2 幸福な光もしくは光の痕跡

「赤ん坊の揺り籃は深遠の上で揺れているのだ。だれもが知っているように、私たちの一生は二つの無限の闇の境を走っている一条の光線にすぎない」(『ナボコフ自伝』)光そのものは直線性が高く、一方から一方に光線のように運動し、物理時間の基準であり、時間の流れを刻印しつつ、共時的な空間を視線の優位によって確保するというような光の空間をここでのべているのではなく、ナボコフは闇との境界に思いを巡らしている。光は直線の平明さとそれによる意味伝達の機能ではなく、光芒であるとか、ぼんやりした明るみであるような光自体の存在を垣間見せるような気がする。「この闇は時間の壁のために生まれているのだ、その壁がこぶしをふり回してあがく私を時間の存在しない自由な世界からへだてているのだ」ナボコフは記憶を辿ることで、闇の向こう側への出口を探すのであるが、その壁の近くで光の内容は離脱し光自体の存在のみを見い出すのである。光の無限性が崩壊して、散乱しているのである。

 たとえば、この体験はつぎのような箇所で反復されるのである「朝早く目が覚めたときなど、私はよくシーツのなかにもぐりこんで、そのテントのなかであれこれぼんやりと想像の世界を楽しんだ。影の多いリンネルの壁は雪崩の後の岩肌だった。明暗なかばする隠れ家にさしこんでいる微光は、奇妙な青白い動物たち住んでいると私が想像していた、どこかずっと遠くの湖水地帯を描いた風景画のものだった。」散乱した光がさまざまな形象に変化してゆく想像力が描かれていて、質量を失い光自体の散乱が、詩の断片を明滅させはじめているのである。境界の上空で光が投げかけるのはイマージュであり、外の思考、はじまりと終わりが予定されている物語ではなく、光を実在へと取り込む言葉なのである。

 光に充ち溢れた
 大きな結晶の内部に
 〈少年の水準器〉が一つ
 明晰な平衡を保っている
 やわらかな陽射しのなかで
 幸福な蜻蛉の一匹さえ
 みじろぎもしない

 それは裸体であろうか/いや/それは裸体でさえありはしない/ むしろ/裸体を超えたところの/捨象された憂愁の皮膚/ことば の闇に耀う/肉体という光の繭//草露がしどけなく滴り落ち続 け/鳥の形象も虫の音もなく/ただ/月光の粒子だけが/丸く刳 り貫かれた視野一面に降りしきる

            (高柳誠『月光の遠近法』より)

 少年の水準器という形象によって、光は運動を緩め、やわらかな陽射しとして開かれ、希薄に共有されるものになるのである。もともと外のものである光を、視線の権力を介在させることなく、内在化する試みの一つは、結晶体であるとか卵とか塔という封じ込める装置を作動させることである。

 結晶に〈少年の水準器〉を見ることで、光を触れ得るものにしている。記憶を溯行することで闇のなかに浮かびあがる遠い光芒とは異なり、ここでの光は、「言葉の闇に耀う/肉体という光の繭」であり、言葉との距離のもとに、窃視的に存在して、歪な空間形成の基底になっている。もともと視覚空間を形成するマテリアルの性質のものであって、記憶という時間の遅れからくる差異が表面化することはなく、時間の外の超越的な光と、その物質的イメージによって触覚的な粒子との往復として、光は記述される。光による物の表面の透明化は、肉体を時間の外に浮上させるだろう。光が媒介することで、モナド化されるのである。結局、コマ落ちした物語が発動され、閉じ込められた光というエロティシズムが無防備な言葉を補完するのである。月光の粒子のように、視覚空間での運動は、どこかで物語を欲望しているのである。起源の記憶を保持してると信じられがちな光は、物語をまとう運動、物たちの間での運動、その二つの運動によって欲望の表象になるのだ。

 ナボコフの「記憶よ、語れ」では、光は遠いものをまじかで呼吸させうる時間であった。単にノスタルジックに再現させる時間なのではなく、生々しい反復としての時間なのだ。光は際限ないものではなく、いわば他者なのである。記憶という内在的な場で体験されるのは、外からの到来であり、強度としての光なのである。イマージュを喚起することが重要なのではなく、生々しい反復としての記憶の周囲とその接合部に到来する光がイマージュを活気付けるのである。外から潜在的記号への探索とも言える。欲望ではなく、消尽すること。高柳が内在的な物語から外部への方向を光に見ていたことに対して、外部としての光の受容に向けられているのである。質量を失うことと矛盾しない。実在するとはそういうことなのだ。

 光は外から到来するという意味で子供なのである。しかし光が他者という同じ意味ではない。光と闇との境界での明るみ、光の機能ではなく、その物質性に思考をはじめるとき私たちは、どうやら子供のように振る舞うことが必要なのだ。少なくとも、そこを通過する手続きが必要であり、松浦寿輝の『ン天有月』はこのような手続きを繰り返し、予期せぬ顔と顔に驚かされる書物なのだ。