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神話『ブルーポールズ』

【第2巻】-                                                  

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 レゲシュ軍はチベールでの戦利品を集め終わると、捕らえた者たちを連れてチベールの城をあとにした。徒歩で歩かされる捕虜の者たちが城を出てしばらくすると、捕らえられた女たちから悲鳴が上がった。振り返ると、チベールの城砦から真っ赤な炎が上がっていた。チベールを地上から抹殺するというレゲシュ軍の決定に基づいて、火が放たれたのだった。

 女たちが悲鳴と共に涙を流す中、女たちと一緒に歩かされていたプラスティヤはチベールを仰ぎ見て言った。

「偉大なる城壁と輝ける王錫によって護られていたチベール。イナンナ女神が護り賜うていたはずのチベール。だが、あなたの宮居も香煙揺らぐ祭壇も、あなたはレゲシュ人の手に委ね賜うた。供物を焼く火も空に昇る没薬の煙も今はない。あなたに捧げられた神徳を讃え祀る歌声も、ぬばたまの夜を照らす夜祭りも、さてはまた黄金輝く神の像も今はない。燃え盛る炎が焼き尽くす我らが故郷。いったいイナンナの女神はこれをいかなる心でみそなわしておられるのか。」

 そう語ったプラスティヤはさらに悲憤に満ちた表情で言った。

「かつて繁栄を極めた街は炎の中。残ったのは、夫を討たれ、子を亡くした女たちの悲鳴と悲哀。その女たちもレゲシュに向けて歩かされる。待っているのは惨めな奴婢の生活か、あるいは男どもの夜の床か。そして、我らがチベールは、もはや人の住むこともなく、魍魎どものねぐらとなろう。イナンナ女神はこの街を守ることもなく、我らはレゲシュに連れてゆかれる。神々は何を嘉するのか?チベールが欠かすことなく捧げ続けた奉納物も生け贄も無駄であった。この地上で護られるべき何ものを神々は護ったというのか。人生の悲哀を味わうためにこれほどにも多くの者たちが生まれてこなければならなかったのか。」

 レゲシュの隊長はプラスティヤが語るに任せていたが、プラスティヤの言葉が途切れるとぶっきらぼうに言った。

「気が済んだか。高名な預言者とのことなのであえてとがめ立てはせぬが、我らは道を急がねばならぬ。さあ、みな歩くのだ。」

 だが、プラスティヤは隊長を睨んで短く言った。

「この報いは必ずやレゲシュにも降りかかるだろう。」

 隊長は請け合わなかった。

「戯れ言はそのくらいにしておけ。それ以上言うと、おまえの身が危なくなるからな。」

 侮蔑のまなざしを投げてそう吐き捨てるように言うと、隊長は部下に命じて行進を再開させた。

 

 ヨシュタがレゲシュに凱旋すると、街では人々が大歓声と共に迎えた。城門の中に入ると、道の両側に人々が詰めかけており、勝利を手にした兵士たちや戦車隊の列に人々は惜しみなく賛辞と感謝を投げ掛けた。その人々の間をプラスティヤやチベールの女たちは歩かされ、さらに、チベールから運んできたイナンナ女神の像が入場すると、人々の興奮は最高潮に達したのだった。

 その後、祝勝会や凱旋パレードなどで忙しい毎日がしばらく続き、王宮前の広場には、チベールへの戦勝を記念するオベリスクが建てられた。オベリスクにはヨシュタ王を称える賛歌が刻まれ、頂点には金色のアンク十字架が取り付けられて太陽の光に燦然と輝いた。また、チベールの守護神であったイナンナ女神は新たにレゲシュの守り神とされ、戦利品として奪ってきたイナンナ女神の像は新たに建設されたイナンナ神殿に安置されたのだった。

 三ヶ月があっという間に経過し、レゲシュの王宮にはウダヤ師が再び訪れた。しかし、ウダヤ師とヨシュタとの間では前と同じような会話が繰り返されただけだった。

 ヨシュタは改めて言った。

「たしかに、これからは平和な時代となるでしょう。しかし、地上で人々が得たもの、そしてこれから得るものは結局何なのでしょう。あれからいろいろ考えましたが、結局、人間は休みなく働き、ただもがき苦しみ、安住の地も知らず、静謐の境地も知らず、ただ、苦しみ続けるのみなのです。この地上で勝ち取れるもの、それは惨めさだけではないでしょうか。私たちの五感を惑わし、そして満たすもの、さまざまな快楽や異性、地位や名誉、金や財宝、妻や子供たち、それらはあたかも私たちの人生を飾り、私たちの人生に輝きを与えるものと思われました。しかし、実際はそうではなく、それらの本性はただ私たちを駆り立てるだけのものであり、どこにも平安はなく、どこにも静謐はないのです。だからこそ、人は生まれ、苦しみ、年をとり、死んでゆくという無益な堂々巡りを飽くことなく繰り返しているのです。生と生の狭間で常に死神と向き合い、無慈悲な苦痛をもたらすさまざまな混乱にさいなまれ続けているのです。すべては神々の世界の戦いに翻弄され続けているのです。」

 ウダヤ師はうなずいて言った。

「ヨシュタ、そなたの気持ちはよく分かった。だがな、ヨシュタ。前にそなたが言っていたムチャリンダとの戦いなどあまりにだいそれた話だ。」

 しかし、ヨシュタは諦めなかった。

「ウダヤ様。ある意味では、地上の者たちはすべて神々の戦いの犠牲者なのではありませんか?この度の戦いだとて、結局は神と神の戦いの場に過ぎませんでした。その戦いに巻き込まれ、神々の織り成す策略に欺かれ、無益な堂々巡りが続いているとしか言えません。その戦いの呪縛から逃れる道は一つしかないのでないでしょうか。それは、創造を破壊しようとするムチャリンダを倒し、宇宙に真理の道を再生させることではないでしょうか。ムチャリンダを倒すより他に、人間の魂の真の幸福を実現するすべはないのではありませんか?」

 ウダヤ師が何か言いかけたが、ヨシュタはそれをさえぎって続けた。

「私は、このままこの国のことだけを考えても、どうしようもないことを悟ったのです。この世はなんと矛盾に満ちた世界であることか、それを私は痛感しています。善人や正直者が辱められ、悪人が得をする。無知なる者は無知と欲望とに駆り立てられ、己の感覚の虜になりさがっている。食に対する欲望、異性に対する欲求が人々を支配しています。そして、知恵あるものは、彼らを籠絡し、己の私利私欲のために己の努力の多くを傾けている。それがこの世界の現実です。これが神々がお造りになったという世界の生の姿なのです。そして、神々の世界における二元的な力が相争う戦いが地上をしてこのような姿にしているのは明らかです。私はもはや王に留まるつもりはありません。地上に平和を具現するなら、大臣たちがそれをやって行くでしょう。私は先のナソス王の甥にあたるウトヒェガルに王位を譲るつもりです。私は真の平和を具現するため、ムチャリンダを倒す道に歩み出したいのです。それこそが、私がなしてきた数々の過ちに対するせめてもの償いと思っています。」

 ウダヤ師はしばし押し黙った。ウダヤ師にはヨシュタの決意がどれほど固いものかが分かった。仕方なく、決心したようにウダヤ師はヨシュタの方に向き直って言った。

「ヨシュタ、分ったよ。そなたの気持ちは止められぬのかもしれぬな。だが、ムチャリンダを倒すのは至難の技だ。ナユタだとてなしえておらん。」

「分っています。だが、それが使命だと悟ったのです。ウダヤ様、ただただムチャリンダへの道を示唆していただけましたら幸いです。」

 この言葉にウダヤ師は説得を諦め、次のように言った。

「ヨシュタ、そなたの覚悟はよく分かった。道を行くがいい。だが、その道は厳しい道だし、どうやって道が開けるかも分からぬ。わしに言えることは東に道を求めよということだけだ。神界への道はその先にある。ただ、ブルーポールはちゃんともって行くのだ。それだけがおまえの支えとなるだろう。幸運を祈るよ。」

 こうして、ヨシュタはムチャリンダを目指して出立することになったが、天界では、そのことを夢に見たナユタが飛び起きた。ナユタは不安に苛まれ、いてもたってもいられず、マーシュ師を訪ねた。

 ナユタはマーシュ師の顔を見るなり言った。

「ヨシュタが王位を捨て、ムチャリンダとの戦いに赴く夢を目ました。恐ろしいことです。この宇宙を揺るがす一大事になりかねません。」

 マーシュ師はうなずいたが、しかし、くるりと背を向けて言った。

「ナユタ。我ら神といえども、この宇宙の中で意のままになることは極めてわずかしかない。それがこの宇宙の定めなのだ。わしも昨夜、ヨシュタが旅立つ夢を見た。おまえと同じ夢かもしれぬ。この宇宙に再び恐ろしいことが起こることを予感させずにはいられない夢だった。だが、ヨシュタのことは、既にウダヤ師にお任せした。ウダヤ師もこの危険は十分に分かっているはず。だが、ウダヤ師をもってしても、いかんともしがたかったとしか言い得まい。」

「しかし、それでどうなるのでしょう。再び地上は下り坂の道を歩み、この宇宙に混乱が蔓延するのを黙って見ておくほかないのでしょうか。地上の唯一の希望であるヨシュタが、地上の平和の維持のために自らなすべきものを放棄した時、どんな恐ろしいことが起こるか。」

「そうかもしれぬ。だが、おそらく、ヨシュタは真実の光を求めておるのであろう。そして、それがヨシュタの定めなのじゃ。その試みを誰が止めることができよう。」

「たしかに、その通りかもしれません。しかし、これはあまりに大きな賭けです。」

 ナユタはさらに何か言おうとしたが、マーシュ師は再びナユタの方に向き直って言った。

「ナユタ。これはもはや生起してしまっておるのじゃ。生起したものは、我ら神々とて覆すことはできぬ。この創造を巡る戦いはまだまだ先の見えない戦いだ。今は生起したものを見守り、そして、我らにできることを成すだけ。ウダヤ師も近いうちに帰ってこよう。次の道を模索することだけが我らにできることだろう。」

 この言葉に、ナユタは引き下がるほかなかった。

 

 地上では、ヨシュタが王衣を脱ぎ捨て、ウトヒェガルに王位を譲り、ブルーポールを持って旅立った。

 旅立ちの日、宮殿を出たヨシュタは街はずれまで来ると、見送りに来た人々に別れを告げた。

 ウダヤ師はしっかりとヨシュタの手を握って言った。

「決してブルーポールを手放してはなりませんぞ。きっとこのポールがあなたに降りかかるさまざまな危難からあなたを守ってくれるでしょう。」

 ヨシュタがうなずくと、ウダヤ師が続けた。

「ヨシュタ、この先の道に真実の光が差し込むよう祈っておるよ。この旅には幾多の困難が待ち受けておろう。神といえども己の意のままになせることはごくわずかだ。まして、半神にすぎぬおまえには途方もない困難が待ち受けているかもしれぬ。だが、古来から言うように、真理を求める心には羽が生えている。その心とブルーポールの清らかな光だけがおまえを守ってくれよう。」

 ヨシュタは深々と頭を下げて言った。

「ありがとうございます、ウダヤ様。私がこうして旅に出るのもきっと宿世の定め。ただただ、道を進みたいと思います。」

 こうしてヨシュタはブルーポールを持って広野へと旅立っていった。

 

 ヨシュタは広野を歩き、ウダヤ師に教えられたとおり、ただひたすらに日の昇る方向を目指して、七日間歩き続けた。それは誰にも会わない苛酷な旅だった。

 昼は灼熱の太陽が照りつけて喉の渇きでヨシュタを苦しめ、夜は魑魅魍魎どもが野の上を駆け巡っては騒ぎ立てた。八日目になってようやくヨシュタは小さな村にたどり着いた。

 村に近づくと、子供たちが集まってきたが、決してある距離以上には近づいて来なかった。村の中に入って行くと女たちは子供の手を引いてさっと家の中に引っ込んでいった。

 村の中心には小さな祠堂があり、その塔のてっぺんからは四方に綱が渡され、その綱に結び付けられた布が風にはためいていた。

 ヨシュタがその祠堂の前に立つと、一人の男が出て来た。ぼうぼうの髪に破れた衣服をまとい、一目見て行者と分かるいで立ちだった。

 男は言った。

「汝はこの広野を越えてきたのか?」

 ヨシュタは力なくうなずいたが、次の瞬間、その場にへたり込んでしまった。行者は水を持ってこさせ、ヨシュタに飲ませた。行者はそれからヨシュタをそばのあばら家に連れて行き、食事を与えた。

 行者は言った。

「疲れていよう。まずは眠るがいい。聞きたいことはいろいろあるが、それは汝が眠りから覚めてからとしよう。」

 ヨシュタはそのあばら家で眠った。ほとんど一昼夜も眠ったであろう。

 次の日、ヨシュタが目を覚まし、起き出して外に出ると、行者がやってきて問いかけた。

「この地の西に広がる砂漠は死の砂漠と呼ばれ、およそ我らが伝え聞く限り、この広野を越えて来た者は未だかつてない。いったいこの広野を越えてきた汝は何者か?そして汝は何のために、この広野を越えて来たのか?」

 ヨシュタは答えた。

「私は広野の向こうの都市レゲシュからやって来ました。目的は、真理を解き明かし、神への道を見いだすため。神への道は遥か東方にあると聞き、ここまでやって来たのです。」

 行者は首を振った。

「だが、ここに来たとて何もない。こんな小さな村と崩れかけた祠堂があるだけだ。そして、この先に道はない。それゆえ汝が求めるものは得られるはずもない。帰還されよ。我らが水と食料を用意しよう。この広野は死の砂漠と言われてきたが、来ることができたのであれば、帰ることも可能であろう。」

 しかし、ヨシュタはそれには同意せず、次のように言った。

「私は過去を捨ててきました。それはこの世のこと、つまり、現世を捨ててきたということです。一旦それを捨ててきた者がどうして再び戻りたいと願うでしょう。私にはただこの道あるのみなのです。」

 そう言うとヨシュタは持ってきたブルーポールを袋から取り出した。するとブルーポールは青い光を放ち始めた。

 行者の目は異様に光った。

「これはブルーポールと言い、私が生を受けてこのかた、私を守り続けてくれました。私がなぜこの広野を越えて来れたのか、それは私には分りません。だが、このブルーポールの加護があったのは間違いないと思っています。」

 行者は上ずった声で訊いた。

「そのブルーポールの由来は?」

「このブルーポールは神に由来するもの、世界の創造を護るために授けられたものと聞いています。」

 それを聞くと行者はじっと目を閉じて沈黙を続けたが、やがて目を開けるとヨシュタをじっと見詰めて言った。

「世界は、神々によって造られた。だが、神々は創造の開始以来、二手に分かれて争いを続けておる。その争いの源が何なのかは、わしら人間には分からんが、少なくとも一方の勢力が世界を破壊しようとしていることだけは確かじゃ。そして、もう一方の勢力はブルーポールをもって世界を維持していると言われている。」

「私のもっているブルーポールはそのうちの一本で、ウダヤ師という神から授かったものです。」

「そうか。ブルーポールは全部で七本あると言われており、七本すべてを揃えたとき、世界を完全に破壊するか、それとも世界を完全に救済することができるというがな。」

「私はこの砂漠の向こうの都市で、ブルーポールをもった何人もの神に出会いました。そして、私は、世界を混乱に陥れようとする神と戦うために、神界への道を探しているのです。」

「して、その神の名は?」

「ムチャリンダです。」

 ムチャリンダという名を聞いたとたん、行者の顔色は変わり、毛が逆立ち、ほおが震えた。

「ムチャリンダ!」

 鸚鵡返しにそうつぶやくと、行者はしばし口をつぐんだ。しかし、気息を整えると、落ち着いた口調で語った。

「わしがこの祠を守っているのには訳がある。わしは、先祖代々ある言い伝えを受け継いでおる。言い伝えは言う。紺碧の光を放つ一本のポールを持ちて、その者、広野を越えて西よりいずる。その者、いにしえからの約定に従い、神への道を登りゆく、ムチャリンダを求めて、とな。まさにそなたのことじゃ。」

 そう言うと行者はヨシュタを祠の中に導き、そして言った。

「そなたは真理を解き明かすため、神への道を見い出すために広野を越えて来たと言う。残念ながら、わしは真理は知らん。だが、神への道なら存じておる。それを教えてしんぜよう。」

 次の日からその行者を師と仰いで教えを請う日々が始まった。

 導師は語った。

「曼陀羅をそなたに教えてしんぜよう。これが、世界を突破する秘密じゃ。曼陀羅こそ、我らの世界と神界とを結ぶものなのじゃ。」

 導師はヨシュタに砂を使って曼陀羅を描くことを教えた。砂曼陀羅の修行の始まりだった。それは厳しくまた難しかった。

 朝、夜明け前に起きて、神々への祈祷を上げ、一杯のバター茶をすすってから、砂曼陀羅を描く。気息を整え、小さな領域毎に砂を埋めてゆく。昼は薄暗い堂内で窓からのかすかな光を頼りに描き、夜は蝋燭の炎で描く。三日間不眠不休で心身共に疲れ果てたころ、やっと砂曼陀羅が完成する。しかし、完成すると、導師は一段と高い祈りを捧げ、その直後に足で砂曼陀羅を払って消してしまう。

 何ヶ月もその繰り返しだった。そして、ようやくヨシュタが一人で砂曼陀羅を描けるようになると、導師はヨシュタに問いかけた。

「曼陀羅の世界も広大無辺だが、この世界も広大無辺。その広大な世界の中のどこに真理があるか、おまえには見えておるか。」

 ヨシュタが首を横に振ると、導師は続けた。

「わしは若いころ、南の都の大学で学んだ。そこでは多くの者どもが真理という言葉を用いて語っておった。だが、それは真の真理ではなかった。自分たちが生きているこの現実を肯定し、現実の幸福を支える基盤として真理が語られていた。また、歴史的に、あるいは民族的に、はたまた個人的に規定されたそれぞれの精神を肯定するために、さらにはその精神が目標とするものを明示するために真理が語られていた。いずれも、目的に合わせた真理が語られているのだ。しかし、それは真理ではない。ほんとうの真理はいかなる目的も持っていない。」

 導師はさらに言葉を続けた。

「ヨシュタ、もうひとつ大事なことは、真理は神秘的なものともかけ離れているということだ。神秘的な事柄は我々の眠りの門から心に入り込み、想像力の窪に住み着き、疑念の嵐が起こるのを待って我々の心を支配する。あたかも、真理を指し示すがごとくにだ。だが、それは真理ではなく、神秘的なものが心の弱った者、物事の本質を見抜く力を失った者を屈服させただけなのだ。ある意味、それが宗教の本質だと言ってもいい。」

「たしかにそのとおりかもしれません。では、ほんとうの真理への道はどこにあるのでしょうか。」

 導師は答えた。

「ヨシュタ、世界は三つの層によって形成されている。第一の層は目覚めている層で、ものごとの経験に基づく。太陽の光によって照らし出され、万人に共通する硬質で粗野な領域だ。その下に、第二の層として、夢の領域がある。自ら光を発し、世界の繊細で微妙な響きと同化する層だ。そしてさらにその下には第三の層として、夢見ることなく完全な至福の領域がある。そこでは一切は万物の起源と渾然一体の状態で存在している。」

「私の道はどの層とかかわっているのでしょうか?私は、現実の世界に絶望し、神々にも失望し、ただただ、この世界の構図に思いをいたし、究極の戦いとして神との戦いを求めてここまでやってきました。」

「そのとおりだ。よく分かっている。汝が捨ててきたという現世はまさに経験によって物事が捉えられる第一の層にあたる。そして汝が目指しているムチャリンダとの戦いはまさに第二の層の領域だ。ここは第一層と第二層の境界にある。そして砂曼陀羅を描く行為は、第三の層への道を指し示している。よいか、現在への不満、この世界の構造への不満に起因する激情を神にぶつけようとしても、そのようなものは広大無辺な世界を闊歩する神の前では無力以外のなにものでもないだろう。神界への道が開けることもないだろう。」

 この不思議な対話の数日後、導師はヨシュタを祠堂の後ろにそびえる山に連れていった。そこからは、ヨシュタが越えて来た西の広野や祠堂の回りに広がる村の家々が見えた。導師は東を指して言った。東には大きな湖が広がっていた。

「そなたが言ったように、神への道は東にある。そなたは修行を完遂した。わしが教えるものはもはやない。だから、わしは、伝え聞いてきた秘密をそなたに話さねばならん。昔、ひとりの神がこの地に降り立った。その神は一枚の粘土板を授けた。そこには、一切の真実が刻まれているという。そして、いつか、西の方よりムチャリンダを求めて一人の男がブルーポールをもってやって来たら、その者にそれを授けよと言ったという。」

 そう言うと導師は袋から一枚の粘土板を取り出した。

「この粘土板の中央には世界の構造が描かれておるという。そして、その周囲には世界を突破するための聖なる呪文が刻み込まれておるそうじゃ。だが、その神はそれ以上は何も教えてはくれなかったそうじゃ。だが、そなたがこれをもって神界への道を登って行くなら、きっと謎も解けよう。」

 導師は粘土板をヨシュタに手渡して続けた。

「明日の朝早く、出立するがいい。おまえの目指す道はあの湖の向こうじゃ。小船に乗ってきっちり三日、真っすぐ東へ進むのじゃ。向こう岸に着いたら、風のない満月の夜に丘の上に登り、砂曼陀羅を描き、その中心にこの粘土板を置くのじゃ。そして、朝日とともにわしが授けたマントラを唱えなさい。その先のことはわしにも分からん。だが、きっと道は開ける。そなたの道は言い伝えに語られているとおりに、いにしえより定まっておるのじゃ。」

 次の日の朝早く、ヨシュタは導師とともに湖のほとりにやってきた。そこには小さな船が一艘用意されていた。

「さあ、この船で行くがいい。そなたに別れるのはつらいがな。そなたが来て、わしは初めて自分と心の通じ合う者に会った気がする。血を分けた親子のようにな。それがこの短い滞在だけでまた去って行くのを見送らねばならんのはなんともつらいが、これも定められておるのじゃろう。」

 ヨシュタがそれに答えて何か言おうとしたが、導師はおしとどめて言った。

「何も言うな。言葉にすれば、すべては真実でなくなる。わしはそなたの心の内の真実だけを見つめていたい。黙って行くがいい。そなたには定められた道がある。」

 そう言って導師はヨシュタを送り出した。船が岸辺から離れて行く間中、導師はヨシュタに手を振り続けていた。

 船は穏やかな湖の上を滑っていった。夜になると満点の星空だった。ヨシュタは天に感謝を捧げた。するとレゲシュに残して来た者たちのこと、ナユタやシャルマのこと、そして教え導いてくれた導師のことなどが頭の中を駆け巡った。しかし、心は落ち着いていた。心は澄みきり、一切が鳴り止んでいた。

「おれの人生は喧噪の人生だった。今日のように、心静まり、心の内に平安を感じたことはついぞなかった。戦いがおれの人生のすべてだった。そして知恵の言葉だけを口にする導師に出会い、永遠の真実への端緒を掴んだ。しかし、今もまた神との戦いに赴こうとしている。だが、それもまた良い。すべては定められているということが今日よく分かった。」

 心地よい疲れがヨシュタを包んだ。そうして三日三晩の船旅の末、導師が言ったとおり、向こうの岸辺が現れた。夕日が湖の向こうに沈もうとし、山が夕日の輝きに照り映えていた。美しい光景だった。回りは森に囲まれており、人の気配はどこにもなかった。

 しかし、ヨシュタが岸から上がって森の中を歩いてゆくと、突然ひとりの老人が現れた。

 老人はびっくりしたような表情でヨシュタを見つめ、語りかけた。

「どうしなすった。ここは生きた人間の来るところではないが。」

 ヨシュタもびっくりして老人を見つめ返したが、言葉が出なかった。すると老人は言葉を続けた。

「ここは世界と世界でないものとを隔てる領域、言ってみれば、神界と下界とを隔てる場所。ここには我らのような、神でもなくさりとて下界の存在者でもない少数の者たちが住んでおる。おまえさんがどういう事情でここに来たかは知らんが、ともかく、わしの家に泊まるがいい。こんなところで夜は越せないからな。」

 そう言って、老人は先に立って向きを変え、森の中の道を歩いて行った。しばらく老人について歩くと、森の中に小さな家があった。老人はヨシュタを家の中に招き入れた。

 家の中に入ると、台所の若い娘がこちらを振り向いた。びっくりしたことに、それはウルヴァーシーだった。

「ウルヴァーシー。」

 そうヨシュタはつぶやいたが、びっくりしたのは娘のほうも同じだった。彼女は声もなく突っ立ったままで、老人とヨシュタを交互に見つめた。

 老人は言った。

「びっくりしなくていい。下界からやってきた人じゃ。おまえは、わしらのような姿かたちをしたものは、我々と神々だけと思っておったろう。だが、実は、この世界にはもうひとつ、下界と呼ばれている世界がある。そこには我らと同じような姿かたちをした者が無数に住んでおる。そして、この方はその世界からやって来られたようなのじゃ。」

 そう手短に説明した後、老人はヨシュタに向かって言った。

「わしはウルシャナビという。そしてこの娘はウルヴァーシー。わしの孫で、ここではふたりで住んでおる。」

 老人はヨシュタを囲炉裏のそばに座らせて、くつろがせた。老人はヨシュタにゆったりした服を着せてくれ、娘が暖かい食事を出してくれた。

 夕食後、ウルシャナビはヨシュタと娘に向かって話し始めた。

「何から話をすればよかろうかの。おまえさんがここへどうして来たのかも聞かねばならん。ただ、おまえさんが下界からやって来たことだけは一目見て分かったよ。おまえさんには神々のもつ発光がないからじゃ。だから、下界の者とすぐ分かった。だが、今日、おまえさんが来たのはきっと定めなのじゃろう。ずっと以前、神が来てわしに言ったことがある。いつか人間がここにやってくる。その者は神の領域に踏み込むだろう。彼を妨げてはならぬ、とな。きっとそれがおまえさんなのじゃろう。」

 ヨシュタはここに来たいきさつを話した。そして話が導師のくれた粘土板のことに及ぶと、老人の表情が変わった。

「その粘土板を見せてくれ。」

 ヨシュタがそれを見せると

「こ、これは。」

と言ったきり、老人は言葉に詰まってしまった。

 しばらく間をおいて、ようやく老人はゆっくりしゃべり始めた。

「この粘土板の中には、一切の真理が詰め込まれている。世界の構造と、神界への道と、無数の叡智が書き込まれており、世界を突破するための呪文が刻み込まれておる。わしはこの粘土板をある神から授かった。ヴィカルナという神じゃった。」

「それは、ヴィカルナ聖仙のことですか?」

{そうじゃ。そして、その神は言った。いまにここにムチャリンダという破壊の神がやって来るかもしれぬ。だが、その者にこの粘土板を渡してはならぬ。地上に避難させよ、とな。そしてムチャリンダを求めてブルーポールをもってやって来た者にそれを授けるように伝えよ、とな。それでわしは湖の向こうの下界の小さな村で祠を護る行者にこの粘土板を渡し、ムチャリンダを求めてブルーポールを持ってやってくる者にこれを渡すように言ったのじゃ。」

「そうですか。私が立ち寄ったのがまさにその小さな村なのですね。」

「そうじゃ。しかし、だとしたら、わしは神界への道を教えねばならん。それがヴィカルナ神から仰せつかったことだからな。」

 そう言うと、ウルシャナビはヨシュタとウルヴァーシーを連れて外に出た。木で囲まれた空の上に星々が光っていた。風がひゅうひゅうと鳴っていた。

 老人は黒い大きな山脈が見える方角を指さして、言った。

「あの山の向こうにおまえさんの目指す世界がある。ここは神が神界と人間界とを行き来するための通路なんじゃが、ここを神以外のものが通ったことはかつてなかった。だが、おまえは定められておるのじゃろう。この山の稜線で満月の夜に砂曼陀羅を描き、その中心に粘土板を置くがいい。そして日の出とともにマントラを唱えるのじゃ。すると神が問いを発する。ここを通る人間がいなかったので、彼は今まで問いを発したことはないのだが、彼は問いを発することになっている。十二の問いだ。それに答えるのだ。答えに詰まれば、そこでおまえは追い返されることになる。明日の夜は満月じゃ。明日の朝、出立すればよかろう。」

「分かりました。導師はマントラを唱えた後のことは教えてくれませんでした。明日の朝、出発させていただきます。ほんとうにありがとうございました。」

 いよいよ神界への道を進むときが来たのだった。そう思うと、その夜、ヨシュタはなかなか寝つけなかった。ふとドアの方に目をやるとそこに誰か立っていた。ウルヴァーシーだった。彼女のほっそりした肢体が月明かりにくっきりと浮かび上がっていた。彼女は微かにほほ笑み、まるで、天女のような軽やかさでヨシュタのベッドにもぐりこんだ。

 それはかつてのウルヴァーシーそのものだった。ウルヴァーシーの柔らかでふくよかな肉体の魅力にヨシュタは抗し切れなかった。ヨシュタはウルヴァーシーの薄い衣服をはだけ、彼女の胸に顔を埋めた。とたんに、あのとき一度だけ彼女を抱いたときのことが鮮やかに脳裏に蘇り、なまめかしい、不思議なまでに陶酔的な感情が心の中一杯に広がった。それはヨシュタがこれまで経験したことのない陶酔の一瞬だった。

 ヨシュタの股間の男根は一気に硬化してそそり立った。ヨシュタはウルヴァーシーの豊かで柔らかな乳房を揉みしだき、唇を合わせた。ウルヴァーシーの口から喘ぎ声が漏れると、ヨシュタはすべすべした腹や尻など全身をなで回し、乳首を口に含んで強く吸った。なめらかな肌の肉感と乳房の柔らかさを心ゆくまで味わい、さらにウルヴァーシーの股間に手を伸ばすと、女陰は既にしっとりと濡れており、ウルヴァーシーの声はよがり声に変わった。

 ウルヴァーシーはヨシュタの男根に手を伸ばすとそれを口に含み、亀頭を舐め回した。ウルヴァーシーの潤んだ目が、彼女が何を望んでいるかを語っていた。

 ヨシュタの思いを阻むものはもはや何もなかった。自らの陰棒をウルヴァーシーの陰唇に挿入すると、膣の内側のひだひだに己の亀頭がこすれる快感がこの上なかった。ヨシュタが陰棒を激しく出し入れするとウルヴァーシーの愛液が溢れ、二人の興奮は最高潮に達した。甲高い喜びの声を上げるウルヴァーシーの中にヨシュタは己の白い精を思い切り解き放った。それはまさに、心と体との完全なる結合、至福の喜び、一切が消えてなくなる点における究極の歓喜であった。

 ヨシュタは完全な喜びに満たされた。彼の生の一切、彼の存在の一切がその時点で消えてなくなっていた。ヨシュタは完全に満たされて眠った。その夜の眠りははるかなる子供時代以来の遠い過去に置き忘れていたやすらなか眠りであった。それは人間が失ってしまったもの、いや、最初から持ち合わせていないもの、いまだ獲得していないものでもあった。人間はいつも脅え、警戒して生きていた。それゆえ、心が本当の意味で解放され、心の中に真の至福の状態が生み出されるのは極めて希なことであった。

 朝、ヨシュタが目を覚ますと、ウルヴァーシーがうっとりとした表情で彼を見つめていた。ヨシュタも満ち足りた気持ちで、ウルヴァーシーの髪と乳房をなでた。

「私は先に行って食事の支度をしていますね。」

 そう言って彼女はベッドを出た。

 彼女が朝食の用意をし、ヨシュタがテーブルについたとき、部屋のドアが開いてウルシャナビが入ってきた。彼はヨシュタに笑顔で「おはよう。」と言ったが、次にウルヴァーシーに目をやると、突然激しい怒りが顔に浮かんだ。

「なんということじゃ、おまえさんはなんということをしてくれたんじゃ。下界では素知らぬ顔をして黙っておれば済むのかもしれぬが、ここではそうはいかぬ。娘の体から聖なる香りが消えておる。」

 ウルヴァーシーはうつむいたが、きっぱりと言った。

「私は後悔してないわ。昨夜は初めて娘として、女としての喜びを感じたの。」

「それは当たり前じゃ。おまえは神を喜ばせるために存在しておる。いつか神が来ておまえと交わり喜びを得るはずじゃった。そしてそれと引き換えにここでの暮らしを約束されておるのじゃ。だからおまえは悦楽の喜びを味わい、また相手に味合わせることのできる存在なのじゃ。しかし、下界の人間と交わっては、もはやおまえの一切の魅力は消え落ちた。神はおまえを抱かぬだろう。そしてヨシュタ。おまえに対するわしの怒りは決して消えぬ。おまえのもっとも大事な瞬間に、おまえの心は鈍るだろう。」

 そう言うと、ウルシャナビはヨシュタを追い出した。ヨシュタは仕方なく、ウルシャナビの家を後にした。そして、神界への道についてウルシャナビが語った通りに一人で歩いて行った。

 道は遠かった。山は目の前にそびえているのに、そのふもとにたどり着くまでに何時間もかかった。ふもとで一休みし、そばの川で水を汲み、昼近くなってようやく山を登りはじめたが、道は至るところにごつごつした岩の飛び出した細い道で、登るのに骨が折れた。

 中腹まで登ると、強い風がごうごうと山の上から駆け降りた。黒い稜線を越えた鳥があっというまに下のほうに飛び去った。

 苦しい登り道だったが、引き返すことはつゆほどにも考えられなかった。神界への道を登るほかはないのだ。岩の間をヨシュタは一歩一歩登り続けた。へとへとに疲れ、ようやく稜線に出たときには、日は暮れ、空には星が光り始めていた。向こうにはさらに幾重にも黒い山々が延々と連なっていた。

 月が出て、あたりは意外なほどに明るい。誰もいない世界の沈黙、無言の岩々、それはいくらか不気味でもあり、けれど心を洗うような静けさだった。

 すべての存在者が朗々とした超越的な微笑みをたたえ、静かにヨシュタを見下ろしていた。何者にもたじろがず、淡々とすべてを受け入れる至高の存在者たちだった。

「おれの人生は、いつも神と人間に取り巻かれ、そして神と人間に翻弄され続けた。」

 そう、ヨシュタはつぶやいた。なんと人間は、人間自身と、人間が作り出したものどもと、そして神々によって翻弄されているのだろう。ヨシュタは改めてそのことを噛み締めた。

「もし、おれに本当は自由があるというなら、これからどうするか、おれは自由に決心するべきだ。だが、おれは自由ではない。おれは、人間としての使命に縛られており、神の世界への道を歩き続けねばならないのだ。そして、人間とおれ自身のために、神との戦いを挑まねばならないのだ。」

 月明かりは煌々と明るかった。星たちは美しいリズムで運航を続けた。一本の枯れた立ち木が大きく手を広げ、月の光をさんさんと浴びていた。沈黙の限りなく透明な精神がそこにあった。

 その美しい光景に不思議なまでに心を満たされ、ヨシュタは一心不乱に砂曼陀羅を描いた。丹念に心を込めて描いた曼陀羅が完成すると、その中心に粘土板を置いた。

 もうすぐ夜明けだった。東の空が赤く染まり始めた。日の出前の静寂の中にたたずむ山々の端正な表情が心を打った。そして、西方に連なる峰々に日が差し込み、稜線が赤く染まった。空には透けるような青さが広がっていった。

 東の空から日が昇った。世界が光でにぎわい、あらゆる存在者が光の中で楽しげに踊った。世界は明るかった。絶対者が無言で起立する朗々たる沈黙だった。

 どこからか荘厳な響き、暗い深淵から浮かび上がってくるような響きが聞こえてくるように思えた。それははてしなく朗らかな澄んだ響きで、黒い山の沈黙によく調和した。沈黙が沸き返っているのだ。光が荘厳な音楽を奏でているのだ。すべての存在が、捉われることのない沈黙と淡々とした笑いを湛えているのだ。

 暁が夢想状態を切り裂いた。ヨシュタは創造の新たな方向に向かっていた。一つの啓示であった。

 ヨシュタは導師より授けられたマントラを唱えた。すると荘厳な一つの声が言った。

「歩め。」

 ヨシュタは稜線を歩き始めた。一切の苦しみは去り、朗々と心を楽しませながら、ヨシュタは稜線を歩いていった。幾つかのピークを越え、幾つかのコルを過ぎてゆくと、目の前にひときわ高いピークが現れた。だが、そのピークはすぐに雲にかき消え、どこが頂上か見えなかった。ヨシュタは、これが、神界への入り口に違いないと確信した。登ってゆくと、視界は霧で遮られ、自分のすぐ回りしか見えなくなった。それでもヨシュタは登り続けた。

 突然、稲妻のような声が聞こえた。

「止まれ。誰だ。わしの領域に入って来る者は。」

 神の声に違いなかった。

「ヨシュタと申します。私は人間ですが、ムチャリンダを求めてやってきました。」

「そうか、それに対して、わしが判断することはできぬ。だが、わしはわしの務めとしておまえに十二の問いを発せねばならぬ。わしは存在し、存在しない。さあ、わしの問いに答えるがいい。もし、答えることができたなら、道が開けるだろう。」

 次の瞬間、大地に突き刺さるような猛々しい響きで問いが発せられた。

「世界でもっとも速いものは?」

 ヨシュタは大声で答えた。

「それは意志。意志はいかに遠くのものでも、瞬時に射抜くことができる。」

「では、もっともゆったりしたものは?」

「一瞬。一つ一つの一瞬は、すべてが永遠をもっている。」

「世界でもっとも美しいものは?」

「虚無。何もないこと以上の美しさはあり得ない。何かがあることによって美しさが崩れる。」

「では、もっとも醜いものは?」

「愛。愛はすべての憎悪と争いの源。一切の愛の消滅するところ、いかなる醜さも発現のしようがない。」

「世界でもっとも移ろいやすいものは?」

「心。心は常に揺れ動き、何かにとどまるということがない。」

「悲しみとは?」

「自分自身を知らないこと。無知からあらゆる悲しみが紡ぎだされる。」

「では、喜びとは?」

「自分自身を忘れること。忘却の上にだけ、喜びは成り立ちうる。」

「空間とは?」

「閉ざされた領域。空間に縛られた存在者は、決してそこから抜け出すことはできない。」

「神よりも貴い者は?」

「小さな虫たち。いかなる神といえども、彼らほど無垢にはなりえない。」

「神すらも知り得ないことは?」

「ダルマ。誰にも知られ得ない真理こそダルマである。」

「宇宙はいつ始まった?」

「今の時間の裏側から。」

「では、最後に聞こう。その宇宙はいつ終わる?」

「いつでも。望まれたときに宇宙は終わる。」

 十二番目の問いにヨシュタが答えると、天空から何者かの声が聞こえた。無の領域から降り注いでくるかような声が響き渡った。

「私はダルマ。一切を包括する者。何ものをも包括しない者。一切の根源。そして一切の帰結。さあ、道を進んでみるがいい。そこにはすべてがあり、そして何もないだろう。」

 声が消えると、霧が急速に晴れた。黒い岩が張り出した道が続いていた。ついにヨシュタは神界に足を踏み入れたのだった。

 

 ヨシュタが神界に足を踏み入れたことは、すぐにすべての神々の知るところとなった。ユビュはたいへん心配してナユタに言った。

「ナユタ。創造が始まって以来の出来事が起こりました。創造そのものが膨れ上がり、神の世界も地上の世界もみな震えています。ヨシュタのことも心配ですし、神々の世界のことも心配です。」

「たしかにそのとおりだ。だが、私たちにはどうすることもできない。ヨシュタは地上での平和に満足せず、私たちの制止を振り切って神界への道を進んだのだ。美しい歌が美しい結末を呼び起こすかどうかは分からない。ものごとの原初にははかり知れない秘密があるものだ。」

「でも、ナユタ。このまま傍観していて良いでしょうか?私たちにできることはないのでしょうか?」

「そうだな、ユビュ。ウダヤ師とマーシュ師にもう一度相談してみよう。」

 ふたりはそろって、ウダヤ師とマーシュ師を訪ねた。マーシュ師はふたりを見るなり言った。

「とうとうヨシュタは神界へ足を踏み入れたな。自ら意志をもつ人間として神界へ足を踏み入れた初めての者だ。」

 ウダヤ師も言った。

「わしは、ヨシュタには地上で平和な余生を送らせてやりたかった。なんとか、彼を無事地上に送り返すことができるならと思うが、ヨシュタはムチャリンダを倒し、宇宙全体の秩序を変えるまでは決して引き返さないだろう。だが、それはとてつもなく困難なことだ。ナユタとユビュですら未だなしえておらぬのだからな。ただ、一つの希望は、神界では、神以外の者を武器で倒してはならぬという掟があることだ。その掟のゆえに、ヨシュタはナユタより力があるとも言える。」

「それでは私たちはどうすれば良いのでしょう。」

 そう問いかけるユビュにマーシュ師が答えた。

「このことについてはウダヤ師とも相談したが、わしとウダヤ師のふたりで、ヨシュタのもとへ行こうと思う。何ができるかは分からぬがな。」

「そうしていただけるなら、こんな心強いことはありません。」 

 ユビュはそう言って顔をほころばせた。

 こうしてマーシュ師とウダヤ師はヨシュタのもとへ向かった。

 神界を進むヨシュタの前に、マーシュ師とウダヤ師が現れた。ウダヤ師の姿を見ると、ヨシュタは、ひざまずいて挨拶した。

「これはウダヤ様。」

「ヨシュタ。久しぶりだな。こちらにおられるのは、宇宙の賢神のひとり、マーシュ師だ。」

 ヨシュタは、マーシュ師にも丁寧に頭を下げた。マーシュ師はゆっくりと語り掛けた。

「汝のことはよく知っておる。たいへんな難関辛苦を経てこの地までたどり着いたこと、そして、地球を救うためにムチャリンダに挑もうとするその心意気、いずれをとっても、神にも優る行為だ。だがな、ヨシュタ、ムチャリンダに勝つことは途方もなく難しい。汝も既に知っておるかもしれぬが、かつてナユタやユビュが全身全霊を傾けて戦ったにもかかわらず、最終的な勝利を得ることはできておらぬ。汝ひとりの力でムチャリンダに挑むのはあまりにも無謀。わしはそれを思いとどまらせようとして来たのだ。」

「ありがとうございます。マーシュ様。私のことをそこまで気にかけて下さるお気持ち、そして冷静にして適確なご忠告、本当に痛み入ります。しかしながら、私としては、創造された人間として申し上げねばなりません。もし、私が神であったなら、おそらく私はマーシュ様のご忠告をありがたく聞き入れ、戦いを避けて来た道を戻ってゆくでありましょう。しかし、私は創造された世界において、神々の時間からすれば、ほんの瞬きの時間ほどでしかない一瞬の人生を生きる人間に過ぎません。その一瞬の時間の中で、もし、私が引き返して地上で余生を送ったとしてもそれがいかなる意義を持ちえましょうか。それはただの浪費であり、無意味な時間を更に積み重ねることにしかなりません。私が成すべき事は、もはやムチャリンダとの戦い以外にはないことを私は悟ったのです。ムチャリンダを倒し、宇宙と地球に真の平和を実現するという可能性に賭けることこそ、私のなすべき最後の使命と悟ったのです。仮にそれに敗れたとしても、地上で余生を送ることがそれよりましであるとは思えません。」

「たしかに、ヨシュタ、汝の言うことには重みがある。だがな、ヨシュタ、わしには勝てる可能性があるとは思えぬ。ヴィカルナ聖仙の神器をもつナユタですら、勝利を収め得ておらぬ。それに、地上において平和を守ることは大切なことではないかな?神界では、ムチャリンダとナユタの戦いが続いておる。そしてその形勢は神々の趨勢にかかっておるわけだが、神々が注目しているのは、まさに地上での出来事だ。創造された者たちの世界が、創造に値するものか、それとも打ち壊すべきものか、それを多くの神々が見定めようとしている。その意味では、地上に混乱と恐怖を引き起こそうとしたバドゥラを汝が倒した意義はまことに大きい。だが、地上では完全な平和が具現されておるわけではあるまい。そこに汝が意をかけるべきものがあるのではないかな?」

「たしかにおっしゃることはよくわかります。しかし、そのバドゥラとの戦いで私が学んだことは、そのような局地戦、神々の目から見ればまさに局地戦というべきものと思いますが、その局地戦の勝利を積み重ねることが、最終的な勝利からみれば、はるかに遠いものでしかないことを思い知らされたのです。それが、わたしをして神界へと旅立たせたのです。」

「だが、ヨシュタ、どんな巨大な建造物もひとときではできあがらぬ。すべては最初の一つの石を置くこと、そして、次の石を積み重ねることから始まるものだ。道は一歩一歩歩まねばならぬ。」

「マーシュ様。しかし私に残されている時間は多くはないのです。その時間の中で、何をなすべきかを考えねばなりません。」

「それはしかし焦りだよ、ヨシュタ。」

「そうかもしれません。しかし、私には、そうするより他に道がないのです。」

 そのヨシュタの言葉に、マーシュ師はしばし沈黙し、持ってきた包みを取り出しながらヨシュタに言った。

「もはや、これ以上は言うまい。最初にも言ったが、汝の心意気は比高なきものだ。だが、このままでは決してムチャリンダに勝てぬ。わしにはそれがよく分かっている。だから、これをもってきた。」

 マーシュ師が取り出したのは、ブルーポールだった。遠く地平線上まで神々しいまでの青い光の束が投影された。ヨシュタは目をみはり、

「それは、ブルーポールでは?」

と絶句した。

 マーシュ師は続けた。

「ヨシュタ、汝も知っておると思うが、このブルーポールは現在のこの世界が創造されたとき、神々の父ヴァーサヴァが世界を守るために作り出したものだ。全部で七本あり、このブルーポールには宇宙のダルマが吹き込まれておる。このブルーポールをもつ者が、真摯で清い心を持つかぎり、ブルーポールは無限の力を発揮する。ムチャリンダとの戦いにはなくてはならぬものだ。わしのブルーポールの叡智を汝のブルーポールに注ぎ込むために今日はやって来たのだ。」

 そう言うとマーシュ師はヨシュタにブルーポールを取り出させた。そして、ヨシュタのブルーポールに自らのブルーポールを重ね合せ、その真智を注ぎ込んだ。ヨシュタのブルーポールは目もつぶれるほどの輝きを発し、その光は遠くマーシュ師の館やムチャリンダの城でも眩しいほどの輝きであった。

 ヨシュタはあまりのことに声を失って頭を下げた。

「汝は神々の秘密を分かち合った。その秘密は永遠の真実を獲得する者の耳にささやきかけるだろう。さらばだ、ヨシュタ。」

 マーシュ師はこう言って、ウダヤ師とともに姿を消した。

 館への帰り道、マーシュ師はウダヤ師に静かに語りかけた。

「これで良い。だが、ヨシュタはムチャリンダを倒せぬ。最後の瞬間、ウルシャナビの呪いがヨシュタの道を阻むだろう。」

 ウダヤ師も答えて言った。

「その通りですな。ウルヴァーシーとの交わりがすべての可能性を消し去るだろう。だが、それもすべては定め。」

 ふたりは目を合わせてうなずくと、もはや何も考えず、館への道を急いだ。たそがれがふたりの道に覆いかぶさっていた。

 

 一方、ムチャリンダの館でも神々が神界への道を歩くヨシュタを注視していた。イムテーベはムチャリンダに言った。

「いかなる神も人間を殺してはならないという聖なる掟はナユタがバドゥラを倒したことによって破られました。しかし、神界にはなお、神以外の者を武器で倒してはならないという掟があります。その掟がある以上、ムチャリンダ殿を倒すためやってきたヨシュタはたいへん危険な存在です。」

 ギランダが言った。

「ヨシュタを倒すわけにはゆきません。ですが、手がないわけではありません。まず、私が参りましょう。」

 そう言うとギランダはヨシュタのところへ向かった。

 ギランダはヨシュタの前に現れると、居丈高に叫んだ。

「ここは神界ぞ。誰の許可を得てここまで来た。」

 ヨシュタは答えた。

「私はヨシュタと申す。ムチャリンダへの道を歩いているだけだ。」

「そのような大それたことは神々とて考えん。神でもないおまえがそんなことを考えるとは笑止千万というものだ。」

 ヨシュタはギランダを無視して行こうとしたが、途端に足が前に出なくなった。ギランダはあざけりの笑いを浮かべて言った。

「私は、神の中の神、ギランダだ。私を無視して通り過ぎるなど、神々でもできはすまい。いわんやおまえのような人間にそんなことができようはずもない。」

 だが、ヨシュタはひるまなかった。

「何のために、そんなことをする。それによっておまえにいかなる利益があるというのか。無意味な見栄のために私を足止めしようなどとは神にもあるまじき愚かな了見と言わねばなるまい。」

 この罵倒にギランダは顔を真っ赤にして怒りを表した。しかし、ヨシュタは平然と言い放った。

「おまえは善の神かそれとも悪の神か。少なくとも善を嘉する真実の神ならば、怒りをおさめ、真実を語ることによってのみ正義を宇宙の中に具現すべきであろう。戦いを避け、相手の足を止めて妨害するだけなど、神としての行為として恥ずかしくはないのか。おまえが真実の神なら、私を止めているこの足かせをほどき、私に自由に歩ませるがいい。」

「ヨシュタ。よく言った。たしかにおまえの言葉は真実を突いている。おれはおまえに無益な戦いをさせぬためにおまえの足を止めたが、そこまで言うなら、おまえの足は今から自由となる。だが、おまえの前には打ち破りがたい戦いが待っているぞ。道は容易ではない。おまえはきっと道を進むことを後悔し、断念するだろう。」

 そう言うと、ギランダはたちどころに消えて立ち去った。

 自由になった足でヨシュタが歩を進めると、空はにわかにかき曇ってきた。厚い雲が低く迫り、激しい稲妻が光り、雷が鳴った。そして空からはとてつもなく恐ろしい龍がヨシュタを目掛けて降りてきた。荒々しい叫びと共に、龍の八本の首が次々にヨシュタを襲った。

 ヨシュタはブルーポールを取り出した。ヨシュタの中に眠っていた戦いの血が目覚め、熱くたぎった。ヨシュタはブルーポールに念じ、渾身の力を込めて戦い、襲ってくる龍の首を次々と打ち倒した。

 八首の龍を退治すると、空には青空が広がったが、荒涼とした稜線に、魑魅魍魎たちが跋扈していた。そして死を背負った者たちが、静かに列を組んで玉砂利の上を歩いてきた。

 ちりん、ちりんと音が鳴った。魑魅魍魎のひとりがヨシュタに近付き、にやっと笑って言った。

「帰りなされ。一切は無だ。」

 ぞっとするような表情だった。立ち尽くすヨシュタの周りに魑魅魍魎たちは次々に集まり、ヨシュタを取り囲んだ。

「消えよ。」

 そうヨシュタは叫んだが、まとわりつく魑魅魍魎たちは離れなかった。

「これはただ、己の邪念の投影でしかない。」

 ヨシュタはそう悟ると、ブルーポールを天に向かってかざして叫んだ。

「一切の完成されたものは消え去るがいい。完成されたものは完成されているがゆえに、存在意義がない。未知なる領域を包含しているものだけが、道を探すのだ。」

 この言葉が発せられると、強烈な風が舞い起こり、魑魅魍魎たちは消し飛んだ。それはギランダの術策が破れた瞬間だった。

 それを見たムチャリンダは立ち上がって言った。

「ヨシュタを人間界に追い返すしかない。おれが行こう。」

 だが、イムテーベは押しとどめて言った。

「ムチャリンダ。それは危険だ。ヨシュタはまさにあなたを倒そうとして神界に乗り込んできている。しかも、ムチャリンダ、いかなる手立てによってヨシュタに対抗できるのか?」

 しかし、ムチャリンダは答えた。

「イムテーベ、貴重な忠告には感謝する。だが、明確なことはただ一つ、これ以上、神界を蹂躙させてはならないということだ。」

 こうして、ムチャリンダはサヌートを伴ってヨシュタのもとに向かった。ふたりはヨシュタの前に立ち現れた。驚くヨシュタにサヌートが言った。

「こちらにおられるのはムチャリンダ神だ。」

「ムチャリンダ。」

 そうつぶやくとヨシュタはブルーポールで身構えた。ムチャリンダもブルーポールを取り出した。

 戦いは容易には決着しなかった。神界では、神でないものを武器によって倒してはならないからだった。

 ヨシュタは叫んだ。

「宇宙の平和を何ゆえにかき乱し、何のために地上に戦いと混乱を巻き起こす。何ゆえに、神々の戦いを人間たちの世界に持ち込むのか。」

「人間は争うようにできている。だからそんな世界は終わりにすべき。それだけだ。」

「しかし、」

とヨシュタは言ったが、ムチャリンダはこう叫んだ。

「不満かな?ヨシュタ、おまえはいったい何を望んでいる?」

「私が望んでいるのは、」

と言ってヨシュタは唇を噛んだ。

「私が望んでいるのは真理だけだ。」

「真理?真理などひとつしかない。消滅し存在しなくなること、それだけが真理だ。」

 そう、ムチャリンダが言った時、遠くからちりんちりんと鈴の音が聞こえてきた。ムチャリンダとサヌートははっとして振り向き、身繕いを正してひざまずいた。ヨシュタは呆然として立ち尽くしたままだったが、見ると、遠くからひとりの行者が鈴を響かせながら歩いてくるのが見えた。

 行者がやって来るとムチャリンダは頭を垂れて言った。

「ヴィカルナ聖仙、ようこそ。このような場所にまで足をお運びいただけるとは。」

 ヴィカルナ聖仙という名を聞くと、ヨシュタはびっくりし、頭を垂れた。ヴィカルナ聖仙はムチャリンダに向かって語った。

「ムチャリンダよ。わしが来たのは他でもない。ヨシュタがここに来ておるからなのじゃ。ヨシュタ、よくここまで来た。褒めてつかわそう。だがな、もっとも尊い神ですら限界がある。人間にはさらに大きな限界があるのは当然だろう。ブルーポールをかざしてこのような地に来ること、それ自身が人間の領分を越え出る不遜の行為だ。そして神に向かって神の行為を非難することは人間には許されないことだ。ブルーポールを置いて、引き返すがいい。汝には、平和な老後を約束しよう。大それたことを思わず、日々を楽しんで生きるがよい。」

 ヨシュタは恐れ慄きつつも勇気を振り絞って言った。

「宇宙の根源に住まわれるというヴィカルナ聖仙にお目にかかれるとはこの上ないことでございます。そして私のような者が聖仙と言葉を交わすなどということは誠にもって恐れ多いことでございます。しかし、私は止むに止まれぬ思いに駆られ、ここまでやって参りました。私は世界の真実、世界の根源、私ども地上の者たちの苦しみの根源を知り、何とかしてそれを救いたいのです。」

「ヨシュタ。それはあまりに大それたことじゃ。たとえ汝が半神半人であるとしてもな。なぜなら、神だとて、なせることには限界があるからじゃ。」

 そう言うと、ヴィカルナ聖仙は一つの物語を語り始めた。

「昔、天界の凶暴な魔神ヴリトラが雲の牛を捕らえ、天空のあらゆる雲を飲み込み、大地がとてつもない旱魃に見舞われたことがあった。何年にもわたって一滴の雨も降らず、湖も川も干上がり、灼熱の太陽がただただ大地を照らし続けた。都市は荒れ、田畑は放棄され、世界の中心であるスメール山の上の壮麗な神々の宮殿も廃墟と化した。

『誰もこの世界を救ってはくれないのか?』

『誰か魔神を倒す者はいないのか?』

 どの神もただ途方にくれ、手立てもなく、ただもがき苦しんでいたが、嵐の神インドラだけは違っていた。

 彼はソーマ酒をトヴァシュトリから取り上げて痛飲すると、ヴリトラと戦うために、黄金の兜と黄金の胸当てをつけ、暴風神マルト神群を従え、美しいたてがみをなびかせる二頭の赤い馬に牽かせた黄金の戦車に乗って出発した。インドラが近づくとヴリトラは吼え、天は激しく震えたが、インドラは、ヴィシュヌ神から授かった稲妻ヴァジュラを投じてヴリトラの九十九の城砦を破壊し、ついにヴリトラと対決してこれを倒した。雲の牛は解放され、大地には雨が降り注いだ。

 大地が息を吹き返し、新しい恵みがもたらされた。神々も聖者も賢者もインドラの武勲に歓喜し、この偉大なる戦士を褒め称えた。三界の王となったインドラは栄光に包まれて神々の王座に登るため、スメール山の頂上へ進んだ。しかし、彼が目にしたのは荒廃した神々の宮殿であった。

 そこで、インドラは建築と工芸の神であるカーランジャを呼び、神界の帝王としての無類の栄光にふさわしい宮殿をスワルガに建設するように命じた。天才建築家カーランジャは、一年の内にそれを成し遂げた。純白の城壁に囲まれて黄金色に輝く塔、さまざまなかぐわしい花々が咲き誇る庭園、満々と青い水を湛えた湖、無数の宝石が嵌め込まれた宮殿。それらがみごとに配置された神々の住処の中央には、インドラ自身のための美しいアーチを持つ白亜の王宮が建てられた。

 それは千の柱と千の入り口を持ち、どこにも比べられるものがないほど立派な天空の宮殿であった。インドラは白い衣をまとい、宝石の輝く腕輪をつけ、王冠をいただいて輝かしく王座に座った。横には、麗しい妃シャチーがインドラに従い、すべての神々、マルト神群、賢者や聖者がかしづいた。アプサラスやガンダルヴァの歌と踊りが披露され、華麗な宴がはてることなく続いた。

 けれど、インドラは満足しなかった。インドラは次々に新しい宮殿、新しい湖、新しい庭園をカーランジャに建設させた。いつ果てるともないその要求にカーランジャは嫌気が差したが、神々の帝王インドラの要求は絶対であり、その要求から逃れることはできなかった。

 悩みに悩んだカーランジャはひそかにブラフマー神に助けを求めた。ブラフマーは宇宙の創造者であり、野心と闘争と栄光と喧噪の渦巻く天界よりはるか上方の世界に住み、蓮の花の上に座っている。

 カーランジャは、秘かな祈りの中で、ブラフマー神に自分の窮状を訴えた。すると蓮の上の神は『祝福されたものよ、汝は明日にもその仕事から解放されるであろう。』と答えた。ブラフマーはすぐさま蓮の台座から降り、さらに高みにある領界へ上がってゆき、ヴィシュヌ神がいる北の海のヴァイクンタに赴いた。ヴィシュヌはアナンタという七頭の巨大な蛇の上に横臥しており、この蛇はすべての母なる宇宙の乳海の上を漂っている。その無限のエネルギーは、宇宙の夢想者ヴィシュヌに刺激を与えて夢を見させ、その宇宙を時空の中に出現させるのだ。

 翌朝、インドラ神の宮殿の壮大な門の前に、一人のバラモンの少年が姿を現した。年は十五歳くらいで、濃紺の肌に白いドーティをまとっていた。額には光を放つ神聖な印が輝き、片手にパラソル、もう一方の手には巡礼者の杖を携えていた。彼の周囲には、彼の美しさと高貴さに恍惚となった少年たちが群がっていた。

『門番よ、バラモンが会いに来た、とおまえの主人インドラに告げよ。』

 そう少年は門番に言った。

 門番は急いで主人の元へ馳せ参じた。インドラは、その吉祥なる客人を迎えるために出て来たが、少年たちの中で客人たるバラモンが誰かはすぐに分かった。バラモンの少年は、黒く輝く瞳でやさしく一瞥を払い、主人を出迎えた。王はこの少年に頭を下げ、少年は、にこやかに祝福の言葉を与えた。インドラは、少年を王宮に招きいれ、蜂蜜と乳と果物を供物として差し出し、客を歓待した後、尋ねた。

『尊い少年よ、いかなる理由、いかなる目的でここに参られたのか。どうか来訪の目的をお聞かせ下され。』

 すると愛らしい少年は、穏やかな雷鳴を放つ雨雲のような柔らかく深い声で答えた。

『神々の王よ、私はあなたが建設しておられるという偉大な都と宮殿のことを耳にし、心に抱いた疑問についてうかがうために参ったのです。このような豪勢な邸宅を完成するには、これから先、どれほどの年月がかかるとお考えか。そしてまたカーランジャにいかほどの工芸の技をお望みなのか。』

 少年の光輝に満ちた顔立ちには、静かな、そしてほとんど見分けのつかないほどの微笑が浮かんだ。

『神々の中でもっとも偉大な者よ、あなた以前のどのインドラも、このような宮殿を完成させたことはありませんでした。』

 自らの権勢に驕り高ぶっていたインドラは、大声で笑い出した。

『私の前のインドラとな?』

 彼は父親のような微笑を湛えて言った。

『教えて頂けまいか。あなたが見た、あるいは耳にしたという以前のインドラやカーランジャというのは、いったい何人ぐらいいたのか。どんなインドラやカーランジャであったのか。』

 バラモンの少年も同じく笑った。

『我が子よ。』

と彼は答えた。

 その声は牡牛から搾り取ったばかりの乳のように、暖かで甘かったが、インドラはそれを聞くと全身すみずみまで悪寒が走るのを覚えた。

『私は、ブラフマーの息子なるそなたの祖父、マリーチを知っている。マリーチは、彼に財産というものがあるとすれば、それはその献身のみという聖者であった。さらにまた私は、ヴィシュヌの世界なる臍から生まれたブラフマーも知っている。そしてブラフマーを支える最高神ヴィシュヌそのものも知っている。

 神々の王よ、私は宇宙の恐るべき融解を見てきた。あらゆる宇宙周期の終わりに、繰り返し繰り返し、一切が滅び去るのを目撃してきた。そのときは一切のものが、あらゆる原子が、永遠の原初の浄海の中に溶解してしまうのだ。その時、あらゆるものが、その海の底なしの荒れ騒ぐ無限の中へと帰入する。いったい誰がかつて過ぎ去っていった宇宙の数を数えることができようか。いったい誰が、この広大な海の底なしの深淵から、繰り返し繰り返し新たに起こされてきた宇宙創造の数を数えることができようか。いったい誰が、次々と果てしなく続きながら過ぎ去ってゆく世界時間を数えることができようか。いったい誰が、空間の広大な無限性をかいくぐって、これまで存在したブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ、インドラの数を数えることができようか。神々の王よ、あなたの下僕の中に、地上の砂粒の数、空から落ちる雨粒の数を数えられるという者はいるかもしれぬ。だが、いかなる者も、これらのインドラたちの数を数え尽くすことはできないだろう。

 ひとりのインドラの寿命と王権は、神の尺度で測って七十二期のあいだ続く。そして二十八神のインドラが息絶えたとき、ブラフマーの一昼夜が経過する。ブラフマーの寿命は、こうしたブラフマーの昼夜という単位で測ってたかだか百八年にすぎない。我が子よ、ブラフマーの数には限りがない。まして、インドラについては言うまでもなかろう。ブラフマーにはブラフマーが続き、ひとりが沈めば、次のものが昇る。いついかなる瞬間にもそれぞれにひとりのブラフマーと、ひとりのヴィシュヌと、ひとりのシヴァを含みつつ、ずらりと並んでいる宇宙、これら宇宙の数を誰が数えることができようか。抱くことのできる夢の限りを超え、外の空間に向かって群がり押し進みつつ、この宇宙は、およそおびただしい数をなして行き交っている。マハー・ヴィシュヌの身体をなす底なしの浄海の上を、これらの宇宙は、頼りなげな小舟のように漂っている。偉大なヴィシュヌの身体の毛孔と同じように、宇宙の数も無数であり、その一つ一つがそなたのような神々を数知れず宿しているのだ。』

 美しい少年が話しているとき、軍隊式の列を組んだ蟻の集団が大広間の床に姿を現した。少年は蟻の列を見ると、突然笑いだし、それから口をつぐんで深い瞑想に沈んだ。

 インドラは唇も口蓋も喉もからからに乾くのを感じた。

『若きバラモン殿よ、なぜ笑われる?』

 インドラはさらに尋ねた。

『少年の姿をとったそなたはいったい誰なのか。少年のふりをしておられる神秘的なお方よ。人を惑わせる霧の中に身を隠した、徳の海のような方だと、私には思われるが。』

 少年は高貴な光に満ちた表情で再び話を続けた。

『私が笑ったのは、あの蟻のゆえである。だが、その訳を語ることはできない。それを明かせと問うてはならない。悲哀の種も、知慧の源も、ともにこの秘密の中に隠されているからだ。この秘密は、慧斧のように、世俗の空虚の樹の根を撃つ。これは無明の中を手探りする者たちの燈明なのである。それは、時間の知慧の中に埋もれており、聖者にさえめったに明かされることがない。それはヴェーダに唱えられた苦行者、死すべき者の境涯を捨て、超越に達した苦行者たちの生気である。しかしこの秘密は、欲望と自惚れに惑わされる愚者を滅ぼす。』

 少年は微笑を浮かべて、口をつぐんだ。インドラは身動きもならず、唇も口蓋も喉もからからに乾いていたが、しばらくしてたいそう謙虚になって、こう尋ねた。

『バラモンの息子よ、あなたがどなたかは私には分からない。知慧の権化とお見受けするが、どうかこの時間の秘密、闇を追いやるその光明を、お明か下さい。』

 このように教えを請われて、少年は、苦行者にさえめったに明かさない秘奥の知慧をインドラに説き明かした。

『インドラよ、我らは、長い縦列をなして数限りなく通って行く蟻たちを見た。あの蟻の一匹一匹は、かつてひとりのインドラであった。そなたと同じように、無私の功徳によって一度は王の位にまで上がったが、やがて数々の奢れる振る舞い、利己的な所行の報いを受けて、幾度も転生を繰り返すうちに、ふたたび蟻となった。この蟻の列はかつてのインドラたちの軍隊なのだ。

 敬虔さと無私の行いは、この世界のものたちを崇高な霊的状態へと高める。バラモン、王、インドラの境涯へと、さらにはブラフマーやヴィシュヌやシヴァの天にまで到達させる。しかし、利己的な行いはこの者たちを、下方の諸世界へ、悲哀と苦悩に満ちた奈落へと落とし、あるいは鳥や爬虫類、あるいは豚や野獣、あるいは樹木に生まれ変わらせる。以上が秘密の全貌である。この知慧は地獄の海を渡って至福へと至るための舟である。

 インドラよ、生あるものも、生なきものも、この世のすべては無常であり、夢のごときものである。高みにある神々も、黙して語らぬ樹々や石も、しょせんは幻影にすぎぬ。しかし、死の神は、時間の法則を管理している。時間の掟に従い、死の神は一切のものの主である。人間に付着する善も悪も泡沫のように消えてゆくのだ。終わりのない輪廻転生とともに、善悪は互いに入れ替る。賢者は善悪どちらにも執着しない。』

 少年は驚くべき教示を終え、静かにインドラをまじまじと見つめた。すると、年老いた苦行者が広間に入ってきた。頭にはもつれた長髪を蓄え、腰には黒い鹿革を纏い、額には白い神聖な印が塗られていた。胸には珍妙な円形の胸毛が生い茂っていた。その胸毛は、周辺はそのままで、中心部では多くの毛が抜け落ちていた。頭上には草で編んだ傘をかざしている。老いた行者はつかつかと歩み寄って、王と少年の間に割って入り、そこに岩のようにどかりと腰を下ろした。

 インドラは、偉大で光り輝く王としての威厳を取り戻し、このしかめつらしい客を丁重に迎え、蜂蜜や乳や果物などで供応し、歓迎の言葉を述べた。すると今度は少年がお辞儀をし、インドラがまさに尋ねようとしていたことを問うた。

『聖なるお方よ、あなたはどこから来られたのですか。お名前は何と言われるのか。この地に来られたのは、いかなる目的があってのことか。現在はどちらにお住まいか。頭上の草の傘にはどういう意味があるのか。また、あなたの円形の胸毛の束は何の兆なのか。周辺が濃くて中心がほとんど禿げ落ちているのは、どうしたわけかなのか。聖なるお方よ、どうか私の問いに答えて下さい。ぜひともお聞きしたいのです。』

 年老いた聖者は、それにじっと耳を傾け、それから微笑を浮かべながら、ゆるゆると答え始めた。

『年若きバラモンよ、長髪者というのがわしの名前である。ここに来たのはインドラに見参するためだ。わしは老い先短いことを知っているから、家をもたず、妻を娶らず、働かないことに決めておる。今は托鉢にて生きながらえている。この傘をかざすのは、雨と日差しをよけるためである。だが、胸毛の輪について申せば、これはこの世の子供たちにとり恐怖の源である。とはいえ、それは知慧をも生み出す。ひとりのインドラが倒れるたびに毛が一本抜け落ちる。中心の毛がすべてなくなっているのは、そのゆえである。今のブラフマーにあてられている時代の残りが尽きるとき、我が命も終わるであろう。バラモンの少年よ、つまりは、わしに残された時間は少ないということだ。なのにどうして家や妻や息子などをもてようか。

 ヴィシュヌの瞼が一つ瞬きするたびに、ひとりのブラフマーが過ぎてゆく。してみれば、すべてのものは、形をなしては崩れてゆく雲のように実態のないものと見ざるをえないだろう。わしがヴィシュヌの永遠なる蓮の足への瞑想にひたすら専念するのはそのゆえである。超越せるヴィシュヌの中の安息は解脱にもまさる。なぜならいかなる悦びも、天上の悦びでさえ、夢のごとくにはかないものであり、至上の神への一途な信愛を妨げるからである。

 吉祥をもたらす、最高の霊的導師たる神シヴァが、わしにこの知慧を授けてくれたのである。』

 老人はこの言葉を残して消え失せてしまった。この老人は、シヴァ神にほかならなかったのである。同時に、じつはヴィシュヌであったバラモンの少年も姿を消し、後にはただ、心乱れ、途方にくれた王者インドラだけが残されていた。」

 これがヴィカルナ聖仙が語った物語であった。

 ヨシュタが深く考え込んでいると、ヴィカルナ聖仙は次のように言った。

「一切が巨大な業となって渦巻くこの宇宙の時空の中にあって、汝が求めているものは、結局、児戯にも等しい望みにすぎん。だが、ヨシュタ。どうしてもというなら、ひとつだけ教えてやろう。」

 ヴィカルナ聖仙が合図を送ると、一人の女が現れた。ウルヴァーシーだった。

「この女の胸の中を切り裂くと、印章を見つけることができるだろう。その印章によってムチャリンダを倒すことができる。今この瞬間の宇宙の抗争の一つはそれで止むことだろう。それがどれほどの意味を持つかは分からぬがな。ともかく、それがそなたの望みなら、それはまさにおまえの手に握られておる。」

 ヴィカルナ聖仙はそう言ってヨシュタにナイフを渡した。それまで鷹揚としていたムチャリンダは一瞬にして青ざめ、硬直して一言も発することができなかった。

 ウルヴァーシーは静かに、胸襟を開いた。豊かな乳房の谷間が覗き見えた。ヨシュタは顔をこわばらせてナイフを抜いたが、その手はブルブルと震えていた。

 しばらくしてヨシュタは言った。

「私にはできません。」

 そう言ってヨシュタがナイフを鞘に収めると、ヴィカルナ聖仙は厳かに言った。

「汝の役目はもはや終わったのだ。」

 ヴィカルナ聖仙は自身の紋章をヨシュタにかざした。次の瞬間、ヨシュタは地に横たわり、二度と起き上がることはなかった。

 ヴィカルナ聖仙は厳かに言った。

「ヨシュタは偉大であった。だが、禁を犯してウルヴァーシーを抱いたことが命取りとなった。ウルシャナビの呪いは成就した。」

 ムチャリンダはこうべを垂れてひれ伏したままだった。ウルヴァーシーは胸元を正してたたずんでいた。

 ヴィカルナ聖仙は言った。

「わしの役目は終わった。定められたとおりにことが生起したということだ。世界は新しい段階へと進むだろう。だが、ムチャリンダ。汝の時代は長くは続かぬ。そのことを胸に刻んでおくがいいだろう。」

 そう言い終わると、ヴィカルナ聖仙は、ヨシュタのブルーポールを拾い上げ、次のように言った。

「ヨシュタの最後の行為を人間たちは愛とか尊い行いとか呼ぶかもしれぬ。だがそれは、自らの業に縛られて世界の本質を見抜かず、目の前の虚妄に突き動かされる人間の他愛なさそのものであった。まさに人間の限界を如実に示したできごとであった。おろかなことだ。は、は、は、は、は。」

 そう高らかに笑うと、ヴィカルナ聖仙は、来たときと同じような静かな足取りで去っていった。ウルヴァーシーだけが後に続いた。

 残されたムチャリンダが呆然と立ちすくんでいた。

 

2014年掲載 / 最新改訂版:2020823日)


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向殿充浩 / 神話『ブルーポールズ』第2巻