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神話『ブルーポールズ』

【第2巻】-                                                  

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 全宇宙を震撼させた危機は去り、再び平和がもたらされた。大地には気高い鐘が鳴り響き、野にはふくよかな風が吹きそよいだ。

 多くの神々がナユタとユビュの勝利を喜び、祝福した。

「創造が守られた。」

「宇宙に死をもたらすムチャリンダの野望は打ち砕かれた。」

「混迷の中から新たな真理へと至る道をナユタとユビュが見出した。」

 そんな神々の声が巷を覆いつくした。

 

 マーシュ師の館では、盛大に勝利が祝われた。祝典の会場では、神の儀礼服をまとったマーシュ師、ナユタ、ユビュ、ウダヤ師が壇上に並んだ。さらにその左脇にはシャルマとプシュパギリが、右脇にはヴィクートとカーシャパが控えた。

 祝典の開始を告げるラッパが吹き鳴らされると、シャルマが進み出て勝利の宣言を厳かに、そして高らかに読み上げた。楽団は賛歌を奏で、それに合わせて神々の大合唱が沸き起こった。

 壇上の神々の中でひときわ目を引いたのはユビュであった。戦いのおりには結い上げていた黒い髪を今は真っすぐに垂らし、神の儀礼服に身を包んだユビュは神々しさに溢れていた。そこにはユビュの守護神サラスヴァティー女神のごとき美しい笑顔があった。その笑顔の中に、かつての無垢な少女であったユビュの笑顔を感じ取る者もいたが、けれどそれは、ほんとうには、もはやかつてのユビュの笑顔ではなかった。ユビュの笑顔は召命を受けた者だけがもつ信念に満ちた強さを兼ね備えていた。

 神々の歓声の中で、マーシュ師とウダヤ師がそれぞれナユタとユビュに月桂冠でできた勝利の冠を授けた。詰めかけた神々からの称賛の声は最高潮に達し、ナユタとユビュは晴れやかに応えた。

 ナユタは演壇に上り、呼びかけた。

「神々よ。今日ここに集まり、ともに勝利を祝うことができ、心から喜んでいる。皆も知っての通り、この戦いは苦しい戦いだった。宇宙のダルマそのものが脅かされ、創造という行為そのものが否定されかねない脅威にさらされていた。この勝利は、宇宙にダルマを回復し、創造の高貴な試みに改めて大いなる道を切り開いたことを意味している。破壊の神ムチャリンダは去った。しかし、同時に、この勝利が多くの犠牲と多くの艱難辛苦の末に得られたものであることを胸に刻まねばならない。宇宙の三賢神に数えられながら敢えてこの戦いに加わり、常に我々をもり立ててくださったバルマン師は、ルガルバンダの呪いのために倒された。私は改めて、バルマン師に感謝を捧げたい。戦う我らにとって、バルマン師こそ真の意味での心の支えであった。また、創造の火を守り、常に我らを支えて下さったマーシュ師とウダヤ師にも感謝せねばならない。さらに、前線で泥にまみれて戦った多くの兵士に感謝せねばならない。シャルマ、カーシャパ、ヴィクート、プシュパギリをはじめ、心強い仲間に恵まれたことも私には幸運だった。だが、私は言わねばならない。それは、戦いはまだ終わってないということだ。創造された世界は、創造された人間たちの欲と争いによっていまだに塗炭の苦しみを味わっている。ムチャリンダの干渉も止んではいない。その世界を救済することなくして、我らの戦いが最終的に勝利したということはできない。今日、私は、改めて宣言する。今日の勝利こそ、新たな戦いの始まりなのだと。そして私は誓う。最終的な勝利を得るまで私は決してひるむことなく戦い続けることを。」

 ナユタの演説に称賛の嵐が沸き起こった。多くの神が心を揺さぶられ、目にうっすら涙を浮かべる者もいた。

 次いで演壇に立ったのは、ユビュだった。ユビュは静かに語り始めた。

「今回の創造が始まったとき、私はまだほんの少女でした。父ヴァーサヴァに言われるまま、バルマン師の洞窟に創造の火を貰い受けに行きました。そして私は父ヴァーサヴァの創造の手伝いをしました。今となっては、それが良かったのかどうか答え得ません。ただ、この創造が適切でなかったということ、そして今、私たちは創造されたもののために何かをなさねばならないのだということだけははっきりと言えます。少女だった私は、ナユタとともにブルーポールを引き抜き、ウダヤ師とともに人間界に足を踏み入れ、ナタラーヤ聖仙を訪ねてマーダナとタンカーラを授かり、そしてムチャリンダとの戦いでは鎧をまとって前線に赴きました。このようなことが私の身に起ころうなどとは夢にも思っていませんでした。しかし、先程ナユタが言ったように戦いはまだ続いています。私は、父ヴァーサヴァが開始した創造に最後まで責任があると思っています。私も今日、改めて誓います。私はナユタと共に、創造の完成に向けて戦い続けます。」

 ユビュの演説も多くの神々の心を打った。あどけない少女だったユビュ、うら若き清楚な乙女だったユビュをどの神も知っていた。心打たれ、涙を拭う者も少なくなかった。

 けれど、どの時もけっして留まってはいない。どの時も流れ続ける。そして、道へと導かれる者は時の中で新なる自己に向かって自らを変革してゆくのだ。

 光は未知なるものに覆われた闇の世界から発せられ、ユビュをめがけて降り注いでいる。そんな余韻がすべての神々の心を大きく揺さぶる中、シャルマが進み出て演壇に立つと、大きなよく響く声で呼びかけた。

「私は提案する。今回の戦いを勝利に導いた最大の功労者のひとりであるユビュを、神々の父と言われたヴァーサヴァの後継者として、宇宙の王女に推したい。」

 その呼びかけはすぐに神々の中に賛同の嵐を巻き起こした。

「宇宙の王女ユビュ!」

「新しい王女ユビュ!」

 そう口々に叫ぶ声が神々の中を駆け巡った。王女の冠、マント、王笏が運ばれてきた。

 ナユタがユビュの肩にマントを掛け、続いて、ウダヤ師がユビュに王笏を授けた。最後にマーシュ師がユビュの頭に冠をかぶせると、祝典は最高潮に達した。

 この戦いに功績のあった者たちが次々に呼ばれ、栄誉に浴した。マーシュ師とウダヤ師も演説した。そして最後に、バルマン師を称える碑が除幕され、この戦いの最終的な勝利をバルマン師の石碑に報告するまで戦い続けることが宣言された。

 

 こうして宇宙には再び平和が訪れた。けれど、宇宙の状況は決して楽観を許されるものではなかった。地上での動きは依然として混乱を極め、不穏だった。

 無数の者たちが故郷を失い、戦火におののきながら言葉を失っていた。昨日の記憶が凍え、今日の記憶が泥土の上に砕けていた。

 ムチャリンダは宇宙の涯てに引きこもった後も地球の惨状を宇宙の神々に対して喧伝し、依然として宇宙に巨大な脅威を与えていた。イムテーベもムチャリンダの館でしきりに策を練り、次の機会をうかがっているらしかった。

 祝典から数日経って、マーシュ師はウダヤ師、ナユタ、ユビュを呼び集めた。創造に対するこれからの対応について相談するためだった。

 皆が集まると、マーシュ師は口を開いた。

「ムチャリンダとの戦いには勝利したが、状況は決して楽観できるものでない。まさに、ナユタが演説で述べたとおり、戦いは終わってない。今回の戦いは、力によって創造を破壊することをムチャリンダに断念させたが、次の大きな問題は、地球の状況そのものだ。今、地球では、天の荒涼さが大地に灰色の沈黙を降り積もらせ、あらゆる反歌が蔓延している。そして、ムチャリンダは依然として、地球にさらなる混乱を引き起こすべく干渉を続けている。地球が混乱し、創造されたもの自体が悪に染まるなら、我々も結局創造された世界を打ち壊さざるを得なくなり、ムチャリンダの思いどおりになることになる。」

 ナユタが答えて言った。

「その通りです。しかし、考えねばならないのは、この創造には本質的な欠点があるということです。そのため、創造を正しい道へと導くべく創造の方針を転換することが必要であり、かつ、生み出されてしまっている創造に対して適切に関与することが必要不可欠です。この創造を正し、この世界を救済することなくして、我々の戦いが最終的に勝利したということはできません。」

 ウダヤ師もうなずいて言った。

「それはまさにおまえが、ヴァーサヴァに対して主張したことでもあったな。だが、これまではムチャリンダを排撃することが精いっぱいであり、創造への関与はほとんどできてこなかった。そればかりではない。ムチャリンダは活発に地球への干渉を行っており、我々ははるかに出遅れているとも言える。イムテーベは夜眠るのさえ惜しんで、人間たちの愚かさ、醜さ、ずる賢さが暴れ回る場を作り出すべく必死に謀略を練っているともいう。これから、どうすればいいかだが。」

 ナユタが再び発言した。

「この創造の最大の弱点は、創造された人間自身が、困難を克服するに足る真の力をもっていないということです。ものごと全体の真実を見抜く目をもたず、それがゆえに、自分の前に広がる膨大な困難に立ち向かう勇気をもっていないのです。失意と目先の享楽が人々の心をもてあそんでいるのです。」

 マーシュ師がこれを受けて言った。

「ムチャリンダが付け込んでいるのも、まさにその点だ。そして、人間たちは地上での困難と混乱に心をさいなまれ、それによって、新たな狂気と無意味な闘争に駆り立てられている。

創造されたものが真の意味での輝きをもてるか、それとも創造された者たちが苦悩に喘ぐだけなのか、それがこの創造の意味を問うことになる。この創造が失敗作と見なされれば、創造を破壊しようとするムチャリンダの主張に多くの神々の心がなびくだろう。ムチャリンダの策謀を阻止し、地上に真の意味で創造の意義を発露させることなしには、この戦いに勝利したとは言えないだろう。」

 だが、そのためにどういう策を取るべきなのか、明確な答えがあるわけではなかった。めいめいが考え込む中、口を開いたのはウダヤ師であった。

「これからどうすべきかだが、実は、わしは近々地球に行こうと思う。地球では、状況が日に日に悪化しておる。新しい戦争がいたるところで起こり、干ばつと飢饉で農民たちは疲弊し、悪賢い神官がはびこり、世相は騒然としておる。一体この先世界がどうなるものやら誰にも分からん。だが、まずはいったい創造された世界がどうなっているのか、自分たちの目で確かめてみなければなるまい。だが、実は、それ以上に重要に思っていることが一つある。」

 ここで言葉を切って一息ついたウダヤ師を皆がまじまじと見つめ、次の言葉を待った。

「ユビュ。ヨシュタのことを覚えているだろう。ヨシュタはブルーポールによって生を受け、いまや地上に平和を流布するために戦っている。彼はブルーポールに守られた半神半人的存在であり、世界を変え、世界を動かす力をもっているはずだ。彼こそが、ムチャリンダの野望を阻止する希望の星であろう。」

 この突然の言葉には皆が驚いた。ユビュがウダヤ師に問いかけた。

「それで、ヨシュタは今どうなっているのですか?」

「ヨシュタは立派な戦士となり、王となり、平和な国を築き上げている。だが、その平和は決して安泰ではなく、回りの国から無数の脅威を受けているのも事実だ。彼の元へ行き、必要であれば、彼の手助けをしてやりたいのだ。」

「それでは、ヨシュタが地上に大きな平和を実現するかどうかに、宇宙の趨勢がかかっているのですね。」

 そう言うユビュにウダヤ師はうなずきながら言った。

「その通りだ。ヨシュタが地上に平和を確立できれば、ムチャリンダの勢いは引き潮のように衰えてゆくだろう。だが、逆にヨシュタが平和を確立できず、さらなる戦乱の炎が大地に広がれば、ムチャリンダ陣営が勢いづくのは目に見えている。しかも、ムチャリンダは人間の本性に付け込んで混乱を助長させ、平和の確立を阻止しようとあらゆる手立てを講じてくるだろう。そのムチャリンダの野望を阻止し、ヨシュタをして真の平和を確立せしめること、それこそが求められるのではないだろうか。」

 ユビュが言った。

「ウダヤ様、私もヨシュタの誕生に立ち会いました。できれば、私も一緒に行ってみたいと思いますが、連れていって下さいませんか?私に何ができるかは分かりませんが、この館にただ留まっているだけでは何も始まりません。ぜひ、自分の目でもう一度地球の状況を見、そして、ヨシュタに会って、これからの道を探ってみたいのです。」

 このユビュの言葉に他の三神はうなずいた。マーシュ師が言った。

「ユビュ、行ってみるがいいだろう。きっと、地上で新たな何かが始まるだろう。ともかく、この創造の決着はまだついておらず、険しい道が待っておる。地球へ行き、新たな道を探し出してくることだ。」

 ナユタも言った。

「戦いはまだ終わっていませんが、これからの道はまるで霧に包まれているようにも見えます。しかし、我々がたどるべき道は必ずあるはず。そして、その道は、必ずユビュから始まるように思えてなりません。新たな道が地上から発することを祈っています。」

 

 数日後、ウダヤ師はユビュを伴って再び地球に向かって旅立った。

 ウダヤ師とユビュが降り立ったのは、かつて羊飼いと出会った場所だった。

「あのときの赤子がどんな若者に成長しておるか、楽しみだな。」

 そう言いながら、ウダヤ師は岩の上に腰を下ろした。

「そうですね。あの子にはブルーポールの力が宿っているのでしょうか?」

「ああ、きっとな。彼は人間ではなく、半神半人の存在だからな。」

 しばらく歩くと、向こうから山羊の群が近づいてきた。ウダヤ師はにこやかに羊飼いに合図し、手招いた。羊飼いがやって来ると、ウダヤ師は語りかけた。

「やあ、こんにちは。わしらは遙か東の国から旅してきたんじゃが、都まではあと少しじゃな。」

「ほう、東の国からのう。都はもうすぐだで。あと、半日も歩けば着こうて。」

「そうじゃな。では、もう少し休んでゆくとするかな。」

 そう言いながら、ウダヤ師は持っていたチーズや肉を取り出して勧め、談笑を始めた。しばらく話が弾んだ後、ウダヤ師はおもむろに尋ねた。

「ところで、おまえさんは、ヨシュタという若者を知らんかね。」

 羊飼いは急にまじめな顔をして言った。

「それはヨシュタ王のことを言ってなさるのかね。」

 ウダヤ師は、ヨシュタが王になっていることは知っていたが、そのことはおくびにも出さず、ヨシュタ王のことをもっと教えてくれと頼んだ。

「ヨシュタ様は、もとは、われらと同じ羊飼いの出でな。生まれたとき、みんながだめだと思ったらしいんじゃが、たまたま泊まっていた医者が助けたんじゃそうじゃ。わしはそのときはまだほんの子供で、ほとんど記憶に残ってないんじゃが、なんでも東方の遠いところから来たお医者様だったそうじゃ。ちょうど今のおまえさん方と同じように、よそ者で、あんたくらいの若い娘の助手を連れていたそうじゃ。」

 そう言って羊飼いはちょっとユビュの顔をのぞき込んで話を続けた。

「二十数年も前の話じゃよ。その医者は奇跡を起こして赤ん坊を助け、ヨシュタという名を授けたんじゃ。ヨシュタ王のことを尋ねなさるが、なにか関わりをもっていなさるのかね。」

 ユビュは何と答えるのかとウダヤ師の方をちらっと見たが、ウダヤ師は落ち着いて答えた。

「実はな、最初に言わずに申し訳なかったが、その医者はこのわしなんじゃ。この子は、あのときわしに付き添っていた娘の生んだ子で、今はわしの片腕として助けてくれておる。」

 それを聞くと、羊飼いはびっくりして言った。

「それが本当ならたいへんなことじゃ。ヨシュタ王は、自分を助けてくれた東方の医者こそ命の恩人で、いつかお礼がしたいといつも言っておられるそうじゃ。ともかくついてきなされ。族長のところへ案内しよう。」

 そう言うと、羊飼いは慌ただしく山羊をまとめ、ウダヤ師とユビュを連れて幕舎に向かった。

 ウダヤ師とユビュがテントに着くと、羊飼いは慌ただしく走って行った。子供たちが走って来てふたりを眺め、女たちは遠くからひそひそ話をしていたが、しばらくすると族長らしき男がやって来た。

 男はウダヤ師の前までくると、じっとウダヤ師を見つめ、それから満面の笑みを浮かべて言った。

「覚えておりますぞ、ウダヤ様。わしはあのときまだ一介の若者で、皆に混じって遠くから眺めておっただけでしたけどな。それに今日連れておられるのはお孫さんとのことじゃが、あのとき連れて来ておられた娘さんの面影がありますな。ともかく、あなたがたが都へ行けばヨシュタ王は大いに喜ばれるじゃろう。ヨシュタ王は、自分が生まれ出るときに助けてくれた医者こそ最大の恩人と常々申しておられる。申し遅れましたが、わしはメシリムと申します。せっかくなので今日は我らのテントに泊まられるがよい。明日、一緒に城まで案内いたしましょう。」

 ウダヤ師は落ち着いて答えた。

「それはありがたい。二十数年ぶりに訪れたが、なにもかも昔のままですな。懐かしい。それに、なんといっても成長されたヨシュタ王に会うのが楽しみだ。」

「ともかく今日はゆっくりしてくだされ。歓迎の宴を用意いたしましょう。あのときはウダヤ様と口をきくこともできませんじゃったが、今日はぜひ異国の話などたっぷり聞きたいものですな。」

 その夜は、族長のメシリムが中心になってウダヤ師とユビュをもてなした。ウダヤ師は東方の国々の話をいろいろと話した。また、医者として各国を巡って得たというおもしろい話を次々に聞かせた。どうしてそんなさまざまな話を次々にできるのだろうとユビュが不思議に思うほどであった。族長のメシリムをはじめ、みんな眼を輝かせて聞き入った。

 こうして宴席の者たちとも親しく打ち解け、ウダヤ師が改めてヨシュタのことを聞くと、メシリムが答えて言った。

「ヨシュタ王は、まだ小さかったときに、戦さで父親をなくしてな。もともと、このレゲシュの地は隣国のチベールとのいさかいが絶えない地でしてな。レゲシュの歴代の王はチベールとの抗争に心を砕き、それに備えねばなりませんでな。以前、ウダヤ様が来られた頃はまだ、わしらには関係なかったんじゃが、ある出来事があってから、戦いに参加するようになりました。」

「ある出来事?」

「ええ、チベールがある部族を滅ぼしたのじゃが、そのとき、男どもは皆殺しにし、そこへチベールの男どもが女を連れずに移住してきましての。その国の女どものうち、美しい女たちは妻にし、残った女どもはみな奴隷として売っ払ったそうですじゃ。女たちは自分の夫や父を殺した相手の子供を産まねばならなかったわけじゃが、夫とは決して食事をともにせず、また、決して夫の名前も呼ばないという掟を作ったそうです。その話が伝わると、どの部族もチベールとの戦いに加わることにしましての。以来、我らも事あるごとにチベールとの戦に加勢してきたのですじゃ。」

「では、あなたも戦さに?」

「ああ、わしも何度か戦さに行きました。この傷はその名残りですよ。」

 そう言って、メシリムは左腕をめくって大きな傷を見せた。

「わしはこの程度で済んだが、戦死した者もおります。ヨシュタ王の父親シュンマもその一人でしてな。あれは、ちょうど、ヨショタ王が八つか九つのときでした。チベールから大規模な襲撃がありましてな、レゲシュのナソス王も軍勢を率いて迎え撃ったんですじゃ。我らも部族を挙げて戦いに行ったんじゃが、シュンマはこの戦いで戦死したんですじゃ。じゃが、それはただの戦死ではありませんでの。シュンマはナソス王の身代わりになって戦死したんです。そのときの戦いは非常に厳しい戦いで、ナソス王は何度も窮地に立ち、激しい混戦になりましてな。ナソス王に向かって飛んで来た一本の槍を、シュンマは自分の身で受けて王を守ったということですじゃ。まさに身代わりというわけですな。そのおかげで、王は九死に一生を得、なんとかチベール軍を撃退できましてな。」

「そうですか?それでその後は?」

「城ではヨシュタの父シュンマの盛大な葬儀が行われました。わしらも行きましたが、それはもう今まで見たこともないような立派な葬儀でしたよ。そして、ヨシュタと母親のイリアはナソス王に引き取られることになり、そのままレゲシュの都に留まったのですじゃ。王は、ヨシュタに立派な教育を施したそうです。そもそもヨシュタ王には幼少期から何か他に抜きんでたものがありましたからな。」

「ほう、それはどのような。」

「そうですな。ヨシュタは勤勉で我慢強い子じゃったし、とにかく賢かった。激しく強い感情は持っておったが、目先の衝動に惑わされることはなかった。名誉心のようなものが特別に強く、気位が高く、大人たちも一目も二目も置かずにはおれないような行動をしばしば目にしたものです。彼は子供のころから槍投げが得意だったので、毎年秋に行われる部族内の槍投げ競技の幼年の部に出てはどうかと勧められたことがあったのじゃが、『そんなものに勝っても何の意味もない。もう少し大きくなってから都に行って競技会で優勝する。』と答えたそうです。わしなどはヨシュタよりはるかに年上じゃが、ある頃からはもう、年下のヨシュタに偉そうな口をきくなどとてもできなくなったほどですよ。」

「そうですか。素質があったのでしょうな。」

「おそらく、ナソス王もその素質を認めていたのでしょう。この地方で有名なフィロンという哲学者を招いて王族の少年たちと一緒に教育を受けさせたそうです。フィロンはレゲシュを去る時、『私が教えた少年たちで素質があるのはヨシュタだけだ。』と言ったそうです。聡明で勇敢なヨシュタは成人するとめきめき頭角を現し、度重なる戦争で手柄を立て、王の信頼を得ましてな。ついには王の長女のクマール様と結婚し、三年ほど前、ナソス王が亡くなられた後、ヨシュタ王があとを継がれたんじゃ。」

「王には王子はいらっしゃらなかったのですか?」

 そう聞いたのはユビュであった。

「いや、二人いたんじゃが、兄のほうは白痴でな。また、弟の方は、七年前のチベールとの戦さで戦死してしまいましてな。七年前の戦闘もそれはそれは激しいものじゃったそうな。弟の王子は戦死するし、ナソス王も非常な危機に見舞われた大敗北じゃってな。しかし、ともかく王の命だけは、ヨシュタ王が守り通したそうじゃ。」

「ある意味では幸運な出世物語ですな。彼がそこまでになれたのには何か秘密があるのかのう。」

 そうウダヤ師が言うと、族長は、その通りとばかり身を乗り出した。

「ヨシュタ王は不死身だといううわさがまことしやかに流れておりますよ。また、不思議な神通力をもっているとも言われておりましてな。その七年前の戦さの時、つまり王の次男のアダト王子が戦死した戦さですが、まったくの負け戦だったにもかかわらず、ヨシュタ王は傷ひとつ負うことなく、ナソス王を伴って敵中を真っすぐに突破して帰って来たと言われておりますよ。そのときの様は、まるで鬼神が野を突っ切るようだったと言い伝えられております。なにか特別の力に守られているとしか思えないと人々は口々に言い合ったものでした。それも彼の不思議な出生と関わりがあるのかもしれんと多くの者が思っておりますよ。」

「そうですか。見えざる大いなる力が守ってくれていたのでしょうかな。ヨシュタ王には神の特別な恩調があるのかもしれませんな。」

「それにしても、ヨシュタ王の出生に立ち会われたウダヤ様が来られたというのは誠にうれしいことです。明日はきっとすばらしい日となりましょう。」

 族長のメシリムは上機嫌でそう言い、

「さあ、いよいよ踊りが始まります。楽しんでいただければ。」

とウダヤ師にささやいた。

 六人ほどの部族の若い娘たちがちょっとはにかみながら登場した。美しく着飾り、それぞれがかわいらしい髪飾りをつけていた。脇に控えた者たちが音楽を奏でると、彼女たちは音楽に合わせて舞い踊った。素朴な、けれど心温まる踊りだった。

 

 次の日、メシリムは馬車を用意し、ウダヤ師とユビュを乗せると自分も乗り込んだ。また、城には部族の若者をやって知らせていた。

 三人がレゲシュの街に着いたのは午後になってからだった。塔門の頂上には色鮮やかな旗幟がひるがえり、門の両側の城壁には、恐ろしい顔をした翼をもった神々や、獣たちを従えた王の姿などが描かれていた。

 門の前では出迎えの高官が待っていた。ウダヤ師たちは高官に導かれて宮殿まで続く大参道を進んだ。大参道の両側には、石で刻まれた翼獣神が並び、さらに多数の立派な建物や塔が見渡せた。

 三人が待たされた部屋は大きな部屋だった。壁や天井には巨大な壁画が描かれていた。一枚の絵では、大地の母と思しき女神が、身をかがめて大地を支えていた。また、瞑想する神の回りで、人々が踊り狂い、その上で太陽がさんさんと輝いている絵もあった。丸い大地の上で、星々がきらめき、恐ろしい顔をした神が、破壊の踊りを踊り、大地が裂け目を生じている絵もあった。泣いている神々がひざまずく大地に、無数の天使に守られた主神が降り立つ絵もあった。

 そんな絵の中で、ユビュがもっとも心を捉えられたのは、ひとりの杖をもつ白い衣に身を包んだ神が大地の上に立ち、その杖から発する光が大地を照らし、その光りに照らされているところでは、動物や人間が棲息し、その光があたってないところでは、人が死に絶え、植物が枯れている絵であった。そして、光の当たっていないところに、黒い衣に身を包み、頭にも黒い頭巾をかぶった神がやはり一本の杖をもって立っていた。その神の杖からは、まるで闇が大地に向けて放射されているかのようであった。

 これらの絵の中に、人間たちの心の奥底にうずまく情景が投影されている、そうユビュ感じ取った。ユビュは一枚一枚の絵に描かれたものを丹念に観察していたが、そうこうするうちに、一人の老人が召使いを引き連れてやってきた。待っている間、緊張のため、そわそわして落ち着かなかったメシリムは、その老人を認めると顔をほころばせた。

「おお、サマディー、久しぶりじゃのお。達者か?」

 二人は抱き合って再会を喜びんだ。サマディーはウダヤ師の方を向くと、

「おお、こちらが。」

と言って、じっとウダヤ師を見つめ、しっかとウダヤ師の手を取った。

「二十数年前を思い出しますな。わしはあのとき近くにおりましたが、懐かしい。おお、こちらはお孫さんですか?」

 そう言って、サマディーはユビュの方を向いた。

「ユビュと申します。」

 そう言ってユビュが頭を下げると、ウダヤ師は言った。

「二十数年前は娘を連れて来たんだが、今回は娘の生んだ孫を助手として連れて来ましてな。こんな遠方に旅するのは初めてなので、見るもの聞くもの珍しいものばかりのようで、毎日眼を輝かせておりますよ。」

「それはなにより。それにしても、かつて一緒に来られた娘さんに瓜二つですな。このレゲシュには珍しいものが数々あるはず。ぜひ、ゆっくりなさり、思う存分に堪能してくだされ。さて、王はしばらくすれば来られます。それまで、もうしばらくお待ちくだされ。」

 サマディーはそう言うと、配下の者に指示を出し、さらに談笑を続けた。しばらくすると、従者が戻って来てサマディーに耳打ちした。サマディーはうなずき、ウダヤ師の方を向いて、

「ヨシュタ王を呼んで参りましょう。もうしばらくお待ちくだされ。」

と言い、部屋を出ていった。

 しばらくすると、サマディーがヨシュタを伴って入って来た。ヨシュタは立派な青年に成長していた。精悍の顔付きの中にも、真実を見通す思慮深い眼光と物に動じない落ち着きが見て取れた。

 ウダヤ師はひざをついて頭を垂れ、ユビュもそれにならった。ヨシュタはびっくりして駆け寄った。

「なんということを。もったいない。あなた様は恐れ多くも私の命の恩人と聞いています。」

 そう言うと、ヨシュタはウダヤ師の手を取って立ち上がらせ、自分がひざまずいて言った。

「あなた様のことは、子供のころから何度となく聞かされてきました。私の出生のとき命を救ってくださったウダヤ様にぜひ一度お会いし、お礼申し上げたいと長い間思い続けておりました。はからずも、今日こうして突然お会いすることができ、感激は言い知れないものがあります。神様に感謝しなくてはなりません。」

 ウダヤ師は、ヨシュタの手を取ってゆっくり立ち上がらせ、

「あなたがこのように立派に成長され、私も喜びに耐えません。それにしてもなんと立派に。」

と言って涙を見せた。

 サマディーが、

「積もる話もございましょう。今、料理と酒が運ばれて参ります。どうぞゆっくりなさってください。」

と言って、四人をそれぞれ座らせ、召使いたちに宴の準備を命じた。

 次々に料理と酒が運ばれてきた。ヨシュタは召使いたちに酒を注がせ、ウダヤ師、ユビュ、メシリムに料理を勧めながら、問いかけた。

「ウダヤ様、遠い東方の国からわざわざお越しくださり、ほんとうにありがとうございます。それで、今回は、どういう目的で来られたのでしょうか?」

 ウダヤ師は巧みに答えた。

「私は東方の国に住む医者ですが、医術はこちらの方がはるかに高い技術を誇っています。二十数年前、私は、国では、一流の医者との評価を得ておりましたが、西方にもっと医術の進んだ国があると聞き、どうしてもその技術を習いたくて、この国にやって来たのです。そして、その途中にあなたの出生に偶然立ち会ったのです。私はこの国で医術を修め、国に帰って医者として暮らしておりました。ですが、ようやく息子も一人前になり、仕事を任せられるようになりました。すると、どうしてもあのとき助けたあなた様がどうなさっているか知りたくなり、それで今回こうして来たわけです。」

「そうですか。ほんとうにありがとうございます。ですが、遠い道程には何かと危険や不自由があったでは?」

「お気にかけていただいてありがとうございます。ですが、医者というものは、どこでも敬意を払われておるようで、さしたる危険な目に会うこともなくここまでやって来れました。商人たちにも親切にしてもらいましたし、遊牧の民の世話にもなりました。」

 ヨシュタはさらに、自分の出生のときのことを尋ねた。

「私を生んだとき、母のイリアはもうろうとする意識の中で、世界が真っ青な光に包まれるのを見たと、言っていました。母が私を生んだときのことを聞かせていただけませんか?」

「あれは自分でも奇跡を見たと思いました。医学の知識で言うなら、母親も赤子も助かる状態ではなかった。あなたのお母さんが見た青い光というはこの光です。」

 そう語ると、ウダヤ師はもって来ていた袋から箱を取り出し、その箱の蓋を開けた。突然、まばゆいばかりの青い光が部屋中に発せられた。ヨシュタは驚嘆し、サマディーや召使いたちは目を伏せた。

「これは、ブルーポールという尊い棒で、生命の源をつかさどる力があると言われています。万能ではありませんが、死を克服する聖なる力を宿しています。あのときは、このブルーポールを使いました。このブルーポールをあなたのお母さんにかざすと、事切れる寸前だったお母さんの顔から苦痛が消え、命がよみがえりました。そしてあなたが生まれたのです。ですから、あなたは、このブルーポールの申し子と言ってもいいでしょう。その力はあなたをこれまでも守って来たはずですし、これからも守り続けるでしょう。」

 ブルーポールに驚愕するヨシュタは口ごもりながらも、興奮気味にウダヤ師に尋ねた。

「そのポールはいかなる由来のあるものなのでしょうか。およそ、この地上でそのようなものを見たことも、また、聞いたこともありませんが。そのような神のごとき超越的な力の発現するポールが、現実にこの地上にあること、それ自身がとてつもないことに思えます。」

 この言葉に対して、ウダヤ師は平静さを保って語った。

「このポールは世界に七本あると言われており、あとの六本はそれぞれの神が持っています。なぜこの一本を私が持っているかについては、それなりのいわれがあるのですが、今は、これ以上は聞かないで下さい。ただ、このブルーポールの力があなたを守り続けているのは確かです。そして、時が来て、このブルーポールがあなたにとって必要な時がくれば、このポールはあなたのものになるでしょう。」

 この不思議な言葉をヨシュタは噛み締めるように聞いていたが、やがて冷静さを取り戻して語った。

「少し、分かったような気がします。私はいつも不思議に思っていました。なぜ運命がいつも私の方を向き、自然に道が開けるのか、不思議でした。でも、少し謎が解けたような気がします。」

「私は元気に成長されたあなたを見ただけでも満足ですが、それにしても遊牧民の子が王になっておられる。たしかに、ブルーポールの加護があったのかもしれませんな。あなたの未来は光り輝いておりましょう。」

「ありがとうございます。そして、今日はこうして命の恩人に訪ねて来ていただき、こんなうれしいことはありません。どうぞ、ゆっくりくつろがれ、楽しい時をお過ごしください。この宮殿には何日留まっていただいてもけっこうです。また、医術の情報を必要とされるなら、私の国の名だたる医師たちを呼びましょう。遠路はるばる来てくださって本当にうれしい限りです。」

 サマディーがヨシュタに目配せし、ヨシュタが軽くうなずくと、音楽隊が現れ、踊り子たちが現れた。甘美な音楽が流れ、踊り子たちが美しく官能的な舞いを舞った。昨日のメシリムのテントでの舞いとは比べものにならない洗練された美女たちが揃い、艶かしく美しい踊りが繰り広げられた。

 すると、一目で身分の高い女性と分かる二人の婦人が入ってきた。二人がヨシュタの隣に座ると、ヨシュタはウダヤ師とユビュに紹介した。

「こちらが妻のクマールです。そしてその隣がクマールの妹のウルヴァーシーです。」

 ユビュとウダヤ師の眼が惹きつけられたのは、妹のウルヴァーシーのはっとする美しさだった。すらりとしたスタイルにこの上なく清楚な美貌。そのまなざしは涼やかでかすかな微笑みを湛えている。

 二人はそれぞれウダヤ師とユビュと簡単な挨拶を交わしたが、その雰囲気には大きな差があった。クマールの方は表情に温かみがなく、つんとした高慢さが感じ取られた。夫のヨシュタに対しても、見下したような感じがその表情から読み取れた。それに対して、ウルヴァーシーの方はまったく違っていた。生き生きと輝く清楚な瞳からは、温かく優しい雰囲気が溢れ出していた。年齢も十歳以上違うように見え、クマールはヨシュタよりも年上のようだった。

 ウルヴァーシーはユビュとたいそう親しく歓談した。ユビュはウルヴァーシーの生き生きした表情、のびやかで屈託ない純真さ、なんにでも興味を持つ好奇心の旺盛さに惹かれ、久しくなかったほど明るい気持ちになった。その二人の様子は、はたから見ているとまるで昔からの幼なじみの友達どうしの再会のようでもあった。

 一方、ウダヤ師は東方の面白い話、珍しい文物や習慣について次々と紹介した。

「街行く人々は絹というすべすべした着心地の良い布でできた服を着ております。」

と言って、ウダヤ師は絹の布を見せて皆に触らせ、

「向こうにはクジャクというたいそう美しい鳥がおり、その鳥の羽は様々な飾りに使われています。」

と言って、クジャクの羽も見せた。

 さらには、

「ここでは粘土板に文字を刻むようですが、東方の国には粘土板はありません。竹や木を繋ぎ合わせた木簡というものに墨を染み込ませた筆で文字を書くのです。」

と言って、木簡と筆と墨を見せた。

 人々はそんな話に興味津々だった。ウルヴァーシーも目を輝かせて聞き入り、時には色々と質問をはさみながら会話に加わった。こうして宴は夜まで続いた。

 

 次の日、朝食の席でユビュはウダヤ師に語りかけた。

「ウダヤ様、ヨシュタは立派な王になりましたね。私たちの期待に応えてくれるのではないでしょうか。」

「そうだな。昨夜はこの国の現状や将来、政治のことなどはそれほどは聞けなかったが、話の断片やいろいろ耳にした話からすると、ヨシュタは快楽にも富にもさして執着がないようだな。彼がひたすら思いを描いているのは、立派な行為、すなわち、この国を繁栄させ、民を富ませることのようだ。素晴らしい王というべきであろうな。」

「そうですね。ヨシュタは現在の繁栄にも必ずしも満足せず、さらにレゲシュを発展させるためにどうすべきか、ひたすら考えているようですね。」

「そうだな。ただ、今後の発展において、これまでの遺恨のある隣国のチベールとのことは簡単には済まされまい。」

「でも、今は、平穏な状況にあるように見えますが。互いに平和を守り、共存共栄の道を歩むことは可能ではないのでしょうか。」

「表面的にはたしかに平和が保たれているかもしれぬ。だが、両国が隆盛の道をたどればたどるほど、並び立つのは難しくなる。」

「やはりそうなのでしょうか。人間たちのやることには所詮、限界があるのかもしれませんね。どの国にも争いがつきものなのでしょうか。でも、人間たち自身に争いを鎮め、平和を維持する力がないとしたら、どうやって宇宙の創造の火を守ってゆくことができるのでしょう。ただただ、ムチャリンダの策謀に飲み込まれるだけになってしまいます。」

「わしもそのことを考えていた。ユビュ、人間たちをよく見てみるがいい。ほとんどの者たちは、目の前の狭い領域のみに血眼になって生きている。そのような者たちに真の力を期待することはできまい。だが、人間たちの中には本当の意味で見所のある者たちもいる。そのような者たちの英雄的行為だけが、断崖に立たされ、今にも奈落の底に落ちそうな人類を救うことができる。ヨシュタはその一人だろう。」

「そうかもしれませんね。ヨシュタのあの思慮深いまなざしには心を打つものがありました。それでこの国のことはヨシュタに任せておけばよろしいのでしょうか?それとも私たちは何か寄与しなくてはならないのでしょうか?」

「どのような英雄も所詮は一人の弱々しい人間に過ぎない。一人の人間の力には限界もある。もちろん、彼の回りの多くの者たちが彼を支えるだろうし、ブルーポールの加護もあろう。だが、おそらくそれだけでは十分ではあるまい。英雄には必ず大きな危難が降りかかる。遠からずヨシュタもその試練を受けねばなるまい。それを彼が乗り切れるかどうか、我らは注意深く見守り、いつでも彼を助ける準備ができていなくてはなるまい。」

「分かりました。ヨシュタは真実を奉ずる騎士として、この地上に平和を広めねばならないのですね。」

「その通りだ。だが、ヨシュタを助けるためにも、我らが彼を助けることのできる環境作りをせねばならん。我らは神だ、だからおまえを助けようと言うわけにもいかんしな。あくまで、遠い国の人間として彼を助けることのできる形が必要なのだ。」

「そのためにはどうすれば良いのでしょう。」

「まず、ヨシュタ王の信頼を勝ち取ることが必要だ。そして、国政へ関与ができる状況を作り出すこと。そしていざというとき、我らが彼に力を貸すことのできる環境を作ることだ。わしはまず医師として信用を高めようと思っておる。そうすれば、きっと宮廷の中に入り込め、いろいろな情報も取れるし、ヨシュタと言葉を交す機会も多くなり、また、医師としてのみならず、彼に対する助言者としての我らの信用を勝ち取ることもできよう。だが、ユビュ、わしにはもう一つ気になることがある。クマールとウルヴァーシーのことだ。おまえも見ただろうが、クマールは心の冷たい女だ。一方、妹のウルヴァーシーは才気にたけ、しかも女性としての魅力に溢れている。」

「ええ、ウルヴァーシーを見たとき、ラクシュミー女神の化身かと思ったほどです。」

「そうだな。あの美貌は、まさに世界創造の海の泡から生まれたという美と幸運を司るラクシュミー女神のごときかもしれんな。ウルヴァーシーをラクシュミーに例えるなら、姉のクマールは、不幸を司るというラクシュミーの姉アラクシュミー女神に例えられるかもしれんな。おまえは二人を見るヨシュタの目を見たかね。」

「ええ、二人は大きく違っていました。たしかに、ヨシュタはウルヴァーシーの方によりやさしいまなざしを投げていたようにも思えます。」

「おまえはまだこういうことはあまりよく分からないかもしれないが、あのまなざしは危険だ。見たところ、ヨシュタとクマールの関係は冷めており、一方、ヨシュタとウルヴァーシーが互いに相手を見る目には熱いものが感じられた。」

「それはやはり危険なことですか?」

「わしには危険なことのように思える。それが何を引き起こすかは分からないが、危険を感じる。とんでもないことにならなければよいがと思うが、今は見守るしかない。ともかく明日からはさっそくレゲシュの医師たちと会うことにしよう。」

 

 ウダヤ師とユビュがレゲシュの宮廷に留まることにすると、サマディーがふたりのためにそれぞれの部屋を用意してくれた。召使いや下僕たちもやってきた。

 ユビュが逗留することになった部屋は庭に面した気持ちの良い部屋で、床には魚たちが泳ぎ回る絵柄のタイルが敷き詰められ、壁には鮮やかな色で、チューリップや百合などの植物、キツネやウサギなどの動物たちが描かれていた。マーシュ師の館でのユビュの部屋より立派であるのはもちろん、かってのヴァーサヴァの館のどんな部屋よりもはるかに豪勢だった。

 部屋の窓を開けると庭の木々が青々と茂り、真ん中の木には大きなオレンジがたくさん実っていた。ベッドは大きく、真っ白でふっくらした掛け布団がかかっており、壁際には、金の容器や銀のランプ、さらにはすてきな置物や彫刻が飾られていた。

 召使いが用意してくれた風呂に入ると、陶器の浴槽に張られたお湯にはかぐわしいラベンダーの香りが漂い、上等な石鹸も用意されており、蛇口からお湯が出てくるのにもびっくりさせられた。そして、お風呂からあがると、控えていた召使いたちが柔らかなタオルで全身を拭いてくれるのだった。

 ウダヤ師とユビュはヨシュタの母イリアにも会うことができた。質素だが上品な衣服に身を包んだイリアはふたりを迎えると丁寧に笑みを浮かべて言った。

「ウダヤ様。よく覚えておりますよ。あの日のことはどれほど感謝しても感謝しきれるものではありません。ほんとうによく来て下さいました。ほんとうはすぐにでも会いたかったのだけど、私も年を取って体の方もあまりすぐれないし、あまり賑やかな場所に出るのもおっくうなので失礼してしまいました。」

「いえいえ、いいのですよ。こうして再びお会いできただけでほんとうにうれしく思います。あのときのお子さんが王になられているのを目の当たりにして、私としても夢を見ているかのような心地です。」

 ウダヤ師の言葉に、イリアもうなずいて言った。

「そうですよ。ほんとうに。あれから信じられないことばかり起こりましたから。」

 そう言うと、彼女はふたりに座るように言い、菓子や酒を勧めてくれた。

「お嬢さんは、あのときの娘さんのお子さんとか。素敵なお孫さんですね。お酒は飲めないの?」

「ええ、私はお酒はちょっと。」

 ユビュがそう答えると、イリアは微笑んで言った。

「かわいらしいお嬢さんだこと。では、ミントティーでも持ってこさせましょう。この地方のミントの葉は特上ですからね。」

 男性の召使いがミントティーを運んでくると、その男は、ミントの葉がたっぷり入ったティーポットを高く掲げ、ユビュの目の前に置いたカップに高い位置から注ぎ入れてくれた。

「こんなふうに入れるんですか?」

 ユビュがちょっと目を丸くすると、男は左手を胸のあたりに添えて言った。

「さようでございます。こうすることでいっそうおいしくなり、香りも立ちこめるのです。あとは、お好みで好きなだけこの蜂蜜を加えてお召し上がり下さい。」

 ユビュがミントティーを味わっている間、ウダヤ師がここでの生活のことを聞くと、イリアはちょっとため息交じりに言った。

「ここでの生活に文句は言えません。部族の生活とは比べものにならないくらい便利で贅沢なのですからね。さっきのような召使いもたくさんいて、みんな私にかしずいてくれますし、食べる物や飲み物だっておいしいし。でも、正直言うと、ここでの生活は息が詰まります。籠の鳥のような気分になることもあります。自由に出歩くこともできませんしね。」

「たしかに、王母様となれば、そうかもしれませんね。」

「ええ、だから、私にとっては、ヨシュタの成長だけが楽しみでした。」

「で、そのヨシュタは王になられた。」

「ええ、でも、私には戦争や政治のことはよく分かりません。好きでもないし。それに、ヨシュタも夫婦関係は冷めているようで、子供もできませんし。」

「そうですか。それはしかし。」

とウダヤ師が言葉を濁すと、イリアは続けた。

「ほんとうはこんなことはあんまり言ってはいけないんでしょうけど、ほんとうは、あの子は姉のクマールじゃなくて、妹のウルヴァーシーが好きだったんですよ。妹の方がかわいくて気立ても良いですしね。でも、王位を継ぐ立場になるには、姉のクマールと結婚するほかなかったわけです。子供ができないのも夜の関係がないからでしょう。それにクマールも気位の高い女ですし。今も、ヨシュタは所詮、羊飼いの子に過ぎない、ナソス王が取り立てなければ、今頃も羊飼いのままで、わたしの前で眼を上げることをできないはずだったのに、とか言っているそうです。」

 やはりそうなのかとウダヤ師もユビュも心の中で思ったが、ウダヤ師はさらりとかわして話題を変えた。

「政の世界は難しいですからな。ところで、お体の方がすぐれないこともあるとのことでしたが、どんな症状なのでしょう。この宮廷にも立派な医者はおりましょうが、私も医者の端くれ。この都の医者とは違う東方の医術も心得ておりますので。」

 イリアが体のことを言うと、ウダヤ師は病気や薬のことをあれこれ説明し、良い薬を宮廷の医者に届けることを約束した。

 別れ際、イリアは召使いに土産の品を持ってこさせた。

「たいしたものではありませんが、ほんの心ばかりのお礼です。」

 召使いがふたりに捧げた品は首飾りと短剣だった。

「この首飾りは、金と青色のラピスラズリと紅色のメノウを使ったものです。お嬢さんにお似合いだと思うのだけど。ちょっとつけてごらんなさい。」

 そう言われてユビュはその豪華な首飾りをつけてみたが、イリアは顔をほころばせて言った。

「とってもよく似合ってる。良かったわ。それからこの短剣はウダヤ様に。刀身は金でできていて、塚にはラピスラズリが使われています。さやも細金細工でできています。お偉い方が持つのにふさわしいものです。」

 ウダヤ師はお礼を言いつつ笑って言った。

「宮廷ではこのような権威の象徴が必要ですからな。ありがたくいただきます。」

 

 宮廷に落ち着くと、ユビュは、ウダヤ師とともに街に出かけてこの都のさまざまなものを見ることにした。ヴァーサヴァの館やマーシュ師の館しか知らないユビュにとって、レゲシュは見たこともない大都会であり、活気あふれた街だった。見るもの、聞くもの、すべてが物珍しく、ユビュはこの都の賑わいに圧倒された。

 日干し煉瓦を積み重ねた家が密集して連なる路地では、人々が行き交い、荷を積んだロバが通り、子供たちが走り回っていた。鍛冶屋が並ぶ区域もあったし、商人たちの店が続く区域もあった。農民たちは道端に座って、その朝採れた野菜を並べていたし、果物を満載した屋台、肉や魚、獣皮やミルクを売る屋台もあった。ちょっと裏路地に入ったところで、占いをして金を得ている女魔術師もいた。

 そんな街を歩いていると、立派な身なりをした人々が群をなして歩いてくるのが見えた。

「宗教行列じゃな。」

 ウダヤ師はそう言って、ユビュを道ばたに避けさせた。頭に聖職者とはっきり分かる帽子を被った祭司を中心に十数人の男女が付き添っていた。威厳に満ちた厳つい顔つきの祭司のあとには、まじめな表情の者たちが続いたが、後ろの方の者たち、特に女性は、にこやかな笑顔を浮かべて、道行く人々に手を振っていた。

「後ろの方を歩いているのは支配層の女性たちだな。」

 そうウダヤ師が説明してくれた。

「この行列にはどういう目的があるのでしょう?」

「しかとは分からんが、宗教的に意味があるのであろうな。それに、寺院勢力の権威付けにためにも必要なのかもしれぬし。ただ、後ろの方の女たちは、気晴らしとか、権勢を誇るとかのためかもしれぬがな。」

 その行列が行き過ぎて、再び街を歩いていると、上品な装いのユビュを見かけて、屋台の女が声を掛けてきた。小太りの中年女だった。

「お嬢さん。一つどうだい。甘くておいしいよ。」

 ユビュが目を向けると、女はナツメヤシを差し出した。口に入れると、甘さが口の中いっぱいに広がった。ヴァーサヴァの館でときどき食べたのより、はるかに大粒で、はるかに甘かった。

「こんなおいしいナツメヤシは初めて。」

とユビュが驚いたように言うと、横からウダヤ師も口を出した。

「では、わしも一つ貰おうかな。」

 ナツメヤシを口にすると、ウダヤ師は、

「たしかに、うまいな。では、一袋もらうとするかな。」

と言って、金を払い、ついてきていた下僕に受け取らせた。

「大盛りにしておいたよ。また来てくんな。」

と女は上機嫌に声を掛けたが、そこを離れると下僕は言った。

「ウダヤ様。とんでもない高値ですよ。もっとちゃんと値切らねば。」

 ウダヤ師は気にする風もなく答えた。

「たしかに、そうかもしれんな。次からはそうするよ。」

 さらに歩いて行くと、さまざまな色の布や織物を売る店、雑貨を売る店、陶器や宝石を売る店、装飾品を売る店などがあった。そんな雑然とした通りを荷を積んだロバが行き交い、魚売りの行商人が威勢の良い掛け声をかけていた。

 高級そうな衣類を飾った店や金細工や宝石を並べたきらびやかな店もあったが、そんな店には、籠に乗って貴婦人が乗り付け、店の前に立つ屈強な男が汚らしい子供や乞食が近寄ろうとするのを荒々しく追っ払っていた。

 ウダヤ師はそんな金細工の店の前で足を止めた。

「この店に入ってみよう。」

 店に入ると、さまざまな金細工の装飾品が並んでいた。店員にウダヤ師が声を掛けた。

「この子に似合いそうなのをいくつか見せてくれんか。首飾りがいいな。」

「こんな素敵なお嬢様でしたら、どんなものでもお似合いでしょう。」

 そうお追従を言いながら、店員が首飾りをいくつか並べてくれた。

「ユビュ、どうだ?」

「えっ、でも。」

 ユビュは途惑っていたが、ウダヤ師は店員が並べたものの中からとりわけ豪華な首飾りを選んで、ユビュに勧めた。

「これなんか、どうだ?」

 すかさず店員が弾んだ声で言った。

「さすが、お目が高い。お嬢様にお似合いなこと間違いなしです。」

「でも、私には。」

とユビュは遠慮がちに言ったが、ウダヤ師は笑いながら言った。

「宮廷での宴席や行事の際のことも考えねばな。それに今度ナユタに会うときにもつけるといい。」

 ユビュが

「はい。」

と小さくうなずくと、ウダヤ師は店員に言った。

「これをもらうとしよう。幾らかな?」

 店員はその首飾りを天秤に掛けて重さを量ると、値段を告げた。

「値切らなくて良いのですか?」

 ユビュが小声でそう囁いたが、ウダヤ師はあっさり答えた。

「良いんじゃよ。金だけは重さで値が決まるから値切る必要はない。ともかく、良いのが買えてよかった。」

 店を出て、広場まで行くと、外周部の一角に何本かのオベリスクが立っていた。それは歴代のレゲシュ王が建てたもので、例えば、次のように刻まされていた。

「我トゥドハリヤはヴァルナ神の加護のもと、偉大なる軍を率いてネシャの都市を夜襲し、占領した。ネシャの神シウシュミシュとネシャの王を連れてレゲシュに帰還した。ネシャの金銀と哀れな奴隷たちがそれに続いた。ネシャの街にはレゲシュの者たちを住まわせた。」

「我サバイヤはハラブの王に対して千四百人の戦士と四十台の戦車を率いて出陣した。余がまさに戦場に赴かんとするとき、ハラブの王が忠誠を誓いにやって来た。彼が王冠と笏を持ってきたので、余はそれをヴァルナ神に捧げ、ハラブの君主を伴ってレゲシュに帰還した。」

 最も新しいオベリスクは、先代の王ナソスが建てたもので、次のように刻まれていた。

「我ナソス、ヴァルナ神より授かりしこの土地を守り、広げ、孤児と寡婦を保護した。神より授かりし力により、国々をひれ伏され、その道を平坦にした。」

 そのオベリスクが示すのはレゲシュの歴史そのものでもあり、どのオベリスクにも記されているヴァルナ神がこの国の守護神であることも分かった。

 広場には、さまざまな人々が集まっていた。大道芸人たちもいた。曲芸をする者、口から火を噴く者、長い刀を飲み込む者もいたし、蛇使いもいた。

 夕暮れになると街中のいたる所に並ぶ小屋や屋台に人々が集まり、たいへんな賑わいになった。魚を揚げる匂いに、焼き立てのパンのほかほかした香ばしい匂いが混じり合っていた。

 ウダヤ師は下僕に言った。

「今日は、ここらの屋台で食べてゆくことにしよう。良い店を知らんか。」

「それでしたら。」

と言って、下僕は一軒の屋台にふたりを案内してくれた。ふたりが座り込むと、魚と野菜をたっぷりの香辛料で煮付けた料理が出てきた。食べ終わると、下僕が別の店で買ってきた油で揚げて砂糖をまぶしたお菓子を持ってきてくれた。

 ユビュは、その日、まさに、人々の暮らす匂いを実感したのだった。

 

 ウダヤ師はレゲシュの医師たちとの関係も深め、知識を交換し、意見を交わしたが、しばらく経つうちに、レゲシュの医師たちもウダヤ師の豊富な知識に一目も二目も置くようになっていった。

 実際、ウダヤ師はレゲシュの医師たちが知らないさまざまな技術を披露し、病人を治していった。貴族の一人が激しい頭痛を訴えてやってきたときもそうだった。レゲシュの医師たちの間では意見が分かれた。あるものは頭蓋切開を行うべきと主張したが、別な医師は、それでは患者が助かる可能性が極めて低いと言った。また、別な医者は薬を投与することだけを提案したが、それで大丈夫だろうと保証できる医師は一人もいなかった。どの医者も原因が分からず、困惑しているのは明らかだった。

 その時、後ろで見ていたユビュが控えめに声をかけた。

「以前このような患者を見たことがあります。ウダヤなら直せると思います。」

 医師たちの中には、ほんとうかというような疑いの目を向ける者も少なくなかったが、ウダヤ師は進み出て患者をしばらく診察すると、きっぱりした口調で言った。

「この患者は大丈夫です。頭蓋を切開する必要もないし、薬も必要ありません。任せていただければ、直してみせましょう。」

 レゲシュの医師たちは半信半疑だったが、誰も自信を持ってなすべき処置を判断できなかったので、ウダヤ師に任せることになった。

 ウダヤ師は診療箱から針を取り出した。それはレゲシュの医師たちがそれまで見たこともないやり方だった。ウダヤ師は注意深く場所を探して針を刺し始めた。最初の針を差し込むと、患者からは苦痛の表情が消え、次の針で患者は眠ったように静かになった。さらにウダヤ師は頭にも何本も針を刺した。

 レゲシュの医者の中には、

「そんなことをして大丈夫か?」

と言う者もあったが、ユビュは自信に満ちた表情で答えた。

「心配しないで下さい。ウダヤはこの方法で何人もの患者を直しました。見守っていてください。」

 こうして一連の処置が済むと、患者は深い眠りに就いた。ウダヤ師は言った。

「もう大丈夫。明日には元気になるだろう。」

 事実、次の日目覚めた患者はまったく何もなかったように元気になり、ウダヤ師にお礼を述べて帰って行った。

 数日後、ウダヤ師の元には、黒檀、象牙、没薬などの高価な贈り物が届けられた。患者の貴族からのものであった。

 この出来事はウダヤ師の評判をさらに高め、レゲシュの医師たちはこぞってウダヤ師に教えを請いに来た。その評判はヨシュタにも伝わった。こうして、ウダヤ師はただ単にヨシュタの命の恩人というだけでなく、賢明で最高の知識と技術をもった医者という名声を確立していった。そして、ウダヤ師とユビュがヨシュタと話をする機会もひんぱんに増え、その中で、次第に医術や健康のことだけでなく、この国のこと、政治のことなども話題になるようになっていった。

 そんなある日、ヨシュタは真剣なまなざしで語った。

「私は戦いの中で育ち、成長してきました。そして戦いの中で先のナソス王の信頼を得、この王位を得ました。戦いこそが今の私を在らしめています。しかし、これから先も、力に頼り、戦いに頼っていいものかどうか、たいへんに疑問を持っています。力に対して力だけで立ち向かうなら、永遠に争いが止むことはないのではないか。平和を築き、争いを永遠に鎮めることこそ我々がなすべきことではないのか、そういう思いを強くもっています。ウダヤ様のいらした東方の国はどうなのでしょう。やはり戦いに明け暮れているのでしょうか?それとも平和な国として存在しているのでしょうか?」

 ウダヤ師は巧みに答えた。

「東方の国は戦いに明け暮れてはいません。ここ、西方の国々のように小さな都市が互いに覇を競い、膨大な量の無用ないさかいを引き起こすということはありません。東方の国では、一人の王が広く国を治めています。その王は賢明かつ謙虚に、国のため、人々のために尽くすことのみを無上の喜びとしています。そして王は何よりも平和を尊び、法に則って国の秩序と治安を維持しております。」

「なぜ、そのようなことが可能なのでしょう?」

「東方の王は国の秩序と治安を守るだけでなく、経済を活性化させ、人々に喜びを与えています。王はさまざまな規制を撤廃し、自由な交易ができるよう市を整備し、さらには貨幣の規律を正し、度量衡を標準化しています。それによって市場には物が溢れ、人々は快活に暮らしています。平和な国を維持したいと思っても、民を力や法やましてや徳にだけ頼って治めることはできません。町の商人たちの蔵に食料がうず高く積まれ、物資が市場に豊富に出回って、はじめて民は礼儀節度をわきまえるのです。そして平和を享受する民の心こそが平和を維持する礎となっているのです。」

「市場を充実させ、諸国を行き来する商人たちの活動を活発化させることは私も努力しているところです。」

「それはよく分かります。実際、この国は東方の国に比べても十分に豊かです。市場には物が溢れ、商人たちは休む暇なく取引をし、人々は快活に暮らしています。その意味で、レゲシュの民衆の欲望は満たされ、国庫には莫大な貢物が納められ、国はますます栄えていると言えるでしょう。ただ、」

 そう言ってウダヤ師は言葉を切った。そして、少し声の調子を落として続けた。

「今のレゲシュは一見平和の中に繁栄しているように見えますが、それは力があって初めて実現できるものなのです。隣国との力のバランスが崩れればすぐに崩壊してしまう危険を孕んでいると考えたほうがいいでしょう。本来であれば、政は徳をもってなすべきかもしれません。王が品格と徳を備え、それによって政を行えば、民は自ずと感化され、平和で心豊かな国が実現する。それが理想でしょう。しかし、残念ながら、人類が誕生したとき、憎しみの心も芽生えたのです。人の心には、決して排除できない憎しみや妬み、恨みがうずまく領域があります。このため、人々の良心にだけに頼って真の平和を実現することはできず、法によって規制し、力によって抑える必要が出てきたのです。たしかに、法による規制は法をかいくぐろうとするずるがしこい人間、法の網にかかりさえしなければ何をやっても良いという厚顔無恥な人間を蔓延らせます。また力によって押さえつけることは、往々にしてそれ以上の大きな反発を呼び覚ましかねません。しかし、残念ながら、法と軍による以外、この地上では平和は確立できないのです。法と軍の力があって初めて徳も生き、その背景の中で経済活動が活発に行われて富が築かれてゆくとき、初めて真の平和な国というものが実現するのです。」

「そうですね。そういった意味では、我が国にとっては隣国のチベールとの関係が最大の懸案事項です。レゲシュは隣の都市チベールとは長年にわたって抗争を続け、恒久の平和が確立されたことは一度としてありません。これまでにもさまざまな取り決めがなされましたが、そのつど、理由をつけては破られてきました。今も表面的には平和が維持されているとはいうものの、たいへん脆いものだと思っておかねばならないのも事実です。」

 ユビュが口を挟んだ。

「近頃も諍いが絶えないようですね。武装した兵士が宮殿の中に駆け込んでくるのをよく目にします。」

「そうなのです。隣のチベールとのいざこざは増えるばかりです。これからどうなってゆくのか、実際、たいへん不安に思っています。あなた方の東方の国には恒久の平和が流布しているとのことですが、なんともうらやましい限りです。それにしてもなぜ、このように争いが絶えないのでしょう。人間の不幸の根源的理由はなんなのでしょう。たしかに、火を崇拝する私どもの信仰によれば、この世界は、光と真理と正義を嘉する善なる神ヴァルナと闇と虚偽と敵意に依拠する邪悪なる神ヴリトラによって創造されたと言います。」

 ウダヤ師が大きくうなずいて応じた。

「この前、拝火神殿を訪れ、この国の宗教について、神官たちからいろいろ教えてもらいました。」

 ユビュはついこの前ウダヤ師といっしょに訪れた神殿のことを思い出した。それは巨大な階段ピラミッド状の神殿で、頂上には聖なる火が燃えていた。神官によれば、その火は、善の神ヴァルナから与えられた聖火であり、常に消えることなく燃え続けているのだという。頂上までの階段の数は百八段であり、この百八というのは、善神が打ち破った悪の数だという神官の説明が印象に残っていた。

 ウダヤ師が続けた。

「かつてザラスシュトラという預言者がその教えを説いたということでしたな。聖典も読ませてもらいました。この世界が創造されたとき、ヴァルナとヴリトラが立ち会い、ヴァルナは善を選び、ヴリトラは悪を選んだ。そして、ヴァルナが光の世界を創造すると、ヴリトラは闇の世界を創造し、百八の厄災を生み出したということでしたな。」

「そうです。広間にある壁画をご存知でしょう。まさに、その光景を描いた壁画です。」

 そう言われて、ユビュは、この宮殿でもっとも心を惹きつけられたあの絵のことだと分かった。白い神が光を創造し、もうひとりの黒い神が闇を創造している絵だった。それが善神ヴァルナと邪神ヴリトラだった。

 ヨシュタが続けて説明した。

「あの絵で、白い神ヴァルナの杖から発せられる光の世界のものたちは生と喜びに満ちています。ヴァルナは世界の三界を測り、三界に形を与え、その中のあらゆるものを創造します。ヴァルナは雨を降らせ、河の水を流し、呼気によって風を起こします。一方、黒い神ヴリトラの杖から発せられる闇の世界のものたちは死と苦に満ちています。ただ、あの絵の中で、光と闇とが交錯する部分があります。それが私たちの世界なのです。」

 そう言えば、ヴァルナの杖から発せられる光とヴリトラの杖から発せられる闇は画面の中央で交錯していたのをユビュは思い出した。

 ヨシュタは話し続けた。

「だから、我々の歴史とは、まさに、この世界を舞台にした善と悪の二つの勢力の争いの場なのです。そして、すべての人間は人生においてヴァルナ神の軍団に加わり、悪の神ヴリトラとの戦いに否応なく参加しなければならないのです。なぜなら、ヴァルナの創造は、悪神ヴリトラに対抗してなされたものであり、世界から悪を取り除き、善を全きものとするためのものであるからです。」

「たしかに、世界は善と悪の二元的な力の抗争の場なのかもしれません。けっして安定した平和が最初からあるわけではありません。正義も必要なら、それを護る力も必要です。だが、あなた方の宗教で信じられているところによれば、最後には善の神ヴァルナが勝つのでは?」

「そうです。ただ、それはいつのことなのか。それは分かりません。だから、この地上の私たちは善の勝利のために不断の戦いを続けねばならない。それがザラスシュトラの教えでもあります。しかし、悪に勝利する道は戦いに勝利することなのでしょうか。最初に申しましたが、戦いによってものごとを切り開くのではなく、平和を目指す試みはないものかと思い悩んでいます。何かご助言はありませんか?」

「戦いではなく別の道で悪に勝利する道を目指す志はたいへん尊いものでしょう。そして、実際、平和的な解決の道もありましょう。ただ、他国より武力で劣っていたのでは、平和を目指す想いは暴風の中の木の葉のごとくとなるでしょう。平和を実現するには確固たる力が背景になければなりますまい。」

 

 ヨシュタとウダヤ師、ユビュの間では、しばしばこのような会話が交わされていった。そして、宮廷にいるウダヤ師とユビュには様々な情報が入ってきた。

 そんなある日、ウダヤ師はユビュに言った。

「隣国のチベールは武力を背景に近隣諸国を支配することを狙っている。それは明らかだ。しかも、次第に機は熟してきている。小さな諍いが大きな戦いの発端になりかねない。」

「ということは、安心できませんね。チベールは着々と軍事力の増強を図っていて、しかも、新たな征服地を増やす毎に軍事力は増大していると聞きます。私たちが何をなすべきか策を練らねばならないのではないでしょうか。」

「その通りだ。この国の情勢もだいたい分かった。一度、マーシュ師の館に戻り、ナユタたちに相談したほうが良いだろうな。」

 こうして、ウダヤ師とユビュはレゲシュを去ることにした。

 数日後、ウダヤ師とユビュはヨシュタに帰国の挨拶をした。ヨシュタは大変残念がって言った。

「ウダヤ様には医術のご指導を頂いたばかりでなく、政についてもさまざまな助言をいただき、私にとってはかけがえのない存在でした。引き留めるわけにも参りますまいが、ほんとうに残念です。」

 ウダヤ師は答えて言った。

「ありがたいお言葉、心に染み入ります。今回はこれで帰国させていただきますが、ヨシュタ王のためにお役に立ちたいという気持ちは今もこれからも変わりません。またいずれ、私かユビュが来ることをお約束いたしましょう。」

 この言葉はヨシュタを喜ばせた。ヨシュタはウダヤ師とユビュのための豪勢な送別の宴を張り、たくさんの贈り物を贈った。ウダヤ師とユビュの安全のために、信頼のおける隊商を同行させる手はずを整え、国境までは屈強な兵士たちに護衛させた。

 こうして、ウダヤ師とユビュはレゲシュを離れた。

 ウダヤ師はユビュに言った。

「機はしだいに熟してきておる。戦いの時は遠くないだろう。数年内に、雌雄を決する戦いが起こるのは必定だ。」

 

 その頃、ムチャリンダの城では、イムテーベが地上からの情報集めにやっきになっていた。そんな折、ウダヤ師とユビュがヨシュタを訪れたという情報をもたらしたのはサヌートだった。

 サヌートは言った。

「敵は、ヨシュタを軸に、地上での平和の回復を目指しているものと思われます。」

 これを聞くと、ルドラは吐き捨てるように言った。

「おろかなことだ。人間に何ができるというのか。所詮、偏屈な競争意識に凝り固まり、欲望に心の平静さを乱した輩に真の平和や協調などできるわけがない。それにそんな小さな国の平和が何だとういうのか。」

 しかし、イムテーベは思慮深く言った。

「だが、注意しなければならん。ヨシュタはウダヤによって超越的な力を与えられていると聞いている。ヨシュタは決して真の平和主義者でないだろうが、力によって世界を平らげ、その上で世界に平和を打ち立てないとも限らない。そしてその平和が人間たちにとって良いものとなれば、そのような平和を支持する声が広まり、世界に平和が蔓延してゆく恐れもある。」

 この言葉を聞くと、ムチャリンダも考え込んで言った。

「たしかにそれはまずいな。ウダヤの力に支えられて実現したまやかしの平和は、それが人間たちの真心や愛から出た真の平和ではなく、力によって維持された平和だとしても、人間の真の姿を隠蔽する力をもつことになろう。創造に対する誤った理解を神々の世界に蔓延させ、創造を支持する神々に勢いを与えることになりかねない。」

「その通り。我々の真の責務は、ウダヤの力によって生み出そうとするまやかしの平和を暴き、創造された人間たちの欲望や邪悪な心が何を生み出すのか真の姿を白日の下に暴き出し、人間の限界をすべての神々の眼前にさらし出すことです。」

「そのためには、ヨシュタを倒さねばならんな。」

 そうきっぱり言い切ったムチャリンダに対して、イムテーベは大きくうなずいて言った。

「サヌートからの報告では、ヨシュタの国レゲシュと領土を接するチベールという都市があり、チベールとレゲシュは紛争が絶えないとか。また、チベールを支配するバドゥラという王は、思慮深く、勇敢で、しかも冷徹で支配者としての相を携えていると言う。ルドラをチベールに派遣し、バドゥラをしてヨシュタを倒させてはどうでしょうか。」

 この提案にムチャリンダは即座に同意した。ルドラにも異論のあろうはずはなかった。こうして、ルドラはチベールに乗り込むことになった。

 地上の争いに神々が加わり、人間が天空での神々の戦いに翻弄される時代が始まったのだった。

 そして、ムチャリンダ陣営は世界に対して自らの主張を声高に喧伝した。

「この創造が何を生み出しているか、目を凝らしてみるがいい。生み出しているのは、殺伐とした荒涼たる世界だ。人間たちは混乱と喧騒の中で、汚物にまみれて生きている。そんな世界にどんな価値があるというのか。」

「地上における一時の見せかけの平和と平穏が人生の中にかすかな光を灯しているが、それはまるで闇夜の中の小さなろうそくの炎のごとくでしかない。人間たちは苦境にあっては苦しみにあえぎ、つかの間の平時にはただ人生を浪費している。そんな世界が一体何を生み出しうるというのか。」

「創造された世界の悲惨さは神々の心をも苛み、我らは日々割り切れぬ思いの中で夜も安んじて眠れない。なぜこんな思いをしてまで世界を維持しなくてはならないのか?創造の火を消し、世界をひと思いに破壊すれば、再び神々だけの平和な宇宙が戻ってくるであろうに。」

「マーシュの館での戦いではナユタが勝ったと言っているが、彼らはどのように創造を救ったというのか。創造を救うためのヴィジョンすら示していないではないか。」

 そのような声が次々と全宇宙の神々に対して発せられたのだった。

 

 一方、ウダヤ師とユビュはマーシュ師の館に帰ると、地上で見聞きしたことを逐一語り、最後にこう締めくくった。

「地球は幾多の混乱に苛まれていますが、新しい可能性がヨシュタを通して生まれ出ようとしています。それは平和と秩序、愛と協力によって、戦争よりもより多くのものが得られるということを大地の上に具現する試みなのです。これが成功すれば、回りの国々も、戦争よりも平和の方が多くを得られることに気づき、方針を変えてゆくでしょう。また、民衆も、戦争の熱狂よりも平和による果実を求めるようになるでしょう。ヨシュタは創造の地平線にきらめく新しい光なのです。」

 マーシュ師とナユタはうなずきながら耳を傾け、貴重な体験をしたユビュに暖かいまなざしを投げた。しかし、同時に、マーシュ師もナユタも冷静に状況を分析しようとしていた。

 マーシュ師は言った。

「ユビュ、ほんとうにご苦労だったな。そのようなヨシュタの存在は我々には頼もしい限りだ。だが、知恵のあるものは、危険がどこにでも潜んでいることを常に認識し、必要な策を講じておかねばならない。大地にはいまだに途方もない怒りが渦巻き、荒れ狂う風がいたるところから吹き込んでおるからな。」

 ナユタもうなずきながら言った。

「最大の危険は、万人が平和と秩序を真に望んでいるわけではないということではないでしょうか。人々の心は妬みや抗争心に煽られ、常に激情による破壊に傾きがちです。ヨシュタが作り出そうとし、我々が全世界に広がってゆくことを期待している平和は、相当の期間保たれて初めて人々の心を変えることができます。もし、ヨシュタが敗れれば、秩序は崩れ、失望が広がり、再び騒然とした世界が復活するでしょう。今のヨシュタは砂漠の中のオアシス、大洋の中にぽつんと浮かぶ小さな実りの島のごとくです。それを単に見守っているだけでは不十分なのではないでしょうか。一番大きな懸念は、ムチャリンダやイムテーベの策謀がヨシュタに向けられはしないかということです。」

 マーシュ師が応えて言った。

「その通りだ、ナユタ。我々はヨシュタから目を離してはならない。そして、危険を未然に防ぎ、彼の道を切り開いてやらねばならないだろう。」

 これを受けてユビュはそれまで考えてきた彼女の考えを言った。

「マーシュ様、私も同感です。私たち、創造を擁護する者にとって、ヨシュタは希望の星なのです。まずは、誰かをヨシュタの側にやってはどうでしょうか。」

「そうだな。たしかにそれが必要かもしれん。どう思う、ナユタ。」

「ええ、良い考えです。私も賛成です。」

「では、誰を派遣するかだが。」

 それにはナユタが答えて言った。

「シャルマはどうでしょうか?シャルマは、私たちの意志を理解し、この戦いの最初から私たちと行動を共にしてくれています。いつも沈着冷静で、思慮深く、私心もありません。シャルマにお願いしようではありませんか。」

 このナユタの案に、みんなが賛成した。さっそくシャルマが呼ばれ、シャルマは喜んでこの提案を受け入れた。こうしてシャルマはプシュパギリを伴って地上へ行くこととなった。

 一ヵ月後、シャルマとプシュパギリはユビュに伴われて、ヨシュタの宮殿に現れた。地上では一年の歳月が流れていた。サマディーが三人を出迎え、奥に案内してくれた。

 ヨシュタは一年ぶりの来訪を歓迎した。ユビュは丁寧に挨拶し、次いでシャルマとプシュパギリを紹介した。

「ここにいるのは、私のいとこでシャルマと言います。武芸、弁舌に優れ、軍事はもとより、政治や経済にも明るく、王のお役に立つものと思います。また、プシュパギリは武芸に優れ、特に、弓矢の天才です。近くで用いてくだされば幸いです。」

 ヨシュタは、大きくうなずいて言った。

「ユビュ殿の推薦とあれば、頼もしい限りだ。ぜひ私を助けてくれ。もしさしつかえなければ、そなたたちの武芸と弁舌を見せてくれぬか。また、政治や今後の我が国の進むべき道についても語ってくれぬか。」

 シャルマは笑みを浮かべてうなずき、

「では、まず、武芸からお見せしましょう。」

と言い、先端に小さな的のついた棒を三人の者に持たせて、庭の端に立たせて欲しいと申し出た。

 ヨシュタの家臣がその準備を整えると、シャルマは遠く離れた位置から、弓を引き絞った。ヨシュタを始め、宮殿の大勢が押しかけて固唾を呑んで見守ったが、誰もそう簡単にその小さな的を射れるとは思わなかった。しかし、静寂を破って、シャルマが矢を放つと、矢は真っすぐに的に向かって飛び、みごと的を射抜いた。歓声とどよめきが沸き起こる中、シャルマは二本目、三本目も射当て、さらに言った。

「この程度で驚いてはなりません。私はこの程度だが、白銀の弓を引くプシュパギリはどんなに複雑に動く的も射ることのできる能力をもっています。」

「そうか、ではやってみてくれ。」

とヨシュタが即すと、控えていたプシュパギリは立ち上がって白銀の大弓を取り出した。

「その棒をどのように動かしてもよいぞ。」

とシャルマが声をかける。

 三人は棒を大きくあるいは小刻みに揺り動かし始めた。緊張した空気が張りつめる中、プシュパギリが一矢を放つと、白銀の弓からはすさまじい音が起こり、矢はみごと的を射抜いた。プシュパギリはさらに立て続けに矢を放ち、三つの的すべてを射抜いたのだった。

 大きな歓声があがった。ヨシュタも興奮して讃えた。

「すばらしい勇士たちだ。こんな技はいまだかつて見たことがない。」

 こうしてヨシュタをはじめ人々の称賛を勝ち得たシャルマとプシュパギリはヨシュタの宮殿に留まり、ヨシュタの側近として仕えることになった。

 シャルマは、ヨシュタの政治、軍略の相談相手となり、新しい知識を次々と披露した。軍事面では、レゲシュの有力軍人との対談も行われたが、兵法に関して誰一人シャルマに勝ることはできなかった。対談が終わった時、チベールとの戦いで数々の軍功を上げたナソス王以来の重鎮であるアッガ将軍は頭を下げてこう言った。

「これまで数々の武人を知っているが、あなたほど兵法に明るい方はいなかった。是非とも、わが軍の力になっていただきたい。」

「よろしいでしょう。ただ、戦いは兵法だけで勝てるものではなく、実際に戦うのは兵士。その教練こそが軍の源となります。プシュパギリは弓にかけては天下無双、その武勇で右に出る者はありません。彼がレゲシュ軍の鍛錬を行えば、レゲシュは天下に名だたる軍となるでしょう。」

 アッガ将軍は顔をほころばせて喜んだ。こうして、プシュパギリはレゲシュ軍の強化に力を入れることになり、全軍の弓の指導、軍隊の教練を行ったのだった。そして、ヨシュタはシャルマの謙虚で思慮深い人柄、プシュパギリの知謀と武術にも深い感銘を受け、彼らを重用するようになっていった。

 ヨシュタのもとでのシャルマとプシュパギリの発言力が高まってくると、アッガ将軍は改めてふたりを訪ねてきた。信頼する二人の腹心、リムシュ将軍とナラム将軍がいっしょだった。

 剛胆磊落な雰囲気で恰幅の良いアッガ将軍に対し、リムシュ将軍は長身でやや神経質そうな細長の顔立ちだったが、頭の切れの良さでは軍中一二を争う存在であり、豊かなあごひげと口ひげの上で光る精悍な目が印象的だった。多くの城砦を戦わずして服従させてきた手腕も買われていた。

 一方のナラム将軍は三人の中では一番の若輩であったが、頭は既に禿げ上がっており、いかなる命令にも実直に従う忠実な部下という印象であった。周辺国との紛争ではしばしば先陣を切って戦い、いくつもの都市を落としていた。

 シャルマとプシュパギリが迎えると、アッガ将軍は笑顔で語りかけた。

「精力的にレゲシュのために活動され、ますます意気盛んなようですな。」

 シャルマも調子を合わせた。

「いやいやなかなか苦労していますよ。それになんと言ってもこのレゲシュの興隆のためには軍の力が不可欠ですので、皆様のお力なくしては何事も進みません。」

 アッガ将軍はこの言葉を聞いて上機嫌に言った。

「そうであれば、話は早い。今日はわざわざ来たのは今後の軍のことについてなのですからな。」

 五人が座に着くと、将軍は真顔に戻って語り始めた。

「いろいろ話さねばならんことはあるが、まず、ヨシュタ王のことから語らねばなるまい。既に感じておられるとは思うが、ヨシュタ王はかつては極めて勇敢な戦士で、それが故に王にまで登りつめられたのだが、王になられてからはむしろ軍事行動には消極的なように見える。だが、それは軍の軽視にもつながり、正直言って軍の強化はまるで進んでおらん。このままでは、周辺都市との争いにおいて蹉跌をきたすことにもなりかねん。」

 アッガ将軍の懸念はシャルマとプシュパギリも感じていたことであった。実際、ヨシュタ王が即位してから大きな戦いは一度もなく、ヨシュタは軍事から民事へと政の重点を移しているようにも見えた。

 シャルマはアッガ将軍の言葉に同意しつ答えた。

「おっしゃられていることは我々も肌身で感じているところであり、ご懸念はごもっともと思います。ただ、軍の力は実に国内の安定と経済の発展に大きく依存しており、また、レゲシュの民のことを考えれば、平和状態の維持こそ国のためというそもそもの国政の原則をヨシュタ王はまさに理解しておられるのだと思います。しかし、一方で軍の力がなければ、国内の安定も経済の発展もその根底から覆されるわけで、その意味では軍事力の重要性は決して軽視してはなりません。」

 リムシュ将軍が口を挟んだ。

「その軍の力の大切さをヨシュタ王がどこまでほんとうに理解されているのか、それに我々は疑問を持っている。ヨシュタ王は超人的な勇者とも言えるが、ひょっとして、その自分の力だけでこの国を守り切れると過信しておられるのではないかと感じることもしばしばだ。」

 さらに、ナラム将軍が付け加えて言った。

「国の繁栄を考えるとき、近隣諸都市との間での円滑でかつ当国に利のある交易が必要なはずだが、そのような交易を可能にする源は実に他国を圧する圧倒的な軍事力に他ならないはず。最近では隣国チベールと交易を巡る諍いが増え、レゲシュの経済に暗雲が漂い始めたとまではいかぬとしても無視もできない事態になりつつある。」

 シャルマはこれらの言葉をすべてうなずきながら聞き、次のように答えた。

「皆様方の軍に対する責任感と国の繁栄を思う強い思いはよく理解しております。基本的には皆様方のご意見に賛成なのですが、一つだけ申し上げたいのは、今は経済発展を優先すべき時期ということです。かつてこの国は何度も隣国チベールと戦ってきましたが、決定的な勝利を得ることはできておりません。それはなぜか。我が国の経済力では限界があるからです。経済を無視して軍を強くすることも一時的には可能ですが、それは本質的には国を破綻させるだけ。一方、このレゲシュは、私の見たところ、大きな経済発展が可能な素地がある。交易もそうですし、農業もそうです。しかも、今すぐ大戦争が起こりそうな気配はありません。ですから、今は経済を発展させるべきであり、時期が来て、軍の増強が必要なときが来れば、発展した経済力をてこに軍を増強するのです。」

 プシュパギリが付け加えた。

「ですが、今、軍の鍛錬を怠って良いいわれはありません。ですから、今後も軍の鍛錬を強化し、精鋭部隊にしておくことが重要ですので、これからも力を合わせて取り組ませていただきたいと思います。」

 アッガ将軍が言った。

「お二人の考えはよく分かった。正直言えば、今すぐ、軍の増強を図りたいのが本音ではあるが、シャルマ殿の言われたことはごもっともでもある。まずは経済をというのもそれで良いかもしれぬ。ただ、もう一つ気になるのは、今、シャルマ殿がおっしゃったことはヨシュタ王も同じ考えなのであろうか?そこが実のところ、とても気がかりでしてな。」

 この問いかけに対して、シャルマはちょっと難しい顔をして答えた。

「ヨシュタ王の基本的な考えは、私が先ほど申し上げたような考えと基本的に同じ方向とは思います。ただ、私が見るところ、ヨシュタ王は、戦いを止め、平和な経済発展によって国を繁栄させたいという思いが強すぎるようにも思えます。王妃のクマール様との間があまりよろしくないということは皆様もご存じかとは思いますが、聞くところによりますと、クマール王妃は、活発な外征や激しいチベールとの戦いを行ってきた父上のナソス王を引き合いに出してはヨシュタ王をなじっているとか。ヨシュタ王は、それを物事の道理を知らぬ女子供の戯言と軽くあしらってはおられますが、王妃への反発もあって平和政策により前のめりのようにも見えます。」

「まったく困ったことだ。クマール様は気位ばかり高いのでな。クマール王妃が言われることはまさに戯言で我らも迷惑しておる。この前も王妃から、ヨシュタ王の次男のアダト王子が倒された戦さへの報復はいつするのかと詰問され、軍を与る者として言いたくはなかったが、先ほどシャルマ殿が言われたような国の繁栄発展がまず大事と申し上げた。」

「それで王妃は何と?」

 そう聞いたのはプシュパギリだったが、アッガ将軍は不愉快そうな顔を見せて答えた。

「それが軍のトップの言うことですか。この国は王も将軍もこの体たらく。レゲシュの未来も暗うございますわね。そんな日を目にする前に、早くナソス王のもとへ参りたいものですわ。と言われたよ。まったく、いやはやだ。ただ、王妃がそんな馬鹿げたことを言うものだから、理に適った軍の強化の足枷になっておるとも言える。そのあたりもぜひシャルマ殿にうまく取り仕切っていただきたいと思っておりましてな。」

「分かりました。ともかく、軍の強化も重要という思いは共有しているわけですから、今後も協力し合ってレゲシュの繁栄のために力を尽くせればと思います。」

 シャルマはこのように応じ、アッガ将軍らとも良好な連携を保ちつつ、レゲシュの国政への影響を強めていったのだった。

 

2014年掲載 / 最新改訂版:2021722日)

 

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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』第2巻