鎌倉七口-朝比奈切通・・・・その1

光触寺塩嘗地蔵
朝比奈切通は鶴岡八幡宮三の鳥居前の横大路と呼ばれる道を東へと向かいます。この道は金沢街道と称し鎌倉から横浜市金沢区へとぬける道なのです。鎌倉市の北東隅は十二所というところでここに光触寺というお寺があります。右の写真は光触寺の山門を撮影したものです。光触寺は一遍上人が開基した時宗のお寺です。時宗のお寺は鎌倉街道沿いには多く見られ街道を媒介して地方へ広まったことが窺われます。

光触寺の本尊は阿弥陀三尊像です。また寺宝の阿弥陀縁起も知られていて、三尊像と縁起とも重要文化財になっています。境内には小さな地蔵堂がありそこに左の写真の塩嘗(しおなめ)地蔵と呼ばれる石地蔵が安置されています。このお地蔵様はもとは光触寺橋の金沢街道傍らにあったそうです。昔、六浦の塩商人がこのお地蔵様の前を通るときに初穂として塩をお供えして、その帰路に再びお地蔵様の前を通ると塩がなくなっていたことからお地蔵様がなめてしまわれたという言い伝えにより塩嘗地蔵と呼ばれているそうです。

切通し庚申塚
金沢街道の光触寺と十二所神社の中間付近で滑川は吉沢川と太刀洗川の二つの流れに分かれます。十二所神社前の信号から東へ分岐する道がありこの道が朝比奈切通への旧道なのです。この道に入り直ぐ左手に右の写真の庚申塔や馬頭観音の石仏が塚上に見られます。石仏は江戸期のものと思われますが、実はこの塚状のものは幅と高さが4メートルほどあり塁壁状遺構の残存と考えられています。十二所神社から朝比奈切通へ向かうこの一帯は朝比奈砦跡として遺跡に指定されています。

朝比奈砦跡は朝比奈切通の西側にかって存在した峠の防御施設と思われます。朝比奈切通への道は十二所神社前を過ぎた付近から太刀洗川を吸収するように両側から山が迫ってきています。そしてこの付近に朝比奈砦跡が確認されていて発掘調査が行われています。これまでに中世の堀立柱建物跡や荼毘などの遺構が発見されています。つい最近では14世紀頃と思われる納骨堂跡も発見されているようです。左の写真は太刀洗川沿いの道を切通しへ向かい人家がなくなった付近のものです。道はいつしか舗装路ではなくなっていました。

太刀洗川に並行して進む旧道を行くと、最初の切岸状の崖岩が現れました。ここで道は大きく右へ曲がっていました。この辺りからいよいよ切通し道の様相を現してきています。朝比奈切通は鎌倉七切通の中でも、かっての切通し道のままの姿が一番長い距離残っているところです。この切通しは鎌倉の地勢と外部との連絡状況を示す貴重な史跡として昭和44年に国の史跡に指定されています。

太刀洗水
最初の切岸状の崖を回り込んでしばらく進むと川の向こう岸の崖面に左の写真の石祠が見られます。そこには「太刀洗水」と書かれていて鎌倉五名水の一つとなっています。ここからチョロチョロと流れている水で梶原景時は血刀を洗ったという伝説の小滝がこの場所です。斬られたのは上総介平広常で広常の屋敷はここから少し先の朝比奈切通への分岐を直進した七曲谷戸と呼ばれる平地にあったと伝えます。その屋敷跡から山越えの道を七曲坂といい、七曲坂は朝比奈切通が開削される以前の六浦への旧道とも考えられている道なのです。

上総介広常という人物は?
平広常は房州上総の豪族でした。房州で再起をはかる頼朝のもとへ千葉常胤は300騎を従えて参入しましたが上総介広常は頼朝のもとへ直ぐには向かいませんでした。そして千葉常胤に遅れること隅田川の辺りで2万騎の大軍を連れて頼朝に従うことになりました。

ここで千葉常胤に遅れを取ったことが後々まで頼朝に謀反の疑いがあると思われ、鎌倉幕府御家人で最初に誅殺されてしまうのです。

鎌倉幕府の御家人の多くは八幡宮や大倉幕府の中心部に屋敷をかまえていましたが、広常は六浦へ向かう山中に屋敷をかまえていて、危急の時に真っ先に山道を通って六浦へ出て郷里の上総に逃げることができる位置にあったのです。そのことも頼朝に疑われる要因であったのでしょう。

寿永2年(1183)に頼朝の密命を受けて梶原景時は広常の屋敷に訪れます。広常と双六を打っていた景時は隙をうかがい広常に斬り掛かったのです。広常の屋敷から逃れた景時は上の写真の小滝のところで血刀を洗ったと伝えているのです。『吾妻鏡』などにもそのことの記述があります。

太刀洗水の伝承と広常屋敷跡地などがこの道沿いにあることは、鎌倉から六浦への道が幕府開設当初からこの辺りを通っていたことを物語ります。

三郎の滝
右の写真は七曲坂への道から左に分岐して向かう道です。そしてこの道が朝比奈切通なのです。写真中央に朝比奈切通の碑と右の滝は三郎の滝といい切通し道を開いたという朝比奈三郎にちなんで付けられた滝名なのでしょう。

朝比奈切通

朝比奈切通(あさひなきりどうし)は朝夷奈切通(あさいなきりどうし)ともいい(朝夷名切通というのもある)、どちらが正しいかということはこのホームページの趣旨ではないので敢えて語りません。ホームページの作者は簡単なものを好むので字が簡単な「比」のほうを選びました。地名などの名前は古い文献などにより様々でこだわってみても切りがありません。

朝比奈切通は鎌倉七口の一つで鎌倉の中心から現在の横浜市金沢地区方面へぬける道(金沢道あるいは六浦道という)の峠にある切通しです。この切通しを語るときに必ず登場すぬのが和田義盛の三男で巴御前を母に持つという朝比奈三郎義秀が太刀で一日一夜にして切り開いた道であるという伝説です。そんなことはスーパーマンでもなければできるわけではなく、まともに信じる人はほとんどいないとは思います。そこで補足するように説明されているのが「一夜」とは短時間ということの美称であろうと芳賀善次郎氏は語られています。また切通しの名前の由来について関靖氏は安房国朝夷郡の人夫をもって切り開いたがゆえに朝比奈切通というとしています。

鎌倉の和賀江湊は物質供給地でありましたが船舶の着船には不向きなところでありました。そこで六浦方面の湊が船着きに良い場所として認められ、六浦津はしだいに幕府の重要な外港となって行くのでした。また六浦荘は幕府の実権を握りつつある北条一門の金沢氏の所領であり、そして当時は三浦氏との緊張関係などから鎌倉と六浦を結ぶ道の整備が早急な課題であったと思われるのです。

『吾妻鏡』
仁治元年(1240)十一月三十日条に
「鎌倉と六浦の津との中間に、始めて道路を当てらるべきの由議定あり。今日縄を曳き丈尺を打ちて御家人等に配分せらる。明春三月以後造るべきの由仰せ付けらると云々。」

仁治2年(1241)四月五日条
「六浦の道を造り始めらる。これ急速の沙汰あるべきの由、去年の冬評議を経らるといへども、新路を始めらるること大犯土たるの間、明春三月以後に造る可きの旨、重ねて治定すと云々。よって今日前武州その所に監臨せしめたまふの間、諸人群集し、おのおの土石を運ぶと云々。」

仁治2年(1241)五月十四日条
「六浦の路造りの事、この間すこぶる懈緩す。今日前武州監臨したまひ、御乗馬をもって土石を運ばしめたまふ。よって観る者奔営せずといふことなしと云々。」

なるほど。鎌倉と六浦を結ぶ道造りは早急に臨まれたことがうかがえます。ここでいう「前武州」とは執権北条泰時のことで、泰時自身も工事現場に足を運び監督にあたっていたようです。工事ははかどらず泰時自身の乗馬を持って土石を運ばせていたというのですからこの工事がいかに重要であったかがわかります。

朝比奈切通は以上のように鎌倉と六浦を結ぶ道の切通しで、仁治年間に北条泰時が造ったということのようですが、実際のところ泰時が工事したそのとき以前にこの切通しは存在していたとも考えられていて、泰時のときの工事は従来の道の拡幅工事であったとも考えられているのです。

切通し道は軍事的にも経済的にも重要視されていて、切通しの切岸上には有事の際の平場の存在も確認されています。物質流通ルートとしても先に紹介した光触寺の塩嘗地蔵の塩の話などは六浦の製塩場で作られた塩を鎌倉へ運んだことを物語るものです。そして六浦は貿易港ということで、中でも房総方面からの食料や生産物質の運搬は鎌倉幕府にとっては欠かせないものであったことでしょう。

昭和31年に開通した県道金沢・鎌倉線はこの切通しを通らす、北側の一段上の尾根を通っていたことから、切通しは運良く全面的に残されることとなったのです。

朝比奈切通の碑と切通道

道の両側が深く切通された素晴らしい「道」

迫力満点の道
三郎の滝から朝比奈切通に入った辺りは素晴らしい道です。これぞ切通しの本命といった感じです。鎌倉七切通の多くが狭くて屈曲して道というイメージからほど遠いものばかりですが、朝比奈切通の道はこれこそが天下の大道であるのだと私に語り掛けているかのようです。この圧倒的な迫力は私にとっては三島市の平安鎌倉古道以来のものです。狭い鎌倉にもこれだけ迫力ある、そして美しい道が残っていたとは大いに感動いたしました。

素晴らしいとか、切通しの本命とか、圧倒的な迫力とか、感動したなどというと、何を大袈裟なと笑っている方も居られましょうが、各地の鎌倉街道を見てきたホームページの作者がそういうからには、これはもう本物です。たかが道というものに、これだけ感動できるのは、道の向こうにあるもの、あったものが感じられ、そしてそこを通り抜ける風が見えるからの他にありません。道から何も感じられなければ、それはただの道でしかありません。

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