天園ハイキングコース-天台山付近・・その2

ハイキングコースの脇の切通し
左の写真は瑞泉寺から天園へ向かうハイキングコースの道端で切通し跡と思われるところを撮影したものです。この切通し跡は『瑞泉寺裏山周辺詳細分布調査報告書』には旧道の跡であると説明されています。写真のところを実際に下りてみると、途中からスッパリと崖状に切れ落ちていました。その先の旧道はある時に山ごと災害などによって崩れてしまったのかも知れません。この切通し跡の山の下は、ちょうど瑞泉寺の境内になっているところのようです。

ハイキングコース脇の堀割状遺構
そして上の写真の切通し跡の上側からはハイキングコースに沿った別の堀割状遺構が確認できます。右の写真がその堀割状遺構を撮影したものです。この堀割状遺構は笹藪がひどく、冬場でないと入ることができません。藪をついて強引に堀割状遺構の中へと進むと、堀割は長く続いていて、その終端までは確認できませんでした。鎌倉ではあまり見ることがない堀割状遺構ですが、ここのものは関東各地の鎌倉街道を見てきたホームページ作者には道跡であると実感できるものでした。

左の写真は上の写真のところから更に奥の堀割の状況を撮影したものです。写真の左手の土手状のところは人工的な地形と思われ、土手の裏側は瑞泉寺の境内の谷になっています。『瑞泉寺裏山周辺詳細分布調査報告書』によると、この付近の瑞泉寺側の山の斜面が大きな崖になっていることが新たに発見されたそうです。ここの崖を含めて瑞泉寺裏山の調査では夢想疎石の作と言われる瑞泉寺庭園の概念が変わる可能性も出てきたと記されています。

ハイキングコース沿いにあるやぐら
道脇の切通し跡を過ぎるとやぐらが多く見られるようになります。中には右写真のように五輪塔を安置したものも確認できます。この辺りには沢山のやくらが集中していて、ハイキングコース沿いの山の裏側までやぐら群が続いているようです。この付近は鎌倉の山中ならではの岩の造形美を堪能できるところなのです。一般のハイカーは足を止めることなく先を急ぐように歩いて行きますが、私はやぐらを一つ一つ中まで覗いたり、やぐらやその周辺を珍しげに眺めては写真撮影をし、何か宝物でも隠されていないかと期待したりなどしていました。

やぐらの説明は鎌倉の「やぐら」ついてのページを参照してください。

おや、ハイキングコースの谷側(瑞泉寺側)には一段低く平場状のところが見られます。左の写真で確認頂けるでしょうか。このハイキングコースと一段下の平場までの壁には切岸や石積みなども見られます。この一段下の平場はしばらくはハイキングコースと並行して続いていて、『瑞泉寺裏山周辺詳細分布調査報告書』には平場の谷川に旧道があったのではないかと記されています。なるほど旧道は谷側が崩れていて危険なので一段高いところに現在の道が付け替えられたのか、などと想像しながら先へ進みます。

右の写真はハイキングコース沿いにあるやぐら群の山の裏側に回って、そこにも見られるやぐらを撮影したものです。裏側のやぐらの多くは入口が半場土に埋もれている状態ですが、やぐらの中には五輪塔などが確認できます。今では写真のように土に埋もれかけ、風化した岩穴としか見られませんが、これが造られた当時はどのようなものだったのかと想像するのもまた楽しいものです。こんな山中のやぐらを見て、それが造られた当時の姿を想像する人はあまりいないとは思いますが、鎌倉時代に造られた当時のやぐらは、豪華な装飾が施されていたといいます。

左の写真は『瑞泉寺裏山周辺詳細分布調査報告書』に旧道の出口と記されている堀割状遺構です。先に紹介したハイキングコースの谷側の一段下の平場状脇で崩れていた旧道が、この写真のところへと繋がっていたということのようです。この堀割状遺構のすぐ先には石碑が倒れているそうです。石碑には「従是左 北条家御一門御廟所道」と書かれているといいます。現在は写真のところから先は瑞泉寺の境内地のためなのか、立ち入ることができないようになっています。

右の写真はハイキングコースを撮影したものです。写真の道の右手尾根上には瑞泉寺の偏界一覧亭の建物が見られます。

瑞泉寺とその庭園について
ここでちょっと鎌倉ハイキングを一休みして、瑞泉寺と庭園についてのホームページ作者の少ない知識を語りたいと思います。

瑞泉寺は鎌倉の寺院の中では、観光スポットとしては人気のあるお寺です。四季折々の花の寺としても知られ、そしてこのお寺は鎌倉時代後期に禅僧夢想疎石が開山し、境内には発掘復元された国指定名勝の庭園があることも有名です。

この瑞泉寺の庭園を次ぐのように語った作家がいます。「疎石が入山したことのある禅寺の庭はすべて疎石作と伝えられているが、彼が一山の庭を全部手がけた、という庭はたぶんひとつもないだろう。庵を結んだところはかなりあり、そこで小さな庭をつくったことは考えられるが、私の知るかぎりでは、現在そうした庭は残っていない。たとえば鎌倉の瑞泉寺は疎石の開山で、疎石作と伝える庭があるが、これは庭とよべるほどの庭ではない。自然の利をそのままとりいれた小さな庭である。」 これは作家の立原正秋氏が『日本の庭』(新潮文庫)という本で語られている言葉です。この本の夢想疎石の項で美濃永保寺の庭についてもふれていて、永保寺の庭は疎石作ではないと言いながらも、「作庭のことをなにも知らない人が、この庭は疎石作だといわれ、ああ、いい庭だ、と思えば、私はそれでよいのだと思う。」とも語られていました。

立原正秋氏の幾つかの作品から日本美学について知ることができます。その一つがこの『日本の庭』という本ですが、疎石にとって作庭とはなんであったかという語りで、疎石の『夢中問答』の「山水をこのむは、定めて悪事ともいふべからず、定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし、得失は人の心にあり。」という言葉が私には妙に印象に残っていたものです。この言葉自体は、私のような素人には難しくてよくわからないのですが、時の権力・政治と拘わった疎石の禅僧としての苦しい思いや反省がこめられている言葉だそうです。権力・政治に拘わる歴史遺産は残りずらいものですが、「真・善・美」に拘わる宗教施設などの歴史遺産は現在でも息づいているものは多いものです。普遍的な意味を悟られる『日本の庭』という本でした。

そして現在、瑞泉寺の境内には立原正秋氏の墓があるということを、私は「鎌倉の古道物語」のホームページを手がけてから知ったことでした。鎌倉の庭園と言えば、やはりここ瑞泉寺が一番知にられていると思いますが、これも最近ホームページ作りで鎌倉へよく訪れるようになってからの発見(平成15年)で、JR鎌倉駅に比較的近い扇ガ谷の無量寺跡と呼ばれる谷の発掘で、瑞泉寺庭園より数十年遡る鎌倉時代の建物と一体になった庭園跡が見つかって話題になっています。

北条首やぐら群
再びハイキングコースの散策に戻ります。左の写真はハイキングコースの道端にある石碑です。石碑には「文政十二年丑正月吉辰」「瑞泉寺山内 従是右 北条家御一門御廟所道」「領主 黒川惣助」とあります。ここから、ハイキングコースの東に逸れて進む道跡がハッキリと確認できます。その先には「北条首やぐら」と呼ばれるやぐら群があり、以前はそのやぐら群へ参詣する人達が頻繁に通っていたのでしょう。そして、この石碑のあるところの瑞泉寺側の谷へ下りていく別の堀割状遺構もこのそばに見られます。その堀割状遺構は先に紹介した旧道の続きかどうかはわかりません。

左の写真は上の写真の石碑から北条首やぐらへ向かう道跡です。かなり広くしっかりした道跡です。ちょっとした堀割状になっています。石碑に北条家御一門御廟所とあるように、ここのやぐら群は元弘3年(1333)に新田義貞の鎌倉攻めに敗れた北条高時とその一門の墓所であると伝えられています。北条一族は葛西ヶ谷の東勝寺に火を放ち総勢870人余りが自害したといわれていますが、新田軍の追撃を逃れて主君の高時の首を隠すためにこの地までやってきた北条方の残党達は道に迷ってしまったのでした。

新田軍の追ってから何としても逃れて主君の高時の首を無事に埋葬しなければならない、残党達は焦っていました。その時に残党達の前に一体の地蔵菩薩が現れ、ホラ貝を吹いて逃げ道を教えてくれたのでした。そして、高時の首を埋葬したところが、この辺りであったと伝えられています。右の写真がその高時の首を埋葬した場所と伝わり、北条首やぐらと呼ばれているものです。幾つかあるやぐらのどれが高時を埋葬したものなのかは今ではわかりません。

やぐらは、中に五輪塔が幾つも並ぶものや、左の写真のように奥壁に五輪塔や仏像が浮き彫りされたものも見られます。やぐらの岩肌は苔むして、穴の入口地面にはシダも生え、羨道(せんどう=納骨穴がある玄室への入口部)が崩れ落ちたものもあり、あの天下を欲しいままにした北条一族の最後がこのやぐらであるとは、まさに「つわものどもが夢のあと」といった光景で、哀れささえ感じられます。人間とは所詮は小さなもので、権力や栄光などは時とともに忘れられてしまうものなのでしょうか。

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