのだった。

 自由党はそれでも、パークスの党を除いた大連立政権を作るべく画策を重ねたが、ノルケ大統領はパークスを首班にするしかないと考えていた。ただ、ノルケ大統領もリベラル勢力とのバランスも必要と感じていたようで、また、パークスのあまりにも過激な方針と行動への警戒感もあって、パークスの首相就任に条件を付けた。

 それは、自由党から外務大臣、国防大臣、教育大臣を出せというものだった。全権委任の組閣を思い描いていたパークスは唖然としたようで、彼は首相就任を固辞した。

 このパークスの対応はノルケ元帥には極めて不快だったようで、

「ただの伍長のくせに。」

と吐き捨てた言葉が新聞にも載るほどだった。かつての大戦のとき、パークスはただの伍長に過ぎなかったからだった。

 その後さまざまな画策や駆け引きがあったようだが、結果としてできたのはリベラル及び中道勢力からなる内閣で、首相には中道の第三党の党首が就任した。新首相の方針は、政権奪取に失敗し党内で異論が渦巻いているパークスの党の混乱に乗じて、国内勢力の宥和を図ることだった。新首相は、賃金引き下げを命ずる先の政府の出した政令を廃止し、国家反逆罪に問われていた者たちの恩赦を実施し、さらに、パークス党内の左派分子を懐柔しようと試みた。パークスの党を分裂に追い込めば、この政治危機を乗り切れるというのが首相の計算のようだった。

 だが、パークスは党内をまとめ切り、党の団結を維持することに成功した。そして、国内の大量の失業者対策を巡って政権内で亀裂が生じると、内閣の崩壊は早かった。首相は議会の解散を発議したが、ノルケ大統領はこれを裁可しなかった。首相には辞任以外の道はなく、ノルケ大統領は、全権委任の形で、パークスを首相に指名することになったのだった。

 結局、パークスのごり押しにノルケ大統領が折れた形となったが、パークスは首相に就任すると、すぐさまノルケ大統領に忠誠を誓った。パークスは首相就任演説で共和国憲法を重んじることを改めて宣言し、同時にノルケ大統領のブラーニア復興への献身を讃え、復興を阻んだのは、ノルケ大統領の方針に従わなかったり、異を唱えた左翼系政党、リベラル系政党だったと断じた。ノルケ大統領はこの演説に満足したようだった。

「彼は有能だ。自由党はブラーニアを復興できなかった。ブラーニアを復興させることができるのはパークスしかいない。」

 それが、新聞に載ったノルケ大統領の言葉だった。

 パークスは首相の座に着くと、続けざまに権力基盤の強化に乗り出した。首相就任の二日後、共和国憲法の規定に基づく大統領令を活用して、「国民保護のための大統領令」を発令させて集会・出版・言論の自由を大幅に制限した。五日後には、「国家保護のための大統領令」も発令させて、国民の権利停止の範囲を拡大した。さらに、国会の決議によって、左翼政党を非合法化し、左翼政党に属する議員を国会から除籍し、中道政党の活動も大幅に制限したのだった。

 しかも、この時、ノルケ大統領の任期は残りわずかになっていた。ノルケ元帥は老齢を理由に次期大統領選挙には出馬しないと表明し、ノルケ元帥が次期大統領候補として推薦したのがパークスだった。そしてパークスは圧倒的な支持を受けて大統領に当選したのだった。

 新大統領となったパークスがまず行ったのは、大規模な公共投資によって景気回復を図ることだった。前政権で政府の顧問を務めていた経済学者たちは財政緊縮と賃金抑制が必須であり、政府支出を増やすべきでないと主張してきたが、その主張に基づいて実施された政策は人々の困窮と不満を増大させ、パークスを台頭させただけだった。パークスは、逆に、公共投資を増やす政策によって、わずか二年で八百万人の失業問題を解決し、物価を安定させることに成功したのだった。

 パークスの政策によって高速道路や港湾が整備され、景気の回復によって首都シュタルバーには立派な高層ビルディングが次々と建設された。

 技術面でも革新が進んだ。廉価な国民ラジオが発売されて国民に普及し、テレビ放送も世界に先駆けて開始された。映画館も増設され、映画作製のために大きな予算もつけられた。ラジオ、テレビ、映画は新たな楽しみを運んでくるものとして国民を喜ばせ、それは政権への支持にも繋がったが、同時にそれはプロパガンダツールとしても極めて有効だった。

 一方、パークスはもう一つの政策の柱である異人種排斥も推し進めた。新たに、「学校成員数法」が制定され、小中学校、高校、大学における教員の異人種の率は五パーセント以下と定められ、さらに、新たに入学する生徒については、異人種の率を二パーセント以下と定められたのだった。また、パークスは「公職員定数法」も改正し、非ブラーニア民族出身者は次々に退職に追い込まれた。

 生活に関わるさまざまな場所でもその影響は現われた。異人種のマティアスは役所にある手続きに行ったときのことを語った。

「まったく、まるで手続きが進みやしない。この書類じゃ駄目、この書き方では駄目、そんな連続さ。係の者が言うには、この書類をブラーニアに送っても却下されるだけだと言うんだが、書類は揃ってるはずだと言っても駄目の一点張りで、じゃあ、どうしたら良いんだと言ったら、めちゃくちゃ手間のかかることをやれって感じで。最後は、そんな面倒な申請なんかやろうと思うのが悪いんだとでも言わんばかりだ。そいつらもおれたちの人種に敵意を抱いているとしか思えなかった。」

 おそらく、それに類する話は社会の底辺でごまんとあるのだろう。そして、それが社会の現実、人間の現実なのだ。

 だが、パークスの二つの政策、すなわち経済政策と人種政策はパークスの人気を支え、パークスの権威を著しく確立させた。そして、これらの成果と国民の支持を背景に、民族民主主義労働党以外の政党を非合法化していった。

 ゲーベルらは、このパークスの成功を苦々しく見つめるほかなかった。

「なんであんな偏狭な国家主義者が人気を得るのかね。」

とゲーベルは皮肉っぽく言ったが、ナユタは言った。

「パークスの経済政策が成功したのは確かだかなら。ブラーニアの多くの人たちはこれまで、自分たちの困窮の原因は前大戦の敗北であり、その結果として戦勝国によって押し付けられた過酷な講和条約と巨額の賠償金だと思っていた。だけど、パークスの経済政策が成功して分かったことは、それらがブラーニアの困窮の原因じゃないってことだ。もし、本当にそれが原因なら、今も巨額の賠償金は払い続けているわけだから、パークスのやり方で困窮がなくなるわけがない。だから、原因は、巨額の賠償金でもないし、領土が削減されたことでもないし、軍備を縮小されたためでもないんだ。よく考えれば分かると思うけど、軍備縮小はむしろ経済的には利益になるはずだしね。」

「だけど、賠償は経済にとって重いんじゃないか?」

 そう問いかける仲間たちにナユタは答えて言った。

「たしかに、巨額の賠償は額としては重い。だけど、実際に支払う際にはランズウッドなどからの借款によって賄われ、国の経済への直接の影響があるわけじゃない。しかも、パークスの異人種排斥に好感を持っているというランズウッドの自動車王はブラーニアに積極的に資金を回しているというじゃないか。」

「たしかにそう言われればそうかもしれない。だけど、じゃあ、何がブラーニアを困窮させたんだ?」

「ブラーニアを困窮に陥れたのは、結局、インフレだよ。それは、前政権の失政によると思うね。だけど問題なのはそっからだ。パークスはブラーニアの困窮を戦勝国のせいにして国家主義を煽り、人々の不満を容認し、いや、むしろ、自ら国民の不満を代弁して主張することによって人気を得、選挙での勝利を手にした。そして、経済の成功によって国家を立て直した今も戦勝国への憎悪を収めることなく、講和条約に基づく戦後体制を非難し、それがさらに国民からの支持を高めている。加えて、異人種差別も国民の支持を集めるのに一役買っているしね。」

「たしかにそうだな。右翼のナショナリストたちは困窮の原因を講和条約に基づく平和体制と異人種のせいにし、さまざまな手口で人々の不安を煽ってきたんだからな。かつて、古代の歴史家が、『一人を欺くより、三万のアテナイ人を騙す方が容易だ。』と書いているが、まったくその通りのことが起こっているな。」

 そう言ったのはフェドラーだった。ナユタは再び言った。

「その通りだよ。パークスの言葉は、自信と確信に満ち、力強いかもしれないが、本質的には稚拙な知性を露呈しているに過ぎない。フィガラッシュの喫茶店や、シュタルバーのビアホールで独善的な見解を振り回す者たちとなんの差もないね。」

 ゲーベルがぽつりと言った。

「だけど、戦争だけはご免蒙りたいね。」

 ドキッとする言葉だった。仲間たちの中で先の大戦に出征したのは最年長のゲーベルだけだった。皆、ゲーベルが戦場で戦ったことは知っていたが、ゲーベルが戦争のことを語ったことはほとんどなかった。

 だが、この日、ゲーベルは口を開いた。

「パークスの横暴が戦争につながるとしたら、恐ろしいことだ。戦争は戦場を体験していない市民が想像できるようなものじゃない。」

 そう言うと、ゲーベルは先の大戦でのことを語り出した。他の者はゲーベルが出征したいきさつを知っていたようだったが、ナユタが聞いたことがなかったこともあって、ゲーベルはその点から説明した。

「ぼくは大学在学中に将校としての教練を受けていてね。卒業と共に召集されて少尉として出征したんだ。南の山岳地帯の戦場だった。そこで分かったことは、戦場は都市の市民や農民が考えているようなものじゃないということだ。政治家や思想家、国のリーダーたちは、国のためとか正義のためとかという言葉を振り回すが、戦場はそんなもんじゃない。そこには殺戮しかない。そして、非情な命令と虚偽がうずまくおぞましい世界があるだけ。将軍たちは、戦功を上げることだけに血眼になっている。そして、無謀な命令を次々に発し、兵士たちが次々に倒れていく。その戦線でおれの仲間だった将校で生き残った者は三割もいない。」

 ナユタが訊いた。

「それはどんな戦いなんだ?塹壕戦か?」

「ああ、塹壕戦だ。塹壕、思い出すだけでぞっとするね。狭くて窮屈で、敵との距離はほんの数十メートルか百数十メートル。ただ、塹壕の生活は厳しいけど、ある意味安全だ。自分が怖がっていないことを示そうとする者は危険な目に会うけど、敵の弾を十分怖がって慎重に行動すれば安全だ。ほんとうに怖いのは攻撃だよ。攻撃命令が出たら、皆、本当に緊張する。攻撃から生きて帰って来れるかどうかなんてまるで分からないんだからな。だから、攻撃が延期されたら、兵士たちはみな心の中で喝采を叫ぶのさ。一時間の延期だけでも、あと一時間は確実に生きれると喜ぶ。その一時間でコーヒーを飲んで、タバコを吸う。それが兵士たちに残された全人生の楽しい予定なんだ。」

 戦争についてゲーベルが語るのを聞くのは初めてだった。みな、固唾をのんで彼の言葉に耳を傾けた。

「とにかく攻撃は恐ろしい体験だ。将軍たちは戦功を焦って攻撃計画を立てる。何度か、参謀たちの議論の場に立ち会ったことがあって彼らの言葉を耳にしたことがあるけど、『三千殺せば、あの山をとれる。』とか、『五千殺せば、あそこをとれる。』というのを何度も耳にした。てっきり、敵をそれだけ殺せばということかと思ったけど、そうじゃない。味方がそれだけ死ねばということなんだ。彼らにとっては、兵士なんてただの駒、ただの道具でしかない。そして、彼らの攻撃計画には、決して十分な勝算があるわけじゃない。だけど、それが一旦命令された以上、それを実行するしかない。拒めば銃殺だからなら。攻撃は、全戦線で、決められた時間に一斉に攻勢をかける。中隊長の「攻撃準備!」という命令でぼくたちは身構えるが、その瞬間はほんとうにぞっとするほど緊張する瞬間だ。安全な場所を離れて、敵の機関銃が待ち受けている中へ出撃するんだ。塹壕から出ると、身をかがめながら、敵の塹壕に向かって走る。その間も敵の機関銃からの弾が飛び続け、味方の兵士が倒れてゆく。あるときの攻撃では、決死隊が敵の鉄条網の一部を破壊し、そこに、味方の七十五ミリ砲が集中砲火を浴びせたけど、結局攻撃は成功しなかった。膨大な死傷者が出ただけだった。」

「それがほんとうの戦争なんだな。」

 ナユタが表情を重くしてそう言うと、ゲーベルが続けた。

「ああ、そうだ。だけどおれはひとりの敵も見ていないし、ひとりの敵も殺していない。他の兵士たちもそうさ。それが戦争なんだ。戦車は負傷者たちを容赦なく踏みしだいて進むし、飛行機は市井の婦女子にも爆弾を投げつける。戦争は卑劣で、野獣的で、非人間的だよ。正義が振りかざされているが、やってくるのは苦難だけだ。そして、みんな不機嫌になり、経済混乱や貨幣価値の暴落に苦しめられ、自由を失って国家への隷属的状態に置かれ、神経をすり減らされる。不信が不信を呼ぶ社会。それが戦争のもたらすものだよ。」

 それからしばらく経って、ナユタが行きつけのカフェ・シュタイドルでときどき会う文筆家シュテファンにゲーベルの体験した戦争の話をすると、彼はこう言ったものだった。

「かつて勝利を手にしたランズウッドのある将軍がこう言っています。『戦争にはほんとうにうんざりした。戦争の栄光など戯言に過ぎない。戦争は地獄だ。』勝利の冠をいだいた将軍の偽らざる言葉です。実際、戦争そのものはほんとうに悲惨ですよ。私は最前線に行ったことはないが、戦場の悲惨さはいろいろ見聞きしました。私は軍の戦争資料課から、敵の布告や掲示物を蒐集するよう命令され、いろいろなところへ行きました。家を破壊されて地面の高さの家に住んでいる住民や、ぼろぼろの軍服を着た捕虜とかも見ました。また、あるとき、病院列車にも乗ったが、あれは悲惨でした。身震いなしには思い出せない。」

 ナユタがぜひ聞かせて欲しいと言うと、彼は続けた。

「瀕死の人々が藁や硬い担架の上でうめき続け、血にまみれた粗末な毛布が掛けられていました。ヨードフォルムと血の匂いが混じったようななんとも言えない嫌な匂いが充満していました。モルヒネが足らないので、恐ろしいうめき声があちらからもこちらからも聞こえてくる。そして、次々に死者が出て、でもそのベッドが空くとすぐに次の瀕死の兵士が横たわる。まさに、動く柩そのものでした。」

 ここで言葉を切ったシュテファンは思案深げに続けて言った。

「でも、結局、彼らが戦った戦争は何も生み出しはしなかった。平和主義の作家や戦争詩人たちが訴えているとおり、こんな戦争はもう二度とやってはいけないのです。

「何も生み出しはしなかった。たしかにそうなのでしょうね。」

 そう言ってナユタがうなずくとシュテファンは言った。

「戦争が終わった社会では、小説家が書いているように、多くの人々が、すべてのものが台無しになってしまったと感じています。かつての栄光の時代はまさに昨日の世界になってしまったのです。自信は皮肉に変わり、人々も政治家も臆病になり、砲火を恐れるようになりました。それが今の世の中です。でも、昨日の世界で我々がもう一つ知っておかねばならないのは、良心を持っていると思っていた我々の仲間の少なからぬ者たちがこぞって戦争を賛美したことです。」

「それはかつての大戦の際のことですね。あなたの仲間の多くが祖国の戦争を支持したことは知っています。だが、あなたは毅然として反戦論を掲げられた。」

 シュテファンはうなずいて続けた。

「先の大戦が始まったとき、私は自分の立場を明確にはしていませんでした。それが必要とも思っていなかった。だが、我々の仲間の多くは戦争を賛美し、戦争を推進する者たちの片棒を担いだのです。熱狂し、戦争の美しさ、崇高さを謳い上げたのです。二度と敵国人と交流を持たないと強く宣言し、彼らの文化は自分たちの文化に比べてばまったく卑称で愚かなものに塗り固められていると言ってはばからなかった。哲学者たちは戦争は未来を開くと言ったし、宗教家ですら戦争遂行者たちに声を合わせました。」

「その彼らはどんな気持ちからそうしたのでしょう。国の政策でやむなくそうしたとか、あるいは、自分の目先のメリットを考えてとか。」

 このナユタの言葉にシュテファンは首を振った。

「そんな者のいなくはなかったでしょうが、多くの者はそうじゃありませんでした。それが恐ろしいところなのです。多くの者は、そうすべきと心の底から信じてそうしたのです。戦争が始まった時、『自分が真に為すべきことを発見した。国民と民族に奉仕する道を見つけた。』と目を輝かせた者もいました。まさに、狂気の合唱でした。そして、人々はそんな扇動に乗せられて敵国の音楽や演劇を追放しました。」

「生きにくい世の中ですね。」

「ええ、昨日まで良心に基づく自由主義者、個人主義者と思っていた友人が一夜にして狂信的な愛国者に変わり、『憎むことのできない者は、真に愛することはできないのだ。』というような粗暴な言葉を吐くようになるのですからね。」

 そんな話をいろいろと語ってくれた後、シュテファンは、警告めいた言葉を語った。

「粗暴な言葉で大衆を狂気に駆り立て、その大衆の熱狂に支えられ権力を手にした者が国を導こうとしている。極めて危険な兆候です。」

「パークスのことですか?」

 シュテファンは「ええ。」と大きくうなずき、さらに、パークスに関する様々なことを教えてくれたのだった。

 

 そのシュテファンはあるとき、カフェ・シュタイドルで一人のランズウッド紳士を紹介してくれた。レジナルドという名で、このカフェで何度か見かけたことのある顔だった。

 シュテファンはナユタとその紳士を引き合わせて言った。

「こちらがナユタさん。音楽家で最近話題のナンシーの踊りの音楽を作った方でもあるんです。そして、こちらはレジナルド卿。ランズウッドの外交官で在ル・マーズの大使館員だったのですが、大戦後コヒツラント王家の嫡子である若いフランツ王子の家庭教師を勤めている帝師です。ご存じとは思いますが、コヒツラントは先の大戦の約十年前の革命で王政から連邦制の共和国に移行したのですが、コヒツラント帝室はル・マーズの宮殿に留まっていました。でも、しばらく前にコヒツラントの帝室の方々はル・マーズの宮殿を退去させられ、今はフィガラッシュに身を寄せておられます。」

「コヒツラント王家の方々が宮殿から出たことは新聞で読んでいました。でも、フィガラッシュに来られているとは知りませんでした。」

 簡単な挨拶を交わした後にナユタがそう言うと、レジナルド卿はちょっと慇懃な皮肉っぽい笑いを浮かべて言った。

「コヒツラントでは宮殿退去のことは大々的に語られましたが、世界的には大事件じゃありませんから。実質の権力を持たない王家が宮殿を退去させられたというだけですので。だから、どこに住んでいるか知らない人がほとんどなのは当然です。それに、王家の方々にとっても、その方が安全、平穏というものですし。それで私はここには情報収集のためにここには定期的に来ているんですよ。街の中の生きた情報があるし、人々の考えを探ることもできますから。」

 ナユタがさりげなく、

「でも、帝室の方々にとって宮殿から出るというのはたいへんなことのでは?」

と訊くと、レジナルドは

「それはもう。」

と言って、いろいろ教えてくれた。

「革命でコヒツラントが共和制に移行したとき、皇帝は権力は放棄するが、皇帝の称号はそのままに国家の象徴となるというものでした。しかも、王家の財産と安全は保全するというものだったので、皇族の者たちは実権はないがこれからもずっとル・マーズの宮殿に住んでこれまで通り暮らせると思っていました。でも、ご存じのように、先の大戦で、コヒツラントはビシュダールやランズウッドと組んで戦争には勝ったものの国内は荒廃し、戦後はむしろ荒廃が進みました。そのため、連邦政府の威信は著しく傷つき、反政府勢力が国内で勢力を増し、社会は騒然としています。そして、そんな勢力の中には王政復古や立憲君主制を求める右派勢力もあることから、王家は他の反政府勢力からの批判の矢面にも立たされる事態になったのです。本来なら、連邦政府が王家を守るべきなのでしょうが、政府は逆に国内世論への配慮から、反政府勢力の主張を入れ、王家に国外退去を強制したのです。」

「でも、皇帝は国家の象徴ということになっているのに、簡単にそんなことができるんですか?」

「いろいろな思惑や策謀が渦巻いている世界ですからね。そもそも、革命の時に起こったことについて言うと、革命という視点から言えばいろいろ中途半端でした。世間一般では、当時実権を握っていた太后のマリアが、ときの皇帝の退位と象徴性の受け入れを条件に革命派の中で力のあった穏健な一派と取り引きし、別の皇帝を据えて自らは帝室内での権力を維持したと言われています。だから、革命派の中の急進派は新しい政府と袂を別ったのです。」

「そんな背景があったのですか。革命で皇帝が退位し、連邦共和国になったことは知っていましたが、その内幕は知りませんでした。」

「当然ですよ。この取り引きはある意味妥協の産物で、どちらの側もある意味、自分の弱みを晒したものなので、あまり表沙汰にしたくない事象でしょうからね。私は当時、外交官としてル・マーズで帝室や共和国の者たちといろんなやり取りをしましたので、その内幕はいろいろ耳に入っていましてね。ともかく、形の上では、皇帝は臣民の要望に深く耳を傾けて、その要望に添って自ら進んで退位し、共和政体の樹立を命じ、一方、共和国は、皇帝が臣民の熱望を受諾したことに深く感謝し、皇室への敬意の証として、帝位と帝号を含め、諸種の特権や私有財産を保証し、宮殿に住み続けることや巨額の年金も保証したのです。すなわち、帝室は権力は失ったが、それ以外のものはすべてそのまま維持できたというわけです。」

「ただ、共和派から見れば、譲歩しすぎのようにも見えるし、実際、そんな論調もあったと思うが。」

 そう言ったのはシュテファンだったが、レジナルドはうなずきながらもシニカルな笑いを浮かべて言った。

「おそらくその通りでしょう。そう言った意味では、あの妥協は、あの妥協でもっとも得をする人物が練り上げたものと言えるでしょう。それは誰かと言えば、連邦共和国の初代首相になったユエンです。ユエンはある意味したたかな野心家で、もともとは皇帝に使える将軍だったのですが、皇室の形勢が悪くなると共和派に鞍替えし、皇室と革命派の間に立って調停を行ったのです。彼は共和派の仲間や革命家にはこう言いました。『皇帝は退位し、権力を放棄するのだから、君たちが望んでいる共和国が手に入る。それに対して、帝室は実態のない帝号を保持して宮殿に留まるだけだ。共和国が皇室に払わねばならない年金は巨額に見えるかもしれないが、抗争が長引くことによる対価と比べればはした金に過ぎない。しかも、共和国は皇帝を刑場に送ったりしないわけだから、諸外国からも人道的と敬意を表されるだろうし、共和国の威信を何ら傷つけず、品位を向上させることになる。また、今後、反動的な帝国復活論者が帝室の者を担ぎだそうというたぐいの策謀もこの処置によって未然に防げるというものだ。共和国は輝かしいスタートを切り、皇室はゆっくりと朽ち果ててゆくのだ。』一方、彼は帝室には別なことを言ったのです。すなわち、『この協定は帝位を救うものだ。皇帝は皇帝のまま。失うのは統治権のみ。皇帝は国民の上に象徴として君臨し続ける。しかも、古来の典礼の維持と皇廟の保護が保証され、皇室維持のための巨額の費用も共和国が負担する。政府に失政があったり、国内が混乱したりしても、その責を負う必要はまったくない。そして、革命による混乱と内戦の恐怖におののく臣民を見るに忍びないという理由で退位する皇帝を国民と諸外国は賞賛するだろう。』とね。

「巧妙な条件ですね。でも、ほんとうに皇帝は素直に応じたのですか?」

「マリアが素直に応じたかどうかは分かりません。でも、大事なのは、皇帝の取り巻き連中の意思なのです。彼らにとっては、保身という観点から何の問題もなかった。彼らの組織や機構はそのまま保全され、従来然としたことをやって既得権益をそのまま享受できるわけですからね。それでともかく皇帝が共和制を望む国民の意思を理解し、政治的混乱が終息することを願って国民のために自発的に共和制樹立をして宣言し、権力を放棄するという形になったのです。でも、この協定でもっとも利益を得たのが、両者に勝者だと思い込ませたユエンその人です。彼は全権力を手に入れ、初代首相になった。そして、彼が首相になったことで先の世界大戦に勝つことができたとも言えます。もし、帝政のままだったり、あるいは帝国のもとで国論が分裂したままだったら、はたして戦争に勝ててたかどうか。ランズウッドだってどこまで真剣にコヒツラントの支援をしたか分かりませんからね。その点、ユエンはランズウッドにも受けが良かった。私が帝師になったのは戦後しばらくしてのことですが、ランズウッドの外務省は特に異論もなくそれを認め、むしろさまざまな協力を約束してくれました。ランズウッドは、コヒツラント帝室の内情を知るためのルートとして活用できると踏んだと思いますし、コヒツラント外務省もユエンもコヒツラントの帝室とのパイプ役として期待した面もあると思います。そんな背景の中、私は帝師となって宮殿に入りました。だが、宮殿の中で旧態依然とした宮廷生活が外界と無縁に続けられている一方、外の世界では、特に、大戦後は、不況によって失業者が溢れて社会が混乱し、暴力と革命騒ぎの連続でした。大戦後の混乱と疲弊、荒廃は急進派の勢力を急拡大させ、王政復古や立憲制の動きがそれに輪をかけました。その混乱と国民生活の窮乏のためにユエンは急速に支持を失い、結局、辞任するほかありませんでした。でも、その後の内閣は成立しては次ぐ次に倒れ、一方、議会は解散を繰り返すだけで何ら有効な手を打つこともできない。それはまさにさまざまな騒乱やテロ騒動が頻発し、飢饉や内乱、蛮行などが続く中でいろいろな政治家や軍の陰謀、策略が渦巻く世界です。今のケッセリン首相になっても混乱が収まらない中、ユエンは再び皇室を担ぎ出して立憲君主制にしようというようなことも画策したのです。立憲君主制を越えて君主制に戻そうという動きも加速しました。政府の無力を見た者で、急進派に同調しない者でそれを支持した者も少なくありません。そして、それと結託したのが、帝室に仕える宮廷の者たちです。彼らは自分たちの保身と現在の地位の保全のために彼らと手を組んだ。でも、それが結局、急進派からの批判を強め、ユエンとケッセリンの政府と急進派との間の緊張を高め、首都ル・マーズで武力衝突も含めた混乱に繋がり、宮廷から帝室の者たちが退去を迫られたのです。

「それで退去することに。」

「ええ、でも、自発的に出たのではなく、追い出されたわけです。」

「でも、宮殿とかは皇室のものなのでは?」

「ええ、財産は保全させていましたからね。でも、ともかく、その気になれば、昔の約束なんて反故にすることは難しくはありませんよ。ともかくあの日は大変でした。」

 そう言って、レジナルドは宮殿を退去することになった日のできごとを語ってくれた。

「あの日の二三ヶ月前からユエンは立憲君主制を新たに打ち立てることで権力を取り戻すことを画策したようです。宮廷の者たちや右派の者たちの中の相当な者たちが同調し、それを背景に、ユエンは武力を用いてでもという動きも強めていました。それに対して、立憲君主制には断固反対の急進派のヴェヒラムやパトリスは、もしユエンが武力で政府を倒そうとするならすなら自分たちも黙っていないと声明を発表し、武力闘争の準備を始めました。ただ、その構図の中で状況はほとんど動かず、一定の緊張が続く時期がしばらく続きました。そんな中で、まず動いたのがケッセリンでした。政府として事態の打開が必要と考えたのでしょうが、ユエンの軍が集結し、首都を目指す動きがあるとの報告を受けて、軍をユエンに差し向けたのです。そのため、首都ル・マーズの守備が手薄になりました。その機会を捉えたのがヴェヒラムです。ヴェヒラムは配下の軍をル・マーズに突入させ、市街戦が勃発したのです。ヴェヒラムは宮殿を占拠して皇帝を逮捕し、急進派を糾合してケッセリンの政府を倒して一気に権力を握るつもりだったのだと思います。」

「それでどうなったのですか?」

「ええ、ともかく、この事態で鍵を握っていたのはケッセリンでした。彼にとっては、そもそも権力はないが皇帝の称号を相変らず持つ者が宮殿に居座っていること自身が今回のような混乱を招いてているという思いが強かったんだと思います。ケッセリン自身も皇帝を崇拝しているわけじゃありませんし。だから、彼は、ヴェヒラムに屈するわけにはいかないが、さりとて、皇帝を守って闘うという意思ははなから放棄し、自軍には首相府の回りを固めさせたのです。ヴェヒラムの軍がル・マーズの一角に突入して街の一部を占拠した日、ケッセリンは安全のためのいう名目をつけて宮廷からの退去を要請したのです。次の日、私は皇帝の意向を受けて、ル・マーズの外国の公使館への受け入れを打診するため治外法権が認められている公使館区域にいたのですが、その間、宮殿では、ケッセリンの政府の役人が、かつての協定破棄の書面を皇帝に突きつけ、サインを求め、退去を求めたのです。後で聞いた話ですが、そのとき、役人は、『もし、サインしないなら、ヴェヒラムの軍はすぐにもここにやって来ようから、そうなれば、皇帝はヴェヒラムに逮捕され、彼らの規準で弾劾されることになるだろう。』と脅したそうです。」

「それではサインせざるを得ないでしょうね。」

「ええ、それで皇帝はサインし、一時間以内に退去するよう即されました。」

「でも、皇帝を首相府に連れてゆくというのはなかったんでしょうか?」

「ケッセリンにとっては皇帝はお荷物なんですよ。自分の所に皇帝がいては、これからも何かと火種になる。協定を破棄すれば、皇帝はただのコヒツラントの一市民ですから、どこでどうなろうが、死のうがヴェヒラムに捕まろうが知ったこっちゃない、ということですよ。もっとも、もし、皇帝がヴェヒラムに捕まっていたら、外国からはケッセリンの政府には大きな非難が浴びせられたことでしょう。私はあの朝、ランズウッドも含め各国の公使館を回り、一様に、『内政干渉をする意思は持たないが、皇帝の身の安全を軽んじる行為を黙認することはできない。また、皇帝が自分の意思で公使館に来るなら、人道的見地からもこれを保護する意向である。』という同意を取り付けていました。それで、私はそのような公使館の意向を持って政府の役人と会ってその意向を伝えた後、宮殿を退去した皇帝の元に行ったのです。」

「それはしかし、混乱して緊迫していたんでしょうね。」

「ええ、その日、私が公使館区域にいたときには、皇帝は暗殺されたとか、宮殿で虐殺が行われているとか、そんな流言まで飛び交っていました。公使館街には宮廷関係者が避難のために押し寄せ、騒然とした雰囲気になっていました。でも、昼近くになって、皇帝は無事で、退去はしたが臣下の家に避難しているという情報が入ったのです。それで私はその家に行き、一家の無事を確認してほっとしました。フランツ王子は泰然としていましたが、皇帝自身はおろおろして正直みっともないほどでした。ともかく、私も含めて周りにいる者たちが五台の自動車を手配し、それに乗って公使館区域に向かったのです。ほんの五キロくらいの距離でしたが、どこにヴェヒラムの軍がいるかに気を遣いながらなので、あちこちで右折左折を繰り返して複雑な経路で向かいました。ただ、幸い、私が政府の役人に伝えた諸外国の意向が功を奏したのか、政府の軍はどの検問所でも我々の車を通してくれました。」

「その後はどうなったんですか?」

「次の日、ケッセリンは皇帝が自発的に称号を捨て、宮殿から逃避したと発表しました。実際、皇帝がサインさせられた宣言は、皇帝からの一方的な宣言文であり、ある意味、政府との合意でも何でもないのです。だから、政府は、宮殿を逃げ出した皇帝に対して、政府は今後何の義務も負わないし、保護も行わないと宣言したのです。そればかりが、王家に対して、このまま留まり続けるなら、反政府右派の片棒を担いでいるという弾劾を起こし、王家の者たちを反国家活動に加担したとしてという罪状で逮捕することも考え得ると脅したのです。ある意味、皇帝を国賊扱いするとほのめかしたわけです。一方、ユエンと対峙していた政府軍は事態の急変を受けて、ユエンと停戦協定を結んで急いで引き返したました。ヴェヒラムはいったんは空の宮殿を占拠したものの首相府を守る政府軍を破ることはできず、ユエンの所に向かっていた軍が戻ってくるにいたってはル・マーズから退去するほかなくなったのです。」

 初めて聞くコヒツラント帝室のル・マーズ退去の内幕だった。それに関連して、コヒツラントの共和政治のことをどう思っているのかとナユタが訊くと、レジナルド卿は国民は帝政の時代を懐かしんでいると答えた。

「皇帝が権力を放棄して連邦共和制になったとき、新しい政治に期待した者も多かったと思います。でも、戦後の混乱の中で政治が混乱し、多くの国民が共和制には失望しました。共和制における政治勢力の分裂に伴う政治の貧困が戦後の混乱を原因と見ているわけです。」

 レジナルド卿はさらに帝師としての活動やフランツ王子の教育について教えてくれた。

「さっき言ったように、私は戦後すぐのころに帝師の一人となりました。王子には何人かの帝師がいるのですが、コヒツラント人でないのは私だけです。なぜ、私がというと、その背景には、コヒツラント政府が、将来に備えて、王子に先進的な政治制度を学ばせておきたいという思惑があったからだと思います。」

「それはどんな思惑ですか?」

 このナユタの問いに、レジナルドはうなずいて続けた。

「要するに、政府の多くの者が、民主制度に基づく連邦共和国の行く末が順風満帆とはならないのではないかと危惧していたということです。この危惧は決して杞憂ではなく、コヒツラントの状況を考えれば、むしろ適切な危惧とも言えるのですが、その危惧が現実のものとなり、共和主義者の政府が混乱したとき、フランツ王子を君主に抱いた立憲君主制を打ち立てる必要があるのではないかという思いです。実際、帝師となった後いろいろな関係者からそのような思いを聞きました。彼らは公の場ではそんなことは言いませんが、私と二人だけになると強い調子でそういったことを言う者もありました。おそらくそんな彼らは、私に、フランツ王子の教育に当たってそれを念頭に置いておいて欲しかったのでしょう。そんな背景で、当時、コヒツラント大使館勤務だった私に白羽の矢が立ったのです。私も当時、政府や宮廷に何人かと知古がありましたので、彼らが推薦したのだと思います。ともかく、帝師になることが決まると、ケッセリン首相にも挨拶に伺いましたし、政府や宮廷の主催するパーティにも何度か呼ばれました。」

「帝師というのは相当な地位なんですか?」

「ええ、宮廷においては、皇族の次に来るのが帝師なんです。もちろん、政治的な権力があるわけではないのですが、ともかく師ですから尊敬が払われ、その言葉にはそれ相応の重みがあるわけです。だから、宮廷に仕える者たちは、帝師の言葉を軽々しく扱うことは許されません。ただ、宮廷内には外国人を帝師に据えることには強い抵抗があり、ひとかたならぬ騒動が起こりました。宮廷内の守旧派には君主制度に基づく君主としてのあり方を基準に王子を育てたいという意向が強かったからです。でも、逆に、政府は、将来の共和国と宮廷との融和や円満な関係維持が不可欠と考え、ましてや王政復興のような動きが起きないようにという警戒感から民主的な教育を施したかったのです。結局、政府の意向が通ったのですが、着任してからもいろいろもめごとが起こりました。一番最初は、宮廷の者たちが私に祝儀を要求したことから起こりました。」

「祝儀をレジナルドさんが出すのですか?」

「ええ、宮廷のしきたりでは、新たに着任した者が宮廷の者たちに祝儀を配るのが慣例なのです。それで、私も祝儀に同意したのですが、私が領収書を要求したものですから、彼らは狼狽したのです。要するに、祝儀とは袖の下ということなのです。それで結局、彼らは祝儀の要求を取り下げました。」

「帝師としてのお仕事はどうだったのですか?」

「政府や宮廷での挨拶やパーティで忙しかった後、ようやく王子との面会の日が来ました。最初の日、フランツ王子は王子としての正装をして椅子に座って私を迎えました。それで私は慣習に則って皇帝の前に進み出て三度頭を下げて礼をしたのですが、フランツ王子は椅子から立ち上がって私の方に歩み寄り、握手してくれました。その儀式が終わって控え室に戻って儀式用の服装から着替えていると、さっそく教えを請いたいという連絡が来て、その日から堅苦しい礼儀のない師弟関係になりました。彼は学習意欲も高く、知的興味も旺盛で、毎日、国内外のニュースを新聞で読んでいました。それに礼儀正しく、高慢な心とは無縁な少年でした。ただ、残念ながら、外の世界を実感したことがない。宮廷の中で、仰々しい日課やへりくだった臣下たちに囲まれて生きているのですからね。ある意味、とても不健全な環境でした。」

「たしかに異様な環境とは言えますね。王子は外の世界との接触はなかったのですか?」

「ええ、全然ありませんでした。まさに宮殿という牢獄に閉じ込められていたのです。王子が外の世界に出てみたいと言うと宮廷の者から返ってくるのはいつも同じ返事でした。外には危険がいっぱい。皇室の者たちを付け狙うスパイや暗殺者だっている。それを警護するにはものものしい警護が必要になり、莫大な経費がかかる。政府も決してそれを認めはしないだろう。そんな返事でした。」

「皇室となるといろいろ難しいんですね。

「ええ。それでも、王子は数年前から宮廷から外の世界に移りたいと真剣に思っていました。それであるとき私にランズウッドに留学することができないか相談があったんです。私はル・マーズのランズウッド大使館と相談し、さらに本国の外務省とも掛け合ってもらったのですが、残念ながら返事は冷ややかなものでした。」

「どんな返事だったんですか?」

「ランズウッドからの返事は、皇帝の同意に基づき、政府から正式な要請があれば喜んで留学を受け入れるというものでした。でも、皇帝はともかく、政府がそんな正式な要請をするはずがないことは分かっていたんです。」

「政府としては国内情勢が安定しない中で、権力のない形だけの皇帝とはいえ、その嫡子を外国に出すようなリスクは犯したくということなんでしょうな。」

 シュテファンがそう言うと、レジナルドはうなずいて言った。

「その通りです。そして、ランズウッドとしては、勝手なことをやって内政干渉というような非難を浴びたくもないし、また、混乱するコヒツラントの内政に首を突っ込みたくないというのが本音なのです。」

「それはよく分かりますよ。でも、今は宮殿を出られたわけだ。」

「ええ、自発的に出たのではなく、追い出されたわけですがね。でも、これで外の空気も吸えるようになったわけで、これが王子のためになればと思っています。とりあえずは王家の方々に落ち着いた生活をと思っていますが、世の中の情勢は平穏ではありませんので、安心はできません。」

 そんな外の世界でフランツ王子はセルゲイのショーを見てぜひ自分の家でのパーティでもと思ったようで、あるとき、ナユタはナンシーやセルゲイと共にフランツの家でのパーティに招待された。

 そのパーティには錚々たる面々が集まっているように見えた。文化人、芸術関係者や芸術愛好家、文筆家の多いグスタフのサロンと違い、ここでは政治や経済分野の者が多いように見え、軍服を着た軍人もけっこう招待されていた。ルンベルグの軍服を着た者だけでなく、ブラーニアの軍服を着た者も交じっていた。

 ナンシーの踊りはいつも通り好評を博したが、踊り終わった彼女が麗人の雰囲気で控え室から戻ってくると、多くの者が彼女の回りに集まった。今度はぜひ自分のところのパーティでと言う者もあった。

 フランツ王子も彼女に近づき、さらにセルゲイやナユタにも挨拶してくれた。フランツはやや神経質そうな細身の王子だったが、そのちょっときつい眼光の奥には野心のうごめきがあるようにも感じられた。

 フランツ王子が離れると、ナユタはそばにいたレジナルド卿に言った。

「ブラーニアの軍人も来ているんですね。」

 レジナルド卿はちょっと渋面を作って回りに聞こえないように言った。

「ええ、表向きはいろいろな国の方々と友好をという訳ですが、正直言うと、最近、王子とブラーニアとの接近が気になっていましてね。ブラーニアにしてみれば、コヒツラントへの進出をうかがっていますから、必ずしも安定しないコヒツラントの政情の観点からフランツ王子は利用価値があるかもしれないと思っているのでしょう。」

「なるほど。でも、フランツ王子もブラーニア軍人とは親しげでしたし、フランツ王子にも思惑があるのでは?」

「おっしゃるとおりです。フランツ王子は、旧帝室の嫡子ですから、できることならコヒツラント帝国を再興して再び帝位にという思いがあっても不思議じゃありません。ただ、それがコヒツラントやフランツ王子のためになるのかどうか。危険な幻影かもしれませんのでね。」

 そう言ってレジナルドは言葉を濁したが、実際、政治の表舞台の裏では、そんなことが進行しているのかもしれなかった。

 

 さて、シュテファンが警告を発していたパークスは着々と前進していた。大統領に就任して二年目、パークスは憲法の改正を提議した。

 前大戦後の憲法は、ある意味、戦勝国によって押し付けられたものではあったが、戦勝国が理想と思っているものを形にした憲法でもあった。平和主義、基本的人権の尊重、自由と平等などが基礎にあり、その前文は、

「国家は、国民の自由な意志によって形成される。国民から自由選挙によって選ばれた代表者が国民の意志に基づいて権力を行使し、国民がその福利を享受する。これは人類普遍の原理である。」

と宣言し、さらに、

「世界の国々との相互理解と協調によって平和と共存繁栄を追求する。」

と謳っていた。

 これに対して、パークスが提議した憲法改正案では、「国民の自由な意思」、「平和と共存共栄」という言葉は消えていた。その前文は、

「ブラーニアは悠久の歴史と世界に冠たる固有の文化をもち、」

で始まり、

「ブラーニア民族の誇りと伝統を重んじて国家の力の発揚に努め、」

「自国を守る権利とその手段を保持し、」

「国民の第一の義務は国への奉仕であり、」

などの言葉が並んでいた。大統領の権限は大幅に強化され、国民の権利は制限された。平和主義は修正され、国防権が前面に打ち出された。

 この憲法改正案は、国会で全会一致で可決された。

 また、この憲法改正と同時に、パークスは「ブラーニア民族基本法」を成立させた。この法律では、ブラーニア人と異民族との婚姻を禁じ、さらに、異民族の者たちがブラーニア国旗を掲揚することもブラーニア国歌を歌うことも禁止した。この法律は異人種の人たちにさまざまな制約を課し、違反すれば、投獄されることになったのだった。

「これじゃ、おちおちブラーニアには行けないな。どんな言いがかりで逮捕されるか分かったもんじゃないからな。」

 そうゲーベルは言うと、マティアスも皮肉っぽく首をすくめて言った。

「住みにくい世の中になったものだな。まあ、ブラーニアの国歌を歌う義務がないのはありがたいがね。」

 この法律が成立すると、パークスは、多くの国民に喝采をもって迎えられたと断言した。実際には、無関心の国民も多く、必ずしも国民の多数が積極的に支持したわけではなかったかもしれないが、国内の風向きは明らかに変わっていた。国民の中にどくろを巻いていた憎悪の念がいたる所から噴出し始めていたのだった。

「この前、ブラーニア異人種の男と関係をもった女が首からプラカードを掛けさせられて立っていたよ。」

 そう言ったのはブラーニアでの演奏会から帰ってきたばかりのフェドラーだった。

「それって、さらし者じゃないか。」

「ああ、そうだ。パークスの手の者が見つけ出してやってるんだろうな。」

「それに、パークスは異人種だけじゃなく、反政府系の活動家や思想家なども反社会分子として次々に投獄しているらしいな。」

 自由な空気は明らかに次第に失せていっているようだった。そして、この動きはルンベルグにも波及しつつあった。ブラーニアだけでなくルンベルグでも学生団体や各種の団体から異人種の者たちは追い出され始めた。街では公然と排斥運動が繰り広げられ、影では、しばしば異人種の者たちが殴られたり足蹴にされたりしたのだった。

 一方、ブラーニアの憲法改正に対し、戦勝国からは、さまざまな懸念と非難が表明された。それはこの憲法改正が、前大戦の戦勝国が作り上げた戦後の国際秩序、平和と安定を担保するはずの新秩序に対する挑戦とランズウッドやビシュダールの為政者たちの目に映ったからだった。彼らにとって重要なことは、多大な労力と悲惨な戦禍の代償として勝ち取ったはずのこの戦後の平和秩序を維持することだった。そのための基本戦略は、その秩序に固執することであり、基本的には何も変えないということだった。

 そういった基本姿勢から懸念や警告が発せられたが、パークス大統領は胸を張って宣言した。

「我が国は国際協調を重視しており、この憲法改正は国際信義を破るものではない。ただ、独立した国として当然あるべき自助自立の精神に則り、当然の自衛権を謳ったものにすぎない。周辺国が表明している懸念は、我が国を二等国に貶めようとする策謀にすぎない。」

 そして、パークスは、

「自らの国を自らの手で守る。当然のことではないか。」

と啖呵を切ってみせたのだった。

 この反論は国民によって熱狂的に支持され、ブラーニア人の対外不信と対外批判はますます強まっていった。

 ただ、憲法改正で国防権を明確にはしたものの、パークスは再軍備宣言には慎重だった。それは、前大戦後の平和条約で、陸海軍の規模が規定されており、再軍備は他国の強い反発を招くことが予想されたからだった。

 しかし、そのような中で、パークスは、ニコルソン大将が入念に準備したものを利用することができた。特に、スチュアートの提言に沿ってニコルソンが特に力を入れた空軍力は、前大戦後に締結された平和条約になんら制限を受けなかった。他国の反発を恐れて、秘密裏にではあったが、ブラーニアは着々と空軍力を強化していったのだった。

 このブラーニアの動きを、前大戦の戦勝国の中心だった隣国のビシュダールとコヒツラント、海の向こうのランズウッドがまったく無視していたわけではなかった。

 しかし、ビシュダールでは膨大な犠牲者を出した前大戦の悲惨な記憶が国全体に重く圧し掛かっていた。国民に覆いかぶさっていた強い厭戦気分は、平和主義を唱える政党を伸長させ、このため、ビシュダールの主要政治家は、前大戦後の講和条約の枠組みを堅守することで平和を維持し続けようという姿勢以上の態度はとらなかった。軍事予算は決して少なくはなかったが、その大半は、ブラーニアに対する防御線を強化するための要塞の建設に費やされた。平和主義を標榜する政府は宣言した。

「我々は完全なる防御線を構築している。現在も、そして、将来に渡っても、いかなるブラーニアからの挑戦もこの防御線を破ることはできない。」

 「防御線は難攻不落」という言葉が、神話のように人々の心に染み込んでいたのだった。

 一方、パークスも国内向けには強弁を繰り返したが、他国に対しては過度に刺激して不要な警戒感を煽らないよう慎重に配慮することも怠らなかった。特に隣国のビシュダールに対しては気を配っており、前大戦後のさまざまな和解運動にも積極的だった。憲法改正から三ヶ月後には、ビシュダールの退役軍人組織の代表者とパークスの会見が実現し、その席で、パークスは明言した。

「ブラーニアはいかなる戦争も望んでいない。我々は、ビシュダールとの真の和解を望んでいる。」

 この会見は新聞でも大きく報道され、ビシュダールの国民に安心感を与えたし、ビシュダールの平和主義者や政治家たちを安堵させたのだった。

 一方、もう一つの隣国、コヒツラントの状況は複雑だった。コヒツラントは前大戦の戦勝国ではあったが、大戦によって国土は大きく荒廃し、戦後の復興は遅々として進んでいなかった。戦後の復興の最大の支障となったのは、国論の分裂、政治の混乱であった。

 一応、ケッセリンを首班とする中央政府がコヒツラントの正式な政府であり、各国ともこの政府を正当な政府として認めていたが、国内には、いくつもの反政府勢力が割拠し、政府の統治が国内に行き渡っているとは言いがたかった。

 そのため、隣国ブラーニアの動きに断固たる態度を取ることができず、対応は常に後手後手になりがちだった。ただ、国内の反ブラーニア感情は極めて強く、国民の反発は政府への不満となり、さらには、次々と経済進出によってコヒツラントに根を張ろうとしているブラーニア企業へと向けられた。隣国間の諍いは暗殺、テロ、さらには内戦まがいの紛争となり、国民の反ブラーニア感情から起こったブラーニア製品の不買運動も激しさを増し、ブラーニア系のデパートやホテルへの嫌がらせも後を絶たなかった。

 海の向こうのランズウッドでは、ブラーニアへの警戒を強める政治家もいたが、まだ少数派に過ぎなかった。そんな中、ブラーニアへの敵意を隠さない非主流派のブルックが国会で演説した。

「我々の繁栄に対する脅威は存在しないと多くの人々が信じ、そして、多くの政治家が主張している。しかし、脅威は海の向こうで姿を現しつつある。それは海の向こうのはるかかなたのことではない。まさに明日のことなのだ。政府は、前大戦後の講和条約によってブラーニアの陸軍を十万以下に制限し、かつ保有できる軍艦の数を極めて少ない数にすることで、世界の平和と我が国の安全が担保されていると主張している。しかし、空軍はどうなのか。頭の上を飛び越えて敵を攻撃できるこの新兵器について、平和条約は何の取り決めもしていないではないか。ブラーニアはそれをいいことに、急速に空軍力を増強している。この状況は決して看過してよいものではない。早急に、我が国も空軍力を増強すべきだ。」

 だが、自己宣伝家で恥知らずで出しゃばり屋として知られたブルックの主張はある意味、またいつもの政府攻撃と自己アピールの代物でしかないとも見られた。ランズウッドの国防大臣は冷静に答弁した。

「たしかに、講和条約が空軍力について取り決めをしていないという問題点に関するブルック氏の指摘は間違っていない。しかし、まず、空軍だけでは何もできないことを我々は理解すべきだ。たしかに、飛行機は空から爆弾を落とすことはできるかもしれないが、陸軍と海軍がなくしてどうやって敵国を侵略し、さらには征服することができるのか。それに、ブラーニアが空軍力を増強しているというが、彼らのレベルは我が国にはるかに及ばない。我が国の優位は依然としてなんら揺らいでいないし、遠い将来はともかく、近い将来、それが揺るぐことはありえない。」

 この言葉は、国民に安心感と政府への信頼感を与え、国防力に批判的な識者たちを黙らせた。そして、首相のシュタインは、平和を導くものは軍縮であるとの信念のもと、かつての戦勝国であるビシュダールとコヒツラントにも以前と同様、軍縮を要請し続けたのだった。

 実際、ランズウッドでは、海の向こうの大陸での紛争に巻き込まれて前大戦に参戦した結果、何万人もの若者が命を落とした現実が人々の心に重く沈み込んでいた。そもそも自分たちにはなんの関係もない戦争で、多くのランズウッド兵が悲惨な塹壕戦に晒され、膨大な死者が出たのだ。大陸には関与すべきでないという孤立主義と保護主義はこの国を覆う主流意見であり、世界の大国ではあるかもしれないが、世界平和推進のリーダー役になるべきだなどというのは極めて少数の意見に過ぎなかった。大陸から距離を置くこと、それが自国の平和と繁栄を担保するはずのものだった。

 だから、多くの者たちが、ブルックの言葉は大袈裟で、無益な戦争挑発だと聞き流した。ブルックの主張は不信感の目で見られ、その言葉に耳を貸さなかった。

「世界が不毛と混沌が渦巻く戦慄すべき世界に陥ったとしても、我々はこの自由のオアシスに留まり、これを守るべきだ。」

 そう明確に宣言する知事もいた。

「我々の前にある海、我々を大陸から隔てている海こそが平和のための最大の防波堤だ。海のこちら側にいる限り、我々は安全なのだ。」

 選挙民にそう力説する大臣もいた。

 

 だが、大統領に就任して四年目、パークスは、前大戦の戦勝国の意向を踏みにじり、決然と挑戦的態度を露わにした。パークスは、ラジオに向かって堂々と再軍備を宣言し、陸海空軍の強化、国民義務徴兵制の施行、艦船や戦車、航空機などの大量生産を実施した。

 国会で再軍備を宣言する演説で、パークス大統領は、戦勝国を非難して言った。

「前大戦の戦勝国は平和を維持するための方策として軍縮を進めると言った。だが、いったいどれだけの軍縮がなされたというのか?遅々として進まない軍縮は、ただただ、我が国への脅威を断続的に増加させていることにほかならないではないか。この事態に我々はいつまでも甘んじることはできない。我が国には、自らを守る権利がある。それは憲法でも保障されているところのものだ。私はこの国を守る使命からして、再軍備を実行せねばならない。」

 この演説に、全議員が立ち上がって拍手した。異論を感じ、心ならずもという議員もいたかもしれないが、それはいわば、体制翼賛の象徴的場面とも言えた。旧憲法の民主精神とは明らかに真逆な世界が現出したのだった。

 ともかく、パークスの演説は自国の再軍備を巧妙に正当化するとともに、他国を恫喝するものでもあったが、戦後の枠組みに対する根強い不信感と屈辱感をもっていた多くのブラーニア国民は喝采を叫んだ。国内には興奮が渦巻き、前大戦によって押し付けられた理不尽な平和、理不尽な枠組みを破棄する英雄的行為とみなされた。

「我ら、ついに立ち上がる。」

「ブラーニア、正当な権利として、再軍備を宣言」

 そんな見出しが次々と新聞に踊った。ブラーニア社会が挙げてパークスを指示し、熱狂して、パークスに自らの未来を託したのだ。

 ブラーニアの再軍備はナユタらの住むルンベルグでも大々的に報じられた。ルンベルグ国内には多数のブラーニア人が住んでいたが、ブラーニア系住民は再軍備の報に喝采を叫んだ。

「街ではブラーニア人が祝杯を挙げ、気勢を上げている。明日は、ブラーニアとの連携を求める大々的なデモがあるらしい。」

 ゲーベルは苦々しげにそう言った。

「政府はどうするんだ?」

 フェドラーがそう言ったが、ゲーベルは吐き捨てるようにこう言っただけだった。

「今の政府は反ブラーニアだから、苦々しく思っているだろう。だが、ルンベルグはあまりにも力がない。デモを弾圧すればブラーニアとの摩擦を増すだけだろうからな。結局何もできないだろうよ。」

 次の日、デモが行われたが、デモの通る街の家々は窓を閉ざした。デモは警官隊に囲まれて行進した。政府が行なったことは、デモを警官隊に守らせ、不測の衝突を回避することだけだった。

 ブラーニアの再軍備は、前大戦後に締結された平和条約への根本的挑戦だった。前大戦の戦勝国であり、ブラーニアと国境を接するビシュダールは、即日、兵役義務の延長を宣言した。また、同じくブラーニアと国境を接するコヒツラントでは、ブラーニア支持者によるテロ行為や破壊活動を厳しく取り締まることをケッセリン首相が表明した。

 ビシュダールのハリソン大統領は、この前大戦後の秩序への公然たる挑戦に対し、毅然とした態度を取る必要性を国際社会に訴えた。その結果、ビシュダール、コヒツラント、ランズウッドに、ルンベルグを加えた四か国会議が開かれた。だが、会議において、ランズウッドの代表は、制裁を行う意図はないことを明言してはばからなかった。ランズウッドにおいては、旧大陸への関わりを強めたことが、結果として、前世界大戦への参加に繋がり、多大な人的被害を蒙ったという被害者意識が強かった。そのため、旧大陸への干渉を嫌う国内世論の後押しも受けて、孤立主義がとみに優勢となってきているのだった。

 四か国会議は、平和秩序を乱すいかなる挑戦も、平和条約のいかなる一方的破棄も決して認めることはできないと宣言した。だが、最後通牒を突きつけるべきだという一部の議員の発言は新聞の隅に小さく載っただけで、大勢を覆すことはできなかった。

「こんなものはただの言葉の遊びじゃないか。」

 そうクロイシュタットは言った。ゲーベル、マティアス、フェドラーも同感だった。

「ランズウッドは空軍の優位を保っているんだろうか?」

 そう問いかけるマティアスにナユタが答えた。

「首相のシュタインは、ランズウッド空軍の優位はなんら揺るがない。ブラーニアの再軍備においてもランズウッドの優位が崩れることはないと言っているが、シュタインの方針に批判的なブルックは猛反発したそうだ。空軍の優位はもはや失われており、ブラーニアの再軍備によって、今の政策のままだと軍事力全体でもブラーニア優位になりかねないとブルックは警告を発している。」

 そして、実際、半年後、パークス大統領は、年初の教書演説で断言したのだった。

「我が国は、まちがいなく一等国に復帰した。我が国は堂々と世界と肩を並べる最強国のひとつである。我が陸軍と海軍は急速に戦力を整えつつあり、空軍は既に他国を追い抜き、いまや世界一の空軍と言っていい。」

 だが、それでも海を隔てたランズウッドは明確な対応を取らなかった。ランズウッドにとってブラーニアは、前大戦で戦ったとはいえ、海の向こうの世界でしかなかった。政治家たちは各国が勢力争いを続ける旧大陸へ干渉すること自体に消極的であり、ランズウッド国民にとっての重要課題は、労働条件の改善、保険制度などの社会保障制度などであった。国防費の増額提案は国民の支持が得られなかったし、それを主張する政治家は選挙での苦戦をまぬがれないというのが実情であった。

 また、軍事力に関しては、シュタインの首相就任後の最初の政策が、財政支出削減のための陸軍の縮小であったこともあり、海軍力の現状維持が精一杯のところだった。

 ナユタはため息交じりに仲間たちに語った。

「結局、選挙民は自分たちの目先のことしか考えていない。自分たちの目先の利になることをやってくれる政治家を支持しているだけだ。」

 マティアスも応じた。

「だから、民主政治は愚衆政治に転落するというわけだ。こういう厳しい状況において、大局観を持たない民衆の民意に阿ねていては、どんな結末になるか分かったものではないということだな。」

「こんな時には、毅然とした信念をもったリーダーが必要なんだろうな。」

 このナユタの言葉に皮肉交じりに応じたのはゲーベルだった。

「そんなリーダーのひとりがパークスというわけだ。だが、大衆は、そのリーダーが自分たちをどこへ連れてゆくのか知りもしない。牧羊犬に連れてゆかれる羊たち同然だよ。」

 

 このような世界の動きの中、コヒツラントの情勢は不穏だった。レジナルドが説明してくれたように、戦勝国ではあったが、大戦によって広大な国土が著しく荒廃したコヒツラントでは、戦後の復興がなかなか進まなかった。そして、ケッセリン首相率いる中央政府は、各国が認める正式の政府ではあったが、国内を統一することができなかった。対抗する左派のヴェヒラムの解放戦線勢力は労働者を中心に支持を集め、革命を目指して農村部を中心に根を下ろしていたし、パトリスの率いる自由民主同盟は地方財閥を頼りに武力闘争に走り、着々と勢力を広げていた。

 そして、列強とともに、ブラーニア資本のコヒツラント進出も相次ぎ、それに伴って、国民の中では強い反ブラーニア感情が高まり、さまざまな衝突が起こっていた。

 そんな中、ブラーニアのパークス大統領は、コヒツラントを名指しで口汚く罵って、次のように宣言した。

「コヒツラントが正義に則った処置を行わないなら、我が国は我が国の生存権のために毅然とした処置を取る覚悟ができている。我々がその決意をしたとき、何ものもこれを遮ることはできない。」

 これは明白な圧力を加える言葉であり、コヒツラントのケッセリン首相はすぐに反発して言った。

「ブアーニアの高圧的な政策がコヒツラント内での軋轢を引き起こしているのは自明であり、反省すべきはブラーニアである。」

 ケッセリン首相はそう言ってはばからなかったが、その強弁は危険でもあった。

 国内が分裂しているコヒツラントの国力でブラーニアに抗すべくもないことは明らかであった。そのため、ケッセリン首相は、かつての戦勝国同士の連携を強めるために、ビシュダール、ランズウッドと繰り返し協議し、彼らからの保証を得ようとしきりに交渉を繰り返しているらしかった。

 だが、コヒツラントはパークスにとっては、自分たちが獲得せねばならない必須の生存圏でもあった。そのことは、パークスが大統領になるよりずっと前に書いた本にも明確に記されていた。

「この世界において、自国の生存圏とは、自給自足できる自立経済圏の確立と同義である。そして我が国の生存圏は東方に、コヒツラント内部に広がっている。コヒツラントには、我がブラーニア農民のための広大な土地と、ブラーニア産業のための広範な活動領域がある。」

「その生存圏を獲得することが、前大戦で疲弊した我が国の復興には不可欠である。」

 そういった言葉がその本には並んでいた。だが、同時に、その本には、次のような言葉も記されていた。

「ランズウッドの援助によるコヒツラントの覆滅が現実的な解である。」

 そんな状況の中で起こったのが、勢力を拡大しつつあった自由民主同盟のパトリスがケッセリン首相を追い落とすべく仕掛けた大規模な軍事攻勢だった。戦線が拡大し、列強の居留民に危険が迫ると、パークス大統領は、決然とコヒツラントへの出兵を決断した。ブラーニアは四個師団を準備し、ブラーニアの首都シュタルバーとコヒツラントの首都ル・マーズを結ぶ鉄道路線に沿った主要都市に派兵した。

 この派兵は、激しい反発をコヒツラントの各地で引き起こした。コヒツラントの主要紙は、ブラーニアの侵略主義の再発と非難し、排ブラーニア運動は空前の盛り上がりを見せた。ブラーニア製品不買の呼びかけが行なわれ、ブラーニア系工場では無期限ストライキが起こり、ブラーニア排除同盟も結成された。ショーウィンドーのガラスを割られたブラーニア系のデパートや火炎瓶を投げ込まれたブラーニア系の商店もあとを絶たなかった。

 ブラーニアの派兵に対して、ケッセリン首相の政府はブラーニア大使を呼びつけて厳重に抗議し、即時撤兵を要求した。だが、ブラーニアの大使は冷やかに言い放っただけだった。

「では、まず、パトリス一味を排除し、この国に安定と平穏を取り戻していただきたい。そして、ブラーニア居留民の安全を確保するとともに、理不尽な反ブラーニア運動を鎮圧していただきたい。それが貴国のなすべき役目である。」

 そして、ビシュダールやランズウッドの首脳も毅然とした態度をとることができなかった。ビシュダールの高官は、新聞記者に向かって次のようなやんわりとした談話を出すにとどまった。

「コヒツラントの情勢は緊迫しているが、コヒツラントへのブラーニアの出兵が適切な措置かどうかは疑わしい。可及的速やかに撤兵することが望まれる。」

 ビシュダールもランズウッドも内心はブラーニアの横暴に不満と懸念をもっていたであろうが、ブラーニアの出兵によって自国の居留民の安全が確保されたこともあったし、今回の件がもとで平和の均衡が崩れるのを極度に恐れたがためでもあった。

 だた、パークス大統領も、ビシュダールやランズウッドの力を軽視していたわけではなかった。ブラーニアの派兵に伴って、パトリスが矛先を収めると、ブラーニアのパークス大統領は、次のような談話を発表して、いとも簡単にコヒツラントから兵を引き上げたのだった。

「出兵の目的は達せられた。この派兵によって、ブラーニアの権利のみならず、コヒツラントの平和と各国居留民の安全が確保された。すべての国がブラーニアに感謝すべきである。」

 ブラーニア軍が派遣された都市のブラーニア居留民からは、

「この地の安全は依然として確保されていない。情勢は不穏で、撤兵を早まれば、新たな混乱が起こるのは目に見えている。」

という意見具申がなされたが、ブラーニアの方針は揺るがなかった。パークスが以前から持っていたランズウッドとの親善関係維持の元でコヒツラントに進出するという基本方針がその決断を即したとも言えた。

 ブラーニア軍の撤退とともにコヒツラント内の反ブラーニア運動は潮が引くように静まった。ケッセリンの政府が圧力をかけたものであることは明らかだった。

 コヒツラントの各紙はこの撤兵を歓迎したが、新聞の中には警告するものもあった。

「コヒツラントの国内混乱が収まらない中、ブラーニアには依然として、コヒツラントへの野望をいだく者が少なくない。出兵の理由など、いつでも見出せる状況の中、いつまた再び出兵があっても不思議ではない。」

 

 ブラーニアが撤兵してしばらくして、世界的に著名な雑誌にフランツ王子のインタビュー記事が載った。今回のブラーニアの出兵に関して旧帝室がどう見ているかという観点からのインタビューだったが、フランツは次のように述べた。

「コヒツラントが外国の軍事的介入を受けるということは、一独立国として絶対に好ましいことではないし、恥辱でもある。だが、私はパークス大統領を非難することはしない。なぜなら、私が望むのはコヒツラントの安定とコヒツラント人民の幸福である。今回の事態について何よりも非難されねばならないのは、国内に平穏と安定をもたらすことができず、さまざまな軋轢と亀裂を生みだしている政府と議会、政治家たちだ。多くの国民が現在の政界の者たちに深く失望しているのは当然のことである。」

 インタビュアーがこの見解に対して、

「それではフランツ王子はこの状況に対して何か積極的な行動を取るのでしょうか?」

と訊くと、フランツ王子はこう答えた。

「前回の革命のときの取り決めでは、我々帝室の者たちは、コヒツラント帝国がコヒツラント連邦となった後も、宮廷に住み続けることができ、皇帝の称号もそのまま維持されるということになっていた。しかるに、今、我々は不当にも国外退去させられ、フィガラッシュに居を構えざると得なくさせられている。これもコヒツラントの政治の貧困のなせる業である。幸いフィガラッシュでは我々は特段の困窮もなく平静な生活を送ることができているが、私が心の底から真に望んでいるのは、ここで亡命生活のような生活を続けることではなく、国に帰って国に貢献し国民に奉仕することだ。それが帝室の者の逃れることのできない使命であり、責務なのだ。」

 そのインタビューは、ある意味では、帝室の過去の失政を棚上げし、自己弁護とかすかな野望が見え隠れする記事だったが、ともかく、注目を集めたことは確かだった。

 だが、レジナルド卿は、カフェ・シュタイドルで会うと、苦虫をかみつぶしたような顔で言った。

「フランツ王子は、生気溢れる若者で、良い生徒でもあった。だが、残念ながら、世界の大きな潮流が見えておらず、自分が語っているものが我田引水の論理に過ぎず、自らの限界についても気づいていない。彼がコヒツラントを逐われたことに忸怩たる思いをもっていることは分かるのですが、夢想が過ぎていると言わざるを得ません。彼は良い人間だが、多くの者たちが跋扈し混乱するコヒツラントを適切に導く能力などまったくもっていないと言わざるを得ませんからね。」

「たしかに、政治の世界も人間の世界も全体最適の世界ではなく、個別最適の世界ですからね。」

「その通りです。コヒツラントがこうなるのが国と国民にとってベストだという全体最適を考えるのはそんなにむずかしいことではないでしょうが、それぞれの政治家は自分にとって最適と思う言動を取るだけですからね。その個別最適で動く者たちをいかにうまく束ねることができるか、それが政治家の手腕というものですが、フランツ王子はそういうことがまったく理解できていないと思います。そういうことを経験していないのだから、ある意味、致し方ないのかもしれませんが。」

 そう言ってため息をついたレジナルド卿は、それからしばらくして帝師を辞し、フィガラッシュのランズウッド大使付きになったのだった。

 

 コヒツラントに対しては一端矛先を収めたパークスであったが、一方、ルンベルグに対しては、水面下での勢力伸長を着々と進めていた。この政策推進において、パークスは表の政策だけでなく裏の組織を活用することをなんらためらわなかった。裏組織はブラーニア国内でもさまざまな統制の推進、国民の扇動に暗躍していたが、隣国でも、政治経済の混乱を誘発し、親ブラーニア勢力の伸長を図るために活動していた。

 そして、そんな中で起こったのが、パークスを支持する汎ブラーニア勢力による首都蜂起だった。その日、蜂起勢力は首相官邸に押し入ると、カンディ首相を即座に射殺した。

 彼らはさらにさまざまな方面で蜂起した。民主派の大臣や反ブラーニアの急先鋒だった議員も暗殺された。銀行に爆弾が投げ込まれ、新聞社が襲撃され、ラジオ局にも蜂起勢力が押しかけた。蜂起勢力は、首都の武器庫にも押し寄せ、そこで正規軍との間でけっこう激しい戦闘が起こり、数十人単位の死傷者が出たということだった。

 だが、武器庫での攻防では正規軍が蜂起勢力との激しい撃ち合いを制し、武器庫を守り通したのだった。この攻防に敗れた蜂起勢力はその日のうちに鎮圧され、クーデターは失敗に終わった。

 この蜂起はフィガラッシュの市内で起こったのだが、ナユタは、まったくそのことを知らなかった。何事も見なかったし、一発の銃声も聞かなかった。ただ、ナユタがフェドラーと道を歩いていると、古軍服を着て銃を構えて立っていた二人組に呼び止められ、どこに行くのかと訊ねられただけだった。家に帰るためと答えると、二人組はナユタたちを通してくれた。

 本当は、「何が起こったのか。」と聞きたかったが、ナユタは何も聞かなかった。こんな時に、そんなことに関わると、どんなことが起こるか分かったものではないからだった。

 家に帰ると、ラジオがこの蜂起について伝え、クーデターがほぼ鎮圧されたことと被害状況を報じていた。次の朝、カフェ・シュタイドルに行くと、新聞によってこの事件を知ることができた。武器庫の攻防では、正規軍が大砲を撃ったことも載っていたし、襲撃された新聞社やラジオ局の様子は写真入りの記事となっていた。外国の新聞各紙もこの事件について詳細に伝えており、市内にいた者よりもはるかに多くのことを外国の新聞で即座に知ることができるという奇妙な現実を目の当たりにしたのだった。

 午後になると、後任の首相に就任したレーガーがラジオで演説した。

「我が国はこのような非合法活動を認めないし、屈しもしない。我が国は主権の存する独立国として、いかなる国からの扇動も受けることはない。」

 こうして首都蜂起は失敗に終わったが、それでブラーニアからの策謀が止むものではなかった。特に、ルンベルグ国内の中でブラーニア系住民が多い地域では、パークスを信奉する裏組織の暗躍が著しく、反ブラーニアの要人の暗殺やテロを行うとともに、政党活動を通じて、親ブラーニア勢力を拡大させるためのさまざまな活動に寄与していたのだった。

 一方のブラーニア国内では、パークスが異民族排斥をさらに進め、芸術統制にもさらに力を入れていた。パークスは文化統制局を設置し、推奨芸術と退廃芸術との線引きを始めた。

 パークスにとって、推奨芸術として最も高く評価すべきものは、純粋なブラーニア人による最高の芸術作品であり、一方、前衛芸術の類はその中から明確に排除され、そのほとんどが退廃芸術の範疇に放り込まれた。その分別の際には、人種的要件が明確に規定されていたわけではなかったが、暗黙のうちに、異人種の音楽は退廃芸術に分類されるのが一般的な傾向だった。だから、パークスがその演奏に強い感銘を受けたグスタフの作品も退廃芸術に入れられたし、ゲーベルやマティアスの音楽も同様だった。

 また、エキゾチックなナンシーの踊りを中心にしたセルゲイの公演も卑猥な異国趣味として退廃芸術に分類されて公演を禁止された。セルゲイは活動の中心をビシュダールの首都ブルザンガに移さざるを得なかった。

 一方、純ブラーニア人による偉大な作品は極めて高く評価され、国家的行事や党大会などでは、その作品の一節が、しばしばファンファーレのように奏されたのだった。

 そして、ナユタも退廃芸術排斥の動きを実感することとなった。それは、フィガラッシュでのある演奏会でのことだった。その演奏会では、伝統的な音楽と並んでマティアスの作品が演奏されたが、演奏が始まると、ホールの後ろの方から野次が聞こえ始め、その声は次第に強くなった。振り向いてみると、後ろの方の席にパークスを支持する腕章を付けた扇動者たちが並んでいたのだった。それは突発的に起こったかようにも見えたが、実際には、パークスの方針に沿った綿密な作戦に沿ったものであることは明らかだった。パークスの力はすぐそばまで押し寄せてきつつあるのだった。  

 そんな折に発生したのが、ザーナー美術堂焼き討ち事件だった。

 ブラーニアの首都シュタルバーにあるザーナー美術堂は前衛芸術の聖地と言える美術堂であり、この美術堂での展覧会は、新芸術を目指す若い芸術家たちの登竜門でもあった。実際、過去五十年にわたり、美術史を切り開く数々の作品がこの美術堂での展覧会に出展され、美術界を動かしてきたのだった。

 しかし、そんな中で企画された「新世紀展」は、政府の高官から問題視する警告が何度か出されていた。芸術の斬新さがパークスの好みに添わなかったことに加えて、出展した画家たちの中に、反政府勢力と交流のある者も少なくなく、また、人種的に異人種である者も多かったことが理由であった。ザーナー美術堂で開かれる「新世紀展」は政府の敵視するところとなり、盛んに批判プロパガンダが繰り広げられた。パークス大統領も議会で、健全な社会を害すると断言した。

 クロイシュタットは「新世紀展」に出展した一人だったが、彼も心を痛めていた。クロイシュタットは、腹立たしげに言った。

「なんで芸術の世界に政府が関与したがるのかね。芸術の自由に任せておけばいいじゃないか。」

 だが、ゲーベルはあきらめ口調で答えただけだった。

「政府のやつらは、それで民衆の支持が増すと思っているのさ。それに、反政府勢力への弾圧にも使えるしね。」

 「新世紀展」の開催日には、ザーナー美術堂の前の広場で大規模な反対集会が開かれた。政府系の団体によるもので、千人が広場を埋め尽くして気勢を上げた。その後、反対派の一部は広場の公園の中にテントを張って泊まり込んで抗議を続けたが、開催から四日目の夜、ザーナー美術堂焼き討ち事件が起こったのだった。

 次の日の新聞の一面には火の手の上がるザーナー美術堂の写真と焼けただれた前衛美術品の写真が掲載された。新聞に載った事件の経緯によれば、広場にテントを張って抗議を続けていた人々を美術展支持派が襲い、その衝突に端を発して、反対派がザーナー美術堂に火を放ったということだった。

 政府高官は、広場に泊まり込んでいた反対派を襲った美術展支持派を口を極めて非難し、逮捕に全力を挙げると約束した。ザーナー美術堂に火が放たれたことについては、遺憾の意を表明しはしたものの、前衛美術品が灰になったことについては、

「個人的には溜飲を下げる思い。」

と言ってはばからなかった。

 パークスがこの事件の一報を受けたとき、

「異人種のくずどもとつるんでいる美術堂など焼けて結構。」

と言ったということも伝えられた。

 この騒乱の中で、二人の前衛美術家が犠牲になったことも明らかになった。警察の発表では、この二人は、最初に美術展反対派を襲ったグループに参加しており、混乱の中、反対派によって殺されたらしいということだった。

 だが、この二人をよく知るクロイシュタットは怒りを含んだ声でナユタらに言った。

「あの二人はそんなことをするやつらじゃない。それはおれが一番よく知っている。暴力でものを解決しようなんて考えるもんか。」

 ゲーベルも言った。

「おれたちの仲間は政府の敵意の中に埋もれているな。発表されるのは、政府、警察などのものだけだし、新聞だって彼らの手下だ。」

「一つ疑問なのは、」

 そう言って口を挟んだのはフェドラーだった。

「最初に泊まり込んでいる奴らを襲ったのは、美術展反対派で、いうなら政府の敵だ。だが、亡くなった二人以外にはさっぱり犯人が挙がってこない。政府も逮捕は難しそうだ、と平気で言っている。おかしくないか。」

「どういうことだ?」

 そう問いかけるクロイシュタットにフェドラーが答えた。

「今回の事件そのものが政府の差し金じゃないかということさ。政府の裏の組織が襲撃犯を準備し、亡くなった二人が通りがかったタイミングで、襲撃犯が広場の者たちを襲撃し、あとはどさくさに紛れて二人を殺し、美術堂に火を放ったんじゃないか?」

「そう言われれば、そうかもしれんな。あるいは、そもそも二人はあらかじめ襲撃犯に拉致されていたかもしれんし、あるいは死体になってその広場にやってきたかもな。まさに死人に口なしだしな。政府系の闇組織が暗躍していることは周知のことだ。だとしたら、最初に襲撃した犯人なんて捕まるはずもない。」

「実は、キャサリンから妙なことを聞いたよ。」

 そう言ったのは、ゲーベルだった。

「あいつは、バーで、ブラーニアの将校の相手もしてるみたいだから、いろいろ知ってるんだろうが、そんな将校の一人が酔った勢いで、ザーナーと同じことはルンベルグでもいつ起こったって不思議じゃない、と叫んでいたらしい。そしたら、一緒にいた別の将校が慌てて口止めして連れ出したそうだ。」

「そうか。だけど、キャサリンも気を付けないとな。ブラーニアの将校なんかと付き合って大丈夫なのか。」

 そうナユタは心配したが、一方、マティアスはクロイシュタットの身の上を心配して言った。

「なあ、クロイシュタット。もう、シュタルバーには行かない方がいい。とりあえず、ルンベルグにいれば、ブラーニア警察も正面切っては手を出せないんだからな。」

 クロイシュタットがそれに同意すると、仲間たちは一安心したようだった。そして、皮肉なことに、美術堂焼き討ち事件が人々の関心を集めたことも手伝って、クロイシュタットは美術界から一定の評価を得たようだった。

 数か月経って、クロイシュタットは音楽活動を休止して、絵画に専念すると仲間に告げた。

「田舎にこもって絵を描くことにするよ。幸い、おれの絵の理解者も現れたんでね。」

 クロイシュタットはそう言ったが、どうやら、ザーナー美術堂に出展したクロイシュタットの絵に惹かれた一人の若い女性と恋に落ちたようだった。しばらくして、クロイシュタットは彼女の故郷の地方に引っ越していった。

 だが、ルンベルグの世相はますます暗くなりつつあった。憲兵が破壊活動防止法に基づいて反政府主義者のアジトを摘発したり、国家反逆罪で活動家を逮捕したりという記事が頻繁に新聞に掲載されるようになった。たいていは、紙面の片隅に小さく載る程度だったが、あるとき、ブラーニア国籍の異人種の革命家のアジトが摘発され、数人の左派活動家が逮捕されたときには、新聞はこぞってこの記事を一面に大きく掲載した。

「ブラーニア国籍の異人種たちのたまり場は悪の巣窟であり、彼らは社会の混乱を助長する最低の輩ではないか。」

 そんな社説まで掲載されたほどだった。

 そして、人々の暮らしも日を追うごとに息苦しく、陰鬱なものになっていった。ブラーニアによる物資の買い占めとルンベルグの軍備増強のため、生活物資の供給にも支障が目立ち始め、パン、塩、砂糖などの生活必需品は配給制に切り替えられた。

 前大戦の前、ほんの二十年か三十年前には、貧しい者たちも含めて、安定と繁栄を信じ、進歩を喜び、日々の生活の中で天真爛漫であったのに、今は人々の顔からは笑いが消え、警戒心と陰鬱さとがない交ぜになったしかめ面が露わになっていた。国家という心ない貪欲な怪物が自由と笑いと悦びを吸い上げてしまい、人々は国家という牢獄に繋がれ、漠然とした不安の中である種のあきらめの表情を浮かべるしかなかった。

 そして、軍靴の響きは次第に高くなり、けれど同時に、国内では、ブラーニアとの提携を求めるブラーニア系住民と、反ブラーニアの生粋のルンベルグ人との間の軋轢もますます大きくなっていった。

 そんな中、ナユタがカフェ・シュタイドルで知り合ったシュテファンは隣国に亡命していった。亡命を手助けしたのは例のレジナルド卿だった。カフェ・シュタイドルで最後に彼に会った日、シュテファンは厳しく暗い表情ではあったが、信念を持って語った。

「我々が大切にし、それこそが人間の生きる上での真の糧であると信じていたものが、いまや踏みつけられ、足蹴にされている。真理と正義に対して忠実であるべき大学ですら、現在の時勢への無理解から、我々の文明の倫理、文化、経済を根底から覆そうとする邪悪な勢力に加担している。しかし、我々は屈するわけにはいかない。私の武器となるのはペンだけだが、私はそれで戦わなければならない。仮にもはや世界は引き返すことができず、ただ奈落への道を歩むほかない運命だとしても、それでも私たちはペンを取って戦わなければならないのです。」

 シュテファンはそう語るとさらに嘆息を交えてこう言った。

「ある文筆家が、現代においては、理性はどこへ行っても愚弄されており、理性を否定する人の方が、理性に従う人間よりも聡明に見えるようだと書いています。まさに、その通りですよ。我々の文明は破壊の危機にさらされているのです。」

 まさに大きな危機が目の前まで迫ってきているのかもしれなかった。

 

 そして、ブラーニア再軍備から一年半後、パークスは突如として、前大戦後、ビシュダール共和国との間に設けられていた非武装地帯への進駐を行った。パークスはその日、国会で、非武装地帯に軍を進め再占領することを宣言したが、まさにパークスがその演説を行っている最中、ブラーニアの精鋭三万五千が境界を越えてなだれ込み、非武装地帯の主要な街々に侵入したのだった。

 非武装地帯に住むブラーニア人は手旗を振って歓迎し、首都シュタルバーでは非武装地帯への進駐に多くのブラーニア人が凱歌を挙げた。

 このニュースはすぐさま世界中を駆け巡った。ビシュダール共和国のハリソン大統領は激怒し、すぐさま、同盟諸国に訴え、即刻総動員をかけようとしたが、戦争を好まないランズウッドからの賛同は得られなかった。ルンベルグのレーガー首相、コヒツラントのケッセリン首相はそれぞれ非難声明を出したが、それ以上の行動には出なかった。

 ランズウッドのシュタイン首相は非難声明そのものも拒否した。大陸からの距離をとり、中立を保つという国家方針に沿ったものだった。シュタイン首相はこう言っただけだった。

「我々は破滅の淵に立っているのではない。我々はこの事態に冷静に対処せねばならない。」

 これはある意味、パークスに暗黙の了解を与えたものと理解することもできた。

「なぜ、ビシュダールは動かないんだ。」

 そうゲーベルは怒りを含んだ声で言ったが、ナユタは重い声で答えた。

「パークスの虚言と恫喝に足がすくんでいるんだよ。たしかに、大戦後の講和条約では、非武装地帯に軍隊を進めた場合には、すぐさま、各国が連携して軍事行動を起こし、これを排除できると規定されている。だけど、自国のことは自国で決断してもいいはずだ。ビシュダール軍を動員してブラーニア軍を追い出せばいいだけの話だ。だけど、彼らはランズウッドの同意が得られないことを口実に動こうとしない。結局、前大戦の戦勝国、ビシュダールとコヒツラント、ランズウッドはこの危機を分かっていないんだ。」

「もし、ビシュダールが動けばどうなったと思う?」

 そう問いかけるマティアスにナユタは答えた。

「ブラーニアは退却するほかなかったはずだ。パークスの言動は虚飾に包まれている。第一、ブラーニアの進駐部隊は三個師団にすぎないっていうじゃないか。ビシュダールの百個師団全軍が出動すれば、ブラーニア軍を排除するのはいとも簡単なことのはずだよ。ただ、」

「ただ?」

 そう聞き返したマティアスにナユタは続けて言った。

「ビシュダールのハリソン大統領は戦争になることを極度に嫌っている。そもそも、選挙の時、『私は戦争が嫌いだ。』と宣言して当選したくらいだからな。だから、その平和主義が全軍の出動をためらわせているんだよ。そして、パークスは、すべてを準備してから行動したのでは成功はおぼつかないということを知っているんだ。」

 実際、ビシュダールでは、国民の関心は失業問題、社会保障、賃金問題などであり、そして何よりも平和の維持であった。だから、ハリソン大統領が世論を引っ張ってゆくようなリーダーシップを発揮することは難しく、むしろ、実際、世論の風と議会の支持を勘案して綱渡りをするほかなかったのだった。その世論を踏まえて、ハリソン大統領は、常々胸を張って宣言していたのだ。

「軍備の拡張はこの国の進むべき道ではない。」

 新聞に掲載された多くの政治家の発言は、平和の美徳を賛美することによって平和を維持できると信じる人々がいかに多いかを物語っていた。

「ブラーニアが非武装地帯に進駐した以上、誰も対ブラーニア強硬策をとれるとは思っていないだろう。」

 そう発言したランズウッドの国会議員もいた。

 ビシュダールの外務大臣も言った。

「我々が目指しているのは戦争ではない。この大陸の鎮静化なのだ。」

 そして、ランズウッドもコヒツラントもルンベルグも、実質的にビシュダールを後押しすることはできなかった。ランズウッドのシュタイン首相が水面下で何と言ったかは明らかにされなかったが、結局何事も起らなかった。様々な可能性が検討され、様々な交渉が行なわれたことだろう。だが、結局、周囲の国々はパークス大統領に屈したのだった。

「でも、きっと、戦争は避けられない。」

 そうナユタは言った。

「前大戦後の平和条約が締結された時、ビシュダールの元帥は、『ただ二十年の平和だ。』と言ったそうだが、まさにその通りのことが起こっている。次の戦争は前大戦以上の恐ろしい戦争になるよ。我々のような市井のひ弱な市民の上に容赦なく爆弾の雨が降り注ぐことになるよ。」

 ビシュダールの国論は分裂したままだったが、とにもかくにも戦争が回避されたという安心感が支配していているようだった。なんといっても、前大戦において、八百万人が動員され、百四十五万人が戦死し、三百万人が負傷したという事実が国民の心に重く圧し掛かり、

「いかなる犠牲を払っても平和を」

という心理的風土が国民に蔓延していたのだった。

 人々の生活にはなんの変化もなかった。世論は静かになり、新聞もこの問題からいつの間にか離れていった。

 ランズウッドの新聞も次のような論調で問題の鎮静化を図った。

「結局、ブラーニアは自国の領土に軍を進駐させただけのことだ。」

 だが、ナユタは言った。

「ビシュダールもランズウッドも起ち上がらないとしたら、今後、ブラーニアが次の侵略を始めた時どうなるのか?パークスは、決然として起てば、かつての戦勝国は毅然とした行動を起こすことはできないという確信を得たかもしれないよ。」

 重い空気が、ナユタたちを取り巻いていた。

 その年の年末、ブラーニアの非武装地帯進出に関しての議会での質問に答えて、ランズウッドのシュタイン首相はこう答弁した。

「今年の選挙の結果が国民の総意を反映していると言わざるを得ない。与党候補であろうと野党候補であろうと、我が国の軍備増強を説く候補者は好戦的と攻撃され、平和主義者の候補の前にたいへん苦戦した。落選した大物議員も多い。ジャーナリズムがそれに加担している面もあるが、いずれにしてもそれが民意と考えざるを得ない。その民意に反してどうして武力の発動ができるのか。それはそのまま政権の崩壊、選挙の敗北になるだけではないか。」

 これはまさにシュタイン首相の率直で誠実な答えであったろう。だが、いやしくも一国の首相である者が、選挙での敗北を恐れ、国家の安全に関する自己の責務を果たさなかったと公言したのだった。

 非武装地帯への進駐に成功したパークス大統領は、国内での権威と支持を高めた。パークスは国会で堂々と演説し、平然と言い張った。

「わが領土にわが軍が進駐した。これに対して海外からの批判を懸念する輩もいたが、現実を見るがいい。どの国も口先で多少の牽制を行っただけで、何ら実際の行動を起こさなかった。これは我らに正義があることを各国が認めたことを意味する以外にいかなる説明ができようか。」

 非武装地帯への進駐にはブラーニア陸軍幹部の強い抵抗があったらしいが、結局、周囲の国々がパークス大統領に屈したことで、パークスは、自分の直感と政治的先見性が職業軍人たちの軍事的状況判断よりいかに優れているかということを証明してみせたのだった。

 ある席で、パークスはこう言い放ったということだった。

「踏み出さないものは何も手に入れることはできない。そして、決然と行動に出れば、その意志の強固さの前にみな道をあけるのだ。」

 この言葉通り、この天才的な指導者がブラーニアを大陸の一大強国の地位に押し上げ、前大戦の敵国どもがかくも簡単に屈服したのをみて、将軍たちはただただ頭を下げたのだった。

 そして、パークスはますます国内の統制を強め、軍備の増強と人種隔離政策、さらには芸術統制を推進していった。国内統制の強化のためには、法によるだけでなく、暗躍部隊を操ってのテロやデモも活用しているのも公然の秘密だった。

 芸術への締め付けも次第に強くなっていった。ブラーニアの政府は、隣国のルンベルグの芸術の是非にまで口出しした。

「退廃芸術はたとえそれが他国のものであっても、我が民族の栄えある音楽の伝統を踏みにじるものである以上、決して軽々しく容認できない。」

というブラーニア政府高官の発言も新聞に載った。

 ブラーニア政府は、退廃芸術と決めつけたゲーベルらの音楽をブラーニア国内で演奏することを禁じ、楽譜販売の禁止措置も取ったのだった。

 さらにブラーニアは思想統制も強め、その象徴として、焚書を行った。はるか古代において帝国の皇帝が行った焚書と同じように、パークスの政府の文化大臣は社会に害悪をなすとみなした書物をシュタルバーの広場にうず高く積み上げさせ、それに火を放ち、さらに、その炎の中に次々と悪書とみなしたものを投げ入れさせたのだった。五千点にもぼる非ブラーニア的絵画も火の中に投げ入れられた。

 集まった人々はもってきた書物を次々に火の中に投げ入れ、その様は次の日の新聞の一面に写真入りで大きく掲載された。

「パークス、社会を正すために焚書を決行!」

「これで社会に正義を!無数の国民が焚書に参加。」

「非国民を支持する悪書を殲滅!」

 そんな言葉が新聞の紙面に踊った。書物と供に人々の心も燃えているのかもしれなかった。かつての大戦後の混乱と困窮を引き起こした究極の原因がなんであるかはともかく、その混乱と困窮への怒り、そして、ブラーニアを痛め続ける諸外国への怒り、その怒りが燃え盛り、人々の心を高揚させているのかもしれなかった。

 焚書に供された書物には、パークスや現体制を批判するものはもちろん、自由主義や個人主義を賛美したり標榜するものも、反政府活動、破壊活動を扇動するものとして含まれていた。前衛芸術と関わりあるものも退廃精神の源として焚書のリストに加えられた。

 ある意味、パークスは思い上がった自信家であり、自らが人類のあるべき思想や芸術をもっともよく理解できる一人であると信じ、それを公言することを憚らなかった。だから、まさに、彼のお気に召さない作品は、反社会、反国家の烙印を容赦なく押されたのだった。

 焚書に供された書物のなかには、グスタフやゲーベルの楽譜も含まれていたということだったし、シュテファンの作品も含まれていた。次の日の新聞を見て、ゲーベルは嫌悪の情を露わにしたが、ことは単に焚書に留まらず、ブラーニアでは、思想的な間違いを理由に逮捕者が続出したのだった。政府の敵、国家の敵、国民の敵は、もはや街を安心して歩くこともできなくなりつつあったのだった。

 そして、その影響はルンベルグでもじわじわと現れてきた。ゲーベルらは、道を歩いても冷たい視線を感じるようになった。かつてとは違うよそよそしさ、そして、冷ややかな敵意だった。

 ナユタがそれを痛感したのは、ある映画館に行ったときのことだった。それは場末の小さな映画館で、貧しい人々や労働者、兵隊、物売り女などで溢れていた。席に座っていると、まず、「世界ニュース」が流された。最初は海の向こうのランズウッドでの有名なダービーの映像。人々は楽しそうに笑い、しゃべりながら画面を見ていた。次はルンベルグ軍の閲兵の様子。人々は特に大きな関心は示さなかった。そして、第三のニュースは、ブラーニアで、異人種の者たちがゲットーへ送り込まれるニュースだった。そのニュースが始まると、何人かから拍手が始まった。すぐに、立ち上がって拍手する者が現れ、人々は次々に立ち上がって拍手した。恐ろしい光景だった。狂気のような興奮と熱狂。非理性的で粗暴な妄動に突き動かされ、それを盲目的に支持する人々。ここまで差別の扇動が染み込んでいるのかと、改めて目を見開かされる思いだった。そのニュースが終わると、映画の本編が始まり、人々はただ笑い、楽しんでいたが、ナユタは悟らざるを得なかった。融和や協調の試みは人々の心の奥底に潜むものを刺激するだけでいとも簡単に打ち壊すことができるのだ。

 しばらく経って、ナユタがゲーベルらと行きつけのカフェ・シュタイドルに行ったとき、ナユタは給仕長からやんわりと忠告を受けた。このカフェでは、ナユタたち常連客は、その給仕長から贔屓にしてもらい、ときには勘定をつけにしてもらったり、もっと困ったときには金を貸してもらったことさえあったのだが、その日は、慇懃に短くこう言われたのだった。

「時世が悪うございますな。今後はお越しにならない方がよろしいかと。」

 ナユタは、

「ありがとう。これまでのことは恩に着るよ。」

と言って、そそくさと仲間たちと店を出たが、ゲーベルらへの風当たりの冷たさを痛感せざるを得なかった。

 まさに、生粋のルンベルグ人からはブラーニア人として反感を持たれ、ブラーニア系住民からは異人種として蔑みのまなざしを浴びたのだった。そして、芸術家としてもある意味異端者であった彼らには、まさにいみじくも、グスタフが自分自身について語った「私は三重の意味で異邦人だ。」という言葉がそのまま当てはまった。

 フィガラッシュでゲーベルが暮らすアパートにも、ブラーニア系の住民からとみられる嫌がらせが続き、

「民族の敵。」

と罵る者も出る始末だったし、

「わけのわからない音楽をやっているいんちき野郎。」

といった罵倒を浴びせる者もあった。

 酒場でそんな敵意に満ちた言葉を浴びせられてゲーベルが激高し、すんでのところで喧嘩になりかかったところを、マティアスとナユタが止めに入って事なきを得たということもあった。

 そして、ついには、アパートの家主がゲーベルに立ち退きを求めるという事態になった。

「政治が土足で芸術の世界に足を踏み入れている。」

 そう言ってゲーベルは憤りをあらわにした。フェドラーはうつむいて、絞り出すような声でこぶしを震わせた。

「ぼくたちはただ自分たちの音楽を奏でているだけだ。なぜ、ぼくたちのこんなわずかな自由さえも許されないのか?」

 だが、誰もどうすることもできなかった。

 幸い、話を聞きつけたグスタフが適当な住居を見つけてきてくれたので、ゲーベルはグスタフが探してくれた所に引っ越した。だが、グスタフ自身も異人種であるため当局に目を付けられており、さまざまな妨害を受けつつあった。

 グスタフはそれまで毎年のようにブラーニアのシュタルバー交響楽団に客演していたが、当局からの圧力で客演指揮はできなくなり、ブラーニアの他の都市の管弦楽団を指揮することも困難となった。

 数か月後、グスタフは海の向こうのランズウッドの首都ニュークルツの交響楽団から常任指揮者の要請があったのを機に、海を渡った。その背景には、フィガラッシュ国立歌劇場でのさまざまな軋轢があったのも事実のようだった。グスタフの理想主義は、彼自身の気まぐれで高圧的な性格とも相まって、しばしば楽団員や歌手ともめ事を起こしていたし、劇場支配人との意見の相違や影での中傷にグスタフ自身が嫌気がさしていたのも事実のようだった。そして、また、グスタフがこの国では異人種であることに端を発したさまざまな批判にもうんざりしたようだった。実際、新聞には、グスタフを皮肉ったカリカチュアや批評家たちからの非難がましい批評がしばしば掲載されていた。

 別れの日、ナユタたちは、鉄道の駅に見送りに行ったが、そこには、二百人ものグスタフの信奉者だけでなく、たくさんの一般市民が押し寄せていた。彼らはグスタフの客席を花束で埋め、新聞社専属のカメラマンがグスタフを囲む様々な人々の写真を撮影していた。

「グスタフ先生、お元気で。」

「海の向こうでもご活躍を。」

「またいつか、フィガラッシュに戻ってください。みんな待ってます。」

 そんなさまざまな声が投げ掛けられた。汽車が動き始めると、人々は手を振り、帽子を振り、汽車とともに走ったが、これが大陸でのグスタフの最後の日となった。

 ある意味、一つの黄金時代の終わりでもあった。だが、同時に、それは新しい世界へのいざないでもあった。海の向こうの自由の国ランズウッド。それはあこがれの響きを持ってゲーベルらの心を捉えた。世の中は暗い陰鬱な時代に突入し、人々の暗い不安げなまなざしがゲーベルらの上に覆いかぶさっていたが、ランズウッドはかすかな新しい希望を芽生えさせてくれたのだった。

 

2015510日掲載 / 最新改訂:20231227日)

 

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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第5巻