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南部で生活するのも悪くないものだ。 給料は他の地域よりちょっぴり低いかもしれないが、それを補うものは十分にある。
補うものとは南部のライフスタイルだ。 豊かな景観の郊外のサブディヴィジョン*262、山岳地帯や海岸に近いこと、
温湿度が良く調整された新しいビルの快適さ、真新しいショッピングモール*263 などである。 テンポはややのんびりしており、
モールの売り子はお客一人あたり少し余計時間をかけるが、銀行の窓口係はあなたの姓だけでなく名前まで知っている。
近所のスタンドの機械工に貴方の車を直してもらっても、まだ次の週の末まで食って行けるだけの金が残る*264。
これがサンベルトってもんだよ、あんたがた*265。 経済的に繁栄したのに、ここではまだ礼儀というものがすたれていない。
実際、交通渋滞はひどいし汚染も進んできているし、
甘い音楽みたいな南部の会話の中に気短かな調子が入り込んで来る事も時にはあるが、でも、あるフロリダ人が言ったように、
「 ペラグラ*266 なんて昔の話よ。 今はよっぽどましだよ 」 である。
1960年以降に南部に移ってきたか、それ以降に南部で生まれたか ( 統計によるとこういう人が過半数だが ) した人々にとり、
丁度半世紀前には、連邦政府が、南部は米国で 「 最大の経済問題だ 」 と言った*266A ことなど、理解出来ないだろう。
どうやって、また何故、こういう変貌が起ったのか?
何時になっても醜かったアヒルの子は、どうやって優雅で自信たっぷりな白鳥に変身できたのだろうか?
農業の遺産
南部についてのほとんどの質問と同じ様に、この答えもこの地域の歴史の中に見付かる。 南北戦争前の数十年、
南部は極めて豊かな土地であった。 綿花は王様であり、それを栽培していた南部白人にとっては、慈悲深い領主さまのようなものだった。
ミシシッピ川三角洲地帯のような所に住む綿花と言う名の王様の家来たちが持つことのできる家、家具、旅行、
浪費的な娯楽などを真似られるのはニューヨークの百万長者の商人様くらいなものだった。
米、タバコ、砂糖などで生計を立てている人たちも、南部の気候と土壌のお陰で羽振りは良かった。
米のほうの最大の富豪は、サウスカロライナ州のコンバヘ川流域に1600人の奴隷を持っていたナサニエル・ヘイワード ( Nathaniel Heyward ) だった。
1851年彼が死んだときの財産は約250万ドルもあった*267。
実は、農業だけが旧き南部で唯一の儲かる商売ではなかった。 ウィリアム・グレッグ ( William Gregg ) が興した、
サウスカロライナ州グラニットヴィルの綿紡工場、リッチモンドのR.アンダソン ( R.Anderson ) 所有のトリデガー ( Tredegar ) 鉄工所などは、
他のどの土地に持っていっても卓越した企業たり得たであろう。
ただ、農業に従事している人達のすべてがプランテーション所有者か奴隷かのどちらかだったとは言えない。
サウスカロライナ州の農民の大多数は、実は一人も奴隷を持っていなかったのだ。
彼等は綿花やタバコや他の穀物を少しばかり耕作し、家畜の世話をしていた程度だ。
しかし、旧き南部を豊かにしたのは何と言ってもプランテーションであった。
とくに、1850年以降地域的な論争*268 が過熱してくると、南部人たちを悩ませた経済問題が幾つか生じた。
彼等は豊かだったのだが融資、運送、流通などは北部に頼っていたのだ。
この依存性を直そうとする気配がほとんど無いように思えたのも心配の種だった。
投資は引き続き土地と奴隷に対し行われ、造船、鉄道建設、工業に対しては行なわれなかった。
南部も1850年代になると色々な方面に投資をし始めたが、
すぐに南北戦争が起って この地域の経済の基盤の薄弱さは、さらに強まってしまった。
北部は米国の産業の90%を抑え、南部より2倍も鉄道距離を持っていた。
1863年後半頃には、南軍の経済は絶望的になってしまっていた。 あるノースカロライナの人が兄弟の兵士にむかって、
「 北の向こう側に行けば一杯なんでも有るぞ。 こんな馬一頭きりで、裸足で、着るものも無く、
飢えに襲われている南軍になどいるな 」 と忠告したという。 少なくとも数字の上では勝負にもならないこの時期において、
南部が動員をかけ、4年もの長きにわたり戦争を続けられたというのは、驚くべきことであった。
しかし、南北戦争は南部の前途に立ち塞がる数十年に亘る貧困ののほんの序曲に過ぎなかった。
南部の土地は荒廃した。 只の紙切れになってしまった通貨は、南部経済を混沌の中に突き落とした。
線路は破壊され、奴隷は解放されてプランテーションに残った。 北部の役人は綿花の梱を数え切れないほど持ち去ってしまった。
現金欲しさの余り、南部人たちは彼等の古い最も大切な作物である綿花の栽培に極端に戻っていった。
1860年には南部は3.8百万梱の綿花を産出したのに対し、1900年には殆ど8.5百万梱に達した。
タバコ栽培もまた1900年までには倍増し、新しい栽培地が広がっていった。
この莫大な綿花生産を維持するために、新たな労働力調達法が出現した。
解放された奴隷たちは、ほとんどが分益小作人* 7 になり、
小作人が収穫した作物の分け前 ( 通常半分 ) と引き替えに地主から慣例として住宅や燃料を提供してもらうという契約を毎年結んだ。
しかし、彼等分益小作人たちは、地主たちが彼等の分け前の作物を売却した後に、はじめて支払いを受けられるわけで、
では一体それまでの期間どうやって生きて行けばよいのだろう?
答えは借金である。 各地の商人は商店 ( 大地主がその所有者であるという場合が多かった ) をこしらえ、
小作人が作物を売ったらその金で支払うという約束と引き替えに食料、種子、その他の必需品を供給した。
精算は収穫期におこなわれるが、需要と供給の法則はいつも小作人に不利に働くのであった。
南部の多くの地域では、綿花だけが間違いなく現金になる作物であったので、小作人たちはその土地のほとんどを綿花の耕作に充てた。
たちまち供給が需要を上回り、値下がりをカバーしようと農夫たちはさらに綿花の作付けを増やしたので、
またもや値下がりが起こり、これが更に綿花生産を増大させるという悪循環に陥った。
1890年頃には、分益小作人たちは 「 綿花は5セント/肉は40セント / 畜生、
貧乏人はどうやって食えば良いんだ 」 という悲しい歌を繰り返し口ずさむのだった。
この結果、分益小作人たちは借金から抜け出せなくなり、気がついて見たらピアネジュ*267 つまり借金の奴隷にになっていた。
つまり奴隷制度は結果として姿を変えただけであった。
彼等債務者の多くは文盲だったから、商人の一部は勘定をごまかす事によりこのプロセスを促進した。
この貧困状況に嵌まり込んだのは黒人たちだけではなかった。 多くの白人農民も商人に借金し、分益小作人になり下がって行った。
綿花という名の王様は暴君と化したのである。
綿花王の家来たちの生活は苦しくなる一方だった。 田舎に孤立して住み、社会的サービスは殆ど受けられず、
労働を楽にしてくれる機械類も殆ど無く、夏は恐ろしく暑く、毎日の食料は不十分だった。
サウスカロライナ州の作家ジョン・アンドルー・ライス ( John Andrew Rice ) は、
1900年頃14歳の時の苦しい綿摘みの体験を回想して、「 我慢の限界とも言える辛い仕事に加え、
一年で一番酷い9月のまっただなかにいた。 食料は底をつき始めていた。
豚肉はもう腐ってたし、キャベツは太陽の熱で焼けて駄目になっていた。 コラード*268はまだ霜に触れて甘くなっていないし、
蕪は味わいがなく、インゲン豆はさやの中でカラカラ音を立てていた*269。 この時節は赤痢の季節でもあった。
高温で疲れた体はとてもだるく、
生きて行くために必要な仕事をしようとベッドから足を引き摺って下りることもほとんど出来ない有様だった 」 と記している。
分益小作人は、黒人も白人も三つのMを食べて生活していた。 すなわち、Meat ( 肉、ただしファットバック*270 )、
Meal ( 粗挽きの穀物、つまりとうもろこしパンなど ) および Molasses ( 糖蜜、ただし、
ソルガム ( さとうもろこし ) から作ったシロップ ) である。彼等は滅多に医者にかかれず、
マラリヤ、十二指腸虫、および/又はペラグラ*265 に罹っていた。 出産は産婆により行われ、嬰児死亡率は高かった。
彼等の大部分は文盲で、水道配管も無く、しばしば窓ガラスさえも無い安物の羽目板貼りの小屋に住んでいた。
これらの家には屋外便所すらないものも多かった。
選ぶ道は工業化
南部のリーダーたちの中には、もし彼等のしたいようにやらせて貰えれば、
分益小作人という悪循環に代わるものが----少なくとも白人たちにとっては----ある筈だと確信している人達がいた。
アトランタに住むジャーナリスト、ヘンリー・W・グレイディ*271 は、南北戦争後、南部や北部を講演して回って、
彼が目にしたある北ジョージャの葬式の話をして聴衆を喜こばせるのが好きだった。
棺も、霊柩車も、それを挽くらば*19 も、墓を掘るシャベルも大理石の墓石も、そして牧師の持つ聖書や遺骸にかける布も、
すべてが南部以外で作られたものだったのだ。 死骸と墓穴だけが南部製だった。
グレイディが言いたかったのは 「 我々が自らを救うためには工業化に向かうしかない 」 という点だった。
しかし治療したらかえって病気が悪化すると言う事もある。 南部のメキシコ湾沿岸地方で始まった初期の開発の一つに、
1880年代、州政府が現金欲しさに広大な森林地帯や鉱区を外部の投機家に二束三文で売ってしまったと言うことがある。
広大な土地の売却はメキシコ湾沿いに木材生産ブームをもたらし、
ある州政府の森林専門家が「歴史上恐らく最も急速で最も無謀な森林破壊である」と言ったほどであった。
バーミングハムでは、ヘンリー・デ・バーデレーベン ( Henry De Bardeleben ) がこの都市の製鉄企業を1880年代に獲得し
「 私は鷲だ。 幾らでも食えるだけざりがにを食い尽くす。 小さい奴はみんな呑み込む 」 と豪語した。
デ・バーデレーベンはしかし直ぐに鉄道王ジョン・H・インマンに呑み込まれ、
インマンは次ぎに1907年にJ・P・モーガン ( J.P.Morgan )*272 に呑み込まれてしまった。
土着の産業がもう一つ北部のものになってしまった。
もう一人の南部の企業家ジェームス・B・デューク ( James B.Duke )*273 は自問自答した挙げ句、
「 ジョン・D・ロックフェラー ( John D.Rockfeller )*274 が石油についてやっていることを自分がタバコについてやっていけない理由が有ろうか 」 というわけで、
競争相手を次々に潰し、1890年には彼の所有株式を注ぎ込んでアメリカ・タバコ株式会社を作った。
彼は本部をニューヨーク市に移し、世界のタバコ製造業界での高い占有率を獲得する仕事にとりかかった。
南部の企業がすべて最後には北部の手に落ちたり北部に本拠を移したりしたという訳でもない。
1900年までにアトランタに本拠を置くコカコーラ株式会社はその 「 爽やかに美味しい 」 飲料を37万ガロン*275 以上も売っており、
「 強壮剤 」 として売り込んでいた----これは本当かどうか分からないが、少量のコカインが含まれているとかで、
確かな主張とも言え、それがため、20世紀初頭のニックネームは 「 ドープ 」 ( dope )*276 だった。
10年後には、このエイサ・チャンドラー*277 ( Asa Chandler ) の会社は年間600万ガロン*275 ほどもの売り上げを示し,
一部は外国にまで輸出した。
同じ頃ナッシュヴィルでは都合の良い名前を持った*277A ジョエル・O・チーク ( Joel O.Cheek ) がコーヒー豆で実験をしていた。
当時は消費者はある一つの等級の豆を買い、自宅でそれを挽く習慣だった。
彼のアイディアは色々な等級の豆を混ぜて挽いて売ろうと言うものだった。
彼の挽きたてブレンドのコーヒーは美味しかったが高かったので、
彼はこの新製品をナッシュヴィル市の最高のホテルのマクスウェルハウス ( Maxwell House ) で使ってもらうように頼んだ。
交換条件として、彼はレッテルにホテルの名前を書いた。
1907年、セオドア・ルーズヴェルト大統領がマクスウェルハウスを訪れ、チークほかの業界のリーダーたちと食事をした。
大統領はコーヒーを飲み終わった時、同席者の方を向いてこのコーヒーは 「 最後の一滴まで美味しい 」*278 と述べた。
というわけで、この有名なコーヒーと、記念すべき宣伝文句とが生まれたのだった。
南部の経済的社会的影響力の点で、南部地元産業のうち最も重要なのは繊維産業であろう。
地元に栽培されている綿花、農場でどん底の生活をしていた安価な労働力、
使ってもらえるのを待っていた水力発電の電力などを考えれば、繊維産業こそ南部に当然生まれるべき企業だった。
リッチモンドから南・北カロライナ州とジョージャ州北部を通り、
バーミングハム市のちょっと南で終わるあのピドモント ( Piedmont ) 地帯*113 では綿花、労働力、電力は直ぐに手に入った。
今世紀の始まる頃までには、この地域は全米綿織物生産量の半分以上を生産するに至った。
紡績村*116 がピドモント地帯一帯に続出して、金に困り自分の土地もろくに持っていない農民たちに仕事を与えた。
紡績村が栄えてくると、南部人の中に二つの新しい階級が生まれた。 工員と工場主である。
1900年までには自給自足的共同社会の中にこの二つの階級が確立した。
両階級の大部分は税金、町の統制、労働者に対する街の誘惑などを避けて、町の区画の外側に住んだ。
労働日数は多く、時間給は安く、また工場内の環境は夏は蒸し暑く、冬は湿った底冷えで不健康だった。
しかしだからと言って農場に出てみてもマシな事は無かった。
とにかく、紡績工場には10才の子供まで含めて、一家全部に金をくれる職があったし、労働者は共同社会の連帯感を持つこともできた。
だからと言って彼等が綿紡工場の生活に不満がなかった訳ではない。
その白人労働者たちが従順だったというのは、南部の偉大な神話*278A の一つであった。
実は、1920年代30年代には殺気立ったストライキが沢山有ったし、時折サボタージュ*278B もあった。 にも拘らず、
南部の綿紡工場に組合が侵入してくることは少なかった。 工場主は労働者の組織化を防ぐべく共同社会のための諸施設を整備したし、
労働者自身も労働力が余っている現実や支配階級に仕返しをされたときの農場に戻っての生活がどんなものかを良くわきまえていた。
奴等が俺たちに貧困救済計画とかいうのをよくやった頃の事を忘れるなよ
訳注: トラックには核廃棄物と書いてあり、これを南部の山奥に捨てにきた。 洗濯物を軒下に干したり、
タイヤも無いポンコツ自動車も捨てずに物置か何かに使ったり、子供にはツギの当たった洋服を着せたりしているので、
南部の山奥に住む典型的貧困白人の一家と分かる。 彼等は北部人ヤンキーのやることには本能的な反感と警戒心を持っている
1946年に産業別組合会議 ( CIO *187 ) が 「 ディクシー作戦 *47 」 を始めたとき、
或る牧師は会衆に向かってCIOとは "Christ Is Out." *278C の略だと注意を与た。
会社や地元の商工会議所も”CIO”と書いたカーペットバッグを抱え*279、
「 俺はあんたら出来損ない共を組織化しようと北から来たんだ 」 と言っている黒色人種の顔付きの人の漫画を配った。
反対派が組合オルグを共産主義者と同一視するやり方は通常成功した。
1960年頃になると南部のゴム産業労働者の81%が組合に属していたのに、
同じ地域の繊維労働者は14%しか組織化されていなかった。
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訳者注
*261 この章の題は Uncle Sam's Other Province である。
アンクルサム ( Uncle Sam ) とは米国、米国人の異称。 南部は、南北戦争の後遺症で他の地域からは米国の一部とは思われておらず、
無意識の内に 「 罰せられている 」 という感じがある。 Province ( 州 ) という言葉は、カナダや豪州では用いられるが、
米国では使わず、State という。 そういう単語を使ったのもそのためであろう。
従って本章の題意は 「 米国の中の異国 」、或いは敢えて言えば 「 米国番外地 」 とでもいう感じか
*262 subdivision とは、周りを垣根などで囲み、洒落た名前を付けた中〜高級住宅専用区域の事。 旧い都市にはこういう形は無い。
したがって新しい南部の都市に多いが、南部以外の地域でも最近開発された住宅地には有るらしい
*263 Mall とはデパート、多くの専門店などが集まったショッピングセンター
*264 その週の末までというのは、米国の労働者は一般に週給で金曜日に給与を貰うので、
土曜日に下手に高い自動車修理などすると次の週の食費に不足が生じてしまう事。
米国庶民は日本人のようには貯金を持っていない事、南部では修理が安い事などを頭に置くと理解できる
*265 This is the Sunbelt, y'all. の y'all ( ヨールと発音 ) とは、まさに南部弁を代表する独特の方言で、
複数の相手への呼び掛けである。 この部分だけはわざと南部訛の口語で書いてあるので、それらしく 「 あんたがた 」 と訳してみた。
「 おめえ様がた 」 と言ったら、更に良いか?
*266 ペラグラとはもとはイタリアその他南欧地域の風土病だが、米国南部でも最近まで風土病の一つであり、
南部を連想させる病気の一つ。 ビタミンBの一種ニコチン酸類の欠乏により起こり、手足の甲、
顔などが赤くなり水膨れができ皮が剥け黒味を帯びる。 下痢、頭痛、痙攣も伴う。 トウモロコシばかり食べていると罹りやすい
*266A 第一章参照。F.ルーズヴェルト大統領の言葉
*267 この当時の250万ドルは今の250万ドルとは全く桁違いの値打ちの大金であったことに注意
*268 南北戦争の原因になる南北間の論争
*267 peonage とは、借金を返させるために人の身柄を拘束する制度
*268 コラードとは米国南部に栽培されるキャベツの一種。 霜に触れる前はにがい
*269 インゲン豆は本当は未熟の柔らかいのを食べたい
*270 fatback とは豚の脇腹の上のほうの脂身で普通は塩漬けにされ野菜を煮る時ダシを取るためなどに使う。 貧民の調味料
*271 グレイディのことは第4章第4節を参照
*272 John Pierpont Morgan (1837-1913) 有名な金融業者で慈善家。日本ではモルガン ( 財閥 ) と発音されている
*273 彼 (1856-1925) は兄弟の B.N.Duke とともに米国のタバコ産業の大立者だった
*274 ロックフェラー (1839-1937) は行商人の子としてニューヨークに生まれ一代にしてロックフェラー財閥を築いた石油王、慈善家。
群小石油精製業者を次々と買収し石油業の独占を達成し 「 トラスト 」 の形態を始めて作り出した。
当時個人として世界一の富豪と言われ晩年は教育、医学などに大規模な慈善活動を行った
*275 1ガロンは3.7854リットルだから、それぞれ約140万立方メートル、2,270万立方メートルにあたる
*276 ドープとは麻薬、興奮剤といった意味
*277 チャンドラーはコカコーラ社の当時の社長。 同社の創設は1886年、アトランタの薬剤師ジョン・ペンバートンによる
*277A Cheek と言う彼の名は 「 厚かましい、強引な 」 と言う意味の単語で、
彼の性格と行動を良く現しているので 「 都合の良い名前 」 と言っている
*278 マクスウェルコーヒーの宣伝キャッチフレーズ "good to the last drop" は、TV、ラジオで流され、
それにレッテルにも印刷され今も使われている
*278A 神話とは昔から言われている話だが本当とは限らないという意味で使っている
*278B ストライキは組織的で指導者がいる。 サボタージュは個人的な未組織の抵抗による怠業
*278C 反キリスト教的だ、クリスチャンの組織ではないという意味
*279 *1 のカーペットバッガーの説明参照。
彼等は北から南部人を騙し絞りとるために来たのだというイメージを持っているので、組合設立阻止の為に使った