極楽寺坂-五合桝遺構

極楽寺切通の南で成就院の裏山には、「五合桝」と呼ばれる桝形遺構があり平場や土塁に塚などが存在します。近年に発掘調査がおこなわれていて、出土遺物の古いものから、この遺構が鎌倉時代まで遡る可能性が指摘されているようです。
左の写真は五合桝の段切り造成された遺構を撮影したものです。

平成16年3月後半に鎌倉の考古学に詳しいAさんのご案内で、五合桝・仏法寺跡・一升桝の遺構を見学してきました。

上の写真の五合桝の遺構から鎌倉市街方面と由比ヶ浜を撮影した写真が右のものです。鎌倉の地理的な位置から考えて、ここは西から鎌倉へ入る極楽寺坂切通の真上であることや、鎌倉の街を見渡すことができる場所であることなどから、この五合桝は鎌倉の出入り口を監視する施設であったことがうかがわれます。

それにしても、極楽寺坂の山の上に、このような見晴らしの良い場所が存在するとは、ここを訪れるまで全く想像できませんでした。こんなに素晴らしいところなのに、一般の人はここまでこれないのは残念でもあるし、また、人がこないから荒らされることなく現在に至っているのかも知れません。見学した日はきれいに晴れ渡り、風もなく遠く名越の煙突までハッキリ見えました。

上の写真は五合桝の平場です。今はきれいに平になっていますが、調査以前は篠竹で覆われていたそうです。上の写真の平場から北側を覗き見ると、そこは成就院の真上であることがわかりました。左の写真が五合桝から見た極楽寺坂の成就院です。この写真からも切通を監視する位置であることが想像されます。

五合桝のあるところは霊山山の山頂付近で、ここは大正元年に「霊山公園」として整備された眺望の良い場所であったそうです。現在では何故か人が入ることのできない鎌倉の秘境となっているのでした。右の写真は山頂南の平場にある大きな塚を撮影したものです。調査報告書によると塚は基底部の直径が8〜9メートル、高さ2.5メートルを計測するとあります。

左の写真は上の写真の塚を南側から撮影したものです。この塚は発掘調査がおこなわれていて、出土遺物には、かわらけ(15世紀〜16世紀)、常滑壺、渥美壺(13世紀前半)、板碑、五輪塔、礫、火葬骨盤があり、須恵器・弥生土器の破片も混入していたそうです。出土遺物の年代が13世紀〜16世紀まで様々であること。大正元年の公園整備の際にすでに塚は存在していた事柄などから、16世紀頃に付近にあった石塔や骨臓器などを集めて構築されたものと考えられると報告書にありました。

右の写真は大きな塚のある平場の南側に建つ「コッホ博士碑」で移設記念碑です。コッホ氏はドイツの細菌学者でノーベル受賞者として知られています。コッホ博士は来日していたとき、北里柴三郎博士と共に夏を鎌倉で過ごしたそうです。コッホ博士はここ霊山山からの眺望を好んでいたようです。現在この場所に記念碑があることじたい知られていないのではないでしょうか。

極楽寺坂-五合桝遺構   霊山山-仏法寺跡   一升桝遺構-1. 2. 3.