南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第四章  田舎の文化の中で起った都市化 郊外的都会と田舎風国際都市 ( 上 )


* デイヴィド・R・ゴールドフィールド (David R. Goldfield) *


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 遠くで鳴っているピアノの音、夕餉の皿が立てる遠くから響くカチャカチャ言う音、こおろぎのすだく音などが、 時折りしじまを破って聞こえて来る穏やかな夏の宵・・・こう言ったものが南部の都市部には有ったし、今もなお残っている。  開け放った窓から見える風景、藤やさるすべりや樫の木で囲まれた前面のポーチなど・・・ それは南部の都市部ではもう標準的な現代的景観となってしまったきらびやかなオフィスのタワーや快適なリゾートコミュニティに比べると、 遠くかけ離れたように見える景観である。 しかし、南部では外見はしばしば人を欺く。  そもそも南部は本音が分かりにくい土地であり、南部の諸都市も、作者不明で個性のない建築物ばかりなのに、 その欺瞞に一役買っているのである。 南部の都市は南部の田舎から生まれたものである。  極く最近まで、その住人たちは、あたかも欧州からの移住者がかつて北部の都市にやって来た時のように、 彼等の文化の詰まったカバンを提げて南部の田舎から移住して来たのであった。

 南部の都市部が田舎から受け継いだ遺産については、余りに当たり前すぎて気が付かないことがしょっちゅうある。  外から移住してきた人の大部分は、この地域の他の都市の主に郊外から来た人達である。  彼等が南部の市部の環境に気持ち良く適応出来たのは、南部の都市が実は郊外であったからである。  都市の人口密度は米国のどこと比べても半分位である。  市部の境界線を簡単に変えられる法律のお陰で、その人口密度を低く保てただけでなく、 田舎の景観と都会の景観とが互いに溢れて混じり合う所までどんどん広がっていく事も出来たのであった。  自動車全盛の時代に成長し、重工業と言う恐竜のような遺物に邪魔されることもなかったので、 南部の都市は、ハイウエイが通っている所ならどこへでも、身軽に移って行き、空き地を貪り食い、見掛け上、 何の意図もないような模様を描いて、うねるように膨脹して行ったのだった。

 田舎の景観と都会の景観の混合、つまり、あいのこの景色という事は別にしても、南部の諸都市は、幾ら都会風を自称してみても、 田舎の雰囲気をしっかりと受け継いでいるのである。 南部の都市部では四季が大きな意味を持っている。  それは気候のためと言うよりは四季が意味するもの*91 のためである。  春にどの南部の都市や町でもよいから散歩してご覧なさい。 そうすれば、庭の手入れや木の植え方にとても良く気を遣っている事が、 辺りを飾る色とりどりの花からもはっきり分かるだろう。  フラナリー・オコナー ( Flannery O'Connor ) の短い小説に出てくるジョージャ州のある架空の町では、 合い言葉は "Beauty Is Our Money Crop"*92 というものであったが、これはどの南部の町にも正しく当てはまることである。  どの町でも春を祝ってお祭りを催したり、きれいな家や庭の観賞ツアーをやったり、 またその地域特有の花や樹に一般に敬意を払ったりする。 田舎ばかりの社会で、かつては綿花が最も特徴的な植物であったとすれば、 現代の南部の象徴は多分ツツジであろう。  そして、南部の都市部では春がエネルギーに満ちた時であるとすれば、夏は重苦しい気怠さに満ちた期間と言えよう。  ある劇団がテネシー・ウィリアムズの戯曲を演じたとすると、 「 欲望と言う名の電車 」 の登場人物スタンレイ・コワルスキー ( Stanley Kowalski ) の破れたTシャツなどは、 セックスアピールの為と言うよりはその機能性のために着るのであり、衣装部の人達はいつも決まって何もすることが無くなってしまう。  エアコンのお陰で熱気と湿気の勢いをしのげる様になってきたとは言っても、 南部の都市は夏の間はゆっくりしたペースで活動するのである。

 南部の田舎から移住してきた人達が最初に南部の都市を作ったのだという事を考えれば、 このように田舎風が都会に持ち込まれていることはまったく驚くに当たらない。  より新しい南部住民は、北東部や中西部の都市域や、欧州の都市からさえ来たかもしれない。  これらの諸都市の主要特性の中には異邦人的な多様性が存在する。 政治、職業、町の催し物、 娯楽などが全て独自の異国的な次元のものである。 南部の都市にはイタリア人もポーランド人も居れば、 ユダヤ人も居る。 チャールストンは米国が植民地だった時代にはユダヤ教の中心であった。  しかし、南部の都市における異邦人の比率は19世紀、ことに南北戦争後は段々減って行った。  一部の歴史家は、安価な黒人労働力の存在が白人に移住してくる気持を起こさせなかったのだろうと主張する。  この論には一面の真理も有るようだが、基本的な事実は、南部が貧乏な地域だったという事である。  移民は大きなチャンスを求めて来るわけだが、当時米国中どこにでもチャンスは転がっていた。  だから、南部の都市域では異国的区域*93 の代わりに、人種的、階級的*94 区別が非常に重要な点であった。  常に 「 正しい 」 ことをしようと意識している南部人は、「 正しい 」 クラブ、「 正しい 」 学校、 「 正しい 」 弁護士事務所について知っている*95 。 彼等はまた黒人と白人の区別についても知っていた。  違う人種に対しては違う別の違うエチケットを使うのだった。 南北戦争前の奴隷労働や従属的労働が、 また、1865年以降の人種差別と服従*96 とが、黒人と白人との間の公共の場での相互関係を特徴付けた。  それは、一方の人種が他方より優れているということを強調するために考え出された相互関係であった。

 南部の都市部に住む人達は、また、彼等の宗教をとても大切に考える人達である。  といっても、世界の他の地域に住む人達が良くないと言っているわけではない。  だが、南部人がこの米国中で最も熱心に教会に通う人達であるという事は間違いない。  この信心深さには感染力があるらしく、他地域から移住してきた人たちも、 キリスト教やユダヤ教の教会に規則的に通う癖がついてしまう。 教会はまた、個々の地域社会の中では、重要な、 物理学で言う所の焦点の役目も果している。 南部の都市部の生活において、宗教が中心的役割を果していると言う事も、これまた、 その住民が田舎から持ち込んで来た伝統的遺産と言える。 福音主義各宗派*97 −−バプチスト派、メソジスト派、 およびプレシビテリアン派は特にそうだが−−は、19世紀の始め、森が切り開かれた跡に南下してきて、 当時一般的には教会に通っていなかった人達に、キリストの教えをもたらしたのだった。 後に人々が市部に移って行くにしたがって、 教会も市部に移って行った。 今日、これらの宗派の総本山とも言うべき教会は、皆、南部の都市に在る。  ナッシュヴィル*98 をプロテスタントのヴァチカンだと言う人達もいる。  その理由は、そこに一つの帝国とも言える巨大なキリスト教出版社*99 や、 あの南部バプチスト協議会*100 の本拠地などが在るからである。  キリスト教のたとえ話や聖書の文句の引用が、日常の会話や演説の見本の中に入り込んでいるという事実は、 宗教的なことと俗世間のこととの間の境界線が曖昧であると言う19世紀以来の南部の生活の特徴を、 如実に反映しているものと言えよう。

 同じ様に、公私の境界線も判然としていない。 昔から、 ビジネスマンや専門職業人は比較的小グループでしか南部の都市で仕事をしなかった。  政治的状況は今ではだいぶオープンになって来たが、 商工会議所の議題が一般福祉と同義語であるというような感じの土地がまだ沢山残っている。  公益サービスを提供するに当っても、田舎に住んでいた先祖たちが本能的にやっていた仕方を踏襲して、 これらのほとんどを個人や私企業に任せてしまうのが南部の都市では普通であった。  低い税金とそれに見合う低いサービスとが彼等のつましさを良く現していた。  こう言った事は、小さな政府と自作農の独立性とを良いものと考えたジェファーソン的考え*101の伝統を反映したものである。

 南部の都市は、田舎がそのまま拡張したものと言えるだけでなく、南部の歴史を反映したものでもある。  南部が豊饒の地にありながら貧乏であり続けたと言うなら、南部の都市もしかりである。  南部が北部に経済的に依存した事で被害を受けたと言うなら南部の都市もしかりである。  南部が白人至上権主義や高い文盲率、不健康さ*102などの重荷を背負っていると言うなら、南部の都市もしかりである。  南部が自分の歴史を民間伝承にまで高め、彼等の祖先を民話の英雄にまで高めて来たと言うなら、南部の都市でも同じ事が確かである。  だから、南部の都市で人が見、感じ、聞く事は、田舎の文化と地方の歴史とが、はっきりと、しかもしばしば、 びっくりするようなかたちで混ざり合った結果だと分かっても、決して驚くには当らない。

 この素敵な矛盾を数え上げてみよう。 過去を敬っていながら新しいもののために過去のシンボルを破壊してしまう傾向。  深い変わらぬ信仰心を持ちながら、社会問題に対しうわべは無関心を装う態度。  行儀良さを強調していながら、演説では欺瞞的になると言うやり方。 公の場でしっかりした振る舞いをしながら、 敏感さやセンスに欠けた喧しい乱暴な熱狂的ファンになってしまうこと。 個人主義を強調しながら個人的反対者を軽侮する事。  強く地方主義を主張しながら北部に依存したがり連邦政府の助成を望む態度などである。  もちろん、南部は皮肉に満ちている。 それを解説したり尤もらしい説明で言い抜けたりすることが、 南部歴史家たちにとって大切な飯の種であった。 しかしこれらの矛盾は全て、大なり小なり南部固有の歴史に関係したものである。  ある地域の都市を理解するためには、その町の歴史を調べ、その特異性がいかにして発生し、どのように今日現れており、 将来どの様に変貌して行くだろうかを発見するのが良かろう。
        
南部の最初の都市−−田舎と都会が混った景観

 後に米国となった南の地域に英国人たちが最初に定住した時、彼等の田舎生活の経験は短かった。  身の安全確保と相互扶助の欲求、必要から、彼等はジェームスタウンに定住した*103。  しかし、この入植者たちは、一旦この付近は安全で比較的食うに困らない所だと感じ始めるや否や、 たっぷり土地を所有したいと言う英国人のほとんどが抱く夢を追いかけ始めた。  この時以来、ヴァージニア人たちを町にかためて住ませたいと思う英国王室官憲との間で、争いが続くことになった。  それは、英国人官吏たちが町の生活と文明とを同一視していたからだけでなく、 彼等が支配している入植者たちが荒れ地に散らばって住んでしまうと、 こじんまりとした定住地にかたまって住んでいる場合よりも、彼等の商業活動を監視しにくいからであった。  所が、ヴァージニア人たちは違った展望を持っていた。 植民地の奥深くまで入ってきている流れの速い川と、 主要商品作物*31 、つまり欧州人たちがたちまち愛好するようになったタバコの耕作に適した土とのお陰で、 有り難いことに入植者たちは田舎で本当に旨くやって行けるのだった。 一人の入植者がいみじくも書いたように、 彼等は 「 野人的で放浪型のやり方 」 にひねくれ者の愛着とも言えるほどの気持ちを持っていたのである。  後になって入植地に現れた市街地は、ウィリアムズバーグのような行政の中心地か、地方の小さな市場としての町かで、 人口が100人を越すことは希だった。

 だからと言って南部にやって来た英国からの入植者が皆ヴァージニア人の例に倣ったと言うのではない。  とは言え、どこに住む入植者も、土地が欲しいという気持に変わりはなかった。  この欲望の点で彼等は他の土地に住む英国からの入植者とあまり変わらなかった。  違いと言えば、南部が彼等の強い嗜好を満足させる機会を、より多く提供できたという程度のことである。  広大な土地と奴隷に依存した農業経済の渦の中にひとたび南部人が巻き込まれるや、彼等がそのライフスタイルを変える事は、 たとえそう望んだとしても大変難しいことであった。

 入植期の南部には、本当の市街地など殆ど現れなかったというのは、この田舎生活好みを反映したものである。  サウスカロライナ州のチャールストンは、入植期の南部で最大の都市となったが、その大きさにも拘らず、 季節や、農業上の周期や、そして何よりもこの低地の米作プランテーションで猛威を振う熱病*104などのリズムに合わせて、 住民の大部分が出たり入ったりするという、つかの間の都市であった。  多くの点で、住民は市街地での生活に必要な手直しをちょっとやっただけで、あとは元の田舎の環境を、ただそのまま持ち込んで来た。  彼等は田舎と都市との独特のブレンドを行い、混合的景観を造り上げたのだ。  彼等の町の住宅は、彼等の田舎の家の特徴である長いベランダを備えているが、ただ、 道路沿いの土地が高価なのでベランダ面を道路に平行に向けるのでなく、 直角に向きを変え、地所の道路側から奥のほうに向けて配置したというだけの 「 シングルハウス 」 と呼ばれる造りになっていた。  また、住宅を美しいもので一杯飾った。 彼等の家の中庭や裏庭を花や灌木で一杯に飾った。  こういう花一杯の庭は、市街地に生活していることを忘れさせてくれる。  道路舗装に使った玉石の上を通る馬車の轍の騒音や街路上での商いの叫び声から守ってくれる。  夕べともなればここに住む田舎の紳士淑女たちは外に出て、バッテリーと呼ばれる海沿いの散歩道沿いに、そぞろ歩いたものだった−− それは新鮮な海からのそよ風を吸い込むためでもあったし、社交をしたり他人に見てもらうためでもあった。  まさにアンダンテ ( 緩徐調 ) な生活だった。

 勿論、経済的見地からすればチャールストンに住む人が皆紳士淑女だったわけではない。  小売商とか職人とかの中間的な人達もいた。 しかし彼等も殆どは今のままで終わるのではなく、ある程度の土地、 多分田舎に奴隷付きのプランテーションを所有する日がいつかは来て欲しいと願っていた。  建築の面で、野心的な目標の面で、また経済の面で、最良の標準は何かを設定する役を田舎が都市のために果たした。  次いで奴隷がやってきた。 都市部に住む奴隷なんて、言葉遣いとしてほとんど矛盾とも言える。  なぜなら我々は奴隷制度をプランテーションと結び付けてしか考えられないからである。  しかしながら、職人として、日雇い労働者として、また召使として、奴隷はチャールストンの経済にとっては必須な構成員となって来た。  彼等は通常はご主人様のそばに住んだので、この市は居住については人種差別を撤廃してしまったかのように見えた。  実際、20世紀に入って相当経ってからでも、少なくとも都市部の再建により市内の隣人関係の多くが壊されてしまうまでは、 白人と黒人とが互いにそばに住んでいるのを見る事は珍しくなかった。

 とは言え、近所に住んでいるからと言って、親しさが生まれるわけではなかった。  南部で居住について人種差別が無いような形になったからと言って、 この都市部の人種関係に何か前向きなものを読み取ろうとしたら間違いである。  チャールストンではミーティングストリート ( 現在では史跡地区 ) 沿いに、或いはその近くに住んでいたご主人様たちは、 彼等の奴隷を母屋に隣り合った二階建てに住まわせた。 奴隷は上の階の小部屋に住み、下の階は馬や馬車のために空けられていた。  今日でも、こう言った 「 旧き南部 」 の家が残っていて、学生街になっており、下の階は自動車の駐車場に転用されている。

 サヴァンナは南部の入植地で田舎が町になったもう一つの実例である。  英国の博愛主義者ジェイムズ・オグルソープ ( James Oglethorpe )*105 により造られた町で、 入植時代のだいぶ後期の1733年にそれは始まった。 この市には、 チャールストンのような社会的な輝かしさとか建築学上の豊饒さなどは見当たらないが、 その都市計画の点で広く注目と賞賛を浴びた。 オグルソープはヴァージニア人同様に用心して都市生活を避けたが、 商業や地域社会のためには都市も必要だと認識していたので、彼の表現によれば 「 緑の庭園の街 」 を計画したのであった。  彼は町をシンプルに四つの象限に分割する格子状のプランを立て、それぞれの象限にはスクエア*106を点在させた。  この広場は市街のオアシスであり、住民や訪問者は大きく茂った樹木の下で緑に囲まれてベンチにぼんやり腰掛けられる。  オグルソープはまた住宅街に沿って無数の樹木を植える事により、都会的環境 ( と暑い気候と ) を和らげ、 公道と言うよりは庭園の道のように仕上げた。

 チャールストン、そして特にサヴァンナは今日もその魅力を保っている。  両市とも大きな港湾を持っており、一般的には栄えているが、その田舎の遺産は保ち続けてきた。  保ち続けられた理由は非常に簡単で、つまり、19世紀の大部分と20世紀の初頭の期間、 両市とも米国文明の発展から取り残されて衰退していたからである。  開発業者がやって来て緑濃い庭園や優しいスクエアを取り払おうと圧力を掛けたりしなかったからである。  住民も外界から妨害されることなく、過去を楽しむことに満足していたようである。  チャールストンでは労働の合い言葉は 「 早く帰ってちょうだい、私眠りたいから 」 らしいと1913年にある観察者が述べている。  両市とも率先して時代遅れのシックさを求めてきた。  そしてある日、目を覚ましたら、その過去の遺物が、単なる地方的物珍しさに止まらぬところまで有名になったいたという次第である。  今や両市とも国家的な宝と見なされており、他地域ではもう失われてしまった物指*107を一目見ようと米国人が集まってくるようになった。
        
都市の街路で見掛ける田舎のリズム

 これらの初期の南部の都市がこんな気怠い雰囲気を持っているからと言って、 彼等がほとんどの時間を博物館の陳列品になろうと思って過ごしてきたのだなどと思ってはいけない。  田舎は、旧き南部の都市の生活に季節ごとに強い影響を及ぼし続けたが、 都市域の住人たちはそれを数多く即興的に取り込んでは注目を集め成長をして行ったのだ。  綿花経済が栄えるにつれて南部の都市も栄えた。 汽船がニューオリンズの波止場を埋めた。  この町は実際1830年代の何年間かは輸出の中心地としてニューヨークを追い越した。  タバコ工場や鉄鋳物工場の煙突はリッチモンド*108の空を曇らせた。  綿花仲買人たちは、モービル*108やメンフィス *108 に、選り抜きのオフィス空間を盛んに求めた。  農業の盛衰とぴったりリズムを合わせてではあったけれど、米国の他の諸都市と同様、これら南部の都市も大望を抱いていた。  熱心に経済発展を推進し、鉄道に融資し、銀行に開業免許を与え、地方自治体の役割を拡張した。

 このように他の地域の諸都市と似てはいたが、旅行者たちにとって南部の都市域はやはり特別の感慨を呼び起すものであり、 彼等に、はっきりと異なった環境だと思わせるものが有った。  造園家でありニューヨークの新聞に旅行記を書いていたフレデリック・ロウ・オルムステッド ( Frederick Law Olmsted ) は、 リッチモンドの 「 だらしのない外観 」 について、同規模の北部の都市と比較しながら触れている。  彼は南部都市域を記述する際に、繰り返しこの表現を用いている。  南部都市域の住民はあのトーマス・ジェファソンの有名な言葉 「 最も少く統治する政府が最も良い政府である 」 を熱烈に信奉しているように見える。*101

 南北戦争直前の二、三十年間、地方自治体の機能は拡大したが、 南部都市域では税金が低く公的機関のサービスは程々という特徴が続いた。  個人主義的な農民生活愛好、中程度の経済発展速度、企業の重役会と政界のリーダーとが重複していた事などのため、 徴収される歳入と提供されるサービスとには限度があった。  一般的福祉の向上と言う考え方は、それが経済発展と合致しないかぎり、南部都市域の役人の間に広く存在する事はなかった。  南部の市議会は街路を余り舗装しようとせず、消防や警察で生活を守ることにも熱心でなく、 ビジネス街以外では殆ど公衆衛生上のサービスをしなかった。 1850年代、南部の都市の間で評判になった話題の一つに、 一人の男が腰まで泥に漬かって通りを横切っていると、もう一人の紳士が、木で造った歩道の安全地帯から、 助けは要らないかと声を掛けた。 するとその泥まみれの男は 「 結構です。  でも私の乗っている馬は切実に助けを求めています 」 と言っているのを見た、と言うのがあるほどだ。

 南部の街の状態には深刻な面もあった。 南部に草木を枯らす霜の到来が遅れると、 微生物や蚊の幼虫の成育する季節が延びる結果となり、だらしのないこれらの都市は醜いだけでなく不健康にもなってしまうのであった。  黄熱病も南部の都市域の主要な災厄だった。 1853年にはニューオリンズの人口の六分の一がこの病気で死んだ。  1855年にはヴァージニア州のノーフォーク ( Norfolk ) *109 を疫病が襲って全人口のこれも六分の一が消え去った。  この病を防ごうと役人たちは大砲を打ち、松明も焚いたが、感染を防ぐ唯一の防御策は町を逃げ出す事だった。  南部人達は5月下旬に市を去り、秋までは戻ってこなかった。 まだ畑に作物があっても、疫病がやってきそうだったら、 うろうろ残っている理由など無かった。

 どんな条件の下で黄熱病が流行るかについて、都市の指導者たちは何となく分かってはいた。  隣の市で発生したという知らせが入ると、狂ったように清掃キャンペーンが始まった。  殆どの市には検疫の法律があったが、この法律を実施すると貿易の流れが妨げられるので、 商人が支配していた政府は滅多にこれを発動しなかった。  南部の都市部での伝染病対策は、ビジネス地域社会の気紛れと願望との回りを堂々巡りするばかりだった。

 訪れる旅行者たちは、南部の都市で出会った奴隷或いは解放された黒人の数を取り沙汰した。  彼等の記すところによると、奴隷たちは都市生活に直ぐに順応した。 彼等はルイヴィルのタバコ工場で働き、 リッチモンドの鋳物工場で働き、アトランタの線路の上で働き、ニューオリンズの埠頭で働いた。  都市の使用者は、これらの多数の奴隷を、購入するよりも雇用することにした。  その方が初期投資の重い負担が無かったからである。  多くの南部の都市にはこの新しい需要に応えて貸奴隷業 ( Rent-a-slave service ) が現れた。  奴隷たちは決まり以上に働いた時、ボーナスの形で金を手に入れることが可能になったので、都市での仕事のほうを好んだ。  普通、彼等の方が雇用者や住宅設備を選ぼうと思えば出来たし、希にではあるが、自分を解放するに十分な程の金を貯金する事も出来た。

 これらの旅行者にもう少し観察力があったら、南部の都市部の住人たちに不安が有るのに気付いたかもしれない。  1840年から1860年の間に北東部、特にニューヨークを中心に全国的経済が出現し、商業、情報、信用取引、工業製品、 そして富が、すべてゴサム ( Gotham )*110 に流入し、国中に枝分かれして配られて行く事になったが、これにより、 かつてはこの国の商業の大動脈であり、また南部経済の生命線でもあったミシシッピ川の重要性が薄れ、 鉄道の発達により衰退してきたからである。 東部は西部をその経済圏にますます取り込んでいったので、 南部はその綿花や綿製品を売るにも、金を借りるにも、製品を輸送するにも、すべてニューヨークに次第に依存するようになって行った。  ある人の計算によると、この依存の結果、南部は毎年1億3千3百万ドルを損していたと推定される。

 南部都市域の指導者たちはこれらの出来事を知っていた。  南部の政治的弱さと政党−−北部の都市の経済を振興させるため連邦政府を使うことを約束した共和党−−の進出とが相俟って、 1850年代の間中、経済状態は非常な活況を呈した。 鉄道を建設したり、工場を建てたり、埠頭や市場の設備を改善したりで、 南部の諸都市は莫大な負債を負った。 これらの努力は大都会を作ろうという意図からだけではなく、 南部を経済的政治的な従属から救おうという意図からも、為されたのであった。  しかし不幸なことにこのシナリオは上演に漕ぎ着けられなかった。  1850年代は南部の農業にとっても繁栄の期間であり、資本と労働力が南部経済のこの分野に引き寄せられてしまったため、 都市部への投資の機会は制限された。 プランテーション所有者が彼等の奴隷を呼び戻すにつれて、 労働力の不足が都市部を悩ますことになった。 又もや南部の都市はカンツリーソングに合わせて踊ることになった。*111
          
工業のない都市と都市のない工業

 南北戦争の結果、南部の都市および地域の経済的命運が決まってしまった。  アポマトックス ( Appomattox )*112 以後約1世紀の間、南部の諸都市は、農産物や原料や製品をフェリーで北部の市場に運ぶときの、 北部大都会までの中継点に過ぎなかった。  南北戦争は、良い条件が揃えば南部も都会的な工業を発展させる潜在能力を持っているという事を示した。  しかし、戦争後も、現金不足の地域では綿花だけが金になる商品だったので、南部の人達はひたすら綿花の耕作に打ち込み、 その結果ついには黒人も白人も、都市も農村も皆貧乏になっていったのであった。

 経済の変化と鉄道網の発展とが南北戦争後半世紀の南部の都市化の模様に大きな変化を起こした。  チャールストン、サヴァンナ、モービル、ニューオリンズなどの海に面した都市は旧き南部においては主要な都市であった。  所が戦後、水路を使った商業が衰退し、また長期に亘りこの地域を抑えていた農業が不景気だったので、これらの都市は衰退した。  ニューオリンズは1860年には米国で5番目の大都会だったのに、 1900年までに15番目に下がった。  1860年にチャールストンは南部で3番目の都市だったのに1910年には15番目となってしまった。

 南部の都市化の中心は内陸部に移って行った。とくに、ピドモント三日月地帯 ( Piedmont Crescent ) *113 と呼ばれる地帯に移って行った。  それは、リッチモンドから南に下がり、幅を広げながらノースカロライナ州のラリーとシャーロットに挟まれる地域を抱き込み、 再びせばまってサウスカロライナ州のスパルタンバーグ、グリンヴィル、アンダソンを通り、アトランタに伸び、 アパラチア山脈の麓を南下してアラバマ州のバーミングハムに至る地帯のことである。  今日、この三日月地帯に沿った主要な都市はインターステート高速道路85号線をなぞるように位置している。  このハイウエイは、南部鉄道の経路を多かれ少なかれ辿っていることが分かる。  このピドモント地帯は鉄道線路を敷くには理想的な形をしていた。  自然の障害物はほとんど無く、地盤は線路と回転する駆動輪の重さを支えられる強度があった。  アトランタは19世紀の終りにかけて南部の鉄道の一大ターミナルとなった。  忙しい日には、この町の幾つもの列車ターミナルは、今日のアトランタハーツフィールド国際空港にも似た多忙で混雑した状況だった。  もっとも、当時の列車は今の飛行機と違い、通常は定刻に発車していたという相違は有るが。

 アトランタは多くの点で新しい南部の縮図であった。  アトランタはどんな種類の水*114にも接していなかった ( ライバルの都市たちは、大雨が降ると洪水の恐れがあるとアトランタをけなしたが )。  地図の上でシカゴとマイアミを結ぶ線を引く。 また、ボストンとニューオリンズを結ぶもう一本の線を引く。  すると、この2本の線はちょうどアトランタの辺りで交わる。  南部の政治家ジョン・カルフーンは、このアトランタの戦略的な位置について早くも1840年に触れている。  ウィリアム・T・シャーマン ( William T.Sherman ) 将軍*140も、この都市の位置に強く印象付けられた。  このアトランタの地理的利点を利用しようと目論んで、南北戦争後、鉄道網の急速な再建が推進された。  これらの推進者の努力により、アトランタはこの地域の鉄道の中心というだけでなく、新しい南部の信条−−工業の発展、 町同士の関係の調停*115、白人優先権主義などを賞賛するという信条−−にとっての精神的故郷となった。  アトランタのジャーナリスト、ヘンリー・W・グレイディ ( Henry W.Grady ) は、 国中を行脚して南部の企業に金を出す可能性のある投資家の説得に努めた。 しかし、彼の伝道者的働きにも拘らず、 これら信条の内、実ったのは、白人優先権主義だけであった。

 だが南北戦争後の時代に、南部の都市に工業が芽生えなかったと言っているのではない。 芽生えたのである。  しかし、それは十分な都市化をもたらさなかったと言う点で、奇妙な工業化だった。  ピドモント地帯はまた、南部が工業化時代に飛び込むための、否、飛び越えるための飛躍に対し好都合な環境を提供した。  鉄道がつながり、綿花栽培が急激に増加し、白人労働力に余剰が生じ ( 南部は最も出生率の高い地方であった )、 水力発電の利用が進むと、これらが組み合わさって、南部ピドモント地帯は紡績業にとりわけ適した場所となったのであった。  シャーロットのD・A・トムキンス ( D.A.Tompkins ) という人は、紡績業にとっての助産婦と言える人であった。  南部の鉄道沿いに、グリンズボロ、シャーロット、ガストニア、スパルタンバーグ、グリンヴィル、 アンダソンなどのような町において、また、これらの町の中間にある小さな町や紡績村*116などにおいて、 トムキンスによるこの 「 綿紡工場設立キャンペーン 」 は大変な成功を収め、1905年までには米国中の織機の半分以上が、 シャーロットを中心に半径100マイルの中に在るほどになった。

 しかしながら、紡績業は他の産業が19世紀後半に米国の他の地域でしたほどには、都市を形成しなかった。  このような形で発展をしたというのは、南部においては、田舎の文化が優勢であった事を反映している。  トムキンスと彼の仲間たちは、紡績工場を既存の都市の中に作ることは殆どしなかった。  工場を既存の都市の周辺部に作るか、そうでなければ離れた所に紡績工場のために特に設計された紡績村を作って、そこに建てた。  綿紡工場の職工、つまり町の住人たちが 「 リントヘッド ( linthead ) 」*117 と侮蔑して呼んだ人達にとって、 都市部の生活は気が散るものだと考えられた。 また、紡績工場の所有者たちは、労働力を周りの農場から引っ張って来たので、 都市の周辺部すなわち紡績村は、既存の労働力供給源をより良く利用できるように立地されたとも言える。  紡績工場の労働者たちは、この紡績村に親戚縁者や自分の宗教的習慣や、庭園や、時には農場で飼っていた動物さえも持ち込んできた。  もと住んで居た土地の田舎の生活を出来るかぎり再現しようとしたのであった。  時には田舎の生活その物を残らず持ってきてしまうこともあった。  殆どの米国人は通勤と言うと、ホワイトカラー郊外居住者を連想するだろうが、紡績工場労働者は初期の時代の通勤者の原形であった。  もっとも、今日のように凄い速さで駆け出すなどと言うことはめったに無かったが。  彼等は毎日工場へ通勤するか ( 自動車が一般に用いられ出した1920年代にひとたび入ると、通勤はずっと容易になった )、 周期的間隔で農場と工場とで代わり番こに生活した。

 そうこうしている内に、グリンズボロ、シャーロット、などのピドモント地域では大きい都市には、 紡績工場や鉄道会社を支える行政や銀行の建物、 さらにはシャーロットにあるD・A・トムキンスやグリンズボロにあるモーゼス ( Moses ) やシーザー ( Ceasar ) のような紡績工場の大立者たちの住宅などが建ってきた。  しかし、実際に紡績工場が建った町村では、人々の生活は工場を中心に回るだけで他に何も無かった。  工場の所有者たちは、町自体を所有するか、或いはその町のリーダー達や警察・裁判所などと居心地の良い関係を作り上げていた。  また、彼等は組合や競合する他の産業を締め出すことにも成功した。  支払う賃金が低かったので、労働者の購買力は低く、そのため、その町の経済も低調であった。  シャーロットの直ぐ隣のノースカロライナのガストン郡には1920年には米国中のどの郡よりも多くの紡績工場が在ったが、 それでも、米国統計局はここを田舎の郡であると分類しているほどだった。

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訳者注

*91 例えば春なら花 *92 Money Crop とは金になる農作物、転じて大切なものという事で、昔の南部では勿論綿花を指したが、 今では 「 美 」 こそが町の宝であるという意味
*93 米国大都会のチャイナタウンとかイタリア人街とかのようなもの
*94 白人もプランテーション富豪と貧困白人に分かれていた
*95 ここで 「 正しい 」 とは白人のやり方と言う事と同義である
*96 黒人は白人を敬うべきだとの考え
*97 教会自身の組織としての権威でなく聖書、ことに新約聖書の教えと権威に重きを置き、 キリストによる贖罪を個人として信じることで人間は救われるという考えを教義の中心に置くプロテスタント宗派
*98 テネシー州中央部にある州都
*99 米国でホテルに泊まったら、枕元の引出しには多分聖書が入っている。 その扉のページを開けて見てください。 その聖書はほとんどの場合ナッシュヴィルで印刷されたものです。
*100南部バプチスト評議会 ( Southern Baptist Convention ) とは、 1845年ジョージャ州オーガスタに始まった宗派で、厳格なカルヴィン主義 ( 神の予定、神の統治、 聖書の権威の絶対性などに重きを置くジョン・カルヴィンの神学 ) と宗教出版、宗教教育に熱心なのが特徴
*101 米国第三代大統領トーマス・ジェファソン ( Thomas Jefferson 1743-1826 ) は、政府は簡素な程良く、 政府の個人に対する関わりは少ない程自由で独立だと言う立場を取った
*102 高い疾病率、医者の少なさ、薬草による治療などを指す
*103 ジェームスタウン ( Jamestown ) はイギリスからの移住者が最初に住み着いた、 ヴァージニア州の東のチェサピーク湾の奥まった入江沿いの土地。 近くに旧い歴史の面影を残したウィリアムズバーグの町などもある
*104 黄熱病とマラリア *105 博愛事業家 ( 1696-1785 ) で、英国で負債のため投獄されていた人々を移住させる為の植民地としてのジョージャ州を作った。  アトランタには彼の名を冠した大学がある
*106 方形広場
*107 過去への郷愁から、旧き良きものを測る物指が欲しい
*108 それぞれヴァージニア州の州都、アラバマ州南部のメキシコ湾に面した都市、テネシー州西部の大都市
*109 現在は海軍の軍港のある都市
*110 ニューヨーク市の別名
*111 南部では都市が又もや田舎の影響下に置かれてしまったということ
*112 アポマトックスはヴァージニア州の州都リッチモンドの西80マイルに在る小都市。  南軍のリー将軍は最後にここでグラント将軍に降伏し戦争は終った(1865 年 4月 9日)
*113 Piedは脚、麓。Montは山。アパラチア山脈の東側山麓の高原台地。 特に南北カロライナ州のその部分をピドモント地帯と言う.  もとは、イタリア北部の地方名から由来
*114 海、川、運河など
*115 南北戦争前は、州同士どころか隣町同士も敵意を持って暴力も交えて争っていたが、 南部の発展のためにこんな事は止めようという事になった
*116 紡績村 ( mill village ) とは、新しく紡績工場を建てることで出来た、田舎の、多くの場合小さい社宅群のある村
*117 リントは綿紡の際出る繊維の糸屑。 これが髪の毛に一杯着いている人達という蔑称

 

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