大崎公園を通り過ぎて、見沼代用水東縁沿いに「緑のヘルシーロード」を進んでいくと、国道463号バイパス(見沼横断道路(有料道路))の下をくぐります。 そして、国昌寺橋にでます。この国昌寺橋を渡って100mくらい進むと、左手に国昌寺があります。 |
【歴史】 国昌寺は、曹洞宗の寺で大崎山といい、染谷(大宮市)常泉寺の末寺で、徳川家光から寺領10万石の朱印地が寄進されている。開山は心巌宗智で、中興開山は能書家としても著名な大雲文龍である。 山門は、江戸時代中期(宝暦頃)の建築で、浦和市指定有形文化財である。欄間の龍は、左甚五郎の作と伝えられるもので、棺を担いでこの門をくぐり抜けると、龍に中身を喰われ軽くなるという伝説をもっている。また、この龍はもと見沼に住んでいて作物を荒らしたので、日光から帰る途中の左甚五郎に龍を彫ってもらい、釘づけにして門におさめたという伝説もある。 境内には、二つの文化財がある。センダンバノボダイジュ(浦和市指定天然記念物)と 阿弥陀一尊種子板石塔婆(浦和市指定有形文化財)である。また、寺宝として大雲文龍書の大弁才尊天号の軸物(浦和市指定有形文化財)がある。 大雲文龍は、名僧智識として、その名は朝廷にまで達し、特に書に秀でていたため、時の帝から三度も召されて、書を指南したと伝えられる。 (国昌寺の掲示板から)
【見沼の伝説】 「見沼の龍神灯」
将軍吉宗の命を受けた井沢為永は、このあたりの見沼を干拓し、利根川から代わりの水を引く工事をしていました。ある晩のこと、為永は夢を見ました。見沼の主で龍神という美しい女が現れ、私の住むところがなくなる、新しい住家を探すまで工事を中止してほしい・・・・・と言います。 来春の稲の作付けに間に合わせるため工事は一日も休めません。 そのうち工事に負傷者や傷害が続出し、為永も病に倒れてしまいました。するとまた夢に先ほどの美女が現れ、お前の病を治してあげるから、私の頼みもきいてほしい・・・・・と言いました。困った為永は、龍神を慰めるため龍神灯をお供えしました。 この龍神灯は、誰がつけるのかわかりませんが、為永の宿舎にしていた片柳の万年寺の大松や、氷川女体神社の大杉に、あかあかと、ともったということです。 (国昌寺橋の掲示板から) |