8月7日。朝八時から銀行へ。30分待って、ようやく換金できた。次に書類を整えるために公安の外事課へ行く。書類の交付に時間がかかるようなら、その間に自転車の手配をしてしまおう、という算段だ。
予め地図で確認しておいた公安の建物に行ってみると、そこでは交付を受け付けていなかった。どうやら外事課だけが、旅行者の便利のために別の場所にあるらしい。拙い中国語でやり取りした末に、それが自分たちが泊まっている包頭賓館の西楼にあるとわかった時には11時を回っていた。
やっと見つけた外事課に行ってみると、担当者がいないので昼の三時に来い、とのことだ。午前中に出発する予定は崩れたが、他の準備をする時間はたっぷり余裕ができたわけだ。
さて、それでは自転車だな、と思いつつ包頭賓館西楼を出ると、すぐ右手に「出租自行車(貸自転車)」屋がある。
これだけたくさん自転車があるなら、二台くらいわけてもらえるのではないか? と考えた私たちは、店番の阿姨(おばちゃん)に声をかけてみた。しかし、阿姨は「うちは貸自転車屋でね。売り物じゃないよ」とつれない返事。
ここで引っ込まなかったのが西野だ。彼の持てる中国語会話能力をフル動員して阿姨に食い下がる。わたしは情けないことに、専ら聞き役だ。
「“もし”私たちに売るとすればいくら?」
“もし”は中国語で“如果(るぅくぉ)”と言うのだが、徹底してこの単語を連発して売り値を聞き出そうとする西野。わたしの頭の中では“如果”がこだましている。
これが効いたのかどうなのか、かたくなに「貸自転車なんだってば」と拒んでいた阿姨も、段々とその気になってきて、一台80元だったらいいかな、などと言い始めた。
すかさず購入したい旨を伝える。すると、奥からおっちゃんが出てきて適当に二台の自転車を選ぶと、きちんと乗れるように各部を調整し始めた。
阿姨は余程不思議に思ったのであろう、一体なんで旅行者が自転車を買うんだ? と尋ねるので、実は呼和浩特まで行きたいのだ、と答える。行ったら戻って来ないから、借りても返せない、だから“買う”のだ、と言うとようやく納得してくれた。
呼和浩特まで自転車で行こうという物好きは中国広しといえども少ないようで、「遠いぞ」と心配してくれる。三時過ぎに発つつもりだが「美岱召」には何時頃着ける? と尋ねてみた。美岱召は未開放都市にあたる地域にある観光名所で、今私たちがいる場所からは地図が正しければ44キロの距離だ。
「夜中だね」
時速10キロで走っても夜の八時過ぎには着く距離だ、と思っていた私たちは愕然とした。
「夜中ですか?」
「そう、夜中。外賓用の飯店なんかないから、泊まるなら民家に頼むしかないね。その時はこう言えばいいと思うよ」
未開放都市だから外国人用の宿があろうはずもない。阿姨は、手近な紙の裏に、丁寧な字で(ほとんどの中国人は字が上手だ)依頼文の雛形を書いてくれた。いくらかお金を包めば泊めてもらえるだろう、と助言をくれる。心配してくれるのはありがたいことだ。それでも私たちは、この時点でまだ「もっと早い時間に到着できる」と高を括っていたのだった。
そうこうしているうちに自転車の整備が終わったようだ。阿姨は自転車のブランドを差して「飛鴿牌(飛ぶ鳩印)だ」としきりに自慢する。「鳳凰牌」や「永久牌」が人気ブランドであることは事前の調査で知っていたが、確かにこの「飛鴿牌」もあちこちで見かける自転車だった。
修理と整備代込みで、いつの間にか一台百元に値が上がっていたが、この際気にせずに百元札二枚で支払う。当時の為替レートでちょうど千円くらいだ。そう聞くと安いのだが、中国都市部の一般的な月収の三分の一から四分の一に当たる金額なのだから、既に大陸の金銭感覚に染まっていた私たちには、とんでもない買い物をしたように感じられた。もっとも、新品を買うつもりだったのが半旧品(中古)で済んだのだから、嬉しい誤算だったのだが。
私たちの愛車となった自転車は「北京の出勤風景」などでよく見る黒い実用車。乗ってみて初めてわかったのだが、サドル位置が高く、ブレーキは効かなかった。
サドル位置が高いのは最も効率的に踏力をペダルに伝えることを再優先させているという意味で理に叶っていた。ブレーキが効かないのには参ったが、そもそもブレーキが必要なほどスピードが出ないのだった。漕ぐことに理想的でありながらこのスピードなのだから、この時私たちは先行きに気付くべきだったのかも知れない。