明治のSL-3


ピーコック(5500系)
ピーコックとは1885年(明治18年)〜1903年(明治36年)にかけて、英国ベイヤー・ピーコック(BeyerPeacock)社から輸入された2Bテンダ機関車の愛称です。形式別に5300、5500、5600形の3形式118両が輸入されました。
形態的にはシリンダを傾斜させて、これに添わせて側デッキも傾斜させ、運転室は開放形であり、先台車は2軸ボギー車、全長14.10m 整備重量34.07t 動輪直径1371mm 最高速72キロ

5300形
官鉄が旅客用機関車として1882年(明治15年)英国ピーコック社から2Bのテンダー機関車を2両(5312、5313号機)、2Bタンク機関車を2両(5490、5491号機)輸入したのが始まりです。比較運転の後テンダー機は日本鉄道で使用されました。タンク機は官鉄で使用しました。比較検討の結果、テンダー機の方が好成績を収めたので、官鉄のタンク機は1884年(明治17年)神戸工場でテンダー機に改造されました、この2両は国有化後5490形になり関東地区で働きました。5490号機は1918年(大正7年)成田鉄道に払い下げられましたが1921年(大正10年)廃車解体されてしまいました。5491号機は1919年(大正8年)筑波鉄道に払い下げられ同社の4号機になりましたが、1939年(昭和14年)廃車解体されてしまいました。
開通なった東海道線、山陽線の旅客用機関車として、1890年(明治23年)官鉄が12両、山陽鉄道が10両(5314〜5323号機)の計22両を増備機として輸入しました。山陽鉄道では岡山以東で活躍したようです。
5300形は国有化後は東京地区に集められ品川、高島、飯田町の入換機として使用されました。日本鉄道の2両はそのまま総武線で活躍していましたが、1914年(大正3年)東武鉄道に払い下げられました、(東武27,28号機)

1911年(明治44年)〜1920年(大正9年)にかけて、明治初期に輸入された小型タンク機約200両が当時開業しはじめた中小私鉄の要望に応え払い下げられていきました、結果的に国鉄の小形タンク機が不足してきたため、5300形22両は、1軸従輪を設けて2B1形タンク機に改造されることになりました。1921年(大正10年)〜1923年にかけて5300形は随時浜松工場に送られ960形に生まれ変わりました。960形は主に仙台鉄区管内の入換機として働きましたが、後に960号機が五戸鉄道、961号機が日東紡績、973号機が日本鉱業に払い下げられました、それ以外は1935年(昭和10年)までに随時廃車解体されてしまい保存機はありません。

5500形
東海道線、東北線が全通し、線路の延長に伴い5300形の増備機が必要になったため、官鉄は5300形を一回り大型にした5500形を1893年(明治26年)英国ピーコック社に6両(5500〜5505号機)発注しました。翌1894年日本鉄道も同機を12両輸入しました。
1897年(明治30年)日本鉄道では好評だった同機を36両、翌1898年に12両、東武鉄道も1897年10両、日本鉄道は1907年(明治40年)2両と計78両が輸入されました。東武鉄道が輸入した10両の内、6両は1897年(明治30年)に開業した総武鉄道に譲渡されました。鉄道国有化により日本鉄道、総武鉄道の5500形66両は国鉄に編入され5506〜5571号機となりました。
5500〜5505号機は北陸本線で活躍した後に山陰線に転用されましたが、1921年(大正10年)東京に集められました。5506〜5571号機は東北、高崎、総武、房総線の主力機として活躍しましたが、後続機の進出により5539〜5552号機の14両は新津区に転属し信越線北部、羽越線南部で使用されました、この14両は後に白山機関区に集められ越後線で活躍する事になります。
関東大震災で5526、5528、5530、5557、5558、5560、5564、5567、5569号機の9両が被災し廃車になりました。1925年(大正14年)には越後線の5541,5544,5545号機が東武鉄道に払い下げられました。
1933年(昭和8年)には越後線用の11両、東京地区の入換機として36両の5500形が働いておりましたが、5531、5551号機が東武鉄道、5542号機が三井三池港務所、5552号機が寿都鉄道(1951年廃車解体)、5560号機は日本曹達天塩鉱業所に払い下げられました、後に藤田宗谷炭鉱に譲渡、1947年(昭和22年)には5546号機が三岐鉄道、5548号機が名古屋鉄道に払い下げられました。
1952年(昭和27年)には横浜区に5501,5513,4430,5537,5570,5571号機の7両が入換機として頑張っておりましたが、同年9月までに随時廃車解体されてしまいました。最後まで働いていたのは施設局で保線用機関車の4両です。5553号機が1953年(浜川崎)廃車解体、5508,5543号機は1955年(昭和30年)12月高島区で廃車解体されてしまいました。国鉄で最後に残った5500形は5540号機で1962年(昭和37年)10月札幌工事区で廃車になりましたが、開園が決まっていた青梅の鉄道公園に静態保存されることが決まりました。現在もその勇姿を見る事が出来ます。
B10形 1930年(昭和5年)余剰になった5500形に1軸従輪を設けて2B1形タンク機に改造する事になりました、大宮工場、浜松工場で改造工事を受け10両がB10形1〜10号機に生まれ変わりました.
タンク機に改造された10両は総武、房総線、横浜線などで使用されましたが、軸重が13.24と重く、現場ではあまり歓迎されませんでした。結局晩年は入換機として使用されました。1938年(昭和13年)にはB109,10号機がラサ工業に払い下げられました、1943年にはB106号機が東洋埠頭に払い下げ、B104号機(旧5507号機)は陸軍千葉兵器支工廠に譲渡されたた以外は1950年(昭和25年)までに随時廃車解体されてしまいました。
陸軍に譲渡されたB104号機は戦後、国鉄に戻りすぐ小湊鉄道に再譲渡され同線のDL化まで活躍しました、廃車後も解体されず五井駅に留置されておりましたが、現在は屋根を架けてもらい同駅で大事に静態保存されています。


5600形
1899年(明治32年)日本鉄道は5500形の寒冷地対策をほどこした改良機として、英国ピーコック社に6両発注しました、これが5600形です。1903年(明治36年)にも12両が追加発注され、計18両が輸入されました。5600形は伝熱面積を増大してボイラの馬力を大きくしたベルペヤ式火室を使用したためボイラの火室が大きくなり、寒冷地対策のため運転席が密閉式、砂箱がボイラの上にあり、ランボードが直線になり運転席の下でS字に下降しテンダに続くなど、外観が今までのピーコックと異なりスマートさに欠ける車両ですが、到着後すべて秋田地区に投入されました。ベルペヤ式火室は保守点検が難しく現場からはきらわれました。国有化後も秋田区で使用されましたが、1929年(昭和4年)までに随時廃車されてしまいました。
廃車後、寒冷地対策を買われ7両が樺太鉄道が引き取りました、1943年(昭和18年)の樺太鉄道国有化時には4両が廃車解体されており3両しか在籍しておりませんでした。国有化でこの3両は5625形の形式をあたえられ、5625、5626、5627号機となりましたが、終戦後ソ連連邦に接収され以後行方不明です。
また5605号機は1927年(昭和2年)鉄道連隊に譲渡され1952年(昭和27年)に東武鉄道に払い下げられました。

*ピーコック製機関車の気筒はシリンダとの磨耗がほとんどなく、全検時に気筒のプッシングの必要がまったくなかった。後年、国鉄研究所ではその秘密を分析したが、金属の材質からは解明出来なかった。現役で80年間も活躍出来た秘密は傾斜して取り付けられた気筒にあるのかも知れない?

5650形
日本鉄道が1989年(明治31年)英・シャープ・スチュワート社に6両発注した5500形の同形機、国有化後5650形式の5650〜5655号機となりましたが、1922年(大正11年)6両すべてが、東武鉄道に払い下げられました。

ネルソン(6200系)
ネルソンとは1897年(明治30年)〜1908年(明治41年)の間に英国ネルソン(Neilson)社で設計された2Bテンダー機関車の愛称です。ネルソン社製造の50両が6200形、英国・ダブス社製の24両が6270形、米国・アメリカン ロコモチブ社製の24両が6300形、独国・ハノーバー社製の36両が6350形と、メーカー別に形式化され計135両が輸入されました、明治中期を代表する旅客用機関車です、形態的には、ピーコックに似ていますが動輪径が大きくなり全体がスマートになったせいか人気があり、当時の鉄道ファンは「明治の貴婦人」と呼んだとか・・・?
 全長14.25m 整備重量32.00t 動輪直径1524mm 最高速80キロ

1889年(明治22年)東海道線が開通しましたが官鉄には38両しか機関車がなく、そのほとんどが小型タンク機関車だったため、官鉄では東海道線のスピードアップを狙い一挙に106両のテンダ機関車を増備することになりました。
まず比較する意味から1897年(明治30年)2Bテンダ機の米国・ポールドウイン社の6150形18両、同じく英国・ネルソン社から6200形18両輸入しました。他に貨物用機関車として1C形テンダ機関車の米国・ポールドウイン社製8100形を20両輸入しました。
1898年8月のダイヤ改正から2Bテンダ機2種は東海道線に全機投入され比較運転されましたが、ネルソン機に軍配が上がりました。官鉄は1899年(明治32年)ネルソン社に50両追加発注しました、ネルソン社では納期に間に合せるためダブス社に18両製造を依頼したのが6270形です。
6270形も好評だったため1902年(明治35年)ダブス社に6両(6270形)が追加発注されました。
鉄道国有化後の1907年(明治40年)4月、国鉄は6200形を独・ハノーバー社に36両(6350形)、米・ロコモチブ社に24両(6300形)発注しました。いくらか安く受注出来るとしても、イギリスのメーカーが設計した機関車をアメリカのメーカーに製造させることの難しさを当時の国鉄の技官は知らなかったらしく、独・ハノーバー製は英国風の設計を崩さず、まずまずの仕上がりでしたが、アメリカン ロコモチブ社は英国流の枕頭鋲を使わず、煙突、キャブの鉄板の肉圧もいいかげんで、重量が2tも重くなった機関車を平気で納入してきました。
ネルソンはすべて東海道線に投入され、当時の花形列車の先頭に立ち活躍しましたが、1914年(大正3年)8620形の登場により、ネルソンは追われるように北陸線、中央東線、山陰線、徳島線などへ落ちていった。1915年(大正3年)4月から1920年にかけて6200形15両、6270形1両が過熱器を取り付け6250形6250〜6265号機に改造されました。
1924年には余剰になった6245〜6249号機の5両、翌1925年には6236〜38号機、6242,6244号機の計10両が東武鉄道に払い下げられました。過熱器付きに改造されなかった残り109両のネルソンは、2B1タンク機に改造される事が決まり、1924年〜1928年にかけて国鉄各工場で順次タンク機に改造されていっきました。6350形36両は1000形に、6200形・6270形49両は1070形に、6300形19両が1150形タンク機に改造され、九州と北海道を除く全国の支線に少数ずつ分配配置されていきました。
後年、SLが復活した真岡線の真岡機関支区には1005,1006,1095,1096号機が1935年(昭和10年)まで真岡線で働いておりました。
各支線で働いていたタンク機ネルソン改造タンク機は、昭和に入りC10,C11,C12形の増備に伴い余剰になり、各私鉄に払い下げられたカマ以外は1952年(昭和27年)までに随時廃車解体されてしまいました。
私鉄に残った機では、1083,1103号機が西日本鉄道、1017,1024号機が名古屋鉄道,1107,1118号機が江若鉄道、1080号機(1900年英・ダブス製=旧6289号機)が葛生鉱業所羽鶴専用鉄道で働いていたが、1080号機を除いてすべて1960年代までに廃車解体されてしまった。1080号機は1979年までDLの予備機として時々煙を上げていましたが、1991年同鉱業所の専用線廃止により廃車、同所で保管されていたが、2009年JR西日本に寄贈され、現在は京都の梅小路蒸気機関車館で静態保存されています。
タンク機関車に改造されなかった、過熱器ネルソン6250形の内、6254,6255,6256の3両は名古屋機関区の入換機として(後に稲沢区に転出後廃車)、残り13両は小松島機関区に集められ徳島線で使用されました。1935年(昭和10年)高徳線、土讃線が全線開通すると8620形が配備され、余剰になった6250,6251,6255、6258、6261,6262,6263,6264、6265号機は白山機関区に転出し越後線で働きました。6258,6259号機は稲沢機関区に転出し入換機になりましたが1949年までに随時廃車解体されました。
後に6251,6252,6253,6257,6260号機は東武鉄道に払い下げられました、6265号機は横荘鉄道に払い下げられました。
1939年には白山区にC56形6両が配備され、余剰になった6250.6255,6256,6258,6262,6263号機の6両は大糸線で働く事になり松本機関区に転出しましたが、1949年(昭和24年)にはC56形が大糸線に投入されるにいたり余剰機から随時廃車、解体されていきました。白山機関区に残って最後まで頑張っていた6261,6264号機もC56形の増備に伴い1950年3月に廃車、惜しくも解体されてしまい保存されませんでした。



東武鉄道の2Bテンダ機関車。
東武鉄道の歴史は1899年(明治32年)北千住〜久喜間の開業にあたり、英国・ピーコック社にC形タンク機2両(東武1,2号機)、B形テンダ機(5500形)10両の計12両の蒸気機関車を発注した事から蒸気機関車の歴史が始まりました。その後、総武鉄道に6両売却したため最初のピーコックは4両で東武3〜6号機のナンバーが与えられました。3号機は1945年(昭和20年)衝突事故で休車になり、1952年(昭和27年)廃車解体されました。4号機は老朽化により1959年(昭和34年)廃車解体されました。5、6号機は東武鉄道記念物に指定され現在は東京・向島にある東武鉄道博物館に大切に保管されております。
1908年(明治41年)増備機として英国ピーコック社から5500形を2両輸入したのが7,8号機です。8号機は1963年(昭和38年)7号機は1966年(昭和41年)にそれぞれ電化のため余剰になり廃車解体されてしまいました。
1913年(大正2年)増備機として米国・ポールドウイン製の2Bテンダー機(国鉄5900形と同形)6両を輸入しました。20〜15号機です。これら米国製の2Bテンダ機は高速時の振動が激しく、燃費が悪い、また修理したくても部品が無いと現場から嫌われました、1949年(昭和24年)には20,21号機、翌1950年には23,24号機がそれぞれ廃車、残った22,25号機も1957年(昭和32年)には余剰になり廃車、すべて解体されてしまいました。
1914年(大正3年)国鉄から5300形の5312,5313号機を購入したました、これが東武27,28号機です。この2両は日本鉄道が最初に輸入したピーコック(日本鉄道1,2号機)で炭水車が2軸という特徴があり、長年東武熊谷線(熊谷〜妻沼間)の旅客列車を牽引しました、特徴のあるその姿から沿線の人々は特急「カメ」という愛称で呼んでおりましたが、1956年(昭和31年)同線のDC化のため余剰になり廃車、惜しくも解体されてしまいました。
1914年東武鉄道は増備機として英国ピーコック社から5600形を6両輸入しました、東武29〜34号機です。ベルペヤ式火室を使用したためボイラの火室が大きくなり、寒冷地対策のため運転席が密閉式、砂箱がボイラの上にあるなど、外観が今までのピーコックと異なりスマートさに欠ける車両で東武鉄道では「新英形」と呼んでいたようです。29、33号機は1960年(昭和35年)電化のため廃車解体されてしまいました。32号機は1962年(昭和37年)電化のため廃車解体されました。30,31,34号機は1966年(昭和41年)6月30日の東武鉄道無煙化の日まで働きました。31号機は廃車解体されましたが、31号機は葛生町の喜多山公園で保存されています。
1922年(大正11年)国鉄から英国シャープ・スチュワート製の5650形5650〜5655号機の6両を購入しました、東武35号〜40号機です。シャープ・スチュワート製は燃料消費量が高く、なおかつ振動が激しいという欠点があったため東武ではシャープ・スチュワート製を2度と購入しなかったといいます。悪評がありましたが東武鉄道は晩年まで使用しました。35,38号機は1959年(昭和34年)、36号機は1962年(昭和38年)それぞれ電化のため余剰になり廃車解体されました。
37号機は1965年(昭和40年)電化のため余剰になり廃車になりましたが、埼玉県志木市の立教高校で保管されています。39,40号機は1966年(昭和41年)6月30日の東武鉄道無煙化の日まで働きました。39号機は廃車後東京の豊島区昭和鉄道高校に寄贈され長く同高で保管されておりましたが、2002年同校の増築に伴い三重県三岐鉄道丹生川駅に完成した貨物博物館に移され静態保存されています。40号機は廃車後川越市に寄贈されましたが、現在は埼玉県宮代町の宮代コミュニティ広場で保管されております。

1924年(大正13年)国鉄から6200形の6245〜6249号機の5両を購入しました、東武41〜45号機です。
1925年(大正14年)同じく国鉄から6236〜38号機、6242,6244号機の5両を購入しました、東武46〜50号機です。
1939年国鉄から6253号機を購入したのが東武60号機です。
1940年国鉄から6257,6260号機を購入、東武62,61号機です。
1944年国鉄から6251,6252号機を購入、東武64,63号機です。
過熱器付きの強力機ネルソンは東武鉄道では本線の貨物機として活躍しましたが、電化が本線から始まった事により余剰廃車が早くなってしまったのは残念な事でした。まず41、44、45、47、48、49号機が1959年(昭和34)、翌1960年には43,46,50、60号機、1962年には42,61,62号機、翌1963年63号機がそれぞれ電化のため余剰になり廃車解体、1964年(昭和39年)最後まで残ったネルソン64号機が杉戸機関区で廃車され、惜しくも解体されてしまい東武でもネルソンは保存されませんでした。

1925年国鉄から5541,5544,5549号機3両を購入したのが、東武54,55,56号機です。55号機は1960年(昭和35年)、56号機は1962年(昭和37年)、57号機は1963年(昭和38年)それぞれ電化のため余剰になり廃車解体されてしまいました。
1937年(昭和12年)国鉄から5531号機を購入したのが東武59号機です。59号機は1960年(昭和35年)電化のため余剰になり廃車解体されました。
1939年(昭和14年)国鉄から5551号機を購入したのが東武58号機です。58号機は1964年(昭和39年)電化のため余剰になり廃車解体されました。
1952年(昭和27年)国鉄から5605号機を購入したのが東武3号機(2代目)です。東武鉄道では東武3号機(2代目)として1957年(昭和32年)まで使用されましたが電化のため余剰になり廃車解体されてしまい。
東武鉄道は1907年(明治40年)の鉄道国有化を免れたおかげで、関東一円に鉄道網を広げました。東武鉄道貨物列車の電化計画は1956年(昭和31年)に始まります、まず明治中期生まれの老朽機、使いにくい米国機が廃車になりました。次に本線用の強力なネルソン機が廃車になり、1965年(昭和40年)6月30日をもって無煙化が完了しました。
東武鉄道で走ったSL85両の中で最後まで残ったのは佐野線で館林区の30,31,34,39,40号機の5両のピーコックでした。1966年(昭和41年)6月26日、東武鉄道では30日にせまった蒸気機関車全廃を前に当時ではめずらしい「蒸気惜別記念列車」を館林〜葛生間で1往復運転しました、いかに東武鉄道がSLを愛していたかがうかがえます。華やかに飾られた客車(電車)4両を牽いたのは1914年ピーコック製(5600形)の34号機でした。
34号機は廃車後、東京大田区の萩中交通公園で大事に保管されております。
SL亡き後を継いだ電気機関車ED50形43両による貨物運転も年々少なくなり、最後に残った佐野線・伊勢崎線(北館林荷扱所〜久喜間)貨物営業も2003年9月30日にもって終了しました。最後まで活躍したのはED5063,ED5081,ED5082,ED5083の4両でした。



国産蒸気機関車の誕生
官鉄では開業直後からSLの点検修理を関東地区では新橋工場、関西地区では神戸工場でお雇い外国人技術者(汽車監察方)の指導で行っていました。
新橋工場の初代汽車監察方は英国人のF・H・クリスティで、後(1876年)にF・H・トレビシック(弟)が務めました。神戸工場の初代汽車監察方は英国人のM・スミスで、1878年(明治11年)からはB・F・ライトが務めました。1888年(明治21年)にはSLの発明者でもあるトレビシックの孫、R・F・トレビシック(兄)が務めました。
初期の監察方は英国・各メーカーのカタログをもとにして購入を決めていたため、出力性能とか粘着性能がうまく適合しない機関車やブレーキ性能の劣る機関車など、日本の国土に合わない蒸気機関車が多々あったようです。
R・F・トレビシック(兄)は日本に適合した600形タンク機関車を原形に、当時発明されたばかりの2気筒複式蒸気機関車の試作機を考えました。当時の神戸工場では鉄、真鍮の鋳造、鉄の錬造ぐらいしか出来ないため、主台枠、軸箱、動輪、従輪、ボイラ、煙管、ピスオン棒など主要部品はすべて輸入し、事故でスクラップになっていた600形の主要部品も多数流用して製造することになります。
1892年(明治25年)10月神戸工場で起工し、翌1893年5月26日に完成したのが後の860形860号機(旧221号機)です。制作費は8.993円(1.349ポンド)でした。当時の600形蒸気機関車は1両1.800ポンドで輸入していたので、451ポンド安く製作した事になるのですが、最も貴重な事は森彦三や太田吉松といった日本人の技術者が半年間に渡って試作機の設計の手助けを行った事です。R・F・トレビシック(兄)の指導ではありましたが、この経験が後の純国産蒸気機関車の製造に寄与する事になります。
苦心して製造した国産1号機(860号機)は大阪機関区に配属されましたが、シリンダが倍ある複雑な複式機関が保守側から嫌われ、また運転には特別な操作法が必要なため、機関士にも嫌われてしまいました。
国有化後も、この860号機関車を運転出来る機関士が他機関区にいなかったため、大阪機関区から他に転属することなく、あまり使用する事がないまま1919年(大正8年)廃車、樺太鉄道に払い下げられた。同鉄道でも持て余したらしく1929年(昭和4年)3月に廃車、国産1号機は北の果てで保存する話もないまま解体されてしまいました。
国産2号機は1895年(明治28年)秋、北海道炭鉱鉄道手宮工場で義経号(7100形)をコピーして製造されました。渡辺信四郎、松井三郎の2人が設計、製造を担当し完成まで10ヶ月を要した事、日清戦争の戦勝を祝して大勝号(7150形)と命名された事、当時の詳しい記録が無いためどこまで国産されたかは定かではありません。
1906年(明治39年)北海道炭鉱鉄道は国有化され大勝号は7150形7150号機になりました。後に7150号機は北海道炭鉱汽船に払い下げられ1938年(昭和13年)には夕張鉄道に転売されました、同鉄道若菜辺駅で入換機として働きましたが1947年(昭和22年)に休車になりました。7150号機は同鉄道継立駅の機関庫裏に留置されておりましたが、北海道大学の鉄道研究家である小熊米雄氏、島崎英一氏らが発見、両氏の努力で1954年(昭和29年)苗穂工場で復元され、北海道大学植物園でしばらく保管されておりました。現在は、誕生地ともいえる小樽交通記念館にある手宮機関庫で大事に保管されております。

2気筒複式機関とは、飽和式蒸気機関車の時代に考えられた省エネ機関車で、蒸気を高圧→低圧と2度使う事により石炭の消費量は20%ほど節約出来たといいます。ですが欠点として発車の時など大きな出力が必要な時は、2気筒の連給を断ち低圧気筒にも高圧蒸気を送って飽和式機関車と同じように作動させないと発車出来ず、発車後切り替えて2気筒式複式に戻し運転します。要するに頻繁な発車、停車が必要な入換機には向かず、また急勾配のある線区では馬力が無いため使えません。長所としては平坦区での速力と燃費の良さくらいで、大陸的な機関車としては良いのかも知れないが日本向きでは無かったようです。また複雑な機構が幸いして故障が絶えなかったため、過熱式蒸気機関車の発達に伴い、日本では19世紀末で廃れた技術で製造された蒸気機関です。

●汽車製造会社の設立
日本で最初の民間鉄道車両メーカーは、客車や貨車の製造を目的に1890年(明治23年)3月に東京・小石川(現在の後楽園遊園地付近)設立された平岡車輌工場だが(1901年汽車会社に合併)国産蒸気機関車の製造には至りませんでした。民間1号機関車は1896年(明治29年)8月、名古屋で設立された(株)鉄道車輌製造所が1900年に1Bタンク機関車を製造して徳島鉄道に納入したのが最初だと思われていましたが、実際には英国から輸入した中古機関車に自社の銘板を貼り付けて納入したよいうです。このいいかげんな会社は翌1901年倒産してしまい、鉄道の歴史に疑問符だけを残して消えました。
鉄道庁長官の井上勝は鉄道国有論に敗れ退官し、1896年(明治29年)9月に資本金64万円で「汽車製造株式会社」(汽車会社)を設立しました。1900年(明治33年)大阪港口工場が完成し、さっそく台湾総監府鉄道部用の蒸気機関車(英・ダブス製500形のコピー機)の製造を開始しました。汽車会社1号蒸気機関車は翌1901年8月に完成しました。同年10月汽船鶴彦丸に積み込んで神戸港から台湾に向け出航しましたが、長崎の五島列島沖で難破し船ごと沈没してしまい現存しません。同年同形機が4両製造され2号機は無事台湾に到着しました。残りの2両は参宮鉄道に納入されました、参宮鉄道国有化後は800形800,801号機になりました。800号機は戦後、住友セメント四ツ倉工場に払い下げられ入換機として働きました、1965年(昭和40年)秋にDL化のため余剰になり廃車、惜しくも解体されてしまい保存されませんでした。
1903年(明治36年)汽車会社ではこの1号機の動輪直径を1245ミリと小さくして引張力を増し、運転室を改良した機を3両製造し官鉄に納入しました、後の230形230〜233号機です。この形は1909年までに汽車会社で41両製造されました。
国有化後230形は西日本を中心に主に入換機として働きました、1934年(昭和9年)240号機は豊国セメント、231,250号機が浅野セメント、1935年には242号機が小倉鉄道にそれぞれ払い下げられました。
戦後も新潟区256号機、浜松区233,249号機、美濃太田区252号機、加古川区(加古川線用)237,251,267号機、後藤工場244号機、岡山支区(吉備線用)238,243,253,257,266号機、広島区260号機、鳥栖区268号機、建設局用に5両の計20両が働いておりました。これらの機は1953年(昭和28年)までに随時廃車解体されてしまいましたが、鳥栖機関区で入換機として働いていた268号機(1905年製造)は1950年(昭和25年)廃車後、解体されず教習用のカットモデルとして同機関区に保管されておりました。現在は復元され鳥栖駅東口にあるサッカースタジアム前に保管展示してあります。
最後まで働いた230形は1959年(昭和34年)高砂工場の入換機を最後に廃車になった233号機で、廃車後も解体されず鷹取工場で留置されておりました。1967年(昭和42年)10月同工場で新製時の姿に復元され、現在は交通科学博物館で保管されております。
汽車会社は1905年(明治38年)にアプト式の3980形6両を製造、その後も1Cテンダ機の7200形2両、2Bテンダ機の6700形19両、2Cテンダ機の8700形18両と汽車会社は続々と輸入機のコピー機を製造していきました。
大正時代に入ると汽車会社は国産制式機となる8620形や9600形の製造、後にC51形やD50形の製造とスケールアップしていきました。1948年(昭和23年)C62形49号機(製造番号2475番)の製造を最後に国鉄への蒸気機関車の納入を終了、その後も汽車会社は国内私鉄用小型タンク機、ソ連、台湾、タイなどに大型蒸気機関車を輸出しましたが、1951年(昭和26年)の日本製鉄八幡工場に納めたCタンク機(製造番号2613番)をもって汽車会社の蒸気機関車製造の歴史は終わりました。
その後も一貫して、ディーゼル機関車、電気機関車と機関車を製造し続けた汽車会社でしたが、その主力製品である機関車のDC、EC化に乗り遅れてしまい、1972年(昭和47年)4月1日、後発の同業社、川崎重工業(株)に吸収合併され機関車製造の老舗は76年でその歴史を閉じました。

川崎車輌の設立
汽車会社に続き、1906年9月、R・F・トレビシックの指導を受けた太田吉松を設計主任に迎へ川崎造船所の兵庫分工場が蒸気機関車の製造を始めます。兵庫分工場は1928年5月川崎車輌KKになり、現在の川崎重工業(株)(1969年4月 川崎重工、川崎航空機、川崎車輌の3社が合併)に発展しました。


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