一升桝遺構・・・1

極楽寺の北に馬場ヶ谷と呼ばれる谷があり大仏坂まで続いています。この谷の西側の尾根上に桝形の土塁に囲まれた遺構が存在していることは歴史研究者や専門家には知られていました。しかし、一般にはあまり知られていなく、すっかり観光化されてしまった鎌倉にとっては貴重な歴史遺産とみることができます。左の写真は馬場ヶ谷西側尾根の遺構へ向かう、尾根上の踏み分け道です。

馬場ヶ谷西側尾根の桝形遺構は「一升桝」と呼ばれています。そこへたどり着くためには、大仏坂の峠上にある県水道企業団の貯水池まで登らなくてはなりません。極楽寺のある南側からは尾根に上がれるところはどこもありません。
右の写真は大仏坂方面から尾根上を南進している途中で出くわした堀切です。素人の私でも明らかに堀切とわかる尾根の切り込みです。

上の写真は「一升桝」の北約100メートル付近にある尾根上の平場です。この平場はトレンチの発掘調査が行われていて、泥岩塊を敷いた面が確認されているようです。また焼土、および土師器の破片が集中する箇所があり、弥生時代末期から古墳時代初頭の住居跡と推定されているようです。それにしても、このような山中を探検していると、ここが鎌倉であることを忘れてしまいがちになります。鎌倉駅から小町通りや、長谷から大仏までの賑わいだ観光地鎌倉と、この山中が同じ鎌倉なのかと奇妙な感覚に捕らわれます。人間の心の中の裏腹のような対立を思わせます。

上の写真の平場から堀切を一つ渡って南進すると、突然「一升桝」の遺構が現れました。遺構はは藪草に覆われていました。左の写真ではわかりずらいですが、大きな平場に土塁がめぐらされています。ここまで細い尾根道をたどってきたものですから、突然現れた遺構は圧倒されるほどの迫力があります。

右の写真は一升桝の東側の土塁です。写真の土塁の右側が平場で、土塁の外の左側は深く堀状になっていて、この堀状の窪地は館跡の堀のようなものなのか、或いは土塁の外の道跡なのか、その使用用途はさだかではありません。同じように西側の土塁の外にも堀状の窪地が土塁と並行して見られます。

左の写真は一升桝の遺構の中側から見た西側土塁です。この付近の土塁は約1.7メートル以上(私の背丈と同じくらい)はありそうです。

一升桝の土塁はトレンチ調査によると、地形上、北側は地面を削り出し、南側は泥岩塊を積み上げて構築しているそうです。南側の土塁を堀削して調査したところ、泥岩塊を含む層と暗褐色粘土質の互層がみとめられ、2時期にわたって土塁が構築されていたことが確認されたそうです。

一升桝の平場の調査は十字状に南北と東西のトレンチを行なっています。平場は北から南に傾斜した斜面を造成して築かれているようです。出土遺物は少なく、かわらけ片、古瀬戸卸し皿、常滑甕破片等が出土していて、その中で卸し皿は13世紀後半のものであり、この一升桝の遺構が鎌倉時代まで遡る可能性が考えられるそうです。
右の写真は一升桝の平場を撮影したものです。

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