実現までの経緯

アリのビッグ・マウス

 1975年4月22日、サンケイスポーツ紙上に「アリと猪木が対決」という記事が掲載された。
 当時の日本アマレス協会会長の八田一郎氏(故人)が渡米した際、パーティーでアリと同席し、アリが「100万ドルの賞金を用意するが、俺にチャレンジしてくる東洋人はいないか」と話したというエピソードを持ち帰り、新聞記者に話しをしたものが記事となったのだった。
 アリのビッグ・マウスは有名で、ただの気まぐれの発言だったことは容易に想像出来る。しかし、猪木はこのアリ発言に本気で応じ、執拗にアリに対戦を迫った。


来日したアリに「応戦状」を渡す

 1975年6月9日、アリはマレーシアのクアラルンプールでのジョー・バグナーとの防衛戦の前に日本に立ち寄り、記者会見を行った。猪木は挑戦状ではなく、アリの呼びかけに応じるということで、「応戦状」を新日プロの渉外部長であった杉田豊久氏に持たせ、その席上で手渡した。
 アリは得意のビッグ・マウスで「面白い。やってやる」と応じたが、後日、アリのマネージャーがアリの発言を否定した。


それでも猪木はあきらめない

 このまま立ち消えになるかという世間の風潮だったが、猪木は「アリよ逃げるな」という英文のパンフレットを作成し、世界中にバラまいた。これを見たルスカが猪木に挑戦するという副産物も生み出した。
 また、水面下ではアリと太いパイプを持つロナルド・ホームズ氏との接触に成功。遂に具体的な交渉がスタートした。


ニューヨークで調印式

 そして3月25日ニューヨークのプラザホテルでの調印式がセッティングされた。この日までに90%は合意に達していたが、ルールとギャラの問題は直前まで折り合いがつかなかった。
 結局、ルール問題には最終的な合意は得られなかったものの、アリのファイトマネーは610万ドルで合意し、調印式が行われた。
 猪木はこの席に紋付きの羽織袴姿で臨んだ。


猪木がアリに贈ったもの

 アリが来日したのは試合の10日前にあたる6月16日だった。何処へ行ってもVIP待遇を受けた。
 猪木とアリが日本で初めて同席したのは、6月18日に行われた昼食会の席だった。アリは例によって、ビッグ・マウスで猪木を挑発。これに対して猪木はアリに松葉杖を贈るという形で応戦した。


幻の賞金マッチ

 決戦3日前、6月23日に京王プラザホテルで調印式、公開スパーを含めたディナーパーティーが行われた。
 それまでルール問題で、「飲まなければ試合をキャンセルする」というアリ側の強硬な態度で言い分を受け入れてきた猪木サイドが強烈な逆襲に出た。ファイトマネー、興行収益の全てを勝った方が取るという賞金マッチを猪木がその席上で爆弾提案。アリも同意書にサインした。
 結局、これもアリ側の試合のキャンセルも辞さないという強硬な態度に押し切られ白紙撤回となった。