鎌倉七口-極楽寺坂周辺・・・・その4

七里ケ浜の 磯伝い 稲村ケ崎 名将の 剣投ぜし 古戦場

上の歌は、芳賀矢一作詞の『鎌倉』の歌の最初の詞です。メロディーをおぼえている方も多いのではないかと思います。私自身としてのこの歌の印象は「なんて悲しいメロディーの曲なの…」と、いまだにそのイメージが拭い去れないものがあいます。この歌を何時、何処で教わったのかは記憶がなく、8番まである歌詞の内で、今でも覚えているのは最初の1番と最後の8番だけでした。皆さんはこの歌の歌詞を全て覚えていますか。

この難解な歌の歌詞も、鎌倉街道を調べ歩いてきた現在では、やっと理解することができるようになりました。ここに出てくる「名将」とは紛れもなく新田義貞その人です。詞の内容は、鎌倉街道上道を攻め上って来た新田義貞が、最後の鎌倉突入の時に、海に黄金の剣を投じて浪が退き、ここ稲村ヶ崎から鎌倉の内へ攻め込むことができたという伝承を歌ったものです。この新田義貞のエピソードを現在の若者達はどれほど知っているのだろうかと考えてしまいます。叱られるかも知れませんが、実は私も鎌倉街道を調べ始めるまで知らなかったのです。戦後の日本史の中で新田義貞その人の知名度はだいぶ下がってしまったことは確かです。

稲村ヶ崎、ここはその時の古戦場だっのです。しかし、『鎌倉』と題するこの歌の一番の歌詞が何故鎌倉幕府滅亡の時のことを歌っているのかちょっと不思議な気がします。鎌倉に都を築いた源頼朝の栄誉を称えるような歌詞に何故ならなかったのか?

私が上の写真を撮影した時は、浪も風も穏やかで、ここがかっての古戦場であるという感慨など浮かぶものではありませんでした。現在の鎌倉のイメージからして、平和な休日の浜辺で人々は憩いや安らぎを満喫しているようすです。稲村ヶ崎から七里ヶ浜の砂浜、そして江ノ島とここは行楽の為の観光地以外の何ものでもありませんでした。

新田義貞徒渉伝説地碑と十一人塚
上の写真は左が稲村ヶ崎にある新田義貞徒渉伝説地碑と明治天皇の新田義貞の歌碑です、右が稲村ヶ崎から極楽寺へ向かう途中にある十一人塚です。

先にも書いたように戦前の教育では後醍醐天皇方についた新田義貞は英雄視されていたようですが、現在では義貞は武将としてはあまり高い評価はされていないようです。現代人の感覚からして足利尊氏のような巧妙で人間くさい人物の方が魅力的で好かれるもののようです。義貞のような真面目で忠誠心に従った人物は何だか野暮ったくさえ感じられてしまいます。

鎌倉攻めまでの義貞は運にも恵まれて時の人のように輝いていました。その後の彼の軌跡をたどると、上京し官位の恩賞、箱根での足利軍との敗戦、京都防衛戦で尊氏を九州へ敗走、勾当内侍、白旗城攻め失敗、湊川での敗戦、比叡山から敦賀金ヶ崎城、そして灯明寺畷での最後とまさに時代の波に翻弄されていったかの如きです。上野国新田荘の生品明神での挙兵からわずか5年の生涯でした。

義貞の鎌倉攻め以外には、まともな戦勝は無く、義貞は戦があまり上手くはなかったと見られているのが一般論のようです。しかし私は鎌倉街道が好きな人間です。新田義貞は鎌倉街道を駆け抜けて行った英雄には違いありません。歴史の先生方が何と義貞を評価しようが、私にとっては新田義貞は好きな武将であり英雄なのであります。

十一人塚は新田義貞の鎌倉攻めのときに極楽寺坂を攻めていた新田軍の大将である大館宗氏と主従十一人を葬た墓と伝えられています。大館宗氏は義貞にとっては欠くことができない勇将であったのです。大館宗氏は稲村ヶ崎の海岸口に掛けられていた逆茂木を倒して鎌倉の内に進入しますが、鎌倉軍と戦って戦死したと伝えています。極楽寺坂の霊山砦を攻めていて背後を断たれたともいい、また由比ヶ浜の一ノ鳥居近くまで攻め行ったとも伝えられているようですが、その詳しい真意は定かではありません。そして現在ある塚も、後の時代にここへ移されたともいわれています。

極楽寺から江ノ電沿いの道を海へと向かって行くと、いつしか潮の香りが漂ってきました。そして渋滞している国道の向こうに水平線が見えていました。鎌倉の切通しなどを調べている内に、ここ鎌倉が海辺の土地であったことを、つい忘れていた気がします。海を間近で見たことで、今までと次元が変わったような不思議な気持ちになりました。

上の写真は七里ヶ浜から見た江ノ島です。江ノ島の少し手前の腰越というところに満福寺というお寺があります。そのお寺はあの有名な義経腰越状の書かれたところとして知られています。

文治元年(1185)に源義経は平家討伐の功を労ってもらいたく、兄頼朝のいる鎌倉へ入ろうとしますが、ここ腰越で足止めを食らってしまいます。頼朝は義経に対して命令に背いた勝手な振る舞いであると、鎌倉入りを断固と許しませんでした。義経は許しを乞う手紙を綴ったのが腰越状であったと伝えられています。頼朝と義経の対立はこの頃からエスカレートして行きました。

極楽寺切通し路が出来る以前の鎌倉への西からの入口は、稲村ヶ崎の海岸線を通るものだったと言われています。律令時代の古東海道はこのルートだったとも伝えられてきています。
『海道気』貞応2年(1223)に腰越を過ぎれば稲村ヶ崎というところがあり、嶮しき岩の重なり迫ったところを行けば、岩にあたる浪飛沫が花の如きに散りかかるとあり、この路は崖下の波打ち際を通っていたように思われますが、現在の様子からは全く想像がつきません。

ここ稲村ヶ崎には近世になってからの安政4年(1857)に沿岸防衛を命じられていた長州藩によって台場、遠見番所が設けられていたそうです。昭和3年(1928)に、国道134号線の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されています。その後、第二次大戦時に高射砲等装置のために稲村ヶ崎崖面に壕が築かれたということです。そして現在の稲村ヶ崎の景観ができあがったのでしょう。

鎌倉から江ノ島方面に向かう国道は何時来ても渋滞していますが、車に乗っている人々は或いは渋滞を楽しんでいるのかも知れません。何故ならばこの素晴らしい海の風景をじっくりと満喫できるのではないでしょうか。国道沿いには洒落たレストランなどが並んでいます。

ここ稲村ヶ崎からは夕日がとても綺麗です。富士山がシルエットとなる時はロマンチックな気分も最高潮に達します。何だか古道や歴史物語のことを忘れてしまいそうです。すみません。

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