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神話『ブルーポールズ』

【第3巻】-                                                 

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 パキゼーの説教が始まると、人々がそして神々が次々にパキゼーの元にやってきた。

 神々の中で最初にパキゼーのもとを訪れたのはウダヤ師であった。

 ウダヤ師はラージャガハのタポダ園に逗留していたパキゼーを訪ねた。ウダヤ師は白い衣に身を包み、長い髪を垂らし、賢者の相を漂わせながらパキゼーの前に進み出た。そして、右のひざを地につけ、パキゼーの方に向かって合掌し、ただこう言って語り掛けた。

「暗くなりゆく世界に渦巻く混乱を鎮め、喘ぎ続ける存在者たちに道しるべとなる灯明を灯した類いまれなる賢者よ、道をお示しください。」

 パキゼーは答えた。

「蛇の毒が広がるのを薬で制するように、怒りを制する修行者は、この世とかの世をともに捨てる。蛇が旧い皮を捨て去るようなものである。」

 ウダヤ師は沈黙をもって次の言葉を即した。

 パキゼーは続けた。

「奔り流れる妄執の水流を枯らし尽してあますところのない修行者は、驕慢を滅しつくし、諸々の存在のうちに堅固なものが何もないことを悟るであろう。そしていかなる理不尽なことどもにも怒りを発することなく、世の栄枯盛衰をことごとく超越し、想念をあますことなく焼き尽くし、心の内をよく整える。賢者は、世間における一切のものは虚妄であると知り、一切の貪りを離れ、あらゆる憎悪と迷妄から離れる。そしてこの世に帰る縁となる煩悩から生じるものをいささかも持たず、人を生存へと縛り付ける原因となる愛執から生じるものをいささかももたず、心の蓋いをすべて捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦しみを去る。」

 ウダヤ師は続けて尋ねた。

「では、そのような修行者が行うべき行いをお示しください。」

「愛著から苦しみが生じる。それゆえ、智ある人はあらゆる愛著から離れ、独り道を行く。人と交われば、遊戯と歓楽、そしてさまざまな愛執に付きまとわれる。また、人が集まれば、饒舌といさかいが生じる。さまざまな欲望が押し寄せ、甘美に心を楽しませるものがそのまま心を害する。それゆえ、世間にあるものは、害悪であり、腫れ物であり、災いであり、病であり、恐怖であると賢者は知る。人との集いを楽しむ人には、解脱に至る道は開けない。相争う見解を超え、悟りに至る道に至った賢者は、貪ることなく、偽ることなく、渇することなく、濁りと迷妄を取り除き、世間の一切の愛執から離れ、真実を語って独り歩む。諸々の味を貪ることなく、すべての煩悩を除き去り、愛念の過ちを絶ち切り、ひるむことなく行い、怠ることなく勤める。独座と禅定を捨てることなく、もろもろの事柄について常に理法のとおりに行い、諸々の生存における患いを確かに知り、音声に驚かない獅子のように、網に捉えられない風のように、水に汚されない蓮のように、辺地の座臥に親しむ。」

 ウダヤ師はさらに問うた。

「では、この世において誰が激流を渡るのであろうか。この世において誰が大海を渡るのであろうか。支えなく寄る辺のない深い海に入って沈まないのは誰であろうか。」

 パキゼーは答えた。

「常に戒めを身に保ち、智慧あり、よく心を統一した人こそが、渡りがたい激流を渡る。驕慢を滅し、内省の内に念いをもつ人こそが、無辺の大海を渡る。愛欲の想いを離れ、一切の結び目を超え、歓楽の心を滅しつくした人、彼は深海のうちに沈むことがない。」

 ウダヤ師は尋ねて言った。

「では、現実の世の人々はどうなのであろうか?」

「世の人々は、欲に引かれ、願いにこだわっている。たとえ、その願いが人の道においてまっとうなものと思われている願いであるとしても、人はその願いに囚われることで束縛を受ける。」

「世には知者と呼ばれる者たちがいるが、彼らはどうであろうか?」

「知者と称される人々は、自らが完全と思いなし、知るに任せて語るであろう。質問もされないのに他人に向かって自分の知恵と思っているものを言いふらす人、彼は聖なる真理を持っていない。汚れた教えをもうけて偏重し、自分の内にのみ実りを見つける人は、揺らぐものに寄りかかり、つかの間の平安に依拠しているに過ぎない。たしかに、諸々の事物に関する固執を知り、自己の見解に対する執著を乗り越えることは容易ではない。それゆえに、人はそれらの偏執に囚われ、真理を退け、自らの教えに固執する。」

「では、賢者はどうであろうか。」

「賢者は、平安にたたずみ、心が安静に帰しており、いかなることについても誇ることがない。邪悪を払いのけた人は諸々の生存に対して偏見がない。虚偽と驕慢を捨て去っているので、頼り近付くものがない。彼は固執することも捨てることもない。一切の偏見を払い去っているからである。」

 パキゼーはさらに語り続けた。

「心に怒りを持ち、他人を謗る人がいる。また、心に真実な人々でも他人を謗ることがある。謗る言葉があるところ、賢者は決して近付かない。だから賢者は心がすさむことがない。また、人は、世間で人が優れているとみなすものを最上のものと考え、それより他は劣っていると説く。それゆえに彼は諸々の論争を超えることができない。彼は見たこと、学んだこと、戒律や道徳、思索したことについて、自分の内に優れた実りを見、それだけに執著して、それ以外のものをすべて劣ったものとみなす。あるものに依拠し、それ以外のものをすべて劣ったものとみなすなら、それは実にこだわりである。それゆえ、見たこと、思索したこと、戒律や道徳にこだわってはならない。」

「では、どのような人が優れた人なのであろうか?」

「賢者は自分と他人とを等しいとも自分が他人より劣っているとも、あるいは優れているとも考えない。いかなることについても偏見を構えない。既に得たいかなる見解にも執著することがなく、智恵に関しても特に依拠することがない。彼は種々異なった見解に分裂した人々の間にあって、党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信じることがない。彼は両極端を排し、種々の生存に対し、この世でも、あの世でも願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住まいは、彼には存在しない。一切の断定を捨てるならば、世の中で確執を起こすことがない。それゆえに諸々の論争を超越し、他の教えをもっとも優れたものと見なすこともない。見解に流されず、諸々の見解を知って心にとどめない。賢者はこの世の諸々の束縛を捨て、論争が起こる時も一方に組することはない。彼は不安な人々のうちにあっても泰然として、執着することがない。諸々の見解を離脱し、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。」

 ウダヤ師は帰って、パキゼーの教えを伝えた。

 神々はその教えに驚嘆し、惜しみない賛辞を贈った。

 

次にパキゼーのもとを訪れたのは、プシュパギリ、ヴィクート、カーシャパであった。

  三神がパキゼーのもとを訪れたとき、パキゼーは修行僧とともに、アングッタラーパの町にいた。パキゼーは朝の托鉢から戻り、修行僧に対して教説を述べたところであったが、プシュパギリらが教えを請うために現れると、パキゼーは疲れも見せずに応対した。

 プシュパギリが訊いた。

「私が見るに、人はみなぞれぞれ自己の存在を何ものかに定位して生きているように見えます。そして、それがその人に目標と生きがいを与え、人生の喜びを与えているように見えます。そのような生き方について師はどうお考えですか?」

 パキゼーは答えた。

「たしかに、人は汝の言うように生きている。それぞれのものがみな自己の存在を何ものかに定位することによって自らの価値を構築している。ある者は家族の幸せや繁栄、あるいは子供の成長に自己を定位する。またある者は、仕事の成功に、ある者は名声に、また、ある者は政治的信条や野心に定位する。また、属している組織体の目指す目標そのものに自己を定位する者も多い。その組織体の目標に対して自らがいかに価値あることを行いうるか、いかに価値ある存在であるかが自己の価値となる。その価値を与えるものは目標とか夢などと言われ、それに向かって努力することが尊ばれる。人々にとって、定位するものがあることが大切なのだ。定位するものが何もなければ、人は喪失感にさいなまれ、生の意欲が奪われ、前に向けて歩く力が削り取られる。定位できている者は立派な意思と目標を持った者として賞賛される。人は自己の存在を何ものかに定位することによって人生の意味を得たと思い込んでいる。」

「その通りだと思います。実際、自己の存在を何ものかに定位できている者は立派な意思と目標を持ったものとして賞賛されます。」

「だが、自らをそのものに定位することによって自らの価値を構築しているそのもの自身の価値は問われない。だが、それこそが問われるべきなのだ。真理の道のために破り開かねばならないのはまさにそのことなのだ。」

「ではそれを問うとどうなるのでしょう。何が破り開かれるのでしょうか。」

「その定位するものの価値をさらに問えば、それはまた別の何かに定位することになる。だが、結局、行き着く先には何もなく、根源的なものは見出されえない。例えば、家族の幸せや繁栄のために努力することに価値があるというなら、では、その家族の幸せや繁栄にはいかなる価値があるのかと問われねばならない。自らが何かを成し遂げることに価値があると、その成し遂げたものはいかなる価値があるのかと問われねばならない。結局そこにあるのは、自分たちがその人生の内で望んでいる欲望を満たすもの、その人生の内で持っている価値観に見合うものが価値あるものと思い込んでいるに過ぎない。その意味では、問うことを止めることだけが、人生に意味を付与する唯一の手段となる。では問い続ければ、どうなるか。そこに現れるのは、結局、自己の存在の意味を本質的に定位するものは何もないという真実だけだ。」

「ではその行き着く先は何なのでしょうか?」

「その行き着く先には何もない。だから一切は空なのだ。その真実を知り、その現実と向き合うこと、そこから世界は破開され、真の道が始まるのだ。」

「その道こそが尊い道なのでしょうか。」

「この道だけが本当の現実に立脚した道、真実を見つめることから発する道、すなわち、真なる理、真理に基づく道である。およそ真の賢者は自己をなにものにも定位しない。それゆえ自己自身が空であり、自らの存在を空とみなす。だから迷いもなければ、煩悩もない。人も神もみな自らを定位するものによって束縛され、翻弄されている。それは使命とか、夢とか、理想とか、目標とかと呼ばれ、なさねばならないこととか、やるべきこととか、美しい言葉や心を鼓舞する言葉で語られるが、結局は、なにものかに定位しようとする惑いに過ぎない。それを見抜くことが真理への道なのだ。この道が真実と現実から生じる唯一の道である以上、他の道はありようがない。」

「では、改めてお聞きすることになりますが、この地上の人々の生き方はどう見るべきなのでしょか?」

 パキゼーは諭すように言った。

「結局、人は人生に囚われている。人々は人生に囚われて生き、人生に囚われた思考に基づいて行動し、この世界の真理である空を見ずに生きている。そこにいかなる真の光があると言えようか。」

 プシュパギリはパキゼーを拝して頭を下げ、敬意と感謝の言葉を述べた。

 

 次にヴィクートが尋ねた。

「塵垢を離れ、瞑想に入って座し、なすべきことをすべてなし終え、煩悩の汚れなく、一切の事物の彼岸に達せられた師にお尋ねするためにここに来ました。無明を破ることについて、お説き下さい。」

 パキゼーは答えた。

「現実の中のものはすべてただ瞬時の花火のようなものでしかない。捉えようとしても一瞬の後にははるか遠くへ流れ去り、はかない余韻を残すだけだ。だが、流れ去るのは、現実の中の喜びや悲しみや苦しみだけではない。崇高なもの、偉大なもの、絶対的なもの、本来的なものと思いみなしているものもまたそうなのだ。真理と法則とが無常世界の中に囚われており、その一切が瓦解する運命を担っている。それらから離れること、愛欲と憂いの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除き、悔恨を止めること、その平静な心構えの朗らかさ、それが無明を破るものである。」

「では、いまだ無明を破っていないこの世界の人と神は何に束縛されているのですか?」

「人々、そして神々は世界に囚われている。世界の中の瑣末事に囚われ、その中の歓喜に束縛され、愛によって惑わされている。あるいは、これが不滅の真理だとか、絶対の法則だなどと言い、よりどころのない迷妄によって束縛されている。みな物質的な豊かさと心の満足とを追い求め、それに血眼になり、愛に飢え、喜びを渇望している。まさに囚われた者の生き方だ。この世界を貫くくびきにつながれ、己の渇望の囚人となっている。みな、自分は自由だと思うであろうが、実は自らの執着に束縛され、がんじがらめにされている。愛執を断ずることによってのみ安らぎが生まれるのだ。」

「世の人々は、修行者も世俗の者もみな救いを求め、祈りをささげています。それは真理への道へは通じないのでしょうか?」

「それは真理へは行き着かない。世俗の人々は現実に束縛され、喜捨によって救われると願い、祭祈によって救われると願い、祈りによって救われると願う。それ自身こっけいなことだ。また、その願いごとの中身はみな世界の内のことに過ぎぬ。結局、世の人々は現実の中で己の欲望を満たそうともがいているのでしかない。」

「では、なにものを得た人を賢者と呼ぶのですか?何によって柔和な人となるのですか?どのようにしたならば、自己を制した人と呼ばれるのですか?どうすれば目覚めた人と呼ばれるのですか?」

「自ら道を修して完全な安らぎに達し、疑いを越え、生存と衰滅を捨て、清らかな行いに安立し、この世の再生を滅ぼし尽した人、彼が賢者である。あらゆる事柄に平静であり、心を落ち着け、全世界の内で何ものをもそこなうことなく、流れを渡り、濁りなく、欲情の高まりの増すことのない道の人、彼が柔和な人である。全世界の内で内的にも外的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭い離れた人、彼が自己を制した人である。あらゆる宇宙の輪廻転生を思惟弁別し、塵を離れ、汚点なく、清らかで、生を滅ぼし尽した人、彼が目覚めた人である。」

「師よ、何を得た人を聖なる人と呼ぶのですか?何によって道の人と呼ぶのですか。」

「ヴィクートよ、真の自分自身に立脚した人を聖なる人と呼ぶ。およそこの世界において、唯一の根拠となりうるのは自己自身しかない。一切の悪を退け、汚れなく、心を静め保って自ら安立することだ。自分自身の本質に立脚せず、世界の表層のものどもに翻弄されるところから、さまざまな邪念が芽生え、無数の執著が生じ、そして、時間に支配される。平安に帰し、善悪を捨て去り、生死を超越し、全世界のうちの一切の罪悪を洗い落とし、時間に支配される神々と人間の内にありながら時間に堕落しない人、彼には空の朗らかさが輝くだろう。」

「自分自身に立脚しない人はどうなるのでしょう?」

「自分自身に立脚しない人は、自らの根拠を他者にゆだねているにすぎぬ。真理ではなく他者からの評価がこの世界で重要なものであると思い泥んでいる。そして他者の世界は二極に分裂し、その狭間にあって自分自身は荒れた海に浮かぶ小舟のようでしかない。世に漂うさまざまな価値観や他者からの評価に翻弄されていかなる真理に行き着くのであろうか。そこから離脱し、真の自己自身の根源に立ち戻る以外にいかなる真の道があるであろうか。離脱する以外に朗らかさへの道はない。」

「離脱した先には何があるのでしょう。自己自身に立脚した人には何があるのでしょうか。」

「空だ。一切が空という中でのみすべてが平安となる。空は存在し、存在しない。空は真理であり、そして真理から離れている。空は一切の喜びを離れ、それゆえに喜びである。」

「どのような存在が平安であるのでしょうか?」

「妄質を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよ思い巡らすことがないならば、未来に関しても思い煩いは生じない。怒らず、おののかず、誇らず、後悔せず、神咒を語り、そわそわすることなく、言葉を慎む人に平安はおとずれる。未来を願い求めることなく、過去を追憶して憂えることもない人には不安は忍び寄ってこない。感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の見解に誘われることがないならば、そこには平安しか残らない。煩悩が燃えていないからである。わだかまることのない人は、理法を知ってこだわることがない。彼には生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。諸々の欲望を顧慮することのない人、彼こそ平安の人である。彼には縛めの結び目は存在しない。彼は既に執著を渡り終えているからである。彼には、子も家畜も田畑も宅地も存在しない。既に得たものも、いまだ得られなかったものも、彼の内には認められない。もろもろの凡夫、または未知の人、バラモンどもは彼を非難するかも知れぬが、彼は特に顧慮することはない。それゆえに、彼は諸々の議論を受けても動揺しない。聖者は貪りを離れ、物惜しみすることなく、『自分は優れたものである』とも『自分は等しい者である』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。彼は妄想分別に赴かない。世間において所有がなく、また無所有を憂えることもない。彼は諸々の事象に赴くことがなく、実に平安なるものと呼ばれる。」

 

 次いで、カーシャパが問うた。

「この世界には何があり、何がないのでしょうか?私たちが寄る辺とすべきものはなんなのでしょうか?」

 パキゼーが答えた。

「世界には一切があり、そして一切がない。それゆえ、一切は空である。この世界は空であり、この宇宙は空であり、存在は空であり、私というものが空である。そのような世界において、寄る辺とすべきものは何もない。そして寄る辺とすべきものは空でしかない。」

「そのように空である世界においてどのように道が顕現するのでしょうか?」

「道は空一者から指し示される。空であるということそのことだけがこの暗闇の世界で光を放っている。この世界に現在するさまざまな欲望、執著がその光を曇らせる。それゆえ、見解によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても、空一者の輝きを見ることはできない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって生存を望まないこと、そのような者には空一者が顕現する。」

 カーシャパは重ねて訊ねた。

「その道の先には何があるのでしょうか?」

「一切の平安、そしてそれ自身が空である平安があるのみ。その真理を悟らねばならぬ。」

 カーシャパはさらに訊ねた。

「空であることが真理であるとするなら、神であれ、人であれ、存在とは何なのでしょうか?」

「存在はただの束縛、そしてただの謎。誰ひとり、神であれ、人であれ、存在がなぜ存在するかを知る者はいない。高名な聖仙ですら、存在が存在する理由を知らない。」

「しかし、私には使命があり、神としての定めもあります。」

「およそ定め、使命こそ、迷妄の根源と心得よ。使命に執著している限り、そこにはいかなる平安もなく、ただただ永劫に満たされない状態が続くだけだ。常に追い立てられ、常に駆り立てられる。常に、何かをなさねばならないという思いに突き動かされる。人であれ神であれ、自分の立っている地平を唯一絶対と思いがちだ。しかし、そのことがさまざまな不遜な思想と態度とを誘起する。汝の使命と定めを高みから見よ。それら一切が単なる束縛であることが明白となろう。」

「ではどのような心で生きてゆけば良いのでしょうか?」

「人は、いかに生きるべきか、どのような生き方が正しいか、何をすべきか、などと問う。だが、ある意味では、そのような愚問を発してはならない。」

「それはなぜでしょうか。誰しも、心ある人は、みな、どうあるべきか、どう生きるべきか、と自問するのは正しいことと考えています。」

「それはみな、人生なるものを根源的に見誤っていることに由来して出てくる問いかけである。一切は空であり、それゆえ、人生も空である。そこにいかなる根源的な意味もない。それにもかかわらず、どうあるべきかと問うのは、人生に意味を付与したいと願う執著が引き起こしたものに過ぎない。だから、心静かに空を見つめれば、心に朗らかさが生まれるだろう。こだわることなく、清らかな行いを究極の拠りどころとすることができるであろう。独り座することこそ楽しめるであろう。そうすれば彼は十方に光り輝くであろう。」

  三神はパキゼーの教えに満たされたが、ヴィクートは再び問いかけた。

「この世界にはさまざまな新しい教えがあり、教祖と呼ばれる者たちがさまざまな教えを説いています。これらについてはどのようにお考えですか?」

 パキゼーはかすかに笑みを浮かべながら答えた。

「それについては、二つのことを言わねばならない。一つには、自説に固執し、他の説を否定することに力を注ぐような教えに真の教えはないということだ。だから私は、他の教えと争わないことを教えるのだ。争うことを止めた先に真の平安があることを悟るべきであろう。二つ目だが、私はかつて高名な賢者であるアーラーラ・カーラーマ賢者とウッダカ・ラーマプッタ賢者に教えを請うた。二人とも偉大な賢者であったが、私は彼らの道では苦の滅却にも真理にも行き着くことができないことを悟り、二人の賢者もそのことに同意せざるを得なかった。私が見出したのは、そのような道を離れ、空を見ることによってのみ、真理は開けるということだった。だから、私は一切は空と教えるのだ。」

「ありがたいお言葉です。一方、世には、奇跡を行うことによって教えを信じよ、神を信じよと主張する者たちがいます。その者たちは、神の思し召しを受けた教祖が目の見えなかった者を見えるようにしてやったり、歩けなかった者が歩けるようにしてやったりしたと報告しています。あるいはそのような教祖の中には空中に浮遊したり、水の上を歩いたと伝えられる者もいます。そして、そのような奇跡が行えるのは神の御心に適ったからだと主張し、神を信じ、その教祖を信じ、その教えに帰依するように説き、実際、多くの信者を抱えています。そのようなことについて尊者はどのようにお考えになりますか?」

「奇跡によって神を信じろと言い、神への帰依、教えへの帰依を説くのは、その教え自身に真理がないからだ。教えに真実があるなら、奇跡によってではなく、教えそのものによって、すなわち、言葉によって教えを説き、人の心を動かせばよいのだ。奇跡を語る者たちは真実のものを持っていないと思いみなすのがよいであろう。」

 この言葉はヴィクートを深く納得させた。ヴィクートは改めて頭を下げ、三神はパキゼーを拝して帰っていったのだった。

 

 次にパキゼーのもとを訪ねたのはマーシュ師であった。マーシュ師が訪れたとき、パキゼーは、ミガダーヤの森に逗留していた。

 マーシュ師はパキゼーの周囲を三度右回りに回ったのち、一方に座り、問いを発して良いか問うた。パキゼーがうなずくとマーシュ師は語りかけた。

「この世界では、神々もそして人間も何にこだわってこの世で広く祈りを捧げているのであろうか?」

「およそ神々も人間もこの世で広く祈りを捧げているのは、現存するものの保持とそれに伴う満足にこだわって祈りを捧げている。」

「この世界では、神々もそして人間も広く祈りを捧げて、祭祀の道を怠らなかったが、それによって、現存するものの保持とそれに伴う満足を実現できたのであろうか?」

「彼らは希望し、賞賛し、献供する。それによって利得を得、よって欲望を達成しようと望んでいる。しかし供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まず、彼らは生も死も乗り越えることができない。彼らは現存するものに飲み込まれ、輪廻転生の巨大な渦に巻き込まれてしまうだろう。」

「もしも供犠に専念している者どもの誰ひとりとして生をも死をも乗り越えることができず、現存するものに飲み込まれるだけであるとしたら、神々と人間の世界の内で、輪廻転生の巨大な渦に巻き込まれていないのは誰なのであろうか?」

「世の中でかれこれの状態を極め、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、苦悩なく、望むことのない人、彼は輪廻転生の渦を乗り越えている。」

 マーシュ師はさらに問うた。

「世の中の種々様々な苦しみはそもそもどこから湧出してくるのであろうか?」

「世の中の種々様々な苦しみは、執著を縁として生起している。実に、縁を知ることなくして執著を作る人は愚鈍であり、繰り返し苦しみに近付く。だから、この世の一切の苦の元となる縁起を知り、苦しみの生起を観じた人は、執著を作ってはならない。」

 マーシュ師は心を晴れやかにし、座を立ってから、パキゼーに挨拶し、右肩を向けて廻って出ていった。

 マーシュ師は次の日もやって来て尋ねた。

「この宇宙は何によって覆われているのであろうか?神の世界も人間たちの世界も何によって覆われているのであろうか?世界は何によって輝かないのであろうか?世界を汚すものは何なのであろうか?世界の大きな恐怖は何なのであろうか?」

 パキゼーは答えた。

「マーシュ師よ、宇宙は無明によって覆われている。神の世界も人間たちの世界も無明によって覆われている。世界は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲心が世界の汚れである。苦悩が世界の大きな恐怖である。」

 マーシュ師が言った。

「煩悩の流れはあらゆるところに流れている。そして、多くの賢者が煩悩の流れを断ち切ることを試みてきた。しかし、それを断ち切れた者はいなかった。煩悩の流れを断ち切り、汚れのない世界に飛翔しえた者はいなかった。いったい煩悩の流れはいかにして断ち切ることができるのであろうか?どのようにしたならば、憂いと悲しみを乗り越えることができるのであろうか?」

「多くの修行者は努力により、修行により、欲望を押し殺し、欲望を断ち切ろうとしてきた。そして、それによって心の汚れをそぎ落とし、煩悩の流れを超えようとした。しかし、煩悩はいかなる修行によっても、いかなる苦行によっても断ち切ることはできない。それが私の悟った真理のひとつである。」

「では、いかにすれば、煩悩の流れは断ち切れるのであろうか?」

「一切の喜びと執著と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちに留まらないことによって煩悩の流れは断ち切られる。よく気をつけ、怠ることなく修行し、我が物とみなして固執したものが実は無価値であることを悟る者は、生と老衰と憂いと悲しみと共にいるものを捨て、この世の苦しみを捨てるであろう。世の中におけるあらゆる煩悩の流れを堰きとめるものは、一切を離脱したところに生ずる真理へのまなざしである。それが煩悩の流れを防ぎ守るであろう。現実を高みより望見し、一切をかすみなきまなざしで見渡すこと、それによって、現実の瑣末さを見通せる。子供が興じる遊びが大人にとっては他愛ないことと映るのと同様に、人々が心を打ち込み、心を動かしていることどもも高みに立ったまなざしで見れば他愛ない瑣末事でしかない。そのことを見通すことによって煩悩の流れを超えるのだ。それゆえに、煩悩の流れは智慧によって塞がれ、洞察によって乗り越えられると言われるのだ。」

 マーシュ師はさらに問いを発した。

「この世界にはあまたの者たちが生を受けている。この世に生を受けたことの意味をどう考えるべきなのであろうか。それは幸いなことなのであろうか?」

 パキゼーは静かに答えた。

「マーシュ師よ。この世界は苦に満ち満ちている。生れ落ちた者は、ただただ苦の凝集したこの世界に放り込まれたということでしかない。そこから脱却する道はただこの世界の真の構造を知ることにしかない。執着すべきものは何もないことを知り、すべてのこだわりから離れることだ。この世に生を受けたこと、そして生を受けた自身へのこだわりをすべて捨て、自らの存在の意味へのこだわりから離れること、そこにしか道がないことを悟るべきだ。だから賢者は一切の事物の表層に惑わされず、一切の事物の真相に熟達し、よく気をつけて遍歴するのだ。」

 この答えにマーシュ師は満足し、帰路についた。

 

 次にパキゼーを訪ねたのはナユタであった。ナユタがパキゼーを訪ねたのは、パキゼーがラージャガハのヴェール・ヴァナの園林の中で八千人の比丘たちと一緒にいた時だった。

 ナユタはパキゼーのもとに降り立つと、礼に則り、右回りに三度礼拝し、パキゼーのそばに座った。

 ナユタは問うた。

「師よ。私は宇宙の平和のために奔走してきました。使命のため、身骨を注いできたつもりです。どうぞ、私に道をお示し下さい。」

 パキゼーは微笑んで言った。

「あなたのことはかつてバルマン師からうかがった。あなたは奔走し、戦ってきた。それは崇高な行いというべきかもしれない。しかし、人も神もみな、めいめいの見解に住みつき、互いに異なった執見をいだき、みずから真理への熟達者であると称して、種々に論じているという事実に目を向けねばならぬ。この地上においても、『このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ完き人ではない』と唱え、異なった執見をいだいて論争し、『他の人は愚者であって、真理に達していない』という。これらの人はみな自分こそ真理に達した人であると思って語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか。諸々の賢者と称する者たちは、各自の見解を真実とみなし、他人の説は虚妄であると説いているにすぎない。」

 ナユタが問うた。

「たしかに、世の者たちは神にしろ、人にしろ、めいめいの見解に住み着いて、互いに異なった執見をいだき、自ら真理への熟達者あると称して、種々に論じています。そして私もひとつの見解に立ってムチャリンダと対立し、創造のあり方を巡って争っています。そのこと自身が間違いなのでしょうか?」

「あなたはもう一度、自らが属する世界、すなわち私が離脱してきた世界に目を凝らすべきだ。その世界とは人にせよ、神にせよ、自らが世界の中の単なる断片に過ぎぬのに、あたかも完全であると錯覚している白昼の世界だ。それは結界で分け隔てられた一方の世界でしかなく、そして、いわば錯覚によって構成された幻影の世界に過ぎない。」

「それではその分け隔てられているもう一つに世界とはいったいどんな世界なのでしょうか?」

「そこでは理法が世界を貫いている。存在に対する洞察が無明を破っている。真理への帰依が争いを終焉させている。」

「では、その二つの世界はどのような関係にあるのでしょうか?」

「ナユタ、二つの世界はあたかもまったく異なる別の次元の世界のように思えるかもしれぬが、実際は一つのものなのだ。もう一つの世界、私が踏み入った世界とは忘れ去られていた世界なのだ。この世界を再び見出し、その世界を照明することが私の説く道なのだ。そして、日常の世界で価値と思えるものどもが、かつては自己と異質と思い込んでいたもう一つの世界に踏み込むとき、すべて無価値へと転化する。」

「では、真に価値あるものとは何なのでしょうか?」

「それは無明を破る叡智、すなわち、価値あるものは何もないという究極の洞察に他ならない。」

 この不可思議な言葉にナユタは惑いつつ、それを押し殺して次のような問いかけを行った。

「この宇宙においてかつては光り輝く創造がなされたと聞いています。しかし、創造はしばしば混乱を引き起こすだけとなり、世界は輝きを失い、下り坂となっているように見えます。幾多の争いが繰り広げられ、誠実な行いは理解や支持を得ず、希望が失われています。かつての輝かしい光が鈍くなり、世界は色褪せ、きらめきを失っているように見えます。世界はどこに向かっているのでしょうか。」

 パキゼーが答えた。

「ナユタ、世界は光を失ってなどいない。そもそも最初から光など放っていないのだ。錆びた金属の塊のように、冷徹な真理があるだけだ。」

「世界は最初から光を放っていない?」

「そのとおり。世界に光があると思うのはただ幻影を見ているに過ぎぬ。人は新たなるものに驚きを発し、そのことが世界に、そして人生に光をもたらすかのように思いみなす。しかし、それは決して真実を見ているのではない。一切は幻影に過ぎず、一切は空に過ぎない。」

 ナユタは思い起こした。この創造が開始されて以来の日々がナユタの脳裏を駆け巡った。数々の苦難や嘆きが苦い思いとともに思い起こされた。ナユタの歩いてきた道そのものから光が消えていた。

 ナユタはつぶやくように聞いた。

「この創造はいかなる意味を持つのでしょうか?なんのための創造、なんのための努力だったのでしょうか。」

 パキゼーは毅然として答えた。

「ナユタ、あなたは悲しい思い出の洪水に飲み込まれているのではないか。そもそも、創造に意味を求めてはならぬ。それはただ生起し、生起したものが、生起すべきものとして生起しただけだ。」

「しかし、その創造は光を放たず、輝きを持っていない?」

「そのとおり。だが、ナユタ、光がないことで心を暗くし、憂える必要がどこにあるのだろうか。心を惑わしているだけではないのか。朗々として空を見つめてみよ。一切が清朗な響きをもつことがわかるだろう。ナユタ、もう一度思い起こすがいい。あなたの道はどのように光を発していたであろうか?」

 ナユタが答えた。

「この創造が開始されたとき、私は大きな危機感を抱きました。しかし、同時に、真理を目指して進まねばならない、創造を真の道に導かねばならないという大いなる召命が響き、心には光がありました。光が道を指し示していました。そして、ヴィカルナ聖仙に教えを請い、マーシュ師の館でムチャリンダを打ち破りました。すべては光に導かれ、召命の高貴な輝きに私の道は照らし出されていました。それはユビュのマーダナの輝きにも符合しました。」

 パキゼーは聞いた。

「ナユタ、それで、その光はどうなったであろうか?」

「その光は弱く鈍くなっているように思えます。」

「ナユタ、実は光は最初からなく、ただ、自己の執著に基づく幻影の輝きに過ぎなかったと気づかぬか?自己の執著によって心の高揚が生まれ、それが心に高貴な光を投げかける。だが、それこそが迷いなのだ。」

「では、私たちが歩く道、それ自体はいったいなんなのでしょう?いかなる意義を持ちうるのでしょうか?」

「先にも言ったとおり、道にいかなる意味も求めてはならぬ。すべては幻影、すべては空。すべての意味から離れることだ。どこにも光はない。最初から何もないのだ。真理によって救われるものは何もない。空性によって救われるものは何もない。」

「ではいったい、どこに道があるのでしょう。」

「ナユタ、よく見るがいい。もう一度現実を見つめなおすのだ。心を澄まし、透徹したまなざしでこの世界の真の姿を見つめることだ。存在とは何か。私とは誰か。私は何者か。私はどこから来てどこへ行くのか。存在の根源へのまなざし、存在の現実への透徹したまなざしなしにはいかなる道も開けることはない。光はなく、一切は幻影であるというこの真の姿を見つめてみよ。するとどこにも囚われることのない、どこにも寄る辺なく、どこにもこだわりのない、清々とし、広々とした領域が開けてくる。それが空なのだ。朗々とし、憂えることなく、執著に依拠する情熱から離れた魂の平安がそこにある。一切の空を見抜き、執着するよりどころを捨て、真理の源にある空一者の声に耳を傾ける者は、一切の憂いから離れ、離脱への道を歩むことができる。そして、存在の根源において、自分自身と出会うことによって、一切の喜びの根源が実に空に他ならないと見抜くことができるのだ。」

 そう語るとパキゼーは楽器を取り上げた。

「ナユタ、私はかつては楽師だった。そして今でもときどき音を釣り上げる。音楽は奏でるのではない。この宇宙に漂う音を釣り上げるのだ。」

 そう言うとパキゼーは楽器を奏で始めた。突然、ナユタが耳にしたことのない音が響いた。不思議な韻律のフレーズが延々と繰り返され、そこから存在の根源を覗き込むことができた。時間と空間は広大に広がり、真理を見つめるまなざしだけが茫漠たる空間の中に光を発していた。それは聞く者の心を限りなく鎮め、はるか遠くを見つめるまなざしを呼び起こす音楽だった。

 ナユタはつぶやいた。

「宇宙広しといえども、未だかつてこのような音を耳にしたことがない。まるで世界が転回したかのようだ。」

 演奏を終えるとパキゼーは言った。

「ナユタ、世界は転回したのだ。人の世界に囚われ、神の世界に囚われている存在そのものを超えねばならないのだ。あなたは優れた神だ。だが、世界を救うことに汲々としている限り、ムチャリンダを打ち破ることはできないであろう。世界の雑事から離れ、高みへと己を導くことなくムチャリンダを倒すことはできないだろう。ムチャリンダは、この世界が煩悩に満ちた混迷に陥ることをその慧眼から見抜き、世界を打ち倒すことを主張した。煩悩に満ちた世界を肯定してみたところで、ムチャリンダには打ち勝てぬ。だから汝はイムテーベとの論争にも勝てなかった。」

 この厳しい言葉にナユタは顔を強ばらせた。

「人間たちの欲望の渦巻くこの世界の内側でいかに人間の可能性を追い求めたところで、結局、世界は混乱し、爛熟した醜さをさらし続けるだけではないか。そう主張するイムテーベを論破できなかったのは当然のことだ。思いいたすがいい。宇宙は下り坂になり、創造は混乱と争いの種を蒔いてきたのだ。そして、この創造においても、世界は混乱の渦の中に巻き込まれている。私が都で生活していたころ、人々は朗々と笑いながら生きているようにも見えたが、精神の世界には危機的状況が蔓延していた。人々の精神は荒廃し、人々は心を軋ませて生きていた。人々は物事の本質を理解することなく、ただ、五感を楽しませて生きているに過ぎない。そして、そのような人生肯定の思想の上に立って、それを支える考え方や生き方を重んじているに過ぎない。人生とこの世界を肯定するために、さまざまな欺瞞や隠ぺいが行われ、真理は人々の心からははるか遠いところに追いやられている。それがこの世界の姿だ。だから人生には不安と絶望が押し寄せ、思想は混沌とするのだ。実に、人々は、執着したものたちの異臭の立ち込める中で生きている。そして人生の目標を見失って彷徨する人々を導き救済する新思想が渇望されていた。新思想が吹き荒れ、熱病のように熱い興奮が世の中にみなぎっていた。しかし、それは精神的興奮であり、逃避であり、自己満足でしなかった。真理は何か。真理はどこにあるか、それを探求する尊い試みを放棄してはならない。離脱し、超在へと向かう道を見出すことによってのみ、ムチャリンダを超えることができるであろう。それを心することだ。」

 ナユタはただ黙って頭を下げた。すると、パキゼーは笑みを浮かべ、噛みしめるように言った。

「ナユタ。私が見出したことを別の言葉で表現するなら、それは人生は生きるに値しないということだ。私は何の因果か、この世界に生を受けたが、それはなんら喜ばしいことでも、ありがたいことでもない。むしろありがたくない、迷惑なことだったと思っている。人生には何の意味もない。これまで無数の人間がこの大地に生を受けてきたが、こんな単純で明快な真理を誰ひとり見抜くことができなかったとは驚くべきことでもある。」

 この言葉にナユタは顔を上げて、パキゼーの目をまじまじと見つめた。するとパキゼーは続けた。

「先にも言ったように、この世界は本質的な意味を何一つ包含していない。この世界に散らばっているのは、喧噪と興奮と欲望とそして苦しみだけだ。私はバルマン師から素晴らしい音楽の道を学んだ。そして、哲学を学び、解脱への道を開き、高貴な精神的領域に足を踏み入れた。見出したものは、崇高で光を持ち、心を高める。しかし、それらとて、なんら本質的なものではない。だから、この世界に自分が存在することはなんらありがたいことでも喜ばしいことでもないのだ。だが、これは神の世界でも一緒のはずだ。そのこともよく考えてみるといいだろう。」

 この言葉をもってパキゼーはナユタとの対話を終わった。ナユタは礼に則って拝礼し、パキゼーの元を去った。しかし、パキゼーの元からマーシュ師の館に戻ったナユタは、その後数日間、自分の部屋に引きこもったまま出てこなかった。

 そんなときだった。ヴィカルナ聖仙が再びマーシュ師の館に現れた。驚いてあわてて出迎えたマーシュ師、ウダヤ師、ユビュらを制し、ヴィカルナ聖仙はただ一言、

「静かに。」

と言った。そして、ヴィカルナ聖仙はただひとり、ナユタのもとに向かった。

 ナユタは突然のヴィカルナ聖仙の来訪に驚いたが、ヴィカルナ聖仙はただやさしく、

「ついて来なさい。」

と言った。

 ヴィカルナ聖仙はナユタを部屋の外に連れ出し、黙々と歩き続けた。ナユタは黙って付き従った。ヴィカルナ聖仙は館の外の小高い丘の上にナユタを導くと、大きな菩提樹の下に座らせた。そして、自らもナユタに向かい合って座り、

「上を見るがよい。」

と言った。

 ナユタが振り仰ぐと上には真っ青な空が広がっていた。

「空ほど美しいものはない。空の青い輝きを超える美しさはこの世界にはない。」

 そうヴィカルナ聖仙は言った。

「ナユタ、悩んでいることを申してみよ。カーランジャの宮殿で初めて会って以来、わしはずっとおまえを見続けてきた。そして、おまえは期待に応えた。だが、おまえは、この創造が真の輝きを発しようとするまさにこのとき、深い悩みに沈み込んでいる。パキゼーの尊い法を聞いてもだ。」

「そのとおりです。私は自ら信ずるところを走ってきました。前回の創造、そして今回の創造、いずれにおいても私は信念に基づいて闘ってきました。自ら信じるこの道こそ正しい道、真理への道と信じていました。その思いで七本目のブルーポールを折り、ヴァーサヴァの館での戦いに駆けつけ、マーシュ師の館でムチャリンダと闘い、そして地上ではヨシュタの戦いを後押ししました。しかし、今思い当たるのは、未熟で慢心した私がいたということでした。未熟な心、平穏のない、静寂のない、喧騒に荒れ騒ぐ自分がいただけでした。世界を突破したいと願い、もがいてきましたが、結局、何一つ突破できていないことを悟るしかありませんでした。私は自らの使命と思ってやってきましたが、パキゼーは使命こそ迷いと断じました。たしかにパキゼーは正しい。そうは思います。」

 そこで、言葉が途切れた。すると、ヴィカルナ聖仙は言った。

「創造の在り方を巡ってこの世界は戦われ、そして、今なお戦われている。おまえは自らの使命に従い、ムチャリンダも彼の使命に従い、戦ってきた。だが、この創造が生み出したパキゼーが新しい道を指し示した。おそらく、それがこの創造の意味なのだ。神々すらも、自らの使命によって定位されている己の存在の根拠を覆す新しい破開に直面しているのだ。繰り返して言うが、それがこの創造の意味なのだ。そして、それはヴァーサヴァが思い描いていた創造からは生まれえず、ムチャリンダの主張する創造の破壊によっても生まれえなかった。それはおまえとユビュがこのような形で関与し、ヴァーサヴァの創造に波紋を投げかけ、その中で神々と人間が創造的行為を行うことによって生み出されたこの創造の産物なのだ。使命によって行われた行為によって、使命そのものが否定される。それがこの創造の意味なのだ。」

「かつて師は、『光はある。その光が見えない者が光はないというだけだ。』と言われました。」

「そのとおり。そして、今、その光とはパキゼーが照らし出す光なのだ。それを見ねばならぬ。ナユタ、空を見上げてみよ。ただ、青い。ただ青いこの光こそが真の美しさなのだ。それは一切の情熱、邪念、闘争、克己を離れ、ただ在るという平穏としての美しさなのだ。それはパキゼーの空の教えそのものなのだ。」

「ヴィカルナ聖仙、聖仙はそのことをすでに知っておられたのですか?」

 ヴィカルナ聖仙はうなずいた。

「ああ。ただな、この宇宙というのは生起するものが生起するだけの世界でもある。それが唯一の真理なのだ。そもそもよくこの世界を見つめてみるがいい。我々、この世界の内の存在者はすべてこの世界に捉われており、そこから自由になることはできない。人間であれ、生き物たちであれ、そして神々であれ、その点はみな同じだ。この宇宙の仕組みにすべての存在者が束縛されているのだ。誰かが自分は自由だと感じるかもしれないが、それはその束縛の範囲内のことにすぎぬ。そしてその束縛が我らの限界であり、誰もその限界から外に踏み出すことはできない。ナユタ、それがこの世界の構造だ。人であれ、神であれ、みなその世界の底でただうごめいているにすぎぬ。」

 ナユタが答えて言った。

「その通りかもしれません。しかし、そのことは私の心のどこかに深い悲しみを押し寄せさせるのです。」

「そうだな。だが、それが悲しみであるような拠りどころとはなんであろうか。それはただ、汝がこの世界の束縛の中で存在せしめられ、その結果として汝が執著しているものに依拠しているにすぎないのではないか。そのことに思い致すことだ。」

 そう言うと、ヴィカルナ聖仙はいつもの威厳に満ちた風貌とは違う慈悲に満ちた笑顔を見せた。

「ナユタ、元気を出すがいい。一切は空。そしてただ一切は生起する。時間も空間も超越している。パキゼー自身語るとおり、その教えすら空でしかない。それがこの宇宙なのだ。それが存在の本質なのだ。まさにパキゼーは真理を見抜き、真理を説いた。そして、その真理は神の生のあり方を問うことにも繋がるだろう。」

「神の生のあり方。」

「そうだ。神は自らがなすべきものと思っているもの、使命に沿って生きてきた。おまえも、そして、わしもそうだ。だが、その神生の価値はなんであり、神はその神生をどう生きるべきかは問われてこなかったと言ってもいい。だが、パキゼーは、使命に沿って生きることが真ではないことを見抜き、この世界の真の姿に目を向け、幻影を見抜くことを教えた。我々が見ている世界の姿は真の姿ではないことをパキゼーは悟ったからに他ならない。それは、まさに、我々が我々神々の神生そのものを見直すまなざしをパキゼーは見開かせたと言って良い。まさに、パキゼーの解き明かした真理はそのまま神生に通じているのだ。」

 ナユタがこの言葉を噛み締めるように聞くと、ヴィカルナ聖仙は続けて言った。

「この世界を自らが持っている囚われから離れ、虚心坦懐に、朗々たるまなざしで見つめることができるかどうか、それだけだ。」

 そう言うとヴィカルナ聖仙はひとり立ち上がった。そして、

「では、わしは行くよ。また会う日は、この創造の決着をつける日となろう。」

と言うと、ひとり去っていった。

 

 次にパキゼーのもとを訪れたのは、ユビュであった。ユビュが訪れたとき、パキゼーはサーヴァッティの郊外のジェータヴァナの園にいたが、ユビュは夜半を過ぎた頃、ジェータヴァナの園をくまなく照らし、パキゼーのもとに近付いた。そしてパキゼーに礼拝し、喜ぶべき挨拶の言葉を交わし、一方に座した。

 ユビュが言った。

「実に、この世界もかの世界も、神々とともなる梵天の世界も誉れあるあなたパキゼーの見解を知ってはいません。どうかその見解をお示しください。」

「私の見解は、常によく気をつけ、自己に固執する見解を打ち破って、一切は空と観ぜよということだ。そうすれば、彼岸への道が開ける。」

「では、この上なく、正しい悟りであると悟ったような法とは何なのでしょうか?あなたが教え示したものは何なのでしょうか?」

「この上なく、正しい悟りであると悟ったようないかなる法もない。今教え示しているようないかなる法もない。なぜなら、悟られたとか、教え示されたとかいう法は、捉えられないもの、表現すべきでないものだからだ。」

「では、悟りに達した修行者には、自分は悟りに達したという考えが生じるでしょうか?」

「彼は色形を得ることもなく、声も香りも味も触れられるものも、心の対象となることがない。だから悟りに達したものと呼ばれるのだ。もし、彼が『自分は悟りに達した』という考えを起こすなら、彼には私への執著が起こり、衆生への執著、命あるものへの執著、個我への執著が起こるだろう。」

「では、いかなる教法によって、正しい悟りを身につけることができるのでしょうか?」

「悟りを得た菩薩が身につけたようないかなる教法も存在しない。もし、ある者が『自分は菩薩の光輝を完成しよう』というなら、彼は偽りを語る者である。なぜなら、菩薩の光輝というのは、光輝ではないからである。だから菩薩の光輝というのである。それゆえに、賢者は執著のない心を生じるべきである。何かに執著してはならない。色形に執著してはならない。声、香り、味、触れられるもの、心の対象となる者に執著して心を生じさせてはならない。」

 このようにパキゼーが説いた時、ユビュはこう尋ねた。

「師よ、この法門の名は何と申しますか?」

「ユビュよ、この法門の名は、『智慧の完成』である。だが、ユビュよ、説かれた智慧の完成はすなわち完成ではないとも知らねばならぬ。だからユビュよ、この法の中には、真理もなければ、虚妄もない。さらにまた、この法門は不可思議で比べるものがない。この法門は、自己に対する執著の見解ある人、生きている者に対する執著の見解ある人、個体に対する執著の見解ある人は聞くことができないからだ。」

 ユビュはさらに問うた。

「では、師よ、求道者の道に進んだ者は、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか?」

「ユビュよ、求道者の道に進んだ者は、次のように心をおこすべきだ。すなわち、『私は生きとし生けるものを汚れのない永遠の平安の境地に導きいれねばならない。しかも、このように生きとし生ける者を永遠の平安に導きいれても、実は誰一人永遠の平安に導きいれてはいないのである。』と。それは何故かというと、そもそも求道者の道に向かった人というようなものはなにも存在しないのだ。もし、誰かが、『かれはこの上ない悟りに達した』と言うなら、それは誤ったことを言ったことになる。なぜなら、かれがこの上ない悟りに達したというようなことは何もないからだ。悟り示された法には、真実もなければ、虚妄もない。私はただ、『この法は目覚めた人の法である』と説くのみだ。」

 ユビュは深々と頭を垂れた。

 再びパキゼーが口を開いた。

「現象界というものは、幻や露、うたかたの夢、電光や雲、そのようなものと見るといい。およそ、人生の内にあって美しく思えるもの、心を惹きつけられるものを価値ありと思ってはならない。愛も徳も慈悲の心も、あるいは美しい自然やこの大地もいかなる真の価値をもってはいない。すべては迷妄と執著が生み出す幻影に過ぎぬ。それらに惑わされてはならない。真に美しいものは人生の外にあり、唯一の真理と言えるものは人生の外にある。それは一切は空という厳然たる真理そのものであるだけだ。」

 ユビュは心打たれ、パキゼーを三度拝して静かに立ち去った。パキゼーのもとからマーシュ師の館に帰ると、ユビュは少女時代以来ずっと長く伸ばしていた美しい髪を短く切り、黄金の鎧兜は櫃にしまい込んで封印し、ナタラーヤ聖仙から授けられたマーダナとタンカーラも祭壇の扉の中に納め、扉を閉めた。そして、ユビュは野に出ると、さわやかな風を胸一杯に吸い込み、野の緑の美しさに心を開いたのだった。

 

 神々の中で、最後にパキゼーのもとにやってきたのはヴィカルナ聖仙であった。ヴィカルナ聖仙が訪れたとき、パキゼーはアーラヴィーにおけるアッガーラヴァ霊樹のもとで、一万二千人の比丘からなる僧団とともにいた。

 ヴィカルナ聖仙は語りかけた。

「賢者よ、妄執を滅し尽す法をお説き下され。」

「この世において、見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲や貪りを除き去ることが不滅のニルヴァーナの境地である。このことを知り、よく気をつけ、現世における煩いを離れることにより常なる安らぎに帰することができる。世間の執着を乗り越えることができる。」

 ヴィカルナ聖仙が言った。

「一切の欲望に対する貪りを離れ、無所有に基づいて他の物を捨て、最上の想いへと解脱した人、彼は退き堕することなくそこに安住するのであろうか?」

「一切の欲望に対する貪りを離れ、無所有に基づいて他の物を捨て、最上の想いへと解脱した人、彼は退き堕することなくそこに安住するだろう。」

「もしも彼がそこから立ち去らないで多年そこに留まるならば、彼はそこで解脱し、清涼となるであろうか?またそのような人の識別作用は存在するであろうか?」

「例えば強風に吹き飛ばされた火炎は滅び去ってしまって火の数に入らないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅び去ってしまって、存在するものの数に入らない。」

「では、滅び去ってしまった彼は存在しないのであろうか?あるいはまた常住であってそこなわれないのであろうか?」

「滅び去ってしまったものにはそれを測る基準が存在しない。彼をああだ、こうだと論ずるよすがが、彼には存在しない。あらゆる事柄がすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまっているからだ。」

 ヴィカルナ聖仙は静かに頭を垂れた。パキゼーが静かに語って言った。

「一切は空である。一切のものは単に刹那的である。かくあるという一定のあり方を持たない。それゆえ幻影にも似たものである。真の認識は空性そのもののうちにある。存在も非存在もいずれも空性にはふさわしからざるものである。完全な智は、まったく争いが途絶えたところに生起する。」

「ではそのような智を得たものとはどんな者なのか。」

「根底にあるのはダルマである。完全な智に到達すべく諸法に無執着であり、諸法を受持たず、諸法を把握せず、諸法を離れることだ。それゆえ、完全な智を得た菩薩は、現象のうちにとどまらず、感覚のうちにとどまらず、概念のうちにとどまらず、意識のうちにとどまらない。一般の人々は諸法に執着する。一切のダルマは本来存するわけではないのに、人々はこれを表象する。いったん表象してしまうと、今度はその名や形に執着する。覚者はこれと異なる。菩薩は学びつつ、しかしなんらダルマを学ばない。菩薩は諸法をあたかも眼前になきがごとくに見出すのだ。」

 この言葉を聞くと、ヴィカルナ聖仙はパキゼーを嘉し、立ち去った。

 

2014年掲載 / 最新改訂版:202053日)


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向殿充浩 / 神話『ブルーポールズ』第3巻