裁判のレトリックと真相

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サイトの目的



1,裁判制度の告発


研究対象はありふれた民事訴訟

 裁判所、具体的には担当裁判官がどのような言動を示したか、そのような言動の真の、あるいは裏の意味は何であるのか。原告となる当事者がどのように考え、行動したのか。原告代理人弁護士の言動がどのようなものであり、やはり言葉の裏に隠された意図がいかなるものであったのかを、研究する。すなわち広義の裁判当事者の、審理プロセスにおける形式としての言動と、その動機となる実際の心理の対応関係、及びその帰結を明白にしたい。素材が自分自身の経験した、実際の裁判である。

 通常、裁判所を利用する当事者は、弁護士や裁判官から、このような実際の意味合いを教えてもらえない。これを明らかにするという意味では、裁判制度そのものの告発である。

 裁判といっても、世間の耳目を引くような大型の訴訟ではない。例えば、冤罪を訴える死刑囚の再審事件や、多数の死傷者を出した公共交通機関の事故の責任を追求する訴訟、薬害公害被害を巡る集団訴訟は、ここでの考察の対象ではない。ある程度、当てはまる所があるとしても、それらの裁判は、担当する裁判官も気合が入る。社会的に大きな話題となる裁判であれば、新聞雑誌に取り上げられるし、世論も考慮しなければならない。裁判官も手を抜けないし、下手なことができないだろう。ここで考察の対象とするのは、そのような類の訴訟ではなく、一般の市民である個人が企業や公的機関に対して、例えば損害賠償を求めるような平凡な民事訴訟である。対等な当事者同士の争訟では無く、弱者対強者の争いである。新聞なんかも見向きもしてくれない。沢山あるそんな価値もない判決として、落ち葉の下に埋もれて、やがては土に還ってしまうような裁判である。

 当事者となる個人にとっては、一生に一度、他に救済を求める手立てが無く、どうしようもない思いから訴訟を起こす。当事者としては、全権を握る裁判官の足下にすがってでも、何とか無念を晴らしたいと思っているかも知れない。

 裁判所とは司法的サービスを市民に提供するお役所である。市民の税金によって賄われている。裁判官は、たくさんの裁判を抱えながら、その一つの仕事として、日常のルーティンワークを、真面目に淡々とこなしているに過ぎない。訴訟を提起する市民にとって殺生与奪の権能を持つ裁判官は、一段高い壇上から市民を見おろしている。裁判官といっても、当事者に親身になってくれそうな人も居れば、そうでない人もいるだろう。対立する当事者の内のどちらが勝訴するか。誤解を恐れず、端的に言えば、それはサイコロを振って出た目で競う競技、要はその裁判官の気まぐれである。このお役所がなけければ社会が成り立たない。ところが裁判というものの実際を、多くの市民が知らない。

 このサイトは、裁判というものの実態を一般の市民に知ってもらいたいと思い公開するものである。従って、読者を一般の市民として想定している。法の専門家であることを予定していない。そこで、専門家には不要であろう用語や制度の簡単な解説をしながら、学問的正確性を多少犠牲にしても、できるだけ噛み砕いて記述している。もっとも、このサイトのような裁判批判を他に知らないので、法専門家にとっても興味深いのではないかと、密かに自負してはいる。

 そのために、読みやすさを優先したので、引用も最小限であるし、引用を行う場合も大雑把に著者名と書名のみとした(著者のご宥恕を願いたい)。

 法律研究者、特に実体法研究者は裁判の実際を余り知らないのではないかと、筆者の経験上思われる。研究者は、裁判というものを、教科書通りの理想型において理解していることが多い。筆者自信そうであったので、実際の裁判に、大いに驚かされたのである。

 参考にしたのが、瀬木比呂志や森炎の著作である。特に前者はまさに衝撃的であった。瀬木比呂志『絶望の裁判所』、『ニッポンの裁判』。森炎『司法権力の内幕』など。




裁判のレトリックとは何か?-サイトの名称


 判決文は、当事者の求める「裁判の趣旨」、「当事者の主張」、「裁判所の判断」からなる。当事者の主張には事実関係に関する主張と法的な主張が含まれ、裁判所は、争点を整理して、この対立点について判断を示す。裁判所の判断は裁判所による事実の認定とこれへの法の当てはめ(適用)としての結論である。

   以上が判決文の形式的構成である。

 実際の裁判では、瀬木前掲『ニッポンの裁判』によると、直感で得た事件の真相に基づき、裁判官が勝敗を決めると、判決というのは、その結論を法の装いによって正当化するものに過ぎない。法の装いとは、当事者主義と証拠法則のルールに則って、「事実の認定」を記述する。これに明文あるいは判例の法理を適用するという形式である。換言すればこれを操って、結論を理由付けるのであるが、その全体がレトリックである。

 これは法的リアリズムの説明として、非常に有名な帰結である。このサイトの筆者も、英米法の研究を通じて、法的リアリズムの系譜に属する。
 裁判所の頁で明らかにするが、判決に書かれている認定事実と法適用は、裁判官の直感で得た事件の真相とは異なる。

 このサイトでは、この両者の関係を扱う。これがサイトの名称である。裁判のレトリックと真相である。
 同時に、この裁判の原告は真実に反する判決に苦悶している。このことを訴えざるを得ない。しかし、裁判のレトリックと「真相」の研究としては、客観的に冷静に分析を行っている。この原告は法の研究者としてこのことが可能であった。




裁判所の真の民主化を目指して


 日本の裁判官は選挙で選ばれることが無い。裁判官が市民による選挙で選任される制度を有する国もある。日本の裁判官は、学生など若い人が司法試験に合格すると、そのまま、裁判所という閉鎖的なキャリアシステムに放り込まれ、一生を過ごす(瀬木『絶望の裁判所』、森『司法権力の内幕』参照)。若いうちから個々の裁判官が、いわば官僚制度としての組織内の論理と外に対する建前の使い分けを、組織の”因習”として修得ないし感得する。裁判所だけを責めるまい。多かれ少なかれ、日本の官僚組織にはそのような側面があるだろう。

 しかし官僚組織である行政府と比べて、裁判所という組織がそれとして厳しい批判に曝されたということは、筆者の比較的長く法に関わってきた人生の中で余り覚えが無い。確かに、個々の判決が新聞、雑誌など世論の批判を招くことがあったり、学者の法律研究としての評釈がなされたりする。裁判所はこういう批判に実に敏感である。学者らの判例批評に対しては、それが最高裁判決であると、裁判所からの反論が専門誌に良く掲載されるたりもする。また、裁判官は裁判中に裁判官を誘導するような世論を嫌うし、結果が保障されないなどとも言われるが、実は、相当気を遣うらしい。いずれにしても個別の具体的な事件についての批判や評論である。その意味でも、真っ向から裁判所という制度を批判する瀬木や森の著作は衝撃的である。

 もっとも政治家特に保守系の政党から、違憲判決など、司法による立法府への過度の介入だとして批判されたりもしよう。この場合、司法府という機関としての裁判所全体を批判の対象としている。これは三権分立による各権力間の均衡と抑制のシステムにより、一権の暴走を押さえ、国民主権と民主主義を守るという憲法体制の下で、選挙で選ばれた国民の代表である国会が優越するべきであり、非民主的な裁判所は謙抑的であるべきであるという主張である。筆者は、この系譜に属する裁判所批判をするものではない。

 日本の裁判所は余りに謙抑的であり、むしろ市民の権利を十分守り切れていないきらいがある。「政治」権力ないし行政的権力に迎合的ともいわれる(瀬木・前掲書、森・前掲書、参照)。もっと市民よりで、民主的な裁判所、真に法に中立的で、法を守るために積極的な裁判所となってほしいと祈るものである。

 弁護士は、弁護士会として行動するときには、裁判所に対して批判をすることが有り得る。例えば、最高裁による審理期間の過度の短縮化方針に対しては、丁寧な審理こそ必要であるとする反論がなされたりもする。しかし、裁判所制度そのものに対する瀬木のような徹底した批判がなされるということは耳にしない。

 地方の弁護士が個々の裁判官を非難するということも考えにくい。具体的事件における神である裁判官に逆らうと、後々面倒が起こりかねないのである。その裁判所で影響力のある裁判官であったりすると、個人的な恨みを買うことになって、その管内ではその弁護士の担当する裁判は決して勝てないという結果を生じることすら考えられるからである。裁判官は転勤が必至であるから、その裁判官がいなくなるのを静かに待つしかない。

 裁判所は、社会においては「権威」により、私人間の紛争を「法的に」解決する。一個の人間の人生を、生身の人間が左右する。その責任を真っ向から被り、その後の人生を生きていかねばならないとすると、そんな決定をやすやすと行い得るものであろうか。裁判官は職業的に淡々とこれを行う。その価値判断を、法的なレトリック=法の形式論の背後に覆い隠しながら。そうしてその責任を回避し、「法」のせいにする。

 そうはいっても、「裁判官も人の子」である。判例という一般的な裁判所の傾向に逆らわず、組織の論理などに影響されつつ、広い意味で自己保身的でもある職業的決定を行うと、ある当事者の人生に対する責任を痛感せざるを得ないときもあろう。そういうとき、個々の裁判における決定をあくまで正当化し、自己嫌悪に陥らない方策が、敗訴当事者を徹底的に嫌うというものである。裁判官はそのようにして心理的に漸く健全たり得る。健全というのはその職業を全うできるという意味である。

 裁判官は、絶対的身分保障を与えられ、国会の弾劾裁判によらなければ罷免されない。組織内で冷や飯を喰らい、僻地の裁判所を回らされる羽目に陥るという組織内制裁は別論であるが、なあなあにやってさえいれば、経済的にも恵まれた、人の羨む職業であろう。その裁判官は、「法」と自己の良心にのみ拘束される。

 「法」という客観的に存在するテキストはあるとしても、その客観的で絶対的な意味内容が存在しない。イージーケースを除き、いかようにでも解釈し結論を出すことができる。規範的議論のテクニックを修得していれば良いのである。具体的事件の解決にとって決定的であるのはむしろ事実関係の実態的認識(真相)と判決に記述される事実認定である。実際に裁判の勝敗を決することになるのが裁判官の具体的な価値判断であるとすると、その根本にあるその「人」=裁判官の価値体系を「良心」と呼ぶことができようか。その良心は、個々の裁判官の生まれ育った環境、家庭や学校での教育、法学教育、そして裁判所組織内「倫理」あるいは掟の下で形成される。司法試験に合格した若者が新米裁判官として出発し、組織内において仕事を覚えていくのであり、やがて組織からみて使い物になるように鍛えられるのであろう。

 市民は、裁判所をコントロールし得ない。最高裁裁判官のまるっきり形式的な審査を除いて、選挙がないからである。非民主的組織である。裁判所が、国家機関、地方政府や大企業・組織の肩を持つのではなく、真に市民に向き合うためには、市民が手続的な強力な権利を有する必要があるというのが、筆者の結論となる。

 候補となるのが、大きな組織が内部に隠し持つ証拠を強制的に開示させる証拠開示制度と、市民の集団的な力を容易に結集し得る改良された集団訴訟制度である。裁判所が手続的な既得権を手放すはずがない。これら制度がそのことを意味するなら、徹底的に抵抗されよう。例え、その方向性での法制度の改革があるとしても、市民の与り知らぬ国の審議会において、裁判所としての抵抗に遭って、法案が国会に上程されるときには、骨抜きにされ、あるいは裁判所の裁量に係るものとされ、市民の強力な権利となり得ない恐れがある。結局、裁判に負けては意味が無いので、裁判所がいい顔しないからと言って、弁護士が自主的に申し立てない制度となってはならない。他には、法曹一元論(瀬木前掲参照)や憲法裁判所の創設など考えられる。

 これらの研究を世に問う仕事は別途行う予定であり、このホームページでは、究極の目的のみを呈示するに留める。




2,大学はハラスメントの巣窟

(ハラスメントのデパート?)


 他の目的は、大学という高等教育機関がハラスメントの温床であり、どのようにしてアカハラ、パワハラが集団性・組織性を帯び、長期間に渉り継続するものかを記述することである。

 
国立大学というのは、かつて国家機関であったが、現在は独立行政法人であり、厳密には国家機関とは言えない。しかし、職員は公務員に準じる地位を有するとされ、文科省の下部機関として従前と実態は全く異ならない。国により各都道府県に設置された高等教育機関であり、学問の府である。教員は、特に教授となると、その地域における名士であり、学生はエリートとされる。

 そのような最高の学問の府であり、社会に期待される高等教育機関である国立大学の中で、いかにしてアカハラ、パワハラが「通用し」、いかようにも救済の与えられないものであるのかを、社会に告発するのがこのサイトのもう一つの目的である。


 
近時は、特に学生、院生と教員との関係におけるアカハラ、パワハラが問題視され、大学も神経を相当に使っている。多くの大学で、人権相談の窓口が整備され、このような「特別権力関係」にある構造的な弱者の、不十分であるとしても救済が試みられるようになった。しかし、教員同氏あるいは事務職員間の関係におけるそれは余り顧みられない。

 愛媛大学だけの問題ではなかろう。筆者は、院生時代に、母校の教員らの、学生時代には気づかなかった一面を垣間見た他は、奉職先大学しか知らない。このサイトでは、愛媛大学の人権調査の問題や組織的ハラスメントの構造を取り上げたが、単に、このときに、この大学で有ったこと、に留まらないように思われる。広く大学のアカハラ、パワハラ問題に一般化することが可能であるように思われる。

 どうすれば改善されるのか。改善の第一歩は、現実を直視する事である。事実を認め、問題点を見極めることから始まる。