3.鏡像関係の後退にともなう光

 「物事には必ず入口と出口がなくてはならない。そういうことだ。」

 風の歌を聴け、1973年のピンボール、羊をめぐる冒険まで、小説は僕と鼠によって進行する。「イエローページ村上春樹」で述べられているように、僕=現実と鼠=異界という領域の往復を構造として、たとえばピンボールでは金星生まれの話と土星生まれの話、あるいは208と209と区別されることになる双子の女の子、ピンボールの向かい合う2対のフリッパー、僕と僕の友人が経営する翻訳事務所の部屋の配置などが、小説を多重構造にするとともに、僕=現実を出口と入口というような2極の間の運動として特徴ずけ、ラバーソール、カリフォルニア・ガールズに増幅されて時間を構成してゆくことになる。
 一方の鼠の世界は「1973年の秋には、なにかしら底意地の悪いものが秘められているようでもあった。まるで靴の中の小石のように鼠にははっきりとそれを感じ取ることができた。‥‥‥
鼠にとっての時の流れは、まるでどこかでプツンと断ち切られてしまったように見える。
何故そんなことになってしまったのか、鼠にはわからない。切り口をみつけることさえできない。‥‥‥鼠は無力であり、孤独であった。何処かで悪い風が吹き始め、‥‥‥」
出口のない世界と描かれ、死の静寂しかない冷えきった世界には、双子のような対になったものは出てこない。死に傾斜してゆくとさえわからない行き止まり感が重くあたりをおおっている。
 風の歌を聴けではジェイスバー、1973年では双子の女の子がこの二つの世界の境界に位置していて、死んでゆく鼠の、あるいは直子の外側を形成している。鼠はネガティブな内面であるというより無意識と呼ばれるべきものなのである。なぜなら鼠の世界は、あまりにも遠いと同時にすぐ後ろに接していて、広大な拡がりであり、「懐かしさに満ちみちている」からである。村上春樹の小説はこの無意識=死をテーマに展開しているのである。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の世界の終りでは、影をなくした僕は世界のおわりで死んでいった獣の頭骨から夢を読み取りながらしだいに弱ってゆく。夢読みは「彼女が説明してくれたほど楽な仕事ではなかった‥‥‥明確なメッセージとして把握することはできなかった」夢読みは指を介在として光に目を晒すことであり、生が凝集したもので、後にねじまき鳥の井戸で体験される光である。しかし後者の光は突然あたえられるものであるに対し、前者は読み取るべきものである。夢読みは古い夢しかない図書館でなされる。図書館という装置で無意識を知として見える形にする作業をするのである。というのはこの「世界のおわり」とは、ラカンの鏡像段階にも似た幽閉された無意識なのであり、無意識は光のもとで分類され読み込まれねばならない。一方、光は生という欲望でもあるので、光を外に放出して無意識を生から死への時間の秩序に一致させねばならなかった。光は超越的シニフィアンと運動としての欲望のカップルなのである。影が失われることには、単に象徴界への移行ではなく、このような2重の機能の間の薄暗い無意識の彷徨を見る必要がある。
 無意識では言語は厚みをもち、とめどもない抵抗と欲望に事物のパースペクティブは変形する。内面によって幽閉されたのは個以前の欲望と不透明な言説であり、具体的には「鼠」と「僕」「影」と「僕」という鏡像関係に村上春樹の無意識は内面化され、再構成されるのである。「忘れられた帝国」が、非人称的で個と個の間を移動するノマドとして定義される群集の力学からなっているに対して、村上春樹は鏡像関係の答えのない死の意味を探索するのである。本来的な意味での無意識は指で探られる光なのだ。