鎌倉七口-朝比奈切通・・・・その4

左の写真は大切通から東へしばらく進んだところのもので、右から一本の道が接続しています。この道は熊野神社へ向かう参道です。ところでこの写真を撮影したところは道の路面が大きな岩の塊が堆積したようになっています。上の写真がそれです。

岩塊が堆積したところは坂の傾斜を緩める目的で人為的に造られているようにも思えます。そう考えるとこの岩塊は切通しで削った岩であるのかも知れません。あるいは単に両脇の山から崩れ落ちたものなのか。またこの場所は道が狭いので戦の時のバリケードの跡などと想像してみるのも面白いようです。

右の写真は熊野神社へ向かう道です。前に立つ石の標柱は新しいもので、右かまくら道、左熊野神社とあります。

熊野神社
鎌倉の鬼門あたるこの場所に源頼朝が熊野三社大明神を勧請して、北条泰時が社殿を建立したと伝えています。杉林の中の現在の社殿は古いものではないようですが、辺りは静寂に包まれていて神聖な趣がします。元禄8年(1695)に地頭の加藤太郎左衛門尉が再建し、安永及び嘉永年間にも修築が行われているそうです。この熊野神社は境内の位置や社殿の向きなどが朝比奈切通の道とどのように関連しているのか詳しいことはわかりません。神社周辺の山林には多くの平場が確認されているようです。

右の写真は熊野神社参道口からしばらく東へ進んだ辺りのものです。朝比奈切通の横浜市側の道は鎌倉市側の道よりも湿気は少ないようです。それはおそらく鎌倉市側が谷底を通っているのに対して横浜市側は完全な谷底ではなく、北側の尾根を少し上ったところを平行に通っているからではないでしょうか。道幅は横浜市側はやや狭いようです。熊野神社へ向かう道が接続した辺りからの先は北側尾根の斜面にやぐらが多く見られます。

近世にはすでに鎌倉は観光地であった
鎌倉は江戸時代から観光地として遊覧ルートが紹介されていたようです。東海道の往来ついでに立ち寄れて、金沢八景を見物してからこの朝比奈切通を通って鎌倉に入り史蹟を訪ね、更には江ノ島弁財天にお参りするといったようなコースは知られています。水戸光圀の『鎌倉日記』、『新編鎌倉誌』、『鎌倉欖勝考』、『相模国鎌倉郡村誌』などなど鎌倉のガイドブックは数多く出版されていました。

東海道五十三次や金沢八景の浮世絵で知られる安藤広重は「朝比奈切通しの図」という絵図を描いています。切り立った切通しの中に帆舟が浮かぶ金沢の海が描かれていますが、現実には朝比奈切通から海を見ることはできません。旅の風景を見続けていた広重には朝比奈切通と金沢八景とが同じ湘南の風景として重なって映っていたのかも知れません。

右の写真は道の両脇の切通しが深くなり道が狭まっています。そしてここが峠の大切通に対して東方の小切通といわれるところなのです。

小切通
小切通は朝比奈切通の道が横浜市側で小さな尾根の突起部を乗り越えようとして造られた切通しのようです。おそらく尾根の南側の谷部を回り込む道も考えられたとは思いますが、傾斜が急で尾根を乗り越えることになったのではないでしょうか。そこで尾根を上る東側を切通しにして坂の傾斜を緩めたものと思われます。

現在この切通しは約16メートルほど垂直に切り落とされているそうです。左の写真を見て頂くと切通し壁の中ほどの高さに掘られたやぐらがあるのがおわかり頂けるでしょうか。調査報告書には以前の切通しの路面はやぐらと同じ高さのところを通っていたと推定して、その当時の切通しでも9メートルも切り落とされていたとしています。そうするとやぐらから下の残り7メートルは後の時代に更に掘り下げられた部分とも考えられるのです。

切通しが段階を置いて掘り下げられていったという考えが正しければ、ここ朝比奈切通だけに限らす鎌倉の切通しというものが鎌倉時代から現在まで幾度も造り変えられていることが想像されるのです。鎌倉の山の岩は凝灰質砂岩や泥岩といった柔らかく削りやすい岩で、鎌倉特有のやぐらが多く造られていることや鎌倉石の切り出しなど鎌倉の地形は人為的に改造しやすいということが思い返されます。またその反面もろくて崩れやすいのも特徴です。

右の写真は小切通から更に東へ進んだ道で、地形に合わせるかのように道は緩やかに曲線を描いています。

新田義貞鎌倉攻めの時の朝比奈切通は
鎌倉の切通しといえば元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めのときの攻防が思い起こされますが、その時にここ朝比奈切通はどうであったのでしょうか。新田義貞に同調して下総国で挙兵した千葉貞胤は下野国の小山秀朝と合流し鎌倉を目指します。一方の幕府軍の金沢貞将は上総・下総の軍勢を見方につけるために鎌倉を出発するのですが、この両者は武蔵国鶴見で戦っています。貞将は破れ鎌倉へ引き返しています。このとき金沢貞将の軍勢は六浦を経由していたと考えられているので、この朝比奈切通を通って行ったのかも知れません。

千葉貞胤と小山秀朝はその後、新田義貞と合流しています。義貞の軍勢は化粧坂・巨福呂坂・極楽寺坂から鎌倉へ攻めていますが、朝比奈切通方面からの進入の記述は見あたりません。鎌倉の地図を見て頂くと化粧坂や巨福呂坂は鎌倉の中心部のすぐ西で外から攻める場合の主力は自ずとこの方面に集中したと考えられそうです。それに対して朝比奈切通は中心部からかなり東の山の中で、素人ながらも攻め込みづらく感じます。破れた幕府軍の残党は瑞泉寺裏山の天台山付近に逃げていることから、東側から攻め込んだ軍勢は少なかったと思われるのです。

古道と高速道路
上の写真をご覧頂くと朝比奈切通道の上をコンクリートの高架橋が跨いでいます。橋の上は横浜横須賀道路です。鎌倉側の三郎の滝からここまでは古い道のままで、ひと山越えて来てといった実感がします。橋をくぐると視界が開けて辺りは明るくなりました。道の右手には工場の建物が見え古道歩きも終わりが近づいていることがうかがえます。その先に石仏が並んでいるところがあり、車止めのところに朝夷奈切通の標柱と説明版があります。

朝比奈切通道の東端にある石仏群

上の写真は国指定史跡朝比奈切通の東端にある庚申塔や石地蔵などの石仏群です。この石仏の前で昔のままの道は終わりです。ここから先は舗装路となっていました。古へから現代に引き戻された感じです。左の写真は朝比奈切通の道が県道と交差して更に東へ進む道です。ここから六浦までは1.5キロほどです。途中に大道という地名もあり昔からの主要道であったことが偲ばれます。この写真の少し先に鼻欠地蔵という今ではほとんど風化してしまった磨崖仏があり、そこがかっての相模国と武蔵国の国境であったのです。

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