旧中山道沿い碓氷峠への尾根に残る古道跡

旧中山道沿い碓氷峠への尾根で群馬県側に残る慶長以前の古道跡

平成14年4月・5月


旧中山道が旧碓氷峠を越える尾根道沿いに慶長以前の古道跡と称する堀割道跡が断続的に残っています。この道跡は近世の中山道の前身の道と考えられ、また東山道の碓氷峠越えの跡とする説もあるようです。

鎌倉時代からの中世においても北関東から信濃国へ通じる重要な幹線ルートであったのは碓氷峠の道であったと考えるのがもっとも妥当であると思われます。

旧中山道と並行して残る大きな堀割道跡は鎌倉街道跡と考えても間違いであるとは私には思われません。むしろ中世道の代表的遺構と見ることができるのではないかと思われます。

しかし、この道跡について触れられている資料はほとんど見あたりません。旧碓氷峠の道は近世中山道のイメージが強く中世史の資料として捉えているものは少ないようです。

中世史や古道に関して素人のホームページ作者が意見を言える立場ではありませんが、昔のままの鎌倉街道跡として写真を掲載しましたので興味のある方はごゆっくりご覧ください。


旧中山道沿い碓氷峠への尾根に残る古道跡1 尾根道詳細図 地図はこちら

日本の古い街道の中でも中山道は江戸時代のままの景観を数多く残すところがあり街道マニアにとっては特別な印象があるのではないかと思われます。上信国境の碓氷峠への旧道も時の流れに取り残されたように今もその姿を伝えています。

左の写真は松井田町坂本の少し山の中に入った旧国道18号線から分かれる峠道の上り口です。

松井田町坂本は中山道の碓氷峠へ上る手前で、上州側最後の宿場です。現在でも昔ながらの宿場の景観を残すたたずまいが見られます。
近年、坂本宿の南側で8世紀のものと思われる大型の掘立柱建物跡が発掘されています。「原遺跡」と呼ばれるこの遺跡は東山道坂本駅家の可能性が指摘されていますが、古代の資料に見られる碓氷坂関所説や上毛野坂本氏館跡説などもあるようです。

右の写真は旧道の上り始め付近の杉林の中の道です。

仮に原遺跡が坂本駅家だとすると、入山峠か旧碓氷峠かと論ぜられてきた東山道のルートが、遺跡の位置から推定して旧碓氷峠説が優位となりそうですが、それでも決定的資料が発見されていない現在ではやはりどちらとも決めがたいようです。

左の写真は堂峰番所跡と呼ばれる付近のもので、この辺りの道脇には何かの施設跡のようなものが随所に見られます。また写真の後方は愛宕山と呼ばれていて城跡が確認されているそうです。

堂峰番所跡を過ぎると右手に大きく高い鉄塔の下を通ります。その後旧道は刎石山の尾根の北側に回り込み、刎石坂と呼ばれる急登の坂を進みます。この坂は旧碓氷峠越え中の一番の難所になっていて、私も呼吸を整えながら汗をふきふき上りました。私が訪れたのは5月の連休前で新緑がすがすがしく、きつい上りでも付近の景観は素晴らしいもので、森林帯のため展望は効きませんが旧中山道の街道の雰囲気は大いに感じられました。

ところどころ左の写真のように沢側には石が積まれていて転落防止の措置を施しているようにも見られます。尾根の急斜面のため崖崩れなども多いのでしょう。山道にも拘わらず手入れが行き届いているのは、さすがわ中山道の旧道といった感じです。この坂はゆっくり慌てず、周りの景観を楽しみながら上れば急坂もそれほど苦には感ぜず、知らず知らずのうちに上りきることが出来るのではないでしょうか。

山に登るとは不思議なもので、重力に逆らって上へ上るのですから、それは大変なものなのですが、その行為を最初から苦痛だと思い込んで上ると、苦しくてしょうがないものです。逆に楽しいと思って上ると苦しいどころか本当に楽しいものなのです。ですから登山家という人達がいるのです。現代人は戦後に、人間の欲望を達成することが最良と考えて経済成長をとげてきました。その現代の都会の便利さに慕っている人達には、山上りの楽しさを理解するのは難しいものなのかも知れません。

右の写真付近は急坂も終わりが近く、大きな石塔が幾つか並んで建っているものを撮影しました。

石塔は南無阿弥陀仏の名号塔、大日尊、馬頭観音などがあります。石塔が建ち並ぶところを過ぎてしばらくのところに、「上り地蔵下り地蔵」の説明版が立っています。実際の地蔵像は今上って来た道の左に逸れたところで、旧道から少し降りたところにあります。平らな石に線刻の地蔵像が刻まれています。二つあり、一つが上り方向を向いていて、もう一つが下り方向を向いているのでそう呼ばれているものと思います。

左の写真は刎石坂の尾根に上りきったところで、ここからは南側の展望が効き、目下に坂本の集落が望めます。ここは「覗(のぞき)」と呼ばれています。

「覗(のぞき)」のところに説明版があり「坂本宿を見下ろせる場所で、山梨の老木があるとし、更に「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と一茶が詠んだ句が書かれています。
ところで先の「上り地蔵下り地蔵」の前から尾根を真っ直ぐ下る道跡があるようなのです。その道が古い道のようでもありますが、大変な急坂で転落・落石の危険が大です。私は帰りにその道を下ったのでしたが、とても危なくてお勧めできません。廃道のため道に迷うことも考えられます。この道跡は一応は堂峰番所跡の付近に出るようです。

上の写真は「のぞき」のすぐ上にある大きな馬頭観音石塔です。この道が山道ではなく街道であることを物語ります。この辺りから道幅が一段と広くなったように感じられます。左の写真などは今までの道から比べるとかなりシッカリした造りの道です。深い切通しを過ぎると道の両側に施設跡のような地形が随所に見られます。

右の写真は深く大きな切通しを過ぎて、しばらく上った付近を撮影したものです。現在歩かれている道は狭いものですが、写真の左側の杉の幹の裏側の窪んだ地形などは、以前に何かの施設があったところのようにも見られます。写真の右手一段高いところに弘法の井戸があり、左手一段高い土塁状の裏側には空堀のような跡も見られます。その堀状の奥には平場も見られ、その付近には墓石などが残っています。

左の写真は弘法の井戸と呼ばれる井戸です。ここから一段ほど上ったところには刎石茶屋跡があります。かってこの付近は何軒かの建物があったものと思われます。この付近に住居をかまえていた人々はこの井戸を利用していたのでしょう。現在も井戸水が満ちていてこのような高い尾根の上に水が湧いているのは不思議な感じがします。井戸の名前の由来は弘法大師がここを掘ると水が出ると教えてくださったことによるそうです。またこの井戸の造り形式が、古代まで遡るものとする説があるようです。

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