フリーマンの随想
ここに書く内容は、専門の学者の方々にとっては、当たり前の初歩的な常識なのだろうとも思うが、とにかく私の場合、これは、 何年もの間、考え続けたた挙句に自分ひとりで考えついた 「 自説 」 だから、一応書きとめておくことにしたい。 この種の問題にご興味のない方々は 「 何を細かいつまらぬ事を 」 と思われること請け合いの内容と思うので、 そういう方は、どうぞ読まずに他に移ってください。 なお主題から 「 脱線 」 したい場合は 「 注 」 として文末にまとめて記し、 ご覧になりたい方だけ、そこにジャンプしていただく事とし、冗長を避けるようにしてある。 ![]() まず、日本語の文章の途中に入れる読点「、」は、どこにどう付けるものかという、あまり面白くもない話から始める。 現役時代は勿論、退職後の今も、毎日のように私は文章を書いているし、現役時代は他人様から、その方の作った文章に関して 「 これでよいですか。 お目通しの上、ご意見をください 」 などと請われることも頻繁にあった。 このような場合、 その人は文章の内容 ( 論理や事実 ) に誤りや過不足がないか、表現は適切か、などを念のため聞いて来られただけなのだが、 私はそれらをチェックするだけでなく、たまさかの誤字脱字を正してあげることは勿論、句読点や括弧のつけ方までが気になり、 ついついお節介な言及をしてしまうことも多かった。 実は高校生の頃まで、読点のつけ方 については、私は適当にやっていた。 その頃私は、読点の役目は、一つの文が切れ目なく長くなりすぎない様に、 適当な長さに切り分けておく だけのことだと思っていた。 ちょうど、バナナを長いまま齧るよりは、ナイフで切り分けて食べる方が上品に見えるのと同じ程度のことだと思っていた。 切った方が良いにしても、2cmに切るか4cmに切るかはその人の勝手、たいした違いはないと思っていた。 ところが、高校時代に作文を担当された著名な国文学者のS先生が、 私の作文に毎回たくさん赤インクで「、」をつけたり消したりされた。 私の原文よりも2倍近く読点の数が増えるのが常だった。 「 なぜ先生はここに読点を挿入されたのか。 有ってもなくても大した違いはないではないか 」 と、私は不審というか、不満に思うこともあったが、 その理由を質問することもしなかった。 こういうことが何度も続くうちに、先生の指摘がなんとなく自然に思えてきて、その呼吸を理屈ではなく直感的に体得した私は、 学年末にはもう、先生に読点のつけ方を殆ど直されることがないようになった。 その後何年かして、先生の読点の使用の意図の一つが 「 相当へそ曲りな読者や、うっかり者の読者にも、文章の趣意を誤解させないための予防的配慮 」 であろうと、ある日突然気がついた ( このあたりのことについては、以前書いたある随想 およびもう一つの随想をご参照ください。 また 注1をご覧ください )。 更に時間がたって、私が40歳くらいになった頃、私は 「 音読の呼吸 」 ということが気になりだした。 そして、先生の句読点の付けかたの第二の意図は、 その文章を正しく音読するために息をつくべき場所 の指示だということに気づいた。 「 これは大事なことです 」 に比べ 「 これは、大事なことです 」 は 「 大事な 」 の前で一息入れることにより、 「 大事な 」 を少々強く読ませる結果となり、聞く人に対して大事さの度合いがいっそう強調される。 つまり、どう音読して欲しいかにより読点の有無が決まる場合もあるということだ。 そしてもう一つ、最近になって、文章を音読したときに、少しでも快適な 「 文章のリズム感 」 を出させようとするのが、もしかしたら、先生が教えたかった第三の意図ではないかと想像するようになった。 そして、私は読点の問題を離れて、日本語のリズムに興味を持つようになった。 ![]() たとえば、次の詩を口ずさむと、ある種の快感を私は感じる。 「 小諸なる 古城のほとり 雲白く 遊子悲しむ・・・ 」 この一節が、なぜ口ずさむ人に快感を覚えさせるのかというと、 それは、5−7−5−7・・・という七五調のリズムだからだろうと、私は単純に考えていた。 俳句も和歌も都都逸も七五調であり、5音と7音の文節を適当に配置して行けば、日本語は快いリズムを感じさせてくれるのだろうと考えていた。 いわゆる 「 字余り、字足らず 」 は、そのリズムから逸脱するから不自然に感じられるのだろうとも・・・。 ところで、七五調というのは、音楽で言えば1小節の中に5つまたは7つの等長の音符が並ぶことなのだろうか。 つまり、5拍子と7拍子とが適切に組み合わされることなのだろうか。 そうではないのである。 私たちが快く感じる 七五調のリズムは主として、実は、音楽の世界で最も普通な4分の4拍子なのである。 4分の4拍子の中に音が納められる限り 「 字余り 」 や 「 字足らず 」 でも、我々には不快ではないのである ( 下記DとE )。 このことは、文章を声に出して読むと、はっきりしてくる。 上記の詩をゆっくりと読めばすぐに分かる事だが、 七五調の基本は、実は4分の4拍子なのである ( 以下、*は8分休止符、|は小節線を表す )。 |こも ろな る* **|こじょ うの ほと り*|くも しろ く* **|ゆう し* かな しむ| やや速く読む人は、4分の3拍子と4分の4拍子の混合の形で音読するかもしれない。 また、もっと早めに読む人は、4分の2拍子で通すかも知れない。 |こも ろな る*|こじょ うの ほと り*|くも しろ く*|ゆう し* かな しむ| |こもろ なる|こじょうの ほとり|くも しろく|ゆうし かなしむ| 要するに、日本語の七五調の快い音読のリズムは、5拍子とか7拍子とかいう音楽の世界でも滅多にない例外的な拍子ではなくて、 ごく一般的な4拍子 ( 時には3拍子や2拍子 ) なのだということである。 5音や7音の最初、途中または最後に、 通常は半拍、時には1拍半の休止符が入り、4分の4拍子に4分の3拍子や4分の2拍子が混在する系が成立するのである。 その結果、心理的な快感が生じるのだと私は考えた。 誰しも、5−7−5−7−7 を、息もつかずに一気に読むわけには行かない。 そこで5つの音に1の休止符が加わって6になり、あるいは3の休止符が加わって8になる。 7つの音には1の休止が加わって8になる。 そういう次第で実際は 6−8−6−8−8 とか 8−8−8−8−8 とかで読み上げられるのである。 休止符の挿入場所は読む人の好み次第でさまざまに変わり得るが、 5や7が実際は6や8であるという事実には変りはない。
最後に念のために申し添えるが、私は、書き言葉をできるだけ七五調にしなさいなどと馬鹿げたことを言っているのではない。 「 長い文を声を出して読むときには、息継ぎのために、また拍子のリズムを整えるためにも、 音楽で使われる休止符の挿入が必要になります。 読点はその休止符のところに加えるのが良いでしょう。 逆に、文節が少々長くなっても、 リズム感的に休止符を入れたくない所には、読点を加えない方が良いですよ 」 と申し上げているのである。 このように読点を入れることにより、その文を他人が読んだときに、 知らず知らずのうちにその読者の頭の中に、快いリズム感が湧いて来るようになれば、その文章は成功と言えよう。 優れた文章家、詩人、作詞家などは、おそらく、リズム感覚も優れた人達だと思うが、どうであろうか。 普通の散文は七五調どころか4分の4拍子にすらなり得ない。 ある種の現代音楽のように、頻繁に複雑に拍子が変って行く。 それでも、読点のつけ方を少々注意深く行えば、その中に快いリズム感をある程度実現できるのである。 この点で 「 作文は作曲に似ている 」 と言えよう。 (|作文は 作曲に 似ていると 言えよう|は4拍子に聞こえませんか? ) ![]() 文学 ( 文章 ) は、音楽と同様に、時間という座標軸に関しての1次元的な芸術であると言えよう。 もちろん、イメージだけなら、風景描写など、2次元、3次元の空間を間接的に描写してみせることもできるだろうが、 文章というものは、基本的には時間軸に沿って1次元的に進行して行くだけである。 音楽との違いはというと、あるフレーズを繰り返し演奏する場合 ( 反復など ) を除いては、 音楽は全く一つの流れの一つの向きにしか進行できない ( 時間的に前に進むしかない ) のに対し、 文章は時間軸上を過去・現在・未来にわたって自在に、行ったり来たりできるという点かも知れない。 いずれにしても、音楽や文学は、少なくとも数十秒から数分、望ましくはもっと長い時間、集中して継続的に鑑賞しないと、 その内容を理解できず、ましてや良し悪しなど判断できないし、感動を与えられることもない。 これに対して、絵画や写真は 空間軸に関して2次元的な芸術であり、 彫刻、工芸品、建築、庭園などは同じく 3次元的な芸術であることは、言うまでもない。 そして、人は、これらに接したとき、良し悪し、好き嫌いなどを瞬時に感じ取ることができる。 瞬時に感動することができる。 いわゆるパターン認識である。この点が、上記の 「 時間軸上で1次元的な芸術 」 との最大の違いといえる。 一方、書物は広げて一瞥しただけでは誰も感動しない。 じっくリ時間をかけて読んだ後で、初めて人はその内容に感動するのである。 文字を一つだけ提示しても、人には何も伝わらない。 俳句における17文字ほどの長さの文字列が、 人に感動を与えるためには最低限必要である。 それでも漢字の有り難さで、日本語の場合は、 格言のように、数文字ないし10文字程度でも済む場合があるが、英語などでは、到底そうは行かない。 いろいろと理屈っぽい事ばかり書き並べたが、要するに音楽と文学とはよく似ており、 共に時間軸上の1次元芸術であるということである。 もちろん、だからと言って、空間的な2次元芸術や3次元芸術に比べて劣るなどということはない。 「 人に瞬間的に感動を与えることはできない 」 という特性 ( ハンディキャップ? ) を持っているというだけのことである。 ところで、文章は、本当に 「 空間的に2次元的な芸術 」 にはなり得ないだろうか。 漢詩や和歌の掛軸のように、 紙面に一見2次元的に詩を書いて瞬時に鑑賞させる事もできるではないかという考えも有ろうが、これらの場合でも、やはり、 じっくり鑑賞するには時間をかけて眼で1次元的に文字列をスキャンする必要がある。 また前衛的書道などが、 もし瞬時に全体を鑑賞することを求めるなら、それはむしろ絵画の一種と考えた方が良い 注2。
そしていよいよ、このホームページのようなデジタルな文章の特殊な世界に思い至るのである。 従来型の、紙の上に印刷されたアナログの文章との間には、大きな違いが幾つかある 注3。 そのうちでも最大の違いは リンクの技術の存在 である。 従来型の書物の場合、読者は、読書の途中で、ある別のページの記述に瞬時に移動することなどできない。 現在のページに栞を入れてから、1ページづつめくって目的の箇所を探して行くしかない。 目次、索引、脚注などの手段で、多少時間を節約できるであろうが、本質的には同じことである。 ところが、このホームページのようなデジタルの文章においては、リンクを設けてそれをクリックすることにより、読者は自在に、 はるか遠くに在る関連した文章や、必要な注釈などとの間を、瞬時に往復できるのだ。 関連ある他人の著作にジャンプする事すらできる。 リンクという技術は、一つながりの線 ( 1次元 ) でしかあり得なかった文章を、切り分けて多層にレイヤー化し、 しかもそれらを串刺しに結合することである。 1枚の紙の上を行に沿って空間的にも時間的にも1次元的に這い続けるしかなかった文章 ( 文字列 ) は、多数の独立した文章レイヤーを貫く新しい第2の空間的次元を獲得することによって、 時間的な1次元と空間的な2次元、つまり、時空間上で3次元化し得たと言ったら言いすぎであろうか 注4。 ![]() ご承知のように、英語では、詩だけでなく標語やCMのようなものにおいても、 文節の最後( や最初 )で韻をふむことが、読む人や聞く人に、より快い、 強い印象を与えるとされていようだ( 中国の漢詩でも同様 )。 自慢話になって恐縮だが、在米中1995年に、 私がウォールストリート・ジャーナル紙の記者から経営方針についてインタービューを受けたとき、 私は 「 地元の米人家族との交流を奨励する意図で、日本人家族を互いに離れて住ませている 」 という話をした。 そのときに私が "Don't build a Japanese ghetto---That is my motto." と言ったら、 それがそのままその記事の 「 中見出し 」 に載った。 二つの短い文が韻をふんでいることが好まれたのだと思う。 ところで、日本語では、古来、詩を作る場合、文節の末尾で韻をふむという努力は重要とは考えられておらず、 むしろ七五調のように音節の数を調節することが、その中心的技法と考えられていたのではなかろうか。 日本人も大いに影響を受け、みずから作りもした中国伝来の漢詩の作法では、そういう定めがあるのに、不思議なことである。 でも、本当に日本語には韻をふむという実態はないのだろうか 注5。 私は 「 ある 」 と以前から考えている。 「 男は度胸 女は愛嬌 」 「 亀の甲より年の劫 」 「 聞いて極楽 見て地獄 」 「 安物買いの銭失い 」 などは、 英語などの場合とまったく同じ韻のふみ方をして、読む人に快感を与えていると言えよう。 牧伸二の 「 やんなちゃった節 」にこんなのがある。 「 春の街はとってもきれい。 とくに女性が目立ってきれい。 お世辞じゃないよ、本当だよ。 顔じゃないよ、着物だよ 」 このように、大衆芸能でも韻を踏むことで軽快さ、小気味よさを出しているのである。 ずいぶんと品の悪い文を再掲して恐縮だが、第1章に挙げた香具師のせりふ |けっ こう けだ らけ|ねこ はい だら け、け|つの まわ りは|くそ だら け*|では、 こんな短い文句に 「 ケ 」 という軟口蓋閉鎖音が最初と最後を含めて6箇所も入っている。 これが聞く人に痛快な感じを与えていると思う。 日本語では、このように 同じ( あるいは似た )音をある範囲の中で多用する ことが、 調子よさを生み、聞く人に快感を与えると、私は考えている。 かきくへば、かねがなるなり ( 前半カ行音、後半ア段音の多用 ) おにもじゅうはち ばんちゃもでばな ( 後半でア段音の多用 ) かっぱの かわながれ ( ア段音の多用 ) 歌詞にはこの手法は多く用いられている。 わたしばかよね、おばかさんよね ( ア段音の多用 ) みたか きいたか このたんか ( 啖呵 ) ( カ行音の多用 ) からす、なぜなくの ( ア段音および後半にナ行音の多用 ) シューマンの 「 流浪の民 」 の訳詞 ( 石倉小三郎氏 ) は実に名訳だと思うが、ご存知の方はぜひ一度声に出してお歌い下さい。 「 たいまつ あかく てらしつつ 」 とか 「 まなこ ひかり かみきよら 」 とか、 特に力強さを感じさせるア段の音が繰り返されたときの生理的快感?を実感できると思う。 「 ニールの みずに ひたされて きらら きらら かがやけり 」 に至っては、イ段の音で頭韻を5回も強く印象付けられているうちに、 気がつけばア段の音の繰り返しで後半が締められている。 翻訳もここまで出来るものか。 心憎いまでの職人わざである。 百人一首などにもこのような例は数多く見られる。 いくつかを挙げると、 こゑきくときぞ、あきはかなしき ( カ行音の多用 ) きしによるなみ よるさへや ゆめのかよひぢ ひとめよくらむ ( ヤ行音の多用 ) ひさかたの ひかりのどけき はるのひに ( ハ行音の多用 ) ことわざなどでは、覚えやすく唱えて面白いように、この手法が取り入れられることがある。 藍は藍より出でて藍よりも青し ( アの多用 ) 大昔、小学校1年の教科書に 「 さいた さいた さくらが さいた 」 という文章があった。 これなども、ア段の音が繰り返されたときの力強さを、幼い子供たちに無意識のうちに感じさせていると思うが、いかがであろうか。 たとえば、私にとっては同じような意味でも 「 真紅の朝日 」よりも 「 真っ赤な朝日 」 の方が、ずっと耳に快いのである。 第4章以降 ![]() ![]() ![]() ![]()
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