向殿充浩のホームページ


トップ  お知らせ・トピックス  自己紹介・経歴  作品  技術者として活動・経歴  写真集  お問い合わせ先  その他


神話『ブルーポールズ』

【第5巻】-

 

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 

 ナユタが森の中で考え込んでいる間にも、地上の世界はさらに大きく変化した。航海術によって一つになった世界の中で、科学技術の発展がさらなる技術進展と社会変革を加速度的に引き起こした。

 科学技術の進歩において特にインパクトが大きかったのが蒸気機関の発明だった。蒸気機関はそもそも炭鉱の立坑からの排水のために発明されたものだったが、この発明が産業の革命を引き起こした。

 蒸気機関が最初に転用された先は綿産業だった。それまでは、手先の器用な小柄な女性が繊維の束を紡錘に巻きつける作業を行わねばならなかったが、蒸気機関による機械化によって生産性が一気に向上した。きめ細かくて丈夫で太さの揃った綿糸が大量生産された。生産量は劇的に増大し、それに伴って急速な価格低下が引き起こされた。

 さらに蒸気機関は、蒸気で走る機関車を生み出した。もうもうと煙を吐きながら鉄の道を走る蒸気機関車はまさに文明の象徴だった。

 それまで牛や馬が牽く車しか知らなかった人々にとって蒸気で走る鉄の機関車は驚愕そのものであった。

「もうもうと煙を出して走ってくる機関車を初めて見たときの驚きと言ったらありゃしない。あんなおっかなものは初めてだぜ。」

「あんな鉄の塊が凄いスピードでこっちに迫ってくる。もう恐ろしくて飛び退いたぜ。だけど、奴らは鉄のレールの上しか走れねえって分かったら、それからは平気で見送れるようになったけどよ。」

 人々からはそんな声が上がったが、その人々の驚きは、すぐにあの汽車に乗ってみたいという憧れに変わった。さして裕福でもない人々も一張羅の正装をして汽車に乗り込み、生まれてこの方経験したことのないスピードを実感したのだった。ときには、高い料金を払って急行列車に乗って、

「高い料金を払ったのに短い時間しか乗れないのはおかしいじゃないか。」

という者まで現われる始末だったが、汽車に乗ったということは自慢し吹聴できる体験であり、汽車に乗ったことのない人々もその話を聞いてさらに憧れの気持ちを掻き立てられるのだった。

 都市部では、蒸気機関を動力とした工場の巨大な煙突が立ち並び、軒を連ねる工場群は大量の工場労働者を飲み込んだ。機械化によって生産性は飛躍的に向上し、製品価格は劇的に低下した。それに伴って市場規模は急激に拡大し、生産拡大のための原料の輸送と市場への製品供給に、鉄道を走る蒸気機関車が多大な貢献をした。まさに進歩を創出する正のスパイラルが始まったのだった。

 一方、鉄でできた蒸気船は巨大な大砲を備えて艦隊を組み、文明の先端を走る帝国は後進国を次々と侵略して植民地化し、七つの海を支配すると言われるまでになった。そして、植民地化した国々の安い労働力を使って原料を安価に入手し、その原料を本国の工場に送って製品とし、それをまた海の向こうに再輸出するという新たな構図が生まれたのだった。

 

 こうして近代文明は急速に進展したが、すべての人々が文明の恩恵を享受したわけではなかった。農村では相変わらず貧しい暮らしが続いていた。人々は昔ながらの鍬で田畑を耕し、牛に犂を引かせていた。農村で食べてゆけない者たちは都会へと押し寄せたが、そこで彼らを待っていたのは、豊かで文化的な生活ではなく、薄汚れた貧民街だった。衛生状態が悪く、犯罪も絶えない街で、彼らは薄い紅茶と固いパンで朝食をとり、工場での長時間労働に耐えねばならなかった。

「村にいたときは雨が降ったら家で寝てれば良かったのに、今じゃ、雨が降っても工場にいかなくちゃならねえ。」

「毎日、同じ作業の繰り返しで、芽が出た喜びも実が実った喜びもありゃしねえ。」

 彼らはぶつぶつ言ったが、生きてゆくにはそれしかなかった。

 植民地の人々も貧しかった。植民地の特権階級は、安定的な植民地統治を支えるという役割によって裕福な暮らしを享受できたが、大多数は搾取される農民たちだった。

 それでも、まだ、彼らはましだったかもしれない。なぜなら、この文明社会の中で、堂々と奴隷制度が生き残っていたからだった。綿織物工場が必要とする大量の綿花生産のためには大量の奴隷を必要としたし、紅茶、コーヒー、ゴムなどを生産する農園もそうだった。農園主たちは大量の奴隷を使役し、生産したものを工場に送ることによって、多大な利益を上げていた。歴史上、これほど多くの奴隷を生み出した世紀はなかったかもしれなかった。

 奴隷たちはモノとして扱われ、商品として売買された。そして奴隷商人たちは莫大な利益を上げ、郊外の大きな別邸で豪奢な暮らしをし、恰幅のいい体を揺すって葉巻をくゆらせているのだった。

 ある意味、産業の発展は、新たな階級分化を生み出したと言っていいかもしれなかった。近代文明の恩恵を受けているのは、社会を支配する一部の上流階級、特権階級の者たちだった。彼らは、パーティや舞踏会、観劇やオペラ鑑賞、乗馬や狩猟、ゴルフ、海外旅行などを楽しんだ。だが、国民の大多数は下層階級に属しており、彼らの労働の成果を搾取することによってのみ上流階級の生活が成り立っているのだ。そして、その外に、さらに膨大な植民地の人々や奴隷たちがいるのだった。

 

 こうした社会の矛盾を抱えながらも、文明は次々に新しい進歩を生み出していった。なかでも世の中を大きく変えたのは電気だった。電球の発明と送電技術の進歩により、発電所から都市へと電気が送られるようになると、都市部の家庭には一気に電球が普及した。夕暮れになると道には電灯が輝き、家に帰ると明るい電球の下で夕食をとるという光景が当たり前になった。

 その後も、次々に新たな発明が生み出された。蓄音機、電話、写真、映画、自動車などが現れ、そのたびに人々の暮らしは加速度的に便利になっていった。都会には地下鉄が走り、空には飛行船が現れて裕福なブルジョアたちは空からの遊覧を楽しむまでになった。映画は世界のさまざまな場所の様子やできごとを人々に伝え、世界は一気に身近なものになっていった。

 これらの技術進展は、それなりに豊かな暮らしのできる中流階級の膨張をも生み出した。それまで上流階級にだけ可能だった娯楽は、時間的にも金銭的にも余裕の生まれた中流階級の者たちにも可能になっていった。

 以前は、苦しい人生の中のわずかな時間の娯楽が人々を癒していたものだったが、今や、娯楽は社会の大きな要素となり、娯楽が人生の目的として追及される感すらあった。人々は、読み物や観劇などを楽しみ、レストランで食事をし、ハイキングや登山に出かけ、スポーツやゲームを楽しんだ。さらには、それまでのように近郊にちょっと出かけるというのではなく、自分たちの回りとは違う世界を求めて、異国に、さらには海の向こうの国にまで旅行に行くようになった。

 このような変化に伴って、社会の気分も変わっていった。小心翼々として節約に努める小市民的な気分に代わり、新しいことをやる大胆さや勇気が賞賛された。女性たちは、体の線の見えなかったゆったりした衣服を脱ぎ捨て、スカートを短くし、恥じらいもなく脚を見せ、体の線の露わになる服を身につけた。若い娘たちは、女家庭教師に付き添われずに男友達とピクニックに行くようになり、テニスコートで大胆にも若い男性と供にプレーした。さらに彼女たちは水着を着て海岸に現れ、水泳場では男女を分けていた塀も取り除かれた。ある意味、世界はより美しく、そしてより自由になったのだった。

 一方、こうした文明の進展と社会の変化は、ジャーナリズムを発展させ、国民の大衆化に拍車をかけた。ジャーナリズムは大衆を相手にするマスメディアへと転化した。

 そして、それに伴って、精神品位の低下がいたるところで叫ばれるようにもなった。実際、新聞の売り上げは、ニュースの中身や論説ではなく、破廉恥なスクープやゴシップ、漫談の面白さに大いに依存した。官能を刺激するだけのメロドラマや男女の破廉恥な醜聞を描いた小説がベストセラーになり、感傷的な恋愛小説、怪奇小説、推理小説などが人気を博した。

 

 時代はどんどん動いていった。古き良き安定した堅固な時代は、しだいに時代の速いテンポと調和しなくなった。新しい変革は、科学技術の分野だけでなく、精神文化、文学や芸術、哲学の世界でも引き起こされた。

 音楽の世界では平均律に基づく音楽が乗り越え始められた。新しい音色をもった音楽が登場し、さらに不協和音を用いる音楽が現れた。

 美術の分野では、写真が出現した影響もあって、写実主義の超克が試みられ、非写実主義の流れが鮮明になった。画家は見たもの、見えたものを描くのではなく、心に感じたもの、心に写ったものを描こうとし始めたのだった。

 文学の世界では、かつてなかった魔神的文学や叙情的な詩が書かれた。

 心理学も発達し、深層心理なるものが発見され、夢についての分析と考察が行われた。

 そして、哲学や文学の世界では、「時代の精神」という言葉がしばしば登場した。その「時代の精神」は、科学技術の進展によってもたらされた新しい世界観と新しい社会がもたらした変革のたまものだった。それまでの人々の内面に深く侵入し、その生き方の基盤、その価値観の基盤をなしていたものが揺らぎ、疑いの中に放り込まれた。その精神状況の変革は、人々の日々の生活の中にも入り込み、さらには、すべての国や文化を超えて、地球上のあらゆる場所に広がってゆきつつあった。

 その「時代の精神」がもたらしたものの一つは、神が創りたもうた世界の中でいかに生きるかという視点で考えられてきた従来の思想を乗り越え、冷たい宇宙の中で孤独にひとりで虚無と向かい合う個の存在としての人間を省察することであった。

 なかでも、異教の神を説いた東方世界のザラスシュトラをして、現代とその精神について仮借なき批判を加えさせた哲学者フリードリヒの書は時代を席巻した。それは来たるべき時代の危険の予兆の察知であり、自分たちがおびやかされているという時代精神の反映でもあった。その彼は「神は死んだ。」と宣言した。

 そして、時代の急進の中、いつしか人は、意識的に、あるいは無意識のうちに、周りに取り残されまいと必死になっていた。実際、昨日まで不可能だったものが今日には可能となる。そして、今日は当たり前のことが明日には陳腐になる。そんな時代なのだ。新しいリズムが世界に生まれ、「時代遅れだ。」、「新しい時代に疎い。」といった言葉が辛辣な批判の言葉として使われるようになり、人々は、新しいもの、新しい流行にますます敏感になっていった。最初は、「デカダン」とか「アナーキスティック」という言葉は、大衆が新しいものを嫌悪し侮蔑するときに使う言葉だったが、いつしか、それらの言葉は精神の革命を引き起こす先駆的なものとして賞賛する言葉になっていった。新しい芸術は「前衛」でなければならなかった。

 だが、一方で、そんな近代文明への批判も絶えなかった。マクシミリアンというある教授はこう書いた。

「技術進展による生産性の増大によって、この地球上の人口はわずか百年で三倍になった。そして、この世界を舞台とした新しい生産組織、経営組織のために、すべては計算に組み込まれた。今や、人間でさえ、モノと化し、数字と化している。工場では、彼らは取って変えることのできる部品に過ぎない。合理化が行動の基準となったのだ。」

 また、哲学科のテオドールという教授はこう書いた。

「技術と大衆とは互いに相手を作り出した。そして、大衆の諸特質は、衝動的に動くこと、暗示にかかりやすいこと、不寛容なこと、変わりやすいことなどだ。そして、どの一人の人間にさえ現存しないのにある意見を持っている大多数の人々という幻が生み出された。要するに名無しの他者たち、どんな形ででも互いに出会うことのなかった多数の人々がその意見によって事を決定するのである。そして、この意見が『世論』と称される。世論は、すべての者がその意見であるとせられる虚構でしかないが、それは正当なものとして、呼びかけられ、言明され、そしてそれぞれの単独者やグループによって独立して主張される。」

 さらに、テオドールは、次のようにも書いている。

「大衆とは実存なき現存在であり、信仰なき迷信である。」

「彼らは現存在の満足を、栄養と性愛と自己主張に求めており、それらの一つだけでも削られるなら、人生は彼らになんの歓びも与えないのである。」

「彼らは自由であることを欲しないが、自由であるとは見なしたがる。」

「大衆の中で効果を上げるためには、広告が必要である。」

 実際、大衆が社会の主軸となった世界では、さまざまな標語やスローガンが提示され、それが社会を動かした。しかし、動かされているのは「社会」ではなく、実は「人」であり、詰まるところ、標語やスローガンによって人は動かされているのであった。別の言い方をするなら、人は、標語やスローガンによって動かすことのできる「モノ」あるいは「量」と化したのだった。

 

 このような社会の変化は、しだいに安定した社会を揺さぶり始めていた。その変化が、どれほどまでにかつての良き時代を震撼させ、あたりまえだったものどもを洗いざらい押し流してしまうかは誰も気づいていなかったが、それは間違いなく熟し始めていた。

 それまでの社会は裕福な市民層に支えられていた。彼らは教養のある人間であり、品位と威厳と正しい作法を身につけた人々であり、彼らの納税が国を支え、彼らの普通選挙権が政治を支えていた。

 そんな安定した社会に、不穏な突風として突如現れた最初のものは大衆運動だった。自由主義的な市民層に支持されてきた安定した社会に亀裂を走らせたのは、普通の民衆、普通の労働者たちだった。自由主義的な市民層は自分たちが社会を代表していると思っていたかもしれないが、社会の中の多数は工場で働く労働者や農地で働く農民だったのだ。

 たしかに、政府と議会は次第に人々の新しい権利を保護し、労働者たちの主張を認めるようになってきており、それに伴って下層階級の者たちも繁栄の恩恵を少しずつ受けるようにはなってきていたが、社会の底辺でうごめく労働者たちの惨めな生活を根本的に変えるまでには至っていないというのが現状だった。

 工場労働者の権利要求を軸に始まった政治運動はまさに新たな闘争の始まりだった。さらに、巨大資本に基づく巨大工場に押されて凋落しつつあった中産階級や小職人階級も政治運動に加わった。社会の中で、互いの立場、互いの利益が衝突し始めたのだった。安定と協調の時代は終わり、万人対万人の闘争が始まったとも言えた。

 一方、資源を求め、利潤を求める帝国間の軋轢も増加していった。帝国の指導者たちはただただ自分たちの権力の維持と国家としての繁栄だけを追い求め、ますます富国強兵への道を突き進んだ。植民地の争奪戦が激しさを増し、さらにそこに民族紛争や宗教の違いによる紛争が絡まり合い、国際関係はますます複雑化していった。

 新しい技術革新が押し寄せ、新しい自由と活気が社会の上で泡立っていたが、その急速な変化は、人間と国家とをより貪欲に、より好戦的にさせていたのだ。民族主義者たちは声を嗄らして異民族への反感を露わにしたし、企業家たちは、こぞって大型投資によって事業拡大を目差し、国家と結託して売り込み市場の確保と拡大に奔走した。「より多く」、「より強く」という「拡大拡張」こそが目指すべき道となったのだった。

 その根底に横たわっていた時代精神は、すべての国々、すべての人々の根底に横たわっていた楽観主義だった。未来は明るい。ときどき遠い空で銃声が鳴り響き、異国から紛争のニュースが伝えられるが、結局は妥協が図られる。弱腰では何も得られないのだから、相手を恫喝する強気の交渉が必要だ。でも、決して破滅的なことになるわけではない。今進んでいる道の向こうにより良い世界が待っている。それが社会の空気だった。

 だが、ほんとうにそうだったろうか。

 シャルマは議事堂の中でプシュパギリ、ギランダと顔を合わせると、次のように言った。

「こんなにも複雑に巨大化し、しかもそれらがこれほどまでに厳しくせめぎ合う世界はこれまでどこにも出現しなかった。この世界は破滅の一歩手前まで来ているとしか思えぬ。」

 プシュパギリもシャルマに同調して言った。

「その通りだ。世界は危うい均衡の上に立っているにすぎない。各国が世界帝国たらんとする野望に燃え、しかもその野望を包み隠すこともない状況だ。帝国どうしの争いは極限に達しており、後戻りできない地点にまで来ているとしか思えない。ほんの小さなきっかけさえあれば、世界は大戦争に突入してしまうのではないか。」

 ギランダも言った。

「地上を支配している帝国主義と急速な技術革新は必ずや恐ろしい世界戦争を引き起こさずにはいないだろう。技術革新による兵器の革新は、帝国主義者たちを勢力拡充の争いに駆り立てずにはいないだろう。」

 彼らが特に気にしていたのは、大国間の勢力争いの軋轢だった。当時、世界では、大陸に位置するビシュダール共和国、ブラーニア帝国、バームサーラ帝国、コヒツラント連邦共和国と海を隔てたランズウッド連合王国が五大強国と呼ばれていた。そして、軋轢の最大の基点は、大陸の中央に位置し、急速な工業化によって経済大国化しつつあったブラーニア帝国だった。

 ブラーニアはほんの半世紀前までは国民の半数以上が農民という後進の農業国でしかなかったが、今や大陸一の工業大国へと躍進していた。総生産は半世紀前の五倍以上となり、鉱工業に従事する者が国民の七割を超すまでになっていた。特に高い競争力を有したのが電気と化学の分野であり、世界の合成染料の九割がブラーニア製となっているほどであった。

 新興国としてのブラーニアの台頭に特に神経をとがらせていたのは、ブラーニアの西に位置するビシュダールと海の向こうのランズウッドだった。両国は先進国として海外に多くの植民地を抱える世界帝国であったが、新興国ブラーニアの勢力伸張によって、輸出市場はブラーニアに侵食され、自国内にはブラーニア製品が大量に流れ込み、深刻な貿易摩擦を引き起こしていた。五十年前には、「メイドインブラーニア」は「安かろう。悪かろう」という粗悪品の代名詞だったが、今や「メイドインブラーニア」は高級、高品質をイメージさせる言葉となっていた。

 こうした情勢の中、ビシュダールはかつての競争相手だったランズウッドとの提携を強化し、さらには、ブラーニアの東に位置し、陸軍大国と目されていたコヒツラントも含めた同盟を締結した。一方のブラーニアは、ブラーニアの東南に位置するバームサーラ帝国と密接な関係にあり、同盟国側に対抗すべくこの関係をさらに強化していったのだった。

 ブラーニアとバームサーラには、国の体制が皇帝を頂点とした専制君主国という共通点があり、さらに皇帝同士が親戚関係にあることもあって、関係は緊密だった。ブラーニアの皇帝がバームサーラの皇太子と面会した際、

「貴国が何らかの危機に面したとき、我が帝国が手をこまねいて傍観するなどということはありえない。」

と断言したという話まで伝わっていた。

 その頃、ブラーニアで公然と語られ始めたのが、海の向こうのランズウッドとの最終戦争論だった。これを唱えたブラーニア陸軍軍人の著はベストセラーになるほどだったが、その書物には次のように書かれていた。

「戦争はもはや権利ではなく、義務である。」

「我が国は世界最強国になるか、それとも没落するか、二者択一の時代にあるのだ。」

 拡張政策を強引に進めるブラーニアと、そのブラーニアの勢力拡大をなんとしても押さえつけたいランズウッドとビシュダールという構図ができあがっていたのだ。

 そんな中、ブラーニアに対抗する兵員の確保が急務となったビシュダールは、近代国家で初めて徴兵制を敷き、国民皆兵を義務づけた。それに追随するように、ブラーニアも徴兵制を採用し、少なからぬ国がそれに倣った。それまで戦場と直接関わり合うことのなかった普通の人が、自らの意思、希望、信条、思想に関係なく、殺し合いの場に駆り立てられる構図が出来上がったのだった。

 このような地上での情勢についてシャルマたちは大きな懸念を抱いていたが、地上では、この世界が安定して続いてゆくと信じられていた。生きがいに満ちた人生を歩くことのできる社会、昨日よりも今日、今日よりも明日が良くなる社会、それは永遠に続くはずだ。誰がそれを打ち壊そうなどとするのか。過去には戦争、革命、飢饉などがあったかもしれないが、それらは克服されつつある。それが社会の気分だった。それはほとんど、不断の進歩に対する信仰といっても良いようなものだった。

 だが、実際には、産業革命と富国強兵に基づく帝国主義政策によってさまざまな社会矛盾が蓄積し、社会のさまざまな亀裂が露わになり始めていたのだ。敏感な人々は、その状況についてゆくほかないと感じつつ、出口の見えない将来に対して、不安と喪失感のないまぜになった感情を抱き始めていた。それはまさに閉塞感と言っていいものだったかもしれない。そして、閉塞した時代への鬱積した不満と不安は社会のいたるところに充満し、戦争を熱望する声すらさまざまな場所から発せられた。まさに一つの世界が終焉しようとしているのかもしれなかった。

 地上のある文筆家は次のような文章を書いた。

「我らが生きている時代は苦悩と閉塞感に苛まれている。そして、その苦悩と閉塞感はもはや耐えがたいものにすらなっている。この世界に新たな風穴を求める悲痛な叫びがいたる所から発せられている。これは一つの終焉を求める声、苦悩の終焉を求める声なのだろうか。我々は新しい世界の黎明期を迎えるのだろうか。けれどそもそもそれは新しい聖なるものへの上昇なのか。それとも闇と無に向かう永遠の下降なのか。いずれにしても我々は静止状態にないのだ。」

 そして、世界はシャルマらが予見したとおりになった。

 民族紛争に端を発したバームサーラ帝国とコヒツラント連邦の間の衝突がまたたくまに世界大戦へと拡大していった。最初はこれまで何度もあった局地戦にすぎないと誰もが考えていたが、各国は次々に総動員令を発令して戦争に備えた。そして、コヒツラントがバームサーラ帝国に宣戦布告すると、バームサーラ帝国と手を握るブラーニア帝国はすぐさまコヒツラントに宣戦布告した。次の日には、コヒツラントと同盟関係にあるビシュダールとランズウッドがブラーニア、バームサーラの両帝国に宣戦布告し、帝国側と同盟国側の二手に分かれた激しい戦争が始まったのだった。

 交渉の過程では、どの国も、自国の強大な力を前にして、最後は相手が頭を下げると思い込んでいたが、それは相手も同じだった。最後は交渉によって妥協できるという楽観はもろくも砕けた。まさに、古い世界、安定と繁栄の上に築かれた世界が砕け散った瞬間でもあった。

 ブラーニアの皇帝は王宮前の広場を埋め尽くした群衆を前に拳を握って呼びかけた。

「我が帝国の平和への熱意は、傲慢貪欲な他国によって踏みにじられ、ついに開戦のやむなきに至った。だが、挑戦された以上、我が帝国は怯むことなく立ち向かう。今、我らには党派や宗派はもはや存在しない。あるのは、ブラーニアの同胞のみである。」

 集まった群衆は、皇帝万歳、ブラーニア帝国万歳を叫び、広場は歓呼に揺れた。

 誰も本当に戦争になると思っていなかったのに始まった戦争。だが、開戦によって起こったのは、悲観でも絶望でもなくまぎれもない熱狂だった。

 どの駅にも総動員を告げる貼り紙が張られ、どの列車も新しく入隊した兵士たちでいっぱいだった。帝国の国旗や軍旗がひるがえり、勇壮な音楽が鳴り響き、人々の歓声が渦巻く中、兵士たちが次々と出征していった。

 兵士たちの堂々たる行進、それを見守る群衆たちの歓呼の声。そこには、何か感動的なもの、魅惑的なものさえ含まれているかのようだった。

 そして、その熱狂は、世界中に蔓延していた閉塞感と、退廃的な文化の爛熟に対して鬱積していた反感などと相まって、「旧世界を破壊し、新世界を創造するための戦争」という熱狂的歓喜をも生み出した。

「我々は解放された気分になり、大きな希望を感じている。若者たちはこの栄光ある戦争によって浄化されるのだ。」

の書いた著名な作家もいたほどだった。

 ロマンに溢れた男らしい冒険。戦争はひとつの伝説であり、英雄的でロマンティックな憧れでさえあった。自分たちの一生において、この素晴らしい機会を体験できること、それはなんという幸運であることか。そんな気分が若者たちにみなぎり、彼らは歓呼して次々に戦争に飛び込んでいった。この戦争を憂い、眉をしかめる者もいただろうが、彼らの声は国家的狂騒の中の掻き消されずにはいなかった。

 そして、この大いなる解放をもたらす戦争は数か月で終わるはずだった。それまで時折起こっていた一地域での戦争と同じように、この戦争もすぐに終わる。たいした犠牲も出さずに、結局は講和が図られる。多くの人々がそう信じていた。

 だが、それは幻想でしかなかった。

 伝統的な騎兵の突撃が機関銃の連射の前にあえなく敗退すると、兵士たちは塹壕に籠らざるを得なかった。息苦しい塹壕戦の始まりだった。

 ある兵士は日記に記した。

「ぼくたちは毎日塹壕の中に籠っている。ときどき、大きな砲弾の破裂音が響く。息苦しい時間が延々と続く。それが塹壕戦だ。今日も塹壕の中の一人の兵士が撃たれた。だが、誰も見向きもしない。ただ、その兵士が運び出され、別の兵士が同じ持ち場に陣取るだけだ。延々と時間が過ぎるだけの塹壕の中の戦い。雨が降っても塹壕の中の持ち場から離れることはできない。時々ある敵の襲撃はこちらからの反撃でいともたやすく撃退できるが、このはてしない塹壕の戦いとはいったいなんなのか。まるで、ぼくたちは塹壕の奴隷とでもいった存在になりさがっている。」

 この日記が神々の議会で報告されると、創造への反対派は勢いづいた。プシュパギリはこぶしを振り上げて演説した。

「いったいこの創造はどこまで人間を落しめれば気がすむのか。地上では、数千万人が動員され、毎日、毎日、百万発以上の弾丸が発射されている。数百万の死者が出るだろう。こんな世界を創造した責任を問わなくてよいのか。ましてや、地上のこのような惨劇を目の当たりにしても、なおこの創造を賛美するというなら、いったいどこに神としての良心があると言えるのか。」

 だが、ヴィダール派の議員はそんな非難には屈しなかった。

「歴史の一断面に過ぎぬ。」

 そうヴィダール派の巨頭は主張した。

「人類が新たな世界を切り開くためには、自ら幾多の試練を乗り越えねばならぬ。試練を乗り越えることなく、道が開けるなどということはない。人類は必ずやこの試練を乗り越え、新たな輝かしい世界を築くだろう。それを見通すことなく目先の混乱にだけ目をやるシャルマらの思考は極めて近視眼的で洞察力に欠けるのではないか。この戦争は、戦争を終わらせるための戦争となるだろう。」

 このヴィダール派の主張に多くの神々が支持を与えた。

 さらに、ヴィダールは、マーシュ大学、バルマン芸術院、ウダヤ総合技術院の教授たちを次々に議会に登壇させて、創造の「成果」について語らせた。

 マーシュ大学の哲学科主任教授は、この世界大戦の混乱が既存哲学への疑問を引き起こしたことを取り上げ、新しい哲学の夜明けと称した。実際、地上で発表されたさまざまな新思想は、神々にとっても興味深いものだった。

 また、文学科の教授たちは、この厳しい境遇に生きる個人をテーマとした作品、世界を全体としてとらえるのではなく、世界の底辺でもがく個の存在に立脚した作品を取り上げ、新文学の興隆と称した。

 バルマン芸術院の教授たちも、この世界大戦の期間に生み出された新たな作品に注目した。既存の平均律に基づく調性を完全否定する新音楽、完全なる抽象によって描かれた美術作品を取り上げ、新たな芸術の可能性がこの大戦を通して生まれてきたと主張した。

 ウダヤ総合技術院の教授たちは、技術進展の成果を並べてみせた。特に、この大戦中に急激な進歩を見せた飛行機、電話、映画などの技術は今後神々の世界にも取り入れられるべきもので、神々の世界をより豊かなものにする技術としてたいへん期待できると主張した。

 これらの主張はいずれも神々におおいに支持された。これらの成果が生まれる底辺で無数の人々が意味もなく一発の弾丸で葬り去られていることなど重要ではなかった。

「こんなにも神々が、創造された者たちの心の痛みを理解しようとしないとは。」

 シャルマがそう吐き捨てるように言うと、プシュパギリも言った。

「地上の戦慄するような数々のできごとが伝わるたびに、神々の心も殺伐とし、闘争的となり、慈しみの心を失ってゆく。こんな悪影響しかもたらさない被造物に、いったいどんな価値があるというのか。」

 だが、依然として、シャルマらの主張は神々の支持を得られなかった。やむなく、プシュパギリは森のナユタを訪ねることを決意した。プシュパギリがそのことをシャルマに告げると、シャルマは言った。

「それは良いことだ。私も一緒に行こう。ただ、ナユタは昔から打算では動かぬ孤高の神だから、どういう話になるかは分からぬがな。」

 ともかく、シャルマとプシュパギリは再び森の中のナユタの棲み処を訪ねた。ふたりはナユタに会うと、改めて創造の是非について問いかけ、創造の停止への賛同を求めた。

 シャルマは言った。

「知っているとは思うが、地上では全世界を巻き込む悲惨な世界大戦が勃発し、果てることのない総力戦、消耗戦が続いている。そして地上の悲惨な戦争は神々の心をも荒ませている。清浄な精神がもたらす平安でなく、荒々しい闘争やいがみ合いが心を高ぶらせ、神々の世界も殺伐としてきている。地上に降りて、凄惨な戦いに身を置き、帰って来てそれを誇らしげに語る者さえいる始末だ。なあ、ナユタ。この創造はもはや打ち壊すべきものとは思わないか。おれたちと手を携え、この創造を停止させるために、共に戦わないか。」

 これに対して、ナユタは言葉を選びながら答えた。

「今回の創造に関しては、まったく同じ思いだ。だが、創造は始められてしまっている。問題があるからと言ってただ打ち壊せば良いものかどうか。本来であれば、その創造を正しい道に導くことがなすべきことのようにも思えるが。」

「たしかに、そうかもしれん。だが、そもそも神だからと言って、創造された世界を自由に操れるわけではない。ヴァーサヴァの創造の時と同じだ。しかも、今回の創造された世界はかつてなく複雑なものになっており、手出しするのも容易なことではない。」

「その通りだろうな。ただ、だから、打ち壊せば良いという考えには賛成できないのだ。それに、おれはこの創造に加担し、創造を開始する儀式ではブルーポールを握って発光させた。簡単に創造の停止に加担していいものかどうか。」

 シャルマはうなずきはしたが、諦めなかった。

「ナユタ。もう一度、かつてあんなに苦労してルガルバンダの覇権を打ち倒したときのことを思い出してくれ。おれたちはルガルバンダの帝国を倒し、この自由と平和を基盤とするこの世界を築いた。だが、その世界が今ヴィダールの創造によって歪められ、揺らいでいる。」

 このシャルマの思いはナユタにもよく分かった。シャルマは続けた。

「今、創造を打ち壊すことに賛成してくれなくてもいい。だが、例えば、まず、ヴィダールとシュリーにこの創造への対処を迫ってはどうだ。かつておまえがヴァーサヴァに創造の在り方について問いただしたようにな。今こそ、ヴィダールとシュリーにおまえの問いを突き付けるべき時ではないのか。」

 この言葉はナユタの心を動かしたようだった。

「その通りかもしれぬ。」

 そうつぶやいたナユタはしばしの沈黙の後、

「都へ行くとしよう。」

と短く答えた。

 この返答はシャルマとプシュパギリを喜ばせた。こうしてシャルマとプシュパギリは都での再会を約し、ナユタの棲み処を離れたのだった。

 

 ナユタが都ビハールへ行くのは、創造の儀式以来であったが、都はその時とは比べものにならないほど大きく変わっていた。

 街の中心の宮殿はかつてよりはるかに華やかで豪壮になり、道には馬や馬車と並んで、自動車なるものが走っていた。都からは各方面に鉄道が伸び、その上を蒸気機関車が走っていた。主要道路は舗装され、道の両側にはガス灯や電灯が灯されていた。

 そして、道を歩く神々はナユタが見たこともない服装で歩いていた。男神はズボンにフロックコート、そして山高帽をかぶり、ステッキを握って闊歩している。また、女神たちは、ふくらはぎをさらけ出したスカートなるものをはき、体のラインがはっきりわかるような衣服に身を包んでいる。さらには正確な時間を刻む時計というものが至る所にあり、男神たちはみな一つずつ懐中時計をもっている。どの男神も髪を短く刈り上げており、ナユタのように長い髪を垂らした神はほとんど目にしなかった。

 ただ、街の中を流れる川の両側に並ぶ桜の木が満開の花を咲かせていたのはナユタの心を和ませた。その桜は、かつてルガルバンダの覇権を倒した直後にナユタが仲間たちとともに植えた苗木が大きくなったものであったが、風がそよぐたびに花びらがひらひらと舞い散る様はことのほか美しかった。

 ホテルはプシュパギリが用意してくれていたが、そこはイルシュマの経営するホテルだった。ホテルに入って名前を告げると、すぐに恰幅の良い支配人がやってきて丁重に挨拶し、きちんとした制服を着たボーイがナユタを部屋に案内してくれた。

 ホテルでは、びっくりすることばかりだった。室内には電灯があり、スイッチ一つで明かりが灯った。上層階に行くには階段ではなく、エレベータなるもので行くことができた。部屋には清潔なシャワーがあり、窓には向こう側が歪みなくみえるガラス板がはめ込まれていた。

 ナユタが部屋に着いてしばらくすると、シャルマとプシュパギリが面会にやって来た。

「どうだ、ナユタ。外の世界は驚くことばかりだろう。」

「ああ、たしかにな。時代は変わったと実感したよ。」

「シュリーとヴィダールには面会を申し入れてある。明日の朝、迎えの車が来るだろう。」

 そう言って、シャルマは手に持っていた新聞をナユタに示した。そこには、ナユタが都にやって来てシュリーと面会することが一面に載っていた。さらに、それを仲介したシャルマの談話も写真入りで記事になっていた。

「これが新聞というものだよ。今では、なんでも活字になり、どんなできごとも広く神々に知れ渡るというわけだ。」

 ナユタは新聞に掲載された写真を興味深そうに眺め、かつて、ウパシーヴァ仙神が予言したことが次々と現実のものになっていることを実感した。

 シャルマたちとホテルのレストランで夕食を供にし、彼らが帰ると、ナユタはホテルに置いてある新聞を持ってこさせた。その中には、創造された世界の新聞もあり、そこには、地上のさまざまなことが載っていた。戦争のことはさることながら、政治のこと、社会のこと、日常生活に関することから、スポーツのことまで載っていた。

 そこで気付いたのは、新聞に載せられているのは、戦争の悲惨な現実や、戦争によって窮乏状態におかれている者たちに関する記事ではなく、ある戦線で敵を粉砕したという軍部の発表、最後の勝利を掴むためという政府の方針、激戦のさなか決死の突撃によって敵を打ち破った英雄的兵士の活躍、雄壮な調子で不撓の闘志を国民に鼓舞する新聞の論調などだった。

 戦争の虚偽と新聞を通して国民をして戦争に駆り立てる構図とが透けて見えた。

 

 次の日、ナユタの泊まるホテルに迎えの自動車が来た。最高級の車だった。

 ナユタは初めて乗る車に興味津々だった。御者ではなく運転手なるものが運転席に座り、手綱ではなくハンドルなるものを握って車を動かした。自動車は馬車よりも早く、そしてスムーズに走った。

 ナユタを乗せた車は博物館、美術館、劇場、オペラハウスなどが建ち並ぶまっすぐな大通りを走り、ルガルバンダが建てた方形の勝利の巨門の前で止まった。門柱のライオンの頭と鷲の翼を持つ牡牛像がかつてのままの姿で偉容を誇っていた。

 車を降りると、ヴィダールが出迎えのために待っていた。

「ようこそ。お待ちしておりました。」

 そうヴィダールは笑顔で語りかけた。勝利の巨門をくぐると、スフィンクスの並ぶ大参道には赤いじゅうたんが引いてあり、正装した儀仗兵が左右に立ち並んでいた。兵士たちが軍隊式の敬礼をする中、ナユタとヴィダールがその間を通り抜けて進み、ふたりが宮殿に登るための大階段の前の広場まで来ると、軍楽隊が、復興記念式典の時に初演されたツィンマーの『平和のためのミサ曲』の一節を奏でた。ナユタとヴィダールは胸に手を当ててそれを聞いた。

 広場には一本の鉄柱が昔のままに立っていた。それはかつてルガルバンダが建てさせたものであったが、二千年以上の時を経てもまったく錆びついていなかった。ナユタが感嘆の面持ちでその鉄柱を見ていることに気付いてヴィダールは言った。

「あの鉄柱は、かつてルガルバンダがイムテーベとナユタ殿に勝利した戦いを記念して建てさせたものですが、ウダヤ総合技術院の教授が言うには、鉄の純度が極めて高く、そのために、数百年間風雨にさらされ続けたにもかかわらず錆びないのだそうです。あの昔にそれほどの純度の鉄を作れたことはまったくもって驚異です。」

 ナユタは簡単に答えた。

「あの鉄柱のことは覚えている。ルガルバンダを倒したとき、ムチャリンダとシュリーに対する戦勝のオベリスクとルガルバンダの巨像は倒しただが、あの鉄柱だけは残したのだ。イムテーベを倒したことを誇る碑文が刻まれているので、あの鉄柱も倒そうという意見もあったのだが、イムテーベと供に戦って敗れた自らへの戒めの意味も込めて、これだけは時代の証人として残したのだ。」

 大階段を登り、立派なホールとなっているかつての大広間を通って宮殿内に入ると、手の込んだ装飾の施された回廊や階段が続いた。石は美しく磨かれ、立派な絵画が飾られていた。

 宮殿内の拝謁室ではシュリーが待っていた。正面には、正装したシュリーの肖像画が飾られていた。

 簡単なあいさつの後、シュリーは語りかけた。

「今回の創造では、そなたに創造の開始に立ち会ってもらい、その甲斐あって、この創造は素晴らしく生育している。シャルマらが創造の停止を提唱しておるが、それは取るに足らぬ妄動にすぎない。そなたにはこの創造の価値と成果をきちんと見て欲しい。」

 だが、ナユタは言った。

「たしかに私はこの創造の開始に立ち会った。そして、それゆえに、この創造に責任があると感じてもいる。だがら、今日こうしてやって来たのだが、それは、この創造の在り方について語り合うためだ。この創造が引き起こしたものは、残念ながら、過去のどんな創造でも見られなかった凄惨な戦いではないか。これほどまでに多くの兵士が倒れた戦争は神々の世界にも、そして創造されたどんな世界にもなかった。まさに世界大戦ともいうべき事態に直面している。私自身も心苦しい限りではあるが、この創造は限界に突き当たっているとしか思えない。」

 だが、シュリーは冷たい笑いを滲ませて言った。

「そなたは以前と何も変わっておらぬな。創造の一断面にこだわり、創造の負の一面をことさら強調して問題をあげつらうやり方は、父ヴァーサヴァの創造を妨害した時の姿勢となんら変わらぬ。この創造の偉大な成果に目を見開き、大局からこの創造を見る目を養うべきではないのか。」

「大局?毎日、何千、何万という兵士が汗にまみれ、血にまみれて命を落としているこの現実をどう見ているのか?親元を離れ、泥にまみれた戦場で命を落とす若者たちのことをどう考えているのか?」

 ナユタは厳しい声でそう言ったが、この言葉に答えたのはヴィダールだった。

「ナユタ殿、たしかにご指摘の点は心を痛めるべき点ではあります。ただ、シュリー様が申された通り、大局から見れば、これは単に歴史の一断面にすぎません。戦争はそのうち終り、その後に新しい世界が実現するはず。そして、その中で新しい価値あることどもが創造されるはずです。歴史の一局面一局面で一喜一憂するのは神としていかがなものかと心得ますが。そしてまた、この困難を乗り越える力を人間たちに付与したものこそ、ナユタ殿が発光させたブルーポールの力であると信じています。」

 ナユタは首を振った。

「昨日、ホテルで地上の新聞を読んだ。そして、分かったのは、戦争の現実と戦争の真の悲惨さを隠蔽し、ただただ、国民を戦争へ、戦場へと駆り立てようとする国の意思だった。それは虚飾というほかない。いったい神々は、いかなる良心によってそんな世界を是とするのか。」

 だが、ヴィダールは取り合わなかった。

「それも人間たちの一過程なのです。もっと人間たちの力と可能性を信じようではありませんか。多くの神々も、人間たちがこの苦境を乗り越えて新しい未来を切り開くことを強く期待しているのです。」

 その後もナユタはいくつかのことを言ったが、会談は平行線のまま終わった。

 だが、ヴィダールはそのままナユタを森に帰すことはせず、この創造の成果をぜひ見て欲しいと言って、ナユタに三か月間、都に滞在するよう要請した。

 ナユタはこの申し出に同意したが、失意のまま宮殿を後にした。ヴィダールが用意した高級車がナユタをホテルまで送り届けると、ホテルでナユタを待っていたのはシャルマとプシュパギリだった。

「どうだった?」

と聞くシャルマに、ナユタは首を振り、

「だめだった。」

と短く答えた。

「そうか。シュリーがおまえの言葉に耳を貸さないだろうことは分かっていたがな。」

とシャルマは答えたが、

「パブにでも行って話をしようじゃないか。」

とナユタをホテル内のパブに案内した。

 パブの席に着き、ハーフパイントのラガービールが運ばれてくると、ナユタは改めて語った。

「ヴィダールやシュリーはこの創造の結果についてなんら顧みることがなく、その姿勢は、かつてのヴァーサヴァの創造の時とまるで同じだ。だが、結局、神々の支持が彼らを支えているということが話をしていてよく分かったよ。神々の支持がある限り、彼らが考えを変えることはあり得まい。どうやって神々の支持を得るかが問題なのかもしれないな。」

「その通りだ。おれたちは議会で創造の問題を追及しているが、議会で少数派のおれたちにできることは限られている。今後は、神々の世界での反創造運動によって世界を変えたいと思っているが、この運動に加わってもらえないか。おまえが立てば世界は変わる。今、神々はシュリーを支持しているが、おまえが旗幟を鮮明にすれば、風向きは必ずや変わるだろう。」

 だが、ナユタは同意しなかった。

「かつての私であれば、あるいは同意したかもしれぬ。だが、真理を追い求める森の生活の中で学んだものが、私に同意させないのだ。この世界がすべてではない。森の世界はもう一つの世界だ。より高貴で、より光に満ちている。」

「だが、ナユタ。森の世界とて、この神々の世界から完全に離別しているわけではない。しかも、今回の創造にはおまえも創造開始の儀式に立ち会い、相応の責任があるはず。ヴィダールとシュリーの覇権を打ち倒さねば、健全な神々の世界は取り戻せぬ。ヴィダールとシュリーは己の権勢のために創造を利用しているとは思わぬか。」

「そうだな。だが、ともかく、三ヶ月はここに留まるよ。ヴィダールからそう要請されたのでな。この創造の成果をいろいろ見せてくれるらしい。」

「そうか。それなら、それをよく見せてもらうことだ。彼らは彼らに都合の良いことだけを見せようとするだろうが、おまえの目は節穴じゃない。きっと真実を見抜かずにはおかないだろうよ。」

 そう言うと、シャルマはさらに続けた。

「ともかく、おれたちはまず、議会にヴィダールの不信任案を出す。これは否決されるだろうが、この否決に抗議する大規模な集会を開くつもりだ。今日、おまえがシュリーを訪ね、物別れに終わったことは明日の新聞に出るだろう。それを読んでおれたちに共鳴する神々も少なくないはずだ。その集会にも注目していてくれ。」

 

 次の日の新聞には、ナユタがシュリーを訪ねたことが載っていた。「この創造に関する率直かつ建設的な意見交換が行われた。」というヴィダールの公式発言と、宮殿内の広場をヴィダールと並んで進むナユタの写真が掲載されていた。そして、同時に、「この創造に関する疑問を提起したナユタに対してシュリーはなんら明快な回答を与えなかったようだ。」というシャルマの談話も隅の方に小さく載っていた。

 二日後、議会ではシャルマらが提出していたヴィダールの不信任案の審議が行われた。プシュパギリは演壇に立ち、この創造の問題点を追及し、創造を肯定し続けるヴィダールを非難する演説を行った。だが、採決の結果は、目に見えていた。シャルマが言ったように、多数派のヴィダール一派の反対によって不信任案は圧倒的多数で否決された。

 その日議場を出ると、シャルマは新聞記者を相手に、

「それでも、神々の心は大きく揺れ動いている。」

と語り、巨大な反政府集会を予定していることを明らかにした。

 はたして次の日、議事堂の前の広場には、創造に反対する神々が次々に詰めかけた。プシュパギリが事前に準備していた神々の動員が功を奏したのだった。

 議事堂の前には数万の神々が詰めかけ、

「創造を打ち壊せ。」

「こんな創造を平然と推進するヴィダールこそ悪の元凶だ。」

「シュリーは退位を。」

などと次々に叫びを上げた。

 そんな中、準備された演壇にプシュパギリが登った。神々の大歓声がこだまする中、プシュパギリがマイクの前に立った。

「なぜ、このような創造が許されるのか。創造される者たちに苦悩と苦痛と悲惨さを与えるためとしか言えぬような創造にいかなる価値があるのか。行政府は創造を推進し、議会は創造を支持している。だが、おれたちはそんな行政府も議会も、そして、シュリーもヴィダールも支持しない。立法府を打ち倒し、議会を解散させるのだ。」

 プシュパギリの演説に呼応するように、

「革命だ。革命だ。」

という叫びが神々の中から沸き起こり、広場を揺るがした。

 集会では、地上での悲惨な現状が次々に報告され、神々の世界の革命に向けて、ひるまず最後まで戦い抜くことが決議された。

 

 一方、ヴィダールはナユタのために綿密なスケジュールを準備していた。費用はすべてイルシュマが負担しているらしかった。イルシュマは地上での産業革命の成果をいち早く取り入れ、今や神々の世界第一の富豪と言っていい存在になっていた。

 ナユタがシュリーを訪問した次の日、ナユタのもとにはヴィダールの部下数名がやってきた。彼らはナユタに現代の衣服に着替えさせ、さらに床屋へ連れて行って髪を短く切らせた。

 翌日、ナユタはウダヤ総合技術院に案内された。技術院では院長のアリアヌスが副院長やスタッフと共に出迎えてくれた。副院長のひとりにはクマルビが就任していた。型どおりの挨拶が済み、事務局長がその日以降の見学スケジュールを説明し終わると、アリアヌスはクマルビと共にナユタを別室に案内した。

 そこでアリアヌスはウダヤ総合技術院の体制や取り組みなどを説明し、さらに言った。

「ともかく今日の午後からは、いろいろな新技術を技師たちから説明させますよ。それをナユタさんに理解してもらい、この創造の成果をアピールすることがヴィダールの狙いですので。まあ、その新技術はたしかにおもしろいと思いますよ。びっくりするようなものもいろいろあると思います。ですが、最近は技師たちも自分で考えて開発するんじゃなくて、地上の技術を取り入れることにばかり躍起になっている。たしかに、地上の膨大な人間たちの知恵が生み出す技術を利用する方が手っ取り早いのも確かですけどね。」

 クマルビが口を挟んだ。

「そんな模倣で満足する技術者が増えているのはいかがなものかと思いますよ。うまく人まねができたら、そのまねできたことを自慢しているだけのことですからね。」

「だけど、そう言うおまえも副院長だよな。その仕事はおもしろいのか?」

 ナユタがそう問うと、クマルビは首をすくめた。

「おもしろくはないですよ。副院長は今すぐにでも辞めたいくらいです。だけどアリアヌスがどうしてもって言うんで。」

 アリアヌスが言った。

「まあ、そう言うな。おれだってやりたくて院長をやってるわけじゃない。だけど、ウダヤ師に頼まれたんで、放り出すわけにもいかないし。だから、クマルビにも副院長として頑張ってもらってるんです。」

 クマルビは苦笑して言った。

「頑張ってるかどうかは分からなりませんが、アリアヌスとはウバリート以来の付き合いですし、同じような意見です。アリアヌスが院長でいる間は、それなりにやらせてもらいますよ。」

 そんな話も含めて歓談した後、軽い昼食をとると、午後からは技術院の技師たちがスケジュールに沿ってさまざまな技術を説明しくれた。まず、彼らが説明したのが、蒸気機関の原理や自動車についてだった。ナユタは自動車の運転も習ったが、ナユタは瞬く間に自動車の操縦を覚え、ほんの十五分ほどで車を自在に操れるまでになった。

 また、ウダヤ総合技術院の技師たちは、写真、映画、電灯、電話、電報などの技術を次々に紹介し、ナユタに体験させた。蒸気機関車に乗って郊外まで列車の旅をすることも体験した。

 ナユタは、神々が地上から持ち帰ったという映画も観賞した。それらの映画はほとんどが無声で、ドタバタの喜劇からニュース映画、都会や田舎の日常風景を撮したものまで様々だったが、動く映像はどれもこれも興味深いものだった。

 だが、なんと言ってもナユタが惹きつけたのは世界大戦に関する映像だった。初めて見る機関銃の連射や塹壕戦の映像からは、この現代の戦争の凄まじさ、凄惨さが伝わってきた。それはまるでナユタの知らない戦争だった。そして戦禍に巻き込まれた悲惨な人々の怒りと悲しみを押し殺したような表情がナユタの心を打った。

「これが現代という時代なのだ。」

と実感せざるを得ない映像だった。

 また、植民地の映像も心を打った。貧しく虐げられた人々が裸足でつらい労働を強いられ、一方で、白い立派な服を着た監督者はステッキを持ち葉巻をくゆらせながら、労働者たちには見向きもせずに歩いていた。街では、真っ白なレースの服を着た貴婦人がまるで鳩に餌をやるかのように小銭を道に撒き、破れたきたない服を着た街の子供たちが群がって必死に拾い集める。それもまた現代の生の姿だった。 

 一方、バルマン芸術院の教授たちは、ナユタを美術館に案内し、この創造で得られた作品群を紹介した。また演奏会や劇場にも招待した。

 その演奏会では、地上の大作曲家だというアマデウスやルートヴィヒの交響曲をバルマン芸術院のメンバーで構成された交響楽団が演奏した。また、劇場では、エルアザルの劇団の公演で、これも地上の大劇作家だというウィリアムの悲劇を見ることができた。いずれも、それまでの神々の世界では生み出し得なかったような高みと深みを持つ音楽や劇であり、創造がなければ生まれ得なかったと教授たちが主張するのもうなずけなくはなかった。

 さらに、マーシュ大学、バルマン芸術院、ウダヤ総合技術院の教授たちのとの意見交換会も開かれた。教授たちはこの創造の成果を褒めそやした。

「これだけのすばらしい成果は神々の世界だけではなしえなかった。神々の世界はこの創造によって生き返り、はつらつとした世界を取り戻すことができた。」

 そう教授たちは主張した。だが、ナユタは別の視点から疑問を投げかけた。歴史学の主任教授にナユタは問いかけた。

「この人類の歴史が向かう先はどこなのであろうか。これからの人類の世界はどうなるのであろうか。この涯しない大戦の先には何があるのであろうか。」

 だが、その主任教授は明確な答えをしなかった。

「ナユタさん、過去の歴史について調査し、分析し、体系化することが私どもの研究の主目的です。誤解なさっては困りますが、未来を予見することが歴史学の目的ではありません。」

「だが、歴史から学ぶものがないなら、歴史学は何のためにあるのか。過去の記録は、単なる知的興味を満たすだけのものなのか。」

「いや、学ぶべきものはたくさんあり、それは人類の世界でも、我々の世界でも同様です。ただ、下界の高名な歴史学者がいみじくも言っている通りですが、歴史とは、天才と愚か者、暴君と理想主義者、ロマンティストと悪党が織りなす偉業と悪行の混沌から成り立っているのです。歴史の主人公は個々の存在者であって、何か別の力が歴史を動かしているのではない。だから未来は予見できないのです。」

 ナユタは社会学の権威と言われる教授にも問いかけた。

「現在の社会は人間をモノと化し、大衆と化している。大衆は操られるべき存在となり、流動的で、扇動やプロパガンダによって動かされる。このような社会が人間たちの真の在り方を損ねているのではないか。」

 教授は答えた。

「その通りです。ですが、我々は人間が大衆化し、巨大社会が形成されてゆく過程にも大変興味を持っています。それは社会というものの起源を探り、社会が維持される真の仕組みを理解するためのまたとない教材でもあります。その意味で、この創造は素晴らしい研究素材を提供してくれていると言えるのです。」

 教授たちの意見交換はナユタを満足させるものではなかった。

 

 一方、イルシュマはナキアとクマルビを伴ってナユタに会いに来た。ホテルの最上級のレストランに行くと、三神は既に来ており、イルシュマは満面の笑みを浮かべて挨拶した。

「お久しぶりです。長らくお会いできておりませんでしたが、ナユタさんもお元気そうでなによりです。クマルビにはこの前お会いになったようですが、今日はナキアにもお会いいただきたいと思って三神でやって参りました。」

「そうだな。こうやって四神で会うのもいつ以来かな。少なくともビハールを離れて森に住むようになってからは初めてだな。」

 ナキアが言った。

「ええ、ビハールにいたとき以来ですね。でも、ナユタさんはあの頃と全然変わっておられない。」

「それはありがとう。それで、ナキアは今はどうしてるんだ?」

「シュリー戴冠の後、イルシュマが資金を提供してくれてマーシュ大学を拡張したとき、数学科の教授に招かれまして、そこの主任教授をしています。」

「女神初の主任教授ですよ。初めての女性の博士も、初めての女性教授もナキアでしたが。」

 そう言ったのはイルシュマだった。

「でも、まだまだ女性の地位は低いと思っています。自分自身の研究も大事ですが、女性の地位向上のためにも力を尽くさねばと思っています。」

「皆、それぞれに頑張っているわけだ。」

 このナユタの言葉にはイルシュマが答えた。

「そうですよ。クマルビも今ではウダヤ総合技術院の副院長で、院長のアリアヌスの片腕として頑張っていますし。」

 クマルビは首をすくめて笑った。

「ナユタさんにはこの前も言いましたが、アリアヌスとの付き合いでやってるだけで。自分の研究はおもしろいが、副院長の仕事がおもしろいかと言われると、それはちょっと。」

 ナユタがうなずいて笑うと、イルシュマが言った。

「それはナユタさんも同じで。みんなそれぞれ自分のものをもっている。それはそれですばらしいことです。まあ、まずはお席に。」

 イルシュマがみんなに席を勧めた。イルシュマはナユタの横に座り、ナユタの前にナキア、その隣にクマルビが座った。

 イルシュマは乾杯用のシャンパンを運ばせると、

「再会を祝して。」

と言って、杯を合わせた。

 イルシュマはナユタの資産についても説明した。

「書面でしか報告しておりませんでしたので、どこまで確認されているか分かりませんが、ナユタさんの資産は私の方で管理、運用させてもらい、いまや莫大なものになっております。これからもナユタさんには十分に安心して暮らしていただけます。」

「おれはそれを望んでいるわけではないけどな。」

 そうナユタが言うとイルシュマは大きく笑って言った。

「たしかに、それは知っています。でも、金があるのがそれ自身で悪いわけではないでしょう。そのお金はナユタさんがこの世界のために真摯に努力したことの見返りであり、私がそれを合法的な方法で運用してきただけです。ともかく、これからのそうさせていただくつもりです。ナユタさんを支えさせていただいていることが私の心の中の誇りでもありますので。」

「だが、おれは創造には疑問を持っているけどな。」

「それは存じています。それについては、ナユタさんがご自身で判断なされば良いこと。ただ、私としては、創造の負の面だけでなく、創造が生むメリットにも目を向けるべきかと。」

「まあ、おまえは地上での産業革命の成果をいち早く活かして事業を飛躍させたらしいからな。」

「ありがとうございます。そんな新しい事業を行うためにたくさんの会社を作りましたが、その会社のいくつかでは個神の筆頭株主はナユタさんですので。ついでに言えば、ナキアやクマルビもいろんな会社の株主ですよ。」

「おれは一回も株主総会に行ったことがないけどな。」

 クマルビがそう言えば、ナキアも言った。

「私もよ。結局、形式的なものでしょう?」

 イルシュマが笑って言った。

「まあ、株主総会なんて行く必要はないさ。ちゃんと配当が入っていればそれで良いだろう?」

 食事会は楽しいもので、昔話にも花が咲いた。かつてウバリートで弩砲の開発をしていたとき、クマルビが開発した材料とナキアの設計を用いてアリアヌスが弩砲の試作品を作ったら、弩砲を撃った瞬間に弩砲が壊れたことがあるという話にはみんな大笑いだった。

「あのときは、計算のために教えてくれた材料の物性値と実際の値とが食い違っていたのよ。でも、クマルビは今でもその誤りを認めないんですよ。」

「だって、材料にはばらつきがあって、物性値にもある程度のばらつきが出ることは言ってたはずだけどな。」

「でも、ちょっとのばらつきぐらいなら、私の計算では問題なくうまくゆくはずだったのよ。だから、きっとあの時は、通常のばらつき以上に物性が違っていたんだと今でも信じてるわ。でも、検証しようにも、クマルビがすぐにやり直すと言って、壊れた部品を全部回収して融かしてしまいましたからね。」

「言っておくけど、別に、証拠隠滅を図ったわけじゃないから。ただ、アリアヌスがすぐにやり直せと言うんで回収しただけだよ。」

 ナユタが口を挟んだ。

「それで結局どうなったんだ?」

 ナキアが首をすくめた。

「私は材料がいい加減でもちゃんとゆくように設計をやり直し、クマルビは材料を作り直して結局はうまくいったんです。」

 クマルビもうなずいて言った。

「まあ、それにしても、材料は素材や組成をちょっと変えただけで性質がものすごく変わるからおもしろいけど、あんな数式をただただ書き連ねて何がおもしろいのはおれには分からんよ。もちろん、数学の価値は十分に認識しているがね。」

 ナキアも負けていなかった。

「でも、それを言うなら、材料なんて、本当の中身の性質を正確に記述することもできなくて、ただ、あれこれ混ぜ合わせているようなものじゃない。ある意味、いい加減で、ダーティな世界。それに比べれば、数学は美しいわ。正直言って、数学ほど美しい学問はないわ。もっとも、わたしもクマルビの材料学が実学として価値があることは認めますけど。」

 ナユタが笑って言った。

「ともかく、そんな努力や苦労があって、あの勝利があったということだ。今でも感謝しているよ。」

 イルシュマも口を挟んだ。

「その努力や苦労がふたりの今を開いたわけでもあるからな。もっとも、ふたりともいろいろ苦労はあるだろうけどな。」

「ナキアは女神の社会進出にも力を注いでいるそうだな。」

 ナユタに改めて訊かれて、ナキアは言った。

「ええ。でも、まさにそれは苦労の連続です。女神のシュリーが戴冠して少しは変わるかと思いましたが、むしろ逆でしたし。」

「と言うと?」

 イルシュマが言った。

「シュリーは女神が学問などする必要はないと思っているんですよ。政治や学問、芸術など世の仕事は男神がやり、女神はそれを支えれば良いという昔ながらの考えに凝り固まっているんです。だから、シュリーの取り巻きはすべて男神で固められ、そばにいる女神は衣装や食事などの世話をしたり、遊びやおしゃべりの相手をするだけの存在になっています。」

「『例外はあるかもしれないけど、女に学問は無理でしょう。』とシュリーが言うのを聞いたこともあります。あんな古くさい考えの神とは思いませんでした。お兄さんはシュリーを支えているけど。」

 そう言ったナキアは相当にシュリーに不信感を募らせているようだった。最後の言葉に反応してイルシュマが慌てて言った。

「おれはおまえのためにもずいぶん資金提供しているだろう。研究だけじゃなく、女神の社会進出のためにもなってるはずだし。ナユタさん、誤解されては困るので改めて言いますが、私はどこまで行ってもナユタさんの忠実な僕ですので。たしかに、シュリーやヴィダールにも協力しているが、それはこの世界全体を見た大局観に基づくもの。シュリーやヴィダールとも連携してマーシュ大学やウダヤ学院にも多額の資金援助を行っていますし、ナキアやクマルビの研究にもおおいに資金提供しています。正直言うと、創造に反対するシャルマらとヴィダールの対立はうれしくはないが、政治の世界ではいたしかたないのでしょう。ただ、私の世界は別。ナユタさんに対する忠誠は絶対ですので。」

 この言葉にナユタは苦笑いしながら言った。

「ともかく、おまえがこの世界を支えていてくれるのはよく分かっているよ。だが、これからのことは考えねばな。ほんとうに創造をこのままにしていて良いのかどうか。」

「それについては、難しい問題かと思いますが、ナユタさんの信じられる通りにとしか申し上げようがありません。ただ、今は、ヴィダールがナユタさんに見て欲しいものだけを見せているのでしょうが、ほんとうは、ナユタさんが見たいものを自由に見るべきです。その意味では、ヴィダールが要請している期間が過ぎてもこのビハールに留まってはいかがです?お住まいは、今お使いのこのホテルの最上級の部屋をいつまででもお使いいただけますので。」

 イルシュマはたしかに信頼できる神だった。自分のビジネスの面では、シュリーともヴィダールとも手を握るというしたたかさの一方で、ナユタに対しては絶対の忠誠心をもっているのも確かだった。

 考えてみれば、かつてベルジャーラで初めて出会って以来、イルシュマの勇気と行動力がどれほどあの苦しかった時代にナユタを支え、道を開いてくれたものか。ナユタの軍を支えるための物資や資金を差配し、さらにはさまざまな者たちの力をナユタの元に糾合させてくれたイルシュマの力があってこその勝利ではなかったか。そんな思いがナユタの胸に去来した。そのイルシュマはかつても今ももっとも信頼できる同志であり、この上なくありがたい存在だった。

 

 そのイルシュマはしばらく経って、ナユタを自動車に乗せてビハール郊外に連れ出した。

「今日はちょっと特別なところへお連れしようと思いまして。愉快かどうかは分かりませんが、ナユタさんに隠し事をしていると取られるのは嫌なので。」

「と言うことは、あまり愉快じゃないということだな?」

「まあ、そう思っておいていただいてけっこうです。ただ、これもこの世界の現実ということですので。実はアルセイスという女神のことはご存じと思いますが、彼女は事業家としても才がありまして、私は彼女の事業にけっこう投資しています。これからお連れするのは彼女の一大歓楽場の園地でして。」

「アルセイスか。かつてルガルバンダを倒してビハールに入った直後に向こうから訪ねてきたことがある。ビハールで最高級の娼婦だったようだな。」

「ええ、実際、その美貌と手管で男どもをたらし込んで大金を貯め込んでいたのも事実です。ですが、さっきも言いましたように、彼女は事業家としても能がありましてね。これから行く歓楽場も広大な敷地の中に、ホテル、レストラン、遊園場、遊戯場、動物園、宴会場、大浴場、劇場、プール、ゴルフ場、テニスコート、乗馬場、土産物店などが揃っています。」

「なるほど。そういうことなら、ともかく見させてもらうとしようかな。」

 ほどなくして車が目的の場所に着くと、立派な石に嵌め込まれた「アルセイス・ランド」というプレートが目に入った。敷地内に入ると、そこはまさに広大で道の右手にはゴルフコースがあり、左手には広大な牧草地が広がっていた。しばらく走って建物や施設が集まるエリアに着くと、車はホテルのロビーの前に止まった。

 格式張った立派なフロックコート姿のドアボーイが車のドアを開けてくれた。車を降りると、深々と頭を下げて出迎えてくれた知的な雰囲気の美神コンシェルジュが

「ナユタ様。お待ちしておりました。」

と胸に手をあてて頭を下げ、ナユタとイルシュマを中に案内してくれた。

 ホテルのロビーに入ると明るい色調の広々とした空間が広がっており、ビハールのイルシュマのホテルとは違ったリゾート風の雰囲気だった。コンシェルジュの女神がナユタとイルシュマをロビーの一角にあるカフェに案内してくれ、彼女も一緒に座った。

「ナユタさん。まずは彼女からここの施設などについて説明してもらいます。」

とイルシュマが言うと、コンシェルジュの女神は言った。

「改めまして。アルセイス・ランドにようこそおいで下さいました。まずはお飲み物ですが、特にご希望がなければ、当ホテルオリジナルブレンドのコーヒーをお持ちしますが。」

 ナユタがそれで良いと答えると、彼女は続けた。

「他にも、シェリー酒でもシャンパンでも何でもありますので、ご自由にお申し付けください。」

 そう言うと、彼女はパンフレットを見せながら説明を始めた。

「このホテルはこのアルセイス・ランドのもっとも高級なホテルですが、ホテルはこれ以外にカジュアルなホテルなどが三つあり、家族連れでも気軽に泊まることができます。」

 そう言って彼女は説明を続け、さらにこのランドにあるいろいろな施設についても説明して言った。

「このランドの特長は誰でも楽しめる健全な娯楽とエンターテインメントが揃っているということです。女性や子供も楽しめ、家族連れでも楽しめる。それがこのランドの最大の売りなのです。」

 彼女からの一通りの説明が終わるとイルシュマが言った。

「では、少し見て回りましょうか。」

 ホテルを出てカートに乗って少し行くと、遊園場があり、メリーゴーランド、コーヒーカップ、観覧車などがあった。子供たちがはしゃいでいる姿も目についた。

「あの観覧車はつい最近できたもので、世界最大のサイズを誇っています。もっとも、創造された地上の世界ではさらに大きいものもあるようですが。」

とコンセルジュの女神が説明してくれた。

 動物園にはいろいろな動物がいたし、宴会場、大浴場なども規模が半端なかった。立派な工芸品や絵画を集めた美術館もあった。劇場では演劇やミュージカル、歌劇などが演じられているということで、イルシュマが説明を付け加えた。

「この劇場はエルアザルが管轄していましてね。ここではそんなにレベルの高いものはやってなくて、ハイレベルなものはビハールの中でやるのですが、俳優や歌手、踊り手にとっては、ここはある意味、登竜門。ここで下積みをし、認められた者がビハールに出て行くのです。」

 施設を一回りしてホテルに戻ってくると、豪勢な壺や絵画で埋められたきらびやかな部屋に通された。そこに現われたのはアルセイスだった。上品で高価なワンピース型スーツを身につけた彼女はかつての妖艶な雰囲気とはまるで違い、その表情もビジネス家そのものだった。

「ナユタ様。お久しぶりでございます。その節はたいへんお世話になりました。大赦のおかげで自由をいただき、今はイルシュマさんの援助もいただいてこうして健全なるビジネスをやらせてもらっています。これもナユタ様の拓かれたこの世界のおかげです。」

「たしかにここは健全な施設のようだな。でも、街中にあった例の館はどうなったんだ?」

 アルセイスはにっこり微笑んで言った。

「さっそく厳しいところをお突きになりますね。今日はその話は触れずにおきたかったのですが、話題に出された以上はしかたありません。あの館は今もやっていて正直言うと、繁盛しています。いつの世でも、そういうことを求める男が尽きるということはありませんから。でも、私自身はほとんど行ってません。だって、自分の女の魅力で商売するより、イルシュマさんに出資してもらったこのビジネスの方が桁違いに儲かりますから。ただ、どうしてもと望まれれば男性の方のお相手もしないじゃありませんし、私も女ですからお相手が欲しくなることもありますからね。」

「合法的にやっているというわけだな。」

「ええ、その通りです。ともかく、私から申し上げたいのは、あそこはあそこ、ここはここということです。ですので、ここではナユタさんがいらしていただけるなら、すべて無料でお泊まりいただけ、施設もすべて無料です。もっとも、それはこのランドが負担するのではなくて、イルシュマさんが負担くださるんですけど。」

「だけど、そんなことをして経営は大丈夫なのか?」

 イルシュマは笑って答えた。

「ご心配なく。ナユタさんがどんなに頑張ってもびくともしませんよ。」

 アルセイスが付け加えた。

「ついでに言いますと、ここが無料なだけでなく、ビハールの中の例の館ももしナユタ様がいらっしゃれば無料ですので。こちらの方は、イルシュマさんではなく私自身が負担します。もし、ナユタ様が来て下さるならこんなうれしいことはありません。若いすてきな子もたくさん待ってますので。」

 これにはナユタは特に返事をしなかった。面会が終わって帰りの車に乗り込むと、イルシュマが言った。

「ちなみに彼女は今新しい事業を目指していましてね。地上の化粧品や香水を参考に、ちょうど新しいブランドを立ち上げたところです。若い女性に人気が出始めていまして。」

「なるほど。やり手というわけだ。」

「まあ、そうですね。私も彼女のそういう才に目を付けたわけでして。ほんとうは一泊してもらってアルセイスも含めて食事をしても良かったのですが、ナユタ様が嬉しく思われるかどうか分からなかったので日帰りにさせてもらいました。気が向けば、またお越しいただければと思います。」

 アルセイスへの投資はイルシュマにとっては事業を広げるための一手とも言え、ある意味、イルシュマは彼女のパトロンでもあるのだろうが、その裏ではアルセイスはイルシュマが囲っている愛神のひとりであるのかもしれなかった。だが、それは詮索しても咎めても詮無いことだった。

 

 数日後、そのイルシュマは、ヒュブラー、クレア、リュクセス、ベレニケ、サウロマタイのチャシタナらをビハールに呼んで食事会を開いてくれた。ヒュブラーはマカベアの長官としてさらに恰幅が良くなっており、クレアは結婚したマカベアの名士の夫と一緒だった。リュクセスはドルヒヤ民族博物館の館長としての落ち着きがあり、ベレニケは相変らず美しかったが、ふたりの子供ができたということで母親らしい雰囲気も滲み出ていた。チャシタナも結婚して若い妻を連れてきたが、彼女はサウロマタイの女神ではなく、ビハール出身ということだった。

 彼らのいろいろ話を聞いて、皆それなりに充実した道を歩いているようなので、ナユタは言った。

「この世界で皆がそれぞれ自らの道を見出し、それを歩いているのを聞いて嬉しく思うよ。皆、幸せそうだし。」

「ありがとうございます。お陰様できちんとお嫁に行くことができましたし。」

 クレアがそう言うと、夫が軽口を叩いた。

「でも、時々、ナユタ様を引き合いに出されて小言を言われましてね。そんなことはナユタ様は言われなかった、ナユタ様はそんなことはしなかったと言われて、閉口していますが。」

 皆が笑うと、クレアがつんとして言った。

「今みたいなことをナユタさんは言わなかったって言っているんですよ。」

 ベレニケが助け船を出した。

「でも、良い旦那さんじゃない。クレアのことをあれこれ文句は言わないんでしょう?それにクレアだって、会う度に旦那さんとののろけ話を聞かせてくれるじゃない。」

「でも、ベレニケほどじゃないわよ。ベレニケがリュクセスさんのことですごいのろけるから私もちょっと言うだけじゃない。」

 クレアがそう言うと、みんなが大笑いしたが、リュクセスは落ち着いて言った。

「でも、こんな話を楽しくやれるのも、すべてはナユタさんのおかげ。ほんとにありがたい話です。」

 ヒュブラーも言った。

「それはまさにその通り。その感謝は一瞬たりとも忘れたことはありませんからな。私などからしたら、森になど引き籠もらず、ビハールで悠々と優雅に暮らされてはいかがと思いますが、それを言うのは止めておきましょう。」

 イルシュマが言った。

「そういうことです。ともかく、今日はナユタさんにみんなの近況を知ってもらって、お互いの再会を喜んでもらえればと思っていますので。」

 ナユタがこの言葉を引き取って言った。

「ありがとう。イルシュマには支え続けてもらっているしな。ところで、チャシタナの農場はどんな感じなんだ。イルシュマから順調にいっているとは聞いているが。」

「ありがとうございます。お陰様で、農地もどんどん拡大しましたし、作物も増えました。」

「どんなものを作ってるんだ?」

「大々的にやっているのは、とうもろこし、小豆、じゃがいも、タマネギ、テンサイ、カボチャ、ニンジンなどです。最近は交通事情もかつてより遥かに発達してきたので、キャベツ、レタス、トマト、ニラ、ネギなどの生鮮野菜も作っています。イルシュマが売りさばいてくれますので。」

 ヒュブラーが口を挟んだ。

「その儲けの一部はナユタさんにも入っているんだろう?最初から投資してもらってるわけだから。」

 イルシュマが答えた。

「ええ。ナユタさんの資産は私が預かって運用させてもらっていますが、チャシタナの農場にも継続的に投資しています。ちなみに、チャシタナの農場は今は株式会社化しているのですが、ナユタさんは大株主のひとりです。ちなみに、今、チャシタナは新しい事業を計画してましてね。それはハーブの栽培で、特にラベンダーに期待しています。」

「ラベンダーってどんな作物なんだ?」

「紫の花が咲くハーブで、香りがとっても良いんです。チャシタナがラベンダーのオイルの抽出法を確立してくれたので、これから高級な香水や香料に使おうと思っているんです。」

「なるほどな。アルセイスも化粧品や香水の事業を始めると言うし、これからはそういうのが儲かる時代なのかな。」

「そうですよ。自分を美しく見せたいというのはいつの時代でも女性の常。しかも、世の中が発展し、豊かになれば、ますますそういうことにお金を使えるようになるわけで。」

 イルシュマのこの言葉を受けて、チャシタナの妻が言った。

「実は、皆様にお土産をと思って試作品をお持ちしました。」

 そう言って彼女は、香水や香料の試供品を取り出し、皆に渡した。クレアが受け取った瓶の蓋を開けると、かぐわしい香りが漂った。

「すてきな香りね。」

「これをいろんな方に渡してますが、評判はとっても良いです。」

「でも、おれには似合わんな。」

とヒュブラーは言ったが、彼女は笑って言った。

「そんなことはないですよ。応接室にそっと香らせれば良いんです。あるいは、ご自宅のお風呂のお湯に入れても良いですし。」

「なるほど。だったら、これは自慢できるな。」

とヒュブラーは上機嫌に答えた。

 その後も近況報告やこれからのことなど話題は尽きなかった。ヒュブラーが「ビハールの役人が威張りくさって腹立たしい。」と言ったり、チャシタナの妻が「地方ではよそ者への偏見が根強くて苦労している。」とか言ったりして、今の世の現状もそれとなく知ることができた。いずれにしても、ナユタにとっては久方ぶりの再会で心温まる食事会だった。

 

 こうしてビハールでの三ヶ月の期間が終わると、ナユタはシャルマに会って言った。

「この神々の世界が平和裡に繁栄しているのは喜ばしいことだな。だが、それがおれやユビュの心に適っているかは別の問題だ。神々の心はおれの心とはあまりにもかけ離れているのも改めてよく分かったよ。」

 シャルマはこれにうなずくと、改めてナユタに反創造運動に加わることを求めたが、それにはナユタは同意しなかった。シャルマはさらにさまざまな言葉でナユタを説得しようと努めたが、ナユタはそれには同意せず、次のように言った。

「ともかく、おれはもうしばらくビハールに留まることにするよ。イルシュマもヴィダールが見せてくれるものを見るだけじゃなく、自分でいろんなものを見た方が良いと言ってくれたしな。また、新しい世界に対する興味もあるし。」

 この言葉を聞くと、シャルマはうなずいて言った。

「それは良いことだ。ともかく、おまえがおれたちの活動に加われないというのは理解した。だが、おれたちの心も十分おまえに伝わったはずだ。今日は合意を見なかったが、必ずや手を携えねばならぬ時が来ると信じている。その時を待つとするよ。おれはこの神々の世界に革命を起こすべく活動を続ける。遠くからでもいい。おまえの支持を待っているよ。ぜひ、この都に留まって、おれたちの活動も見て欲しい。」

 

 こうしてナユタがビハールにとどまる間、地上での戦局も大きく動いていった。塹壕を制する新しい兵器である戦車の登場が戦局を動かした。戦車は塹壕を踏み潰して進撃した。さらに、新兵器である飛行機は塹壕を飛び越えて、敵の後方部隊にまで空から爆弾を投下した。飛行機の威力は限定的ではあったが、それでも新しい戦いを引き起こしたのはたしかだった。そして世界各地で繰り広げられた戦車戦は、戦線を一気に流動化させた。

 そして戦争の終結を早めたのは革命だった。戦争が長期化し、国民生活の窮乏による不満が高まっていたブラーニア帝国では皇帝の退位を求める声が蔓延し、それはついにクーデターとなって現れた。

 ある日曜日、パンの配給に並ぶ長い列の中から発せられた不平の声に対し、一人の兵士が空に向けて空砲を発したのが引き金になった。群衆はパニックになり、その場から逃げ出そうとしたが、その結果、一部の兵士たちを押し倒すことになった。それを見た上官は、何の躊躇もなく、

「撃て。」

と命じたのだった。控えていた兵士たちの一斉射撃で広場は血に染まり、数十人の死者が出た。

 民衆に銃口を向けたこの事件はたいへんな衝撃を与え、すぐさま一部の枢密院議員は公然と政府を批判し、内閣の退陣を要求した。おりしも皇帝と政府は最後の決戦をめざして各地の軍に出撃命令を出していたが、勝算のない決戦に躊躇する将軍も少なくない軍首脳部からは出撃命令への反発の声が次々に発せられた。

 そんな中、陸軍のナンバーツーであるノルケ将軍が、突如、宮殿を包囲して首相を拘束し、ブラーニア皇帝に退位を迫ったのだった。

 皇帝は退位に同意しなかったが、事態は急速に動いた。有力な軍団長が次々とノルケ将軍への支持を表明する中、首相は自らの辞任と皇帝の退位を一方的に発表した。

 臣下が君主を勝手に廃絶するというこの事態に皇帝は激怒したと伝えられるが、次の日には、ノルケ将軍が帝国議会の前に集まる群衆に対して、共和国樹立を宣言した。この宣言は、ある意味、何の権限にも基づかない宣言ではあったが、皇帝に残された道はもはやなかった。

 皇帝に亡命を勧めるノルケ将軍の側近は冷たく言い切ったということだった。

「もし、退位されないなら、この部屋にも暴徒が押し寄せるでしょう。ノルケ将軍は民衆には銃を向けないと宣言していますので、暴徒を阻止するものはもはや何もないでしょう。」

 ノルケ将軍が準備した亡命列車で皇帝が国外に退去すると、ノルケ将軍はすぐさま同盟国側と停戦交渉を始めた。この大戦の塹壕戦で名を馳せたノルケ将軍であったが、停戦交渉ではさまざまな屈辱を飲まざるを得なかった。実質的には無条件降伏に近いものであったが、とにもかくにも戦争が終わったのだった。

 

 戦争が終わったことでナユタは森に帰ることにしたが、そのことを聞きつけて、シャルマとプシュパギリがやってきた。シャルマは言った。

「おまえが森に帰るというのを聞いたので、訪ねてきた。たしかに、この戦争は終わった。だが、世界はますます混迷の中に突き進もうとしている。もうしばらくビハールにいてはどうだ。」

 だが、ナユタは首を横に振った。 

「たしかに世界の混乱が本質的に鎮まったとは言えないだろう。だが、おれの居場所はここじゃない。だから帰るよ。」

 諦め気分の混じったナユタの口調にシャルマは引き留めることは無理と悟ったが、プシュパギリは言った。

「森に帰るのを止めはしない。だけど、世界のことはよく見ておいてくれないか。世界はこれからも大きく動く。もっと恐ろしいことが起こるんじゃないかとさえ思える。」

 この言葉にナユタはうなずいた。

「世界の動きはよく見ておくよ。森にはウパシーヴァ仙神もいるしな。」

 プシュパギリはさらに言った。

「この大戦について戦勝国の海軍大臣だったブルックという男が言った言葉を知っているか?」

 ナユタが知らないと言うと、プシュパギリは続けた。

「彼はこう言ったよ。『この大戦で、戦争と世界が本質的に変わった。戦争からきらめきと魔術的な光が消えた。英雄が兵士たちと危険を共にし、馬で戦場を駆け抜けて帝国の運命を賭けて決戦を行う。そんなことはもうなくなってしまった。これからは、安全で静かで物憂い執務室で、司令官が参謀たちに取り囲まれて座って指示を出し、一方、前線では何万という兵士たちが電話一本で、機械の力によって殺される。今後、それぞれの大国は、一度発動されたら制御不能となる限界のない大量殺戮システムを築くことになるだろう。そして、一度、戦争が始まれば、政治家も軍人も制御しがたい戦いの奴隷となり、女性、子供、一般市民が否応なく戦禍に巻き込まれてゆく。人類は初めて自らを破滅させる力を手に入れた。これこそが、人類のたゆまぬ努力によって最後に到達した運命だ。』この言葉はこの創造の限界をまさに示しているとは思わないか。これがヴィダールの始めた創造の結末なんだ。」

 ナユタはこの言葉に深く考え込んだが、シャルマは言った。

「だが、この言葉をもってしてもヴィダールの創造を停止させることはできない。プシュパギリはこの言葉を議会で紹介してが、創造を擁護する神々が持ち出してきたのは、戦争終結を喜ぶ人々の姿、崩壊したバームサーラ帝国から独立を果たした国々の熱狂などだ。」

「そんな映像は見たよ。」

 ほんの一週間前に映画館で観たニュース映画が、まさにそういった光景を伝えていた。戦勝国では、戦勝パレード、復員兵の凱旋パレードが華やかに繰り広げられ、大帝国からの独立を勝ち取った国々では独立を祝うパレードに人々が熱狂していた。そんなパレードで、人々が街に繰り出して歓声を上げ、音楽家たちが喜びに溢れてヴァイオリンを奏で、娘たちは着飾って花びらを投げていた。熱狂、まさに、一つの大きな熱狂が人々を包んでいた。

「ともかく、これで終わりじゃない。いや、むしろ、これからこそだ。」

 そう言うシャルマに対し、ナユタは何の約束もしなかったが、力を込めて言った。

「そうだな。おれはこの世界に対して責任の一端を担っており、今後の世界に対しても何かなさねばならないのかもしれない。ともかく一度森に帰るが、これからもよろしくな。」

 シャルマとプシュパギリが帰ると、ナユタはホテルを出てひとり街を歩いた。街では神々が祝杯を挙げていた。地上での大戦が終わったことを祝っての祝杯だった。

「いやはやほっとしたよ。世界が壊れるのではないかと心配したのでな。」

「まったく、この世界大戦で、シャルマ一味が勢力を増すんじゃないかと恐れていたが、これで一安心だ。」

「それにしても、創造された世界での兵器の進歩はすごいものだな。塹壕戦を制した戦車といい、新兵器の飛行機といい、まったく想像だにできなかったものだからな。」

 こんな声が飛び交う街中をナユタはひとりうつむいて通り過ぎた。

 ある酒場では、

「おれの言った通り、同盟国側が勝っただろう。」

と自慢する神があり、

「いや、帝国側だって、あんな変な革命さえ起きなきゃ勝ってたはずだ。どこかの神が変な横槍を入れたんじゃないか。」

などと酒瓶を振り回して口論する神もあった。

 ナユタは、かつてルバルガンダとの大戦を制した三年後にこのビハールをひとり立ち去ったときと同じような暗い気持で、この街を歩いた。

「これが神々の現実の姿なのだ。」

 そう言い聞かせて、ナユタは都ビハールを出ると、ひとり森に帰ったのだった。

 

 森に帰ると、ナユタはバラドゥーラ仙神の住処にしばらく留まった。

「神々の世界も、そして創造された人間たちの世界も、精神の輝きは地に堕ちてしまいました。安っぽい興奮が神々の世界を覆い、欲望に突き動かされた争いが地上に蔓延しています。」

「そうだな。もともと、神々の心などその程度であったのかもしれぬな。ただ、神々の世界が貧しかった頃は、それでも、真摯に努力する姿勢があり、それが神々を謙虚なものにしておった。だが、ものが豊かになるに連れ、神々は傲慢に、強欲になり、欲望を満たすことにこだわり、心の興奮や感興を追い求めるようになった。それは堕落かもしれぬが、もともとの心がその程度であったとも言えるしな。」

「そう言った意味では、真理は森の中にしかないのかもしれません。」

「そうかもしれぬ。まあ、いずれにしても、しばらくここでゆっくりするがいい。おまえの傷ついた心も少し癒すと良い。」

 こうしてナユタはバラドゥーラ仙神のもとに留まったが、しばらくして、ウダヤ師とウパシーヴァ仙神がやって来た。地上に行っていたというウダヤ師は、地上の話を聞かせてくれた。

「戦後の混乱はひどいものだ。特に敗戦国のブラーニア帝国とバームサーラ帝国でな。バームサーラ帝国はもともと多民族を帝国が力で押さえつけ、統合しておったのだが、この敗戦で帝国は分裂し、各民族は独立へと走っておる。バームサーラ帝国の核だった部分はルンベルグ共和国として生まれ変わったが、そこでまず起こったのは、極度の貨幣価値の低下とインフレだ。とにかく物がないから、人々は貨幣ではなく物を求める。だから、物の値段はあっというまにうなぎ登りに上がってゆき、それに伴って貨幣価値が急速に下落する。今日の値段が昨日の二倍なんてこともある。卵一個の値段が、戦争前の都会でのディナーの値段と同じとか、そんな話はざらだ。」

「そんなにひどいのですか。」

「ああ、だから、ある意味では、まるで、古代の物々交換の社会に逆戻りしたような場面が日常に溢れている。紙幣をもらうより、物をもらった方が良いんだ。ともかく、物は物だからな。」

「まじめに金を貯めてきた者たちは悲惨だな。」

 そう言ったのは、ウパシーヴァ仙神だった。

「その通り。四十年に渡ってこつこつ金を貯め、さらに、その金を愛国心から戦時国債につぎ込んだ国民はみな無一文になった。とんでもない状況じゃよ。だが、ともかく、ルンベルグのインフレも今はようやく治まってきておるらしいが、今度はお隣のブラーニアでさらに激しいインフレが吹き荒れ始めておるそうじゃ。」

 この話を聞いて表情を暗くしたナユタが聞いた。

「でも、一応、戦争が終わり、これからは平和な時代となって復興してゆくのでは?」

 だが、ウダヤ師は首を振った。

「平和は長くは続くまい。」

 ウダヤ師はため息交じりにそう言い、さらに続けた。

「大戦が終わったとき、平和が世界を支配するだろうと多くの人々が確信し、希望が世界にみなぎっていた。だが、戦勝国が敗戦国に突きつけた平和条約は、敗戦国を徹底的に踏みつけるもので、あまりにも過酷な賠償を敗戦国に課している。ブラーニアに課せられた賠償金の額は、国家予算の二十倍にも上る。戦勝国の政治家たちは、国内での権力の維持と選挙での勝利を勝ち取るために、戦勝国の諸国民が舐めた辛酸を、敗戦国に徹底的に償わせねばならないのだろう。戦勝国の政治家たちは、このような過酷な取り立てをすることを自らの手柄として自国民に吹聴し、新聞はそれを世論が支持しているとして正義のお墨付きを与えておるからな。しばらくは、戦後の復興需要で経済が潤い、多くの国民が繁栄を謳歌するかもしれぬが、それとて長く続くものではなかろうな。」

「だとすれば、再び大戦が訪れるのでしょうか。」

 そう問いかけたナユタにウダヤ師は答えて言った。

「そうかもな。今回の講和条約に出席した戦勝国ビシュダールの元帥は、『これは平和ではない。ただ二十年間の休戦に過ぎない。』と言ったそうだ。」

 ウパシーヴァ仙神も口を挟んだ。

「皇帝を退位させたノルケ元帥は、新憲法のもとで初代大統領に就任したが、彼は必ずしも民主化を押し進めてはおらん。むしろ、権威主義と国家主義に基づくブラーニア再興を目指しているようにしか見えぬ。だが、一方で、ブラーニア国内では、革命を目指す左派一派、帝国復活を目指す保守一派、さらには民族主義者などが入り乱れ、テロや暗殺が横行している。国民の間ではフラストレーションと言っていいほどの不満が鬱積し、それはブラーニアに過酷な賠償を押し付けられている諸外国への反感と、国内政治への極度の不信となって、暴発寸前と言ってもいい事態だ。ともかく、地上の世界は大きく変わってしまった。それに、技術の進歩が甚だしく、過去のものへの不信も相まって人間の心も大きく変わってきている。」

 ウダヤ師も大きくうなずいた。

「人々は古い価値観を信じなくなった。なんと言っても、『最後の一兵一馬が生きている限り戦う。』と言っていた皇帝が、国境を越えて逃走したわけだからな。だから人々は、国家を信じず、政治家を信じず、教師を信じず、かつての時代を作ってきた年配の者たちを信じなくなった。すべてが不信の念をもって見られるようになった。古い時代の否定が至る所から起こっている。そしてその動きは芸術にも波及し、今、芸術の世界でも激しい動きが起こっておる。新しい美術、新しい音楽が次々に生まれている。」

 この話はナユタの興味を惹いた。バルマン芸術院の楽師たちが奏でてくれた新音楽がナユタの興味を惹いたこともあり、地上の音楽の変化はナユタの心を惹きつけた。

「そうですか。それは彼らの中から発露する何か強い純粋な心の叫びのようなものに源があるのでしょうか。」

「ああ、そうだろうな。美術では荒々しい造形や乱暴と言っていいまでの色彩がキャンバスを覆うようになった。激情がキャンバスにほとばしっていると言ってもいいくらいだ。音楽もそうだ。分かりやすいメロディーは追放され、激しい不協和音が交錯している。騒音としか聞こえないような音楽もある。戦後の混乱が芸術の世界にさまざまな衝撃を与えているのは間違いないだろう。激しい色調の抽象絵画や不協和音による新音楽が吹き荒れている様は、前回の創造のときとはまったく違う激しさだ。神々でもその芸術を理解できる者は少ないし、正直、わし自身もよく分からん。わしも古い神になってしまったしな。」

 ナユタがこの話に非常に興味を示したのを見て、ウダヤ師は言った。

「ナユタ、なんなら一度、地上に行ってみてはどうだ。今回の創造では、おまえは一度も地上に行っておらんしな。音楽の世界だけでなく、政治や社会の状況、科学技術の進歩をおまえ自身の目で見てみるのも良いのではないか。」

 ウパシーヴァ仙神も後押しするように別の視点から語った。

「前回の創造でもそうであったが、今回の創造でも人間たちは、食べることへの欲望、異性への欲望、征服への欲望に突き動かされている。征服への欲望は、略奪、強奪、搾取、支配への欲望と言ってもいい。そして、科学技術の進歩と相まって、この征服への欲望はかつてないほどに高まっている。破滅的とさえ思えるほどだ。そして、その欲望は、世界大戦という形の惨劇で大地の上で繰り広げられた。そんな人間たちの世界がどうなっているのかを直に見てみるのは良いのではないかな。」

 ウダヤ師は付け加えるように言った。

「それに、地上は大きく変わっておるぞ。今では何十階建てもの高い建物が建ち、鉄の船や自動車という乗り物に加え、空を飛ぶ飛行機というものまでできておるからな。もうすぐ、神々の世界でも技術院の者たちが飛行機の試作機第一号を飛ばす予定らしいがな。」

 これらの言葉を聞いて、ナユタは地上に降り立つ決心をした。ウダヤ師は最近の地上での風習などについても細かくナユタに教え、地上に行く準備を整えさせてくれた。

 ナユタが地上に行くことを手紙でシャルマとプシュパギリに伝えると、プシュパギリは次のように書いて返事をよこした。

「地上で繰り広げられているのは、おとぎ話のような世界ではない。そこで繰り広げられているのは、人間たちの欲望が絡み合い、沸騰する汚濁と汚泥に満ちた世界だ。それを直に見てきて欲しい。」

 

 ナユタが降り立ったのは、前大戦の敗戦国の一つルンベルグ共和国の首都、フィガラッシュだった。フィガラッシュは、かつて大陸に威を張ったバームサーラ帝国の首都であったが、この帝国はブラーニアと同盟して前大戦を戦って敗れ、皇帝は敗戦とともに亡命していた。バームサーラ帝国は敗戦後、いくつかの国に分割され、そのうちの一つが共和国となったルンベルグであった。首都のフィガラッシュはバームサーラ帝国時代から首都として栄えた美しい都市で、音楽の都とも呼ばれていた。

 フィガラッシュに降り立ったナユタは目を見張った。この大都会と比べれば、神々の都ビハールなど、田舎の地方都市程度でしかなかった。威厳のある豪壮なつくりの建物が並び、それらの建物の屋根の上の金箔を被せた球体や、金の輪を掲げた女神像などが目を引いた。広い道路は舗装され、その上を自動車が走っていたが、その数とスピードはビハールの比ではなかった。空には飛行船が浮かび、時折、轟音を発して飛行機という空飛ぶ乗り物が空中を飛んでいた。

 大戦が終わった直後は、貨幣の暴落とインフレを伴ったひどい混乱状態だったということだったが、ウダヤ師が事前に教えてくれていたとおり、その傷跡はもうあまり感じられなかった。この国では、戦後の速やかな復興が国民の生活に活気を取り戻させ、フィガラッシュでも往時の繁栄が取り戻されているような印象だった。

 そんなフィガラッシュで、ナユタはカフェに入った。ウダヤ師から教えられていたシュタイドルという名のカフェだった。店に入ると正装のウェイターが注文を取りにやってきた。ウダヤ師からカフェについても事細かに教え込まれていたのを活かしてナユタはモカを注文した。

 ウダヤ師によれば、フィガラッシュのカフェはある意味、文化を担う場所であり、人と出会う場所であり、静寂の中で沈思したり、新聞や本を読んだり、あるいは執筆したりする場所ということだった。実際、店にはたくさんの種類の新聞や本が置いてあった。この国だけでなく、他国の新聞や雑誌も置かれていた。そして、フィがラッシュの市民が毎朝の新聞でまず着目するのは、政治のことでも、世の中のできごとや事件のことでもなく、この首都の劇場で上演される上演題目だということだった。

 しばらくすると、ウェイターが銀の丸盆にコーヒーと水を載せて運んできた。ビハールでナユタは初めてコーヒーを味わったものだったが、フィガラッシュのコーヒーはまた格別だった。

 カフェの中を眺めると、一人で新聞を飲む者、チェスやカードを楽しむ者、議論をしたり、書き物をしたりする者、隅の方で黙って本を読み続ける大学教授と思しき人物など様々だった。さらに、カフェから街を眺めていると、おしゃれな服装のすらりとした若い女性たちは、腰の線のはっきりと出るスカートをはき、ヒールの高い靴を履いてふくらはぎを見せながら街をさっそうと歩いていた。ここの女性たちと比較すれば、ビハールで流行の最先端をゆく女神たちですら田舎くさいと言わざるを得なかった。

 そして、道の真ん中には電車が走り、その両側を自動車が駆け抜けていた。その活気はビハールの比ではなく、文明の力、科学技術の力に改めて驚嘆せずにはいられなかった。

 カフェを出て、街に並ぶ店をのぞいて見ると、モノにすべて定価がついているのにもびっくりした。誰もそれを値切ろうとせず、その値段で買うのだ。ナユタの知っているそれまでの世界では考えられないことだった。

 それから、ナユタは、ウダヤ師に教えてもらった若い音楽家のたまり場を訪ねた。それはごみごみした場末の界隈にあったが、その場所はすぐに分かった。ドアを開けると、中では若い音楽家数人が楽器を前に雑談を交わしていた。

 ドアが開いてナユタが入ってくると、皆がナユタの方を見やり、一人の男が無造作に言った。

「何か用かい。おれたちには物を買う金もないし、集金だとしても払う金はないぜ。」

「いや、君たちの音楽を聴きたいだけだ。」

 そうナユタが答えると、皆が顔を見合わせたが、中の一人が言った。

「マティアス、何か演奏してやれよ。」

 マティアスと呼ばれた男はもじゃもじゃのひげ面に黒い眼鏡をかけていたが、ピアノの前に座ると一曲演奏した。ナユタはその音楽に驚いた。その音は斬新でナユタが知っている音楽とはまったく異なる韻律だった。

「凄い音楽だ。これまで耳にしたこともなかった。」

 ナユタがそう言うと、最初にナユタに声をかけた男が言った。

「そうか。面白いかい。ところでおまえさんは音楽をたしなむのかい。もし、そうならおまえさんにも何か演奏して欲しいものだが。」

「じゃあ、楽器を捜させてくれるかい。」

 そう言ってナユタは部屋の中の楽器を物色した。

 ナユタが選んだのは、木の板を並べた下にひょうたんをぶら下げた楽器で、いわゆるマリンバだった。その楽器の音階を確かめると、ナユタは一気に音を奏でた。

 皆、息をのみ、ナユタの演奏に驚愕した。彼らの文化圏の伝統とはまったく違う技法、音調が彼らにとってはまさに斬新だった。演奏が終わると、男が言った。

「すごいじゃないか。聞いたこともないような音楽だ。その楽器は別の大陸の民族のものだが、その楽器からこんな音楽が生み出されるとは夢にも思わなかった。なあ、どこで音楽を習ったんだい。それに、そもそもおまえさんはどういう音楽家なんだい。」

「おれはルンベルグの田舎から出てきたただの流浪者さ。音楽は父から習ったが、古い音楽の伝統なるものには辟易してね。新しい音楽の可能性を求めて流浪し、今日はここにやって来たというわけさ。」

「じゃあ、おれたちのサークルに加わるかい。」

「ありがとう。そうさせてもらうよ。何が生み出されるか、わくわくするね。」

 こうして、ナユタは仲間に加わることになった。ナユタはすぐに溶け込み、彼らの仲間として生活する日々が始まった。メンバーは、ゲーベル、マティアス、フェドラー、クロイシュタットの四人だった。

 最初に声をかけてきた男はゲーベルと言い、このグループのリーダー格だった。オールバックの髪型が特徴的で、はっきりとものを言う男だったが、最近アーノルドという前衛作曲家が提唱したセリーの理論、すなわち、十二の音を平等に扱うという新技法、いわゆる十二音技法に深く傾倒していた。

 また、マティアスは、ピアノの弦に、石や木や金属などを挟んだり乗せたりして、これを演奏することに没頭していた。いわゆるプリペアード・ピアノであり、その打楽器的な音色や独特の音階はナユタの心をすぐに惹きつけた。

「プリペアード・ピアノはぼくが発明したものじゃないけど、これは凄い代物だ。ある意味、この楽器は独自のサウンドの出る打楽器のオーケストラだ。一般的な半音よりもさらに音程差の小さな音を扱うことができ、作曲家はさまざまな音色の出る旋律を生み出すことができる。だから、多くの異国で長い間親しまれてきた聴覚的な快感とも合致しうるんだ。」

 それがマティアスの言葉だったが、それは別の意味で言えば、ブラーニアやルンベルグを中心に標準化されてきた平均律音楽に対する挑戦であり、新しい音楽の地平を拓く道と言えた。

 ナユタはすぐにプリペアード・ピアノをマスターし、ゲーベルが傾倒する十二音技法の音楽も学んでいった。

 フェドラーは気難しい面があり、あまり人づきあいが好きでないふうだったが、民族音楽の研究とそれに基づく前衛作品を手掛けていた。ピアニストとしての腕も一流だったが、ピアニストとして舞台に立つよりも、録音機械を抱えて田舎に出かけ、民族音楽を蒐集することの方が彼にとっては大事なことのようであった。

 クロイシュタットは前衛絵画の画家でもあったが、騒音と言っていいような音を使った音楽を模索し、さらに偶然性を付与した音楽にも没頭していた。

 彼は日頃から、

「調性音楽のために発展してきた伝統的な楽器では新しい音楽は作れない。調性に縛られない新しい音楽は、調性用の楽器にとって自然である和声的関係と本質的に相容れないからだ。」

としばしば言っていたが、あるとき、彼は実験音楽として、五人の打楽器奏者用の『五重奏曲』を作曲してきた。ただ、どの楽器を使うべきかはクロイシュタットにも分からず、みんなが部屋にある机、椅子、鍋、コップなどを叩いて演奏し、さらには、その後何日にも渡って、ブリキの板やタライ、ブレーキドラム、鉄パイプなどを持ち寄ってなども楽器として使ったこともあった。

 マティアスは特にクロイシュタットの取り組みには興味を持っていて、彼の発明した音を積極的に使って新音楽に取り組んだ。

「ロマン主義の音楽は調整に束縛されていた。近代音楽は不協和音の解放と言われるが、ぼくが目指しているのは、すべての音を音楽的偏見から解放することなんだ。」

というのが彼の言葉だった。

 また、クロイシュタットは画家としての腕前もたいしたもので、色鮮やかな純色の絵の具と濁った色の絵の具をキャンバスに荒々しく塗りたくったような絵を描いていた。それはまさにそれまでの世紀の美意識への挑戦とも反抗とも言えるような絵画であった。

クロイシュタットは前衛美術家が集まるサークルにも参加し、サークル内でもそれなりの評価を得ているようであった。

 一方、ゲーベルらがナユタの音楽に示した関心も並々ならぬものがあった。ナユタの演奏によって、未開民族の楽器と思っていた楽器から、斬新な音楽が生み出される可能性がひらめいたからだった。彼らはともに音楽を奏で、音楽談義を重ねた。溌剌とした交流が生まれ、それぞれがナユタから得た新しい刺激によって新しい音楽を生み出していった。

 彼らの仲間にキャサリンという若い女性がいて、ときどきやって来た。セクシーな美貌とハスキーな歌声の持ち主で、ゲーベルとはかなり親しいようだった。彼女が初めてやってきたとき、彼女はしゃべっているようでもある歌を歌った。その曲は、先の大戦での犠牲者を悼む歌曲で、ゲーベルが作曲したものだった。

 ただ、キャサリンは、ゲーベルたち以上に貧乏で、その美貌とセクシーさを活かして、夜のバーで歌って生活費を稼いでいるということだった。一度、ナユタはゲーベルに連れられて彼女が歌うバーに行ったが、そこには、ゲーベルたちと一緒のときには決して見せない魔性の女の顔があった。薄手の透けるような衣装から素足を出し、濃厚な化粧をして退廃的な雰囲気で男たちに視線を投げる彼女の様はお世辞にもすてきとは言えなかったが、ゲーベルは彼女をかばって言った。

「食うためには仕方がないのさ。おれも一時はあの舞台の隅で楽器を叩いていたんだ。」

 しばらくして舞台を降りたキャサリンがやってきた。

「ようこそ、ナユタさん。まじめそうなあなたが来てくれてうれしいわ。ここでは、ほんとうに歌いたい歌を歌っているわけじゃないけど、でも、人生って美しいもの、澄んだものだけでできているわけじゃないって思わない?ここには、いろんな見ず知らずの人間が集っていて、そんな人たちとの出会いもすべて人生の中に含まれる一部なのよ。」

 そう言うと、キャサリンは、

「お相手してくださらない?」

とナユタをダンスに誘った。

「ええ、喜んで。」

 こんな場合の対応を地上に降りる前に学んでいたおかげで、ナユタはごく自然にこの誘いを受け、キャサリンの手を取って、ホールの中央に進んだ。だが、彼女のダンスは、ナユタが考えていたようなお上品なダンスではなかった。彼女は太ももや胸をナユタに押し付け、頬を寄せて艶めかしい吐息をナユタに吐きかけるのだった。

 だが、彼女はそれ以上のことはしようとしなかった。その夜、三人で店を出ると、ゲーベルと彼女は夜の街に消えて行った。

 

 それからしばらく経って、ゲーベルは、

「今度、演奏会をやらないか。」

と提案してきた。実際、ナユタが来て以来、ゲーベルはかなり興奮気味だったが、国立歌劇場の小ホールを借りて演奏会を行う目途を付けてきたとのことだった。

 話を聞くと、仲間たちはすぐに賛成した。

「それはいい。きっとすごい演奏会になる。」

「おれたちが新しい音楽を切り拓くんだ。」

 興奮した空気が仲間たちを包んだ。

 国立歌劇場の小ホールを借りられたのは、ゲーベルが新進の音楽家として多少なりとも注目されていたこともあったし、キャサリンも伝手を頼ってホールを格安で借りるために奔走したようだった。

 演奏会では、まずゲーベルのピアノ曲をフェドラーが演奏し、次にマティアスがプリペアード・ピアノを用いた自作を演奏した。

 さらに、ナユタがサントゥールを模してナユタ自身が作った楽器を用いて不思議な韻律の音の列を奏で、その音に重ねてキャサリンが不思議な声で歌った。

 この曲は、キャサリンの頼みでナユタが作曲した曲で、それまでナユタの奏でたどんな音とも違う響きを放った。それはフェドラーが蒐集してきた民族音楽の断片を継ぎ合わせ散りばめた曲であったが、一方で、フィガラッシュ特有の耽美的な旋律と混ぜ合わされており、この曲を退廃的な雰囲気をかもし出しながら歌う彼女のセクシーな姿と相まって、爛熟したフィガラッシュ文化の粋を感じさせる前衛音楽になっていた。

 演奏会はここまではまずまずだったが、そのあと、フェドラーの『三台の打楽器とチェレスタと声のための音楽』が演奏されると、会場がざわつき始めた。その曲は、フェドラーが蒐集した民族音楽を活かした曲だったが、そのメロディーに独特で強烈なシンコペーションのリズムを奏でる打楽器を組み合わせることで、ある意味、野蛮な鼓動と呪術的な痙攣とが交錯するような音楽だった。笑い声や席をがたがた揺らす音が聞こえ、これ見よがしに席を立つ者も少なからず現れた。

 そして、最後に、クロイシュタットが作曲したブリキの板やタライを使った騒音音楽とも言える作品『アグリゲーション』の演奏が始まると、会場は騒然となった。クロイシュタットに言わせれば、その曲は騒音を秩序立て、生命力の源泉へのまなざしと未知の空間への憧れに満ちたものであったが、ほとんどの聴衆には理解不能の音楽だった。そして、少なからぬ聴衆にとっては不快な音楽だった。

「こんなのは音楽じゃない。」

「もうやめろ。ただの騒音じゃないか。」

「音楽を踏みにじっている。」

という声が浴びせかけられ、激しいブーイングが起こった。

 だが、その時、立ち上がって、

「黙れ。静かに聞け。」

と一喝した男がいた。最前列中央に座っていたフィガラッシュ国立歌劇場の音楽監督であるグスタフだった。

 グスタフは新音楽の擁護者でもあり、ナユタたちの演奏会も最前列で聞き、演奏終了後も熱い拍手を送り続けた。

 だが、演奏会後、彼は

「まったく新しい音楽だ。これからは彼らが新しい音の世界を拓くのだろう。だが、私には理解できなかった。」

と言ったということだった。

 次の日、ナユタが行きつけのカフェ・シュタイドルに行くと、既に常連となっていたナユタに給仕がすぐにいくつかの新聞をもってきて声をかけてきた。

「昨日はたいへんな反響だったようですな。」

 新聞を見ると、昨日の演奏会が激しい賛否両論を巻き起こしことが改めて確認できた。ある意味では、それだけ、ナユタらの音楽が注目されたということでもあった。芸術新聞には写真入りで演奏会のことが取り上げられ、この音楽を擁護するグスタフのコメントも掲載されていた。

 コーヒーを運んできた先ほどの給仕がまた声を掛けてくれた。

「グスタフ先生に認めてもらえるとはたいしたものですな。なんと言っても、グスタフ先生は路上で一目見かけることができただけでも人に誇らしく語れる人物ですからな。」

 実際、グスタフのことはゲーベルたちからもしばしば聞いていたし、このカフェで読む新聞でもしばしば彼のことは知ることができた。それらによれば、グスタフは作曲家であると同時に、伝統あるフィガラッシュ国立歌劇場の音楽監督を務めており、新機軸のオペラを次々と上演する当代きっての人気指揮者でもあった。グスタフは、成熟、老練、権威が重んじられるこの音楽の都において、わずか三十七歳でこの責任ある地位に就いていたが、彼が楽団に課す厳しい練習とその高度な音楽性によって最高の芸術を作り上げていたのだった。彼が行なうフィガラッシュ・フィルハーモニーの演奏会はいつも満席であり、その指揮する姿は幽鬼のようであると述べた批評家もいた。

 一方で、楽団の中で彼は独裁者であり、楽団員や歌手たちとさまざまなもめ事を起こしているという噂もしばしば聞こえてきた。一つには、彼が真の理想主義者であったためだった。かつての流儀を盾にとって彼の意に沿わない演奏をする団員を決然とした態度で解雇したり、歌劇の全体像を無視してアリアを熱唱して聴衆の拍手喝采を得ようとする歌手に彼が求める歌い方を強いたりということが相次いだようだった。

 実際、それまでの歌劇場はある意味がさつな場所だったが、グスタフは、遅れてきた人々をロビーで待たせ、歌の合間の拍手を止めさせ、歌手たちに大声で喝采を上げるサクラを追い出したのだった。

 音楽愛好家を自認する高齢のある貴族は、次のように言ったということだった。

「音楽とはそんなふうに真剣に聞くべきものなのか?音楽や歌劇はわれわれに楽しみを与えてくれるものとばかり思っておったがな。」

 一方、作曲家としてのグスタフの評価は芳しくなかった。

「道楽に、ばけものじみた巨大な交響曲を作曲し、迷惑も顧みず自らそれを演奏しているフィルハーモニーの巨匠。」

「真に独創的なものは何もなく、低俗な民謡や軍楽行進曲を巧妙に組み入れ、さも豪壮そうな交響曲をでっち上げただけの二流作曲家。」

 そんな批判もしばしば新聞に載っていたものだった。

 

 さて、ゲーベルたちの演奏会はフィガラッシュの音楽界を波立たせたが、この演奏会をきっかけにナユタはゲーベルからグスタフに紹介され、グスタフが出席する会合やパーティにナユタも顔を出すようになった。

 グスタフが主宰している新音楽協会のある会合にナユタたちが出かけたとき、グスタフは、ナユタに語ったものだった。

「その作品が偉大かどうか、世の中が判断できるには五十年も百年もかかる。過去を振り返って偉大な音楽について語るのは簡単だが、百年後に偉大な音楽と認められる音楽を推測する力を世間に求めても無駄だ。セバスチャンやアマデウスだってそうだったじゃないか。」

 これに対して、ナユタが、

「あなたの五つの交響曲の楽譜を読ませてもらいましたが、どれも途方もなく素晴らしいものでした。特に第二番はとりわけ心を打ちました。」

と言うと、グスタフは上機嫌に答えた。

「だったら、今度、第六番を初演するのでぜひ聞きに来てくれたまえ。チケットを送るよ。」

 その二か月後、その第六番の交響曲の初演の日となった。その初演はフィガラッシュから汽車で三時間かかる小さな地方都市で行われた。音楽界の著名な作曲家や演奏家、新音楽を目指す若手音楽家、さらには音楽評論家や新聞記者やカメラマンも詰めかけた。

 巨大な宿命を背負っているかのような葬送行進曲でこの交響曲が始まると、音がきらめきながら舞い散るように連なってゆく天才的な楽想にナユタの心は惹きつけられた。叙事詩的な音の列からなる天翔けるような壮大で悲劇的な世界が巨大な渦を形成している。そんな宇宙を想起させる音楽が、別の世界からと思われるような叙情的な旋律と絡み合う交響曲。混沌とし、しかし、とてつもなく高貴な音楽だった。広大無辺な響きの中に一切の真理が舞い踊り、その破片が次々と砕けて落ちてくるような美しさ。それはまさに世界の真の姿を描き出したもっとも美しいシンフォニーであった。

 そして、また、ナユタにとっては、この音楽の各楽章が、まるで、ナユタのこれまでの歩みと共鳴するようにすら思えた。悲壮な響きの葬送行進曲で始まる第一楽章は、ヴァーサヴァの創造に始まり、マーシュ師の館でのムチャリンダとの戦いを思い起こさせた。地上でのヨシュタの戦いは、第二楽章の楽想と合致した。そして、叙情的で崇高な静けさを歌い上げた第三楽章は、パキゼーの高貴な悟りの世界を描いているかのようだった。荒波を越えるかのように激しく激動する第四楽章は、まるで神々が復活した後の世界での壮絶な戦いを描いているかのようにナユタには思えた。

 だが、批評家たちの評価は必ずしも芳しくなかった。

「我々は騒々しい低級な軍楽隊のリズムにつき合わされた。」

「打楽器がただガンガンと打ち鳴らされるだけの巨大な音楽は、音楽の創造というより、音楽の破壊と言った方が的を得ている。」

 そんな辛辣な言葉が新聞や雑誌で踊ったが、ナユタにとっては、ただただ、とてつもない深みを持ったとてつもなく美しい音楽であった。

 

 しばらくしてグスタフは、親交を深めたナユタたちを夏の別荘に招いてくれた。ゲーベルはキャサリンのために作曲した曲の初演のためにビシュダールの首都ブルザンガに出かけ、クロイシュタットは夏の期間、画家として絵に専念したいというので、グスタフの別荘に行ったのは、ナユタ、マティアス、フェドラーの三人だった。

 その別荘は人里離れた閑静な避暑地にあり、すぐそばには湖があった。グスタフは夏の間中、その別荘で世俗の煩わしさから隔離された生活を送り、その静謐の中で自然に心を通わせながら作曲に専念している。

 朝起きると、彼は別荘から少し離れた作曲小屋と称する建物に籠り、お昼近くになってようやく戻ってくる。午後になると、妻や子供たち、さらにはナユタたちと一緒に泳いだり、ボートを漕いだり、散歩したりしたが、別荘に戻って音楽を一緒に奏でることもしばしばだった。

 グスタフは、ナユタたちの奏でる新しい響きにも興味津々だった。グスタフ自身が民謡の旋律をしばしばその巨大な交響曲に取り入れていたこともあり、フェドラーが取り組んでいた民族音楽の研究や、ナユタが奏でた音階には特に強い関心を示し、実際、彼らから学んだいくつかのフレーズはグスタフの新しい交響曲の中にも取り入れられたようだった。

 この数日の滞在を通してナユタが感じたのは、このある意味気難しい巨匠には名声も世俗的権勢もどうでもいいのだ、ということだった。彼は偉大な指揮者であったが、彼が真に求めていたのは、彼自身の歌曲と交響曲だけであった。

 グスタフはある日、湖のほとりでナユタに言った。

「古いものは消滅した。あるいは、完全に消滅していないとしても、没落しかかっている。だが、それらは消滅してしまえばいい。だが、新しいものはまだ軛から解き放たれていない。私はそれを解き放ち、飛び立たせるのだ。君たちもそうだろう?私の音楽はまだ理解されないかもしれないが、いつか私の時代が来る。私の音は時代を先取りしているのだ。」

 また、ある時、こうも言った。

「ぼくは、誰も響かせたことのない響きを響かせたい。誰も描いたことのない世界を交響曲の中に生み出したいんだ。」

 これこそがまさに彼の真の声であったろう。そして、その音楽の源泉は、グスタフの心の底にあった葛藤、すなわち、世界とその中の人間の存在に関する奥深い思念のようだった。

 別の日の散歩のとき、グスタフはこう言った。

「世界はどれほどの価値があるものなのか。そして、私たち一人一人の存在も。地球は太陽の回りを回り続け、無情にも時を正確に刻み続けているだけだ。」

 彼は、自らの無力を自覚し、可能性は無限にあるがそれは自分たちのためではないと悟り、そして世界はに亀裂が入っていてさまざまな不条理に満ちていることをまざまざと凝視しているようだった。そして、世界と存在に関する深い観想から湧出してくる音がグスタフの音楽を形作っているのだということをナユタは感じ取ることができた。

 まさにナユタはグスタフの中に真の芸術家の姿を見たのだった。真の芸術とは、閉じ込められた世界の中で限界に突き当たった心がより高みを目指して昇華することによって生み出されるのだということを、グスタフの中にまざまざと見た思いだった。

 

 この貴重なグスタフの別荘での一週間が終わってフィガラッシュに戻り、さらに夏が終わってグスタフも戻ってくると、グスタフはいくつかのサロンやパーティにナユタたちを常連として招いてくれるようになった。

 そんな集まりでは、耳触りの良い賞賛の言葉で話しかけてくる紳士や淑女がたくさんいたし、猫なで声で話しかけながら抜け目ない目をちらちらと投げる老嬢たちもいた。ときには、こんな場にあまり慣れていない風の若い清純そうな娘もいたが、そんな令嬢の周りには、その若さとみずみずしさに惹きつけられた男たちがすぐに集まって取り囲んだ。

 グスタフは、このような集まりの価値を理解しており、それゆえに、ナユタたちも呼んでくれたのだが、実際のところは、グスタフが必ずしもこのような集まりが好きでないことはしばらくすると理解できた。彼は体の良いお追従の言葉にはきちんと受け答えしなかったし、集まりの途中でいなくなることも少なくなかった。だが、彼がいなくなってしまっても参加者のほとんどは特に気に留めるでもなく、皆それぞれに歓談し、楽しんでいたのだった。

 時には、立派な口ひげをはやした恰幅の良い紳士が、威厳をもった口ぶりでグスタフに批判的な言葉を口にすることも珍しくなかった。

「グスタフの演奏は天才的ですな。これほど優雅でかつ斬新な演奏を聞かせる指揮者はこれまでありませんでしたからな。まさに当代きっての指揮者と言うべきです。ただ、作曲はいけません。あんな曲を誰が望んでると言うんです?彼自身のためにも作曲は止めて指揮に専念すべきですな。」

 回りの者たちがその通りという表情でうなずくと、紳士はさらに言うのだった。

「我々にとって価値とは何か。それは人類への貢献、この社会への貢献ではありませんかな。その観点で、グスタフの演奏はまさしく大きな貢献をしている。すばらしい芸術を提供し、しかもその芸術を革新させている。しかし、彼の曲はお世辞にも人類に貢献しているとは言えない。あれはただの彼の道楽に過ぎず、人類があの曲で心を高められるなどということはありませんからな。」

 そんな会話には賛同者も多く、いつも会話がさらに弾むのだった。だが、グスタフはそんなことをするつもりはさらさらなかった。指揮は生活のため、そして、作曲こそが彼の真の望みだったからだ。

 そんなサロンでナユタは、セルゲイというコヒツラント人の紳士から声をかけられた。ダンスの振り付け師であると同時に興業師でもあると自己紹介したセルゲイはナユタに言った。

「数ヶ月前の演奏会での演奏は聴かせてもらいました。実に興味深かった。ご存じないかもしれませんが、私は『芸術世界』という雑誌も刊行していましてね。新しい芸術を紹介する雑誌で、皆さんの演奏会のことも取り上げさせてもらいました。」

「ありがとうございます。その雑誌のことは知らなくて。」

 ナユタがそう言うと、セルゲイは大きく笑って続けた。

「良いのですよ。雑誌は今度お届けしますので、軽くでもお目通しいただければ。ところで、一つご相談があるのですが、今度、新しいダンサーをデビューさせたいと思っていましてね。この子なんですが。」

 セルゲイは胸ポケットから写真を撮り出して見せてくれた。どこにでもいる若い娘のように見えなくもなかったが、セルゲイは続けた。

「彼女は異国で育った帰国子女でしてね。しかもダンスもうまくて、向こうの踊りを体得しているんです。彼女自身は純粋なビシュダール人ですが、化粧をすれば異国的な顔立ちになり、神秘的にも見える。ただ、彼女を踊らせる音楽に困っていましてね。エキゾチックで神秘的な音楽が欲しいんです。それで、ナユタさんの音楽ならその踊りにぴったりだと思いましてね。もちろんお金は弾みます。悪い話ではないと思いますが。」

 ナユタに断る理由はなかった。

「ありがたい話です。グスタフさんの知遇を得てこのサロンに来させていただいてはいますが、お金には苦労してないわけじゃないので。」

 セルゲイは顔をほころばせて言った。

「では、さっそく一度来ていただいて彼女の踊りを見ていただければ。音楽のイメージも沸くと思いますので。」

 その場で日取りの約束をして、約束の日に劇場に行くと、セルゲイがにこやかに迎えてくれた。

「待ってましたよ。ちょうど練習が始まったところです。」

 そう言ってセルゲイがナユタを劇場内に導くと、舞台では踊り子が踊りの練習をしていた。セルゲイは彼女を呼んで言った。

「ナンシー。ナユタさんが来られた。一度、通して踊ってくれ。」

 ナンシーと呼ばれたダンサーは整った顔立ちで、踊りもうまかった。ただ、音楽は異国情緒が漂ってはいたものの凡庸すぎ、甘ったるいだけの安っぽい音楽だった。セルゲイが言った。

「踊りは悪くないでしょう。でも、音楽はひどい。あまりに田舎くさくて、まったく洗練もされていないし、新鮮さもない。でも、フィガラッシュには、エキゾチックでしかも斬新な音楽というものがないのですよ。」

「ご要望はよく分かりました。たしかに、この音楽では彼女の踊りが映えない。ひとつ、やらせてもらえますか。」

 そう言うと、ナユタは舞台の端にいた演奏家のところに行き、楽器をひとつ借りると、音楽を奏で始めた。異国情緒漂う旋律に不協和音の響きが交錯する新鮮な音楽が舞台に響いた。

 セルゲイは大きな声で言った。

「すばらしい。これだよ、これ。ナンシー、この曲に合わせて踊って。」

 ナンシーがナユタの曲に合わせて踊り始めると、先ほどとは見違えるほど生き生きした踊りに見えた。踊りが終わると、セルゲイはナユタの元に駆け寄って言った。

「文句なくすばらしい。これなら舞台は大成功間違いなしだ。」

 ナンシーも言った。

「すばらしい音楽だわ。体がかってに動き始めるような感じだった。これならやれるって初めて思ったわ。」

 その日からナユタはその曲を演奏家たちにも教え、舞台練習やリハーサルにも立ち会い、いよいよ本番の日を迎えた。

 ナユタの指導を受けた楽師たちが静かに音楽を奏で始める中、幕が上がると美しい薄衣の衣装を身につけたナンシーが現われた。練習の時とは別人のような妖艶さと神秘的な雰囲気を醸し出した彼女は可憐で優美なエキゾチックな踊りを踊って観客を魅了した。柔らかな身のこなし、一本一本の指の繊細な表情、顔や首のわずかな動きに滲み出る情感の変化がすてきだった。

 舞台は大成功だった。セルゲイはナンシーの興業を次々に企画し、ナユタもナンシーのために何曲か曲を書いた。時にはナユタ自身がナンシーの舞台で演奏することもあった。そのうち、ナンシーの踊りはフィガラッシュやビシュダール共和国の首都ブルザンガの公演でセンセーショナルなほどに人気を呼び、さまざまなサロンやパーティにもしばしば呼ばれて踊るようになった。さらに、セルゲイは一座を率いて各国を興行して回り、海の向こうのランズウッドにも二度ほど公演に出かけたほどだった。

 ナユタにとっては余興程度の音楽でしかなかったが、ともかく、けっこうな金になる仕事だったので、セルゲイからの要請に応じて曲を渡し、演奏家たちへの指導も続けたのだった。

 

 こうしてナユタはフィガラッシュで活動を続けたが、一方で、社会の底辺には別の社会が広がっていた。社会の中に格差があるのは神々の世界でもそうだったし、人間の世界でもそうだということはナユタも特に違和感もなく感じてはいたが、フィガラッシュで暮らしていると、さまざまな場面でそれを実感できた。

 キャサリンも貧しい地方の小さな街の出身だったが、あるとき、彼女が従姉妹の女性を連れてきて、一緒に食事をしたことがあった。その従姉妹は二十歳くらいで、特に美人ということはなかったが、逓信省に勤めるタイピストで、はつらつとしていて、はっきりものをいう性格だった。

 ゲーベルが

「タイピストは花形じゃないか。給金も良いんだろう?」

と言うと、彼女は給料のことは否定しなかったが、

「でも、子供の頃は苦労したんですよ。みんな貧しかったから。」

と言った。同郷のキャサリンも言った。

「そうね。小学校の時、鉛筆やノートを買うお金がなくて、一緒に教会の庭の手入れをしたもんね。」

「みんな貧しかったんだな。」

 そうマティアスが言うと、その従姉妹は言った。

「ええ。でも、私たちはましな方。小学校のクラスの中にはもっと貧しい子がいてね。お昼にお弁当を食べるとき、私たちは普通に食べてたんだけど、その子だけは、自分のお弁当を隠すように食べてたわ。きっとすごく貧相だったんでしょうね。それで、その子はけっこうかわいい子だったんで、親がその子を売ろうとしてね。その子が先生にそのことを言ったんで、先生がその子を匿うことになって、一週間くらい下校するとき、私も含めて五人くらいでその子と一緒に先生の家までついて行ったわ。」

「親が子供を売るのかい」

 ナユタがちょっと驚いたように聞くと、彼女は平然と答えた。

「ええ。女の子は売れますから。私も子供の頃、親の言うことをちゃんと聞かないと売られると思ってました。」

「それでその子はその後どうなったんだい?」

「そのうち、村の議員の人が来て、その子を自分の家の子供の世話をさせるために奉公人として傭ったそうです。でも、その子が年頃になると、その議員の子供を宿してしまって、結局、子供を身ごもったままの彼女を若い男と結婚させたそうです。」

「みな大変なんだな。でも、君はタイピストになってすばらしいじゃないか。」

「ええ、ありがとうございます。でも、苦労しましたよ。そもそも親は古い人間だから、女の子に学は要らない、小学校より上の学校に行く必要なんてないという考えですから。でも、私は算数の成績が良かったので先生が親に進学することを勧めてくれて。音楽の成績は悪かったですけど。最初、父はそんないらんことせんでええ、みたいな感じだったんですけど、先生が勝手に受験の申し込みをして、受けたらきっと通るから受けさせなさいと言ってくれたんです。それで両親もそれじゃあ、受かったら、ということで認めてくれて。それで町の学校に進学したんです。でも、馬車に乗るお金がなくて、両親にも言えなくて、毎日一時間以上歩いて通いました。」

「苦労したんだな。でも、今の職場は良いんだろう?」

 そう聞いたのは、ゲーベルだった。

「ええ。タイピストは重宝されるので。局長に出す書類のタイプとか、急ぎの仕事のときには、たいてい課長がお菓子を持って頼みに来られて。遅くまで仕事をしてたとき、局長に車まで送ってもらったこともありますし。」

「ともかく、田舎に引き籠もっているんじゃなくて、こうして都会に出てきて良かったんじゃないか。」

「それはもう。親元にいてもつまらないですから。親元を離れて、自立して自由に生きるってすてきだなあって思います。でも、親には毎月お金を送ってますし、弟が卒業旅行に行きたいと言ったときにはお小遣いを送りました。あとで、ずいぶん立派なお土産を送ってきてくれましたよ。」

 彼女はその後もときどきナユタたちとともに食事をするようになったが、しばらくして、ルンベルグの陸軍中尉と交際するようになりやがて結婚した。

 

2015510日掲載 / 最新改訂:20231226日)

 

戻る

 


トップ  お知らせ・トピックス  自己紹介・経歴  作品  技術者として活動・経歴  写真集  お問い合わせ先  その他



Copyright © 2015-2023 Mitsuhiro Koden. All Rights Reserved.
無断転載を禁じます。

向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第5巻