西吉見条里2遺跡・・・3


左の写真は橋脚跡と思われる遺構が検出さらた道路と河道との交点からやや南寄りに築かれている道路遺構の地層を白線で示しているものです。この付近の幅は約10メートル位でしょうか。
道路は最大で30センチ程度の厚く積み重ねられた砂礫層を路盤としているそうです。

右の写真は道路断面の地層です。一番下の黒土が旧地表土です。その上に路盤砂礫層があります。ここで使用されている砂礫は遺跡の付近には無いもので、遠く秩父の山から運んできたものと考えられているようです。この砂礫の運搬は大きな古墳を造るのと同じ位の労力が必要ということです。路盤砂礫層の上が路面で古代の人が歩いたところです。路面の上には中世初期の洪水堆積層があり、この道路は中世の始めには廃絶していたことが伺われます。

路盤の築造方法としては、旧地表の上に直接砂礫を積み上げ、両脇を杭と横材で留める工法と、粗朶(そだ)と呼ばれる葦や木の樹皮等を敷いた上に砂礫を積む工法、廃材や河原石、砂礫を混ぜ込み土壌を改良した上に砂礫を積む工法の3種のが確認され、地質状況に応じて工法を選択していることが推定されるそうです。
これらの工法は低湿地の地盤沈下を防ぐ古代人の知恵によるもので、当時としてはかなり高度な技術なのです。

右の写真は粗朶の工法が検出されたところのものです。この粗朶の技術は関東では国分寺市恋ヶ窪谷で一部発見された以外はほとんど検出例がなく、当時としては最先端の技術であったそうです。

粗朶は葦や木の樹皮を敷いた「敷葉工法」で、関西や九州の古代遺跡には類例が幾つかあります。福岡県水城では長さ約1.2キロ、高さ約10メートルの堤防の底付近に敷葉層が確認されています。白村江の戦いでに敗れた翌664年に造られ、百済から亡命した官人が工事に係わっていたとされます。

古代道というと側溝が頭に浮かびます。ここでは自然堤防に近い微高地部分で確認されていますが、低地部分では確認されていないようです。また路肩の構造は最も標高が低い所では木杭列によって土留めを行い、河道に近い所では石を敷くといったように、路盤と同様に地質に応じて工法を選択していると推定されています。

道路跡の築造時期は、出土する土師器や須恵器の時期が7世紀末から9世紀後半迄に限られていて古墳時代前半の河道が埋没した上に路盤が構築されている点、中世初頭と考えられる洪水堆積層に覆われている点から7世紀後半に築造され、幾たびかの改修をへて10世紀頃には廃絶したものと考えられています。

さて、今回発見された吉見市の古代道と思われる遺跡が東山道武蔵路なのかということですが、現段階では専門の研究者の中でも意見がわかれているようです。検出された遺構から国家レベルの道路跡ということでは意見が統一しているようですが、低湿地を通ることや、道路の方向性から東山道武蔵路の支道、あるいは群家を結ぶ道等と考える意見もあるようです。ホームページの作者である私も東山道武蔵路のルートは国道407号線沿いの東松山市内が有力と考えていたものですから、吉見町で古代官道発見と聴いて意外にビックリしていました。

いずれにしても現段階では東山道武蔵路であると推定するところまでは至っていないようです。今後の調査を見守りたいと思います。

ところで今回発見された道路跡の北方向に地図上で線を引いてみると、行田市のさきたま古墳群方面に至っているようです。そこで一つ思い当たることがあります。平城京で出土した木簡に、「武蔵国□□郡宅□駅菱子一斗五升」「宝亀三年十月(717)」と記すものがあります。ここで「宅□駅」というのがどこにあったかということで、研究者は武蔵国北部の利根川・荒川流域の低湿地に位置していた可能性が高いとし、木本氏は妻沼町台の小字「宅地」と想定しています。

その後、寺崎保広氏がこの木簡を解読し、「武蔵国策覃郡宅子駅」としています。「策覃」は埼玉郡で「宅子」は「ヤカゴ」と読み、埼玉県行田市谷郷に比定しているようです。そして吉見町で発見された道路跡は行田市谷郷方面に向かっているようなのです。

行田市谷郷から先は常陸国へ向かっていた支道と考える説があるようです。行田市谷郷からそのまま北へラインを引いてみると、何と群馬県邑楽郡千代田町上五箇に繋がり更に北へ延ばすと足利駅推定地へ直結しています。

今回発見された古代道路跡は、私のような素人にはこのように勝手な解釈を連想させています。まあ、いずれこの道路跡はどのような道であったか、現在よりも具体的になって行くものでしょう。


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