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神話『ブルーポールズ』

【第3巻】-                                                 

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 ヨシュタが倒された後、地上の平和は長くは続かなかった。

 レゲシュの覇権によって二十数年間の平和は保たれたものの、ヨシュタが王位を譲ったウトヒェガルが亡くなると、王妃の生んだ長男ウシュピアと、チベールの王女でウトヒェガルに貰い受けられたセレーネの生んだ次男シュルギとの間で激しい後継者争いが始まった。

 王妃のわがままな性格もあってウトヒェガルとの夫婦仲が思わしくない中、ウトヒェガルはセレーネを寵愛し、次男を生ませるまでになったのだったが、王としての資質という点でも、セレーネの生んだシュルギの方が優れていることは多くの者が認めるところであった。

 しかし、王位の正当性という点では、あくまでも王妃の生んだ長男であるウシュピアが正当な後継者であり、チベールの元王女が生んだ子を王にするなどとんでもないという空気も宮廷内に根強かった。

 セレーネは、ウトヒェガルの寵愛を受けて築き上げた王宮での発言権を行使して激しい後継者争いを繰り広げたが、結果はレゲシュ保守派の推す長男ウシュピアが後継者争いを制することとなった。既存の権力保持に固執する保守派に反発した新興貴族たちの多くはセレーネを後押ししたが、保守派の牙城を崩すには至らなかった。

 だが、セレーネは諦めかった。セレーネは自室の祭壇に安置したイナンナ女神像の前で、息子のシュルギに言った。

「チベールで王女だった私はヨシュタのために卑しい身分に落とされ、ウトヒェガルに操を奪われました。レゲシュの男どもの欲情はチベールの女すべて、処女の最後の一人まで残らず辱めずにはいませんでした。神々はレゲシュに対する正義の復讐を加護しているはずです。」

 チベールを滅ぼされた恨みも重なり、また、レゲシュに残っていては命の保証もない彼女は自分の生んだ王子シュルギとともにレゲシュを出ると、周辺国を渡り歩き、レゲシュ打倒を呼び掛けたのだった。

 そんな状況の中、後継者争いの内紛の影響もあって国力が低下したレゲシュの隙を虎視眈々と狙っていたのは一国や二国ではなかった。それまでは盟主であるレゲシュの覇権が周辺国どうしの枠組みにも大きな影響を与えていたが、その箍は急激に緩み、小さな戦いがいくつも起こっていた。

 こうして平和の枠組みが崩れ始めると、戦乱はあっという間に周辺の国々を飲み込み、再び動乱の時代が始まった。そして、この動乱を静める力がもはやレゲシュにないことが明らかになると、かつてレゲシュを盟主と仰いでいた周辺の国々は、セレーネの呼び掛けに応じて一気にレゲシュ打倒に動き出したのだった。

 セレーネの呼び掛けに応じた勢力は、レゲシュの内部にもいた。レゲシュの保守勢力に反発する新興の貴族たち、ウトヒェガルの王妃の傲慢さを快く思わない者たち、王妃から疎んじられた者たちの一部がセレーネに通じた。さらに、アッガ将軍の息子のものとなったセレーネの妹のアズラーは、自分の生んだ将軍を動かして敵勢力への内通を即したのだった。

 アズラーは息子に語った。

「この世界で大切なのは権力。チベール陥落の憂き目に遭い、惨めな娘時代を過ごしてきた私には権力のありがたみがよく分かる。穢れを知らぬうぶな少女だった私はあなたのお父様に慰みもののように投げ与えられた。でも、幸い、お父様は私を大事にしてくださった。おかげでアッガ将軍の権勢の傘の下で私にしろおまえにしろ栄華に満ちた日々を送ることができた。でも、レゲシュの覇権が揺らいでいる今、既存の地位にしがみついていただけでは何も得られない。逆にすべてを失ってしまう。自らの権力は自ら勝ち取らねばならないのです。」

 こうなるともはやレゲシュを守るものは何もなかった。各国の連合軍が迫る中、若い新王ウシュピアは全軍を率いてヴィンディヤの野で迎え撃ったが、味方の離反が相次ぎ、惨憺たる敗北にしかならなかった。こうして連合軍の前に、栄華を誇ったレゲシュは滅ぼされ、都は炎に包まれた。

 チベールの預言者プラスティヤが語った言葉、すなわち、『レゲシュの男たちの歪んだ欲望から出た非道な仕打ちが、必ずや、レゲシュを突き刺す業となって跳ね返ることだろう。』という預言が成就したとしか言いようがなかった。

 レゲシュの燃え盛る炎を仰ぎ見て、流浪の吟遊詩人は言った。

「かつてチベールを灰にしたレゲシュが、今、炎の中に焼け落ちている。レゲシュを護るべきヴァルナ神も見捨て賜うたか。はたまたチベールから無理矢理連れてこられたイナンナ女神の怒りの結果か。黄金の高坏を捧げ、足取りも雅なレゲシュの巫女のめでたき声も焔に焼かれ、若き勇者らが健脚を競った道も今はない。レゲシュの栄光は灰燼に帰し、神の館は蹂躙され、倒れた者たちの亡骸は浄められないまま。空に輝く尊い日輪ですら、今日は呪わしい。いかなる神がこれを嘉しているのであろうか。」

 だが、レゲシュが滅んで動乱が収まるはずもなかった。レゲシュの崩壊は、新たな戦乱の世の到来を告げるものでしかなかった。

 欲望と憎しみが燎原の火のごとく広がり、権力への衝動に突き動かされた混乱がまたたくまに大地を覆い尽くした。そして非情な独裁者たちが次々と生まれたのだった。

 独裁者たちは戦いをこととし、隣国への侵略と勢力の拡大に血眼になった。人々は戦乱によって疲弊し、飢えと苦しみに喘ぐばかりであった。神に救いを求める声が広大な大地にむなしくこだまし、神を呪う声があてどなく巷に溢れた。

  マーシュ師の館では、神々が苦渋に満ちた思いで地上の成り行きを見守っていた。そんな折、地球へ行って地上の混乱を目の当たりにしてきたウダヤ師が帰ってきた。

 ウダヤ師は、ナユタ、ユビュ、マーシュ師に、地上で見聞きしたさまざまなことを語った。

「レゲシュは完全な廃墟と化しておった。かつて城壁を埋め尽くしていた壮麗なレリーフはある場所では真っ黒に焦げ、また別の場所では完全に崩れ落ちておった。レゲシュが陥落したとき、天にも昇るほどの火柱が上ったと伝えられておったが、まさに、それをまざまざと実感したよ。」

「もうそこには誰も住んでいないのですか?」

 そう問いかけるユビュにウダヤ師が答えた。

「ああ、誰もな。聞くところによれば、レゲシュの男どもは皆殺しにされ、女子供は奴隷として売られたそうじゃ。チベールが陥落した時と同じじゃな。地上で人間どもは、相も変わらず戦いに明け暮れておる。」

「チベールの王女だったセレーネが各国を糾合してレゲシュを倒す旗を挙げたと聞いていますが、その後のことが聞こえてきません。彼女や彼女の生んだ王子はどうなったのでしょうか?」

 そう聞いたのはナユタだった。

「ああ、セレーネなら暗殺されたそうじゃ。レゲシュが滅んだあと、彼女と息子のシュルギはある国にたいそうな身分で迎えられたそうだが、各国間の争いが始まると、もう必要とされなかったのかもしれん。誰が暗殺させたかも分からぬようだ。ただ、噂では彼女は相当にしたたかで悪賢かったらしい。だから、敵も多かったじゃろうな。」

「そうですか。そのセレーネはチベールで見ましたが、そのときは、高貴な姫に見えました。」

「だが、女は変わるものだからな。少なからぬ者が、セレーネのことを鬼女と言っておったよ。」

 そう言って、ウダヤ師はさらに地上での悲惨な出来事の数々を事細かに語った。

 ウダヤ師によれば、セレーネの生んだシュルギ王子は、その後、一定の領地を保有する王として独立したが、隣国からの侵略で滅亡の憂き目に遭わざるを得なかったということだった。

 また、アズラーの生んだアッガ将軍の孫は、レゲシュ滅亡後、周辺国の武将となったが、結局は、貴族間の権力争いに巻き込まれ、ついには国王との関係に亀裂が入ってアズラーともども死罪となったということだった。

 ナユタはため息をついて言った。

「そうですか。そんなにも人間の世界は混乱を極めているのですか。ヨシュタの超人的な働きもむなしく、結局、人間たちは下り坂を歩いているに過ぎないのですね。」

 ウダヤ師はうなずいて答えた。

「そうだな。まさに人間たちの欲望の渦巻く大地の上でいくつもの国が覇を競っているのだ。人間たちの社会はますます複雑になり、混乱と欲望のるつぼと化しておる。真実や正義はもはや省みられず、利を求め利をむさぼる烏合の集が互いに争いを繰り広げておる。大地から悲鳴と嗚咽が絶えることはなく、絶望がこの世の淵を覆っている。結局、それが人間の限界なのかもしれぬ。それにしても、ヨシュタが倒されたのが、なんと言っても痛恨の極みであった。やはり、ヨシュタを思いとどまらせるべきであった。」

 マーシュ師も深くうなずき、重い声で言った。

「結局、レゲシュは恒久平和を築くことができなかった。それができるとすれば、やはりヨシュタだけであったろう。平和を維持する枠組みを築くことは戦いに勝って覇権を確立することとは比べ物にならないくらい難しいからな。そして我らに過ちがあったことも素直に認めねばなるまい。」

 ナユタがうつむいたまま言った。

「おっしゃる通りです。本当に申し訳なく思います。シャルマまで地上の戦いで失いながら、結局、地上に平和を具現することもできず、むしろ、ムチャリンダの主張になびく神々を増やすだけの結果となり、己の無力に恥じ入るばかりです。」

「ナユタ、おまえが悪いのではない。我らみんなの無力さゆえだ。情けないがこれが我らの限界なのかもしれぬ。」

 そう言ったマーシュ師は、さらに続けた。

「それに、そもそも、ヨシュタを軸に地上に平和を確立しようと我らが神々の戦いを地上に持ち込んだとも言えるしな。シャルマとプシュパギリをヨシュタの元へ派遣したことが、ルドラをチベールに乗り込ませる原因となった。そして、それが新たな戦いを引き起こし、ナユタがレゲシュに行くことになった。ただ、おまえたちの努力で平和条約が締結されたにもかかわらず、それが打ち壊されたのは、ヨシュタとウルヴァーシーの愛が原因だった。そしてイムテーベまでもが地上に降りることになり、かつてないほどの大戦争が起こった。その結果、シャルマが倒され、最終的にはレゲシュが勝ったが、ヨシュタは我らの意に反して、王位を棄ててしまった。そして、ムチャリンダを倒そうとした彼の行為も、神界に入る前のウルヴァーシーとの情事によって挫折することとなった。」

「結局、我らは何もなしえなかったということだ。そして、人間の限界が地上の混乱をますますひどいものにしている」

 そう語るウダヤ師の言葉を受けて、ナユタが言った。

「かつてヴァーサヴァの館を訪ねたとき、私は、この創造が創造の美しい面にだけ目をやり、存在の真の本質から目をそらして行われているがゆえに、被造者たちに、どのような状況でも真実を見失わないだけの真の力を付与できなかったと言いました。そして、それがこの創造の決定的な弱点であり、創造の方針を転換し、人間たちに真の力を呼び起こす以外、創造を立て直す道はないとも言いました。しかし、結局、創造の転換をなすことはできず、ただ、天空と地上でのムチャリンダとの争いに明け暮れているだけなのです。」

 マーシュ師はうなずいて答えた。

「そのとおりだな。ほんとうは創造を根本的に転換することが必要なのだろう。たしかに、ヨシュタであれば、数百年に渡る平和の礎を築くことができたかもしれぬが、それとても永遠の平和ではないからな。結局は、その平和はいつか崩壊し、再び大地に戦いが蔓延する時代を迎えることになるだけなのだろうな。」

 この言葉を受けて、ウダヤ師が言った。

「それはたしかにその通りですな。人間たちは欲望に翻弄されて争い、目を血走らせて利を競い、愛のために憎しみ合い、さまざまな苦悩と喧噪の中に沈み込んで生きている。そして、その結果、どれほどの悲鳴が空を焦がそうと顧みもしない。」

「では、どうすれば良いのでしょうか?」

 そう問いかけたナユタに、マーシュ師が語った。

「ともかく、このまま放っておくわけにはいかぬ。このままでは宇宙の神々の心はますますすさび、ムチャリンダの主張に心を寄せる神々がますます増えてしまうだろう。ただ、始められた創造の法則そのものを変えることはもはやできぬしな。」

 この言葉にナユタがつぶやくように言った。

「それにしても、人間の心はどうしてこうも弱いのだろう。」

 思わず口に出たナユタの言葉に、それまで黙っていたユビュが言った。

「でも、この創造は決して、破壊すればことが済むというものではないはずです。人間には、無数の愚かさ、醜さ、傲慢さ、悪意といったものが巣食っていますが、でも人間には瞬時ではあっても美しく輝くもの、永続しないとはいっても己を捨てて力を合わせる心、光を見、光を求める純粋な心があるはず。それらを本当の意味で輝かせること、それがこの創造において真に求められることではないでしょうか?それが人間に真の力を呼び起こし、この創造の意味を輝かせることではないでしょうか。」

 マーシュ師がうなずいて言った。

「そうだな、ユビュ。確かに今、人間たちに決定的に欠けているのは、自らの内に宿っている崇高さを自らのために輝かせることができないということだろう。そしてそのために生じる心の空隙がムチャリンダに付け込む隙を与えておるのだからな。」

 そう語ったマーシュ師はしばし考え込み、そして、意を決したように再び口を開いた。

「実はしばらく前から考えていたことがあってな。迷っておったのだが、ユビュの言葉で決心がついた。これからどうすれば良いかだが、実は、バルマン師を探しに行きたいと思っている。今この地上で、一縷の望みを託すべきものがあるとすれば、それは人間界に生まれ落ちたバルマン師をおいて他にはないのではないだろうか?」

 マーシュ師のこの発言に、皆はっとさせられた。そして、意を決したように語ったこのマーシュ師の言葉には、逆らいがたい響きがこもっていた。

 ウダヤ師が慎重に言葉を選びながら応じた。

「たしかに、もはやこの宇宙の形勢は神々の戦いによって決まる状況ではなくなった。すべてを決するのは、地球の上の人間自身だ。バルマン師は、あの戦いでルドラに倒された後、人間界に生まれ変わっておられるはず。この創造を救う者が地上に現われることがない限り、バルマン師は人間の世界に生まれ変わり続けねばならぬ。今、バルマン師は地上のどこかにおられる。たしかに、バルマン師の導きによって世界を救い、この創造を根源的に転換させることができるなら、とは思うが。」

 ナユタがとっさに聞き返した。

「でも、どうやって探し出すのですか?たしかに、マーシュ様のおっしゃる通りかもしれません。バルマン師に望みを託すのは適切なことかもしれません。しかし、そのバルマン師はいったいどこにおられるのか、そしてどうやってバルマン師を探し出すのか、私には途方もないことに思えてなりません。」

「たしかにそうだな、ナユタ。だが、道には困難がつきものだ。途方もないことだと言って避けていては何事も成就すまい。わしは微かに感じるのだ。この宇宙でわしを呼ぶ声、微かではあるが地上から発せられる高貴な響き、それはきっとバルマン師からのものに違いない。ただ、どこにおられるのか、どうすれば見つけられるのか、それは今は分らぬ。だが、ともかく、わしを地上に行かせてくれぬか。どれほどの年月がかかるかは分らぬ。だが、きっとこれがわしに課せられた使命なのだ。」

 このマーシュ師の言葉に反対する者は誰もいなかった。心配したユビュが一緒に行きたいと言ったが、マーシュ師は諭すように答えた。

「いや、今回はひとりで行くよ。当てのないさすらいの旅だ。おまえのような乙女を連れては行けぬ。心配は要らぬ。この館で待っていなさい。」

 

 こうして、マーシュ師はひとり地上へと旅立つことになった。

 出発の日、ウダヤ師、ナユタ、ユビュ、ヴィクート、プシュパギリ、カーシャパらが見送りにやってきたが、マーシュ師はただ静かに微笑んで語った。

「では行って来るよ。いつ戻ってこれるか分からぬがな。」

 涙ぐむユビュを目に留めると、マーシュ師は笑顔を作って言った。

「ユビュ、泣くんじゃない。みんなそれぞれの道を行くのだ。そしてこれがわしの道なのだ。良い日があることを祈っていてくれ。」

 ユビュは言葉が出ず、ただうなずくだけだった。

 こうしてマーシュ師は飄然と旅立った。バルマン師を探すあてどのない旅の始まりであった。

  マーシュ師は地上に降り立つと各地を放浪した。それはバルマンと名乗る者を捜し求める旅であった。なぜなら、神が人間界に生まれ落ちる時、その名を変えることはありえないからであった。

 マーシュ師はバルマン師を捜し求めてさまざまな噂に耳を傾け、バルマン師の足跡を探った。しかし、それは極めて困難な旅だった。

 何人もの、何十人もの、何百人ものバルマンを探し当てたが、その誰もが、かのバルマン師の生れ変わりではなかった。

 一年、二年と年月が過ぎていった。度重なる落胆を越え、それでもマーシュ師は歩きつづけた。三年、五年、十年と時が過ぎた。しかし、求めるバルマン師は見つからなかった。

 数え切れないほどの都市を訪ね、無数の村々を通り過ぎた。いつしか、二十年、三十年、そして五十年と無為の時間が過ぎ去っていった。

 それでもマーシュ師は来る日も来る日も歩き続けた。

「これがわしの使命、なんとしてもバルマン師を探し出さねばならぬ。それのみがこの地球を救う道、この創造を救う道、この宇宙を救う道だ。」

 そう自らに言い聞かせ、険しい岩山を越え、極寒の峠を越え、そしてまた、灼熱の広野を越えてマーシュ師は旅した。時には砂嵐に見舞われ、時には洪水に足止めされた。

 こうして五十数年もの旅を続けたある日、マーシュ師は山の麓のマーヒサティという小さな村を訪ねた。夕方、日が暮れる前にマーヒサティ村に着くと、そこでは、夕日に燃える西の空と、夕日に照らされて神々しく輝く東の峻峰が村を包んでいた。燃え立つような真っ赤な岩の厳粛さがマーシュ師の胸を高鳴らせた。

「絶対者が降り立つような夕暮れだ。吉祥が私を迎えてくれる。」

 そうつぶやいて、マーシュ師は村へ入っていった。

 村に入ると裸足の子供たちが走り寄ってきた。顔や手足は薄汚れ、服は破れ、髪はぼさぼさの子供たちだったが、表情は生き生きしていた。

 マーシュ師は子供たちに言った。

「この村にバルマンという者がおると聞いて、はるばるやって来たのじゃが。」

 すると子供の一人が言った。

「バルマン?いるよ。」

 そう言うと、その子は、「バルマンにお客さんだよ。」と言って、走り出した。他の子供たちも歩き出し、マーシュ師は子供たちについて村の中心へと進んでいった。

 マーシュ師が村の中心まで来たとき、そこに現われたのは村の長老であった。長老はマーシュ師を迎えると、頭を下げて挨拶した。マーシュ師の言うともなく漂う高貴な雰囲気がそうさせたのだった。

「ようこそいらっしゃいました。あなた様のような方が、この村にお越しくださり、驚いております。さしたるおもてなしもできませんが、どうぞ村でおくつろぎ下さい。」

「かたじけなく、お言葉に甘えさせていただきます。私はマーシュと申します。賢者を求めて町から町へ、村から村へと旅する者。この村にバルマンと名乗る者がいるとの噂を聞いてやって参りました。」

「おお、おりますとも。さっそくバルマンを呼んで参りましょう。まずは、私のうちで休まれるがよい。」

 そう言うと、長老はマーシュ師を自分の家に案内し、バルマンを呼びにやらせた。

 マーシュ師が長老の家でもてなしを受けていると、バルマンが入ってきた。

 一目見た瞬間、マーシュ師は心が震えた。マーシュ師は雷に打たれたような衝撃を受け、これまでの艱難辛苦、すべての障壁が砕け散ったのを感じた。体が震え、言葉が凍りついた。ついにバルマン師にたどり着いた。そう確信したマーシュ師が言葉も出ずにいると、バルマン師は静かに一礼し、落ち着いて言った。

「遠方より賢者がみえられたと、うかがいました。歓迎の曲を一曲奏でましょう。」

 バルマン師は姿勢を正して携えてきた楽器を奏で始めた。その高邁にして深淵な音楽を、マーシュ師は噛み締めるように聞いた。バルマン師が去った日のこと、その日から今日この日までにあったさまざまなできごと、その長い道程が走馬灯のように思い出された。そして、バルマン師の音楽はそれらすべてをやさしく包み、すべてを受け入れる広さをもっていた。静かにその音の世界に沈み込み、マーシュ師は満たされた心でその音楽に浸った。

 豊かなひげをたくわえ、敬謙なまなざしをもったバルマン師は端正な姿勢で音楽を奏で続けた。その音楽家は瞑想の中でひとり奏でているかのように、表情を変えることもなく、とうとうと流れ出る音を響かせていた。そこから流れ出る音は時空を超え、現実の領分を越え、はるかなる永劫の時を駆け巡る巨大な音の渦を形作っていた。

 バルマン師が楽器を置くと、マーシュ師はバルマン師に頭を下げ、力を込めて言った。

「長い間、あなたを探していました。」

 この言葉にバルマン師は淡々と答えた。

「そうですか。ですが、私はただの楽師。この村から一歩も出たことのない田舎者です。」

「しかし、あなたの音楽は広大無辺。どうか、私の話をお聞きいただきたい。どこかで二人でゆっくり話がしたいのですが。」

「それでは私の庵に参りましょう。」

 そう言うとバルマン師は立ち上がり、長老に丁寧に礼をして歩き始めた。マーシュ師も立ち上がり、後に続いた。

 バルマン師の庵に着くと、バルマン師はマーシュ師を招き入れた。マーシュ師は腰を下ろすと、語り始めた。

「驚かれるかもしれないが、どうか話を聞いていただきたい。」

 そう言ってマーシュ師は、今回の創造の開始以来のさまざまなできごとについて語った。ヴァーサヴァの館での創造の開始のこと、ヴァーサヴァとムチャリンダの戦いのこと、そして、天空でのナユタとムチャリンダの戦いのこと、バルマン師の戦いのことをマーシュ師は語り続けた。

 バルマン師は驚きの表情も見せず話を聞き、ただ静かに言った。

「その人間界に生まれ落ちたバルマン師が、この私ということですか。」

「そうです。私はあなたを捜し求めて天空よりこの地上に降り立ち、五十数年もの間、ただただあなたを探し求めて旅を続けてきたのです。世界はまさに困窮の際に立ち、真理は冷たい北風に吹きさらされています。この危難の時を救えるのは、バルマン殿、あなたしかありません。」

「しかし、この大地にバルマンという名の者は浜辺の砂粒ほどの数もいると思いますが。」

「その通りです。そのため、私は数々のバルマンという名の者に会って参りました。しかし、これまで会ったどのバルマンも、かのバルマン師ではありませんでした。しかし、今日、その旅は終わりました。あなたがバルマン師です。」

 バルマン師は深く息を吸い込むと、大きく吐き出して言った。

「私はこの村に生まれ育ったただの楽師です。父が楽師だったので、幼少の頃より音楽の中で生きて参りました。仮に私がそのバルマン師だとして、いったい私に何ができるというのでしょう。」

 しかし、マーシュ師はそれには答えず、

「どうか、その後の物語をお聞きいただけますか。」

と言って、バルマン師が地上に去った後の話を続けた。ユビュの戦いの話、地上でのヨシュタの物語、そして最後にヨシュタが神界でムチャリンダの前に倒れた話へと続いた。

 マーシュ師の話は夜を徹して続き、話の終わりを次のように結んだ。

「この世界を救うことのできる者、その者を探し出し、導いていただきたいのです。」

 外では空が白み始めていた。バルマン師は立ち上がり、マーシュ師を伴って外へ出た。ひんやりとした大気が不思議なまでに新鮮だった。

「どうです。世界はまるで今初めて生まれ出たかのようです。世界は常に再生を繰り返します。音楽も同じです。常に響きの初めには無から生まれ出るのです。私には、私がそのバルマン師なのかどうかは分かりません。私はただこの村で生まれ、この村で音楽を奏で続けた楽師に過ぎません。ですが、マーシュ様のお話はよく分かりました。何を私がなすべきかも分かりました。この世界を救うことのできるただ一人の者を捜し求める旅、それが私の定めなのでしょう。明日、私は旅に出るでしょう。」

 マーシュ師は静かに頭を下げ、そしてこう言った。

「新しい世界の揺籃が始まった。乱れた世界の音が紡ぎ合わされ、悪夢にうなされた夜が消えようとしている。」

 

 バルマン師は、その朝、長老をたずねて言った。

「私は旅に出ることにしました。マーシュ師より、宇宙の起源と創成、そして天空での神々の戦い、地上での戦い、そして地上で今まさに生起していることどもをうかがいました。そして、この地上に、私を必要としている者がいることを知りました。私はその者に会い、微力ではありますが、その者を導くための手助けをせねばなりません。」

 長老は言った。

「バルマン、おまえがそう言うのをわしらが止めるべくもあるまい。行くがいい。それで、そのおまえを求めている者はどこにいるか分かっておるのか?」

「いえ、それは分かりません。それを探す旅に出るのです。」

「そうか、どこにいるかわからないか。では、バルマン、困難な旅になりそうじゃのう。」

「ええ、途方もなく困難な旅となりましょう。しかし、それが天に課せられた私の定め、それに従い、道を行こうと思います。」

「そうか。だが、バルマン、覚えておくがいい。わしのような年を重ねた者が得た知恵というものもいかばかりか役に立つこともあろうからな。そもそも人の一生はどれもこれもみな苦しみ。労苦の止むときはない。この世界よりももっと良い世があるのかもしれぬが、それは暗闇の中に隠れて見えはせぬ。それゆえ、我ら人間は、この世界に照り輝くものにだけわけもなく執着して暮らしているばかり。そして、とかくこの世の営みはあまり細かく考えすぎると、楽しみどころか苦しみのもととなり、まともに生きる妨げともなる。過ぎるよりは及ばぬ方が良いとも言う。その心で道を行くことだ。」

「ありがとうございます。ご忠告を胸に道を行きたいと思います。」

「ああ、気をつけてゆくのじゃぞ。だが、成すべき事をなした後はぜひまたこの村に戻ってきてくれ。そんな日が来るのかどうかは分からぬが、おまえのことは決して忘れず、いつも気にかけておるからな。」

 バルマン師がこの言葉を噛みしめつつ頭を下げると、長老は言った。

「この村に伝わるお守りがある。それを持って行きなさい。」

 そう言って、長老は、部屋の隅に置いてある小さな箱から一つのお守りを取り出してバルマン師に手渡したのだった。

 

 こうして、今度はバルマン師の旅が始まった。

 バルマン師の旅は奇妙な旅だった。目的もなくたださ迷い、気の向くまま、一個所に長く滞在したり、また、ふらりと旅立ったりした。行く先々で音楽を奏で、寺院で礼拝し、求道者たちと交わり、若者と問答した。

 そうして十年もの間、バルマン師は放浪の旅を続けた。しかし、捜し求める者に出会うことはなかった。見所のある若者は多かった。そして、何人かの弟子もでき、弟子を引き連れて旅を続けた。しかし、世界を救う可能性を感じさせた者はいなかった。みな、その世界の中での優秀さであり、その世界の中での才覚でしかなかった。世界を突き抜ける光を放つ者、それがバルマン師の求める者だった。失望と落胆を重ね、数々の労苦を味わいながら、バルマン師は旅を続けた。

 

 その頃、天空ではナユタやユビュが心配していた。ナユタは言った。

「マーシュ様。バルマン師は苦労さなっていますね。幾多の艱難辛苦を潜り抜け、あてどもなくさまよい続けておられます。しかし、世界を救う者を探し出すことができるのでしょうか?」

「それは分からぬ。バルマン師に分からぬことは、我らにも分かりようがない。ただ、バルマン師を信じ、待ち続けることしかできぬ。」

「そうですね。でもこうしてバルマン師が放浪を続けておられる間にも、地上では戦乱の炎は衰えることがなく、苦痛にあえぐ人々は天を呪い、神を呪い、そしてついにはこの存在そのものを呪っています。それなのに私たちに今できることはただバルマン師を待つことだけ。やるせない思いです。」

 マーシュ師は黙ってうなずくほかなかった。そのときユビュがうつむきかげんに語り始めた。

「マーシュ様、私が歩いてきた道は苦い味がします。幼い少女だった頃には世界が輝いて見えました。何もかもが光を放ち、すべてが生き生きと躍動していました。世界は美しく、野はみずみずしく、すべては整っていました。今思えば、あれは幻だったのだと分かります。あの日以来、バルマン師の洞窟を訪ねたあの日以来、すべてが変わってしまいました。道は下り坂となり、世界は混乱の渦に引き込まれてゆきました。今日までのこの道を思い返すとほんとうに苦い味がします。ナタラーヤ聖仙にお会いしマーダナとタンカーラを授かったことなどはたしかに心を高揚させることでした。でも、そのほかの多くのことは心に苦い思い出です。金色の兜をかぶって出陣して戦った勝利も心をほんとうには喜ばせはしません。父と母が森に追いやられたこと、姉のシュリーが捕らえられたこと、バルマン師が倒されたことなどはとてつもなく悲しいできごとでした。ウトゥが倒されたことも喜びではありませんでした。マーシュ様の館での戦いの勝利も喜びではありません。ヨシュタのことも、シャルマのこともすべて苦い思い出です。」

 そう語ったユビュの目にはうっすらと涙が浮かんだ。マーシュ師は優しく、そして諭すように言った。

「ユビュ、残念だがそういうものなのだよ。地上にいる人の道もこの天空の神の道もなんの変わりもない。みな苦い味がするものなのだ。世界が輝いて見えることがあるとすれば、それは結局、世界の真の姿を見ていないからに他ならない。世界の真の姿と向き合うなら、苦い味がするものなのだ。誰も思い通りの道を歩くことはできない。誰も思い通りの世界を生きることはできない。そういうものなのだ。」

「そうですね。その通りだということは分かっています。でも、森の中でさびしく暮らす両親のことを考えるだけでもいつも悲しくなるのです。私にはどうすることもできない、何をしてあげることもできない、それは分かっているのですが、分かっているだけにつらいのです。どうして世界はこのようになっているのだろうと思ってしまうのです。」

「そうだな。どうしてそうなっているのだろうな。それは誰にも分からない。ただ一つ言えるのは、世界はそのように作られている、ということだけだ。世界は真理が具現する場所でもなければ、自分の望みが完全にかなえられる場所でもない。一切の苦しいこと、醜いものを避けて美しく生きるなんてこともありえない。美しいものは瞬間にしかやってこない。誰でも、ほんのわずかの美しい瞬間のために、苦しみと悩みに囲まれた長い期間を過ごさざるを得ない。それは神であれ、人であれ、変わることのない真実なのだ。」

 そのときナユタが語りかけた。これまでナユタの口から語られたどんな言葉とも違う響きをもった言葉だった。

「でも、ユビュ。世界を動かしているのはユビュだよ。私はいつもそう思っている。ユビュが来てくれなければ、私はブルーポールを手に入れることもできなかった。ナタラーヤ聖仙からユビュが授かった神器はさまざまな場面で世界を動かし、神々や人々の心を動かした。そして、これからも動かし続けるだろう。マーシュ師の館での勝利は、黄金の鎧兜を身につけたユビュの出陣なくしてはありえなかった。たしかに、神の道は苦い味がする。こんな世界から逃げることができればどんなにか良いだろうと思ったことが何度あったことか。そして自分の道を振り返ってみて、ただただ悔やまれることの繰り返し、自分が惨めに感じられることだらけだ。でも、世界に輝きを与えることができるのはユビュなんだよ。この世界に光をもたらすことができるのはユビュだけなんだ。」

 この不思議な言葉に、ユビュもマーシュ師も目を上げた。

 ナユタは続けた。

「世界には闇が覆いかぶさっている。どこに出口があるか、誰にも見えない。でも、かつてヴィカルナ聖仙をお訪ねしたとき、聖仙が言われた言葉が耳に残っています。聖仙はこう言われました。混乱の中に足を踏み入れている者は光を見ようとせず、傲慢にも光がないとか光が消えたなどと言う。光に背を向ける者は、光が自分を照らさないと言う。だが、光は、見ようとする者にだけ見えるのだと。おそらく、私たちは光を見る力を失っているだけなのかもしれません。だから道が見えず、光が見えない。でも、その光はユビュの中に潜んでいるはず。私はそう信じています。その光が世界を照らし、道を拓くのです。」

 このナユタの言葉は神々の心を射抜いた。

 マーシュ師は目を閉じてこの言葉を噛み締め、ウダヤ師も大きく何度もうなずいた。

 しばらくの沈黙の後、マーシュ師は言葉を選びながら語った。

「ナユタの言う通りかもしれぬ。ユビュ、おまえには不思議な力が宿っている。その力がおまえをここまで導き、支えてきた。この世界はおまえを軸に動いているのかもしれぬ。この混乱の時代に、道を照明することができるのはおまえだけなのかもしれない。」

 マーシュ師はそう言ってユビュをじっと見つめ、そして諭すように言った。

「ユビュ、おまえにその気があるなら、一度、バルマン師のもとへ行ってみないか。それによって何が起こるかは分からない。それはまた苦味を伴う道をおまえにもたらすだけかもしれない。しかし、それは世界が新しい道に踏み出す契機となるかもしれない。」

 このマーシュ師の言葉にナユタは深くうなずいた。ナユタが不思議な言葉で語りかけたことに対する一つの答えがそこにあった。そして、マーシュ師の言葉はユビュの心をも突き刺した。

 ユビュは答えた。

「分かりました。私に何ができるのか分かりませんが、バルマン様にお会いできるのも嬉しいことですし、行ってみることにします。」

 こうしてユビュが旅立つことになった。

 

 ユビュの旅立ちは宇宙に大きな波動を生じさせた。その波動はムチャリンダの元にもヴァーサヴァの元にも届いた。

 ムチャリンダはかつてユビュがマーダナを手にしたときと同じような言いようのない不安にかられ、落ち着きを失った。

 ヴァーサヴァは妻エフタとともにこの波動を感じ、森の中で藩祭を上げて、そっと言った。

「世界が新しい次元に進もうとしている。そして、またしてもユビュがそのための最初の光を放とうとしている。世界は何かが生み出される予兆に満ち満ちている。」

 そして地上でもその波動は生じた。

 ユビュが地上に降り立った夜、月明かりの空に煌々と輝く七色の虹が出現した。真夜中の虹が生み出すその幻想的な光景に多くの人々が日々の苦しみを忘れ、しばし恍惚とした心でその光景に浸った。旅の途中で立ち寄った小さな村に泊まっていたバルマン師もその虹を見ていた。

 その不可思議な光景にバルマン師はつぶやいた。

「未知なるものがやってくる。これはまさに、何ものでもないものが近づいてくる予兆に違いない。世界が変わろうとしている。わしはあす朝早く身を清め、世界の創造を謡う音楽を奏でよう。」

 バルマン師は夜明けとともに近くの小川で身を清めた。太陽がまっすぐに東の空から昇り、その煌く光の中で世界のすべての存在者たちが朗々と躍っているかのようだった。

 バルマン師はその光の中で渾身の思いを込めて音楽を奏でた。誰に聞かせるでもなく、ただ大地と天に向かって音を奏でた。

 演奏を終えるとバルマン師は近くの寺院に出かけ、ひとり瞑想を行なった。

 その瞑想から覚めたとき、バルマン師の前にはユビュが座っていた。寺院の小さな窓から差し込む清らかな朝の光の中で、ユビュの美しさが神々しいまでに照り映えていた。

 バルマン師は心の中で驚きながらも、自分の前に現れたこの未知なる少女こそ、奇跡を呼ぶ吉兆なのだということを直感した。そして、黙ってユビュの言葉を待った。

 ユビュは、かつて宇宙の涯ての洞窟にひとり引きこもっていたバルマン師を初めて訪ねたときのことを思い出して目頭が熱くなったが、身分を明かさず、静かに語り始めた。

「この地球はさまざまな混乱に苛まれています。強者は力によって他者を支配し、どれほど多くの血と涙が大地に流されようと省みもしません。また、巷では、退廃した思想と刹那的な風潮が吹き荒れ、人々の心は荒み果てています。若者はもはや謙虚に高邁な思想を学ぶこともなく、長老を敬愛することもありません。ただただ日々の享楽を求め、今日はこの遊び、明日は別の楽しみとたださ迷っているだけです。地球は病み、苦しんでいます。大地は瀕死の状態になっています。そうはお思いになりませんか?」

 バルマン師はうなずいた。そして次のように答えた。

「そのとおりだと思います。そして、同じことをかつて私を訪ねてこられたマーシュ師という神が申されました。私はここからはるか離れた小さな村のしがない楽師に過ぎませんでしたが、ある日突然来られたマーシュ師に、世界を救うことのできるただ一人の者を求めて旅に出るように即されました。そして私はその求めに応じ、今日まで流浪の旅を続けているのです。」

 ユビュは静かに言った。

「世界を救うことのできるそのただ一人の者は見つかりましたか?」

「いえ、未だ見出しておりません。この世界の中で生き抜くための優れた能力を持つ者には数多く出会いました。しかし、世界を真に突破する力を有する者には未だ巡り会ったことがありません。」

「そうですか。でも、その者はきっといます。そして、きっと見出されるでしょう。」

 そのきっぱりとしたユビュの言葉に、バルマン師は意を強くして尋ねた。

「どうすれば、その者に出会うことができるのでしょう。もし、ご存知なら、ぜひ教えていただきたいが。」

 この問いにユビュは微笑を浮かべて答えた。

「あなたは優れた音楽家と聞いています。すばらしい音楽、真の音はどのようにして得られるのでしょう。それは捜し求めて得られるのでしょうか?」

「世界に潜む真音は求めて得られるものではありません。しかし、それは常に在ります。真音を得るにはただ待ち、そして拾い上げるのです。」

「あなたが求めるものも同じでしょう。その者がやってくるのを待たねばなりません。そして、その者は近づいてきているはずです。」

 しばらくの沈黙の後、ユビュは次のように続けた。

「この村の向こうにそびえる山の麓に、サヌカイトと呼ばれる不思議な音の鳴る石があります。そこを訪ねれば、たやすくその石を見つけることができるでしょう。その石はあなたの音楽に新たな境地を開き、そしてあなたが捜し求めている者を惹きつけるでしょう。」

 バルマン師が静かに頭を下げると、ユビュは、

「近いうちにまたお目にかかります。」

と言って立ち上がり、寺院から出て行った。

 バルマン師はこの不思議な問答に半ば放心してユビュを見送ったが、気を取り直すと、早速そのサヌカイトなる石を求めて山の麓を訪ねた。

 その場所では黒い方形の石がごろごろと転がっていた。そのひとつを拾い上げ、木のばちで軽く打つと、それまで聞いたことのない音が響いた。

「これこそ太古の昔より宇宙の中心で響き続けてきた音だ。」

 そうつぶやくと、バルマン師は心を高ぶらせて次々に石を手に取り、音を確かめた。バルマン師の頭の中では新しい音の世界が沸騰していた。

 次の日、バルマン師は作業者を雇い、石を運ばせた。そして、石工を集め、適切な大きさに切らせ、木の台の上に並べ、あるいは木の枠に吊した。バルマン師は木のばち、石のばち、金属のばちを作り、配置された石の音を次々に確かめた。

 それから数か月、バルマン師はサヌカイトを打ち鳴らすことに没頭した。不思議な余韻を残すその石はかつてないほどバルマン師の心を揺り動かした。ひたすらに石の音に没頭し、石工たちと議論を重ねて石の大きさや厚さ、形を変えた。不思議な韻律に心を奪われ、バルマン師はわれを忘れて音楽に没頭した。そしてついに不思議な音階の楽器を完成させた。

 そんなある日、再びユビュがやってきた。ユビュは静かに言った。

「この音は世界を動かすでしょう。次の満月の夜、森の入り口でこの音楽を奏でてください。すべては整っています。あなたの求めておられる者はやってくるでしょう。」

 バルマン師は静かに頭を下げた。

 次の満月が昇る日、バルマン師は長い瞑想を行い、心と気息を整えた。

 日が暮れて、月が昇ると、バルマン師は求道者のようないでたちで森の入り口に現れた。そこにはサヌカイトを並べた楽器が置かれていた。

 バルマン師は真っ直ぐに北を向いて座った。

 森は静まり返っていた。煌々と照らす月明かりの下でバルマン師は北極星に向かって祈りを捧げ、しばしの沈黙ののち最初の石をたたいた。ひとつの音が不思議な余韻を残して鳴り響いた。世界を震撼させる音であった。ひとつの音から次の音が生み出され、音楽は滔々と終わることなく続いた。最初は静かに、それからだんだんと激しく、さらには朗々たる響きへと変わり、果てることなくバルマン師の演奏は続いた。

 そばではユビュがじっと座って聞きつづけた。それは不思議な音楽であった。ユビュがそれまで耳にしたどんな音楽とも異なった、それまで慣れ親しんだどんな韻律とも異なった、まったく新しい響きをもつ音楽だった。

 次第に人々が集まってきた。去るものもなく、人々はただじっと聞き入った。空には満天の星が広がっていた。

 ユビュは心が洗われるような思いに浸っていた。ユビュはかつてバルマン師の洞窟を訪ねた日のことを思い起こし、それ以来の波乱と艱難に満ちた歩みを思い起こしていた。それは自己の基盤を持たず、宇宙の巨大な流れの中で、あてどもなくさ迷っている自己イメージであった。だが、バルマン師の音楽はそれを嘉した。それで良い、それが一切だとその音楽はユビュに語りかけ、ユビュはその中に包み込まれる自分を感じた。限りない虚空をひとり孤独に、しかし何かに包まれて飛翔しつづける自分を感じるのだった。

 すると向こうからかすかな光が見えてきた。光、そう、何か新しい光がここに近付いてくる。そう思ってふと見ると、ブルーポールがかすかに光を放ち始めていた。ユビュはすっと立ち上がった。そして、見回すと、一人の若者と視線が合った。端正な顔立ちに、思慮のあるまなざしがユビュの心を捉えた。その若者にユビュが近付くとブルーポールが輝きを増した。

 ユビュは太鼓をひとつ取り上げると、若者に差し出して言った。

「前に出て、いっしょに奏でなさい。」

 若者はうなずき、太鼓を受け取ると、前に進み出て、陶酔しきって演奏を続けるバルマン師に一礼し、横に座った。

 その若者が最初の一音を発した。静かだが、まるで大地の涯てまでその振動が伝わるかのような響きだった。いかなる興奮もなく、高揚もなく、ただ、静寂との共鳴があった。無音の領域と調和し、バルマン師の音と高め合った。

 新しいバルマン師の音が一つ響く。その単音の響きが森の中に広がり、そして音の世界が広がる。その響きに触発されて新たな響きが生まれ、それがまた新しい響きを誘発した。「世界がはじけた。」

 ユビュがそう感じた瞬間だった。

 夜明けとともに、音楽はとてつもなく高揚した。宇宙の広大さを感じさせるようなはるけさ、真理を求める求道者の心を高らかに謳い上げるような響きだった。

 演奏が終わり、静かにばちを置くと、バルマン師は若者に尋ねた。

「名は何と言う。」

 若者は落ち着いた口調で答えた。

「パキゼーと申します。道を極めるべく、ここにバルマン師をお訪ねいたしました。願わくば、弟子に加えていただきますように。」

 バルマン師は重ねて尋ねた。

「おまえはどこで音楽を学んだ。」

「私の父は楽師で、それゆえ、私は幼いおりより音に囲まれて育って参りました。父はそろそろ自立してよい頃と申しておりますが、私は音楽の真の道を追い求めたいのです。」

「そうか、おまえには才能があるようだ。だが、音楽は才能だけでは輝かない。私は厳格な道をもっておる。それを学ぶ用意はあるか。」

「はい。私は私の回りのほんの狭い世界の音楽しか知りません。道を究めるべく心の用意はできているつもりです。」

「そうか。では、わしについてくるがいい。だが、一つ心しておかねばならぬことがある。それは、道を行く者には、優劣もなければ、上下もないということだ。まして、わしが教師であるのでもない。ただ、道を求めて努力するだけだ。おまえが望むなら、今日からここに留まるがよい。いつ出て行ってもよい。いつまでも居続けてもよい。すべてはおまえが望むがままに。」

「ありがとうございます。今日より修行に励まさせていただきます。」

「いいだろう。だが、こういうことを知っているか。共に同じ道を学んでも、共に同じ道を行くことはできない。共に道をゆく者には、道はなだらかだがやがて消えてしまうからだ。そして、一人道をゆく者には、道は狭く険しい。いつでもここを出てゆくことを肝に銘じて修行に励みなさい。」

 こうしてパキゼーはバルマン師の弟子となり、修行の生活が始まった。バルマン師はその村に庵を設け、パキゼーや他の弟子たちとの生活を始めた。

 バルマン師のもとで、パキゼーの生活は大きく変わった。それまでのパキゼーの生活は、音楽を奏でるため、しばしば夜更けまで演奏し、昼近くになって起き出していたが、バルマン師の元では、朝、日の出前に起きる生活が始まった。

 朝、まず、小川の冷たい水で体を清め、それから、楽器の奏で方を学ぶ。パキゼーは音に対する厳格なプロセスを一つ一つ学んでいった。さらにパキゼーは、バルマン師から、太鼓にシカの皮を張る技術、弦を響かせる技術、音楽のさまざまな秘伝を教わった。音楽家たるもの、楽器を演奏するだけではなく、自身で皮を張れねばならなかった。

 パキゼーはどんどん音楽の腕をあげていった。そして、バルマン師の元での修行は、パキゼーを成長させた。それは音楽を学ぶのではなく、音楽を通して、人としての在り方を学ぶ道でもあった。

 バルマン師は優れた教師でもあった。バルマン師は決して多くを語らない。多くを教えない。しかし、バルマン師が木陰に佇めば、すぐ、その場は聖なる場所と化し、静寂が支配した。そしてバルマン師が何も語らなくても、パキゼーはバルマン師の教えを感じ取ることができた。バルマン師がやってくると、静かでおだやかな雰囲気がその場を支配し、人としてあるべきものを自然と学ぶことができた。

 バルマン師は大きな声ではしゃべらない。バルマン師はほんとうに静かに語った。しかし、その声はどんな大きな声よりもよく聞こえた。バルマン師の音楽も同様だった。バルマン師はほんとうに小さな音を大切にした。そして、その音は、しばしば、どんな大きな音よりもよく聞こえ、そしてよく響いた。パキゼーが学んでいったものは音楽家としての上昇ではなく、まさに人としての上昇であった。

 そんな中で、パキゼーが心を砕いたのは、単に音楽を奏でる技術ではなく、音の奥に潜む深遠な世界の真音についてだった。その真音への道は不可思議で遠かった。パキゼーはどうしてもその音へ至る道が分からず、ついに、ある日、バルマン師に尋ねた。

「バルマン先生、その途方もなく深遠なる音、何が先生をしてそれほどの音を生み出させるのですか?」

 バルマン師はかすかな微笑みを浮かべて答えた。

「時に囚われた者には、真の音は見えん。わしは音を生み出しているのではない。ただただこの宇宙に漂っている音を釣り上げてくるだけだ。真理は時の濁流の中に留まる者には見えず、光は雲の下ではぼんやりとしか輝かぬ。」

「私にはまだその光は見えません。私は道を捜し求めていますが未だ見出せず、音を探してはいますが音を見つけることができていません。」

「心に苦しみを持つ者に道はなく、目指すべき道を求める者に光はない。一切を静謐の中に置き、一切の流れから身を引く者にのみ真の平安が生じる。さすれば、雲の上の世界のように光はあまつさえ降り注ぎ、輝きはあらゆる時空を超え、人間の世界はいわずもがな、遠い神々の世界をも包含する領域に響き渡る韻律を耳にすることができる。」

 この不思議な言葉に困惑しつつ、なおもパキゼーは訊いた。

「私はその道を捜し求めていますが、未だ見出せず、思索し、荒野をさ迷っています。どのようにすれば、その境地に至れるのですか?」

「パキゼー、探し求めることは尊い行為だ。しかし、探し求めることが、捜し求めるものを手に入れる最善の行為ではないことを知らねばならない。音の世界に留まっていては、真音には行き着くまい。わしには真音への道を指し示すことはできぬ。おまえ自身が見つけるほかあるまい。残念ながら、わしは教師ではない。おまえを導く導師でもない。わしはただの音の釣り人にすぎぬ。降り注ぐ音に耳を傾け、その音に耳を澄ましているのみ。もし、おまえが宇宙に潜む真の音を求め、その中に世界の真実を求めたとしても、それは決して見つかるまい。なぜ、それを求めねばならぬ。それによって何が得られるのか?神々はおそらく神々の恣意によって世界を創り、人を造った。そのことを謙虚に思い致し、すべてを広大な宇宙の中での出来事として淡々として眺めることだ。さすれば、一切を包んでおる真理が見え、そこに満ち満ちている音の饗宴に触れることもできよう。まず、心を澄まし、耳を傾けてみよ。一曲聞くがいい。」

 そう言うと、バルマン師は弾き始めた。その音楽はパキゼーの心を満たした。しかし、答えが得られたのではなかった。

 

 次の日の朝、パキゼーが小川で体を清めて帰ってくると、バルマン師は弟子たちとともに旅の準備を始めていた。

「どこへ行くのですか?」

 びっくりして尋ねるパキゼーに、バルマン師は笑って答えた。

「都へ行くのだ。さあ、パキゼー、一緒に行くぞ。」

「都ですか?」

「そうだ。都だ。百の門があるという都マドラへ行くのだ。」

「分かりました。しかし、また、急にどうして。」

 バルマン師は軽やかに笑って答えた。

「人生などというものは、日々これ新しい。昨夜決心したから今日出立するのだ。おまえには才能と輝きがある。だが、おまえはこの地上における真実の姿を知らぬ。高邁な音楽の世界しか知らない者には、いかなる高邁な音楽も作れぬ。さあ、マドラへ行くぞ。そこは人間の真の姿が凝集しておるからな。この世の者たちの現実に向き合い、その意味を問うことがおまえには必要だ。おまえ自身がその現実を体験せねばならぬのだ。」

 それがパキゼーの求めに対するバルマン師の答えだった。

 道すがら、バルマン師はパキゼーに語り掛けた。

「おまえは村に育ち、村でのみ生きてきた。人間の本当の醜さ、浅ましさ、愚かさ、苦悩、嘆き、憎しみなどを知らぬ。だが、それを知らねば本当の音は聞こえてはこぬ。だから、都へ行くのだ。そこにはすべてがある。喜びも悲しみも楽しみも苦しみもすべてがある。ないものはなにもない。」

 パキゼーはただうなずき、ついていくだけだった。都マドラがどんなところか、人づてに聞いたことはあったが、想像を膨らませるしかなかった。その旅はパキゼーにとって新しい人生の始まり、驚きの始まりであった。都から遠く離れた田舎の村しか知らないパキゼーにはすべてが目新しかった。昼間は来る日も来る日もてくてくと歩き、山を越え、河を渡り、あるいは広大な平原を越えてパキゼーは旅した。

 

 長旅の末にバルマン師の一行はマドラに着いた。マドラの都はすべての点で大きかった。それまでに通ったどの町よりも大きかった。そして見たこともないほど壮麗だった。

 百の門がある都と称えられたこの都の四方をめぐらす城塁はまさに山のごとく高く、その上に楼塔がそびえ、周りには満々と水を湛えた広く深い三重の濠がめぐらされていた。塔門はさまざまなレリーフで飾られ、両側にそびえる巨大な神の像が通り過ぎる者たちを見下ろしている門もあった。

 門の外壁には多彩な釉薬をかけたレンガに、王の勇壮さと偉業を称えるさまざまな絵が描き出され、これが陽光を受けて目も眩むばかりであった。

 そして、都の中央には、広い王道が東西と南北にそれぞれ走っていた。門から延びる王道の広いこと。多数の戦車が何台も並んで走ることのできるほどであり、その道をひっきりなしに人々や兵士たちが行き交い、さらには、野菜や荷を積んだロバや牛が行き交い、ヤギが道をたむろしていた。道の両側では農民たちが今朝取れた野菜を並べ、露天商人が大きな声で客に呼びかけていた。

 街の中央には巨大な宮殿がそびえ、神々のために建立した塔は天を摩するがごとくであった。宮殿は見る者を威圧するかのごとく豪壮で、その周りには官庁、倉庫、市場などが並んでいた。市では売られていないものは何もないと思われるほど、ありとあらゆるものが売られており、商人たちが忙しく働いていた。

 街の中には様々な店があった。布や衣服を売る店、絨毯を売る店、石鹸などの日用品を売る店、仕立て屋や靴屋、陶器やガラス製品の店、刀や弓を売る店、家具屋、印章屋、鍛冶屋などが軒を連ねていた。飲食店も多かった。肉屋もあったし、野菜や果物を売る店もあった。香辛料を売る店、水を売る店、酒屋もあった。金細工の店、腕輪や首飾りなどの装飾品を売る店もあった。

 香料を扱う店が並んでいる一角からは異国から来た乳香、没薬や白檀の香りがほのかに漂い、露台が並ぶ一角では魚を揚げる匂いや焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂っていた。

 さらに街のいたるところに浴場や水飲み場があり、立派な礼拝堂や広場もあった。広場では、哲学者らしき男が説教をしていたし、また別の場所では、多くの者たちが取り囲む中、真剣な討論も行われていた。

 バルマン師は都に着くと、町の一角に家を借り、そこがバルマン師と弟子たちの新しい住まいとなった。バルマン師はそこで音楽を教え、あるいは、広場や街の道端で演奏した。時には、貴族や寺院に招かれて演奏することもあった。

 パキゼーの生活も変わった。バルマン師はパキゼーをマドラ市内の学校に通せた。パキゼーはそこで文字を学び、数学を学び、ヴェーダを学んだ。

 ヴェーダの学習は新鮮だった。そこでは、宇宙の起源、世界の起源が語られ、神と人との関係、人の道、真理への道が語られていた。「一切を静謐の中に置き、一切の流れから身をひく者にのみ、始源の音へ行き着く道が開ける。」と言ったバルマン師の言葉の意味が分りかけた。ヴェーダの道の究極に音の原点への道がある、そう、パキゼーは思い当たった。パキゼーは熱心に学び、文字を覚え、ヴェーダを暗証した。

 ヴェーダは教え諭してくれた。

「人が他のものを見ず、他のものを聴かず、他のものを認識しない場合、これは無限への参与である。しかし、人が他のものを見、聴き、認識するならば、これは有限のものである。実に無限とは不死である。有限とは死するべきものである。

 尊師よ、その無限は何を拠り所としていますか?

 自己の偉大さを拠りどころとしている。あるいは、自己の偉大さを拠りどころとしていない。この世において、牛と馬を偉大さと呼ぶ。また、象・黄金・奴婢・土地・邸宅をそのように呼ぶ。しかし、私はそのようには言わない。なぜなら、こういう脈絡の中では、一切が他のものを拠りどころとしているからである。」

 それはまったく高邁にして深遠な思想そのものだった。

 だが、一方で、世界への疑問も次々と頭をもたげてきた。学校では、ともに学ぶ者たちが、必ずしもパキゼーのような純粋な心を持ってはいないのを知るのに長くはかからなかった。

 ある者は、富裕な家に生まれ、放縦の生活を送っていたが、社交界で最低限身につけるべき知識を身につけるためにヴェーダを学んでいた。また、ある者は、商売でより多く儲けることだけに関心があり、その為に数学を学んでいたし、寺院の息子は父の後を継いで安泰な暮らしをするために、ヴェーダや文字を学んでいた。

 彼らの関心は、遊びであり、快楽であり、女であり、金儲けであり、そして戦争であった。さらに、学校の中での別の関心は、自分が別の者より優れているかどうかということであった。学校の空間は、競争心に満ちており、それはまた、妬みや嫉妬を引き起こした。優れた者には表面では賞賛が送られたが、陰では、辛辣な陰口がたたかれた。

 そんな中、パキゼーが共感できたのはシュリナムという若者だった。パキゼーより二、三歳年上であったが、他の若者とはかけ離れた落ち着きがあり、肩の力の抜けた飄々とした風情が印象的だった。学校の中では、シュリナムはどの階級にも、どのグループにも属さない異端者であったが、彼の人柄とその思想の深さゆえに、多くの尊敬を集めているのも確かだった。教師ですらシュリナムには一目おいていた。

 シュリナムは学校の寄宿舎に住んでおり、パキゼーはシュリナムと親しくなると、しばしばシュリナムの部屋を訪ねた。シュリナムの部屋は奇麗に片付けられており、パキゼーが訪ねて行くと、シュリナムは彼のために席を用意してくれた。また、ときには美しい庭を散歩したり、街へ出掛けたり、あるいは、近くの美しい小川のほとりを散歩したりした。

 パキゼーがシュリナムを好きだった一番大きな理由は、おそらく、彼が教義や権威に捉われない自由な発想を持っていたことであったろう。シュリナムはどのような議論も自由に許す雰囲気を持っており、パキゼーとの会話の中でも、自由な考察、自由な議論、自由な発想が展開された。そして同時にシュリナムはいつも既存の価値観、世界観に批判的であり、懐疑的でもあった。経典の言葉をそのまま押し付けることはしなかった。

 そして、シュリナムもパキゼーを大いに買っていた。パキゼーの頭脳の明晰さ、優秀さもさることながら、なんといっても彼を惹きつけたのはパキゼーの無欲の姿勢だった。

 シュリナムは言ったものだった。

「パキゼー。君はなんの実利も求めず、ただ学んでいる。素晴らしいことだ。他の生徒たちの貪欲さを見るがいい。みな、自分の未来の実利のために学び、次のステップに進むために教師に媚びている。」

「でも、君だって実利から離れて学んでいるじゃないか。」

 パキゼーはそう言ったが、シュリナムは肩をすくめた。

「ぼくは、祭司の父の後を継ぐためにここに送られてきたんだ。他の者たちのように、より良い暮らしを求めて競争に勝ちたいとは思わないがね。良い成績をとって教師からの推薦が得られれば、都の偉い僧侶になる道もないわけじゃないことは分かっているけど、そんなことをしたいとは思わない。」

「じゃあ、将来はどうするの?」

 シュリナムに将来のことを聞くのは初めてだった。

「卒業したら、父の後を継ぐさ。ただ、同時に、静かに真理を追究したいとは思うがね。」

 真理を追究する。だが、シュリナムにとって、真理を追究するとは、決して、学校で教えられていることを学ぶことでも、それを信じることでもなかった。

 あるとき、パキゼーが次のように訊いたときもそうだった。

「我々は真実であるとされるヴェーダを学んでいるが、それは本当に真理なのだろうか?そもそも真理とはいかなる価値を持つのであろうか?」

 シュリナムはこう答えた。

「人はあまりにも自分の人生に囚われて生き、人生の内側から人生を眺めている。人生の外に立てば、もっと別のものが見えるよ。」

 それはどういう意味かとパキゼーが聞くと、シュリナムは答えて言った。

「ぼくはこれまでさまざまなことを見てきた。はっきりとは言えないが、それが悟りのようなものをぼくの心の中にもたらしてくれた。この世界での出世も成功もどうでもいいという気持ちになってきているんだ。人は、可能性のあるとき、それを摑み取りたいという欲望に囚われる。だから、心を空にするのは難しい。だけど、人生の外から人生を眺めることができたなら、その空性を見ることができ、様々な欲望からも離れることができる。何かを求めることを教師たちは立派なことだと言うが、ぼくには求めることの愚かさが見えるね。」

「分かるような気はするけど、ぼくにはそれは不可能だ。ぼくには目標があり、召命の声が聞こえるから。」

 シュリナムはかすかに微笑んで言った。

「召命の声が聞こえ、上からの光があるとき、人はそれに囚われるのさ。人は真理に囚われ、真理に奉仕したいという大いなる欲望にさいなまれる。繰り返しになるが、人生を、人生の外から眺める術を学ぶことだよ。」

 別なとき、シュリナムはこうも言った。

「人々が説く価値は結局のところ、この我々の社会と秩序を維持するためのものに結びついているにすぎないと思わないか。利己的な行為を醜いものとし、人のためになること、人々の役に立つことが立派な行為として尊ばれる。だが、それにはどんな本来的意味があり、どんな本質的な価値があるんだろうな。献身的な行為は、心に美しく響くが、その真の価値はなんなのだろうか。」

 この言葉に、パキゼーは考え込み、こう答えた。

「人のために役立つとは、一つには社会に役立つということだろうね。」

「その通りだ。でも、だとすれば、我々の社会を維持し、より良いものにすることに貢献することが、人生の意味との源泉ということになる。それは、社会にとってもその中に住む人間にとっても大事かもしれないが、我々が生きる本源的な意味なのかどうか?」

 こう言ってシュリナムはいったん言葉を切り、さらに続けて言った。

「また、他の人のために献身することも同様だ。それが他の人のためになったとしても、それによってどんな本源的なものが生み出されるのか?結局、すべては、この社会とその中の秩序の維持に役立つものを是としているに過ぎない。それらは重要かもしれないが、我々が何のために生きるべきかという根源的な問いに対する答えをもたらさないし、むしろ、真理を隠蔽する作用さえしていると思えるね。ほんとうの真理はもっと別な次元にあるはずだ。」

 シュリナムの言葉は厳しかった。けれど、シュリナムは正しかった。この世界の中、社会の中に組み込まれ、尊ばれ、価値あるものとされているものは確かに存在しているようだったが、それは真理ではなかった。真理はもっと別の次元に、すなわち、人々が織りなすことどもの外に、人生の外に在るはずだった。

 そして、その思索は、バルマン師が教え諭しているものにも結びついているはずだった。

 

 一方、シュリナムとの敬虔な会話とは全く別の世界が、都には広がっていた。学校から一歩外に出ると、そこは異邦人の溢れかえった騒がしい町だった。

 数え切れないほどの多くの人々が行き交い、商人の声、子供たちの声、女たちの声がけたたましかった。犬が駆け回り、家畜の鳴き声が響き、あちこちで喧嘩が起こっていた。ラクダに乗った男を怒鳴りつける商人、おびえている牛をなだめようとしている農民、犬を追い回している男の子たち。動いていないものはひとつとしてなかった。

 金物店では、職人たちが大きな音を立てて忙しく金槌で金物を叩いていたし、揚げ物店では、店主が小麦を練ったものを次々に油の中に投じていた。洗濯屋では、男たちが衣類を踏みつけたり、布を石に叩きつけたりしていた。商人たちは騒がしく客とやりあっていたし、女たちは旦那や子供にしばしば金切り声をあげていた。

 また、異邦人たちは、それぞれの神のために建立した神殿の回りに集まって暮らし、異なる習慣を堅持していた。

 そして、壮大な建物の周囲には、貧民たちの泥小屋が密集している区域があり、きたないなりの子供たちは犬やサルと駆け回り、道端には汚物が散らばっていた。宮殿や神殿の豪壮、華麗さも偉観だったが、その柵外の貧困ぶりもまた偉観だった。

 また、狭苦しい裏路地には、居酒屋や娼家があった。居酒屋には小金を稼いだ貧乏人たちが集い、薄いビールで気勢を上げて憂さを晴らし、擦れた雰囲気の若い女給仕の尻を追い回すのだった。娼家では、肌も透けるような薄布をまとい、頬、唇、眉をあでやかに化粧した女たちが窓辺に佇んで男どもに誘惑の眼差しを投げていた。彼女たちを目当てに、都の奥から籠に乗って通ってくる金持ち連中も少なくなかった。

 夜ともなれば、鳴り物を鳴らし、大声で歌い踊り、酒を飲んで陶酔する若者やサイコロ遊びなどの賭け事に興じる男たちで満ちあふれていた。酔っぱらいの叫び声が毎日のように響いた。男ばかりでなく、若い娘までがごく薄い衣装でほとんど裸のように透けて見える姿で破廉恥な踊りに加わり、乱痴気騒ぎを繰り広げていた。それが世界の姿であった。世界は喧騒に満ち、欲望と混乱の渦の中にあった。

「世界はあまりにも途上にある。」

 パキゼーはそう思わざるをえなかった。

 

 

2014年掲載 / 最新改訂版:202388日)


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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第3巻