南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第六章 南部の政治


ショウタイムからビッグタイムへ ( 中 )

* デイヴィド・R・ゴールドフィールド ( David R.Goldfield ) *


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ショウタイム

 一党支配が続いたからと言って、今世紀前半3分の1の南部政治が俗っぽくて退屈だったとは限らない。  顔ぶれは滅多に変らなかったが、彼等の口にする美辞麗句はタメになるとは言えないまでも、とても面白いものだった。  民主党予備選挙大会では、ほとんどの場合論争があった。 予備選挙大会が一般選挙と同じ事だったから、 たくさんの人たちがひきつけられて参加した。  旧き南部と同様、新しい南部でも政治演説の中では白人の特権と南部の地域を擁護する事が柱であり、その限界でもあった。  これを批判することは謀反を意味した。 北部人たちは長いこと南部叩きが特に上手だったが、 1920年代にバルチモアのジャーナリストのメンケン ( H.L.Mencken ) が先鋒になって批判したような@、 余り上品とは言えない批判が日常化してきていた。  というわけで、南部の政治家にとって文盲や貧困や乳児死亡率などを口にすることは政治的に思慮深い事ではなかった。  また、たとえ非常に無礼な表現は使わないように努めても、人種関係を論じることは政治的に思慮深くないだけでなく、 この上なく危険な事でもあった。

 従って、大物になろうと願う政治家はエンターテーナになってしまった。 州全体をあちこちと旅し、 しばしばバンドを連れて行き、政治集会がバーベキュー付きになる事も多く、 言っている中身以上の美辞麗句に満ちた華麗な表現をすることに彼等は没頭した。 歴史的に南部の政治家は非常に雄弁だった。  彼等は公式に、また非公式に、雄弁術の勉強をした。 南部の文化は雄弁術の文化であり文章の文化ではなかった。  伝統は書物を通してではなく、口から出た言葉で伝えられた。 暑い夏の夜には読書よりも会話のほうが良く適しているからだろう。  ロバート・ペン・ワレン ( Robert Penn Warren )*221 の小説 オール・ザ・キングス・メン ( All the King's Men (1946) ) の中で、 ルイジアナ州の新人州知事候補のウィリー・スターク ( Willie Stark ) に対しジャック・バーデン ( Jack Burden ) が与えた忠告は、 当時皆が受け入れ、やっていたことであった。

 おい。 いいか。 泣き叫ばせろ。 笑わせろ。 お前は、弱くて間違いばっかりしている自分の仲間だと奴等に思わせるんだ。  そうでなければお前は全能の神様だと奴等に思わせるんだ。 奴等を怒らせたっていい。 お前の事を怒らせて見ろ。  奴等を煽動しろ。 方法や理由なんて何だって構わない。 そうすりゃ奴等はお前のことを好きになって、 もっと話を聞こうと戻ってくる。 感情に訴えてどんどんアジれ・・・。 いいか。 奴等の女房たちは歯が抜け、 スタイルも悪くなってるし、奴等は強い酒を飲んでももう酔わないんだ。 それに奴等は神様なんか信じてない。  だから、奴等を夢中にさせ、もう一遍、生き生きとさせるのはお前の腕次第なんだ。 たった30分間だけでいいんだ。  奴等はそのために集って来るんだから。 奴等には何でも言ってやれ。  ただ、頼むから奴等の性根を直してやろうなんて気だけは起すなよ。

 こういう忠告にしたがった人達は、上手なスタンプ・スピーカー*222 になれるが、下司っぽいリーダーにしかなれない。  このような一党制度特有の高度に派閥化し個人化した政治のプロセスが、一連の多彩で変った人物を生んだのはもっともな事である。  サウスカロライナ州の片目の上院議員の 「 ピッチフォーク*223 」 のベン・ティルマン ( Benn Tillman )、 「 オザーク*41 の野生ロバ 」 のアーカンソー州上院議員ジェフ・デイヴィス (Jeff Davis )、一方は州知事公邸の主となり、 他方は州刑務所にお勤めした 「 マ 」 と 「 パ 」*224 のテキサス州のファーガソン ( Furguson ) 二人組、 肩まで垂れる白髪にマッチするように白いシーツをまとって選挙活動をしたミシシッピ州のジェイムス・K・ヴァーダマン ( James K.Vardaman )、 同じミシシッピ州の彼の後継者で、黒人の選挙権剥奪の為に選挙前夜に、 投票しそうな黒人の”家を訪ねる”*225 「 男一匹の 」 セオドア・ビルボ ( Theodore Bilbo )、 州内を 「 苺摘み 」 楽団を引き連れ大きなモップと掃除バケツを持って ”有害動物”*226 を掃き捨てますと誓いながら巡業したアラバマ州の 「 キスをするジム *227 」 ことフォルサム ( Folsom )、 ルイジアナ州の手に負えないロング ( Long ) 一家の 「 みんな誰でも王様だ *228 」 とわめいたヒューイ ( Huey ) と、 その兄弟で州知事の職を取り戻そうとヒューストンの精神病院からパジャマ姿で逃出したアール ( Earl ) など、枚挙に暇がない。

 ユーモアと道化の間の一線をまたいだ、どちらとも区別しにくい所で陽気に騒いでいた南部の政治には、もっと深刻な一面もあった。  エンターテーナたちは当選して観客がいなくなると、選挙区や州が直面していた多くの問題に対処する力量がなかったり、 やる気がなくなったりする事も多かった。 州知事はしばしば立法府より弱く、その立法府たるや、片手間的な政治屋と、 銀行や公共サービス機関や職業的法律家や保険会社や大豆農家やタバコ製造業やなどなどの為に、 一日中働くロビイストたちとから成っていた。  一党政治と長い在職期間の威力とが災いして、困窮している個々の市民に注意を向ける事など、議員たちにとって一文の得にもならなかった。  困窮している個々の市民とは、多くは黒人であり、いずれにせよ投票したくても出来なかった人達である。  キー ( V.O.Key,Jr. ) はこの状況を要約して、「 冷酷にして無情な事実だが、 南部全体が自分の抱える問題点に対処するに十分な政治機構と統率者とを持つ組織、 つまり仕組みを作れなかったと言う事である 」 と述べている。

 首府ワシントンでは、南部の議員たちは伝統の番人として活躍した。  彼等は長期間議員をやっているお陰で重要な委員会の委員長を手にした。 1964年に至っても、 民主党上院議員が全部で31%しか居なかったのに、南部民主党*229 は上院の委員会の委員長の62.5%を占めていた。  彼等は、彼等の影響力を減らし南部の慣習を脅かしそうな法案はすべてブチ壊すか骨抜きにした。  大統領ですら、何か法案を通そうと思えば彼等の支持を必要とした。  ことに、選挙に際して一枚岩の南部に大いにお世話になった民主党選出の大統領の場合そうだった。  要するに、民主党は南部を必要としていた。  1932年にフランクリン・ルーズヴェルト ( Franklin D.Roosevelt )*230 が当選するまで、 20世紀に民主党から大統領になったのはウッドロウ・ウィルソン ( Woodrow Wilson )*231 一人だった。

 重要な地位を独り占めにしていたからと言って、南部の議員たちが無責任に権力を振っていたという事を意味するものではない。  ニューディールの時代、彼等はルーズヴェルトの政策の最も忠実な支持グループの一つだった。  たとえば、セオドア・ビルボほどにニューディール政策に忠誠を尽した民主党員は殆どいない。  このような忠誠心は驚くに当らない。大統領(と彼の法案と)は、別に南部の伝統を引っ繰り返そうなどとは思っていなかった。  産業を立ち直らせ自立させることと、人々を職場に戻す事とが二つの大切な目標であった。  連邦制度というシステムにおいては、 多くのニューディール時代のアルファベット機関*232 の活動の成否は、各地方の民主党の組織の一員でもあった地方自治体官僚次第だった。
             
一枚岩の南部に入ったヒビ

 地方の民主党機関は南部の慣習に忠実であり続けたが、中央の民主党主流派は1930年代には変貌しつつあった。  1900年から30年にかけては4百万人以上の黒人が南部から北部に移住した。  1930年には大雑把に言って60%の黒人はまだ南部に住んでいたが、 19世紀の終りには90%くらいだった事を考えるとかなりの減少である。  移住した黒人の多くは北部の大都市に住み着いたが、そこでは、民主党の政治組織が彼等を歓迎して政治に参加するよう勧めた。  もちろん、大部分の黒人は当時、名目だけだが共和党だった。  しかし、北部大都市での民主党の努力とニューディールの諸計画の評判が結び付いて、黒人たちの支持政党は大きく変わった。  1936年の選挙では、始めて黒人の半数以上が民主党の大統領候補に投票した。  加えて、1920年代と30年代には、20世紀の最初の20年間に米国に移民してきた何百万人の人達が米国市民になり、 選挙権を持つようになってきていた。 彼等もまた北部の大都市に集中し、黒人たち同様、 ほとんどが民主党の政治組織の働き掛けを受けた。 黒人とエスニック白人たち*244 は、民主党の重要な一部となっただけでなく、 大統領選挙人*233 を沢山持つ州に住み着いたので、大統領選挙で鍵を握る勢力となった。  そして、この少数民族グループの影響力が強まるにつれ、南部民主党の影響力は反比例的に減っていった*234。

 ニューディールの諸計画の中でさえも、人種差別は南部では広く行き渡っていた*235 が、この地方の黒人たち、ことに都市部の人達は、 連邦政府の介入に勇気づけられた。 彼等は北部では自分の人種の力を自覚して来ていた。  また、大統領夫人のエレノア・ルーズヴェルトの配慮にも感謝していた。 連邦政府で黒人がいろいろな地位に任命されたのである。 そして、彼等は団結していった。  全米有色人種向上協会 ( National Association for the Advancement of Colored People ) の支部が南部一帯に、 特に、都市域に設立された。 このNAACPは、有色人種たちに、有権者登録をし、 人種差別が実際に有ったら抗議の訴訟を起すよう勧めた。  そのような訴訟の一例として、ヒューストンに住む黒人歯科医のラニー・スミス ( Lonnie Smith ) による、 テキサス州の白人のみによる予備選挙法に対する訴えがある。 南部諸州の憲法は黒人をあからさまに差別する事は出来なかったが、 政治政党にはそれができた。 その理屈は、政治政党は私的なクラブであるから、彼等が選んだ人達だけを会員にし、 クラブ活動に参加させても良いと言うものだった。  民主党の予備選挙はそういう活動の一つだから、参加は白人に限って良いと言うのである。  スミスは予備選挙は公的な選挙であり、私的な活動ではないとして、このような解釈に異議を唱えた。  1944年、米国最高裁判所はこのスミス対オールライト ( Allwright ) 事件について、スミスの異議を擁護する側に立ち、 このため、南部での白人優先権主義の主要な政治の砦の一つが陥ちたのであった。

 1944年に至るまで、南部民主党の政治家たちは民主党主流派がリベラルな方向に動いているのを危惧していた。  すでに1936年に彼等の不安は的中した。  サウスカロライナ州選出上院議員のコットン・エドことエリソン・D・スミス ( Ellison D."Cotton Ed" Smith ) が 民主党の大統領指名全国大会場に入っていった時、彼は黒人の牧師が開会の祈祷を捧げているのを目にして、 「 なんと言うことだ、彼は闇を溶かしたように真っ黒だ! 」 と叫んだのである。  その少し後、今度は一人の黒人の下院議員が演壇に立つに及んで、 コットン・エド氏*236 はもうたまらなくなって、サウスカロライナに帰ってしまった。  スミス氏とその同僚達にとっては、これは民主党主流派の体質が大きく変わりつつあるという驚くべき新体験だった。  次に来たのが米国の第二次大戦参戦であり、 雇用公正化委員会 ( Fair Employment Practices Committee ) と兵役中の黒人の不在投票とに対する大統領の支持だった。  不満で一杯のある南部民主党のリーダーは、1943年に、南部を旅行中の雑誌フォーチュンの記者に向って、 「 もし共和党が白人優先権主義の一件を支持しさえすれば、南部を独り占めにすることができる 」 と告げた。  民主党に忠誠を尽す事が神様に対する忠実さと同じくらい大切なことと考えられていたこの地域にとって、 これは驚くべき発言であった。

 1944年の大統領選挙は、南部が民主党一枚岩であった20世紀で最後の選挙だった。  民主党主流派が、現在では主流となっている北部派の政治的色彩を取り始めるにつれ、分裂は不可避となった。  1948年の大統領指名全国大会で、党本部がトルーマン大統領*237 の公民権についての公約を取り下げることを拒否したことに対し、 南部の代議員たちは退場して州権党 ( States' Rights party ) を結成し、 ( 彼等は 「 ディクシークラット 」 ( "Dixiecrats" )*238 と言う名の方が通りが良かったようだが ) サウスカロライナ州知事のストロム・サーモンド*239 を大統領候補に、 またミシシッピ州のフィールディング・ライト ( Fielding Wright ) を副大統領候補に指名した。  しかし全国総選挙ではこの公認候補者名簿は人気が出ず、トルーマンの再選を阻止する企ては失敗し、 たった4つの南部の州、すなわちサウスカロライナ、ミシシッピ、アラバマ、ルイジアナで勝っただけだった。  この4つの州だけが民主党の紋章をつけてディクシークラットの名簿を作っていた事は偶然の一致かどうか分からない。  しかしこのエピソードは、白人優先権主義について挑戦を受けたとき、南部民主党がここまで極端に走ったと言うことを反映している。

 Dixiecrats の動きは、民主党主流派の政策への答であっただけでなく、南部内で起こった政治的出来事への回答でもあった。  第二次大戦をきっかけとして、南部へのあるいは南部からの転居、移動が起こった。 ほとんどの移動が、 農場から都市へという形で起こり、その都市には防衛産業や訓練基地が出来た。  黒人も白人も、何万もの南部人が閉鎖的地域社会のヴェールを破って外に出、米国の他の部分だけでなく世界の他の部分にも触れた。  彼等は家に帰ると、もう今まで通りの物事には満足できなかった。 彼等は新しい考えや新しい政治姿勢に対し心を開いた。  南部的政治の新風と形容されるようなものが、戦争直後の数年間にこの地方を席巻した。  ジョージャ州知事エリス・アーナル ( Ellis Arnall ) とか、 アーカンソ州知事のシド・マクマス ( Sid Macmath ) などの新しい型の州政治のリーダーたちが現れたが、 彼等は南部の暗黒のイメージとその現実との両方に悩まされた。  これらの政治リーダーたちは、トルーマン大統領の政府が遭遇したよりもさらに厳しい挑戦を、 郡の司法立法行政府の連中から受けたのだった。 これら新しいグループには、白人優先権主義にはほとんど関心は無く、 産業の誘致と経済の発展に全精力を集中した若い都市部の人達が含まれていた。

 彼等よりさらに不気味だったのは、黒人の政治抗議、政治力の勃興だった。 1950年代の半ばまでには、 南部の黒人と言えばまず都市部の住人だった。 田舎の白人使用者と政治リーダーたちから解放された彼等は、 黒人有権者連盟 ( Negro Voter's League ) に加入して種々の障害を乗り越えて有権者としての登録をし始めた。  1940年代後半までには、黒人有権者はアトランタ、リッチモンド、モントゴメリなどの南部の多くの都市で影響力を持つに至った*240。

 南部の保守的政治リーダーたちは、黒人の政治力に恐れを抱く気持ちにつけ込んで反抗を試みた。  彼等は1954年に至るまで、南北戦争直後の再編入*84 時代に黒人が主導権を取った頃の悪夢を思い出しながら、 トルーマン大統領府が公民権立法化を求める動き、 白人優先権主義を殺ぎ落とし遂に1954年のブラウン判決 ( Brown ruling )*78 に至った各地の裁判所の決定、 国内の共産主義者に対する不安などを利用し、自分たちの権力を取り戻そうと図った。  彼等は進歩的な政治家たちを追い落とし、白人有権者をもう一度団結させ、 必要なら力ずくででも黒人達を投票の過程から除外しようと動き回った*241。  これら政治家たちの民主党主流派への離反と、彼等の共和党に向けての憎しみとが一緒に起った。  結局アイゼンハウアー大統領*242 は渋々ブラウン判決に同意し、 南北戦争後始めて連邦政府軍を南部 ( リトルロック、1957年 ) に送り込み*78 、 南北戦争後の再編入*84 時代以降初めてという二つの公民権法案の通過に支持を与えた。  これに対し南部の政治家たちは、南北戦争直前の時代に昔取った立場、すなわち、地元では群衆に抵抗させ、 ワシントンでは議事進行妨害をすると言う戦術を採った*242A 。

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訳者注

 本章全体に関して:最初、お読みになると、頭の中が混乱しませんか?  最近の大統領選挙でも、 共和党が保守的で南部、農村、熱心なキリスト教などが地盤、これに対し、民主党が都市住民、労組、 黒人などをバックに北部や西部で強く、リベラルということになっています ( どっちも大差ないと考える人もいるでしょうが )。  しかし、共和党は元来、北軍のリンカーンの党でした。 南部では嫌われ、無視されていました。  これに対し、南部の民主党は白人優先権主義、黒人差別の党でした。  それが、20世紀後半に、本章 ( 下 ) で解説されているようなゴールドウォーター上院議員の大仕事により、1984年以降、 南部を中心に 「 逆転劇 」 が起って、今の状況になったのです。 このことは、 下記の *234 の記述と共に、存外知られていないようです。

@:メンケンの一斉攻撃 ( 口撃? ) の典型:『 南部は、その広さと、その富と、 彼等が何か訳の分からないことを言っている 「 進歩 」 と称するものとをすべて持ってきても、 芸術の面でも知性の面でも文化の面でもサハラ砂漠と同じくらい不毛である 』
*219 ここで政治組織 ( Political machine ) と言っているのは日本流に言うと、 色々な層の人達からなる後援会+地域派閥のようなものである。普通は大都市にだけあるというのが日本とは違う
*220 Barnwell は地域の名。ring は一般にはグループの事
*221ロバート・ペン・ワレンは米国の作家、教育者、桂冠詩人 (1905-1989)
*222 stump speaker とは、昔米国の開拓地で、木の切り株 ( stump ) の上に立って民衆に演説した事から、野外選挙演説、 辻説法をする人の事
*223 pitch forkとは干し草を車に積んだりするときに用いる長い柄のフォーク。 このあだ名が連想させるものは農場主、敵にジャブを与える人、など
*224 MaとPaは別に女と男が一人ずつというわけでなく、兄弟、従兄弟のような二人組
*225 黒人の”家を訪ねる”( "visit") はKKKの用語で、訪ねて怯えさせること
*226 有害動物”とはトラブルを起す人の事
*227 「 キスをするジム 」 とは候補者として聴衆の抱いてる赤ん坊に誰彼と無くキスして愛想を振り撒いたから
*228 「 みんな誰でも王様だ 」 は皆さん ( ただし白人 ) を王様のようにしてあげますと公約したから。 ヒューイ・ロングはマフィアとの関係がこじれて彼等に暗殺された
*229 南部民主党についてはこのあとに説明が出てくる。この時点では民主党内の一派閥
*230 フランクリン・ルーズヴェルト (1882-1945) は32代大統領 (1933-1945) 、 昭和初期の大恐慌をニューディール政策で乗り切った。第二次大戦を勝利に導いた大統領でもある
*231 ウッドロウ・ウイルソン (1856-1924) は28代大統領 (1913-1921) で国際連盟を提唱しノーベル平和賞を受けている
*232 アルファベット機関とは、たとえばニューディール時代の事業の模範とされるテネシ州のTVA ( Tennessee Valley Authority ) ダム開発事業のようなアルファベット略称で呼ばれるものを指す
*233 各州の大統領選挙人の数は国勢調査による州人口に基き10年に一度改正される
*234 民主党はトルーマン系のフェアディール派、 ケネディのニュー・フロンティア政策を受け継ぐ主として北部大都市に地盤をもつ主流派、そして南部民主党の3大派閥から成っている。 主流派と南部民主党の対立は公民権問題などをめぐっては当時はもちろん、今でも民主、共和両党間の対立よりはるかに激しい事は、 日本人には意外に知られていない
*235 進歩的なニューディールの諸計画の実施の中では、人種差別など少なかったろうと日本人は思いがちだが、 南部では、白人の住む地域に公益施設を作る、ダムを作る場所は黒人の住んで居たところで彼等は立ち退かされる、 工事は白人の企業に発注する、労務者も白人失業者を雇う、など多くの差別が横行したといわれる
*236 あだ名:綿花のエド
*237 Harry S.Truman (1884-1972) は33代大統領 (1945-1953) で民主党出身
*238 Dixiecrats とは、Dixieland ( 南部 ) の前半と Democrats ( 民主党員 ) の後半を結び付けた造語で、 この分派の人達を指す
*239 Strom Thurmondについては第一章の漫画とその説明を参照。彼はその後今度は共和党に移り、 最近、100才近くで辞めるまで現役の、全米最高齢の連邦上院議員であった
*240 黒人有権者登録率:1940年3.1%、1966年51.6%、1970年及び1980年66.9%:*251参照
*241 白人の反動攻勢(white backlash)と言う
*242 Dwight David Eisenhower (1890-1969)は第二次大戦当時の米国陸軍元帥、戦後共和党から34代大統領(1953-1956) になる
*242A ケネディ大統領が原案を議会に提出してから8ケ月目に下院を通過したが、 上院では500にのぼる修正案が提出されされ、南部の議員による記録的な議事妨害のための長時間演説 ( filibuster ) が行われ、 暗殺されたケネディの後をうけたジョンソン大統領が署名し正式に連邦の法律になったのは結局1年後の事であった
  

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