鎌倉七口-極楽寺坂周辺・・・・その1

御霊小路
鎌倉の大仏から長谷観音にかけての大仏通り沿いは鎌倉でも鶴岡八幡宮に次ぐ観光客の多いところです。大仏通りを長谷観音の信号から少し南に進んだところに鎌倉彫の白日堂というお店があり、道を一本隔てて収玄寺というお寺があります。そこから西へ折れる道が「御霊小路」と呼ばれる道なのです。左の写真がその道です。この道は明治15年の測量地図にもそれらしき道が見られます。

御霊神社と鎌倉権五郎景政
御霊小路は御霊小路の碑があるところから南に折れ、やがて直ぐに上写真左の鎌倉権五郎神社へ向かう路地が現れます。鎌倉権五郎神社とは御霊神社のことで、御霊小路とは御霊神社へ向かう道ということのようですが詳しいことはわかりません。上写真右は左写真の路地を進んだ神社前付近を撮影したものです。このような路地は自動車が無かった時代の街中にはどこにでもあった景観で、何だか妙に懐かしく感じられるものです。

鎌倉七口の一つである極楽寺坂に向かう前に、是非一度訪れてみたい神社があり、それが御霊神社です。鎌倉という土地を語るにあたり、源頼朝による鎌倉幕府が開らかれる以前の鎌倉を説明する時に忘れてはいけないのがここ御霊神社なのです。

鎌倉幕府が置かれる以前の鎌倉には鎌倉党と呼ばれる板東平氏の一族が統治していたようなのです。この御霊神社は元は大庭・長尾・梶原・村岡・鎌倉のこれら五家の祖を祀る五霊神社であったそうです。それが御霊神社となり武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政(正)を祀る神社となったと伝えます。

鎌倉権五郎景政は鎌倉党の共通の先祖として、更にそれを遡ること源頼光の四天王の一人である村岡五郎忠通という人がいて、鎌倉党が源頼光以来の源氏の家人であったことが想像されます。

景政の父は鎌倉権守景成で鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方現在の湘南地域一帯を開拓し開発した領主でもあります。

鎌倉権五郎景政は言い伝えによると、十六歳のときに奥州後三年の役で源義家に従え初陣しますが、左目に矢を射た立てられ、それでも矢を立てたままで敵を破る武勇談があります。陣地に帰り三浦為継が矢を抜いてやろうと足をかけたときに、土足のまま顔に足をかけるとは武士の面目を汚されたと為継の無礼を刀をかまえて叱咤したといいます。これは実在の話なのかどうかはわかりませんが、景政の剛気と高い志は歌舞伎にもなっていて武士の鑑として永く仰がれているのです。

鎌倉権五郎景政の命日が九月十八日で、この日は御霊神社の例祭日で面掛行列という珍しい行事が行われます。これは技楽や舞楽、田楽などに使われる特異な面を十人衆が付け、古いいでたちで街の中をねり歩くという県指定無形文化財になっているものだそうです。そしてこの十一面の中に七福神の「福緑寿」が含まれていて、此にちなんで鎌倉七福神の福緑寿を境内に祀ってあるということです。

右の写真は御霊神社の社殿です。

御霊神社の境内には、かながわの名木100選にもなっている鎌倉市指定天然記念物のタブの木があります。樹齢約350年、樹高は20メートルにもなるそうです。タブの木は、本州から沖縄に分布する常緑高木で、照葉樹林の代表的な木であるといいます。御霊神社の境内にはその他に景政「弓立の松」などの古木があります。

上の写真左は御霊神社鳥居前の踏切から江ノ電の線路を撮影したものです。鳥居の前を電車が通るのは変な感じですが、実際に電車が通って行くと、いがいにも違和感がないのが不思議な感じがします。ここを訪れたことのある皆さんは如何なものでしょうか。

上写真右は御霊神社参道から極楽寺坂への道に出たところの角にある「力餅」のお店と、「御霊神社鎌倉権五郎景政」と書かれたやや大きな標識石柱です。力餅屋は元禄時代からの老舗であるそうです。屋根上の看板には「鎌倉名物夫婦饅頭」とあります。そしてもちろん力餅は鎌倉権五郎にちなんだものです。写真は朝が早いので店はまだ開いていないときに撮影しました。

最近、千葉県我孫子市や茨城県牛久市の鎌倉街道下道と思われる道筋に鎌倉権五郎景政にかかわる伝承が多く残されているのを発見しました。後三年の役の時には武者達は下総・常陸ルートを通ったのか?

左の写真は極楽寺坂へ向かう道を撮影したものです。写真は鎌倉市街方面を見ています。ごくありふれた普通の舗装路のようでもありますが、どことなく歴史の息吹が感じられる道でもあります。意識しているわけでもないのですが、鎌倉の街はやはり普通の住宅街とは違う何かが有るように思えるのは私だけでしょうか。

右の写真は極楽寺坂へ向かう現在の車道です。写真奥の樹木の山へ向かって道は坂を上って行くのです。写真のこの辺りの地名は坂ノ下といい、極楽寺坂の坂の下ということなのでしょうか。明治時代の測量地図を見ると坂下村といい極楽寺坂の道に沿って集落を形成していたことがわかります。写真の道沿いの民家は一昔前の古い建物と現代的なコンクリート製の建物とが入り交じる景観ですがここも不思議と違和感は感じられません。

極楽寺坂切通は尾根道でも谷沿いの道でもありません。鎌倉城外郭の尾根を横断するように切り開いて道を通しています。一種の山越えの道なのです。近年この切通し周辺の山稜部を調査したところ防衛施設と思われる遺構が13世紀中葉から後半まで遡る可能性が指摘され、この切通しが古くは西の都を意識し、元寇に対する防衛施設が切通し周辺に設けられていたものとも考えられています。まさにこの切通しは鎌倉城の城門であったのかもしれません。
左の写真は「星月の井」の少し手前を撮影したものです。

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