4 螺旋機械
隠岐にゆく波が、あんなに自由にみえるのは、波が 島にとどかなくてよいと思っているからではないか。
絶対的であらゆる言葉のベクトルを決めていた根源的な輝く中心は変質している。ゆきつかなくてもよいという「不思議な滞留の場所」とはなんなのか。波があんなに自由にみえるのはというときの波は、「わたしは、葉が、‥‥‥きれて、」いうときの葉にたどり着いている。「螺旋歌」は、離れ、接岸、途切れるところで出会い、歩みつつ佇み、いたるところで閉じない円を描く。
根源的な輝く中心という円は徐々に開かれてゆくのである。自己同一性に回帰しなくてもよいという葉の途切れは、「夏のほこりが周囲一面(しずかに)舞い立つ」多様体への変容なのである。
「私は、葉が、‥‥‥きれて、片道を、舞い下りていったとき、‥‥‥、林檎と木星、‥‥‥のかげが、 ‥‥‥、残った。ひとりごとがして、(‥‥‥、)、 白い、‥‥‥兎が、緑の葉裏にそって、歩いて行った。 (かがやく丘、‥‥‥)、月と、‥‥‥そのかげに隠 れた星が、葉が、‥‥‥きれたわたしが、細い、(隠 岐へ行く波の姿で?)、光る、ミチ、何処に、‥‥‥ はてるところ、何処にもない、ふかい、うた、いた、 (‥‥‥、)。
「夏のほこりが周囲一面(しずかに)舞い立っていた」
わたしは、迷路のような多様体のひとつの部品になって、言葉を忘却する。多様体のささやきに耳を傾ける多様体のひとつの部品なのだ。舞い立つほこりの前に佇む、不思議な滞留の場所。遠くから運んできた言葉を捨て、そして、生まれることで傷つく。多様体の、自らを傷つける限りにおいて、わたしがある。傷がその多様体に「、」とか「‥‥‥」という分断をいれる。つまり、出口なのであり、多様体を(しずかに)舞い立てる。迷路の線のように接岸されたフェリーが離れるのである。
(しかし、‥‥‥)(そして、‥‥‥)そこに、部屋があり、‥‥‥都市があり、‥‥‥盲目的に、あなたの言葉は、そこからの解放です。あなたのフェリー、 あなたの艫綱、あなたのボート、‥‥‥
「隠岐は僕の盲目の時間の下にある」
逃走線は「光る、ミチ、何処に、‥‥‥はてるところ、何処にもない、ふかい、うた」であるような、島にとどかなくてもよいと思っている波としてのミチなのである。傷から道への変換、反復する変換を行う多様体は、螺旋機械なのである。
機械とはなにか?出口と入口をもつすべてのものであり、その装置は、反復的に効果をもたらす、すなわち生産を行う。螺旋は逃走の線なのである。その機械は、ひかりかがやく丘へのミチを反復する。しかしその反復は少しずつずれていて、決して同一のものがもたらされるわけではない。機械は生産によって、その効果によって変化してゆくからである。
「隠岐」、「宮古」、「平戸」といった地名は、音であり、意味作用から逃れている。波とかミチ、そしてわたしも音としての強度という無意味さであって、言語として定着される以前の物質性であり、ニーチェ的な軽さと脈絡もなく物が存在する滑稽さをあたえる。
機械とは、構造ではなく、意味作用ではなく、強度の生産なのである。ドゥルーズは音において重要なのは強度だけであるとし「常におのれ自身の廃棄と関連している、強度の高い純粋な音のマチエール、非領域化した音楽的な音、意味作用・構成・歌・ことばを欠いた叫び声、あまりにも意味作用的な連鎖の束縛から脱するための、断絶状態の音響性である」。強度の生産としての音に耳をすますことは、おのれ主体の廃棄と繋がり、機械の部品として機能することなのである。隠岐に向かってゆく波、見るという行為ではなく、吸い込みあらゆる方向へと再び離れてゆく。主体と無関係でありながら、まったくの偶然性から巻き込まれている一連の過程、またそれゆえに主体の無意味さを露呈する一連の過程が横たわっている。つまり、耳をすますことは、それによって、はかばかしい成果や下心や権力的な中心としての主体が見えてくるのではなく、機械の効果を発生させる部品、すなわち出口になっている。