独身者の求愛と遊戯の規則
阿部日奈子論

 「K」は奇想である。カフカの作品に偏在しているようなKという独身者が、二階の窓辺にいつものようによりかかっていて、鬼っ子のような「私たち」が通りかかるの見ていて、ふと手を振るわけである。「私たち」は運命の啓示でもあったように、二階に引き寄せられ、Kの異常な愛---謎めいた求愛、「私たち」へのフェティッシュな欲望、そして欲望する書記機械としてのK---の前に追い詰めら、身を投げ出すのである。しかし、Kは、謎めいた求愛として、あるいは欲望する書記機械として機能するが、誰であるかは「私たち」には明らかにされないばかりか、徐々にその存在は希薄化してゆくのである。「私たち」は、「問うことは挑発でした。久しいこと書き散らされるのは切れ切れの断片ばかり、白い右手が机の下で力なく萎えるのを盗み見て、浮足立った私たちはやみくもに挑発しました」と、Kを知るための捨て身の問いを繰り返すが、問いは機能を不能に追い込んでゆくばかりで、その実質を明らかにすることはない。そして、Kは切れ切れの断片のように、謎めいた問いとして「私たち」から遠のいてゆく。


 「眠り王子」においても、天稟の雅というべき王子が、大事な戦に際して、自らの本領を発揮するどころか、しどけない姿で眠るばかりで、内外の期待を裏切ってゆく。王子を眠りから引き戻すべく、王子にかしずく幼なじみで許嫁の「私」の嘆きと喜びの献身にもかかわらず、王子はますます深い眠りに入ってゆくのである。あるいは「典雅ないきどおり」は、技法に長けた男からの求愛と誘惑に対する乱れるような文字で書かれた返答である。「着衣のきみは気も遠くなるほど醜悪だ、とか言いながら」背中のボタンをはずしにかかり、「あらがうほどに匂い立つきみの色香」、「きみにはできるだろうか、燃えてしかも燃え尽きぬこと」との求愛と誘惑に対して、「私」は「できるわよ、私にはできるわ/火の霧に包まれた躰から心を早駆けで逃がしておくこと/窯でひとつに融けながら頭と頭は北京とアルゴイに隔てておくこと/そうよ、コーカサスで見出されたあなたの新しい妹は、探湯の奥義をきわめた身よ」と啖呵を切りながら、遊戯の徹底抗戦に挑む。一方、男は「私」の独白のトーンが上がるにつれて、徐々に希薄さを強めて、あたかも花の匂いが敷き詰められた庭園というミクロコスモスの複数次元の広がりとともに、差し引かれる独身者と見なさねばならない。

 天使のように語り、誘惑することに遊戯を含ませ、悪徳やアレゴリーの土星的なメランコリー気質の撹乱をすること、求愛という罠との駆け引きに、あらゆるテキストの常套句を引っ張りだし、その襞を重ねること。つまり「(恋愛の)フィギュールは連辞の外に、物語の外にあるのだ。復讐の女神エリーニュスたちのごとく、興奮し、衝突し、静まり、蚊の飛行ほどの規則性もみせず、立ち戻り、かつ遠ざかる」(ロラン・バルト)に対し、この求愛に続くシークエンスは、遊戯であるがために規則を前提にし、規則の受容こそが遊戯を作動させる。規則は人を立ち止まらせるようにはたらくのでなく、差異の戯れの温床としての規則を予感させるのである。あるいは恋愛のフィギュールが存在の喜びや絶望に深く沈むのに対して、求愛は声ではなく、遅れて届く謎めいた表象で構成されていて、意味につなぎとめられた存在から表象の暗躍するナンセンスな悪夢の上での応酬となる。際限のないぺらぺらなイメージ(アリスが踏み迷うトランプの世界)で示される罠と脈絡を欠いた規則(例えば独身者)に遭遇することが知に課せられる。
 一般に規則は、他者との関係の混乱と崩壊への防波堤であったり、合理的な保身術あるいはまた私たちが進むべき道筋を暗に指示するものかもしれない。その場合の規則は、安易な物語を成立させるものであったり、同一性の確立であり共同体の強化に深く関わるものである。差異の隠蔽と出来事のシステム化として体制となってゆくに対して、遊戯の規則は、差異の増殖であり、出来事の展開といえよう。だから遊戯の規則は遊戯の進行とともに変化し、誰もそれとして明示しえない時間的なズレを内在する機能なのである。
 遊戯は存在から存在への跳躍運動、断片的な痕跡を読み取る想像力で特徴づけられる天使的な視差のなかでの飛行なのだ。
 
 Kや眠り王子といった独身者は、テキストを読むなかで姿をみせる人物であり、判じ絵に対するように忘れ去られた意味や象形文字に似てくる謎めいた記号であり、これを巡って展開する遊戯(ミクロコスモス)の不可解で根源的な規則といえるだろう。ドゥルーズが書くように独身者(独身機械)とは、拷問、暗い謎、古い《律法》を備えている一方で、強度量の生産を行い、次々に変貌してゆく一連の流れである。それ自身で多様性を実現している機械なのである。Kや眠り王子といった独身者もさまざまな形象への変化という強度を生産する機械であるが、いまだパラノイヤ性が残っていて、暗い謎や古い律法による支配を周囲にも及ぼしている。そうした論理が、読むなかに混入することは避けることはできない。阿部日奈子の詩はこの独身者との駆け引きであったり、誘惑が引き起こす想像力の跳躍であったりするのであるが、独身者を遊戯の規則と重ねることで、パラノイヤ性を差し引いている。辺境的なものや「パラドクサ」を並列するバロック的な知に近似しているだろう。実際、阿部日奈子の詩篇での独身者は差し引かれるようにして希薄化を強める。そして、「私」もしくは語りは、激しい運動に巻き込まれる。脱中心化によって、多様性が軽やかなステップを踏むわけで、独身者はパラノイヤ性をそぎ落とされて、純粋な強度の生産に反転されるのである。

 『典雅ないきどおり』では、古い律法の独身者から、ナルシス的な眠る独身者、恋のシーニュにたけた独身者、天使のような遊戯を生きる独身者とさまざまな振幅を見せているが、独身者は憂鬱さと秘密主義といった、この世を腐朽と衰亡の相において見る世紀末的な思想だけでなく、器官の不能よっても特徴づけられる。差し引かれる独身者は、器官の不能を意味していて、Kの徐々に明らかになる無力さや、「いきどおり」での「私」のいきどおりは、扱い慣れた手に向けられているのではなく、愛の成就が無限に遅延される不能さに向けられている。「クマツヅラの薫り」で「鱗粉だらけの指先であの人が私にしたことは眠ったふりをして我慢していました けれどあの人が荒い息遣いの下から絞り出すような声で〈そうか 俺はやはりT家の三男だったのか〉」ということへの「私」の笑いの発作は、生の息苦しさからの解放で、不能への揶揄だけでなく不能としての独身者への加担なのである。差し引かれた独身者の倒錯した世界を読み進む遊戯性がテキストの表層を波立てるのである。ここで語られている、中性特有の希薄さ、衰退してゆく生の風景、罠とさえ見える白痴化、沈黙の周囲に立ち上がってゆく饒舌な言葉は、独身者の過剰な内在性と表象への欲望、そして倒錯性を囲い込み、生きたままの標本というべきミクロコスモスを作り上げている。

 負の過剰さや倒錯性で定義される不能としての独身者の求愛は、フェティッシュで、厳格な様式から成り立っていて、「K」の欲望がそうであるように書記機械の部分であることを要求する。そうしたテキストの部分でありながら波立ってゆく言葉は、寡黙な独身者、誘惑される「私たち」、そして語りの三者が厳格な様式に自らを変形する過程と、様式から遊戯の規則へと三者の役割を交換可能なものとし、バロック的なミクロコスモスを種々の流れへと不定形化することに対応している。遊戯の規則は、他者の欲望にさらされ、宙に吊られる娼婦という遊戯の観念を終わらせる結婚という制度からの果敢な逃走であることを付け加えねばならない。
 恋愛の重みを差し引いた遊戯で生産される奇想のミクロコスモスへの欲望と、先行するテキストとの埋められぬ隔たりにおいて様式から規則への暗躍を阿部日奈子の作品に認めべきであり、そこでの遊戯の規則は、独身者の沈黙を巡る言説を生産する、そして詩形式が制度に通底してしまったり、単なる様式に停止してしまうテキストとの距離を撹乱する機能なのである。

 ええ、そうね、これはまるっきり無根拠な遊戯
 卵とガラス玉の陣営に分かれて交互に千々に砕けながら
 恥じらいは カウントで揮発する
 流血はご法度、汗はいい、涙はどう? 悲嘆ぬきで少しだけなら‥‥‥
 戦いの法悦を煽るのは、そのかみの烈しい夏に覇をきったアマツォーネたちの肖像
 <花束の平手打ちはカローラ・N、マリルイーゼ・Fの失われた名誉、最強の同志エリザベート・Hは戦 線を離脱せり>
 消耗の戦術が通じないなら、脳天杭打ちで記憶の面影を一掃したい!
           「典雅ないきどおり」

 求愛に対しての過激な遊戯の宣告を聞けば、色男の攻撃も屈折せざるをえないだろうし、やがては呟きのように、自らに割り当てられた余白の沈黙となり、鳴り響く言葉の強度と連動する。独白とも対話ともいえないフィギュールは、欲望を煽る一方で孤独を深めるのである。この孤独は恋するものが襲われる悲しみや喜びのなかで沈み込む孤独ではない。はじめから深みとか遠近感を失った空間で、そして記号と事物の混合からなる疑似テキストのなかを烈しくステップする装いは、独身者を過剰な沈黙へと追い込み、フィギュールを遊戯のなかに解き放つのだ。
 「壮麗受胎」は受胎告知という様式に遊戯を作用させることで、種々の言説と事物が発生し通過する規則の場への変容過程を核心としている。

 ね、はっきりさせましょう、彼はあなたと結婚しません。たしかにあの時は便宜上、彼も求婚したかもしれません、「聖き婚姻」なる雅語をすべすべした白磁の耳に囁いたかもしれません。どうか本気になさらないように。独り身を謳歌する彼のどこを叩いたら、結婚の2文字が転がり出てくるというんです? ‥‥‥
  さて百合の花が届いたら、次はどうすべきか。列席者をうら悲しくさせる田舎の婚礼など蹴散らして、出奔なさい。ひとり野をさまよって獣のようにおし黙っていても、どうせかまびすしい世間がたちどころに奇想の宝石箱をひっくり返して、仮説の意匠をひけらかしてくれるでしょうから。たとえば、鳩の薄闇の刻、龕燈返しになった空から一条の光が降ってきて、穿たれた三つめの窓より射し込むと、‥‥‥ほらごらんなさい、壮麗なる受胎をめぐる壮麗なる思弁の唐草模様が、端から端まで目も綾に絡まりあい、縺れるに縺れてゆくさまを。           「壮麗受胎」

 概念的で、図式的な表象である一方で、腐朽、衰亡の歴史を担い、廃墟に散乱する忘れられた真理の断片であるアレゴリーによって、遊戯が意を得て活発化するのである。アレゴリーといういわば規則によって遊戯が成立しているのではなく、判じ絵としてのアレゴリーの埋められぬ不可知性の周辺にあるいは「寓意のリング」に跳躍するように---それはダンスになってゆくのだが---遊戯が白熱してゆくのである。そして求愛とは独身者そのものであり、暗い謎、古い律法を備える象形文字としてのアレゴリーでもあるのだ。その求愛への返答は、アレゴリーが起源との深い隔たりで刻印されているように、判じ絵のような人物の意図を解しかねる様子に、宙に吊られ啖呵を切るような遊戯をもってしか着地できない。アレゴリーが逆説的に見えざる規則になっているにしても、この遊戯を遊戯たらしめているのは、様式から逃れ去ろうとする反復的な緩急を持った運動<_ンス---これを生成的規則といえるかもしれないが---そしてそれによって内在化する肉体あるいは詩形式である。
 
 倒錯した独身者の「私」をさしまねき、誘惑する謎めいた記号を受容して、その記号に盲目的に身をさしだす危険を犯すことが遊戯には賭けられている。倒錯した規則に翻弄されながら、その規則を理解して、規則の作動に連動するアリスのように、「私」を遊戯の場---ナンセンスで肉体を無視した知の場であるが---に変容させ、規則を乗り越えて反復する規則、「私」の出方で刻々変わってゆくナンセンスな規則を相手にするようになる。ミクロコスモスの戯画的な怪物、近代の究極的な独身者である論理の自己増殖ぶりに接することになる。直接存在の重さを負わないぺらぺらのイメージでありながら、その根拠の不透明さと実体から遊離した記号そのものの悪夢めいたリアリズムが、論理の自己増殖に付随して、私たちをさらなる遊戯に誘うわけである。

 F 鷲頭有翼獅子
 1ハンバート・ハンバートは靴下留めのコレクターである。
 2うちの使用人は皆、そろいもそろって主人の行状を秘密の日記に書きつけている
 3学寮長のお宅で奉公した者でないと、トリニティ・コレッジの紋章がグリフォンであることは知るまい。
 4ハンバート・ハンバートを除いて、主人の行状を秘密の日記に記しているような使用人はいない。
 5よそさまの使用人は皆、大年増でギスギスしている。
 6学寮長のお宅で仕込まれた使用人は、決して靴下留めを溜めこんだりしない
 ∴若くてピチピチした使用人にとっては、トリニティ・コレッジの紋章なんか知ったこっちゃない。
    「キャロル式三段論法十番勝負」
 
 この詩篇にはもはや謎めいた独身者の姿はなく、天使的な軽快な運動が表明されているように見える。しかし表題が示すように、この詩篇はルイス・キャロルの論理ゲームのレトロな実践になっている。ルイス・キャロルの論理ゲームはいくつかの仮定から正しい命題が自動的に引き出せるものであるが、こうしたゲームでの文章は、現実にはありえないナンセンスな命題になっていてもかまわない。そこでの言葉は別の記号を引き出す記号でしかないわけである。ゲームの規則にしたがっていることが、そうでないケースに比べても圧倒的に言葉のナンセンス化と無重力化を効果的に実現しているのである。この詩篇では行から行への飛び方の効果が、規則と意味の間での微妙なバランスによってもたらされている。そしていわば二重に倒錯するように規則§_理を差し引くことが、この遊戯であり、詩形式の危険さをかいま見せてくれる。つまりこの詩篇の最後の「ああ、おもしろかった。きょうはこれでおしまい」は額面通りに取ることもできるが、この言語ゲームから導かれる結論なのではとか、遊戯であることを念を押している、あるいはルイス・キャロルが幾分下心ありげに作っていることとの対比なのか‥‥‥と想像してしまうことは、遊戯での言葉の機能が要請する際限のない巻き込み---論理ゲームのひとつのおもしろさであり、言葉の悪夢でもあるのだ---であり、罠なのである。天使的な運動とはこのトートロジーに加担しながらも、表象の不透明な表層をかいま見せるものであり、反復する過剰さへの驚きなのだ。そのことは詩形式を渡ってゆく危機意識と連動して、ミクロコスモスの怪物との闘いを加速するだろう。






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