古代の地理的行政区分として、畿内五国に、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の五畿七道がありました。また七道は地域呼称であると同時に、都から地方にのびる道路の名称でもあったのです。このような行政区は天武朝(672〜686)頃に成立したと考えられているようで、当時の都は飛鳥浄御原宮です。それに先だった斉明朝から天智朝にかけて伝馬制や駅制が始まっていて、天智朝には「国」の設定や庚午年籍(初めての全国的な戸籍)の作成など国家としての支配体制が整いつつありました。

東山道は都から東の山間部の行政区とその官道をいいます。平安時代の『延喜式』によると、東山道に属する国は、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八カ国ですが、それ以前には幾多の変遷があったと思われています。

武蔵国は『延喜式』では東海道に属していますが、奈良時代の宝亀2年(771)に東山道から東海道に所属替えされたことが、『続日本紀』の記事で確認させています。武蔵国が奈良時代の末期以前には東山道に属していたことから、武蔵国は東山道経由で都と繋がれていたわけなのです。その時代の官道(駅路)が東山道の本路からどのような経路で武蔵国府へ繋いでいたかが、これまで論議されてきました。この東山道時代の武蔵国の駅路を当時はどのように呼ばれていたかはわかりませんが、現在では「東山道武蔵路」と一般的に呼ばれています。

では、その東山道武蔵路が武蔵国のどこをどのように通っていたのか、これまでの研究等でわかっている道筋を資料を基に簡単にまとめてみましょう。(東山道武蔵路のルートはこれまで多くの諸説があり、どの説が確実であるというのは現在の時点では決定づけることはできません。しかし近年の考古学資料から徐々にその道筋が明らかになりはじめています。)

宝亀2年(771)以前の東国の駅路 (地図1)

赤い線の道筋が推定東山道武蔵路です。ピンクの線が当時の関東の推定駅路路線です。

『続日本紀』宝亀2年(771)10月已卯(27日)条
「太政官奏すらく、武蔵国は山道に属すと雖も兼ねて海道を承け、公使繁多にして祗共堪へ難し。其の東山の駅路は上野国新田駅より下野国足利駅に達せり。此れ便道なり。而るに枉げて上野国邑楽郡より五ヶ駅を経て武蔵国に到り、事畢りて去る日、また同道を取りて下野国に向ふ。いま東海道は相模国夷参駅より下総国に達せり。其の間四駅にして往還便近し。而るに此を去り彼に就くことを損害極めて多し。臣ら商量するに、東山道を改めて東海道に属せば、公私ところを得て、人馬息ふこと在らん、と。奏可す。」
以上は宝亀2年に武蔵国が東山道から東海道に所属替えされれる理由を記事した文で、内容を簡単に記せば、武蔵国は東山道に属しているが、同時に東海道の交通も受け持っていて、使者の往来も多い。東海道は、相模国夷参駅から四駅で下総国に達していて近く便利であり、武蔵国を東山道から東海道に所属を替えれば、公私共々、人も馬も負担が軽減される。というものです。

また上記に先立った次のような記事があります。
『続日本紀』神護景雲2年(768)3月乙巳朔条
「また、下総国井上・浮島・河曲の三駅、武蔵国乗潴・豊島の二駅は、山海両路を承けて、使命繁多なり。乞う、中路に准じて、馬十疋を置かんと。勅を奉るに、奏に依れ。」
下総国の井上・浮島・河曲の3駅と武蔵国乗潴・豊島の2駅は、東山道と東海道の連絡路で使者の通行も多い。支路として駅馬5匹を置いているが、中路なみに10匹の駅馬を配備したい、という申し出です。

上記の二つの『続日本紀』の記事から東山道武蔵路の経路について、今までいろいろな論争がなされてきたようです。中でも次の二つの問題が論争の焦点となっていたようです。
まず一つは、宝亀2年の記事の「上野国邑楽郡より五ヶ駅を経て武蔵国に到り」で、そこでいう「五ヶ駅」を固有の駅名と考えるか、或いは駅数と解釈するかという問題でした。実際に邑楽郡には「五箇」という地名が幾つか存在し、その土地に五ヶ駅があったとする説があります。
しかし、「五箇」の地名は同地方に多い空閑地をいう「ごかん」にちなむものという解釈があり、また、五ヶ駅が邑楽郡にあったとすれば、「邑楽郡五ヶ駅より」となり、「邑楽郡より」とすれば邑楽郡家よりという意味になり、よって邑楽郡には固有の五ヶ駅はなかったとする考え方です。これらのことから、五ヶ駅は駅名ではなく駅数という見方が定着しつつあるようです。

『延喜式』による東国の駅路 (地図2)

上2地図は参考資料の駅路図を基に作成しました。

二つ目の問題として宝亀2年の五ヶ駅が駅数だとすれば、その五駅が神護景雲2年の記事の五駅(下総国井上・浮島・河曲・武蔵国乗潴・豊島)と同じものを指すかどうかということでした。
下総国井上・浮島・河曲駅は『延喜式』にも存在し、井上駅では駅馬を10匹、浮島・河曲駅は5匹ずつ置いているので、同一路線上で駅馬数が違うのは不自然で、『延喜式』当時の浮島・河曲駅は下総国府付近で東海道本道から分かれて上総国府へ向かう東海道の支道であったとする考があります。そのことから下総国の井上・浮島・河曲駅は上の地図の位置にあったと見られ、東山道本道から武蔵国府へのルートとしては大きく離れてしまい下総国経由の東山道武蔵路のルートの可能性は低いものと今では考えられているようです。よって、宝亀2年の駅数と見る五ヶ駅は、神護景雲2年の記事の五駅とは異なるものと考えられるようになってきています。

様々な東山道武蔵路の想定ルートが考えられていた以前に対して、現在では考古学による所沢市の東の上遺跡や国分寺市の古代道の遺構が発見され、上の地図のような古代道のルートが現在では定着しつつあるようです。

東山道武蔵路については上野国の新田駅付近から本道と分かれて邑楽郡を通り武蔵国に入ります。そして五つの駅家を経て武蔵国府に到り、再び同ルートを北上して下野国足利駅で東山道の本道に合流したものと考えられるようになってきています。上野国新田駅より武蔵国府中までこの間の距離約80キロメートルで、武蔵国府の付近に一駅を置いて駅間距離(約16キロメートル)で4駅を配置してみると(地図1)のようになります。

それでは更に具体的に東山道武蔵路のルートを現在確認されている遺跡などを紹介しながら、併せて作者の素人的私論などを交えてご案内させて頂きます。