武蔵国の古代を考えるにあたり、国府と国分寺の存在を無視することはできないわけで、また当然それらに至る「道」が存在し、その「道」についての調査も古代史研究には欠かせないものになっています。武蔵国の国府は東京都府中市の大国魂神社付近に存在したと推定されていて、国分寺は東京都国分寺市に武蔵国分寺跡が確認されています。そして近年にぞくぞくと、府中市及び国分寺市内で古代の官道跡と考えられる道路遺構が発掘され続けています。「道」・国府・国分寺の古代律令国家の象徴ともいえる三者の実体が武蔵国では徐々に明らかなってきています。

ここでは古代の官道東山道武蔵路と奈良時代の武蔵国分寺跡と更に中世の鎌倉街道上道をそれぞれ分けて説明いたします。

武蔵国の中心が何故多摩地区に置かれたか

古代の武蔵国は都から遠く離れた東国の地にあり、中央集権の律令国家にとって関東の地はどのようなところであり、どのような役割をはたしていたのでしょうか。

今でこそ関東の地は日本国の首都東京があり、いうまでもなく日本の中心でありますが、今から1300年前の飛鳥時代から奈良時代の初め頃は武蔵野台地で象徴される原始林でほとんどが覆いつかられた土地であったと思われます。 

武蔵という国の成立について6世紀中頃には原形ができていたものと思われているらしいようです。古墳時代は3世紀末から4世紀中頃から畿内を中心に始まり、関東でも少し遅れて古墳が造られ始め、5世紀後半から6世紀にかけての大型の古墳は陸路(東山道の前身)を通じて大和勢力との影響が多いものと考えられています。

武蔵国成立以前には幾つかの地方勢力が存在したものと思われ、後に北武蔵の埼玉勢力と南武蔵の多摩川勢力の二つで争い(『日本書紀』安閑元年の条の武蔵国造職をめぐる笠原直使主と同族の小杵の争いが記されているが埼玉と多摩川の勢力争いと結びつくかはわからない)があった説などもあるようです。

武蔵国の中心が多摩に築かれるのは現在では具体的な史料や考古学資料は発見されていないため、ハッキリしたことはわかっていないようです。先の武蔵国造職の争いで小杵が朝廷に多摩を中心に四屯倉(屯倉は県とともに朝廷の直轄領)を献じたことが記されているそうですが、武蔵国府などとのかかわりはわかりません。

また武蔵国では朝鮮系の渡来人が住み着いた土地が幾つかあります。それら渡来系人が武蔵国造に影響を与えているとも考えられなくもありません。

武蔵国の中心が多摩に築かれたのは最終的には改新政治を体験した中央の移住民の勢力が影響しているといえるのではないかと考えられます。

左下の地図は武蔵国分寺跡周辺の地図です。中央を縦に通る赤い線が東山道武蔵路と呼ばれる古代官道です。一方その左に並行して通る緑の線が中世の鎌倉街道上道の推定路線です。
国分二寺の黄色い範囲が寺院の伽藍地で、僧寺の伽藍地の外側の黄土色の範囲が寺院地に指定されているう部分です。

武蔵国分寺金堂跡
国分寺市の東山道武蔵路、発掘現場
国分寺市黒鐘公園内の推定鎌倉街道

旧国鉄中央学園跡地から発掘された下の写真の遺構は『続日本紀』宝亀2年(771)に武蔵国が東山道から東海道に所属替えが行われる以前の古代官道であると考えられていまて、上野国から武蔵国府へ南進し、再び下野国に戻る往還路で、東山道の支道の駅路なのであります。現在一般に「東山道武蔵路」と呼ばれている道であり、この遺構がその道であると推定されています。


説明板の道路遺構全体の写真
(南から北方面を見る)