にもかかわらず、恐れていたことが起きた。パンクだ。
パンク修理キットは日本から持参していたので、その場で修理を試みる。が、荷物になるのを我慢して持ってきた携帯ポンプのバルブが自転車のバルブと合わないため、肝心の空気が入らなかった。こればっかりはどうしようもないので、次の町まで無理矢理乗っていくことにした。ペースはだいぶ落ちてしまう。
しかし地獄で仏とはこのことか、パンク現場から五百メートルほど行った道端で、自転車修理屋が店開きしていた。店と言っても、道路に部品を並べて看板を木に立てかけているだけのものだ。それでも助かった。一.五元(約十五円)ですばやく修理してもらえたのだから。
昼が近くなるにつれ、真上から照りつける太陽に往生する。
飲むために包頭で買ってきたミネラルウォーターが底をつきそうだったので、通りかがりの集落にある雑貨屋で補充する。これがいつから置いてあるのかわからない水で、口に含んでみると、容器の匂いがすっかり水に移ってしまって飲めたものではなかったので、頭からかぶることにした。しかし何度かぶっても陽炎になってすぐ乾いてしまう。帽子を用意してこなかったのは失敗だった。使えない携帯ポンプなど持ってくる余裕があるのなら、なぜ帽子を‥‥‥と自分の荷作りを呪った。
西野は熱射病に近いような朦朧とした状態になっているようだ。夜の冷え込みで壊した腹の調子もすぐれず、傍目にもしんどそうだ。
しばらく行った町では、軒先に西瓜を並べて売っている。一つ買うとその場で食べやすいように切り分けてくれた。二人で一気に食べる。特に冷やしてもいない西瓜なのに、猛烈にうまい。これほど西瓜をうまいと思ったことは、その後今に至るまで、ない。
西瓜のお陰でやや生き返った私たちは、この時点で包頭から九八キロ、呼和浩特まで50キロの地点まで来ていた。
その後は、気力を絞ってのツーリングだった。晴れ上がった空は嬉しいのだが、太陽光線は厳しすぎた。手元の水を頭にかけながら、あと少し、あと少し、と自分に言い聞かせて走る。スピードが出ないので、景色を見る余裕はあるものの、何が目に入っているのかわかってないこともしばしばだ。地元の人々が乗る自転車にもあっさり抜かされていくところを見ると、かなり遅いらしい。
全く勝手のわからない土地ほど距離に不安を感じるものだが、それにしても遠すぎるのでないか。ぼんやりと思いながらペダルを踏む。随分久しぶりに見る標識が、ついに目的地である呼和浩特まで後4キロと告げた。
途中から私は西野と先頭を入れ代わって走っていたが、ここまで来た時には、西野とかなり差が開いてしまっていた。休憩も兼ねて、追い付いてくるのを待つ。右手前方に大きな街が見える。おそらくあれが目指す呼和浩特だろうと思うと、後少し、がんばって走ろうという気持ちが湧いてきた。
呼和浩特市に入った辺りで、とうとう遅れがちだった西野を見失ってしまった。さっきまで後ろを走っていたのだが、振り向くといないのだ。どこではぐれたのかもわからない。かといって、わたしも戻って探すだけの気力も体力も、もうなくなっていた。数百メートルだけ戻って、橋のたもとでひたすら待つ。やがて、進んでいるのか止まっているのか判然としないスピードで西野がやってきた。もう限界を越えているようだ。
市内は道がわからず、宿を求めて無駄に徘徊する羽目になった。疲れきっている西野は「どこでもいいから連れていってくれ。任す」と言う。この際、今目の前に建っているホリディ・イン呼和浩特でいいか? と聞くと、いくらなのか尋ねてきた。旅行本に書いてある相場を教えたら「それは高すぎる」とのたまった。どこでもいいんじゃないのか? 前後不覚の割にはしっかりしたヤツだ‥‥‥。
もちろん私も安いに越したことはないので、本を頼りに宿を探して走る。とうとう西野の自転車は後輪がパンクしてしまった。もう猶予はなくなった、というところで、一件の宿を探し当てた。夕方四時頃だっただろうか。