明治のSL-2


1800系タンク機関車
明治政府は当初、東京と京都を結ぶメインルートを中仙道沿いに建設する事を考えておりました。理由は軍部の主張で東海道ルートだと外国との戦争になったとき艦砲射撃を受けて破壊され、兵員物資の輸送が出来なくなるという被害妄想にすぎない考えだったのですが、制海権&制空権が失われても松本に大本営を移して本土決戦だと本気で考えていた戦前の陸軍と同じレベルだと思うと笑えない話でもあります。
1878年(明治11年)西南戦争で疲弊した明治政府は1250万円の国債を募集して急場をしのぎ、その中から214万円を鉄道建設費に計上しました。とりあえず同年8月から京都〜大津間が官鉄で工事が進められる事が決まりました。
ここで問題になったのが山科〜大津間の逢坂峠越えのトンネルです。
当時の鉄道頭の井上勝は、将来日本人だけで鉄道建設をする事を考え、そのために大阪駅に鉄道工技生養成所を創り技術者の養成から始めました。同様に堺に鉄道用のレンガ制作所を建設する事も決めました。養成所の一期生から国沢能長が現場監督に選ばれ、穴堀りは政府直営の生野銀山の坑夫に手伝ってもらいツルハシやクワを使った手掘りで工事を進めました、1979年8月落盤事故で5名の坑夫が生き埋めになる不幸な事故もありましたが、1880年(明治13年)6月苦闘の末に日本人だけで掘り抜いた655メートルの鉄道トンネルが完成したのでした。
また山科→大谷間には連続5キロにわたって25‰の急な勾配の区間が出来ましたが、当時の非力な160形タンク機関車では10‰の勾配で138t、25‰の勾配では60tしか牽引出来ませんでした。そこで1881年(明治14年)英国キットン社に強力なC形タンク機関車を8両発注したのが後の1800形です。10‰の勾配で300t、25‰の勾配で140tの牽引力がありました。
1984年には大垣まで開通した東海道線ですが、関が原越えの難所をかかえていたため、同形のC形タンク機増備する事になり英・ダブス社に8両発注したのが後の1850形です。1887年には1850形を8両増備され関東地区にも配備されました。
評判の良かったC形タンク機はこの後も増備が続き1800形が13両、1850形が35両。1894年には日本鉄道が英・ネルソン製後の1960形を12両。1896年には日本鉄道・岩越鉄道が英・ピーコック製の後の1900形を30両、1898年(明治31年)には北越鉄道が英・ウイルソン製、後の1940形を5両と続き5メーカー計95両が英国から輸入されました。
この1800、1850、1900、1940、1960形Cタンク機は東海道線を始め、北陸、中央、信越、篠ノ井、東北、奥羽、鹿児島線などに分散配備され勾配のきつい線区の補機などに重宝されましたが、後続の2120形の増備と共に本線からしりぞきました。
この一族は1220ミリの動輪3対で40t〜42tの整備重量をささえる勾配用機関車のため軸重が重く、1800形(整備重量40t)で14t強、1960形(整備重量42t)にいたっては15tを越えるため、ローカル線への転用ができず主に入換機として余生を送りました。
1922年(大正11年)には1800形はすべて東京管理局の田端機関庫に集められ山手線内の入換機となりました。1929年に1811号機が小湊鉄道に払い下げられました。1930年には1801、1803号機の2両が高知鉄道に払い下げられた以外は1931年(昭和6年)までに随時廃車解体されてしまいました。
1850形は幹線での運転を終えた順に関西地区に集まりました。1923年(大正12年)の記録では名古屋機関区に9両、大阪機関区に7両、神戸機関区に5両在籍しており入換機として働いておりましたが、1854号機が仙台臨港鉄道、1855号機が鶴見臨海鉄道、1861号機が東武鉄道、1859、1876号機が博多湾鉄道(西日本鉄道)、1863、1878号機が三井鉱上三池港務所に払い下げられた以外は、1938年(昭和13年)までに随時廃車解体されてしまいました。
1900形は幹線での運転後、1919年(大正8年)に仙台管理局内に15両、新津機関区に5両(村上線用)、東京の田端機関庫に10両在籍していた記録がありますが、1931年(昭和6年)の記録では稼働機は無く、青森機関区、一ノ関機関区、福島機関区に各1両、横川機関区に6両が二休車状態で留置されておりました、これら9両も1935年までに余剰になり廃車解体され保存機はありません。
1940形は幹線での運転終了後、仙台鉄道管理局内に集められましたが、1923年(大正12年)には余剰になり廃車解体されてしまいました。
1960形も幹線での運転終了後、仙台鉄道管理局内に集められましたが、1931年(昭和6年)の記録では稼働機は無く、米沢機関区、郡山機関区、に各1両、新津機関区に2両の計4両が二休車状態で留置されいるだけでした、これらも1935年(昭和10年)までに全車廃車、解体されてしまいました。
私鉄に売却された一族10両も軸重の関係で転用できず、2両を除いて1955年(昭和30年)までに随時廃車解体されてしまいました。
東武鉄道に売却された1861号機(東武1号機)は戦後、川崎製鉄千葉製鉄所に転売されNUS11号機となり1962年頃まで専用線で働いておりましたが、惜しくも廃車解体されてしまいました。
高知鉄道に払い下げられた2両の内、1803号機は廃車解体されてしまいましたが、1801号機は1941年(昭和16年)東洋レーヨン滋賀工場に転売され、石山駅と同工場間の800mの専用線で働いておりました。1963年(昭和38年)同工場のDL化に伴い廃車解体される所でしたが、鉄道友の会・京都支部の運動で保存が決まり、1964年に大阪の交通科学博物館に移され原形(輸入時)に戻され大事に保管されております。


東海道線開通
1883年(明治16年)陸軍大将・山県有朋は西南戦争で停滞していた東西を結ぶ鉄道を早く建設するよう政府に働きかけます。兵員・物資の輸送網としての鉄道の働きに気が付いたからです。
井上勝鉄道頭は建設の命を受けてさっそくルート調査隊を派遣しますが、中仙道ルート(上野〜松本〜岐阜間)は碓氷峠や木曽地方の地形から難工事が予想されたので、調査隊に東海道ルート(東京〜名古屋間)の比較調査をするよう同時に命じました。
1886年(明治19年)ルート比較調査が終わりましたが、やはり中仙道ルートは碓氷峠を始め峠が多く、多数のトンネルを掘るため完成まで8年間の工事期間が必要なことがわかりました。また東海道ルートは箱根越えの難所と大橋梁の建設がネックになるものの3年間で完成出来る事がわかりました。しかも運転時間が中仙道ルートが19時間、東海道ルートだと13時間と6時間も短縮する事も判明しました。また建設費も約500万円(当時の国家予算は約4000万円)ほど安く建設出来る事がわかり、軍部もより速く、兵員や物資が運べる事で納得したそうです。
1887年11月着工した東海道線の建設は急ピッチで進み1889年(明治22年)4月には静岡〜浜松間が完成し、新橋〜名古屋間が開通しました。同年6月30日には長浜〜大津間が開通し、新橋〜神戸間(605.7キロ)がとりあえず単線で全通しました。
東海道線の1番列車は1889年(明治22年)7月1日午後4時45分に新橋駅を発車し、機関車と運転手を何度も交代しつつ翌2日午後0時53分に神戸駅に到着したそうです。所要時間は20時間と8分でした。
それまでの明治政府の郵便飛脚(鉄道開通後廃止)は東京〜大阪間を78時間(3日と6時間)要しておりました。
江戸時代の飛脚は江戸〜大阪間を6日間で手紙を届けたそうです。
ちなみに1701年(元禄14年)3月に起きた、浅野内匠の刃傷事件(赤穂浪士の討ち入り騒動)を赤穂の城代家老・大石内蔵助に伝えた早かごは、江戸〜赤穂間を昼夜リレー式に休まずに走り155里(約620km)を111時間(4日15時間)で走ったのが、かごの最速記録でした。


600系タンク機関車

日本の鉄道も開業以来15年をすぎ、主力の1Bタンク機関車では非力なため旅客用にスピードが出て貨物も牽ける、軸重が軽い1B1タンク機関車を英国から輸入することになりました。
最初に導入したのは日本鉄道で、1886年(明治19年)に英・ナルミス・ウイルソン社で完成し、翌1987年1月、4両を輸入しました。さっそく大宮〜黒磯間で運転され、10‰の勾配区間で旅客列車で200t、貨物列車で220tを牽引する優秀な成績をあげました。
この1B1形タンク機関車は、1890年代に入って日本各地に伸びた短距離、小規模の私鉄に適していたため、その後も続々と輸入され、9タイプ12形式(400形〜870形)270両を数えた明治中期の代表的なタンク機関車です。
国鉄編入後は製造メーカー別に形式化され、英・ダブス製が500形(500〜560号機の61両)、英・ナルミス・ウイルソン製が600形(600〜677号機の78両)、英・バルカン製が700形(700〜717号機の18両)と呼ばれました。

400形機関車
最初に日本鉄道で輸入された4両(400形)は1899年(明治32年)房総鉄道(千葉〜一ノ宮間)に払い下げられたが、1907年(明治40年)房総鉄道の国有化で形式400形の400〜403号機となりました。主に関東地区で働き、1914年(大正3年)に400〜402号機が東上鉄道(現・東武東上線)に、403号機が川越鉄道(現・西武鉄道)に払い下げられました。東上鉄道に払い下げられた400〜402号機は同鉄道の1〜3号機となり池袋〜坂戸間で活躍しましたが、後に東上鉄道が東武鉄道に合併され東武51〜53号機となりましたが1930年には余剰になり休車、51,53号機は1939年(昭和14年)に日本製鉄に転売され同工場の入換機となりますが戦争中に廃車解体されてしまいました。52号機は1941年(昭和16年)三池港所に転売され、後に美唄鉱業所に譲渡されましたが戦後消息不明になっております。
川越鉄道に払い下げられた403号機は、川越鉄道5号機と改番し国分寺〜本川越間(現・西武線)で活躍しましたが、川越鉄道が西武鉄道に合併された後は1944年(昭和19年)西武・是政線(現・西武多摩線)に転出し4号機と改番し働きました、戦後も1957年(昭和32年)まで同線で働きましたが電化のため余剰になり休車、その後一時は日本ニッケル専用線(現・八高線丹荘付近)で働きましたが1965年廃車になり、所沢市のユネスコ村に運ばれ展示保管されていました。1992年大恐竜館探検館建設にともない移動、現在は秩父の西武鉄道横瀬車両基地内で大事に保管(非公開)されております。

450形機関車
1897年(明治30年)紀和鉄道が開業時に米・ブルック社に600形の仕様書を送り、4両だけ製造し輸入したアメリカ製600形機関車です。
紀和鉄道1〜4号機を名乗りましたが関西鉄道と合併後は「友鶴」の愛称で呼ばれました、1907年(明治40年)の国有化後は450形450〜453号機となりましたが、450〜452号機の3両は1916年(大正5年)は筑波鉄道に払い下げられました。453号機は1918年に樺太庁鉄道に払い下げられましたが、1945年4月廃車後解体されてしまい保存機はありません。

480形機関車
1904年(明治37年)房総鉄道が独・クラウス社に600形の仕様書を送り、2両だけ製造し輸入したドイツ製600形機関車です。
1907年(明治40年)の国有化後は480,481号機となり盛岡で働きました。480号機は1942年(昭和17年)船木鉄道に払い下げられました、481号機は1943年廃車後解体されてしまい保存機はありません。

490形機関車
1897年(明治30年)中国鉄道開業時に英・ナスミス・ウイルソン社から輸入した1両の600形機関車です。
1907年(明治40年)の国有化後は600形に編入されず、新形式の490形490号機となりました。岡山支区で働いていましたが、1949年(昭和24年)3月廃車、解体されてしまいました。

500形機関車
1887年管鉄、日本鉄道、山陽鉄道など私鉄各社が、好性能の1B1タンク機関車をさっそく、英・ナルミス・ウイルソン社に64両を発注しました。自社だけでは制造出来ずに、ナルミス・ウイルソン社はダブス社、バルカン社などにも製造を依頼しました、これが国有化後にダブス製は500形、バルカン製は700形と形式化されました。
ダブス社では1887年〜1901年までにこの500形機関車を61両製造し日本に輸出しました、管鉄の36両を筆頭に関西鉄道が18両(池月形)、日本鉄道は9両と私鉄各社が競うように購入し、東海道線や東北線、関西線などで活躍しました。
1907年(明治40年)国鉄に編入され形式500形500〜560号機と名称を改めました。西日本各地に配備された500形は、ローカル線や入換機として余生を送りましたが昭和に入り老朽化し随時廃車解体されていきました。1933年(昭和8年)の国鉄機関車配置によると新舞鶴区に501,523号機。姫路区に538,554号機。浜田区に516,535号機。米子区に521,539,541号機。岡山駅の入換機として560号機。鷹取工場に入換機として503,526号機の14両が生き残っていたようです。戦後まもなく1951年(昭和26年)までに老朽化のため全機廃車解体されてしまいました。地方私鉄の建設用や工場の入換機として500形14両が私鉄に払い下げられましたが戦後まもなく全機廃車解体されてしまい保存機はありません。

600形機関車
英国ナルミス・ウイルソン社は1B1タンク機関車(600形)を1887年〜1904年までに78両製造し日本に輸出しました。これらは管鉄をはじめ日本鉄道、総武、房総、川越、東武、成田、甲武、大阪、関西、尾西、京都、参宮、中国、九州、北海道の各私鉄や陸軍で主力機関車として働きました。
1907年の国有化後、形式600形の600〜677号機となった78両は主に東日本に集められました。東京管区に52両、仙台管区に22両、門司管区に4両です、主にローカル線や入換機として働きましたが昭和に入り老朽化した機から廃車解体されていきました。1933年(昭和8年)の国鉄機関車配置によると長町区に618,646号機。郡山区に625号機。西吉田区に645号機。高島区に入換機として611号機。郡山工に入換機として604号機。盛岡工に入換機として647号機。土崎工に入換機として641号機。大井工に入換機として617,667号機の計13両が生き残っていたようですが、戦後まもなく1951年(昭和26年)までに全機廃車解体されてしまいました。
600形は廃車後も地方私鉄や工場の入換機として34両が払い下げられましたが、そのほとんどが1951年(昭和26年)までに廃車解体されてしまいました。わずかに残ったのは江若鉄道に売却された6両の中の江若鉄道6号機が1964年頃まで、水戸電鉄に売却されたトップナンバー600号機は後に磐城セメント(住友セメント)四倉工場に転売され1964年頃まで働いていました。最後まで働いていた600形は昭和の始めに茨城交通に売却された631号機で同鉄道の4号機として1964年(昭和39年)まで現役で働いていました。3両共余剰になり廃車解体さてしまいました。
国鉄に編入されなかった私鉄の600形が11両ありましたが、その中でも西武鉄道で働いた2両だけが保存されおります。それは川越鉄道が1896年(明治29年)英ナルミス・ウイルソンに注文した川越鉄道3、4号機で、国分寺〜本川越間(現・西武線)で働きました。西武鉄道に合併後、1927年(昭和2年)西武・是政線(現・多摩線)に移り西武5、6号機と改番しました。5号機は1950年に電化のため休車となり、6号機は電化後は新所沢にあった米軍基地専用線で入換機となりましたが1957年休車、両機は一時は日本ニッケル専用線に貸し出されましたが1965年に廃車になりました。5号機は西武鉄道保谷車両管理所に保管(非公開)されています。6号機は所沢のユネスコ村に運ばれ一時は公開されていましたが、1992年大恐竜館探検館建設にともない千葉県市川市の方(個人)に引き取られ保管(非公開)されているという。

700形機関車
英国バルカン社製の1B1タンク機関車(700形)は1888年(明治21年)〜1896年(明治29年)までに20両輸入されました。10両が大阪鉄道、8両が山陽鉄道、南海、東武がそれぞれ1両購入しました。1907年の国有化後、山陽鉄道、大阪鉄道の18両が形式700形の700〜717号機となり関西地区に集められました。ローカル線や建設用に使用されましたが、1933年(昭和8年)の国鉄機関車配置によると浜松駅の入換機として708,711号機が働いていたようです。また709号機は浜松駅で留置されておりました。1935年(昭和10年)までに3両共休車、後に廃車解体されてしまいました。
南海鉄道が購入した700形は同鉄道13号機として働いきましたが、1917年(大正6年)秩父鉄道に売却され同鉄道の5号機となりました、1925年(大正14年)10月には余剰のため休車、1928年(昭和3年)に廃車解体されました。東武鉄道が購入した700形は、同鉄道の7号機となって働きましたが1917年(大正6年)に余剰になり廃車、大阪市の長瀬商店に売却され同店から売りに出されましたが、その後の記録が無く行方不明になっております。
国鉄の700形機関車は廃車後9両が地方私鉄や工場の入換機として払い下げられましたが、戦後まもなく老朽化のため廃車解体されてしまい保存機はありません。

870形機関車
関西鉄道が1897年(明治30年)に2両、翌年に12両、英・ナスミス・ウイルソン社から輸入した600形機関車です。
関西鉄道では「磨墨」の愛称で呼ばれていました、動輪直径が1372mm、気筒368×508mmと600形では1番強力な機関車でした。1907年(明治40年)の国有化後は870形870〜883号機となり、関西地区で入換機、新潟の弥彦線、赤谷線では営業用にも使用されました。
最後の1両は郡山工場で戦後まで入換機として活躍していましたが、すべて廃車後解体されてしまい保存機はありません。

600系タンク機関車のほとんどは大正末期に空気ブレーキ装置を装備されたため、水槽前のデッキにあった砂箱をボイラ上に移設、コンプレッサー・エアタンクをサイドデッキに載せたため輸入時の軽快な姿は失われてしまっていたようです。


●日露戦争と2100系
1904年(明治37年)2月、満州の利権をめぐり遼東半島でロシア軍と日本軍の間で戦争が起こりました日露戦争です。当時世界一といわれた陸軍を持つロシアとの戦いは日本としては無謀な戦いといえますが、当時の軍部は満州を占領後ロシアへ攻め込む意思は無く、適当なところで講和を結び終結させるつもりであったようです。
激戦の末、満州南部を占領した日本軍は、ロシアの建設した大連〜ハルピン間の東清鉄道の南部を利用して補給物資を運ぶ事になりました。東清鉄道はロシアが建設した鉄道のためゲージが1.524ミリだったので、日本軍は国内から技術者を召集し「野戦鉄道提理部」を結成して日本の車両用に1.067ミリに改軌する突貫工事を始めました。機関車については転車台のいらないタンク機関車で、当時一番強力で小回りのきく2100形を使用する事になりました。陸軍は同年英国のノース・ブリティッシュ社に168両、米国ポールドウィン社に166両、ドイツのシュバルコフ、ハノーバー、ヘンシェルの3社に75両、計409両を緊急に発注しました。また発注した機関車が完成し到着するまでのつなぎとして同年7月には管鉄から64両、日本鉄道から23両、九州鉄道から15両、山陽・関西から各4両、北海道炭鉱鉄道から3両、北越鉄道から1両の計114両の機関車を供出し満州に送られました。供出された機関車の中には2100形以外にも5700形や7600形テンダ機関車10両も含まれておりましたが、満州のー30度になる酷寒にテンダからの給水管が凍結し耐えられなかったという話が残っております。
1905年2月には発注した機関車が続々と大連港に陸揚げされ、前線に送られて行きましたが同年8月、アメリカの仲裁によるポーツマス条約により日露戦争は終結しました。結果的に発注した2100形409両すべてが戦争終結までに間に合いませんでしたが、187両が軍需物資や兵員の輸送に活躍したのでした。
1906年(明治39年)から供出された機関車を含めすべての機関車が翌年までに日本に帰還しました。軍部が購入した409両の2100形はすべて管鉄の所有になり、管鉄保有車両360両が→769両といっきに倍増しました。戦争が残したこの2100系機関車達は明治時代を代表する蒸気機関車になりました。
1909年(明治42年)の機関車称号改正でイギリス製が2120形、ドイツ製が2400形、アメリカ製が2500形と改変されました。

2100形機関車
東海道線や東北線の開通による輸送量の増大に伴い、1800形より強力な貨物用タンク機関車が求められました。
管鉄では1888年(明治21年)英国ナスミス・ウイルソン製の1C1タンク機関車(3080形)を2両輸入しましたが、使いにくく脱線しやすいという欠点から増備は見送られました。管鉄は1889年(明治22年)英国ダブス社からC1タンク機関車(2100形)を6両輸入しました。1890年には当時強力といわれた米国ポールドウイン社の1Cテンダ機関車(後の8150形)を2両輸入し当時としては珍しいコンテストになりました。2100形の方が蒸気圧が高く、軸重13.2tと重くて空転が少ない、勾配区間に適しておりタンク機関車の方が使いやすいという理由から2100形に軍配が上がりました。
採用が決まった2100形はさっそく日本鉄道がダブス社から6両購入しました。1896年(明治29年)には関西鉄道も加茂峠越え用にダブス社から5両輸入しました。この初期に輸入された17両は国有化後の1909年(明治42年)の機関車称号改正で2100形の2100〜2116号機となりました。
1991年にダブス社から輸入された6両は日本鉄道で60〜65号機となり、国有化後2106〜2111号機となりました。2111号機は1929年(昭和4年)、2102号機は1930年に共に常総鉄道(現・関東鉄道)に払い下げられ常総鉄道10、11号機と改番し貨物用機関車として働きました、1951年(昭和26年)同線のDL化にともない廃車、翌年解体されてしまいました。
1929年(昭和4年)2105、2109号機の2両は西濃鉄道に払い下げられ、1966年(昭和41年)5月のDL化まで現役で働きました、2105号機は同年末廃車解体されましたが、2109号機は保存目的で大井川鉄道に移籍しました。1992年9月埼玉県久喜市の日本工業大学に寄贈され現在も同大学で動態保存されています。

2120形機関車
管鉄では1898年(明治31年)2100形の増備機として18両を英国ダブス社に発注しました。翌1899年にも18両をダブス社追加発注。同年部品の大部分を輸入して神戸工場で組み立てた国産の6両も完成しました。1902年にもダブス社に24両をさらに発注。神戸工場で組み立てた国産の4両も完成したました。毎年のように2120形増備していきました。
1903年には英国グラスゴーにある、ダブス、ネルソン、シャープ・スチュアートの3社が合併しノース・ブリティッシュ社が創立されました。
さっそくノース・ブリティッシュ社に増備機30両が発注されました。
1904年(明治37年)日露戦争が勃発し、翌1905年には軍需物資・兵員輸送用として軍部はノース・ブリティッシュ社に168両もの2120形を大量に発注しました。また同年北海道鉄道もノース・ブリティッシュ社に5両発注しています。
上記のダブス社製42両、ノース・ブリティッシュ社製203両、神戸工場製10両は、国有化後の1909年(明治42年)機関車称号改正で2120形となりましたが、ノース・ブリティッシュ社製の5両は同年台湾鉄道に譲渡されたため、268両が国鉄保有となり2120〜2387号機となりました。
軸重が重いので、2120形は地方私鉄ではあまり歓迎されなかったようですが、1945年(昭和20年)〜1956年(昭和31年)にかけて国鉄を余剰になり、炭鉱の専用線や工場の入換機用に払い下げられた2120形が20両ほどありましたが、彼らのほとんどが1965年(昭和40年)までにDL化のため余剰になり廃車解体されてしまいました。
1948年富良野区で廃車になった2146号機は、美流渡炭鉱(後の北星炭鉱)に払い下げられ1966年(昭和41年)に真谷地炭鉱から8100形が入ってくるまで働いていたましたが、1966年7月に廃車解体されてしまいました。
1955年福島区で廃車になった2256号機、1956年飯田町操車場で廃車になった2359号機は小名浜臨港鉄道に払い下げられC508、C509号機と改番して1966年(昭和41年)のDL化まで働いていました、両機共1966年8月にDL化のため余剰になり廃車解体されてしまいました。1955年横手区で廃車になった2248号機は日本甜菜製糖士別製糖所に払い下げられ入換機として働きましたが、1963年(昭和38年)三井美唄専用線(後の三美運輸)に譲渡され同専用線の2号機となり1973年(昭和48年)3月末のDL化まで働きました、廃車後江別市の方(個人)が購入し保管(非公開)しております。

2400形機関車
陸軍は1904年(明治37年)の日露戦争勃発後、ドイツに30両もの2100形(後の2400形)機関車を発注しました。シュバルコフ社が12両、ヘンシェル社が12両、ハノーバー社が6両受注しました。翌1905年にも45両をヘンシェル社に発注しました。
このドイツ製2100形機関車75両が国有化後、1909年(明治42年)の機関車称号改正で2400形2400〜2474号機となりました。これらドイツ製2400形機関車はダブス社の図面を元に主要寸法は緒元表どうりになっていましたが、各部に手すりを付け工作もていねいでした、またバッファ ビームなどはイギリス製の凹曲線ではなく直線的に仕上げられているため修理しやすく現場では好評だったようです。
1948年(昭和23年)高山区で廃車になった2412号機は、石原産業四日市工場に払い下げられ近鉄塩浜駅と工場を結ぶ専用線で働きましたが1968年(昭和43年)3月末DL化により廃車、名古屋市科学館に大事に保管されております。

2500形機関車
日露戦争勃発後、1904年(明治37年)陸軍は米国のポールドウイン社に16両の2100形(後の2500形)機関車を発注しました。翌1905年にもポールドウイン社に150両もの大量発注を行いました。1906年には関西鉄道もポールドウイン社に2両発注しました。このアメリカ製2100形機関車168両は、国有化後の1909年(明治42年)の機関車称号改正で2500形の2500〜2667号機となりました。ポールドウイン社製の2500形機関車もダブス社の図面を元に主要寸法は同じでしたが、大量生産で部品の均一性がたもたれなかったか、検収がいいかげんだったのか各部に手抜きが見られたようで潤滑油の消費量がダブス製の2.5倍、石炭の消費量も悪かったため現場では不評でした。またポールドウイン社製はブレーキ ロッドが緒元表では2本なのに、1本しかなく、後年ブレーキ故障が多発したため英・独製の一族より結果的に廃車される時期が早まりました。
評判が悪かった2500形は廃車される時期が早くなりましたが、その結果として私鉄・専用線に15両払い下げられました。そのほとんどが1964年(昭和39年)までに廃車解体されその姿を消しました。1935年(昭和10年)秋田区で廃車になった2649号機は明治製糖士別製糖所(後の日本甜菜製糖士別製糖所)に払い下げられましたが、1966年(昭和41年)三美運輸に転売され同専用線の1号機となり1973年(昭和48年)3月末のDL化まで働いていました、廃車後江別市の方(個人)が購入し保管(非公開)している。

改造機、2700形、2900形、3500形機関車
国有化後、蒸気圧を11.3kから12.7kに上げるなどの小規模な2120形の改造が各工場で行われました。晩年にはコンプレッサーやエアタンクなどを装備する機関車や、地域によっては炭庫内に500リットルの重油缶を2個装備した重油燃焼装備の機関車も現れますが、1910年(明治43年)〜1914年(大正3年)にかけて軸重軽減化され形式が変更になった一族も現れました。
1910年〜1911年にかけて鷹取工、新橋工で2500形の軸配置を1C2に増やし、軸重を13.2t→12.7tに軽減した5両、3500形の3500〜3504号機が誕生しました。3500形は炭庫、後部の水タンク大きくしたため後形状が後のC10形に似ています。またボイラーの先から先輪をささえるステーがあり、2500形とはまったく違った形状の機関車になってしまいました。
1912年鷹取工、四日市工で2120形の軸配備を1C1に改造した17両、2900形の2900〜2916号機が誕生しましたが、水タンクを大きく前に移動し先輪を装備したため整備重量が48.42t→54.58tと重くなり、軸重が反対に(13.4t→13.79t)重くなってしまい失敗した形式になってしまいました。
1912年〜1914年にかけて新橋工、浜松工、長野工で2500形の軸配置をC2にして炭庫を大きく改造した24両、2700形の2700〜2723号機が誕生しました。
1948年(昭和23年)八王子区で廃車になった2719号機は、雄別炭鉱鉄道に払い下げられ入換機として働きましたが1953年(昭和28年)三井美唄専用線に転売されたがその後、北星炭鉱美流渡に再転売されて万字線美流渡駅と炭鉱を結ぶ専用線で働きましたが、1967年(昭和42年)同線の廃線と共に廃車解体されてしまいました。

2100系一族のその後(国鉄)
1907年(明治40年)一族533両の内、台湾総監府へ譲渡された5両を除いた528両が国鉄へ引き継がれました。
2100形は福井、金沢、富山機関区に所属し北陸線へ。2400形は甲府、上諏訪、松本機関区に配属され中央線へ。両数の一番多い2120、2500形は九州、四国、本州、北海道各地の機関区に分散配置され、貨物列車や勾配区間の補機として活躍しましたが、9600形やD50形の登場により本線から引退していきました。昭和に入ると2100、2400形は名古屋管理区に集められ入換機として働きました。2120、2500形は九州、四国、本州、北海道各地の支線や駅の入換機として働く姿が見られました。
3500形は入換機として使われましたが評判が悪く、1922年(大正11年)までにすべて廃車解体されてしまいました。1935年(昭和10年)には2120形が257両、2400形が65両とほとんどが現役で働いておりました。米国製できらわれていた2500形は廃車が進み37両しか在籍しておりませんでした。2700形は北海道地区に8両、青森区に3両、盛岡区に1両、東京の飯田町区に3両、八王子駅に1両の計19両。2900形にいたっては工事用機関車として3両が在籍していましたが1935年末までに全機廃車解体されてしまいました。それでも一族528両中378両がこの時点で健在でした。
戦後、1947年(昭和22年)には2120形253両、2400形64両、2500形36両、2700形17両の370両が健在でしたが、6700形、6760形、B50形、C50形が本線で余剰になり入換機として働くことになり、2100形一族の急激な廃車解体が始まります。まず2120形のボイラをトキ900形(3軸無ガイ車)に載せたマヌ34暖房車が29両製作されました。このマヌ34は、冬期の長距離旅客列車の暖房用として1965年頃まで全車健在で働いていたそうです。
2500形、2700形は1956年(昭和31年)7月までに全機廃車されました。1957年(昭和32年)3月には国鉄各工場の入換機として2120形29両、首都圏では品川区(汐留操車場などの入換機)に11両、飯田町区に6両。西日本では梅小路区、吹田区、岡山区など各機関区に17両の計63両。2400形では高岡区2両、沼津区1両、静岡区1両、浜松区1両、稲沢区に1両の計6両。他に2120形6両、2400形1両の計7両が工事用機関車として働いていました。
1960年(昭和35年)5月土崎工場の入換機として働いていた2221号機が廃車、青梅鉄道公園に保存されましたが、岡山駅の入換機として働いていた兄弟機2220号機は同年7月、廃車解体されてしまいました。1961年2月下関工事区の2352号機が廃車解体、同年7月には岡山工事区の2227号機廃車解体、岐阜工事区の2272号機は廃車後、国鉄松任工場(JR西日本松任工場)で保管されました。最後まで働いていたのは、1963年8月5日に札幌工事区で廃車された2434号機(1905年ドイツ・ヘンシェル製)で、惜しくも解体されてしまいました。


鉄道国有化
軍部はきたるロシアとの戦争をにらみ、1903年(明治36年)1月、「鉄道軍事供用令」という法律を制定し、戦時輸送体制をととのえていました。
陸軍は日露戦争開戦と共に軍用物資一貫輸送体制をとり、東海道線は軍に供用され陸軍は臨時列車を増発しました。当時16往復運転されていた東海道線の民間用列車は、旅客2往復、貨物1往復に圧縮され制限されました、後は軍用臨時列車となって多くの兵隊と物資を運びました。
軍用物資一貫輸送体制により、私鉄と管鉄の接続駅は大混乱になっていきました。当時はまだ客車・貨車の相互乗り入れなどはなかったため客車、貨車の車両規格、またそれを結ぶ連結器すらバラバラな規格ですべてに統一規格が無かったのでした。地方私鉄から運ばれた兵員・物資は管鉄との接続駅で乗せ換えが必要でした、兵隊は整然と歩いて乗り換えられましたが、貨物列車で運ばれてきた物資は人力で乗せ換えねばならず、接続駅には軍需物資が渋滞しうず高く積み上げられる危険な状態が続きました。
軍用物資一貫輸送体制は鉄道の国有化(統一規格化)なくしては、うまく機能しない事がわかったのでした。
日露戦争終結の翌年1906年(明治39年)3月、「鉄道国有化法案」が帝国議会に提出されました。
鉄道時報によると国有化法案の生みの親は元逓信省次官で鉄道局長を務めた貴族院議員・田健次郎と紹介されておりますが、時の逓信大臣は陸軍大将・山県有朋の養子・山県伊三郎であり、帝国鉄道協会(管鉄、私鉄、陸軍鉄道隊を統括する団体)の会長は日露戦争の名大将・児玉源太郎参謀総長が兼ねていたことからも軍部からの圧力があったと思われます。
私鉄を経営していた財閥は当然反対しました、日本銀行副総裁の高橋是清は日露戦争での外債、公債が18億円もある今、4億8000万円以上の公債をさらに発行することは明治政府の財政破綻を危惧すると反対しましたが、鉄道国有化法案は当時の西園寺内閣が強行に採決し同年3月31日公布されました。
1906年管鉄の総営業距離は2.524kに対し、私鉄32社の総営業距離は5.224kもありましたが、「鉄道国有化法案」により、日本鉄道、九州鉄道、山陽鉄道、関西鉄道、北海道炭鉱鉄道、北海道鉄道、甲武鉄道、京都鉄道、阪鶴鉄道、北越鉄道、西成鉄道、七尾鉄道、岩越鉄道、参宮鉄道、総武鉄道、房総鉄道、徳島鉄道の主要17鉄道の4.563kの線路とその敷地、駅舎、整備工場施設等すべて、蒸気機関車1.118両、客車3.067両、貨車20.884両、それらを動かす人員もすべて買収の対象になり総額4億8.198万円で買収する事になりました。当時日本の工業資本6億2.200万円の73%を国が買い取るという今では考えられない大買収でした。
また、成田鉄道(1921年)、水戸鉄道(1927年)、中国鉄道・博多湾鉄道(1944年)の4鉄道が後に国鉄に買収されました。
1907年(明治40年)4月、帝国鉄道庁(国鉄)が誕生しました。翌1908年12月には内閣直轄の鉄道院となりました。1920年(大正9年)5月には鉄道省に昇格したのでした。

機関車の形式化
国有化の頃の日本の鉄道では、多種多様な蒸気機関車がそれぞれ個性豊かな音色の違う汽笛を吹鳴し、また多様なドラフト音を響かせながら日本の山野を走りまわっておりました。
鉄道後発国の日本は将来の運用計画もないまま、イギリス、ドイツ、アメリカの機関車メーカー各社のいいなりに、管鉄、私鉄各社が、その都度輸入してきた蒸気機関車達は約2000両、200種類にものぼっていました。まるで各国のメーカーのカタログの車両を全国にぶちまけたような機関車見本市状態だったようです。
1906年(明治39年)10月から翌年10月にかけて主要私鉄17社の買収は完了しました。国有化により私鉄17社から1.118両の機関車が国鉄に編入され、管鉄が保有していた769両と合わせて1.887両、190形式が国鉄の蒸気機関車となりました。
各私鉄・管鉄はそれぞれ1号から順に番号で機関車を呼んでいたこの時代、国鉄には18両の1号機関車が集まりました、国鉄では編入された機関車の改番を考えました。
国鉄の工作課長の島安次郎は、買収した私鉄から保有している機関車、客車、貨車の図面をすべて提出させました。保守、整備、運用にかかせないためです。年式、製造会社、軸配置、重量などで分類整理し、グループ別に分けていきました。整理してみると1形式1両しかない機関車が56形式、1形式2両しかない機関車が59形式、1形式5両以下の機関車42形式、中には日本でしか現存機がない試作機関車が多数含まれておりました。それぞれに耐用年数を調査し、老朽機を無駄がないようにもっとも経済的で効果的な方法で廃車に導く道すじを策定していきました。
共通運用出来る形式は同じ線区に集めて使用し、少数機は旧私鉄でそのまま廃車になるまで使う事になりました。
1909年(明治42年)10月1日、島安次郎が3年の年月をかけて策定した国鉄新形式称号が公布されました。
1928年(昭和3年)には国有化時に190形式あった機関車は、老朽化の進んだ機から随時廃車されていき137形式200数両が国鉄から私鉄&専用線に払い下げられていきました。また新製機や改造機も増えていき最終的にはタンク機33形式、テンダ機23形式が追加され計246形式にまでふくれあがりました。1〜9900まででは空き番ばかりで収まりきれなくなったため、1928年(昭和3年)に国鉄形式は改定されたました。B、C、Dと動輪数を頭文字に10〜49がタンク機、50〜99をテンダ機に形式と番号を分けて表示するように改定しました。この改定は原則として新製形式機に限られたため、すでに製造が終わっていた大半の機関車は旧形式(1909年制定)のままのナンバープレートを付けて働くことになりました。

ナンバープレート
下は各形式のナンバープレートの写真ですが、1909年制定のプレートは砲金製で長方形が一般的でしたが、中には円形のプレートもありました、またナンバーの下に「TYPE」または「形式」と書く場合の2種類があったようです。
1928年改定のナンバープレートは、ほとんどが戦時中に供出されてしまったため戦後しばらくは黒い鉄板に白ペンキで書いたナンバープレートがほとんどでした。1950年代に各国鉄工場で砲金製のナンバープレートが再製作されましたが、ナンバーの下の「形式」が省略されたシンプルなプレートになってしまいました。

●国鉄形式称号

系列 軸配置 作業局形式 国鉄形式(1909年)制定 国鉄形式(1928年)改定 アメリカ名
B形タンク機 . 1〜99 B20 .
B形タンク機 1B A1〜A7 100〜199 . .
B形タンク機 1B1 A8〜A10 200〜999  1060〜1118を追加 コロンビア
C形タンク機 B1〜B4 1000〜2099 . .
C形タンク機 C1 B6 2100〜2799 . .
C形タンク機 1C C2 2800〜2999 . モーガル
C形タンク機 1C1 B5、C3 3000〜3699 C12 プレーリー
C形タンク機 1C2 . 3700〜3799 C10、C11 アドリアチック
C形タンク機 2C1 . 3800〜3899 . .
C形タンク機 アプト式 C1、C3 3900〜3999 . .
D形タンク機 . 4000〜4099 . .
E形タンク機 . 4100〜4199 E10(1E2) テキサス(1E2)
マレータンク機 BB . 4500〜4599 . .
B形テンダ機 B1 D1 5000〜5050 . .
B形テンダ機 1B1 . 5050〜5099 . .
B形テンダ機 2B D2〜D12 5100〜6599 . アメリカン
B形テンダ機 2B1 . 6600〜6999 . アトランティック
C形テンダ機 E1 7000〜7049 . .
C形テンダ機 C1 . 7050〜7099 . .
C形テンダ機 1C E2〜E7 7100〜8699 C50、C56 モーガル
C形テンダ機 1C1 . . C58 プレーリー
C形テンダ機 1C2 . . . アドリアチック
C形テンダ機 2C . 8700〜8899 . テンホイラー
C形テンダ機 2C1 . 8900〜8999 C51〜C55、C57、C59 パシフィック
C形テンダ機 2C2 . . C60、C61、C62 ハドソン
マレーテンダ機 CC . 9750〜9899 . .
D形テンダ機 1D F1〜F2 9000〜9699 . コンソリデーション
D形テンダ機 1D1 . 9700〜9720 D50、D51、D52 ミカド
D形テンダ機 1D2 . . D60、D61、D62 バークシャー


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