南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第六章 南部の政治


ショウタイムからビッグタイムへ *196 ( 上 )

* デイヴィド・R・ゴールドフィールド ( David R.Goldfield ) *


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 ジョージ・ブッシュ副大統領*196A は、ノースカロライナ州ロッキーマウント市*197 の好意に満ちた群衆に愛想を振りまいていた。  生徒たちは小さな国旗を振り、彼が演壇に上がろうとすると喚声を上げた。  州選出の共和党の連邦上員議員ジェシー・ヘルムズ ( Jesse Helms ) と、 共和党から選ばれた州知事ジム・マーティン ( Jim Martin ) の両氏を脇に従えていた。  それは、登録された党員の数においては民主党の方が共和党よりほぼ倍も多いこの州に在るこの市としては、 全くもって暖かい歓迎であった。  ブッシュ氏の大統領選挙戦を指揮していたサウスカロライナ州出身のリー・アトウォーター ( Lee Atwater ) 氏が、 季節外れに薄ら寒いその日、灰色の空を気遣わしげに見上げたのは、1988年の9月初旬のある午後のことであった。  お天気の事くらいしか、アトウォーター氏の心配の種はなかった。 登録党員数の多寡なんて問題ではない。  彼は好意で一杯のこの地域に今、いるのだ。  実際、今度の訪問は、ブッシュ副大統領が選挙戦中に南部地区を訪問する数少ない機会の一つとなるだろう。  10月上旬以降は、彼が南部に来ることは多分もう無いだろう。*198

 なぜ彼はもう来ないのか? 1980年代までに南部は共和党の大統領の金城湯池になってしまっていた。  だから、ブッシュ氏のエネルギーは、米国内の他のもっと競争の激しい地域で使うのが得策だ。  ある意味ではブッシュ氏は、南部では選挙戦を軽く済ますと言う共和党の大統領選挙の長い間の伝統を実行していたとも言える。  しかし、1950年代以前の共和党の大統領候補たちにとっては、 南部は一般的に票田として期待出来なかったから行かなかったのに対し、ジョージ・ブッシュ氏に至っては、 この地域はもう頂きだと勘定してしまっているから来ないのだ。 一世代も経たないうちに、いわゆるソリッド・サウス*199 は、 まったく本当に堅い地盤になっていたのだ。 「 細かい点で 」 変わったことと言えば、どちらの政党が主導権を持っているかという点だ。  米国政治史の中で、もっとも有名なエピソードの一つと言われるこの変化は、 1950年代以降の南部政治の大きな変身の一部に過ぎない。
               
旧き南部のルーツ

 シャーロット市のジャーナリストW・C・キャッシュ ( W.C.Cash ) 氏は、 南部を分析した彼の古典的論文 「 南部の心 」( The Mind of the South ( 1941 ) ) の中で、 「 20世紀の南部の根っこは旧き南部に在る 」 と書いている。これと同じ事が、現代の南部の政治についても言える。  この共和国の初期に、南部がリーダーシップをとってこの国を良く指導した時ほどに或る地域が全国的に感謝された事など、 他にほとんど例はないだろう。 ワシントン、ジェファソン、マジソン、マーシャル、モンロウ、 など*200 の業績はもちろん有名である。 しかし、サウスカロライナ州のチャールズ・C・ピンクニー ( Charles C. Pinckney ), ヴァージニア州のジョージ・メイスン ( George Mason )*186 なども全国的な尊敬と権力とをかち得ていた。

 しかし1830年代までに、全国的な政治競争の場で南部は衰退期に入ってしまった。 確かに、 それでもまだサウスカロライナ州のジョン・C・カルフーン *16 とか、 ケンタッキ州のヘンリー・クレイ*202 とかいう、誇るべき大物を世に出した。  しかし、南部の統率力は量、質ともに衰え始めていた。  恐らく、ジャクソン型の政治*203 が紳士的な指導者たちを政治の場から遠ざけてしまったのだろう。  昔は政治家は選良であり執務室に座って良い政治に取り組んだが、今や彼等は政治屋と化し、キャンペーンのために走り回っている。  この南部の衰退は、それまで競争者がいなかったという南部の幸運に対して、 米国の他の地方からも指導者が現れるという平均化の法則*204 が働いたというだけのことであろう。  とは言え、最大の原因は奴隷制度だった。 この問題は南部とそのリーダーたちを消耗させた。  この弁護の余地もない制度を守ろうとする事にのみ、彼等のエネルギーが費やされた。  彼等の声は年々次第にかん高くなり、不適切になって行った。  奴隷制度反対の新しい州が合衆国に加わる度に、国会における南部の勢力は衰えていった。  1831年には、早くも、あのカルフーンが 「 南部は孤立した希望の持てない少数派だ 」 とこぼす始末だった。

 奴隷制度は国を真っ二つに割っただけでなく、政党の組織をも分断してしまった。  1860年までには、残った最後の大型全国的政党だった民主党が二つに割れた。  その5年ほど前に誕生した新しい政党が共和党であるが、これは地域的な政党で、 支持者のほとんどすべてはメイソン−ディクソン線*205 の北側にいた。 これに加えて、確固たる反奴隷制度の政党であった。  1860年の選挙で共和党が圧勝するや、南部はこの結果を甘受出来ず、合衆国脱退*206 と南北戦争とが起っていった。
          
過去を呼び戻そうとする排他の政治

 南北戦争の間は、南部の政治家は紳士協定を設けて、統合による利益を目指すような政党の結成をしなかった。  そこで南部では政党は消滅したが、派閥根性は猛威を振い、南部中央政府の威令が妨げられる事が多かった。  南部の統治の特徴であった絶え間ない口論を抑えられるような強力な指導者はいなかった。  有能な人たちは戦場に行って栄光を追い求めるようになり、立法府での栄光を追い求めることはしなくなった。

 戦後の再建期には南部で共和党が短期間優勢を示したが、これは、連邦政府の武力、新たに参政権を与えられたフリードマン*207、 白人ユニオニスト*208 などの力の上に立った優勢であった。 しかし、共和党の成功は短命であった。 白人たちの間に不満が蔓延し、 ワシントン政府の混乱や、米国内の他の地域からの無関心が強まった結果、政治的反対勢力が力を得た。  暴動民たちは保守党 ( Conservative ) とか救民党 ( Redeemers ) とか色々の名前で呼ばれたが、彼等はほとんどが民主党であった。  そして、南部白人たちが彼等の州や地方をシャーマン将軍*140 の党から救ってくれる救いの神と思ったのは、民主党だったのである。

 しかし、南部白人たちは決して統一された集団ではなかった。 旧き南部には尖鋭で、時には敵意に満ちた地域別集団が州内に存在した。  また奴隷所有者と非所有者との衝突、都市と田舎との利害対立などが在った*209。  南北戦争はこれらのいさかいに一応蓋をした ( すべてというわけには行かず、 山岳地域の人達は相変わらずユニオン*208 に忠誠を誓っていた ) が、戦後になるとこのいさかいは再び表面に出てきた。  白人間の抗争の最も顕著な例はポピュリスト運動 *17 である。 これは1880年代に勃興してきたもので、 1890年代初頭には ( 時々共和党と提携したりもして ) ある程度の成功を収めた。 ポピュリストに先ず引き付けられたのは、 小作人、分益小作人*7、零細地主など、商人や鉄道などに搾取された人達であったし、プランテーション所有者もこの運動に参加した。

 民主党はポピュリストの政策のうちの穏健な部分を幾つか採用したり----少なくとも採用するフリをしたりして---- 自分の最強部分に深傷を負うことは上手に避けた。 1896年以降の南部の一般的繁栄も、 差し迫った経済的課題の危機化を未然に防いだ。  最後に、そして最も重要なことには、 民主党は政治のプロセスから黒人たちを締め出すための法律の導入を始めたのであった。  黒人の市民権を剥奪することにより幾つかの目的が達成された。 まず、支配政党である民主党に反対する勢力を未然に除去した。  次に ( この考えは従来公には語られていないが ) 黒人の市民権剥奪の為に用いられた巧妙な方法---- 黒人が投票出来ないと公然と述べた法律は憲法違反になるので----によると、 白人の有権者の数をも登録係の思いのままに減らすことができたのであった。  1890年から1907年にかけて、南部諸州は憲法を改正して文盲テストとか、 祖父条項 ( もしあなたのお祖父さんが投票していたならあなたは投票できるというもの。  大多数の黒人のお祖父さんは奴隷だったから本条項は効果的に黒人の投票を締め出せた )、 理解度条項 ( 有権者として投票したい人は連邦または州の憲法の一節を解釈し説明することを求められる ) などを取り入れた。  民主党の指導者たちは白人の選挙権者に向かって、これらの条項は白人には適用しないと確約していたが、 意見を異にする白人、「 面倒を起こす 」 白人が選挙当日に投票用紙が無いのに驚くというようなことが時々あった。

 南部の白人は黒人が政治力を持つのを大層嫌ったが、それにしても、 かなりの害悪を及ぼし兼ねないそんな制度を彼等が支持したというのは奇妙に思えるかも知れない。  民主党の指導者たちは白人の有権者とうまく話を付けたのだ。つまり、 彼等に黒人の市民権剥奪を支持してもらう見返りに、白人たちに公立教育の予算を増してあげたり、 黒人が経済的に彼等の競争者にならないように保証してあげたりしたのだ。 民主党はまた、人種的な誇りに訴え、 白人優先権主義と言う美辞麗句の下に反論を葬り去るべく編み出した昔からの常套的な政治機構を用いた。  この企みは成功し、南部は人種的不平等が固定化した政治システムに縛り付けられることになった。

 この民主党の企みの奇妙さ----少なくとも局外者にはそう見える---- は ( 白人優先権主義と言う ) 反動性と ( 教育や選挙区の改革という ) 進歩性とを混ぜ合わせた点にある。  今世紀の初頭には、南部は全国的な進歩的運動に参加した。 しかし彼等の言うままの条件が満たされる限りにおいてであった。  たとえば、南部の政府は公共サービス施設を拡充した。 が、黒人居住区域ではそれを滅多にしなかった。  行政の責任が何人かの選挙で選ばれた委員 ( commissioner ) たちにより分担されるコミッション型政治形態*211 とか、超党派の立場の、 指名されたマネジャーが市の日々の運営を担当すると言うシティマネジャ・システムとかのような政治プロセスの改革は、 元は南部で始まったものである。  代表者を小さな選挙区 ( ward 或いは district ) から選ぶ代わりに、市や郡全体というような大選挙区*212 から選出すると言う方法を取り入れた市も幾つもあった。  もっとも、このような改革が、市の法令に対する投票者として、 或いは利害関係のあるグループとしての選挙民からの圧力を弱める働きをしたのは決して偶然とは言えない。

 南部都市域の進歩主義には、都市計画も含まれる。 他の地域同様、地方自治体は市街地の環境を整理するため、 そして ( 合衆国最高裁が1917年人種別居住地線引きは違憲としたにもかかわらず ) 南部都市域ではとくに、 人種による居住区域の分離をするために都市計画を行った。 南部の都市の行政当局は、線引きの権力を行使して、 その後、半世紀に亘って白人居住区を守る一方では、黒人区域に有害な施設*212A が侵入しそこを駄目にする事は許した。

 南部都市域での進歩的運動はまた、南部の生活における伝統的結合を反映したものでもあった。  つまり、宗教と政治との結合である。 南北戦争後数十年間は、教会と州政府との分離はしばしば難しかった。  それは、公共機関の偉い人達が教会の同意*213 を積極的に求め、 政治演説の場でも執務室でも福音主義プロテスタントキリスト教の神学の教義を公然と口にしていたからである。  白人も黒人も含めて人口の90%以上が福音主義プロテスタント宗派のどれかに密着していると言う圧倒的な宗教的均質性を考えれば、 このような熱心さは驚くに当たらない。  中流階級の処世訓に従って社会環境を秩序正しくしようと望む進歩主義が、このような宗教と合流したら、アルコール反対*214、 安息日遵守*215 などが大きなキャンペーンになることは目に見えている。  禁酒法や清教徒的な厳しい法律は、こう言った運動が政策として実現されたものであった。

 キリスト教と政治との合流は、公立学校において進化論を教えるかどうかについての1920年代の厳しい争いのもとになった。  全ての南部の議員たちは教室における進化論の授業を違法とすべきか否かで激しく論争した。  幾つかの州ではそういう法令が通った。 その内の一つテネシー州では、 1925年、デイトンの町で、有名なあのスコープス・モンキー ( Scopes Monkey ) 裁判*216 が行われた。  国中が不思議に思い、また嘲笑している中で、テネシー州東部の市民たちはこの善悪審判劇を演じ切って見せた。

 「 南部の進歩主義 」 には時々このような奇怪な傾向が現れるが、でも、教育改革、児童就労禁止法、公共の保健衛生施設拡充、 都市の諸サービスのレベル改善、社会福祉の機構構築など、 多くのプラスの面も有った事を忘れてはいけない。 こう言った努力をしたリーダーは、しかし、多くの場合政治家ではなく、 エピスコパル派の牧師エドガー・ガードナー・マーフィー ( Edgar Gardner Murphy ) や、 スーザン・プリングル・フロスト ( Susan Pringle Frost ) のような婦人などであった。

 今世紀の最初の二、三十年間の南部は、一生を社会の改革に捧げる人達にとって、幾らでもやることがあるという状況だったのに、 政治家たちは滅多にこの分野で主導権を取らず、改革推進派の人たちの要求が出ると時々これに応じると言うに過ぎなかった。   南北戦争直後の南部の政治組織を支配していた停滞が、この 「 新しい南部 」 政治組織をも蝕んでいた。 白人の連帯を促す時流のため、 人種問題こそがまさに政治課題だという意見の一致を生んだ。  政治学者キー ( V.O.Key,Jr. ) が南部の政治風土についての彼の権威ある研究 Southern Politics in State and Nation (1949) の中で述べているように、 「 大掴みに言うと、南部の政治は黒人の地位をどうするかと言う問題の回りをぐるぐる回ってきた 」 のである。  共通点の無い白人各集団を接着する糊の役目をしたのが白人優先権主義であり、 これが比較的少数の政治家仲間が長期間主導権を取り得た理由でもある。  政府*217 は現状維持を欲し、革新を欲しなかった。 政治の頂点にいる人達にとって、変化は異端として排斥すべきものだった。  有権者が少数に抑えられただけでなく、州や地方自治体の財政も小さく抑えられた。  税金は安い代わりに公共サービスの水準は劣り、これを変えようとすれば反対された。

 この一党政治は南部の政治のプロセスの保守性を強めた。 とくに、比較的小さなグループに属する南部白人男性だけが一生、 或いはその政治職務に飽きるか、無視できないほど大きな道徳的罪を犯してしまうまで、政治を職務にし続けるのであった。  現役の政治家は友人、官僚組織、公共機関などに支持者の網の目を作ってしまうので、新人の挑戦者はなかなか入り込めなかった。  こういう訳で、今世紀の前半、南部の民主党の大統領候補予備選挙の3回に1回は対抗馬なしであった。  そしてもちろん、一般選挙はほとんどいつも圧倒的に一人勝ちの結果になった。 一方、共和党は忘却の中に葬り去られており、 共和党が連邦の政権を握っている間は、連邦政府の庇護を受けて4年に1回だけ*218 表舞台に出てくるだけだった。  それ以外のときはノースカロライナ、テネシー、東ケンタッキーの山間部の所々で優勢な以外はまったく低調であった。

 こういった状況の下では州全体にわたる政治組織*219 が出現したのも驚くに当たらない。  我々は普通、政治組織というと、大都市のそれを連想するが、この一党政治は田舎の地域にまでもボス支配を生み出した。  もっとも有名なのがヴァージニア州のバード ( Byrd ) の組織で、1920年以降40年以上に亘って州全体を支配していた。  ハリー・フラッド・バード ( Harry Flood Byrd ) と彼の軍団は、政治仲間うちでは耳障りな人種差別は一般的には避けたし、 金は使わず公共サービス施設もお粗末にしておくと言う南部のやり方を踏襲した。  同様に、サウスカロライナ州の海岸沿い地域の12の郡出身の政治家たちで結成され、 ロシヤ系ユダヤ人移民の息子であるサロモン・ブラット ( Solomon Blatt ) が率いたバーンウエル・リング ( Barnwell Ring )*220 は、 この州の政治を1世代以上に亘って支配していた。

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訳者注

 本章全体に関して:最初、お読みになると、頭の中が混乱しませんか? 最近の米国の大統領選挙でも、 共和党が保守的で南部、農村、熱心なキリスト教などが地盤、これに対し、民主党が都市住民、労組、 黒人などをバックに北部や西部で強く、リベラルということになっています ( どっちも大差ないと考える人もいるでしょうが )。  しかし、共和党は元来、北軍のリンカーンの党でした。 南部では長いこと嫌われ、無視されていました。  これに対し、南部の民主党は白人優先権主義、黒人差別の党でした。  それが、20世紀後半に、本章 ( 下 ) で解説されているようなゴールドウォーター上院議員の大仕事により、1984年以降、 南部を中心に 「 逆転劇 」 が起って、今の状況にと逆転したのです。 このことは、存外知られていないようです。

*196 この章の副題の Showtime とは映画、ショウなどの始まる時間のこと、Bigtime とは、 田舎の俳優がハリウッドに出てきて成功した場合のような最高、全盛と言う感じを言う。  南部の政治家はこの章で説明されるように以前は道化者、エンタテイナとも言えるタイプの人達で、中央では敬意を払われていなかった。  それが、最近の新しいタイプの南部の政治家はキチンとした人達で中央でも通用する。 また、南部自体が米国有権者の三分の一を占める重要な政治地域になった。 ということで、この章の題意は 「 政治 ( 家 ) がショウに過ぎなかった時代から立派で重要になった時代まで 」 という事か
*196A このジョージ・ブッシュは、現43代大統領 George Walker Bush の父親の、元大統領 George Herbert Walker Bush である。  このとき彼は、レーガン大統領のもとで副大統領であり、41代大統領に初めて当然する直前であった
*197 ロッキーマウント市は、ノースカロライナ州の北東部にある人口4万数千の中都市
*198 1988年の米国大統領選挙は当時レーガン大統領の下で副大統領だった共和党のブッシュ氏と、 マサチューセッツ州知事の民主党のマイケル・デュカキス ( Michael Dukakis ) 氏との間で争われ、前者が大勝した。  選挙は11月8日行われたので、この9月下旬のある日とは、選挙の約40日前ということになる
*199 Solid South とは一枚岩のように堅固、均質で何ごとも同一行動をとる南部のニックネーム。  これが、文字通り共和党の堅い地盤に変化した。  南部は1950年以前は民主党の地盤だったが、1世代の後には現在のように共和党の金城湯池に急変した。 その理由を中心に、 本章では南部の政治の特質が解明される
*200 Thomas Jefferson: 3代大統領(1743-1826) 、James Madison : 4代大統領 (1751-1836) 、 John Marshall : 法律家・政治家、最高裁判所長官 (1755-1835) 、James Monroe : 5代大統領 (1758-1831) 、 初代大統領 George Washington (1732-1799) と前記の3人の大統領はすべて 「 南部 」 の北の端とされているヴァージニア州の人である。  ピンクニー:(1746-1825) とメイソン:(1725-1792) も有名な政治家
*202 Henry Clay (1777-1852) は政治家・雄弁家
*203 ジャクソン型政治とは、アンドルー・ジャクソン ( Andrew Jackson (1767-1845) ) という陸軍大将で第七代米国大統領の政治的考え、 価値観 ( Jacksonism ) に基づく政治のこと。 彼は軍人だったので、他の大統領のようには洗練されていない。  ラフで敵を作りやすい手法の政治であった
*204 平均化の法則 ( the law of averages ) とは、事象は沢山回を重ねるほど、分布の偏りが無くなって行くということ。  始めのうちは、前述のように南部の一つであるヴァージニア州からばかり大統領が出たが、 年が経つにつれ、どの州からも大統領が平均的に出るようになってきたという、当たり前のことを言っている
*205 Mason-Dixon Line とは、ペンシルヴェニア州とメリーランド州との間にあるとされる線。 Charles Mason とJeremiah Dixon とが1763年から1767年にかけて調査した。  当時奴隷制度を許さなかった自由州 ( free States ) と、これを許した奴隷州 ( slave States ) との境界線とされる
*206 Secession ( 合衆国脱退 ) とは、 南北戦争のきっかけとなった南部11州の合衆国からの分離脱退 (1860 年から61年にかけて)の事
*207 フリードマン ( freedman ) とは奴隷から解放された黒人自由民
*208 ユニオニスト ( Unionist ) とはユニオン ( Union ) に好意を持つ人たち。  ユニオンとは、当時の合衆国から南部が脱退した時、それに従わず残った少数勢力の事。  山間の僻地に住む貧困で無学な白人なども含まれていた。
*209 南北戦争前後の南部では、地域、町、村相互間の利害対立、憎悪が激しく、殺し合いを含むいさかいが日常的であった
*211 普通、地方自治体の行政は一人のトップ ( 例えば市長 ) の下に同格の局長ないしは部長が複数いる形であるが、 複数の同格の commissioner がトップに居て重要な仕事を分担するという多頭政治型の機構も米国には多い。  米国では地方自治体の機構は多様でフレキシブルである
*212 たとえば6人の議員を選ぶとき定員1名の小選挙区 ( ward ) 6つを作るのが従来のやりかたで、 定員6名の大選挙区一つにするのがこの南部が始めた方式
*212A ゴミ埋立て場、公害企業、風俗営業施設など *213 米国では宗教と政治とは憲法の建て前上は厳しく分離されているが、 実際には政治家は常に自分は良い ( プロテスタント ) クリスチャンであると示したがる。  教会もそういう政治家に支持の姿勢を示すという、持ちつ持たれつの関係が存在していることは、ご承知の通りである
*214 1920−33年にかけては憲法の改正により全米的に禁酒法 ( Prohibition ) が施行され、酒類の製造と販売が禁止されたが、 その前後でも州により、地域により、曜日により、各種の制限が行われ、今でも南部を中心に一部の地域には厳しい禁酒制限が存在する
*215 安息日 ( Sabbath ) ユダヤ教では土曜日、キリスト教では一般には日曜日がこれにあたり、教会に行くだけでなく、 商売、飲酒、騒がしい娯楽などは避けるべきものとされる
*216 1925年、若い高校教師ジョン・トーマス ( John Thomas ) が進化論を教室で教えた事が発端となり、 この全国的注目を集めた裁判が行われた。 Dayton は現在でも人口6千人足らずの小さな町で、アパラチア山脈の西南端の麓、 有名なテネシーヴァレーダムの近くにある。 この辺りは、経済的にも文化的にも米国で最も遅れている地方の一つである
*217 連邦政府でなく南部諸州の州政府のこと
*218 大統領総選挙の年だけ
*219 ここで政治組織 ( Political machine ) と言っているのは日本流に言うと、 色々な層の人達からなる後援会+地域派閥のようなものである。 普通は大都市にだけあるというのが日本とは違うようだ
*220 Barnwell は地域の名。 ring は一般にはグループの事

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