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南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第六章 南部の政治


ショウタイムからビッグタイムへ ( 下 )

* デイヴィド・R・ゴールドフィールド ( David R.Goldfield ) *


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共和党の抬頭 *243

 1960年代初頭、アリゾナ州の共和党選出上院議員バリー・ゴールドウォータ ( Barry Goldwater ) 氏は、南部政治の砦に、 共和党に都合の良い穴が開いているのを見付けた。  1960年の大統領選挙では、ジョン・F・ケネディを立てた民主党が、 北部都市域で黒人やエスニック*244 の出足が良かったことに助けられたため、 共和党は惜敗してしまった*245。 ケネディは南部でも勝ったが、圧勝という程ではなかった。  彼の対戦相手だったリチャード・M・ニクソン副大統領は、NAACP*245A の正会員であり、選択肢としてはやや難が有った。  実際、この年は公民権についての政治綱領は民主党と共和党でほとんど差がなかった。  ゴールドウォータ上院議員は、北部で黒人やエスニックの人たちに働きかけても、共和党の得票に結び付かないと考えた。  1961年初めのアトランタでの記者会見で、彼は、時の政府に不満な白人たちを狙おうという意味で、 共和党は 「 鴨の居るところで狩猟をする 」 と述べた。  ゴールドウォータは、人種問題で政治的煽動をしようと示唆したのでは必ずしもなく、むしろ、基本的考え方の点で、 共和党の伝統的考えである小さな政府*246 が、 州権 ( state's rights )*247 はどうなるのかと心配している南部の人と良く噛み合うと考えた。 ここに共通点があったのだ。

 このいわゆる 「 南部戦略 」 で武装したゴールドウォータは1964年の選挙では共和党の大統領候補として、サウスカロライナ、 ジョージャ、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナの南部5州で勝利を収めた。  彼はこの他にはたった一つの州 ( アリゾナ ) でどうにか勝っただけだったが、 たった数年前には多くの政治の権威者が不可能だと思っていたことをやってのけたのだった。  つまり、南部の最も保守的な地方に住む保守的南部白人たちが、投票所に歩いていって、リンカーンやグラント将軍、 シャーマン将軍*140 の党に投票したのだ*248。 そしてこれら南部人たちが投票所がら出て来た時、 J.E.B.スチュアート*249 の騎兵隊の非難の雄叫びや、南部人のご先祖様たちの慨嘆の声を聞くことはもはや無かった。

 新しい南部共和党が生まれたのだ。  1850年代の共和党が北部の白人の党と思われていたのと全く同様に、 1世紀後には同じ党が南部の白人の党と思われるようになったというのは、実に皮肉なことである。  ゴールドウォータ上院議員にとっては、州権とは連邦政府の権力を制限することを意味したが、 彼の新しい選挙母体にとっては、州権とは白人優先権主義をも意味していた。  全国政党が計算し尽した戦略の結果、人種問題に関しては、かつては比較的中道路線だった南部の小さな共和党に、 今や改宗者が殺到するようになった。 この南部用の戦略はこの地方の共和党を変化させ伸長させたが、 一方では南部の黒人有権者 ( 彼等の大半は1956年にはアイゼンハウアーに投票した ) を民主党に追いやった*248。  民主党と言えば、白人優先権主義を伝統として来たビルボやヴァーダマンや、最近ではジョージ・ウォーレスなどの党だったのだ。  1964年までは南部の政治で黒人たちは未だ主要な勢力ではなかった。  しかし、1965年に参政権法が通過すると共に、黒人たちはかつて無かったほど多く政治のプロセスに入り始めた。  この立法の条文によると、投票資格のある黒人が選挙権登録*251 を拒否される事など無いという事、 および、大選挙区制から投票所の立地場所の変更に至るまで、 黒人の投票を除外したり減らしたりしようとする選挙実施上の企てには、連邦裁判所が目を光らせる事を、 連邦政府が保証していた。 ゴールドウォータ氏の政策はタイミングが悪かったようでもある。

 しかし、南部の黒人の政治力が掛け声だけでなく事実であるということは直ぐにはっきりしてきた。  確かに、黒人の有権者数は黒人の公務員の数と同様、劇的に増加した。 とは言え、 1970年代の半ばまでは、南部の有権者の80%はまだ白人であった。  第二次大戦の後の20年間は、雨後の筍のように黒人の北部への移動が起り、 南部には全黒人人口のうちたった50%が住むだけになってしまっていた。  さらに、深南部では、大都市と田舎のいずれかに黒人人口は固まっていた。  黒人の多くは貧しく、貧しい人々は普通豊かな市民よりも投票率が低い。  黒人達は民主党に集まってきたが、その数以上の白人達が民主党を去っていったのだ。  彼等は必ずしも共和党に走ったわけではない。 実際、ロッキーマウント市でのブッシュ副大統領の群衆への挨拶のときのように、 多くの人がまだ民主党員の籍は持っていた。 彼等が親代々民主党員だったから自分もそうしたのか、 或いはその地方の民主党候補者が彼等の好みに合う程度に保守的であったからである。  南部の白人有権者たちは、とくに彼等の地方に対して非常に忠実な態度をとる。  とくに現職の政治家に関しては、この忠実さと地方主義との為、投票を政党とは関係なく決めるのが普通である。  たとえば1965年から1985年までの間に、南部で共和党が現職民主党知事を負かした事はたった一回にすぎなかった。

 大統領選挙のレベルでは、共和党は南部白人たちの間で成功を収め続けたが---- ジェラルド・フォード*252 は南部出身のジミー・カーター*253 に対して、白人投票の過半数を獲得してどうにか勝ったが---- もっと下位の選挙では共和党の勝利は華々しいとは言えなかった。 1980年において、 南部の州議会議員の3分の2は民主党員であった。 例えば、アラバマ、アーカンソー、ルイジアナ、 ミシシッピの4つの州では、州の立法府における民主党の議席が90%を割ったことは20世紀になって一度もなかった。  と言っても、南部の有権者が生まれつき精神分裂症だったと言うわけではない。  彼等は全国的な民主党に肩入れするわけでも地方の成り上がり者の共和党を応援するわけでもなく、 ただ、南部の伝統である忠誠心と保守主義に対して典型的反応を示しただけなのである。  この結果を政治学者のジョン・ヴァン・ウィンジェン ( John Van Wingen ) とデイヴィド・ヴァレンタインと ( David Valentine ) は 「 一党半、無党システム 」 と名付けた。  地方政界での民主党絶対多数は、南部の政治を一党半的状態にしていたし、 派閥が細かく分裂した民主党と、一番上*253A にだけしか存在しない共和党とでは、政党など存在しないも同様と言えたからである。 もっと簡潔に言えば、こういうシステムは政治評論家のケヴィン・フィリップス ( Kevin Phillips ) が言うところの 「 スプリットレベル*254 再提携 ( split-level realignment ) 」 だった。  もっとも、南部人は必ずしも民主党から共和党に移りつつある訳でもないので 「 無提携 ( dealignment ) 」 の方が、 用語として、より適切かと思われる。 1952年には南部有権者の75%以上が自分は民主党員だと言っていた。  1984年までには、この数字は劇的に低下し40%になった。  しかし、共和党は民主党の不満分子のほんの一部しか取り込めず、1984年に自分は共和党員だと言った人はたった19%だった。  大きく増加したのは特定政党支持の無い層 ( Independents ) であり、現在では南部有権者の3人に1人がこれである。

 共和党は、これらの政党支持無し層を、民主党員の一部と共に、そして大統領選挙の時以外にも、取り込む事に明らかに成功した。  たとえば、連邦上院および下院議員選挙でも多くの成功を収めた記録がある。  南部から選出される連邦下院議員の3人に1人は共和党になった ( ヴァージニア州では州下院議員の過半数を取った ) し、 22の上院議席のうち6つを獲得した。 南部の州政府でも前進的な傾向が出てきた。  1930年から65年までは一人の共和党知事もいなかったのに、1965年から85年にかけては、 共和党は知事選挙で4回に1回以上は勝利を収めるようになってきた。

 GOP *255 のリーダーたちは、時間と人口動態の両面から、これらの勝利が地方自治体のレベルにまで及んで来るだろうと確信した。  僅か1世代の間に南部の有権者は大きく変わった。 1952年には南部の有権者の82%が南部生まれの白人であり、 ほとんどの黒人は投票ができなかったのに、1980年までには南部生まれの白人有権者はたった57%に減り、 南部以外で生まれた有権者が26%、黒人が17%を占めるようになった。 北部からの移住速度はこれ以上増大しないとしても、 続く事だろう。 そして、これらの新参者は4対3の割で共和党に票を投じる人達であろう。

 しかし、共和党は自らの前途を明るくするために必ずしもヤンキー*256 の侵入を当てにしなくてはならないわけではなかった。  南部生まれの白人たちは、1952年以降、その数以上に態度を変えた。  彼等は若く、頑固な南部の世代やそれに付きまとう旧い文化の重荷についての記憶は、有ったとしてもボンヤリしたものであった。  南部ではまだ家族的伝統が大切にされてはいたが、息子や娘が、 民主党に投票するより共和党に投票する方が、この伝統に沿う事なんだよと、年寄を説得する事は、ずっと容易になっていた。  そして、今日の南部人は、田舎や小さい町に住んでそれらに強い愛着を感じるというような事はあまり無くなってしまったのだ。  若い白人の有権者は、気軽に移住して大都市地域やインターステート高速道路沿いの小さな町に住むようになった。  彼等は労働者階級というよりは中産階級と言ったほうがよい。 こういった有権者にとっての共和党の魅力は、 人種問題なんかよりは、自由に事業を起こさせてくれること、税金と公共サービスを低く抑える事など、 共和党が昔から全米的に進めてきた事であった。 南部白人の中での民主党の主要地盤は、50才以上で小さい町に住み、 労働者階級の職業についている人たち、つまり白人有権者の中ではどんどん減って行く人たちだったので、 上述の状況は共和党を押し上げる作用をしているのだ。
             
黒人の投票と白人パワー

 このような状況下で、黒人の投票はどんな効果を持っていたのだろう。  黒人有権者の97%は民主党支持を表明しており、共和党には全く不利だった。  にも拘らず、黒人有権者の強力な民主党支持はGOPにとって特に有害でもなかった。  一つには、南部の有権者の内、黒人は17%に過ぎなかった。 さらには、人種問題は南部の政治において、 もはや最重要問題ではなく、白人有権者でもこので話題に乗ってくる人の数ははっきりしなかった。  民主党は黒人の党だと言う認識は、一部の白人にはマイナスだった。  1970年代と80年代の黒人有権者の登録が非常に喧伝されたため、白人の登録にも拍車がかかった。  事実、南部において1970年代に登録した人の90%は白人だった。

 こう言ったからと言って、投票権法 ( Voting Rights Act ) が南部の黒人たちに参政権を促した意義を否定するものではない。  南部は今や選挙で選ばれた黒人政治家の数において、全国的に見て抜きん出ている。 アトランタやリッチモンドのような大都市や、 さらにはバーミングハムのような人種闘争の苦い思い出のある都市ですら ( 黒人候補に対する白人の支持は通常20%以下なのに ) 黒人が市長になっている。 黒人の議員が増えたことで黒人への公共サービス、黒人の建設業者との取引、 公共企業体への黒人の就職などが増加した。  また黒人の投票が存在する影響で、南部の白人政治家がリベラル化とまでは行かないが中道化し、 投票権法を更に25年延長しようという1982年の案件については彼等の大多数が賛成した。  1986年の最高裁判事候補者ロバート・ボーク ( Robert Bork ) の否認においては、南部の民主党の上院議員たちが主役を演じた。  すなわち、上院の法務委員長だったアラバマ州選出上院議員ハウエル・ヘフリン ( Howell Heflin ) ( 彼は白人の投票の44%を得て当選していた ) が、ボークの指名を潰す主役だった。  早くも1970年には、フロリダ州のルービン・アスキュー ( Reubin Askew ), アーカンソー州のデイル・バンパース ( Dale Bumpers ) 、 ジョージャ州のジミー・カーター ( Jimmy Carter ) などの新しい世代の南部政治家たちの進出を黒人有権者が助け、彼等は皆、 知事に当選している。

 特にカーター氏の選挙は南部政治における新時代の到来を象徴するものであった。  彼は頑固な差別主義者レスター・マドックス ( Lester Maddox ) の後を継いだ。  正式の就任前にカーター氏はすでに恩赦および仮出獄審査三人委員会 ( Three-member Board of Pardons and Paroles ) のメンバーに黒人を初めて指名している。  就任式で新知事は 「 人種差別の時代は終わった 」 と声明した。 そして、あたかも彼と彼の州の歴史を刻むかのように、 全員が黒人のモリスブラウン大学 ( Morris Brown College ) の合唱団が、 「 共和国軍歌 」 ( "The Battle Hymn of the Republic" ) を歌った*257。

 このような象徴的かつ美辞麗句的な態度は重要な出来事ではあったが、 南部における黒人たちの運勢が変わるという約束は果されなかった。  実際、これらの新しい指導者たちは、南部の政治のプロセスから人種差別の争いを取り除くにあたっては、重要な役割を果たした。  しかし、彼等の力の主要部分は経済発展と政治機構改革に費やされた。  1974年、ニューヨークタイムズ紙のロイ・リード ( Roy Reed ) 記者が彼等の業績をまとめて論評したように、 「 黒人居住地帯にまだ住んでいる多数の貧乏人のために産業を興して職を与えると言う点では、 新しい指導者たちはだれも現実に成功を収めなかった。  都市域の疲弊、経済力の少数者への集中の進行などの新たに発生した問題にも、誰も答を出せなかった 」 のである。  これらの課題は多分一つの州の力くらいでは手に負えない事だったのだ。  しかし、これら新しい血筋の南部の知事たちは、選択的健忘症*258 で、正しい事は言うが実行はずっと少ない人達なのだ。

 黒人たちも、黒人政治家を選んでも新しい政治課題が解決される保証は必ずしも無いのだと分かってきた。  黒人政治家のほとんどは南部の最も貧しい地帯の管轄区域を統括していた。  アトランタの市長のアンドルー・ヤング ( Andrew Young ) のような大都市の政治家は、 経済発展と金融界商業界との協調をしばしば目標に掲げ強調した。 アンドルーや他の人達は、 他の都市との競争力を養うには、そう言った政策が必要であり、繁栄はすべての人の利益につながると主張した。  しかしこういう、恩恵は徐々に全体に及んで行くはずだという論法が証明されるにはまだ時間を要する。

 最後に申しておきたいのだが、黒人たちが民主党に強く惹かれていたにも拘らず、黒人選挙民たちが一枚岩だったわけではない。  増え続ける黒人中産階級は、黒人下層階級とは、考えの違いが大きくなりつつあった。  この仲違いの黒人の投票への参加が減ってしまった----このことも、南部での民主党の退潮の一因となった。
       
新しい有権者、新しい方法、そして全盛時代へ

 近年、新しい少数民族が南部の有権者になり始め、政治のプロセスに新しい要素を加えた。  テキサスの都市域ではヒスパニック系*259 の人たちは何十年も前から多かった。  しかし、投票権法の制定と近隣の活動グループのお陰で、やっと多くの人たちが政治上の勢力になれた。  サン・アントニオ市の市長にヘンリー・シスネロス ( Henry Cisneros ) が選ばれたことは、 南部におけるヒスパニックの台頭のほんの一例である。 アトランタにおいてさえ、5万人のヒスパニックと、   ほぼ同数の韓国人、中国人、インド人、ベトナム人がいる。  これらの新しい移民たちは、都市域の政治生活に変化を与えるという点で北部の都市の政治的多様性を彷彿とさせる。  マイアミ市は米国で最もラテン的な都市で、ヒスパニックが人口の54%以上を占め、 キューバ人のゼイヴィア・スアレース ( Xavier Suarez ) が市長である。  北部都市域では、初期の移民は圧倒的に民主党だったが、南部の新移民がどの政党を好むかは直ぐには分からない。  キューバ人が殆ど共和党だというのは事実である。


 ダブおじさん・・・/今は駄目。 忙しいんだ
 ダブおじさんてばァ/一体なんだ?
 おじさん、二人で話した時の事だけど/何だって?
 話し合ったことだよ! まじめな意見の交換をしたいの/何についてだ?
 何でもいいけど、エーと、あのー、政治についてなんかどう?/この国を動かしてるのはアカとアカかぶれと変質者たちばっかしだ!
 ・・・・・・・・
 趣味だ! おじさん何が趣味?

 訳註:この漫画の解説:題名の Kudzu ( 葛 ) は第ニ章第2図にあるように南部一帯に広く生えている。  ある米人が、崖の土の崩れ防止、補強のため、成長の速い葛の種子を、日本から持ち込んで植えたら、 高温多湿の南部一帯に、あっという間に広がったのだという。 従って米国でも Kudzu という名で呼ばれる。 但し、発音はカズである。  葛は南部を連想させると共に、伸び放題に地面を覆い、手がつけられないと言うイメージを与える。  第三章の終りの方の訳注*157 で説明した "good ol'boy" が典型的に持つ政治についての荒々しい理解や態度が、 この漫画の主人公の、ピックアップトラックを修理中の野球帽をかぶったダブおじさんの反応である。  こんな人に 「 政治についてどう思う? 」 などと質問したら、 その単純で過激な答えに、これは危ないと感じて話題を急転、「 趣味は何? 」 と外らした所が面白いらしい ( 訳者にはあまり面白くない )。  なお、commie は共産主義者の俗称、アカとでも訳すか。 pinkos はピンクだからアカにかぶれた連中。  pre-verts は正しくは perverts で、作者の英語の綴りの間違い ( 故意? )。 変質者の事。

 選挙活動の性格が変ってきたことも、南部では共和党の勢力拡大に有利であった。 キー ( V.O.Key,Jr. ) などが言ったように、 候補者たちがわざわざ 「 川の分岐点 」 などにまで出掛けて行って有権者に会わねばならなかった時代は遠くなりにけりである。  今はこんな分岐点などには余り人は住んでおらず、また残って住んでいる人たちだって必ずテレビを持っている。  州単位の選挙に出馬しようとする候補者たちは、テレビによる宣伝の専門家の援助なしに活動など出来ない。  30秒、60秒間のテレビでの宣伝が有権者への接近の主要な手段となった。  この結果、皮肉にも、南部政治の初期の時代と同じ様に、選挙活動ではしばしば人柄が第一と言う事になってしまった*260。  地域に張り巡らされた地盤を持たない共和党の候補者も、テレビでなら有権者たちと膝を交えられる。  更に、テレビでの選挙活動の費用がかさむので、 南部の ( ほかのどこでもそうだが ) 政治は金持とその友人たちの気晴らしみたいなものになってしまった。  一般に共和党候補のほうが民主党候補よりも金持仲間に近付きやすい。 黒人候補はこの点で更に不利となった。

 上述のすべての利点、すなわち人口動態、経済状態、選挙のプロセス、イデオロギーなどが有るにも拘らず、 この南部地域で共和党が依然として少数派であるというのは驚くべきことである。  新しい堅固な南部は、大統領選挙では共和党が強く、地方選挙、 州選挙では民主党がが強いという風に ( 特にジョージャ、アラバマ、ミシシッピ、 ルイジアナなどの深南部諸州で黒人人口が他の南部地域より多い州で ) 形成されつつある。  南部では伝統は未だに重要であり、その土地と過去とに対する忠誠心は民主党に有利である。  民主党が頑張らねばならないとすれば、それは、 こういう伝統を南部の変化しつつある有権者に適した政治プランに組み替える方式を見付ける事である。  南部の黒人白人は政治的立場という点では、 顕著な例として政府が職や公共サービスを提供する義務についての認識一つを例にとっても、非常に多様である。  したがって、州単位の選挙に出た民主党の候補者たちは、 政治学者アリグザンダー・P・レイミス ( Alexander P.Lamis ) が述べたように、白人には財政的簡素化を訴える一方で、 黒人に向かっては社会正義、福祉を掲げると言う 「 綱渡りの演技 」 をやらなくてはならない。  全般的には彼等は上手に演技してきた。 しかし、大統領選挙では民主党の候補者が、このバランスを上手に保てる事は希で、 従って、民主党は最近の6回の大統領選挙の内5回も落したのである。

 南部の政治は、過去何世代にも亘って南部で起った広範な変化を反映している。  黒人の参加、北部人の流入、有権者の急速な都市化などは、この地域の社会的経済的変貌を示すものである。  白人優先権主義はもはや政治プロセスの中で接着剤たり得ず、政治評論家たちが、 では何がその代わりになり得るかと議論を続ける中で、一党システムもまた同様、消えていった。  両党の指導者たちは、全国レベルでの南部の重要性が増大し続けていると証言しつつ、それぞれの南部戦略を描いている。  全国の有権者の三分の一を抱える南部政治はその全盛時代に入っている。  しかしこの地域の他の殆どの変化と同様、政治の世界にも旧い考え、伝統は依然残っている。  宗教が ( 時々不愉快に ) 政治に踏み込んでくる。 「 同じ土地っ子 」 を訴える政治は政党的結束よりも堅い。  強い個人主義的傾向と政府不信とが蔓延している。 人種問題も昔よりはずっと穏やかだが依然として存在する。  だからこそ、南部の政治を理解する最善の道は南部の歴史を理解する事だという考えは、まだまだ大切なのである。
 
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訳者注

 本章全体に関して:このページをお読みになって、現在の米国では、共和党が保守的で南部、農村、熱心なキリスト教などを地盤とし、 これに対し、民主党が都市住民、労組、黒人などをバックに北部や西部で強く、 リベラルということになっている理由がお分かりになったと思います。 元来は北軍のリンカーンの党、黒人の味方だったはずの共和党、南部では人気ゼロだった共和党が、特に大統領選や知事選という領域で、 なぜ保守的な南部白人の支持を集めることに成功したのか、なぜ、黒人を差別する頑固な南部白人たちの支持を昔から集め続けていた民主党が、 その支持基盤を急速に失い、現在はむしろ黒人はじめ有色人種に支持されているのか・・・。  すべては、ゴールドウォーター上院議員の、機を見るに敏な 「 仕掛け 」 の結果としての 「 逆転劇 」 が、 1964年以降、僅々20年の間に急速に起ったためだったのでした。

*243 さきに民主党の派閥につき説明したが、共和党は、デューイ、 アイゼンハウアーの流れを汲みロックフェラー上院議員に代表される国際派、リベラル派と、 ゴールドウォータ上院議員に代表される右派、保守派の二つに分かれる ( 本書の出た1990年頃のこと )
*244 エスニック ( ethnic ) とは、普通は人種、国籍、種族、宗教、言語、 文化などの源あるいは背景を共有する点で分類される大きな集団と定義され、 英和辞典には普通 「 人種的 」 と書いてあるが、ここ米国の場合は、全米国人からアングロサクソンやドイツ、 北欧系のプロテスタント白人と米国黒人とを除いた残りの米国人を指しているようである
*245 1960年の選挙では、それまで2期勤めた共和党のアイゼンハウワーが退き、 彼の副大統領であったニクソン ( Richard M.Nixon ( 1913- ) ) が後継者を目指した。 これに対し民主党はケネディを立てて辛勝した
35代大統領ケネディ ( John F.Kennedy (1917-1963) ) が暗殺され、 副大統領のジョンソン ( Lyndon B.Johnson (1908-1973) ) が36代として跡を継ぎ、 ニクソンが37代大統領に当選できたのは8年後の1960年だった
*245A National Association for the Advancement of Colored People 有色人種の地位向上を目指す協会。  普通は黒人地位向上協会と訳されている。 実際、南部で有色人種と言えば、従来はアフリカ系黒人のことではあった
*246 共和党の言う小さな政府については、*101 のジェファーソンの考えを参照
*247 州権 ( State's rights ) とは、連邦政府の干渉を嫌い、憲法を各州間の契約と見なし、 連邦政府がその権限を超え干渉したか否かの判定権は契約当事者たる各州にあるとする考え方。  米国ではこの様に憲法に書いてある事以外は各州が決める権利があると考えるので、例えば結婚できる年齢、 運転出来る年齢などは州ごとに違う
*248 昔、奴隷解放をしたリンカーン、北軍の将軍として南北戦争で南部をやっつけたグラント将軍やシャーマン将軍の党だった共和党に、 白人優先権主義にいまだに固執する南部の白人がどんどん入って行き、一方、人種差別主義者、白人優先権主義者のビルボ、 ヴァーダマン ( 共に本章で前述 )、ジョージ・ウォーレス ( George C.Wallace (1919-) ) などの党だった南部民主党に黒人達が殺到するという逆転激は、全くの歴史の皮肉であった
*249 James Ewell Stuart (1833-1864) は南軍の将軍
251 日本では投票資格ができる ( 20才になる ) と自治体のほうが自動的に有権者手続きを取ってくれるが、 米国では各個人が出向いて選挙権登録を行わないと選挙権が与えられない。*240参照
*252 ジェラルド・フォード ( Gerald R.Ford (1913-) は 38代大統領 (1974-77)、共和党
*253 ジミー・カーター ( Jimmy Carter (1924-) は39代大統領 (1977-81) 、民主党、南部の中心ジョージャ州出身
*253A 一番上の州知事だけ共和党で、州議会は民主党が圧倒的だった
*254 スプリットレベルとは、斜面に建てられた家などで、家の真ん中に垂直の壁があり、 一方の部分の床の面が他方の部分の或る階の床と天井との中間の高さにあるような構造を言う。  民主党でも共和党でもない奇妙な連合を表現する例えとして用いられている
*255 GRAND OLD PARTYの略で、共和党の事
256 北部米人 ( ヤンキー )と南部米人 ( サザナー ) は、いまだに互いを多少とも異質な人たちと考えるようである
*257 "The Battle Hymn of the Republic" とは、南北戦争の時の北軍の軍歌である。  南軍の軍歌 "Dixie" をでなく、奴隷解放をした 『 仇敵 』 北軍の軍歌を南部の知事が歌わせたところに、彼の考え方が窺われる
*258 選択的健忘症とは、嫌いなこと、不得意な事だけ選択的に忘れると言う皮肉
*259 ヒスパニックの意味は、i) スペイン人、ii) ラテンアメリカ人。 ここでは後者
*260 テレビの影響で候補者は政見や見識よりは人当たりの良さや容貌などで選ばれるようになってしまい、 第六章第4節 ( ショウタイム ) にあるような、昔のエンタテーナ型候補者の辻説法時代に逆戻りしてしまったというわけである
  

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